そこにあるのは作者の世界観そのままであり、介入する余地が微塵もない。傍観することしかできぬ。
文字や絵にとどまらぬ世界観描写に加えて、我の思想を反映できるゆえ、我が生きていることを感じられる。
例えば女の子だけで冒険したいんじゃ!と思えばそのようにできる。
それが何よりも重要であろう。
電書端末上に何千何万の書影を積み重ねても、そこに主は存在せぬ。
ゲイムであれば自分の満喫したゲイム体験は、自分だけのユニイクなもの。
画面は人それぞれ違う。それがなぜ重要なのか。
我はこう思う。
皆が同じものを見て似たような感情を共有する時代は、不健全だと。
世界の多様な可能性に対する想像力を著しく狭め、いずれは価値観の断絶を生むのだと。
誰もが違うものを見ていることが当たり前であれば、より世界はフレクシブルになる。
「同じ」ことを喜ぶ時代から前へ進むことだけが、寛容性を養う。
そうは思わぬか。
https://ken-horimoto.com/20181228115315/ が起きていると思うと気持ちが楽になってきた。
仕事でテキストコミュニケーションがあったんだ。相手が長文のコメントをくれたんだけど、僕にはどうも飛躍しているようにしか見えなくて、30分くらいかけて筋の通ったと思った読み方をみつけて、自分の解釈を確認するために、相手への返信に「〜ということですよね?」という質問を2つ返すと、2つとも相手の主張と異なる旨の返事が返ってきた。
今までもこの人の主張を読み取ることに苦戦したけどやっぱり今回もダメだった。
なぜか、この人の発言そのものがハイコンテキストという感じがする。会話ができる気がしない。抗不安剤を飲んでいるけど死にたいとまた思った。退職するか〜という気持ちになったが、そもそもコミュニケーションは難しいので退職に値しないという気もしてきた。それはそうとして死ねば全て解決するから死にたいんだよな。
9月28日から毎日一往復でもラインしてたのに、昨日の21時に私が返事した以降は未読無視。追撃もできないから私はひたすら待つだけ。ずっと未読のまま明日の朝を迎えて、今までもラインなんてしてなかったみたいな日常になるのかな。もう会えないのかな。もう名前呼んでくれないのかな。くそやろう。くそやろう。何見ても思い出が頭に流れてくるよ。つらい。