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はてなキーワード: 国民国家とは

2010-02-10

http://anond.hatelabo.jp/20100129165450

なんか根本的に誤解というか思い込みがあるような気がする。


よくわかんないんだけれど、1つ気になった点。

文章読んだ限りだと、この法改正ぎろんについて

「20年前に読んだ本」をもとに「10年前に書いた話」なんてものが

論拠として使われているようなんですけれど、こんなことがあっていいんですか?

この人だって、そんな昔の発言いまさら穿り返されても困ると思うんだ。

ましてそれについて勝手神輿にのせられて、下手したら責任取らされる。

それってどうなのさ?今の学者達は何をやってるの?

解釈学(法律学と一般的に言われてるものはこれだと思う)ってのは、多くの場合新しいものがポンポン出てくる世界じゃない。

それこそ参政権とか国民国家とか、もっと広く言えば人権概念なんて、

数十年、数百年かけてちょっとずつ変わってきたようなもので、10年なんて文字通り一昔。

だいたい、「10年経ってるから当然古臭い」なんていうのは論として荒すぎる。

今と10年前で何がどう違って、その違いによって対象となっている主張のどの部分が何故陳腐化するのかが説明できなきゃ無意味


あと、今の学者は何をやってるの?というなら今の学者の業績を調べることをお勧めする。

というか件の長尾教授だって「今の学者」だと思うんだが、、、。

ちなみに「外国人参政権 論文」でググっただけで、トップにいきなり論点をまとめたドキュメントが出てきたぞ。

ちゃんと読んでないし、政府の息がかかってるようなのでそれを鵜呑みにしていいかは分からないが、

少なくとも憲法学者はこれまで議論を続けてきたってのだけは分かる。


価値ある学説っていろんな学者が入れ替わり立ち代り議論するから新鮮だと思う。

でも、10年間他の人が寄り付かなかった学説って要するに

その価値がなかったわけでしょ?カビが生えてるわけでしょ?

その議論をする必要がなかっただけ、というかもしれないけれど、

10年前の古カビた理論がそのまま今でも通じるなんて、そう考える人がいること自体理解できないのですよ。

これもなんか思い込みで書いてるように見える。

10年前に単発の論文がぱっと出て、それきり何の検討もなしに放置されてたみたいな認識でいるのかね。

上でも言ったが議論は継続されてる訳で。


今その必要が出てきたわけだから、あらためてみんなで議論しなきゃいけないんじゃないの?

これは同意。いままで多くの人が関心なんて持ってなかった話題なので、みんなが関心を持ったなら議論すべき。

ただし、これまでの議論の流れは踏まえておいた方が無駄な議論は減らせると思う。


他にも言いたいことはたくさんあるが長くなってきたし疲れたのでこれで。

2010-01-22

http://anond.hatelabo.jp/20100122160800

「命運を共にする」というのは、「共に死する」「殉じる」という意味だ。

国が滅びるからといって、国民に死を共にせよってのは、到底受け入れることはできない。

つか、「国民に死を共にせよ」なんて奇特な事言ってる人を俺は見た事ないんだが。誰かいるの?その人それなりに支持されてるの?

「国と命運を共にせよ」というのは「もし国が滅びたら、大人しく滅ぼした側に支配されろ。滅ぼした側に生殺与奪を握られて、そいつらの都合第一で殺されたり生かされたりしろ。」って事だよ。ある意味死ね」とほぼ同義だけど、いきなり自殺しろと言ってる奴なんて見た事ない。

民族浄化は「特定地域から特定の民族をほぼ丸ごと排除して、その地域の住民の民族構成を『純粋化』すること」なんだから、国民国家の形成過程くらいでしか生じないんじゃないの。

今はむしろ、EUをはじめとして、AUなど統合の方へ漸進している。

それまでに何人殺されればいいんだっつー話だよ。ダルフールだけでも既に200万人死んでいて60万人が難民化してるんだけど。仮にめでたく統合されたらどこかの国が責任もって救済するとか約束してるの?

http://anond.hatelabo.jp/20100122143150

国家が存亡の危機に直面した時にどうするかが前提の話でしょ。「共にしない」って事は、逃げるって事でしょ。違う?

違う。

「命運を共にする」というのは、「共に死する」「殉じる」という意味だ。

だから、生命を優先するといってる。

うん、共にしたよ。「大日本帝国」を維持するために300万人以上が死んた。

生き残った人達も、「大日本帝国民」という肩書きを全員が失った。

亡くなられた方は、命運を共にしたといえるけど、生き残った方で生を選んだ方は殉じていない。

よって、「命運を共に」していない。

戦争に負けた場合、場合によっては戦勝国間で領土を割譲されたり(東西ドイツ香港マカオとか)、強制移住させられたり(旧ソ連朝鮮族とか)、民族浄化(世界各地で進行中)の憂き目にあう場合もある。もしヤルタ会談戦勝国側が「もう日本人要らなくね?」という結論を出してたら、今のこの国の繁栄はあり得なかった。

民族浄化は「特定地域から特定の民族をほぼ丸ごと排除して、その地域の住民の民族構成を『純粋化』すること」なんだから、国民国家の形成過程くらいでしか生じないんじゃないの。

今はむしろ、EUをはじめとして、AUなど統合の方へ漸進している。

民族間対立は発生するとしても、民族浄化まではそうそういかないだろう。

運命を共にしない」というのは、そうなる前、もしくはなった後で他国に逃げる事を意味する。

以下略

こちらはその意味で使用していない。

「命運を共にしない」というのは、国が存在が否定されようと己の存在を否定しないこと、すなわち、生命を捨てるようなことはしないことを意味する。

国が滅びるからといって、国民に死を共にせよってのは、到底受け入れることはできない。

2010-01-20

国民国家という枠組みは、現代のグローバル化を想定していない気がする

2009-09-10

さて、自民党下野し、民主党政権をとり、国民新党社民党と連立

今まで、自民党は、55年体制の下、経済政党現実政党としての側面を示してきた。個別の政策には、賛否両論はあるが、このスタンス自体は非難されるべき点ではない。しかし、自民党にはもう一つの側面がある。それは、保守イデオロギーの体現者としての役割である。

私は、自民党下野したことで、経済政党現実政党としての側面が消失し、単なるイデオロギー政党になり下がることを懸念している。

自民党のセンセイ方の中には、勢い余って、単なる右翼と変わらないような主張をするときがある。中山成彬安倍晋三森喜朗など。「日教組組織率が高いところは学力が低い」「美しい国」「日本天皇を中心とする神の国」、彼らが繰り返してきた発言の背後には、現行憲法に対する苛立ちと、それに連動する、明治以降の近代日本において創造(かつ想像)された、余りにも素朴過ぎる国民国家観(領土、国民国家が一つになって、国民は単一の存在として把握され、平準化されるべきだという国家像)が垣間見える。中曽根(父)が作成した改憲草案は、近代の産物であり、20世紀前半から中盤にかけて頂点に達した、「国民は一つであり、一つになるべきである」というイデオロギーを露呈している。そういえば、中曽根康弘って、「日本単一民族である」と発言しているんだよな。書いていて今思い出した。

イデオロギーは、特定の支持者にとっては、ありがたいものである。しかも、一種の洗脳であるので、熱烈な支持を生み出す。妥協が許されない。イデオロギーは、対立する世界を認めない。そのイデオロギーを熱心に支持する者にとって、解は一つしかない以上、複数のイデオロギーの共存は難しい。したがって、論争が集結しない、世界観対立しか生み出さない。これには、なんの生産性もない。

個別政策に賛否はあるかもしれないが、経済政党現実政党としての自民党は、それなりに評価すべきものがある。

民主党も、今回の選挙のマニュフェストが現実路線へ転換した、と言われているが、政権を担うに当たって、経済政党現実政党としてのスタンスを取ることにしている様子。個別政策には異論がありうるが、このスタンス自体は、賛成すべき。

しかし、民主党は、参院の勢力構図上やむを得ないとはいえ、社民党と協力する道を選んだ。社民党は、上記の自民党のように、イデオロギー政党である。特定の支持者(絶対平和を愛する人たちなど)しか支持を集めることができない。これは、民主党政権運営にとって致命的になる可能性がある。

特定のイデオロギーを熱烈に支持する人にとって、妥協は屈辱である。現実に合わせて、政況に合わせて、妥協を選択し続けると、支持が乖離する。これは村山内閣時に起きた、社会党離れである。

あまり知られていないことかもしれないが、成立した法案のほとんどは、自民党民主党が成立に合意したものである。共産党は「民主党政権建設野党となる」とのたまっているが、全く違う。自民党政権の最大の建設野党は、民主党である。民主党も、自民党の政策のほとんどに最終的には賛成している。政策を遂行する手段、方法には反対する時もあるが、政策の目的自体には賛成している。

はてな最近人気を集めた「民主党政権取られてしまいましたが・・・」のエントリhttp://anond.hatelabo.jp/20090906052539

これも法案のほとんどが自民民主が合意したものであることを忘れている。いわゆるド派手な「対決」法案は、全体のわずか1割以下。年によっては片手で数える程度の時もある。今年の国会選挙前なので対決ムードを演出したかった様子だが。むしろ、対立が多いのは、「自民党民主党 vs 社民党共産党」という構図。法案の成立に最後まで反対する社民共産の拠り所は、現実ではなく、イデオロギー

民主党は、思った以上に現実政党経済政党である。確かに政権担当していないため、自民党のセンセイ方の現実感覚よりは鈍いかもしれないが、それも程度の問題。今までずっと副委員長や書記の立場だった人が、委員長になる感じ。民主党には閣僚経験者もいるし、現実感覚は、それほど心配していない。2~3年経験を積めば、マシになると思っている。

むしろ、足を引っ張る可能性があるのは、左派イデオロギーの体現者たる社民党である。みずほちゃんが現実に合わせて妥協する態度をとると、社民党信者の支持が離れる。左派イデオロギーを貫徹すると、現実に合わない。民主党300超議席の前には、単なる幼女の我儘にしか映らない。

イデオロギーは単なる世界観対立しか生み出さない。現実政治の前には優先順位は低い。民主党はそれが寄り合い所帯であるから、イデオロギーを前面に出すと党が瓦解することを知っている。そのため、実は、イデオロギー政党としての側面は、自民党よりも弱い。

下野した自民党保守イデオロギーにこだわらず、建設野党として、経済政策などに協力すべき。与党となったみずほちゃんは、現実の前に妥協を許さないイデオロギーを吐くべきではない。それが嫌なら、閣外協力か、共産党と同じ道を歩みなさい。私は、このように思っている。

なお、このエントリを読んで、私が反イデオロギーの立場に立っていると思われるた方へ。私は、多様な世界観が共存することを前提とした上で、政治はできる限り個人の世界観を抑圧も奨励もしない方が良いと思っています。個人が特定のイデオロギーを持つことは否定していません。

2009-07-17

平和主義者と現実主義

http://blog.tatsuru.com/2009/07/16_1121.php

これを呼んで流石にひどいだろと思ったので。

そういう人間でも、どこかに帰属していない限り、生きてゆくことは苦しい。

その場合、「平和主義者になる」というのはひとつの選択肢である。

世界的な政治単位に帰属することについては要求される資格は何もない。

誰でも自己申告すれば、平和主義者になれる。

そして、世界市民という巨大な集団に帰属する代償として、平和主義者に求められるものは何もないのである。

ゼロ

平和主義者にはどのような義務もない。

好きなときに、好きな場所で、好きな人間を相手に、気が向いたら、平和主義者になることができる。

私は平和主義者だ。私は世界市民だ。私は人類全体の利益をあらゆるものに優先させる。人類利益を脅かすもの、無辜の市民平和な生活を踏みにじるものを私は許さない。

などということをぺらぺら言い立てることができる。

その代償として要求されるものは、繰り返し言うが、ゼロである。

真正の平和主義者であることを証明するために「今、ここ」でできることは何もないからである。

平和主義者は国際関係について熟知している必要がない(アメリカ大統領名前を知らなくてもノープロブレムである)、もちろん外交内政についても、歴史についても(政治思想史についてさえ)、無知であることは平和主義者の名乗りにいささかも抵触しない。

むしろ、そのような外形的知識の裏づけなしに「いきなり平和主義者」でありうることの動機の純正さが尊ばれる。

一方、平和主義者はしばしば「自分が信じる規範」は「すべての日本人が当然に共有せねばならないこと」であるという不当前提を採用しているので、論争においてほとんど無敵である。

彼らの論争術上のきわだった特徴は、論理的な帰結を無視して自分の個人的理想現実における施策に直結させることである(「ダメなものはダメ」とか「人殺しは悪いことでしょ」「誠意を持って話し合えばどんな人とでも理解し合える」とか)。

そして、「はぁ、そうですか」と応じると、「だから憲法9条は守らなくちゃいけない」「日本軍隊なんか要らない」「無防備都市宣言に賛成してくれるわよね」という結論にいきなり導かれるのである。

これはきわめて知的負荷の少ない「論争」術であるので、好む人が多いが、合意形成や多数派形成のためには何の役にも立たない。

もう一つ大きな特徴は、平和主義者にはその立場を証明するための直接行動が要求されないということである。

家庭や会社でそれなりの敬意を得るためには、具体的な行動によって集団に貢献することが要求されるが、平和主義者は「領土問題」とか「外交問題」とか「防衛計画」とか、ほんらい政府が専管する事項を問題にしているので、個人としてはできることが何もないのである。

平和主義者は「人類皆兄弟」と幻想的な集団を形成しており、そのような幻想的な集団の中では、具体的に誰も彼に仕事を命じないし、誰もその貢献を査定しない。

だから、平和主義者は誰からも文句を言われない。

というように、平和主義者であることは行使できる権利に対して義務負荷がきわめて少ない。

商品交換のスキーム社会的行動の特質を考量する人たちが「権利が多く、義務が少ない」平和主義者・オプションを選好するのは怪しむに足りないのである。

グローバル資本主義の爛熟の中で、平和主義者の若者組織的に生まれるのはそのような理路による。

現実主義者というのは、その逆の行程をたどる。

現実主義者は自分が今在る状況を理解し、自分が現に帰属している集団のパフォーマンスを高めることを配慮し、隣人たちに敬意をもって接し、今自分に与えられている職務を粛々と果たすことをおのれに課す。

そのような「場所」や「集団」や「隣人」たちの数を算術的に加算してゆくことを通じて、やがて「国民国家」にまで(理論的にはそのあとは「国際社会」まで、最後には「万有」に至るまで)「私の帰属する集団」を拡大してゆくことをめざすのが現実主義者である。

若い人たちにはできることなら現実主義者をめざしていただきたいものだと思う。

政治的なものであれ学術的なものであれ、何かの主張をすれば何らかの集団に帰属することになるのは当然です(本人が望むと望まざるとにかかわらず)。そして、それを「奴はほかに居場所がないんだ」とレッテルを張ることは実に簡単です。特に、ナショナリストといった「幻想的な集団」にレッテルを張る場合、そのレッテルの正しさはほとんど問題になりません(ナショナリストの具体例たる1個人を想像できないため)。

論争術についていえば、それぞれの政治的主張と議論の巧拙に相関がないというのは自明だと思うのですが。

学者とか評論家とかオタクとか、およそ何かを論ずる人々の大半に適用可能な優れたテンプレートとして、末永く保存されるべきだと思います。

2009-04-19

http://anond.hatelabo.jp/20090419103041

いいんだよ。任意で。まやかしで。

どうせ民族なんて近代国民国家成立と同時に作られた新しい概念でどうたらこうたらみたいなベタな話でしょ。ネーションステートのネーションと民族意味のネーションは同じだとかなんとか。

そもそも人が設定する区分なんて全部まやかしなんだ。青と赤、色が違う。でもスペクトル上でハッキリと区別されてるわけじゃない。任意にここが赤、ここが青と決めてるだけなんだ。犬と猫、何が違うのか、互いに交配できないと違うと見なすのは絶対的な分類法なのか? 道産子サラブレッドは違うのか? ウマとロバは? 歴史現在の境目は(←ここ重要)?

全部任意なんだよ。適当。これこそソシュールの功績でさ。

その上で、曖昧だろうが適当だろうがそれを維持しようという価値観があると。そしてそれはアパルトヘイトだとは思わないから否定する理由はないと。あとは趣味の問題であって、言わば芸術至上主義みたいなもんだと。それのためなら芸術のためなら死んでもいいみたいな。いや死にたくはないけどさ、極端な話よ。そういう価値観の方向性っていうか。

で、否定する理由がない以上、対立する意見もそれこそ同価値なんだと思う。ご飯が好きかパンが好きかくらいの違い。で、どっちかしか食べられないとなったら戦うか逃げるしかないわな。

で、逃げというのは選択肢としてはあるなと最近考えているって感じだ。

2009-03-04

なんかで読んだんだが、かつて苦学って言葉普通に使われていた時代、国立大学に入った学生国民国家貢献する人物になるべし、なぜなら税金で学ばせてもらっているのだから、みたいなことを新入生は上級生から叩き込まれたんだそうだ。

実際、当時は授業料も安くて(1970年ごろで1万2千円くらい)苦学も不可能じゃなかった。

http://anond.hatelabo.jp/20090304230240

貧乏人が大学に行けなくなるじゃないかっていうけどさ、そもそも大学が貧困から脱出する手段になりえるかっていったら、医学部とかだけじゃないかな?

現実に、欧米研究では貧困は世代を連鎖するって結果が出てるんだよね。親が貧困だと子供に十分な教育を施せないので子供も安定した職に就けない、その結果子供も貧困に陥ってしまうと。

確実に脱出する手段にならずとも、脱出する可能性を広げることは必要だろう。

2009-01-03

博之に屈した太郎と一郎

http://anond.hatelabo.jp/20090102200328

自民党総裁民主党の党首も国民国家たる日本の代表する人間じゃないか

そういう人たちが2chの匿名文化の成れの果てになるところのニコニコ

ヘラヘラ笑っているようじゃ、この国は終わりじゃないのかな。

汚いテキストが流れる下でヘラヘラ笑っている太郎君も一郎君も国辱ものだよ。

そりゃ博之だって“2chもういらん”と思うよな

自分が発案した仕組みの下で政治家が媚びを匿名さんに売っているのだから。

この国に大統領選があったら西村大統領確定の赤ランプだね。

底の浅い国になってしまった、悲しい。

2008-12-09

http://anond.hatelabo.jp/20081209001301

幻想性という点で共通してるから。吉本隆明家族を対幻想国民国家を集団幻想と呼んだが、どちらも幻想だよと。

で、幻想おおいにけっこうじゃない。残しましょうよ。ってだけ。

ことが起こってからじゃ遅いの問題に関しては1、ダメじゃないし 2、ダメになってもいいじゃない で。

2008-12-04

[]

877 :トニオ:2008/12/04(木) 03:56:47 0

そもそも、お前の何が形而上学関係があって、何を脱構築するのか説明できる奴がいるのか。

ゼロアカだのゼロ年代だの無能の群れどもに。 ... 約1時間前 from web

だからそもそもリベラルアイロニストって何だよ。

お前、指導教官定義聞かれてちゃんと説明できんのか ... 約1時間前 from web

自らのプラトン的振る舞い(デリダプラトン解釈も問題があるんだけれども)に対してはちっとも含蓄とかないわけね ... 約1時間前 from web

そもそも、リアルタイムで対話して結論を出そうなんてマネじたい、

デリダ的にどうなんだ? 約2時間前 from web

プラグマティストで社民主義者でテクスト主義を批判する分析哲学者なんだぞ。 約2時間前 from web

ローティ政治の部分はわりかし分かりやすくて単純で(だから嫌いなんだけど)、

なんかこねくり回した理屈をひねる余地はないと思うけどなあ ... 約2時間前 from web

リチャード・ローティの設問だ 約7時間前 from web

http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html

もし、汐音ちゃんの小学校の教師が「そのとおり、声に場所を与える必要があるはずだ!ロリコン(もしくはドブネズミ)に権利を!」なんて言ったら、

無論東だって辞めさせようとするに違いない ... 約7時間前 from web

878 :トニオ:2008/12/04(木) 03:57:48 0

誰も聞いてねえし、そもそも俺はこんな素朴な見地を披露するのは嫌だが、例の無能たちはわけのわからない宇宙語を話しているわりには

こういうことにちゃんと答えることどころか、理解できてるのかも怪しいときたもんだ。 ... 30秒前後前 from web

ポストモダンなどそもそも意味のない言葉だ。

定義してみろ、「近代」について。

近代などなく、それぞれの国民国家の成り立ちがあるだけです」 ... 10分前 from web

ついったーイライラすんなああああああ 14分前 from web

だめだ、まとまらねえ。

表のブログ映画の公開が終わるまでプリキュア看板を下ろす気はないから。 ... 14分前 from web

もう一つは、「大きな歴史」、「形而上学の支配」というものの真実性。 15分前 from web

一つは、西洋哲学東洋人である自分との関係性(これはハイデガーの段階で言われている) 16分前 from web

すなわち日本脱構築なんて志向するなら、二つ困難がある。 16分前 from web

あの尊大なカルナップはハイデガーの言うような壮大な形而上学に確かに関係ないかもしれない。 25分前 from web

そもそも、「大きい歴史ソクラテスから連綿と続くような巨大な「哲学史」、

そのような巨大な建造物を想定すること事態が自明とはいえない。 ... 約1時間前 from web

「アイロニスト=ソクラテス気取り」っていうのがこれまたずいぶんお寒い話じゃない。 約1時間前 from web

2008-11-10

http://anond.hatelabo.jp/20081110014147

普遍語として英語国語に取って代わる時代の話をしてる気が。つまり、どんなに人口が増え、経済成長しても、

国語以外に、世界中で話し書かれる英語というものが出来ることでじゃあ自国の言語って本当にいるの?という時代になるって話。

ちなみにフランスというが、まず抑えておくのはEUの出現、ヨーロッパという概念の再復活は英語によって加速したこと。

エリート層が共通言語として英語を使うことでヨーロッパという意識が強まり、それがアメリカに対置する経済圏を作り出し、

それにより忘れられたかつての大国がプライドを取り戻したって事実。これが一点。つまりフランスの誇り、ヨーロッパの誇り

とやらは英語によって生み出されたものといってもいいこと。

次にそうとはいってもフランスは自国語優遇してるよね?だが、これは革命以来のフランス的な平等感からきているものが大きい。

フランス国民とはフランス国籍を持ち、フランス語を使える人間であること。それ以外の理由で国民でないとするのは平等に反する」

ということ。(もっとある気がするけど、日本みたいに血族主義ではない)つまり、フランス語国民国家としてのフランス存在理由

の大きなものの一つであるってこと。だから、自国を瓦解させないためには優遇せざるえない。

上2行だけでも読んでくれればうれしいけど。俺的にはローマ人はギリシア語だけでよかったじゃんってなんで2ヶ国語話してたの?

ってアプローチから攻めるのがいいと思う。読まないことには始まらないけどさw

「理解できない馬鹿」を可視化してみた。

http://anond.hatelabo.jp/20081109215457

書評がなってない、という問題のコメントがほとんどならわかるが、かなりの割合で書評の内容で元の本を想像してコメントする、という例がある。現時点でそれに該当すると思われるのを俺視点で全部あげると、

id:repon あのですね、日本人から見た「英語」だから普遍語に見えるだけで、日本語という「国語」は国家統合の鍵ですよ。英語は道具としてはこれから普及するけれど、国家統合の要は国語たる「美しい日本語」です。全然違う。

id:jujubea j「英語のできる俺大勝利!皆は俺の英語力を全肯定するこの本を読むべき」

id:shields-pikes 読まずにコメントブログ掲示板漫画アニメで、世界の全コンテンツにおける日本語の比率は20年前より増えてるんじゃないかなあと予想。あとは、現代中国語をまた漢語として日本語に引き入れようぜ!

id:sbiaco ラテン語中南米言葉だと思っている人がいっぱいいる国に英語を普及させるなんて夢の夢。植民地にされたら別かもしれないが

id:hobbling 今どき源氏物語を「読む」人間がいないように、漱石三四郎だって「読む」人間がいなくなるのは当然だと思う。言葉だって文学だっていつかは死にます。ラテン語が死んだように英語だって死ぬでしょう。

id:kkobayashi バカだのアホだの言われると逆に読みたくなってくるな。/英語の必要性なんて、本読んで勉強するもんじゃないと思うけど。実際必要としてない人には不要だし、実感として伝わるわけがない

id:TiTo インテリ層は今後日本語よりも英語に重きをおくのでは?私自身の体験からしても、ある分野で日本語で十分満足のいくコンテンツがない現状に気付いた時点で英語コンテンツアクセスするようになりましたから。

id:noiehoie なぜこの人はいつも真面目に語ろうとすればするほど底の浅さを露呈させてしまうのだろう?そもそも19世紀以降知的世界において英語普遍語でなかった瞬間があるのかと問いつめたい。小一時間(ry

id:JuliusCaesar アメリカが没落しても英語の優位が続くかどうか。日本国が続く限りは、日本語が亡びることはないだろう。

id:nekoluna うーん・・英語で書けるならそのほうがいいと思うけど。 マーケットが大きいので、日本語では微妙才能でも小説家としてやっていけるよ。 暴力的かもしれないけど。

id:dekaino 古代中世中華帝国東アジアの中心だった時代、日本公文書漢文だったが、和文の文章も当然書かれていたし和歌も詠まれていたわけで。

id:mihalita 日本語理想化しすぎ。かなりハイブリッド言語なので、これからも政治的に強い言語と混じりながら変化していくんですよ。「田中克彦」を読んだほうがいいと思う。

id:panna-cotta 関係しそうなのは上流層だけかな。世界共通言語を操る以前に、世界規模の競争で勝ち残れない大多数の人たちは結局母国と母国語依存せざるを得ない。 * 2008年11月08id:Meat_eating_orchid こんなのもう50年以上前から言われてることだけど、それで「自然英語で書」いてる人って何人いましたっけ?

id:islecape 英語が「普遍語」に。すでに学術論文なんか全部英語人口が減っているので日本語を使う人も当然減っていく。文化的に保存されず消滅する言語がかなりあるが、日本語データとしては残る。それで問題あるだろうか?

id:yuki-esupure こういうの100年くらい前からいわれてるよねwww

id:ticky 英語ったって、英語を学ぶことと、英語教養を見につけることは別。

id:nosem よくあるタイプの本の予感,そもそも普遍語たるラテン語も衰退しちゃったじゃんかよ

id:pontanta 50年前に出版されても同じことを行っていると思う。戦後ベストセラーが「日米会話手帳」ですからね。/「貯蓄から投資へ」みたいにいつになれば本格的にそういう時代になるの?という感はある

id:lizy 言葉までフラット化するかなぁ

id:yamatedolphin 都会で働く人には標準語は必須だが、イナカで隔絶した暮らしをしてやってけるという人は方言で充分。それと同じで知的分野で相手にされなくてもよい人には関係ない/ コメントみると日本は「亡び」からも遅れるのかも

id:citron_908 人類2.0 タイトル書評だけ読んで想像すると、これってなんてワンワールド化?っていう / フラット化する世界のなれの果て

id:Mihukaeru 標準語は浸透しましたが、方言は滅びましたか?(変化はしてるけど)

id:yo-net 日本語で物を考えなくなったら、日本人が終了するだけですよ。

id:georgew 英語に関しては異論ないけど、中国語の台頭というのも考えねばならんと思う。いずれにせよ日本語用済みってのは大筋そうだろう。

id:insistent シルクロードの終着点で中東から欧州から中国朝鮮から洪水のように情報が入ってくるので異文化摂取能力限界まで高めた言語として発生した日本語。また独自の変質を遂げた日本語になるだけだと思う。

id:aiaki 生物の変化を滅びとしているの?

id:plummet 実感はサパーリ湧かない。|ちうか、本を紹介するだけのエントリにけっこうスターがついてるのに驚く

id:naotoj 一部の限られたエリートしか情報を残せなかった昔とは違い、今は個々人全てがデータの発信元。それが全て英語に置き換わるなどとは到底思えないのだけれど。

id:ore_de_work 滅びるんじゃなくて、それ生き物だから.....

id:kimtetsu 日本 単一の言語民族アイデンティティに結びつけるのは、国民国家の特徴だからそんなに歴史が古くない筈、日本語だとせいぜい150年ぐらい?

id:hummer_and_anvil 江戸時代以前は漢文が公用文の時代だったし。ヨーロッパではラテン語の時代が長く続いた。日常語と公用語が別の言語という国は現在でもたくさん存在する。これはごく普通のことじゃなかろうか。

id:ustar そもそも日本語は何千年も知識と論理を漢語に任せてたじゃないですか

id:ghostbass言葉 OK,まずは「ら抜き言葉」なる珍妙な用語を滅ぼそう。/フレーズ意味を成す用語を単語に分割して訳すバカどもを追放しよう

id:TOM2005 そのときには自動翻訳が実用的なレベルになっていて、むしろ「母国語でない英語を覚える」などというナンセンスなことは誰もしなくなったりして。

id:temtex 今まで数え切れないほど日本語の危機なんてあっただろうに。

という感じ。そういうコメントのほとんどになぜかid:F-name氏のスターがあることが気になる。

その他梅田さんに何かいいたいだけのエントリとかは除いた。

2008-11-08

梅田望夫「紹介・水村美苗日本語が亡びるとき』」の補足説明を試みる。

【要旨】

 梅田望夫さんが水村美苗日本語が亡びるとき』の紹介をしていた。ブックマーク数は多いのだが、梅田さんの紹介にやや舌足らずな点もあるからか、反応もいまひとつのような気がする。ただ、わたしも水村さんの論を読んで非常に感銘を受けたことはたしかなので、まずは、水村さんの議論の骨子を紹介してみることにした。ただし、わたしが読んだのは新潮9月号で発表されたものであり、ここで紹介することも本の第1章から3章までの議論にとどまる、という点をご海容頂きたい。

ここで紹介したのは水村さんの問題意識であり、この問題に対して水村さんがどのように思考を進めていくか、というメインの部分については実際に「新潮9月号や本をごらんいただきたいと思います(この一文追記)。

(追記2)梅田さんがこの本をどう見ているかについては、すでに8月時点でこの本の前身の論稿に触れられたエセーがすでにあるのでこれもご覧になるとよいかと思います。以下の記事のブックマーク数があまり多くなかったので補足しておきます。

http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080823/trd0808230354002-n1.htm

【本文】(本文途中からお名前を「望田」さんと誤っている箇所があったので修正いたします。大変失礼いたしました。また指摘してくださった方に感謝いたします。)

水村美苗の新刊『日本語が亡びるとき』が梅田望夫さんのブログで紹介されていた

http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1

 コメント欄ブックマークでのコメント欄では芳しい反応は少ないようで、梅田さんの議論とかみ合っていないし、梅田さんの高揚の理由がわからずポカンしているように見える。

 これはおそらく、水村美苗および梅田望夫の問題意識がちゃんと理解されていないからではないかと思う(その点で梅田さんの紹介が不十分ということはあるかと思う)。とはいっても、本書が梅田さんの心に響いた理由をわたしは想像できるし、わたし自身も「新潮9月号を読んでおもしろいと感じた。なので、以下で水村さんの議論を紹介したい。

 水村さんの議論、および望田梅田さんがインスパイアされた問題意識というのは、たとえば、英語公用語化論のようなレベルでの「日本語の危機」というようなものではない。すなわち、日本の「国語」としての日本語と、英米の「国語」としての英語とのパワーバランス等が問題とされているわけではないのだ。国語 vs 国語」という問題、ではないのだ。

 そうではなくて、水村の議論はこうである。

 水村の分け方によれば、言語には「普遍語―国語―現地語」の3レベルがある。

 中世では「普遍語」としてのラテン語および「現地語」(のちにフランス語ドイツ語になる言語)しか存在していなかった。

 近代国民国家の時代になると、(学術的な成果等の)「普遍的なこと」を語る言語として、「普遍語」の他に、「国語」(もと現地語)が登場した。この意味で「普遍語」の役割を果たす「国語」が複数あるというのが20世紀半ばまでの状況であった。

 しかし状況は変わった。世紀末から21世紀初めをみると、もともとは数ある「国語」の内の1つにすぎなかった英語が「普遍語」なろうとしている。それに伴い他の「国語」は「普遍語」の座を降ろされようとしている(例としてフランス語の衰退が挙げられる)、と言うのが水村の議論の骨子だ。

そういうことであるから、日本語が「現地語」として滅びるといっているのではなくて、普遍的なことを語る役割を担わされてきた近代国民国家の「国語」が、英語が新たな「普遍語」となることによって、変質をこうむる、という見通しを水村は述べているのである。 

 以上が水村さんの議論の紹介。

 このことからわかるように、望田梅田さんがこの本を読んで感動したというのは非常によくわかる気がする(追記;小飼弾さんが興奮するのもよくわかる気がするhttp://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51136258.html)。望田梅田さん自身をどのように考えているかは知らないが、わたしがこの本を読んで思ったのは、

日本という「現地」に帰属しつつ他方で「普遍的なもの」とつながっているという点では「外国人」のような存在、すなわち、「在地の普遍人」というでもいうべきメンタリティーを有している人間にとっては、今回の水村さんの本を読んで刺激を受けるのだろうな、ということだ。

 というわけでブクマコメント欄にあった、

英語日本語日常的に使用していることを前提に書評が進められている感じがする。日常的に日本語のみしか使ってない人にとっては「心の叫び」は届かないのでは

という反応などが、もうひとつの、ある意味で正しい反応だといえるのではないだろうか。

これも参照。http://anond.hatelabo.jp/20081111185728

【★追記。以上の議論から、文学においてはどんな問題が生ずるか。水村さんの見方はこうだったと思う。

 近代においては、国語国民国民文学という等式が存在し得た。国語普遍的な内容を記述できる言語であり、国民文学普遍的な内容を論ずることができるものであった。もっというと、

ローカル(現地)なことがらを普遍的なレベルでとりあげ記述することを可能にしたのが

近代国民国家における国語による国民文学

であった。

しかし、「国語」が「普遍語」としての地位から陥落しつつある21世紀初の状況を見ると、今後そのようなことは可能であろうか。

これが水村さんの問題意識である。

このような問題は翻訳論において繰り返し語られていて、水村さんもこれに言及している。】

【★さらに追記:

「別に日本語が『現地語』になるとして何か問題でも?」という反応に対して、水村さんの議論からはどのような応答があり得るだろうか、考えてみる。

「現地語」のみを読み「現地語」のみで語る、他のものには触れないし読まない。そうなると、文学が、そして、それによって表現される知性が、衰退する、という反応が出てくるのではないか。 

文学とは異なるが、このことの理解を助けるために、テレビ番組を例に挙げてみよう(わたしはテレビをじっくり見る習慣を持たなくなったので、これから書くテレビ番組の状況は、幸いなことに、誤っているかもしれませんが)。

テレビ番組低俗化していく、という説が挙げる例の一つに次のものがあるだろう。お笑い芸人テレビに出してそのトークで番組を構成する、そのトークの中身は(試聴者もそれを知っていることは前提とされているものの)芸人同士の内輪のからみや楽屋ネタのようなものであり、ネタとして完成された作品であることは少ない。

このような内輪のみに意識が向けられ、内輪のもののみに言及し、その範囲での閉じた連環が固定される。 

テレビの現状が本当にこのようなものであるかは知らないが、仮に、このような番組しか放送されていない世界になれば、テレビというメディアは衰退するという主張が現れておかしくはない。

日本語が、「普遍語」の役割を果たしうる「国語」であることをやめ「現地語」になってしまう、という水村さんらが表明される危機意識というのは、このようなものとして理解することができるのではないだろうか。

水村さんのインタビュー記事を読むと、

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm

中途半端国民バイリンガル化を求めるより、少数精鋭の二重言語者を育て、翻訳出版伝統を維持する。作文を書かせるより、古典たっぷり読ませる教育を積む。それが日本語生命を保つ現実的な方策

ここで「少数精鋭」でもよいので「翻訳出版伝統を維持する」ことが主張されているのは、上で述べたように、外に目を向けなくなることにより日本語および日本社会ローカルレベルへと自壊していくのを防がなければという問題意識を背景とした主張だと、わたしは理解した。】

 

2008-07-28

転載】[AML 20691] Re: 対馬韓国の領土と言われて逆ギレする日本人

以下、http://list.jca.apc.org/public/aml/2008-July/020178.html より転載

魚拓 http://s01.megalodon.jp/2008-0728-1925-08/list.jca.apc.org/public/aml/2008-July/020178.html

[AML 20691] Re: 対馬韓国の領土と言われて逆ギレする日本人

とほほ

2008年 7月 28日 (月) 16:58:56 JST

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amlの皆さんこんにちは とほほです。

in article "[AML 20688] 対馬韓国の領土と言われて逆ギレする日本人"

永好 wrote:

>ですから、領土問題というのはこのように自分たちに都合がよいことを主張す

>ることによってどのようにでも解釈できることを知るべきだと思います。独島

>(竹島)に対する韓国の立場は対馬に対する日本の立場と同じなのです。

都合の良いことを主張するのが領土問題である、と言うのはその通りですが、日

朝間の場合は一点異なることがあります、それは日本側(外務省見解及び右派

壇の主な主張)の主張は「都合が良い」だけではなく「デタラメである」ところ

に問題があり、それに対して朝鮮半島市民は怒っているのです。立場であるか

感情論であるとかよりも前の段階である歴史事実認識デタラメな主張をし

ているのが日本側主張です。

歴史学的に見れば、日朝双方ともに「潜在的領有権」有していることを互いが認

め合った上で、国民国家成立以降の各種日朝間条約を及び両国政府の対外発言を

根拠として話し合わねばならないでしょう。日本はかなり分が悪いのは確かです

が、、、、。

☆ (@ @)     (* *)     (* *)   ★

ooO--(_)--Ooo--ooO--(_)--Ooo--ooO--(_)--Ooo--★tohoho at t-t-japan.com

☆☆ http://t-t-japan.com/tohoho/ ☆☆  ★★  とほほ   ★★

2008-07-10

日本を支配しているステルス複合体

中川秀直・元自民党幹事長って面白いことをおっしゃる。

官僚国家の崩壊」っていう最近出した本の中にも、官僚機構などにネットワークをはる複合体の人脈を「ステルス複合体」と呼び、その「本尊」は学歴による優越意識に基づく大学同窓などの見えざるネットワークであり、たとえば、東京大学法学部出身者を核とするエリート人脈である、と書いている。

http://d.hatena.ne.jp/yumyum2/20080529/p5

官僚国家>を牛耳る<ステルス複合体>の得意ワザはズル、ウソゴマカシ。<医療>改革を<健保>問題にスリカエた。元財務大臣塩川正十郎が「財政の都合ばかりを優先、人間味に欠ける」と批判、元総務会長堀内光雄が「年寄り死ねというのか」と「文藝春秋」6月号に寄稿。当然だ。

自民党幹事長中川秀直、近著「官僚国家の崩壊」(講談社)で「(ステルス複合体は)学歴東大法)に基づく自らの身分に誇りを共有する。官僚機構日銀経済界、学界、マスコミなど、あらゆるところに巨大なネットワークを張る。この同質的人脈が『空気』をつくり、政策の『相場感』をつくっていく。彼らの醸し出す空気相場感に反するものは『異端』扱いされるか、無視され、あらゆるエリート層に、予定調和的な言動を強いて、同質化圧力を加えていく」(23頁)と書く。日本を牛耳り、食いモノにしている。

「『ステルス複合体』に政策を任せると、日本は必ずや『日沈む国』となる」(中川・24頁)。

小泉内閣以来、自民党が進めてきた改革の本質は何か。基本的な図式はよく言われるように、『霞ヶ関永田町』である。官僚によって、役人天国が形成され、今や、官僚が国政を操り、国を私物化しているという批判は、ある意味で正しい。官僚主導を本来の政治主導に戻し、国民のための政治に戻さなければならない」(舛添要一霞ヶ関VS永田町講談社・2頁)。参院政審会長2007年5月の刊行。正論だ。中川秀直火山も同意見

http://blogs.yahoo.co.jp/kome_1937/54679415.html

 その中川氏は日本東大法学部を中心とするエリート官僚たちに巧妙に支配されており、政治官僚コントロールできていないことが、日本の改革が進まない最大の要因であると主張し、改革に反対するエリート官僚たちを厳しく批判する。選挙の洗礼を受ける政治家は、政策の失敗に対して責任を追及されるが、官僚たちは、匿名のまま、政策を作成し、それが失敗に終わっても、結果責任をとることもない。政治家がいくら改革の旗を振ろうが、最大の既得権益者であるステルス複合体が改革を許すはずがない。彼らは官界を越えて、産業界、学界、マスコミまでを網羅した東大法学部人脈を通じて、相互に補完し合いながら、自分たちの力の保全を図っている。これが中川氏が日本の最大のガンになっていると断罪するステルス複合体の実態だ。

http://www.videonews.com/on-demand/371380/001321.php

 ステルス複合体とは

東大法学部を中心とするエリート官僚たちが、官界を越えて、産業界、学界、マスコミまでを網羅した東大法学部人脈を通じて、相互に補完し合いながら、自分たちの力の保全を図っている集団」

の事を差すようです。

 私見ではそのようなゆるやかな連携存在すると思います。しかし、本当に「ステルス複合体」が「抵抗勢力」なのでしょうか?そもそも、「新自由主義の導入=改革」に抵抗するのは国民国家利益を考えると穏当な場合もあり得るわけです。

 確かに、官製不況なる言葉に表されるように、近年は所轄官庁が所轄官庁であり続けるための政策が実行されて、民業の足をひっぱるような事態も起きています。また、膨大な公債が積み上がり、国家財政事情は悪化しています。公務員給与総額を減らさねば、国家破産は避けがたい状況です。よって、キャリア官僚制度の弊害は存在することは間違いありません。

 しかし、小泉純一郎こそが、財務省族議員であり、なおかつアメリカ利益を代弁する外資族議員です。旧大蔵省理財局は財政投融資を通じて毀損しまくった郵貯簡保総務省(旧郵政省)に返し、なおかつアメリカに売り渡すことにより責任を逃れようとしています。その片棒を担いだのが小泉純一郎竹中平蔵です。後期高齢者医療制度を導入したのは当の小泉純一郎です。後期高齢者医療制度本質竹中平蔵の言うところの「人頭税」の制度導入に他なりません。

 結論から先に申し上げれば、殲滅すべきはステルス複合体ではなくて、清和政策研究会です。「官僚政治にそよぐ葦」であり、昨今の悪政の源泉は売米政治を続ける清和政策研究会にあります。

http://wanwanlapper.seesaa.net/article/99881325.html

新聞業界談合を許すな【再販・特殊指定廃止】

418 :名無しさん@3周年:2008/06/27(金) 02:06:05 ID:FVsDlK8i

http://www.videonews.com/on-demand/371380/001321.php

中川秀直の狙いは政官財のステルス複合体の維持にあり」

ゲスト中川秀直氏(活字文化議員連盟会長

メディアコングロマリットを中心として政官財がなす

ステルス複合体の番犬中川秀直が自分の利権を旨みを語る!

http://money6.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1145095961/418

2008.06.11 とんだ食わせ物!中川秀直著『官僚国家の崩壊』

暴論珍説メモ (38)

田畑光永 (ジャーナリスト

しばらく前、自民党大島理森国会対策委員長テレビで「ねじれの丘」というのを歌って見せた。「今日も昨日もねじれの丘で・・・」と。

 そう、今年の通常国会は初めからお終いまで(まだ終っていないが)、確かにねじれねじれで明け暮れた。自民党は要所で例の「三分の二」条項を使い、それではせっかく昨夏の参院選で大勝した甲斐がないと民主党福田首相への問責決議案を出そうとしつつも、その後の見通しが立たずに逡巡しつつ日を過ごしてきた。いよいよ今日明日中に出すとか言っているが、さて土壇場でどうなるか、あの党のことだからなんともいえない。

  ではあっても、国民からすれば、なんでも自民党の思い通りにはいかなくなったという意味で、去年、自民党を敗北させただけのことはあったのだが、駆け引きばかりが表に出て、国政を論ずるという点では「政治不在」という印象を免れなかった。

  ところが、ここへ来て自民党内にいささか波風が立ってきたらしい。4日、総裁派閥町村派で代表世話人を務める中川秀直幹事長を囲む「中川勉強会(仮称)」が発足したというのである。現職総裁を擁する派閥はなるべく低姿勢を保って、総裁任期を全うさせることに意を用いるというのが常識なのに、その総裁派閥の中で派中に派を作るような動きは異例である。

  だから早速翌5日、同派の最高顧問である森喜朗首相派閥の総会で、「福田さんが今にも代わるのではないかと予測したような動きは、誰もしていないはずだ。我が派がいちばんやっちゃいけないことだ」(6日『朝日』)と苦言を呈したという。もっともである。

  年金の騒ぎが収まらないうちに、後期高齢者医療保険またまた国民を怒らせてしまった自民党は、民主党衆議院解散要求をなんとかしのいで風向きの変わるのを待つしかないというのが現状だが、すくなくとも「福田では選挙は戦えない」というのはコンセンサスになりつつある。といっても今の衆院議員任期来年の9月まで。あと1年ちょっとしかない。それまでに福田総裁の後釜を仕立てるとなると、すでに手を挙げている麻生太郎幹事長がタナボタということになりかねない。

  そんなにやすやすと政権をくれてやるわけにはいかないというのが、現職総裁派閥に身を置きながら、派中派をつくるという異例の行動に出た中川氏の胸中であろう。4日の初会合には同派の議員33人が出席し、そのほか秘書20人の代理主席(雲行きを見て参加しようという議員)があったという。相当な数である。

中川氏といえば、2000年に小渕首相が病に倒れた後に発足した森内閣官房長官に就任したが、女性スキャンダルで無念の辞任に追い込まれたことは記憶に新しい(でしょ?)。それ以来、政府の役職にはつけず、もっぱら党で国対委員長政調会長幹事長を歴任してきたわけだが、謹慎ももういいだろうと表舞台に立つ決意をしたようだ。

  その中川氏、最近官僚国家の崩壊」という新著を出した。政治家が本を出すのは野心がある時が多い。安倍前首相総裁選前に「美しい国へ」を出し、麻生氏が「とてつもない日本」を出した。中川氏のこの本も氏の政権取りへの信号弾なのであろう。

  読んでみた。実は読み通すのが苦痛だった。題名のとおりわが国の官僚政治家を手玉にとって政治を動かし、自分たちの既得権益にしがみつくのを痛罵している。防衛省厚労省国交省財務省などなど、事務次官ゴルフ漬けから職員の居酒屋タクシーまで、お役人たちのすることに腹を立てていない人はいないはずだから、官僚を痛罵するのはいい。しかし、なんとも中身がうすいのである。

日本をウラで操る「ステルス複合体」などという新語を作って売り込んでいるのだが、話はあっちへ飛び、こっちへ飛びで、付き合うのに骨が折れる。しかも論旨はなはだ粗雑である。

  例えば、自民党内には党人派と官僚派というグループ分けがあるが、現在福田赳夫(現福田首相の父)以来の清和会の総理が四代(森、小泉安倍福田)続いているが、著者は「日本の順風の時代を担うのが官僚派であり、逆風の時代を担うのが党人派だ」とのべ、いかにも自分たちが今の日本を背負う党人派だと言いたげである。しかも、それ以前の党人派政権となると20年以上も昔の、1978年に退陣した福田(赳夫)政権までさかのぼらなければ存在しなかったと言い、「2000年の森政権誕生は実に20年ぶりの政権交代であった」とまで言う。

  こんな出鱈目な話はない。福田赳夫という人は大蔵省(当時)の主計局長まで務めた官僚中の官僚であり、その福田内閣の後に登場してきた自民党の歴代首相の大半、すなわち鈴木(善)、中曽根竹下宇野海部橋本(竜)、小渕の各氏はすべて党人である。官僚出身は大平、宮沢の二人しかいない。鈴木から小渕にいたるまでの各氏は、自身は党人でも官僚に牛耳られていたから「官僚政権」だというなら、それはそれできちんと分析して見せるのがモノを書くということである。

  もう一つ挙げよう。著者は道州制の支持者だそうだが、道州制を導入すれば国と地方の公務員が大幅に減るとして、現在国家公務員30万人、都道府県公務員35万人、市町村公務員105万人、合計170万人が、それぞれ10万人、15万人、基礎自治体20万人の合計45万人になるという図表を大きく掲げている(257頁)。公務員がざっと4分の1になるというのだから、国民としては耳寄りな話である。しかし、この図表についての説明は1行もない。見落としたかと思って探してみたが、どこにもない。こんなものが本といえるか!

  よく知られているように、中川氏は官僚無駄遣いをやめさせ、なによりも経済を成長させることができれば、それによって消費税は上げなくてもやっていけるという立場である。消費税の値上げは避けて通れないとする「財政再建派」、とりわけその代表格である与謝野馨氏と対立している。前著「上げ潮の時代」以来、消費税値上げ不要論が中川氏の売りである。

  本書でも中川氏は従来の主張を繰り返し、竹中平蔵氏の市場メカニズムによる改革路線を

大いに持ち上げて、その継承を打ち出している。それは考え方であるから、私には異論があるが、それはここでは述べない。私があえてこの本を取り上げたのは、日本指導者たらんとする人間がその主張を書物という形で公にすることは大いに称揚したいのだが、それにしてはあまりにおざなりなものを持ち出してくるその傲慢さが腹に据えかねるからだ。

  街頭演説や反対党との討論やテレビ番組では十分に考えを説明できないから本を書いてとことん説明するというのなら大いに歓迎だが、大衆にはいい加減なことを言っておけばいい、どうせ細かいことはわからないのだから、箔をつけるために本を出すという人をばかにした態度は許せない。そんな御託につきあう暇はないのだ。

  中川氏の本だけを取り上げるのは不公平だから、次回はライバルとされる与謝野氏の新著「堂々たる政治」を紹介することにしよう。

http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-370.html

ステルス(Stealth)とは、軍用機軍艦、戦闘車両等の兵器をレーダー等のセンサー類から探知され難くする為の軍事技術の総称。

単にそれらの技術を取り入れて開発された兵器を指してステルスと呼ぶ事もある。「ステルス性」という言葉は「ある兵器がセンサー類からどの程度探知され難いか」という事を相対的に表す。ステルスの本来の意味は「こっそりとする」「隠れる」である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ステルス_(軍事)

2008-06-24

だから「文学」という概念の捉え方が違うのだぜ

なんか色々同情するな。

星新一宮沢賢治教科書に載っているからOKだったかなw

SFにハマった季節が来たときはそんな空想本ばっかり読んでいないで現実の本を読めと怒られた。

文学は空想だろw

増田の言う通りだよ。文学は空想だ。だからSFも当然文学だ。別に、たとえば”SF界の抒情詩人ブラッドベリや、”哲学者フィリップ・K・ディックだけが文学だと言うんじゃなくて、ハインラインだってアシモフだってJPホーガンだって、あるいはオレが中学時代少しエロい興味で読みふけってたバロウズだって(笑)文学だ。ちなみにオレも小学校のときは推理小説が好きだったし、純文学的なものは高校に入るまでほとんど読んだことが無かったな。高校時代には教師のすすめるままに読み狂った。まあ半分も分からなかったが。

…まあ、気の毒に思うのでもう少しサービスする。

今でも人を疑うのは好きではないが、そんなものは実戦経験で嫌でも身につく

「簡単に信用しない」といったのは「批判的(critial)にとらえて理解する」ということだ。「信用しない(distrust)」だけなら子供でもできるだろ。

と言うかその「高校国語」とやらははむしろ歴史部活の役割であって文学とは関係がないのではないか?

歴史」を学ぶことに文学を学ぶことと同じような効果がありうることは理解するが、それは歴史学本来の目的とは違って、単に歴史を「文学を読むように」読んだ結果ではないのか? また、部活動のような合目的的なある程度等質な人間集団で、真に「異質な他者・異文化との出会い」や「自分を遥かに超える思想体系との出会い」が得られるかどうかは難しいな。音楽系の部活動でなら、たとえば過去の偉大な音楽との出会いなどでいくらかそれに近い体験は可能かもしれないが、誰もが使っている「ことば」を媒介にすれば全体に対して正課の授業時間内でそれができるわけだろう。部活(のそういう効果)に意味があるのなら、より低コストにかつ誰にでも体験可能な形で、国語の授業時間内でそれを行うことにはもっと大きな意義があるんじゃないのか。

それに人を楽しませる文章は文学なのか?

時代小説ラノベ歴史書SFファンタジー推理小説は好きだが文学

少なくとも純文学とは言わないだろう

「純」文学というのは、文学の中のものすごく狭い(それも日本限定の特殊な)ジャンルに過ぎないので、その変な教師に教え込まれた変な定義正直忘れた方がいい。実は、増田の受けた教育の中でもっとも有害なのがその頑なな思いこみだと思う。俗に、教え込まれた「内容」よりも自然と学び取る「根本姿勢」こそ教育本質的価値だというが、増田の場合、まさにその「根本姿勢」の部分でバッチリその変な教師の影響を受けている(だから気の毒に感じるのだが)。

再度言うが、上で書いたとおりSFは当然文学だしラノベだって文学に決まってる(疑うなら、どこの大学文学部文学科の適当研究室電話して、気の済むまで聞いてみても良い、以下の内容も含めて)。大体「純文学」などというジャンル分け自体が、過去歴史上のある特殊な「考え方」に過ぎないというのが、現在の一般の評価。純文学新人賞という主旨のはずの芥川賞にしてからが、最近は(大衆文学新人賞という主旨の)直木賞と見分けがつかん、というより正直受賞作は逆じゃねえのか、と言われるようになって久しい今日この頃。だから、生徒に「純文学こそ文学!」とかそういう価値観押しつけてブンガクばかり論じたがる古い文学青年崩れの困った教師に教わった不幸には同情するが、とりあえずそれは忘れて、現代の「文学」観に目を向けるべき。たとえば、今や現代思想をまともに語れないようでは高等学校現代文教師というのはやってられないのだぜ。

その証拠に、昨今の大学入試の「現代文」というのがどういうものを取り扱っているか。小説(それも純文)なんてほとんど出ない。出るのは大抵現代思想関係で、ざっとキーワードを例示してみると「記号・身体・空間・言語論・メディア情報・文化論・芸術論・経済教育日本論・近代主義・心理学倫理学宗教歴史学国民国家テロ文明の衝突ポスコロ」……etcだ。大抵の国語教科書は、これらのテーマに可能な限り触れるようにしてるし、これ以外のマイナーテーマ(たとえば少数民族問題・沖縄差別風景論・都市論・スポーツ時間論・労働高齢化社会etc)を取り扱ってそれをウリにしようとしてる(さらに言えば、気の利いた会社なら、中学校教科書から生徒が自然とこれらのテーマに触れるように仕組んでいたりする)。教師はそれを意識して、生徒の理解力と相談しつつ、何をどのくらいどういうシステムで学ばせるか考えてる。このへん詳しく知りたければ「教養としての大学受験国語」(石原千秋)でも読んでくれ。さらに、小説の読解についても、「この小説テーマはなんでしょう?」なんて寝言を言って漫然と黒板の前でむにゃむにゃと自説を垂れ流してるようでは商売あがったりで、一行一言に込められた含蓄をあの手この手でどのくらい掘り起こせるか、読む作業の中にセンスオブワンダーを感じさせることができるか、たとえばわずか一つの比喩にどのくらいの意味と力が籠もっているかを解き明かせるか……それだけの文学理論の裏付けと力量が必要になる。これ全部「高校国語現代文)」の仕事なのだな。

それに、「学校国語」で扱える領域なんて、実際に大人が出会う「国語文学」の領域全体の広さに比べれば、庭の池みたいなもんだ。雑誌編集後記だってエロ小説だって新聞記事だって漫画だって、「ことば」の介在するコミュニケーションの領域は全てが「文学フィールドだ。その意味での「文学教育というのは、メディアリテラシー教育であり、社会学であり哲学教育であり、知的好奇心の喚起であり、ひいては大学以降のあらゆる高等教育の基礎を為す重要資質(少なくとも読み書きという点だけを取っても)の育成なわけで、これから「知の大海」に漕ぎ出す生徒にとって国語が必修科目であるのは当然すぎるほど当然なことなのだ。

まあそんなわけで、困った「国語教師」との出会いには重々同情するが、「国語」という教科の意義を疑うなら、これらが全部無意味だということを示してくれるか、あるいはそれを全て外の教科で代替する(たとえば論理的思考力の育成なら英語科の授業内で全て行う、とか、ギリシャ哲学に始まり構造主義と記号論に至るまで全て倫理で教えるとか、メディアリテラシー情報で、日本文化論は日本史の教師が、芸術論は芸術の教師が教える、とかしてくれると、かなり楽だが、多分嫌がられるだろう。なぜなら、これらを教えるための大前提としてあらためて『膨大な本を読まなくてはならない』から。だから結局、これらは国語の教師がやれということになってるのではないかと推測する。そんなわけでこれらの提案は余り現実的ではない。やれやれ。)現実的な対案を示して頂く必要があろうと思う。

どうだろう。増田の言ってるような狭い意味での「ブンガク」授業に価値がないということを否定しているのではない。むしろそこに関しては積極的に同意だ。こちらが言ってるのは、あくまで「国語」というのがもっと広い領域を扱っているということ、だからこそ「国語」を否定するのは間違いで、実際にそれは必要とされているのだ、ということなんだよ。

http://anond.hatelabo.jp/20080624192723

2008-01-26

教委主催講演会に行ったら、講師が「つくる会」だった件。

 

前書き

ほぼ記事タイトル通りの出来事があったので思わず匿名ダイアリー

(厳密には、八木氏はかつてはつくる会会長だったが、今はつくる会とは無関係

 

書くの初めてなので、読み難ければ申し訳ない。

 

先に書いておきますと、私は公立校勤務です。

で、私が勤務する地域では、「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書を採択しています。

 

この教育講演会教職員一斉研修会)は、教委が主催したもので、基本的に地区内の全職員(学校事務職員も含む)が参加しました。

 

講師は八木秀次氏(日本教育再生機構理事長)。

 

恥ずかしながら、誰だか知らなかったんですが。

 

忍び寄る何か

開会前、もらったレジュメを読んでいると、最初に出てきたトピック

“「不当な支配」の主体の転換”

という内容。

 

教育基本法の、

教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである(旧第十条)」

という規定が、

教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない(改正第十六条)」

と改められたことによって、服してはならない「不当な支配」の主体が、

 

before:政府の圧力

after:日教組などの職員団体

 

と変化しており、政府首脳部からもそのような見解に立った発言が相次いでいる……という鋭い指摘。

 

私としては、

「なるほどそうか……。これは大変だな」

と思ったわけなのですが、その先を読んだら

「……なんか違う?」

 

なにしろ、いざ講演が始まったら、この

政府=正当な支配」

「職員組合=不当な支配」

という立場を全面的に賞賛する論調でして。

 

日教組に参加してる職員が1%切ってる本地区でそんなこと言われてもな……。

(うちの地元には、「教職協議会」という、日教組とは別の組織があり、これが97%の組織率を誇っています。

方針としては、行政との対話路線。

私もそっちに入っています。

まあ、日教組の勧誘姿勢もアレだし。

新採の時、勧誘パンフが送られてきて。

ガリ版刷りの楽しげなパンフレットだったんですが、封筒に

「教え子を戦場に送るな!」

って書いてある。

言いたいことはわかるがちょっと引いた。)

 

内容は、なんというか、ツッコミどころ満載だったんですが、まず特に違和感を感じた点。

 

滅びこそ我が喜び。死にゆく者こそ美しい。 byゾーマ(DQ3)

講演の中で、エルトゥルル号の遭難とか、有名な“美談”がいくつも紹介されるわけですが、その中に真岡郵便電信局事件の話も出てきました。

 

第二次大戦末期、樺太ソ連軍が攻め寄せてきた時、最後まで電話交換所に残った女性達が、青酸カリを飲んで自決した事件です。

事件名とか知らなくても、

「みなさん、これが最後です。さようなら……さようなら……」

とかいう台詞は聞いたことある人は多いのでは。

 

で、八木氏は、自決した9人の女性電話交換手のことを、

日本人公共心の高さ、責任に殉じる態度が現れたもの」

とか褒め称えるわけです。

 

……ところで、これは教育講演会なんですが。

このエピソードを教育にどう生かせと?

 

彼女たちの行動こそ、日本人の鑑、責任に殉じる素晴らしい態度である。

お前達も、もし同じような状況に置かれたら……」

 

置かれたら?

 

自分の子どもになんと教えて欲しいかは、人によるかも知れませんが。

 

私としては、子どもたちには

「なんとしても生き残れ。命を大事にしろ」

……って、教えるべきなんじゃないかと思ったり。

 

ちなみに、八木氏は全然触れなかったことですけど、その時当直だった女性交換手は、全部で12人いたんです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B2%A1%E9%83%B5%E4%BE%BF%E9%9B%BB%E4%BF%A1%E5%B1%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

で、死ななかった3人は、最初は押し入れとかに隠れててですね。

そのままソ連統治下で職員として再雇用され、日本にも無事に帰ってくるんですけど。

 

彼女ら3人は、「責任に殉じ」て死ななかった駄目な日本人なんでしょうかね?

 

少なくとも、八木氏の言う

ソ連軍は、刑務所から出てきたゴロツキみたいなのを最前線の兵士として送り込むわけですよ。だから、女性は陵辱されたり恐ろしい目に遭わされるわけです」

……というのは、この場合は事実に即してないと思います。

 

……まあ、ソ連軍がひどかったのはわりとかなり事実だと思うんですけど。

 

また、沖縄集団自決の件について、八木氏は、

沖縄というのは、長らく琉球王国という日本とは違う国で、その後は島津の統治下になり、近代化されたのが他の地域よりも遅れた土地なんです。

だからこそ、日本人的であろう、という責任感が逆に強くなって、それでああいう事件が起きたのではないかと思います」

 

という、目の覚めるような主張を展開します。

 

なんで目が覚めるかというと、すごいアクロバットだから。論理の。

危険なのでよい子はまねしないでください。

 

もし沖縄県民があの場にいたらかなり血圧が上がったんじゃないか、と思うんですが、あれはたぶん、戦わずして論敵を脳溢血で葬ろうという高度な戦術なんだと思います。

危険なのでよい子はまねしないでください。

 

ていうか、「集団自決」と「責任感」がどうつながるのかそもそも良くわからんのですが。

なんか、とにかく死ね責任感がある、みたいな話で、日本文化の奥深さを感じました。

 

「命どぅ宝」のお婆さんは、やっぱり駄目な日本人なんじゃろうかね。

近代化が遅れた地域だからな。

 

あとまあ全般に言いたいことは山ほどあるんですが、重箱の隅つつきは後回しにします。

 

本当の戦いはこれからだ!(打ち切り

とにかく、こういう歴史観のリビジョン促すような講演会に、公務として参加させられるのが、本地区の実態なわけですね。

開会が14:00でしたから、どの学校も特別日課で対応したと思います。

本校でも、当日は授業を午前中で切り上げて参加したわけですよ。

 

もちろん、講演聞いてる間にも給料が出てます。勤務時間内ですから。

なんという教育予算の有効活用

 

内容に疑問を感じたのは何も私だけではなくて、翌日の職員室では批判大会

 

「○○中学校社会先生も、あれはひどいと言っていた」

「○○小の先生に聞いたら、あれは有名な右翼だと」

「終わった後、あの先生と偉い人達とで飲み会があったらしいから、八木先生は急いでいたわけじゃないらしい。なのに質疑応答の時間を設けなかったのは、意図的なものに違いない」

 

……ええーっとですね。

つまり、「つくる会」の教科書採用した地域の学校だからといって、教員が唯々諾々と「つくる会史観に染まるわけではない、ということですよ。

 

このことは、左右どちらの論者にも覚えておいて欲しい、と思います。

我々はロボットではない。

 

いや、染めることを目的にした講演会だったんでしょうけどね。

 

本地区では、教育長はじめ偉い人が「つくる会」の支持者です。

その一存で採択が決まったようなもので。

 

しかし、「つくる会教科書を採択した、というだけで、かなり外部からの批判にもさらされてるし、学校現場にも不満があるのが実態です。

なので、教育委員会の方針に疑問を持っている教員を「啓蒙」しよう、というのが、この講演会趣旨だったんだと思います。

 

しかし、今どき、中学生ならネットくらい使いますよ?

真岡郵便局には女性交換手が12人いた」

くらいのこと、10分もかけずにわかっちゃうわけですよ。

 

授業で、“公共心ある日本人”の美談を得々と語って聞かせたら、生徒から史実に基づいたツッコミが入る可能性くらい容易に予想されるじゃないですか?

そういう意味では、都合のいいことだけ書いた教科書というのは、発行する側は気分がいいかもしれないけど、現場人間にとっては迷惑そのものなわけですよ。

 

……ああ、そうか、授業で質問の時間を設けなきゃいいわけですね。

さすが日本教育再生機構理事長

率先垂範を地で行っておられる。

 

で、その他、「作る会」教科書を使ってると高校受験に対応できないとかいう現場の苦悩をよそに、首長とか教育長とか、講演会場の最前列に座っていてですね。

で、講演会が終わった時なんか、立ち上がって喝采してるわけです。

 

スタンディングオベーションかよ偉い人。

 

とりあえず絶望した。

現場がなんとかしないとならん。

 

重箱の隅つつき。

以下、こまごまとしたこと。

 

*紀元は2600年。

八木氏は、聴衆に「日本の建国はいつか?」と問うて、「それは西暦600から700年前後である」とします。

 

なぜなら、「日本」という国号が成立し、「公」の意識誕生したのがその時代だからだ、というのです。

ちなみに、ここで言う「公の意識」とは、天皇を中心とした中央集権体制の確立のことを指します。

天皇独裁者ではなく、「国家の公的統治を究極において体現すべき地位」だというのですね。

 

……飛鳥時代象徴天皇制だったのか。

 

八木氏は、「皇室ニッチ産業」だ、という、寛仁親王言葉引用します。

政府行政の足りないところを補う。それが、皇室の果たす役割なんです」

 

確かに、障害者スキーへの支援とか、結構なことですね。

 

「このような皇室の在り方は、古代からずっとそうだったわけです」

いや……そうなの?

 

革命史観

八木氏は、他の教科書にある

平安時代貴族は贅沢な生活をしていた一方、庶民は貧しく、奴婢は売買の対象だった」

……とかいう記述を「闘争的だ」と評します。

 

これらが、マルクス階級闘争史観子どもたちを導くものだ、というのです。

 

君の教科書もまっ赤っか! これはレッドベアーの陰謀だ! 愛國戦隊を呼べ!

 

……別に教科書記述は、富裕層の打倒とかを呼びかけるものじゃないし、そもそも平安朝だって、階級闘争によって打倒されたわけじゃないんですが。

なんでマルクス

明治維新を含めて、日本には「階級闘争」とか「市民革命」とかいうものはないんじゃないですかね。古い見解でしょうか?

 

明治維新は、公のために働くことを自己の使命と考えていた武士たちによって実現した改革だった」(「新しい歴史教科書」。レジュメの孫引き)

うわ新しい見解だ。色んな意味で。

 

そんなに昔から日本人の自覚とか公共の意識とかがあったなら、もう少し早く戦国時代が終わりそうなものですが。

武田信玄「こうして同じ日本人同士が争っていても仕方がないじゃないか!」

上杉謙信「そうだとも! 天皇陛下の元にはせ参じ、一つの国を作ろう!」

……みたいに。

 

八木氏によると、現在学校教育では、歴史教育で闘争的姿勢を学び、公民教育で具体的な闘争目標を与えられている、というのです。

 

その闘争目標とは、電通経団連の打倒……ではなく。

「公民教科書には、夫婦別姓など、まだ法的に定められてもいないトピックが取り上げられている」

とかいうのが「闘争目標の提示」だと。

 

……ずいぶんせこいマルクス主義ですね。

 

歴史に学べ。歴史は繰り返す。

仮に、八木氏の言うとおり、飛鳥時代平安時代がそんなに素晴らしい時代だったとしたら、逆に言って、日本社会は1400年の長きにわたって大して進歩していないことになるんですが、それでいいんでしょうか。

 

奴婢の話とかって、私は

「私たちの社会は、昔より良くなっているのです」

って趣旨の話だと理解していたんですが。

人類歴史進歩と改良の歴史なのです。私たちも、もっともっと素晴らしい世の中を作っていきましょう。明日が今日より良い日であるように」

的な。

 

八木氏に言わせるとこれも「闘争的」なのかも知れませんが。

 

私としては、貴族平民に大きな差があったとか、事実なんだから仕方ないんじゃないか、と思うんですがどうでしょう。

八木氏も、それが「事実ではない」とは言わなかったし)

 

都合の悪い歴史事実は教えない、という態度の方が、むしろ我が国を危機に追いやる気がします。

それこそ、遺伝学におけるソビエトルイセンコ学説みたいに、学問イデオロギーに従わせようとした挙げ句、研究開発で西側に後れを取るような。

 

まあ、「歴史科学ではない」が、「つくる会」の立場なんだそうですが。

 

でも、望ましい思想を注入するために、歴史事実の方を改変する、っていうのは、それこそ共産国十八番なんじゃ。

ソ連生まれのくせに白頭山で生まれたと称する誰かさんとか。

 

日本の伝統を尊重しよう。祖先精神を大切にしよう。

基本的に「公共の意識」だけで日本の歴史・文化を語ろう、というのは、無理だと思うんです。

「恥の意識」とか「武士道」とかと同様、一言で語りきれるほど、日本人精神というのは浅薄なものじゃないんじゃないでしょうか。

 

そもそも、「公共の意識」が飛鳥時代から日本にあった、という主張自体いかがなものか。

確かに「公」という漢字自体は大昔からありますが、古文に出てくる、「公家」とかいうときの「公」と、「public」の訳語としての「公」を同一視するのは誤りだと思うんですが。

八木氏は、「公共」の意識が近代になって成立した、というのは誤りで、日本人日本人としての自覚はずっと以前から存在した、と言うんですが、それは逆に言って、国民国家建設のために尽力した明治の人々を愚弄するものではないでしょうか。

 

ちなみに八木氏は、中教審が、縄文時代記述を重視するよう議論しているのに不満を表明しています。

縄文時代は公共の意識が発生していない」=「日本ではない」

から、というわけですが、これは循環論法ではないですかね。

 

日本あけぼの」って言えば、普通縄文時代を指しますし。

逆に、明治憲法現行憲法の発布、あるいは江戸幕府なり鎌倉幕府なりを「日本」の成立、と見なす立場だってあり得るわけで。

 

縄文人だって一生懸命に生きていたのだし、彼らが苦労して稲作技術を会得していったからこそ、現代の日本があるわけで。

縄文人は日本人じゃない」という言いぐさは、縄文人に失礼だと思いますが。

 

八木氏は、チェスタトンの「伝統とは選挙権時間的拡大」「死者には墓石投票してもらわねばならない」なんかを引用して、伝統の大切さ、先祖の意思を尊ぶべきことを訴えるわけですが、縄文人は先祖じゃないらしいです。

……天孫降臨

 

ちなみに、八木氏が引用した中には、相田みつをの「自分の番 いのちバトン」とかまで含まれるんですが、相田さんってそういう主義の人だったのか。

走者がバトン渡す前に死んだらリレーにならなくね?

 

ところで、八木氏は「死者の民主主義」(チェスタトン)がお気に入りのようですが、私はむしろ、「地球は子孫からの預かり物」(ケニアのことわざ)の方が好きです。

死んだ世代の意思よりも、次の世代の幸せの方が重要だ、と、私は信じます(これでも学校関係者のはしくれですから)。

 

……ケニアのことわざの割に「地球」とか、かなり超訳の気配ですが。

 

*美しい日本語を守ろう。

八木氏、「屋久島の灯台守り」という、これまた美談を紹介してくれたんですが。

 

「顔は土気色」を「どきいろ」ってあんた。

一瞬、弥生式か縄文式か悩んじゃったじゃないですか。

 

自分で持ち込んだ資料が正しく読めないって、早稲田大学法学部卒が泣くぞ。

 

日本の文化がどうとか言う前に、八木氏はまず日本語くらいちゃんと読めるようにすべきだと思います。

 

返信欄

なんかあれこれコメントをもらってるようなのでここへ部分的に返信。

 

教育委員会主催講演会とかに行って何かを得たことがあるの?

ありますよ。

まあ、教育関係者の講演、というのは、聞いてすぐに教室で使える内容が多い一方、似たような話も多い……というか、教育界の通念を上手にまとめただけの、刺激に乏しい講演も多い、とは思います。

……ちょっと今回は刺激的すぎましたが。

 

>その場でぶつけてくれたら面白かったのに。

まあ、チキンなので。

 

偉い人が「つくる会」支持者で、しかも同席してるわけですから。

そこでこれだけのことを言ってしまうと、後々どんな処遇を受けることか。

 

それはもう、陵辱されたり恐ろしい目に遭わされるわけです。(流言)

 

それに、ここに書いた内容は、これでも推敲した内容です。

これをとっさに思いつける程度には賢くありたいのですが。

 

っていうか、偉そうなことを書いておいて恥ずかしいのですが、「女性交換手が12人いた」ということもその時は知らず、家に帰って調べてわかった次第。

 

でも、何か質問はしてやろう、とは思っていて、講演の間中必死で考えていたのも事実

古代以来、皇室ニッチ産業としての役割を果たしてきた、とのお話でしたが、私、不勉強でそういったことを存じませんでした。

そこで、例えば平安時代朝廷が、そういった役割を果たしていた、という実例を2・3ご教示願えるとありがたいのですが……」

くらいのことを聞いてみよう、と思っていたのですが、本文で書いたとおり、質疑応答の時間がなかったので不発に終わりました。

 

>自分のはてなダイアリーで書いたら?

少しでも匿名性の高いところで、と思ったのです。

何か使い方として問題がありましたら申し訳ない。

(ていうか、そもそもこの内容自体トラックバックで返すべきなのかも知れませんが、匿名ダイアリーに慣れてないので、返信があちこちにばらけるのが落ち着かないのです。なんでコメント欄がないんだろう)

 

こんなにブックマークをもらうとは思ってなかったのでちょっと動揺しています。

偉い人にばれたらどうしよう。

 

>「教職協議会」つーのは要するに「全日http://www.ntfj.net/tanidantai/」系団体だよね。共産党系の。

右寄りではないかも知れませんが共産党系とも思ってなかったのですが。「美しい日本人」がどうとかこうとか。どうなんでしょうか。

会員でありながら組織背後関係とかは知らないのです、申し訳ないです。(でもたぶんみんなそう)

 

>教師という連中が本当に馬鹿ばっかりでイデオロギーの固まりだということが良くわかった。

ククク、その通り。だが、気付くのが遅すぎたようダな……(ロシア訛り)

今や日本教育は、我がレッドベアーの(不当な)支配下にあル!

あと10年もすれば、この国はコミンテルンの軍門に降るだろウ……!(遅すぎる)

 

馬鹿冗談はさておき。

大学になるまで歴史教えるのやめちゃえば?自分で判断して学ぶまで教師の馬鹿どもから余計なノイズを入れないで欲しい

難しいところですね。

 

おっしゃるとおり、批判精神の薄い子どもに、イデオロギー教育をするのは禁忌だと思います。

 

その一方で、基本的な歴史知識は、全国民が持っているべき教養だとも思うのです。

そして、大学専門教育の場であるべきで、そういうことに時間を費やすべきではないと考えます。

だから、結局は義務教育に基礎的な歴史教育を盛り込まざるを得ないのではないかと。

 

その内容としては、重要歴史事実を教えるにとどめ、それをどう解釈するか、という思想的側面は、個々人に任されるべきだと思います。

 

……もっとも、「歴史事実」というのは現実にはほとんど無限存在するわけで、その中から何を「重要」として採り上げるかに、思想的問題が絡んで来ざるを得ないのも事実ですが。

エルトゥールル号を採り上げて奴婢は省くのか、その逆をやるのか。

 

でも、できる限り中立であろうとする姿勢は必要だと思います。

2008-01-17

なぜふた問題

セックス恋愛関係婚姻関係=親子・兄弟・家族関係

という、ロマンチックラブ・イデオロギーに支配されているから。

すべては「親子関係」から敷衍されるなりー。要するに構造主義

構造主義であきらかになった、人類最大のタブーは?

インセスト近親相姦)ですねー。

で、ほとんど全ての民族において、インセスト(正確に言うと「血と財産の交換を妨げるもの」)を忌避する社会規範がある。交叉イトコ婚とかまあそのへんは文人の書籍読んでください。で、その最も普及したバージョンが一夫一妻制で。で、本来的な意味で言えば、家族形成と恋愛関係セックスは切り離して考えることも可能。でもやっぱり西欧由来のロマンチックラブイデオロギーではそれは一つ(じゃあなんでロマンチックラブが支配的なの? ってゆーとそれはまた明治政府国民国家形成に向けた情宣戦略が云々となってめんどくさいのでパス)。

なので「二股は悪」ですねー。

あと「村社会では乱婚云々」と言ってるひとは、婚姻・親子関係セックスを混同してるのでダメー。「原始乱婚制」は存在しない、というのが定説

ていうかあれだな。そもそも「二股」を定義しろ、という話だな。

女「ねぇ、どっからが浮気?」

男「中で出してないからやってないよ!」(c)リリー

みたいな!

2007-08-27

http://anond.hatelabo.jp/20070827014731

まとめトラバに乗っかってまとめ感想

なんつーか、多くの増田ロマンチック・ラブ・イデオロギーというか「恋愛結婚出産」の三位一体にとらわれすぎててアレすぎる。というかむしろ戸籍信仰か。

戸籍制度上の婚姻なんて、「公的な優遇がある」というメリットがあるからするようなもん(逆に言えば、そうでもしないとみんな婚姻届を出さなくなって、国が戸籍を把握できなくなって徴税とか徴兵に困るからしてる)だと思ってる。それが逆に「離婚した方が今は得かも」となれば結婚してる意義は積極的に無いじゃん。

個別に。

「戸籍に傷が」とか、そんなもんそれこそ結婚の時くらいにしかデメリットにならんのに。事実婚してるならそれはぜんぜん無視できるだろ。

子供が理解できるようになってから」とか今じゃねーととりっぱぐれるのを分かってるのに詭弁を弄するのはやめろよ。むしろ小さいころから、結婚という制度にロマンを求めさせるのは明治以降の、つまり国民国家国民皆兵国家イデオロギーなんだよ。分かった上でロマンに酔いたいならそれはそれでいいけど、って教えてやればいいじゃねーか。

「奥さんが勝手結婚しちゃっても文句言えない」。ふーん。あそー。それって現象自体は結婚しててもしてなくても起きるよね。つまり結婚てのは逃亡に実際的なデメリットを科すための、懲罰制度なんだ。まあそういう面もあるよね。

離婚】という文字にトラウマがある人がいるのも分かるけど、それは離婚という手続きじゃなくて、親子の関係やら親同士の関係っつーリアルな現象が問題なんじゃねーの。

つってもまぁ離婚後の公的扶助は本当に苦しい人のタメに作られたもので、フリーライダーといやーフリーライダー。なので、「国民血税を!」とか怒る手はあるかも。逆の逆に制度の「意図」なんか知ったこっちゃねー! というスタンスも正しいけど。

2007-04-21

http://anond.hatelabo.jp/20070420235200

ん?ちょと文意が伝わらなかったっぽい

そう割り切ってもいいのだろうけど

ちなみに一つの例として「社会は『最大多数の最大幸福』を求めるべきである」ということも否定してないわけだが、

過去には、多数の幸福を願うあまり悲惨な事例を招いてしまうような難しい地域もあったよな、くらいで

ざっくりと考えておくんなまし

国家の規模云々を言ったのは、その最大多数を形成するベースになる国民国家の枠が不安定だったりしたときに

「最大多数の最大幸福」はどんな風に揺らぐのかな?「最大多数の最大幸福」でFA、で本当にOK?

みたいな含意でした

「最大多数の最大幸福」が実現できない国家は滅びてもOK?

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