書き残したいことは3つ。
2. しかしその良くないことに対する世間の反応と当事者の応答というものが別個に存在する。そちらは飲み会自体とは比べ物にならないほど酷い。この状況が気持ち悪いことだと多くの人に認識して欲しい
3. 上記2点とは全然別のこととして、YouTuberの地位はやはりどんどん上がってきているし今後も上がっていくだろう
まず前提としてYouTuber31人のやったことは当然褒められたことでは無い。自分が親なのであればあれはいけないことだと子供に言わなければならない。100歩譲ってやむにやまれず集まって飲み会するならまだしも外に出てタバコ吸ったりとかする必要はあったのかとか思う。
しかしそんなことはこの際どうでも良いことである。だってどうせ1ヶ月くらい経ったら誰も覚えてない。いま批判している人たちもほとんど完璧に忘れるだろう。
悪いことをした人がいる。批判される。謝罪する。こうしたことは日々日常的に起こる。しかし今回の件はすこし様相が違う。31人がすべてYouTuberであり、俺の見る限りほとんどの奴が謝罪動画を出している。こんなことはかつてなかったのではないか。そしてこの光景がもたらす教育効果というのはかなりヤバいものなのではないだろうか。端的に言えば俺は全体主義国家とはこういうことなんじゃないかと思ってしまったのだ。
2021年のコロナによる緊急事態宣言下であんな飲み会をしたことが報道されれば、そりゃあ何を言われても仕方ないだろう。そしてその通りに猛烈な批判が起きた。そこまでは良い。
そして複数のYouTuberが謝罪動画を上げる中、ある女性YouTuberが一風変わった反応をしていた。その動画ではタイトルこそ「謝罪します」といった趣旨のものではあったが、サムネ画像は丸坊主姿に画像加工された姿でその時点でややふざけた雰囲気がある。そして動画を再生するとややコミカルで明るいトーンの、「炎上あるある」的なものを歌っている本人の姿が。
単に謝罪するのでは無くすこし変わったことをしようという意図だとは思われるものの、とてもセンスの良い / 面白い内容とは言えなかった。そしてまた当然のようにその動画に対しても猛烈な批判が渦巻いた。はっきり言って俺はこの女性YouTuberがなにをしたいのか分からなかった。こんなことをすれば火に油を注ぐのは当たり前にわかる。彼女ら(実際には炎上した女性YouTuberはグループYouTuberの一員である)は登録者数100万を超える実力があり、それであればこの事態は容易に予想できたはずだ。だからこそ、あえたこのような動画を出したのにはなにか意図があるはずだと考えたが、それがわからない。
ただそれはそれとして、31人の中で1人くらいこういうことをする人がいるというのも分かる話だとは思った。どうせほとんどの奴らが謝罪動画のように100%反省しているはずもなく、炎上がおさまるまでおとなしくしていようと思っているはずだ。だからこそ全員が定型的な謝罪をするだけではなく、ちょっと変わったことをする人がいるほうがむしろ健全とまでは言わないものの、実態を反映したあり方であり健康的ではは無いかとおもった。
つまり何が言いたいかというと、女性YouTuberによるふざけた謝罪歌動画は批判は当然であると同時に批判される価値があるような面白いものでは無く意味不明だったのだが、今回の報道に対する反応全体の一部として考えればそれなりに存在意義のあるものだと考えていたのだ。
しかし今朝確認したらふざけた謝罪歌動画は消され、改めて真面目な謝罪動画が出されている。そしてその中で語られていたのが「自分はそこまで悪いと思ってなかったので、自分たちらしい反応を示したかった」といったことだった。
要は
①ここまで批判されることは予想していなかった
②だから消した
であり、ふざけた謝罪歌動画はとくに深い意味のない動画だったのだ。
そしてまたこの動画のコメント欄も荒れまくり、ますます強く批判されていく。そして現状ほぼ全員が謝罪動画を出している状況になった。
ここまでの経過を通して、このような外から目線の論評というものが皆無である。ふざけた謝罪歌動画が消えたことによって第三の要素が消え、批判する人と謝る人しか存在しなくなった。俺はこの状況がすごく気持ち悪い。緊急事態宣言下での飲み会の是非とはまったく別に、こうしたメディア的な現象について語る人がいない。YouTubeごときをそんな真面目に語る価値があるのかと思われるかもしれないが、文藝春秋が取り上げて様々なニュースサイトのTOPを飾る程度には報道価値があり、31人という規模であればそれぞれの固定視聴者はかなりの数になると思われる。そして視聴者の多くは10代〜20代の若い層であり、長い目でみても社会的な影響力は小さくない。よって語られる価値は十分にあるはずだ。にも関わらずそうした言説が皆無なのは何なのか。こうしたことを考えている人はいないのか。いても語る場がないのか。
このことを通じて思ったのだが、世の中の風通しが悪いとか全体主義的であるというのは、「ある人物・ある出来事に対しての批判ができない」ということではもはや無いのだろう。少なくともインターネットがあれば批判自体はいつでもどこでもできる。問題なのはそれら全体を俯瞰して語るメディア的な言説が存在しないことである。飲み会が良いとか悪いを一旦横に置いて、「飲み会をした人が批判されている状況」を語る人がいないというのが現状であり、それは全体主義的であると感じる。要はその意味ではいまの日本は部分的に全体主義国家であってそれはどんどん拡張していくだろう。
念の為書いておくがここまで「批判」と言い表してきたのは主に飲み会YouTuberたちに対するニュースサイト内のコメントだったりYouTube内でのコメントなどだが、それらは本来の意味での批判とは言うに値せず、小学校の学級委員が担任の先生に胡麻を擂るようなレベルのものであることはいうまでもない。だがそれはそれでよくて、ネット上のコメントなんてそんなもんだ。しかしそうしたコメントの集積をひとつの現象としてとらえて語るような言説がなければ、小学校の学級委員は永遠に小学校の学級委員のままではないか。
この増田が仮にバズればそれにも批判が出るのだろう。ネット民として俺はそれを受け止める。しかしその現象全体に対する分析をする人がどこかにいてほしい。
で上記とは全く別にYouTuberの影響力は増していくだろうと思った。だって「あなた達が飲み会をやったら良くないですよ」と言われるような存在になったんだから。
「長ぇ…」とは思ったけども所々「わかる」みたいなところがあったので書いておく。 ・基本31人飲み会はOUT その通りだ。 確かに他の都市と比べて東京はマスクしない人が増えたり、...