はてなキーワード: 感動とは
バブルがはじけて 疲弊して 世紀末で
生きにくいと感じる人たちが増えてきていて
でも精神病っぽい話題なんてまだ表だって人と話せなくて
そんな世の中で、あの時代の人たちの心情をあれほどうまく映像化した作品は無かった。
人と社会・他者っていうテーマはやはり普遍的だったし、それに至る演出力が類い希だった。
ただのオタ層を越えてOLとかリーマンとかにもうけるような存在になっていったのは事実。
テーマ性でもってエヴァに感動する人は心情の書き方・演出に心うたれてる人が多いと思う。
「アンタ私のこと何も知らないじゃない」
「だってアスカは何も言わない、何も言わないのに分かってくれなんて無理だよ。」
小説は描写が細かく書かれるのに対して、ssや携帯小説は行為のみしか書かれない。
なぜなのだろう?
小説は、読むと疲労してしまうが、だれでも同じように感動する。
vipのssや携帯小説は、一般の読者には理解不能だが、ssならば漫画やギャルゲーの、携帯小説ならばレディースコミックの文脈を知っている読者には感動を持って受け入れられる。
【なんとなく、考えたこと】
小説の分量の多さは、行為を読み取るべき文脈を規定している。
だから、文脈が読者層によって外から規定されているssや携帯小説には分量が不要になる。
★
しかし、多くの読者は物語の描写ではなく、行為を読みたがるのも事実だ。
ではなく
という事実の方だ。
それに、小説を読み飛ばすとき、地の文を無視して会話だけを読んだ経験は誰にだってあるはずだ。
このとき読者は会話という行為だけ読み、そのときの声色がどうだったかという描写を読み飛ばしている。
本当に小説は、あんなに文章量が多くて良いのか?
成長して立派になった自分像に憧れる。
たとえば毎日筋トレしてムキムキのマッチョマンになったとしよう。
鏡に映った肉体美に優越感を感じ、僕は幸せで胸いっぱいになるだろう。
……ほんの一瞬だけ。
毎日筋トレ?
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
しんどい、ダルイ、めんどくさい。
そんな毎日を送って何が楽しい?
ひたすら苦痛の毎日を送って手に入れたものって、
手足が動くことも、五感が使えることも何もかもうれしくない。
じゃあ、何のために努力してたの。
僕はそれを手に入れて、喜びを得たいと思っていたのに。
いつの間にか、毎日苦痛を感じることに喜びを感じろと言われる。(誰に?)
いつの間にか喜びの対象をすりかえられる。
馬鹿じゃないの?
あほうなの?
何が何だかわからない。
わけもわからず、「むかつくっ!」と声を張り上げてる。
ああむかつくっ!むかつくっ!むかつくっ!むかつくっ!
彼氏いない歴=年齢が社会人になってくると、いい加減もう口には出来ない。昔からの友人はともかく。
中堅大学出身。大学生になって恋人が初めて出来た、という友人も結構いるような環境だったけれど、完全に乗り遅れてる。別に乗ったからってなんだって話だが。
最近、自分がなぜ彼氏が出来ないのか、ということをしみじみ実感したので、走り書き。
1.自身があまり恋愛に対してガツガツしてない。
中学生くらいから女子の間で真剣に繰り出される「好きな人誰?」という質問が苦痛だった。別にそんな人おらんっちゅーねん。で、いないとか言うと「嘘だー」とか言われ、勝手に誰々が好きなんだ、とかくっつけられている始末。中学生はとくにひどい。大学でも恋愛話で盛り上がっていた友人たちに秘密主義だと散々言われた。ネタがないだけだっつーの。
2.鈍感
周囲の勝手なはやしたてにウゼェェェェェェ!!!!状態。あれが女子からのネタだったのか何なのかは今でも不明。お年頃のときはシャットアウトするしか術を知らず。そうして培ってきた鈍感力。男心の下心を理解する余地もなく、もしかしたらのもしかしたら、向こうが好意を持ってくれてた可能性があっても、ほんとうに友達としての付き合いしかせず。マジで男女の機微というものに疎く育ってしまった。友達に彼氏が出来たとかも言われないと気付かないし、友達と恋人の付き合いの違いも、見ていてあからさまでないとわからん有様。自分ひどすぎるww
3.他人を受け入れるだけの心の余裕がない。
正直に言うと、上の2つの理由なんかよりもずっとずっと、この理由が深刻だと考えている。自分がやりたいこと・人付き合い、そういった範囲が狭められることをどうしても想像してしまう。それなりに相手と自分の趣味が似ていたとしても。
そして踏み出したことがないせいだと思うが、今まで築いてきた人間関係よりももっと距離を近しくして人と付き合うということに、ためらいを感じている。やったことがない恐怖、というものだろうか。自分の心が縛り付けられるような感情が同時に湧いてきてしまうのだ。
いや、頭ではわかっているつもり。感動を分かち合える相手がいることや、お互い支え合える関係があることの素晴らしさを。
しかし、自分の尺度でまだ考えづらい部分がある気がする。あとは非常に真剣に受け止めすぎるんだと思われ。ちゃんと好きになって付き合いたい、だとかそんなん。自分の心が火が点きづらいのに何いうとんねんって話だが。
あとはおまけ。
4.ひねくれもの
好きなものを好きと表明しない。これ少し直さないとなww
5.はっきりしてしまう
ものごとにはグレーゾーンがあるというものです、はい。
ということで、過去を知らない友人(特に男友達とか)からのさりげない、昔の恋人に触れるような恋愛ネタとかに、時折恐怖しつつ、もうちょっとゆるゆるで考えてもいいかな、と。けど、やっぱり最終的にセックスするって考えると、肌が合う人じゃないとヤダなーというワガママはきっと忘れないww
(ブックマーク数がとんでもないことになったため、元増田はうかれている。なので匿名ダイアリーなのに、ペンネームまで書いてしまった。タイトルに大きく、須江岳史、と。しかし、プロの小説家でもない一人のプータロウが書いた文章がこんなにもてはやされることを、すこし疑問にも思っている。ちょっと足を伸ばして図書館に行けば、小説の書き方についての本はいくらでも手に入るはずだ。何かを学び取る目的ではなく、長すぎるからブックマークしておいた、というのなら、納得する。というかこの論は物語と小説をニアリーイコール扱いしていて、小説論としてはちょっと古いというか、語りという小説の大問題がスルーされていて厳しい。という指摘も当然のことで、普段、一人称の小説ばかり書いている自分には、人称とか視点とかいった物語を語る上での問題について取り組む実力は無い。「小説は自己表現なんだから、各々が語りたいように語ればよいと思う」のような言葉で、逃げることしか出来ない。僕の小説の実力がどの程度かは、http://texpo.jp/texpo/disp/16732を読めばわかると思います)
Ⅰ、小説概論
まず話の筋の作り方を考え、次にそれをどのように小説として表現するかを見、最後に小説を書く上での国語的諸注意事項を述べる。
そもそも小説がどのような構成要素から成り立っているかを考える。
まず、小説だけではなく物語一般の話の筋がどのように出来ているかを考える。
多くの物語は、欠損-充足の形を持つ。多くの物語は主人公に何かが足りない状態から始まり、それが満ち足りた状態で終わる場合が多いということである。
また、満ち足りた状態にたどり着くためには満ち足りた状態になるための行動が必要になる。そして行動をとるためにはその機会が与えられないとならない。
ここまでをまとめると、物語の筋は
欠損 – 機会 - 行動 - 充足
となる。
具体例としては、
少女は城で行われる舞踏会に行き、王子に会いたかった(欠損)。そして王子に会うことが出来た(充足)。
ただ、物語の面白みのためには、充足が起こらないほうが良いかもしれない。行動の結果が、充足の起こらない失敗に終わり、それが新たな欠損となり次の話の筋を紡ぎだすこともありうる。
よって、物語を構成する基本的な四つの要素は
欠損 - 機会 - 行動 - 結果(充足または失敗)
であるとする。この一連の流れが組み合わさることによって、物語は出来上がる。
具体例としては、
少女は城で行われる舞踏会に行き、王子に会いたかった(欠損)。そして王子に会うことが出来たが、十二時の鐘がなったので帰宅しなければならない(失敗に終わった結果、新たな欠損)。
少女は名乗り出て靴をはく(行動)。
後味の良し悪しの面から見て、最終的には充足で終わった方が良いように思われる。
また、欠損があって、それを解決する機会を与えられれば物語が始まることがわかる。
また、欠損を細分化したうえで見つかる欠損というのも考えられる。
たとえば、
鬼を退治するためにはお供を仲間にしなければならない。お供を仲間にするためには黍団子を持っていなければならない。
黍団子を持つためにはおばあさんから黍団子をもらわなければならない。
おばあさんから黍団子をもらうためには黍団子の材料を買ってこなければならない。
というように。
このようにすれば物語はいくらでも引き伸ばすことが出来る。書くべき物語の分量によって、どの程度まで細分化できる欠損なのかを慎重に選ばなければならない。
一つの物語で充足される欠損は一つとは限らないし、主人公たちの欠損が充足されるとも限らない。『ロミオとジュリエット』では、主人公たちの恋愛は成就しないが、キャピュレット家とモンタギュー家の関係が、対立から和解へと移り変わる。
物語は、話の筋それ自体で面白いことが最善であるけれども、それが出来ない場合には伏線によって面白さを増幅させるしかない。
ここでは、仮に伏線には四種類あるとする。
ⅰ)質問―答えⅱ)ある現象/行為への意味の付加―行為/現象の再現
ⅲ)行為・現象―行為・現象のリフレイン
ⅳ)思い込み―認知
それぞれ、順を追って説明する。
物語冒頭に置かれた質問に、ラストシーンで答えることで感動を増す。
具体例:どうしてキノはこの汚い世界を旅しているの?(冒頭の質問)
ある現象・行為にはある意味が隠されている、と登場人物が語り、その現象・行為が実際に現れる。
『アヒルと鴨のコインロッカー』だと、
『「(とにかく面倒だから、神様を閉じ込めて、全部なかったことにしてもらえばいいって。そうすれば、ばれない)」』(70ページ)という免罪の方法を提案して、実際に物語の最後付近でそれを行っている。
物語の中で起こった行為・現象が物語の終盤で再現されることにより、面白みが増す。
『アヒルと鴨のコインロッカー』だと、
『聞いてるわたしにも、どうやらこの姉弟がレッサーパンダを盗む気らしい、ということはわかった。』(216ページ)『動物園を振り返って、「さっきの子供たち、うまくやり遂げるかな?」と。』(222ページ)
というようなレッサーパンダを盗むという行為があった上で、
『「あれ、レッサーパンダだ」』
『「盗んだんだよ、あの子供たちは」』(339ページ)
間違った方法を目的を得るための方法だと思い込み、それが間違いであったことに気づく。多くの場合、気づくまでに行ってきた行為が主人公に、行為の目的とは反対の結果を持って跳ね返ってくる。
物語の筋が悲劇的に終わっても、ⅰ、ⅱ、ⅲの伏線が幸福を含意していると悲劇性を和らげることが出来る。
目的達成を阻むものが、あるものだと仮定して行動していたが、その仮定が正しくなかったことに気づくタイプの伏線。多くの場合、気づく前の行動が気づいた後に本来の意味とは反対の意味を持って主人公に跳ね返ってくる。
認知は、約束―報いの伏線によって引き起こすのが最も容易である。
主人公の目的を阻むものは四種類ある。カッコの中の左側は存在場所、右側は存在原因を意味する。
(自己,自己)例:主人公の性格の欠陥(他者,自己)例:主人公に対して恨みを持っている敵
(他者,他者)例:絶対悪
敵の仮定が4パターン、真実の敵が4パターンあるので、認知型の伏線には全てで16パターンあることになる。
これは、『あらすじ.com』の三匹のモンスターの概念を内包している。
(自己,自己)狼男(自己,他者)対応しない
(他者,自己)フランケンシュタイン
(他者,他者)ドラキュラ
物語には六種類の登場人物がある。
主体:物語の主人公。欠損を解決する。送り手:主人公に、欠損を解決する動機を与える者。
援助者:主人公に、欠損を解決する能力を与える者。
受け手:欠損の解決の享受者。
敵対者:主人公の欠損解決行動を阻む者。
それぞれ、同一人物が複数の行為項を演じても良いし、ひとつの行為項に複数人が入っても良い。たとえば、送り手と援助者が同一人物であることは大いにありうる。また、それぞれが必ずしも人間である必要もない。
欠損ごとに行為項モデルは立てられるので、ある場面では敵対者であった存在がある場面では援助者になることもありうる。
物語に出てくる全ての欠損について、行為項モデルの六つの登場人物を生めることが出来れば、それ以上の登場人物は物語に必要ではない。
物語の冒頭やクライマックスを盛り上げるためにシチュエーションは使われる。
面白いシチュエーションとは、即ちギャップである。
それは場所と行動のギャップであるかもしれないし、それまである登場人物のそれまでの行動とはかけ離れた行動かもしれない。いずれにしろ、「~であるにもかかわらず」という言葉で表される。
たとえば、「日ごろ温和な性格であるにもかかわらず、暴れ狂う」とか「静粛でいなければならない図書館であるにもかかわらず、暴れ狂う」とか、「たかが100円のアンパンを食べてしまっただけのことであるにもかかわらず、暴れ狂う」とか。
物語を組む順番として、『欠損-伏線とシチュエーション-細分化されていない欠損の話の筋-細分化されていない欠損の行為項モデル-細分化された欠損の話の筋-細分化された欠損の行為項モデル』といった順番で組んでいくのがスマートに行く。なぜならば、欠損がなければ物語は動き出さないし、伏線とシチュエーションは話の筋や行為項モデルあとから考えるとそれらに縛られて上手くいかないからである。
①、主人公が向かう目的を定める。②、主人公が見舞われる危機を定める。または、どのようなギャップがある状況に立たされるかを決める。
③、危機・ギャップが何故起こるのかを決める。(伏線の回収の仕方を決める)
④、危機がどのように回避されるのかを決める。(伏線の回収の仕方を決める)
⑥、必要ならば、下位物語にも①~⑤を施す。
⑦、物語(下位物語も含む)の適所に、ギャップによる面白みを与える。
⑧、整合性を与える。
また、どのような魅力的な登場人物・伏線・シチュエーションでも物語の自然な流れを妨げるなら切り捨てるべきである。
場面では、人物、場所、時間が描かれる。人物、場所、時間のうちのいずれかが変わったとき、場面が転換されたという。また、場面は一人称であれ三人称であれ場面に登場する一人の人物の視点を通して描かれることが多い。
場面の特徴として、行為・現象の一回性が挙げられる。場面は、一度しか起こらない行為・現象を場面に登場する人物の感覚を通じて読者に体験させる。
場面の始まり方として、人物・場所・時間を指し示して始まる場合、登場人物の行動から始まる場合とがある(台詞から始まる場合は、登場人物の行動から始まる場合の特殊例とみなす)が、そのいずれにせよイメージすることが出来るか否かが読解の容易さを決めるので、場面の開始からまもなく人物・場所・時間を明らかにしなければならない。
小説を読む上では情景をイメージしやすいほうが読解が容易であるといわれているので、色彩や位置関係を表す語を使って場所や時間を説明するべきである。
場所・時間の説明は描写法的だといえるが、その場所・時間におかれたものを登場人物の行動の目的語にすると、スムーズに場面を始められる。
何かが起こるたびに、その場面に登場している人物全員の反応を描くべきである。また、その感情は、どのような身体的動作を持って表情として表されたかを描くべきである。なぜならばイメージしやすいほうが読解が容易であるからである。
要約法は、登場人物が何度も行った行動や何度も起こった現象を記述する。場面法とは違い、複数の時間や場所をまたがる事が出来る。そのため、時間や場所の離れた場面と場面をつなぐのに要約法は用いられる。
要約法は場面と場面とをつなぐためにしか存在しない。
場面法が動画だとすれば、描写法は静止画である。
描写法は、場面が行われている空間にあるものを描写する。場面が行われているなか描写がはさまれると、場面の時間を止めることが出来る。
台詞は音楽で言えばフォルテ、地の文は音楽で言えばピアノのような効果を持つ。多くの場合、台詞はカッコにくくられる為に強調されるが、台詞続きの中で地の文が出てくると大きな強調効果を持つことがある。たとえば強調すべき台詞をあえてカッコでくくらずに地の文で処理することで大きな強調効果を与えることができる。
台詞と台詞の間の間をつなぐために、地の文をおきたくなることがしばしばある。こういったときのために、場面の情景を刻々と変化させるとか場面の登場人物に場面開始と同時に何か動作をさせる方法がある。
書き手の中で起こった感動が読み手の中でも起こるためには、文が書き手の意図するとおりに伝わらなければならない。誤読を少なくする方法をここでは述べる。誤読を避けるために、修飾語と被修飾語、主語と述語は可能な限り近づける必要がある。
「私は走る車に飛び乗る」のような文は、読者が「私は走る」と理解した後で、走っているものは車だと改めて理解する。このような事をなくするために、「走る車に私は飛び乗る」のように主語と述語を近づける必要がある。
主語と述語の対が二個以上あり、どちらかがどちらかの文の成分になっているような文を複文という。
「私はリンゴを片手で握りつぶす彼はとても握力が強いと思う」というような文は読解が難解である。これも、主語と述語を出来る限り近づけ、「リンゴを片手で握りつぶす彼はとても握力が強いと私は思う」とすると読解が容易になる。また、複文を単文(主語と述語の対が一つである文)に分解し、「彼はリンゴを片手で握りつぶす。彼は握力がとても強いと私は思う」というようにすると、誤読は少なくなる。
日本語は上から下に修飾が行われるため、様々な不都合な事が起こる。
「美しい獣と女」は、美しいのが獣だけなのか、獣と女の両方が美しいのかが判然としてない。美しいのが獣だけである場合は、「女と美しい獣」のように順序を入れ替えるか、「賢い女と美しい獣」のように両方に修飾語を与えてしまう方法がある。
「地中海で育った少年からもらったトマト」は、トマトが地中海で育ったのか少年が地中海で育ったのかはっきりしない。トマトが地中海で育ったのであれば、「地中海で育った、少年からもらったトマト」のように読点を打つか、「少年からもらった地中海で育ったトマト」のように順序を入れ替えればよい。ただし後者の場合、地中海を少年からもらったように誤読される可能性が無くもない。
ガーデンパス文や修飾の範囲の判然とない文を作らないために、長い修飾を伴う語を文の始めに持っていく方法がある。
「僕は地中海で育った、青白い肌をした細身の少年から貰ったトマトを食べた」よりは「青白い肌をした細身の少年から貰った、地中海で育ったトマトを僕は食べた」の方が誤読が少ないとされる。
一文の中に含まれる用言(形容詞、形容動詞、動詞)と難読語の量、読者の視線の移動距離に依存して、文章の体感時間は定まるとされている。
たとえば①、「彼が作った美しいサッカーボールを僕は強い力で蹴飛ばす」よりは②、「彼が作った美しいサッカーボール。それを僕は強い力で蹴飛ばす」の法が一文に含まれる用言が少ないために体感速度が短いとされる。③、「ええい、お前は畢竟、俺が死ぬのが怖いだけだ」の『畢竟』が難読語だと見なす人にとっては④、「ええい、お前は結局、俺が死ぬのが怖いだけだ」の方が体感速度は短いかもしれない。また、⑤、「やわらかいネコ」よりは⑥、「柔かい猫」の方が、視線の移動距離が少ないために体感時間が短いとされる。
小説の場合、論説文とは違い改行は自由に行える。
行を改めたときは一段下げる。
「しかしカギカッコで新たな行が始まるときはその限りではないというのが最近の主流である。また、主流では閉じカッコの前では句点は打たない」
――また、三点リーダー(…)とダッシュ(―)は二つで一つの扱いをする……。
http://anond.hatelabo.jp/20081106233020
への補稿(趣味編)です。あくまでの私が感じる世間の”空気”であり、私自身の嗜好ではないことに御留意ください。
これまで同様、「世間はそんな空気ではないだろう」というような御指摘があればお願いします。
3歳のころ、親の方針もあり私は絵画教室に通っていました。
11歳まで私は読むマンガはジャンプくらい。ゲームもドラクエはやるけど、FFは難しくてクリアできない。アニメもたまにガンダムをチェックするくらいで、全話見ることもない。そんな私がとあるアニメ作品を見て、初めて感動を覚えます。
同じような感動を与えられるような人になりたい。漫画家やアニメーターになりたいと思うようになりました。ですが、20歳まで絵の勉強を続けた結果、仲間内で一番自分がヘタクソであるということに気付きます。同じだけ努力をしても、同じだけ絵を描いても上達のスピードが遅いのです。
私には才能がない
私はそこでクリエイターの道をあきらめました。
ついこの間のことなんだけど
そしたらある山村の小さな駅からとてもとても小さなおばあさんが乗ってきたんだ。
すごく腰も曲がってね。歩くのもやっとって感じだった。
一人でどこに行くんだろうか。
誰か待ってる人とかいるのかな?って少し気になったよ。
俺がトイレに行く時、ついでに
おばあさんが席に座れてるかと確認したんだ。
ニコニコして座ってたよ。
あー、何かいいことあるのかな?
そうだったらいいなあ。とぼんやり考えた。
それで電車は終点についたんだけど、
そこに息子さんかな?おばあさんより若い男の人がおばあさんを迎えにきてんだよ。
二人で手をつないでさ。二人でニコニコしながら歩いてんの。
何でだろ?全然わからないんだけど、でも、それを見て穏やかな気持ちになったんだよね。
でも今でもその時の気持ちはわからない。
よかったね。とか、一人じゃなくて安心した。とかでもない。
大体、俺全然関係ないし。
でもすごく感動したんだ。
誰かに会いに行く人がいて、それを待っている人がいるってことは
すごく大事なことなんじゃないのかなって思った。
それだけの話。
しっかりとしたシナリオを作って、感動させることを目的としているなら、
わざわざエロゲーとしなくてもいいような気がする。
でも、そうすると携帯小説みたいになるのか。
エロゲーに泣き要素は必要なのか?
他人の才能を見て、驚き、感動し、そして嫉妬し、自己の才能に苦悩するのは、いたって自然な事。
しかし、自身の才能は努力とセンスと経験でしか磨ぐことはできない。
俺の努力(執念)不足 だと自身が分かっている以上、コンプレックスを解消する方法は
やれるところまでやるしかない。
死ぬほど描いて描きまくるのが、本当の努力だと思うよ。
pixivでも風景画や人物画を素晴らしく表現できる人がいるが、
やはりそういう人は常に様々なものを様々な視点から見ているしイメージしている。
それはスゴイ努力の証拠じゃないだろうか?
ぶっちゃけた話、美大出身でなくともデッサン教室でなくとも描ける人は描けるものだよ。
ただし、やっぱり死ぬほど絵を描くくらいの事はしていると思う。
自分の腕が、絵を描くことができないくらい疲労して初めて努力になるのかもしれないね。
コンプレックスは誰にでもあるのだから、負けるな。
次の文、「森羅万象、この世に意味はない」なんて主張する人の言葉とは思えないんだが……。
>おとついの昼間とかも全部が全部、もう2度と取り返せない一瞬なんだよね。これがすごいよね。
元増田自身は別に「意味を見出した」なんて言っていないんだけれど、外から見ていれば意味を見出すことはできるね。
例えば「すべての一瞬が『もう2度と取り返せない』ということ」には、
「元増田に『人生をちゃんと見つめなお』させたり、『ちょっとじゃあやってみようかな』と一念発起させる」という意味を見出せる。
元増田がそこまでメタなことを考えていたとは思えないのだけれど、まぁ仮にそうだったとしよう。
でもさ、それって、あなたの言うように「でも死んだら何の意味も無い」ことには繋がらないんじゃない?
なぜなら「元増田の人生を満足させる」という意味を見出せるのだから。
それとも「意味なんて何にだって見出せば存在するんだから、不変的な意味なんて無いんだよ」とかいう話?
(追記)
他の人へのレスに今気付いた。たぶんこれもあなただよね?
彼は「今の一瞬はもう永遠に来ないから大事だ」と言ってるんだよね。
「大事」なんてレベルじゃなく、もう本当にすごい事だと気付いて、感動してるんだよね。
だから大事じゃないよ、無意味なんだよって俺は反論してる。
ひょっとしてあなたの言う「意味を持つ」って「大事である」ってこと?
いやいや、意味ってのはこれ。 >おとついの昼間とかも全部が全部、もう2度と取り返せない一瞬なんだよね。これがすごいよね。 これが起点だよね。なぜすごいのか。それは何かしらの意味を見出したからだよね。 >「そこから更に先がある」なんて言うからちょっと期待したのに……。 どうだろ。君がこういう事を考えたことが無いなら、もうちょっと考えてみたら面白いんじゃないかな。 俺も彼の感動は味わった事があるし、さらにその先を考えて、また鱗が落ちたから、 君にも何かしらのものを感じ取ってもらえると信じたい。 すごい人も自分も同じなんだって感じられるのは、また格別なものだと思うよ。
「そこから更に先がある」なんて言うからちょっと期待したのに……。
どう反応するかな、と思ってね。
元増田の文章で「意味」を検索したら次の一行しか見つからなかったんだけど……誤爆?
うはww意味わかんね俺ww無いのか有るのかどっちだよww
彼が意味について感動してたから、その意味を否定したかった。 どう反応するかな、と思ってね。 >そもそもあなたの使っている「意味」って言葉は何を差しているの? 最初の文章を書いたとき、何度「意味の定義とは」みたいな事に言及しようと思ったかw でも、文がまとまらなかった orz まあ、でも意味は意味だよ。森羅万象、この世に意味はない、という主張だと思ってくれたらそれで良いよ。 (ちょっと違うけど、うまく書けないから、とりあえずこれで)
http://anond.hatelabo.jp/20090614184503
久しぶりに行った大学はどこか違う世界のようで、時間が限りなく薄く感じた。
食堂に入ってコーヒーを飲みながら資格の勉強をしてると、横に座っていた大学生2人組は
「弾丸の運動エネルギーは米粒のエネルギーに換算するとどれくらいか」ということを真剣に議論していた。
最近、「上司に怒られないようにどうやって仕事しよう」とか「次の資格試験に落ちたらまた上司にドヤされる」などとばっかり考えていた俺は、
久しぶりのどうでもいい話に感動した。俺もそんなことを四六時中考えていたいな、と思った。
社会人になって、通勤時間にかわいい女の子を観察するとか、社内の恋愛ゴシップネタくらいにしか楽しみを見いだせなくなった。
会社の人間としか接点がなく、家に帰っても仕事の事ばかり考えている。
事務ミスで上司に怒られないようにとか、上司との飲み会でどうやって上司の機嫌を取るか、などとくだらないことばかり考えている。
自分は社会人3年目だけど、プライベートはくだらないことしか考えてないよ!!
仕事中だって手が空いたときはくだらないことしか考えてないよ!!
はてダでホッテントリ入りしたネタ記事はだいたい仕事中にネタを暖めたものだし、イベント前だと一日中ずっと同人誌のネタをひたすら脳内でこねくり回してる。
自分にとって会社は、プライベートでのオタ活動に必要な資金を稼ぎ、公的な身分保障を与えてくれるだけの場所ってかんじ。
平日の朝に会社の門をくぐった瞬間に「社会人の自分」というアバターを被り、退社して門を出た瞬間にそれを脱ぎ捨ててid:○○に戻る感覚とでも言えばいいのかな。
上司とか同僚とか、みんな「平日昼間にアバターを着てプレイする『社会人』というゲーム」のNPCのような存在。目の前にいるときは対応をきちんとしようと心がけるけど、プライベートの時は頭に思い浮かべることすらしないね。
……ここまで書いてきて思ったのだけど、もしかして世の中の人はみんな自分自身の実存と「仕事」をそのまま接続させていて、だから四六時中仕事のことばかり考えていられるの?
何その単線人生。
http://anond.hatelabo.jp/20090614202210
元増田はそういう事を言ってるのかな? >うまいもん食いたいじゃん。「どうせ」なら 「どうせ死ぬんだから、良い人生にしたいじゃん」 と彼は言ってるという解釈だね。 残念ながらそうじゃないんだよね。 彼は「今の一瞬はもう永遠に来ないから大事だ」と言ってるんだよね。 「大事」なんてレベルじゃなく、もう本当にすごい事だと気付いて、感動してるんだよね。 だから大事じゃないよ、無意味なんだよって俺は反論してる。 君は論点がズレてるんだ。でも俺は君と同じ考えだよ。 どうせなら面白おかしく生きられたら良いよね。そういう風に出来てるからね。だから何?
仕事で嫌なことがあって、この前の日曜、久しぶりに大学に行った。
久しぶりに行った大学はどこか違う世界のようで、時間が限りなく薄く感じた。
食堂に入ってコーヒーを飲みながら資格の勉強をしてると、横に座っていた大学生2人組は
「弾丸の運動エネルギーは米粒のエネルギーに換算するとどれくらいか」ということを真剣に議論していた。
最近、「上司に怒られないようにどうやって仕事しよう」とか「次の資格試験に落ちたらまた上司にドヤされる」などとばっかり考えていた俺は、
久しぶりのどうでもいい話に感動した。俺もそんなことを四六時中考えていたいな、と思った。
社会人になって、通勤時間にかわいい女の子を観察するとか、社内の恋愛ゴシップネタくらいにしか楽しみを見いだせなくなった。
会社の人間としか接点がなく、家に帰っても仕事の事ばかり考えている。
事務ミスで上司に怒られないようにとか、上司との飲み会でどうやって上司の機嫌を取るか、などとくだらないことばかり考えている。
こうやって人はくだらない人間になっていくのか、と思った。弾丸と米粒の議論の方が、生きていて楽しい気がする。
米粒議論の二人は「弾丸一つにつき米粒半分」という結論に達し、アニメの話に移っていた。
僕は明日が月曜であることに吐き気を催しながら、帰路につくことにした。