2016-04-01

「ごめんなさい」もしくは「黙れ」

インターネット掲示板ブログコメント欄は、さまざまな雰囲気を醸し出している。

罵詈雑言に満ち溢れていたり、平和だったり、少々へりくだりすぎ(慇懃無礼)な場合もある。ざっっと見た感じ3:5:2の比率ではないだろうか。まるで朝・昼・夜の理想的カロリー摂取量比率みたいだ。

その中で『へりくだりすぎ』について書く。

以下は、3年前の話だ。

私がよく訪問するブログに、Yさんという人がかなりの頻度でコメントをしていた。Yさんもそのブログ常連であった。

そのブログにはYさんや私以外にもたくさんの人が訪問しており、なかなかの人気ブログだった。

しかし、1つ問題があった。Yさんの過剰な謙虚である

Yさんはコメント欄で長文を書いては「長文ごめんなさい」などと何行にもわたって謝り、またある日は何らかのアドバイスを書いて「おせっかいでごめんなさい」などと何行にもわたって謝っていた。

そこに誠意はあったのかもしれないが、私にはそれは過剰に思えた。

私や他の人は「いやいや、いいよ」と対応し、しかしそのように朗らかな対応をしつつも「どうしたもんかな」と思った。自分が何か悪いことをしているような錯覚さえ抱いた。そのくらい過剰だったのだ。誰が責めているわけでもないのに「ごめんなさい」と謝るYさんは、私からすると不思議しかなかった。

問題は、誰も悪くないということだった。例えば誹謗中傷などであればその人に責任があることが明確だ。しかしYさんの降ってわいたような「ごめんなさい」によるとってつけたような『責任』は、行き場もなくそブログを覆い始めた。

Yさんは頭も性格も良い方だ。「ごめんなさい」を除けば何の問題も無かった。

私は、まさか人生で「ごめんなさい」に悩まされるなんて、それまで考えたこともなかった。

私はある時からこう思い始めた。

Yさんはきっと「黙れ」と言いたいのだ。「ごめんなさいって謝るから何も指摘しないで。頼むから黙ってくれ」と言いたいに違いない、と。

それは同情に値する話だった。Yさんはおそらく心に傷を負っているのだろう。しかし私もどうしようもなかった。私もまた(Yさんより大分劣るけれども)自分に同情した。

そして私はそのブログを去った。

それから3年が経ち、さきほど久しぶりにそのブログを覗いたら、Yさんはまだいた。「ごめんなさい」と書いていた。

私は「ああ、、」と思った。それと同時に、Yさんはそのブログコメントを書き続けることで生きながらえているような気もした。本人にとっての生き甲斐は、他人理解される必要はないのだ。

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