はてなキーワード: アナスイとは
これまであなたが力説して来た「他の作品はちゃんとしてる」という主張は少なくとも全体的に間違っていることを説明してきました。
ほぼ全てのエンターテインメントはあなたが求める意味では「ちゃんと」していません。
どこで「間違っていることを説明」できてるの?
あなたは他の作品の話を出したりして話逸らそうとするのは一生懸命だけど、それにすら失敗していますよ。
客観性がないとか奇形的だっていう指摘のあたりは全然論破できてないし。完全に開き直りw
萌えるように売れるようにするのが「超いい加減」であれば
世の中は「超いい加減」な作品で満ち溢れています。
それはそう思う。
オタクとか性欲剥き出し男向けの作品の類が叩かれるのって結局はそういう自分勝手でいい加減なところが気持ち悪がられてるからだし。
というか、「満ち溢れているから私モテも正当化される」って言いたいみたいだけどそれ詭弁だよね。
どこに?w
「荒木飛呂彦が考えた話だから登場人物の中身は全部荒木飛呂彦で日本人だ」というのは暴論だし私はそんなこと言ってないw
それが通用するのはむしろジョジョキャラじゃなくて『私モテ』の主人公だし、それはかなり異様なことだよ。
荒木飛呂彦は岸辺露伴や吉良吉影について、「これこれこういう状況に陥った時『彼らなら』どう考え行動するだろうか?」と想像し描くことが出来ているだけ。だからリアリティがあるの。わかる?
『彼らなら』がかけ落ちてるのが『私モテ』。彼らじゃなくて『俺なら』で通そうとしてるのがあなたの大好きな作品なんだよ。そうでしょ?
『俺なら』で通すなら『俺』をそのまま描けば良いのに、そこを(『俺でない誰か』を、でなく)『俺でない誰か』で描くのは不誠実だし超いい加減。
しかもその『俺でない誰か』と『俺』との乖離はかなり著しいときたらかなり自分勝手じゃん。美醜を差し置いても男を女にするのって相当な飛躍だよ。
主人公が女でなければ描けない、女でなければリアリティが出ない説得力を持たせられないものを描くために主人公を女にするならまだ意味があるけど、『私モテ』はそうじゃないじゃん。
不誠実でいい加減で自己チューって終わってるよ?
売れるなら何をやってもいいっていうわけじゃないんだから、叩かれたってしょうがないと思う。
あ、アナスイの例とか出すのやめてね。アレは男女チェンジがどうこう以前に『俺』でない『彼ら』のひとりだから前提から違っちゃう。
あなたが他の「超いい加減」な作品にではなく
この作品にだけ強烈な反発感情を持つ理由を
感情の経路って何のこと?
この作品の欠陥はもうかなり指摘されてるよ。それがわからないってこと?
それともそれが何故「気持ち悪い」「むかつく」に結びつくのかがわからないってことかな。
誰かのトラバだけど
http://anond.hatelabo.jp/20120810111827
http://anond.hatelabo.jp/20120810114117
この前後のやりとりがすごく上手く説明してると思ったからこれで代弁w
では語尾に「w」をつけたりしながら挑発する必要は無いと思いますよ。
そういうことを始めるとご自分の心が掻き乱されて
あ、またつけちゃった。でも本当に煽ってるわけじゃないんですよ。
ただ単に可笑しいだけ。
あなたの要点というのは結局「感情的に気持ち悪い」に尽きるのではないでしょうか?
非難されるべき理由は私もこれまで書いてきたけど、そもそもでっち上げるまでもなく大元の増田記事が大体指摘してくれてますよ。
「許せない」というのは元増田の言だけど、こういう感覚的な感想は当人の自由だし軽視される謂れとかないよね。
好きな作品が叩かれるのに耐えられないんじゃないかなとは思うんだけど、でも非難されるべき理由というか要素は全部認めてますよね。
イジメられっ子みたいな気持ちなのかな?「いじめられるのはいじめられっ子に理由があったとしても責任は無い」ってよく言うし。
イジメとか暴力被害はそうだなって思いますけど、それと批判とをごっちゃにしてはいけないと思います。
「叩かれる謂れなんかない!」なんてムキにならずに最初から素直になって、
http://d.hatena.ne.jp/sukebeningen/20120212
も〜読んだけど全然わかんない!ヽ(;▽;)ノ
折角だから、ここに何が書かれているのかということを、
「もしかしてこんなことじゃないのだろうか」という感じで書いてみる。
以前、友人と「ユニクロって結局アリなのかナシなのか」
という話題で盛り上がったことがある。その時は結局は「ま、求めるレベルによるわな」という、
なんとも味気ない結論に至ったわけだが、その会話のなかの友人の言葉で
「ユニクロって、良いとか悪いとかじゃなくて、もう"ユニクロ"としか言えないよね」
というものがある。
ユニクロは大衆服だ。大衆服だからファッション的な価値は要らない。
デザイナーとのコラボやその他「それなりにこだわってますよ」的なやつ(日本製を強調したジーンズなど)は
あくまで大衆に売る為の最低限の質の保証の為の言葉に過ぎず、他の服との差別化なんて全く考えられていない。
マクドナルドのトレイの中に敷かれた紙に書かれた、食材はこれだけこだわってるんです! ってやつと一緒。
大衆服は大衆の服だから無名だ。匿名性の高い、注目のない服だ。それが本質だ。
大衆服だから匿名であるはずなのにユニクロとしてのアイデンティティがそこにある。
一方で、マルジェラはハイブランドだ。ハイブランドだから、独自のデザインや個性など、
そういった価値が求められる。自分はマルジェラって良く知ってるわけじゃない
(ミスチルの桜井さんが好きらしいということをどっかで聞いたことがあるなあ程度)んだけど、
たまに見るネット上の画像とかだと、随分とスッキリしてて、匿名性のようなものを感じる。
ハイブランドだから個性的であるはすなのに、(マルジェラらしさはありつつ)どこか匿名的だ。
つまり、ユニクロって、マルジェラから最も遠いようで、実は構造は同じな逆位相みたいな感じで
ひっくり返して重ねるとピッタリ重なるんじゃないかと思う。
その構造こそが、この中で書かれてる「現代」なのかな、そう理解した。
だから、マルジェラの次の世代を考える時は、ユニクロについて考えるべきなのかもしれない。
ジュンヤワタナベは、なんかコラボが凄いところってのは知ってる。
渋谷のパルコの一階を抜けるときに良く目にするけど、いつもなんかとコラボしてる。
ブランドって、自分の価値や個性を強調したい筈だから、通常はコラボをしても自分の価値がメイン。
あくまでコラボは相手の知名度や特徴を借りて、自分の宣伝をするもの。
でもジュンヤワタナベのコラボは、むしろコラボ相手の服に依って自分のイメージを形作ろうとしているように見える。
つまりコラボ相手の服の価値がジュンヤワタナベの服の本質の重要な一部として、宣伝ではなく取り込まれる。
そしてそうすると、母体であるコムデギャルソンすら、ジュンヤワタナベの利用すべき一ブランドとして、
ジュンヤワタナベの下位に置かれることになる。この貪欲な構造がジュンヤワタナベの「現代」だと、自分は思った。
エイプはもう全然知らない。高校時代に、友人が読んでたファッション誌にエイプの服があって、
「えっこれこんな高いの!? 」と驚いたことがあったけど、それ以来特にまともに見たことはない。
確かどの商品にも大体猿のマークがくっついてる。
うちの実家にあるタオルにもYSLって書いてあるし、デパートに行けば
でも、それは本体の価値がちゃんとあって、それをロゴが借りてる、というものだ。
でもエイプはもはやロゴが本体って感じ。猿の記号が本質。サンリオグッズと一緒。
権威付けしてくれる本体と記号が同一だから、アーノルドパーマーのように
それがすごいところなのかなーって思う。
ここまで思ったことをなんとなく書いてみて、終着点が全然見えないから
ここでやめようと思う。