はてなキーワード: トンコツとは
だいたい本人の利害かナルシシズムで説明が出来た。
「女がわりー」は本人や友人がスーフリ方向なサークルをやってたと考えれば要するにただの自己弁護だし
「時代かー」はナルシシズムそのものだ。
つるんでる友人と集団自己陶酔とか
程度の差を考えなければいたって普通の若者、若者のお約束ともいえる。
違いはそういうディテールぐらいで)
一方
ひたすら目に付く人間、特に女について、常に敵意を剥き出して難癖つけているだけ。
ここには、ネットで問題起こす若者にありがちな「私達とそれ以外」的な感性が、ありそうでない。
女への基準不明なほど広範な敵意や悪口は、狭い友人の輪の中ですら株が上がりそうな感じがしない。
オシャレゴリラのツイッターは、それが彼の友人や後輩にどのように愛されて楽しまれたか容易に想像がつくが
アディダス社員のツイッターやミクシィにはそういうのすらない。
大学の同学年の女、若きイケメンスポーツ選手の妻、スーパーで見かけるおばさん達、
攻撃対象の選定が「女」以外に共通点不明。
ラインナップを見るに嫉妬とか対抗心と言った簡単な説明も出来そうにない。
果ては自分の帰属先の一つである”勤め先”にも無用かつ理由も無い悪態をついてる。
オシャレゴリラやトンコツ王子ほどわかりやすい精神構造や利害を持たない
もう少し破滅的なピチガイだった気がする。
まあそんな差異なんかほぼ誰も興味ないだろうし
ここに墓碑として駄文をうずめておきたい。
会社のとなりのビルに新しいラーメン屋がオープンして、さっそく食べに行ってみた。
はっきり言って、あまり美味しそうな店構えではないのだけれど、もし美味しければコンビニとすき屋ばかりのランチ生活に彩りが加わることになり、それはたいへんに幸せだし、仮にあんまり美味しくなかったとしても、それなりに月給をいただく身分なので700円くらいなら惜しくない。というか、もともとぼくの舌に設けられたハードルはすこぶる低くて、しかもそのハードルをくぐられようが、倒されようが、それはそれとしてゴクゴク飲み込めるという、ぼくはそんな体質の持ち主なのだ。
さて、そのラーメン屋で、一杯700円のラーメンに海苔増し、それに半ライスを注文した。しめて900円とちょっと。ランチとしては破格の金額だが、まぁ新たなご近所さんへのご祝儀的な意味もありつつ。腹も減ってたし。
で、出てきたラーメンのスープをひと口すすり、麺を吸い、そこでなにやら思索にふけってしまった。
いや、美味いんだ。普通に美味い。味としてはいわゆる“家系”と呼ばれるそれに分類されるのだろう。トンコツに、お魚のだしも入ってるのかな。しつこすぎず、あっさりしながらコクもあるし、チャーシューなんてとろとろだし、スープがしっかりからんだほうれん草も美味い。麺もしっかり太くてぼく好み。
でも、「うまっ!」ではない。夢中になるほどではない。「ふむふむこれは“家系”だね」「トンコツにお魚のだしも入っているのだね」なんて、いろいろ考えながら麺をすする。
思索にふけったのはそのあたりから。
これは、お笑いに似ているぞ、と思ったんだ。ラーメンとはつまり、松本人志であると。
ラーメンなんて、別に美味いんだ。お笑いなんて別に面白いのと一緒で。ぼけーっと食って、ふひーっと爪楊枝などつかって、ぷかーっとタバコでも吸って仕事に戻ればいい。なのに、ぼくはいつしかラーメンを分析している。プロの調理人の作品に対して、批評をぶっている。
ぼくは「ごっつ」の世代で、今でも「ごっつ」は本当に面白かったと思っている。だけど、それが「どう面白いか」を考え始めたのなんて松本人志がそれを放り投げたずっとあとのことで、それこそ「VISUALBUM」や「一人ごっつ」を経たのちに時代を巻き戻って「トカゲは実に実験的な」とか「イカメシ殺人はどうだ」「AHOAHOマンこそが」などなど、そんなことを言い出すようになった。当時はただゲラゲラ笑っていただけなのに。
あるときを境に、松本は笑いを語りだした。あまりに大きくなりすぎたせいで、誰もがその禁忌を許してしまった。それは欽ちゃんにさえ許されなかったことなのに。松本は遅れてきた世代の芸人たちに大きすぎる影響を与えただけでなく、視聴者のあり方さえ変えてしまった。松本のように笑わせることはできなくても、松本のように芸人を評することならできる、あるいは、できるような気がする、できている気分になら浸れる、そんな視聴者を大量に生み出したのだと思う。その結果、ぼくたち視聴者は「ただゲラゲラ笑う」という行為に後ろめたさや劣等感を覚えるようになった。笑いが、笑うことに圧力をかけ始めた。そして笑いは大衆芸能からファッションになった。笑いに対するものの見方に、「オシャレ・わかってる」と「そうじゃない」が現出した。
同様に、誰かがラーメンを語りだした時期があったんだと思うんだ。ぼくたちはただ能天気にズルズルとラーメンをすすることが許されなくなった。ラーメンもまた、大衆のものから、ファッションツールになってしまった。
笑いもラーメンも、いつの間にか、気軽に賞賛することができなくなってしまった。「天下一品のラーメン美味いよね」「友近って面白いよね」まかり間違って初対面の人にそんなことを言ってしまったら、ぼくは即座に値踏みされてしまう。テレビの前じゃない場所で、ラーメン屋の外で、ぼくは一瞬にして他人に見通されてしまう。
さらに始末が悪いのが、たまにそういうパリパリに固まったぼくの舌や心を突き抜けてくるやつがあることだ。本当に美味いラーメンや、本当にゲラゲラ笑える漫才に出会ってしまうことがある。そのパリパリを突き破られる快感が忘れられなくて、ぼくはさらにパリパリを固くしようとする。より気持ちよく突き破られたいがために、ぼくは身を硬くして、ラーメンやお笑いと対峙することになる。
だからどんどん、世の中に美味くないラーメンと笑えないお笑いが増えてゆく。
とても不幸なことだ。
ぼくはお笑いが好きだし、ラーメンが好きだ。基本的に、それらの全部が好きだ。あのころみたいに、何も考えずに、ただゲラゲラズルズルとその快楽に身を任せられる日がきてほしい。普通に美味いラーメンを食べながら、普通に美味いと言えないぼくは、そんなことを考えていた。
昨日、数年ぶりに光麺に行った。
結構人が並んでいたので、味は落ちてないかなと思って入ったんだけど、
実際に入ってみて愕然としました。
味がどうこう以前に、内装のあり得なさに。
あのですね、カウンターの前に10インチぐらいのモニターが付いてるんです。
カウンターの前ですよ?
よくある「中華料理屋の店の隅にテレビ」みたいなのじゃなくて目の前。まん前。
どんぶり置いたら、その10センチの先に10インチのテレビモニター。
いやいや、ちょっと待ってほしい。
こんなの置かれたら、見ないという選択肢を取るのが難しい。
しかも垂れ流されているのはカウントダウンTVみたいな、
どうでもいいミュージッククリップと光麺の店舗紹介。音もうるさい。
いやいや、俺にはそんな情報全く必要ないから。
なんで流行ってるものは誰にでも受け入れられるものだと思ってるんだ。
全体の数%しか興味が無くて購買に結びついてなくても
ランキング1位というのは普通にあり得る。ランキングとはそういうもの。
つまり、ウケているけど、9割以上の人間にはどうでもいい情報というのは
普通にあり得る。どうでもいいものを押し付ける、そういうアホみたいな
マーケティングしかしないからマスメディアや広告はダメになったんじゃないのか。
それに、他の店舗の紹介がしたいんなら、ナプキンのところにでも
俺、そういうのよく手に取る人だから。
いくら入るのかしらんが、固定客がもう一杯食べにきてくれたほうが
利益率高いでしょ? 帳簿しかみてないから失うものの大きさが分からないんだよ。
…いやいや、そういうツッコミをしたいわけじゃない。
そもそも、俺はラーメン食いに来てるんだし、連れもいる。
純粋に嫁さんとラーメンについてああだこうだ言いながら楽しみたいだけなんだ。
久しぶりにあんたのところのラーメンを味わいに来たんだよ。
よくあんたのところで食ってた学生時代でも思い出しながら。
だいたい、モニターみてたらそっちに神経が行って、味に注意が行かないじゃないか。
あんたは親に食事中にテレビばっか見んな、って怒られたことがないのか?
マスコミや広告代理店とかにはそんなに不信感を抱いてないので、
「なんでそんなに怒るのかわかんない」みたいな反応されて、
俺がなんか神経質野郎な感じになってしまった。
俺はもうあまりの不愉快さに、席についてすぐメニューでモニターを
塞いでバカヤロー、みたいなノリになったのだけど、周りをみると
割と普通にラーメン食ってたりしてたので、受け入れられてるのかもしれない。
ただ、みんな連れで来てるのに会話は少なかったけどね。
まあ10センチ前でモニターがアホみたいな音楽鳴らしてたら会話もできないわ。
人のアテンションに入るときには「失礼します」と言って入る、
あの思い遣りはどこに行ってしまったんだろう。
私が関心あることはあなたには関心がないかもしれない、
私が必要だと思うことはあなたには必要ないかもしれない、と思える
人間としての配慮はどこに行ってしまったんだろう。
全盛の頃はどこもかしこもあの下品な音が鳴り響いていて、
街を歩くのも本当に苦痛だった時代があったのを思い出した。
無神経な社会だったのかもしれないな。
最近そういう流行の押し付けがましい状況は改善されたと感じていたので、
あれはバブル崩壊後の失われた時代の空虚さがそうさせていたんだと思ったけど、
そうじゃなかったんだな。
ヨーロッパなんかではヒトラーの教訓があるし、小説『1984』なんかにも
表れているように、他人のアテンションをコントロールすることによる
「支配」について結構敏感に反応するから、こういう「自由な」食事の場面に
コマーシャリズムの権化が押し付けられる状況が生まれること自体
考えにくいと思うんだけど、歴史的に見ても「支配者」に従順な日本人は
あんまり疑問を感じないのかと思った。
つまり「なんとここでこんなことが!!」とか「正解はなんと!!」の
次の瞬間に「はい、CMー」とか、そういうの日本だけらしいっすよ。
海外だとそういうコマーシャルやると、不買運動食らうからやらないんだって。
でね、あと心理学的に言って、
アテンションの量に人間は行動が左右されるんですよ。これはもう無意識に。
人はよく目にするものに好意を持つようにできてるんです。
電通がタレントの認知度を好感度とか言い替えて金作ってる裏には、
一応それなりのカラクリがあるわけで。
それに、アテンションが支配されるって事は時間も取られるってことで、
コミュニケーション全般にも影響する。
ベッドルームにテレビがあると、セックスレスになる率が2倍以上って
アテンションのコントロールについて真剣に考えたほうがいいんじゃないかと思った。
まぁとりあえず、俺は二度と光麺には行かないけどね。
味も落ちてたよ、やっぱり。
嫁さんはモニターについてはマイナスの印象を抱かなかったみたいだけど、
味のことは分かったようで、やっぱり残してたよ。魂を売り渡したらそうなるって。
昔は単価が高くていつもは食べられなかったけど、味は結構好きでした。
トンコツ全盛の時代に、あえてあっさり醤油で勝負していたスタンスも好きでした。
さようなら、光麺さん。