はてなキーワード: 空手道とは
柔道の危険性はデータを持って示されているが、武道は柔道を含んだままいまだ必修として続いている。
たとえ必修でなくても部活動としての柔道は変わることなく続いていくだろう。
しかし、柔道と言うのはデータを示されるまでもなく、それどころか部活動としてやるものとしても危険すぎる競技である。
主にそれは、近代までに日本で発展した人を打ち倒すための技術を競技化したものを指し、剣道を筆頭に、柔道、空手道、弓道、居合道、合気道、相撲道などを含む。
武道は、特に二つのカテゴリーに別れ、一つは演舞を持って競い合うもの、相手を敵とせずに的もしくは協力者を持って自分の技術を示し合う競技である。これには弓道や居合道、剣道や柔道の型などが含まれる。
もう一つは実際に敵を相手とし技を仕掛ける格闘技に類する競技である。剣道、柔道、空手、相撲などが含まれる。
前者の安全性は比較的高いものである。当然武器の目指す先が人ではない、もしくは打ち倒す目的ではないため、人を打ち倒すための技術を用いても危険性は低い。
一方で後者の危険性は高い。人を打ち倒す技術を人を打ち倒すために使うため、当然のことである。
後者の中で、柔道と相撲は主要武道の中でも特に危険な競技である。
その理由は、この二つの競技にはプロテクターが存在していない、ということに尽きる。
剣道であれば、慣れ親しんだ防具が思い浮かぶことだろう。
空手は、生徒であれば直接殴りあうフルコンタクト式ならプロテクターは必須であるし、寸止めであってもプロテクターをつけるのが普通だ。
武道でなくとも同じ格闘技のアマチュアボクシングは、ヘッドギアと大きなグローブの義務がある。
一方で、柔道と相撲にはプロテクターと呼べるものは存在しない。申し訳程度、柔道にはたたみがあるだけである。
しかし、中学高校で一般的な、スプリングの入っていない、床に敷いた畳と言うものは当然硬く、危険性が大きい。
締め技関節技等の制限が行われたとはいえ、戦前から一切変わらない安全基準で行われるスポーツと言って良い。
敵の攻撃から体を守るのは基本的に自らの習得した防御技術だけと言う競技だ。
ところが、その柔道、相撲の部活で競い合うのは、お互いに未熟な児童生徒学生たちである。
運動で体が熱くなり、試合や乱捕りで敵対すれば興奮し、普段よりも無茶な状態で無茶な技をかけることが多くなる。
プロテクターが存在しない柔道や相撲は、失敗した時に守ってくれるものは何一つなく、その時点で怪我が確定するといって良い。
柔道は投げ技で、相手の体を畳みにたたきつける打撃を行い、関節技で骨を痛め、締め技で意識を奪う競技。
相撲は張り手で叩き、投げ技で土にたたきつけ、押し出して土俵から落とす競技。
体験的な話で不正確だが、中学高校の柔道の試合では、1つの大会で必ず1人以上のけが人を目撃する。
大相撲で怪我をしていない力士だけでとった場所が近年存在しただろうか。
考慮すべき安全と言うものが、武道の伝統という言葉で覆い隠されている。
剣道は竹刀を作り、防具を作った。空手はプロテクターを取り入れた。柔道は本来着ていた防具を脱ぎ捨てて、身を危険に晒した。相撲は裸である。
当然プロやオリンピックといったレベルのものを変えるべきではないかもしれない。
しかし、そのアマチュアもしくは学校レベルの段階において有効に使えるプロテクターを考案すべきだ。
小学4年の夏、
そんな自分でも空手を習えば強くなれるんじゃないかと思い、近所の空手道場に通うことにした。
そんな気持ちで僕は道場の門を叩いた。
しかし、それはあまりにも浅はかな考えだったとすぐに思い知らされた。
けっきょく、この空間は学校となんらかわることのない暴力の真っ只中であった。
中学時代は馴染めない地元から離れ、2駅となりの学校に通うようになった。
身体が大きくなったことと小学生時代の反動もあって、中学の頃は喧嘩にあけくれた。
気づけば札付きの悪になっていた。
腕っぷしには自信がある。でも満たされない感情があった。
「好敵手と戦いたい!血沸き肉踊るようなバトルがしたい!」
そんなとき、久しぶりに地元を歩いていると、ある看板が目にはいった。
そう、あの惨めな想いですごした小学校時代、強くなろうと門を叩いたあの道場の看板である。
僕は深く深呼吸をした。
「俺より強い奴に会いにいく!!!」
http://anond.hatelabo.jp/20130909213415
【追記】
元の記事はこれの転載のネタであることを知ってホッとしている。笑い話で済むならどんなに幸せであったか・・・
http://qa.news.mynavi.jp/question/9270/
なぜなら、私が訪れた道場での出来事はこんな風に笑える状況ではなかったからである。
その後
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20091203/p1
「男はケモノ」であるとしましょう。世の中に、人間を手当たりしだい襲うような「ケモノ」がうろうろしている場合、まっさきに対策されるべきは「ケモノ」の排除です。たとえば野犬が増えて人々の身が危険になった場合、ふつうは野犬を捕まえて隔離するか、酷いのになると殺してしまったりするわけです。「自衛」はこの野犬対策というのがいまだ貫徹しない場合においてはじめて、緊急的にやむをえずやらなければいけない対策であって、目指されるべきは、野犬がいない、つまり「自衛」の必要がない社会です。野犬対策会議において、「そんなことより「自衛」しようぜ!ひとりひとりがマッチョになれば野犬も恐くないよ!」といったことをわめきたてる人がいたら、われわれは彼に空手道場か何かを紹介して、丁重にその場からお引取り願うでしょう。
国家間で例えれば「相手が危険ならば戦争をして相手を滅ぼすのが最初の手段であって、外交努力や自衛はそれができないときにやれ」と言ってるようなものだ。
どれだけバカバカしいことを言っているのか分かるだろうか?
人間と野犬にしたって、同じだ。
野犬は危険だから、まず駆除をする。
たしかに人間の自由や権利はそれで守られるのかもしれないが、では野犬の自由や権利はどうなる?
「危険」に対して最初にすべきことは、避けること。
どうしても避けられないならば、そのときに防衛をする。
それも難しいのであれば、危険を排除する。
これが当然の順番ではないか?
自由や権利は、たとえそれが当然与えられるべきものであったとしても、ときに積極的に自ら守らなければいけないものだ。
しかしそして、その自由や権利とその保護のために、他の自由や権利を侵すのは、出来うる限り最後の手段としてもらいたい。
書くまでもないと思うが、問題の原点であるレイプ等の加害行為を肯定するものではない。擁護するつもりもない。
被害者にも落ち度がある、などというつもりも毛頭ない。
ただ「最初に排除があるべきだ」という愚かな発想だけは否定したい。