そこにあるのは作者の世界観そのままであり、介入する余地が微塵もない。傍観することしかできぬ。
文字や絵にとどまらぬ世界観描写に加えて、我の思想を反映できるゆえ、我が生きていることを感じられる。
例えば女の子だけで冒険したいんじゃ!と思えばそのようにできる。
それが何よりも重要であろう。
電書端末上に何千何万の書影を積み重ねても、そこに主は存在せぬ。
ゲイムであれば自分の満喫したゲイム体験は、自分だけのユニイクなもの。
画面は人それぞれ違う。それがなぜ重要なのか。
我はこう思う。
皆が同じものを見て似たような感情を共有する時代は、不健全だと。
世界の多様な可能性に対する想像力を著しく狭め、いずれは価値観の断絶を生むのだと。
誰もが違うものを見ていることが当たり前であれば、より世界はフレクシブルになる。
「同じ」ことを喜ぶ時代から前へ進むことだけが、寛容性を養う。
そうは思わぬか。
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我は書を好まぬ。小説であれ漫画であれ変わらぬ。 そこにあるのは作者の世界観そのままであり、介入する余地が微塵もない。傍観することしかできぬ。 我が好むのはゲイムだ。そのイ...