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2012-01-29

むかし、小説家になりたかった。

物語に浸るのが好きだったし、絵を観ることは幸せだった。

劇を作って演じるのも好きで、自分にとって芸術はなくてはならないものだった。

大人になって、今の仕事についた。

芸術とは無縁の、目が回るほど慌しい世界

でもその中で、芸術と呼びたくなるような美しいものを目にすることがある。

無私のやさしさ。透きとおった哀しみ。初恋や友情。

子ども達は、生きる姿そのもの人間の魅力を教えてくれる。

教師になることは、冒険小説舞台に飛び込むようなものだ。

2012-01-27

村上春樹の猛々しい想像力 (3/3)

Sam Anderson

2011年10月21日

1 - 2 - 3

翻訳は、村上の作品を組み立てる原理だとさえ言えるかもしれない。

彼の作品は翻訳されているだけでなく、翻訳についてのものだと考えられるのである

村上ストーリーにおける至上の愉しみは、とても普通の状況(エレベータに乗っている、スパゲッティを茹でている、シャツアイロンがけしている、など)が

突然非日常不思議電話を受ける、魔法の井戸に落ちる、羊男と会話する、など)へ変貌するのを見ることだ。

言い換えるならそれは、登場人物が存在論的に盤石な立場から完全な異世界へと投げ込まれ、

たどたどしくも二つの世界の間をとりもつことを余儀なくされる瞬間だ。

村上作品の登場人物はある意味でいつも、根底から異なるいくつかの世界あいだで翻訳をしている。

平凡と奇妙、自然超自然田舎と都会、男と女、地上と地下。

言い換えれば、彼の全作品は翻訳の作業を劇に仕立てたものなのだ



村上の車の後部座席に戻ろう。

私たちは東京を離れ、ベッドタウンに入った。

多くの企業本社や、巨大な船のかたちをしたラブホテルを通り越していく。

およそ1時間後、風景は急峻な山道になり、私たちは村上の家に到着した。

木の生い茂る丘の上、山と海の間にある、こぎれいだが平凡な外観の二階建てだ。



靴をスリッパに履き替え、村上に連れられて彼のオフィスへと入る。

自らデザインした小部屋であり、『1Q84』のほとんどはここで書かれた。

同時にそこは彼の膨大なレコードコレクションの住処でもある。

(10000枚くらいだろうが、怖くて実際に数えてはいない、と彼は言う)

オフィスの幅広い壁二つは、床から天井までアルバムで覆いつくされている。

山々に向けて突き出している窓の下、部屋の端には巨大なステレオスピーカーが君臨している。

室内のもう一つの棚には村上人生と作品にまつわる思い出の品々がある。

彼が『海辺のカフカ』で殺人者として想像したジョニーウォーカーを描いたマグカップ

はじめてマラソンを完走したときの、くたくたの彼を写した写真1991年ニューヨーク市にて、3時間31分27秒)。

壁にはレイモンド・カーヴァー写真、グレン・グードのポスタージャズ巨匠の肖像がいくつか。

村上もっとも好きなミュージシャンテノールサキソフォンスタン・ゲッツ写真もある。



私はレコードをかけてもらえないかと頼んでみた。

村上はヤナチェクの「シンフォニエッタ」を取り出した。

1Q84』の始まりを告げ、その物語のなかで繰り返し鳴り響く曲である

作品で示唆されるとおり、渋滞で聞くにはまさに最悪の音楽だ。

それは速く、アップビートで、劇的──まるで普通の曲が5つ、ペンキの缶のなかで決闘しているかのようだ。

同時にそれは熱狂し、ねちねちとした、暴力的な『1Q84』の冒険の主題曲として、もっともふさわしい。

村上はその奇妙さを買って「シンフォニエッタ」を選んだという。

「一度だけそれをコンサートホールで聴いたことがある」

オーケストラの後ろにトランペットが15人いた。変だった。すごく変だった……その奇妙さがこの本によく合う。この物語にこれ以上よく合う音楽は思いつかない」

彼は何度も何度もその曲を聴いて、そして開幕のシーンを書いたという。

シンフォニエッタを選んだのはまったく人気がない音楽だったからだった。でも本を出版してから日本では人気が出た。小澤征爾さんに感謝されたよ。彼のレコードがよく売れたからね」



シンフォニエッタ」が終わると、私は最初に買ったレコードは何か覚えているかと尋ねてみた。

彼は立ち上がり、棚をごそごそと探して、一枚のレコードを手渡してくれた。

「The Many Sides of Gene Pitney」。

カバーを飾るのは、華やかな姿の Pitney。60年代前半のアメリカクルーナー歌手である。はまだらのアスコットタイに艶のある赤いジャケットを着て、髪型は崩れ落ちる波を凍らせたようにみえる。

村上は13歳の時、このレコード神戸で買ったという(当初のものは擦り切れたため、何十年か前に買い直している)。

針を下ろすと、流れ出す Pitney の最初ヒット曲「Town Without Pity」。

劇的な、ホルン即興とともに Piteny の歌声が黙示録的な叫びを歌う。

若者にはつらいことがある、たくさんある/分かってくれる人がほしい/助けてくれよ/土と石でできたこの星が壊れるまえに」



終わると村上は針を上げ、「バカな歌だ」と言った。



1Q84』というタイトルダジャレである

言語をまたいでオーウェル引用したものだ。

日本語では、9は英語のQのように発音される)



1Q84』を書いているあいだ、『1984年』を読み直したかと尋ねてみた。

彼は読み直したといい、それは退屈だったという。

(これが悪い評価だとは限らない。野球のどこが好きかと尋ねた際、彼は「退屈だから」と答えた。)



近未来小説は退屈なものばかりだ」と彼は言う。

「始まりはいつも暗く、雨で、人々が不幸せそうにしている。コルマックマッカーシーの『The Road』は好きだし、よく書けているけれど、でも退屈だ。暗いし、人間人間を食べるし……ジョージ・オーウェルの『1984年』は近未来小説だけど、この本は近過去小説だ」

1Q84』について「我々は同じ年を反対側から見ている。近過去なら退屈じゃない」



オーウェルに親近感を覚えたかと尋ねた。



オーウェルと僕はシステムについて同じ感じを受けていると思う」と村上は言う。

ジョージ・オーウェルは半分ジャーナリストで半分小説家だ。僕は100パーセント小説家だ……メッセージを書くことはない。よい物語を書きたい。自分政治好きな人間だと思うけれど、政治メッセージを誰かに向けることはない。」



はい村上はここ数年、彼にしては珍しく、政治メッセージを大々的に言明している。

2009年、批判のなか彼はイスラエルエルサレム賞を受賞しに行き、そこでイスラエルパレスチナについて語った。

この夏、彼はバルセロナでの受賞式典の機会を利用して日本原子力行政を批判した。

彼は、福島第一は二度目の核災害だとした。

一度目はまったくの被害者としてだったが。



バルセロナの演説について尋ねると、彼はパーセンテージを少し修正した。



「僕は99パーセント小説家で1パーセント市民だ」と言う。

市民として言いたいことはあるし、求められればはっきりと言う。あのときまで原発について明確に反対する人はいなかった。だから自分がやるべきだと思った。自分にはその責任がある」

演説に対する日本の反応は概ね好意的だったという。

人々は津波の恐怖が改革への媒介となってくれることを、彼と同じように、期待していたのだ、と。

「これは日本にとって転機になると、日本人ほとんどが考えていると思う」

悪夢だけれど、変化のチャンスでもある。1945年以来、僕たちは豊かになるために働いてきた。けれどそれはもう続かない。価値観を変えなければならない。どうやって幸せになるかを考えなければならない。お金でもなく、効率でもなく、それは人格目的だ。いま言いたいことは1968年から僕がずっと言っていることなんだけれども、システムを変えなければならないということ。今は、僕たちがまた理想主義者になるべきときなんだと思っている」



その理想主義はどんなものか、アメリカ合衆国モデルケースとして見ているのか、と尋ねた。



アメリカはもはやモデルケースだとは思われていないと思う」

「いま、僕たちにはモデルケースがない。モデルケースを作り上げなければならないんだ」



地下鉄サリン事件阪神大震災、そして今回の津波……現代日本の数々の災害は、驚くほどにまで村上的だ。

地下での暴力的な衝動、深く隠されたトラウマが大量破壊を引き起こすものとして現れ、地上の日常を襲う。

彼は深さのメタファーを多用することで知られる。

登場人物たちはカラの井戸に降りていき、東京の地下トンネルに生きる闇の生き物に出会う。

(彼は別のインタビューで、井戸のイメージをあまりに何度も使って恥ずかしくなったため、8作目以降、できるだけ使わないように心がけたと話している)。

彼は自分創造性も、深さとしてイメージするという。

毎日机に向かい集中力に満たされたトランス状態の中で、村上村上キャラクターになる。

それは、自らの無意識洞窟たる創造性を探検し、見つけたものを忠実に報告する、普通の人物である



「僕は東京に住んでいる。ニューヨークロサンジェルスロンドンパリのように文明的といっていい世界だ。

 魔法じみた状況、魔法じみた物事に出会いたければ、自分の中に深く潜るしかない。だから僕はそうしている。

 魔法リアリズムとも呼ばれるけれども、自分の魂の深みのなかでは、それは単なるリアリズムだ。魔法ではなく。

 書くときには、非常に自然で、論理的で、リアリスティックで、合理的に感じる。」



執筆しないとき自分はどこまでも普通の人だと村上は強調する。

彼の創造性は「ブラックボックス」であり、意識的にアクセスすることはできないという。

彼はシャイであり、メディアにあまり登場したがらない。道端で読者から握手を求められた時にはいつも驚く。

人が話すのを聞くほうが好みだと彼は言う。

実際に、Studs Terkel の日本版のようなものとして彼は知られている。

1995年サリンガス事件があったとき村上被害者65人と被疑者らを1年かけてインタビューし、

その結果を分厚い2冊組の本として出版した。

のちにそれは『Underground』として、大幅な簡略化をしたうえで英語翻訳された。



この会話が終わったとき村上ランニングに誘ってくれた。(「僕が書くことについて知っていることのほとんどは、毎日ランニングを通して学んだ」と彼は書いている)

彼のランニングスタイル個性の延長のようだ。

身軽で、安定していて、実践的だ。

たがいの走り幅がつかめて1、2分たつと、村上自分が単に「丘」と呼ぶところに行ってみないかと尋ねてきた。

それは試合の申し込みか警告のように聞こえた。

そんな言い方をした理由はすぐに分かった。

というのもまもなく「丘」を登り始めることになったからだ。

もはや走るというよりは、急な坂にさしかかって足をとられているというほうが近く、

地面が傾いたランニングマシーンのように感じられた。

道の終わりに向けて一足踏み込むと同時に私は村上に向けて「大きい丘でしたね」と言った。

そこで彼は指をさして、先にジグザグ道が続いており、私たちはまだほんのひと曲がり目を終えたにすぎないということを教えてくれた。しばらくして、二人の息が切れ切れになってくると、このジグザグ道には終わりがないのではないかと心配になってきた。

まるでどこかの村上世界にある無限階段のように。

上へ、上へ、上へ。

しかし、やっとのことで、私たちは頂上に着いた。

海ははるか下に見えた。

それは秘められた巨大な水世界日本アメリカあいだの、人が住まない世界だ。

その日見たかぎり、水面は静かだった。



そして私たちは下りを走り始めた。村上は村を通る道に誘ってくれた。

大通りのサーフショップ漁師の家がならぶ界隈を通り過ぎた(彼はそのあたりの庭に古くからの「漁師神社」があるのを指差して教えてくれた)。

空気は湿っていて塩のにおいがした。

私たちは並んで浜まで走った。

村上がかつて名もない翻訳者だったころセントラルパークでジョギングをともにしたジョン・アーヴィングについて話をした。

セミについても話をした。

何年も土のなかで生き、地表にぽっと出て、わめき、最後の数ヶ月を木の上で過ごすのは、どんなに変だろうかと。

私がおもに覚えているのは、村上の安定した脚のリズムだ。



走り終えて家にもどると、私は村上の来客用バスルームで着替えた。階下で彼を待つ間、食堂エアコンの風を受けて立ち、大きな窓からハーブと低い木のある小さな裏庭を見ていた。



数分後、庭から迷い出た変な生物が私の視界に入ってきた。

最初それは鳥 – おそらくはその飛び方からして変な毛をしたハチドリのようにみえた。

が、すぐに2羽の鳥がくっついているようにみえだした。

飛ぶというよりはふらついているといった感じで、体の一部がそこかしこから垂れ下がっているようだった。

最終的に、それは大きな黒い蝶だと私は結論づけた。

見たことがないほど変な蝶だった。

浮かびながら、異星の魚のようにひらひらしつづけるその姿に幻惑させられ、

私はそれを既知の何かに分類したくなりかけたが、成功することはなかった。

それはひらひらと、およそ村上と私が走った道を引き返す形で、山から海に向けて飛び去った。



蝶が去ってまもなく、村上階段を降りてきて、食堂のテーブルに静かに腰を下ろした。

見たこともない奇妙な蝶に遭遇したことを伝えると、彼は自分ボトルから水を飲み、私を見上げて言った。

日本には色々な蝶がいる。蝶に会うのは変なことじゃない」

2011年10月21日

1 - 2 - 3

村上春樹の猛々しい想像力 (2/3)

Sam Anderson

2011年10月21日

1 - 2 - 3

どうやら村上は、この本のアメリカ版をそのとき初めて目にしたらしい。

そういう文化交流はえてして少しぎこちなくなるものだ。

日本では『1Q84』は2年を掛けて3巻に分かれて発表された(村上は2巻目で一度終わりにしたが、一年後にもう数百ページ付け足したのである)。

アメリカでは、一巻のモノリスとして組まれ、秋の読書イベントに発表が設定された。

YouTube ではきらびやかトレーラームービーを見ることができ、

一部の書店では発売日10月25日に深夜営業が予定されている。

Knopf は英語訳を急がせるため、二人の訳者に手分けして翻訳をさせた。



村上にこれほど長い作品を書くつもりがあったかと尋ねると、なかったという。

これほど長くなることが分かっていれば、書き始めなかったかもしれないともいう。

彼はタイトルや冒頭のイメージ(この作品の場合は両方だった)が浮かんだ時点で、机の前に座り、

毎朝毎朝、終わるまで書きつづけるのである

1Q84』によって彼は三年間収監されたという。



といっても、この大作はごく小さな種から生まれた。

村上によれば『1Q84』は、人気を博した彼のショートストーリー『四月のある晴れた朝に100パーセント女の子出会うことについて』(英語版では5ページ)を増幅させたものに過ぎないという。

「基本的には同じなんだ」と彼は言う。

少年少女出会う。別れてしまった後、二人は互いを探し合う。単純な物語だ。それを長くしただけ」



実際には『1Q84』は単純な物語ではない。

筋書きを要約することすら、少なくともこの宇宙人間言語をもって雑誌の1記事で書くとすれば不可能だ。

物語は行き詰まりから始まる。

青豆という少女が、タクシーに乗って東京の周縁に掛かる高架の高速道路を行く。

そこで渋滞に巻き込まれ、身動きがとれなくなる。

タクシーラジオからある歌が流れる。

チェコスロバキア作曲家レオシュ・ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」だ。

渋滞に巻き込まれたタクシーの中で聴くのにうってつけの音楽とは言えないはずだ」と村上は書く。

しかしそれは神秘的な深さで彼女共鳴する。

シンフォニエッタ」は進み、タクシーは動かない。

運転手は青豆に変わった迂回路を提案する。

高架高速道路には非常用脱出口が設置されている、そして、普通の人には知られていない脱出口への階段がある、と彼は言う。

本当に絶望しきっているのであれば、そこから地上に降りることもできる。

青豆が考えていると突然、運転手が村上一流の警告を口にする。

「見かけにだまされないように」と彼は言う。

降りていけば、彼女にとっての世界根底から変わってしまうかもしれない、と。



彼女はそうして、世界は変わった。

青豆が降りた世界歴史の軌跡がわずかに違っていた。

そしてわずかではない違いとして、月がふたつあった(ちなみに彼女遅刻した約束というのは暗殺約束であったことが明らかになる)。

そしてその世界にはリトル・ピープルと呼ばれる魔法の種族がいる。

彼らは死んだ盲の羊の口(詳しく書くと長くなる)から生まれ、オタマジャクシの大きさからプレーリードッグの大きさにまで育ち、「ホーホー」と合唱しながら空中から透明な糸を紡ぎだして「空気さなぎ」と呼ばれる巨大なピーナッツ型のまゆを作る。

1Q84』の狂気はおよそそのような流れだ。

この本ではなかばあたりまで、このように浮世離れしたした超自然ガジェット(空中に浮かぶ時計、神秘的なセックス麻痺など)が繰り出されてくるので、

私は行間にエクスクラメーションマークを置きたくなった。



この数十年、村上は自身が「本格小説」と位置づけるものを書こうとしていると言い続けてきた。

一例として彼は『カラマーゾフの兄弟』を挙げて目標にしている。

その試みこそが、三人称の幅広い視点から描かれた巨大小説1Q84であるように思われる。

怒り、暴力惨事、奇妙なセックス、奇妙な新現実を抱えた本であり、

日本のすべてを取り込もうとするかのような本である

偶然ぶつかることになってしまった悲劇にも関わらず(あるいはその悲劇のなかでこそ)、

ひとりの人間の脳に詰め込まれた不思議を提示して、本書は読者を驚嘆させる。



驚きを覚える本の数々をこれだけ読んだあとでもなお、私は村上の本で驚かせられた。

そのこと自体が驚きだったと村上に伝えると、彼はいものようにそれを受け流し、

自分想像力を入れたつまらない花瓶でしかない、と言い張った。



「リトル・ピープルは突然やってきた」という。

「彼らが何者なのかはわからない。その意味づけもわからない。

 僕は物語の虜だった。選択したのは僕ではなかった。彼らが来て、僕はそれを書いた。それが僕の仕事



村上の作品は夢のようであることが多い。

明晰夢を見ることがあるかと尋ねると、

覚えていられたことはない、という。

目覚めたときには消えている、と。

ここ数年で覚えていられた夢は一度だけ、それは村上春樹小説のような繰り返す悪夢だったという。

その夢の中で、影のような未知の人物が「奇妙な食べ物」を料理してくれていた。

蛇肉の天ぷら芋虫パイ、そしてパンダ入りライス

食べたいとは思わないが、夢のなかでは彼はそれに興味をひかれていて、まさに一口入れようというとき目が覚めた。



2日目、村上と私は彼の車の後部座席に乗り込み、彼の海辺の家へ向かった。

運転したのはアシスタントの一人である身ぎれいな女性で、青豆よりわずかに若かった。

私たちは東京を横切り、青豆が『1Q84』で運命的な下降をした高架高速道路の本物へと向かった。

カーステレオではブルース・スプリングスティーンカバーした「Old Dan Tucker」がかけられていた。

アメリカシュールレアリズム古典である



車中で、村上は冒頭のシーンを思いついたときに考えていた緊急脱出口のことを持ち出した(青豆と同じように実際に渋滞に巻き込まれていたときにそのアイデアを思いついたという)。

次に彼は存在論的に複雑な仕事をした。

実際の高速道路で、小説中であれば青豆が新世界に向けてくだっていったであろう場所を正確に特定しようとしたのである

彼女用賀から渋谷に行こうとしていた」車窓をのぞきながら彼はいう。

「だから多分このあたりのはずだ」

と言ってこちらを向いて念を押すように

「それは現実じゃないけれど」

と付け加えた。

それでも、彼は窓の方に戻って実際に起こった出来事を話すように続きを語った。

「そう」と指差して「ここが彼女が降りていった場所だ」

キャロットタワーと呼ばれる、およそ巨大なネジが刺さった高層ビルのような建物の前を通り過ぎた。

村上はそこでこちらを向いて、もう一度思いついたように、

「それは現実じゃないけれど」と言った。



村上フィクションは変わったやり方で現実漏れ出す。

日本に滞在した5日間のあいだ、私は村上東京にいたときとは違って、実際の東京で落ち着くことができなかった。

村上東京、それは本物の東京を彼の本というレンズで見たときの姿だ。

私はできるかぎりその世界時間を過ごそうとした。

村上天啓を得たあの場所神宮球場へ行き、

客席の上の方で二塁打が打たれるたびに注目した(私がもらった天啓もっとも近いものは、枝豆を喉につかえさせて窒息しかけたことだった)。

また、私はローリングストーンズの「Sympathy for the Devil」とエリック・クラプトン2001年アルバム「Reptile」をかけながら、神宮外苑という村上お気に入り東京ジョギングルートゆっくりと走った。

私のホテル新宿駅に近い。そこは『1Q84』でも重要役割を果たす、交通機関ハブ的な場所だ。

登場人物たちが好んで使う集合場所中村屋で私はコーヒーを飲み、カレーを食べた。

そしてフレンチトーストタピオカティーの向こうで東京人たちが交わす会話に耳をひそめた。

そうしてうろつくあいだに、村上小説が極度に意識しているものごと、すなわち、偶然かかる音楽、上昇と下降、人々の耳の形といったものを、私も極度に意識するようになった。



こうして私は、村上巡礼者の列に連なることになった。

実際、彼の小説中の説明をもとにして料理本を出版した人もいるし、

登場人物が聞いた音楽プレイリストオンラインでまとめている読者もいる。

村上は、明らかに喜んだ様子で韓国のある会社西日本への『海辺のカフカ旅行を企画したこと、

ポーランド翻訳者が『1Q84』をテーマにした東京旅行ガイドブック編集していることを教えてくれた。



こうした旅自体が、形而上の境界を越えてしまうこともある。

村上は読者から彼が生み出したもの現実世界で「発見」したという便りを受け取ることがよくあるという。

たとえば、彼が作り出したと思っていたレストランや店が東京に実際ある、など。

ドルフィンホテルというのは『羊をめぐる冒険』で村上が生み出したものだが、札幌にはそれが複数ある。

1Q84』の発表後、ありえない名字として作り出したつもりだった「青豆」という名字家族から村上は便りを受け取ったという。

彼はサイン本を一冊その家族に送った。

ここでの要点と言えるのは、現実漏れ出す虚構、虚構に漏れ出す現実というものが、

村上の作品についてはほとんどの場合、作品そのものだということだ。

彼は私たちを世界から世界へと往還させる。



世界から世界への往還──それは翻訳の作業を思い起こさせる。

翻訳は、様々な意味村上の作品を理解する鍵となる。

彼は一貫して日本作家からの影響を否定してきた。

作家活動の初期には、「日本人という呪いから逃れようとしているとさえ語った。

その代わり、十代の若者として、西洋小説家の作品を貪ることによって、文学感受性を培った。

その中にはヨーロッパ古典ドストエフスキースタンダールディケンズ)もあったが、

彼が生涯を通して繰り返し読んだのは、とりわけ20世紀アメリカのある種の作家たち、

レイモンド・チャンドラートルーマン・カポーテ、F. スコット・フィッツジェラルドリチャード・ブローティガンカート・ヴォネガットなどだ。

処女作に取りかかったとき村上は奮闘し、標準的でない解決法に行き当たった。

本の冒頭を英語で書き、それから日本語翻訳し直すのである

そうやって自分の声を獲得したと彼は言う。

村上を長く翻訳しているジェイ・ルービンによると、村上の作品の特徴のひとつは、

たか英語原作から翻訳されたかのように読めることだという。

2011年10月21日

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村上春樹の猛々しい想像力 (1/3)

Sam Anderson

2011年10月21日

訳注:長文注意。誤訳あったらごめんなさい。教えてもらえたらあとで直します)

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この夏、私は初めての日本への旅行を企てた。

村上春樹の作品世界にほぼ浸りきってやろうというつもりだった。

ところがその目論見は外れることになる。

私は村上の作品の影響下にあるまま、東京に降り立った。

期待していたのは、バルセロナパリベルリンのような街だった。

そこでは、市民はみな英語が達者で、さらにはジャズ劇場文学シットコムフィルム・ノワールオペラロックといった、

西洋文化のあらゆる枝葉に通じている……そんなコスモポリタン世界都市を私は期待していた。

誰かに聞いておけば分かっていたはずなのだが、実際の日本はまったくそんな場所ではなかった。

実際に足を踏み入れることができる日本は、どこまでも頑固に、日本的だった。



そう思い知らされたのが地下だったというのは、我ながらよくできていたと思う。

東京での初めての朝、私は村上の事務所に向かっていた。

アイロン掛けたてのシャツに包まれ、なんの躊躇もなく地下鉄の駅へと降りて行くや否や、

私は迷子になり、助けを求めようにも英語話者を見つけることができなかった。

最終的には(電車を乗り間違え、馬鹿げた値段の切符を買ってしまい、必死のジェスチャーで通勤客を怖がらせたあと)、

どうにか地上に出てはみたものの、もはやインタビューの時刻はとうに過ぎている。

私は絶望して、目的もなくあちらこちらへとさまよい歩いた(東京にはほとんど標識がないのである)。

そして蜂の巣状のガラスピラミッドのような建物の前で途方に暮れていたとき

ついにユキという村上アシスタントに見つけてもらうことができた。



このようにして私は東京の地下の洗礼を受けたのである

まりにもうかつな、アメリカ人的な私は、村上のことを現代日本文化を忠実に代表する人物として考えていた。

実際には彼は私が思っていたような作家ではなく、日本は私が思っていたような場所ではなかった。

そして両者の関係の複雑さは、翻訳を介して遠くから眺めていたときには想像しえないものであることが明らかになっていった。



村上の新作『1Q84』の主人公の一人は、自らの人生最初記憶に苛まれており、誰に会ったときにも、あなた最初記憶はなにかと尋ねる。

やっと村上に会えたとき、私は彼の最初記憶について尋ねた。

それは3歳のとき、初めて家の門の外に歩き出したときのことだという。

彼は道をてくてくと渡り、溝に落ちた。

流されていく先にあるのは、暗く恐ろしいトンネル

そこに差し掛かろうかというとき、母が手を差し伸べ、彼は助かった。

「明確に覚えている」と彼は言う。

「水の冷たさ、トンネルの闇、その闇のかたち。怖かった。僕が闇に魅かれているのはそのせいだと思う」

村上がこの記憶を語るとき、私は既視感とともに心の中でくしゃみをするような気持ちを覚えた。

その記憶には聞いた覚えがある、いや、不思議なことにその記憶自分の中にある、と感じた。

ずっとあとになって分かったことだが、私は確かにその記憶を持っていた。

村上は『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭の脇役に自分記憶を写し込んでいたのだ。



村上を初めて訪問したのは、日本にしてもありえない夏の厳しさの最中

週の真ん中、蒸し蒸しする午前中のことだった。

それは非現実的なまでの災害の余波を受けた夏だった。

4ヶ月前に北日本を襲った津波で2万人が命を落とし、

いくつもの街が破壊され、原子力発電所メルトダウンした。

その結果、電力、公衆衛生メディア政治にも危機が到来した(当時の首相の辞職によって、5年間に5人目の首相が生まれることになった)。

日本を代表する小説家である村上に会いに来たのは、

大作『1Q84』の英語訳(そしてフランス語訳、スペイン語訳、ヘブライ語訳、ラトビア語訳、トルコ語訳、ドイツ語訳、ポルトガル語訳、スウェーデン語訳、チェコ語訳、ロシア語訳、カタルーニャ語訳)について話すためだった。

この本はアジアで数百万部を売り上げ、

まだ翻訳が出ていない言語圏ですらノーベル文学賞の噂が囁かれていた。

62歳にして30年のキャリアを持つ村上は、日本文学最高峰としての地位を確かなものにしている。

疑いなく、彼は母国の表層とかたちを世界に伝える、想像世界大使となった。



そのことは、関係者には非常に大きな驚きだったと言われている。



村上は常に自分日本アウトサイダーだと考えている。

彼は不思議社会環境最中に生まれた。

アメリカによる戦後占領を受けた1949年京都日本の前首都である

「これ以上の文化混交の瞬間を見つけるのは難しい」と John W. Dower は1940年代後半の日本について書いている。

「これほど深く、予測不能で、曖昧で、混乱していて、刺激的なものは他にない」という。

「瞬間」を「フィクション」に置き換えてみれば、村上の作品を完璧に説明することができる。

彼の物語の基本構造は、互換性のない複数の世界に根を下ろした普通の人生であり、

それはそのまま彼の最初人生経験の基本構造でもある。



村上は成長するまでのほとんどを神戸郊外で過ごした。

そこは、さまざまな言語の喧騒に包まれた国際的な港湾都市である

彼はアメリカ文化、とくにハードボイルド探偵小説ジャズに没頭して十代を過ごした。

そうして反逆のクールさを自分ものにし、

二十代のはじめには大企業の序列に入り込む代わりに、髪を伸ばしヒゲを生やして、両親のすすめを押し切って結婚し、借金をして「ピーターキャット」というジャズクラブ東京で開いた。

掃除をして、音楽を聞いて、サンドイッチを作って、酒を注いで、

彼は約10年間をその仕事に費やした。



作家としての村上キャリアの始まり方は、彼のあの作品スタイルそのものだった。

どこまでも普通の設定で始まり、どこからともなく神秘的な真実が主人公に降りかかり、その人生根底から変えてしまう。

29歳の村上地元野球場の芝生でビールを飲みながら、デイヴヒルトンというアメリカ人助っ人バッター二塁打を打つのを見ていた。

平凡なヒットだったが、ボールが飛んでいくのを見て村上天啓に打たれた。

自分小説が書けると気づいたのである

そんな望みはそれまでなかったが、いまや圧倒的なまでだった。

そして彼は書いた。

試合が終わった後、書店に行きペンと紙を買って、

数ヶ月のちに『風の歌を聞け』を書き上げた。

それは名もなき21歳の話し手が語る小さく凝縮された作品だったが、冒頭から村上らしさが見えていた。

アンニュイとエキゾチシズムの奇妙な混合。

わずか130ページで、その本は西洋文化をぶつ切りにして引用してみせた。

名犬ラッシー』、『ミッキーマウスクラブ』、『熱いトタン屋根の猫』、『カリフォルニア・ガールズ』、ベートーベン第三ピアノ交響曲フランス映画監督ロジェ・ヴァディム、ボブ・ディランマーヴィン・ゲイエルヴィス・プレスリー、『ピーナッツ』のウッドストックサム・ペキンパーピーターポール&マリー。

以上はごく一部に過ぎない。

そしてその本には(少なくとも英語訳には)日本芸術引用がまったくない。

村上作品のこうした傾向は日本批評家をしばしば苛立たせている。



村上は『風の歌を聞け』を権威ある新人賞に応募し、受賞した。

そして一年後、ピンボール機を取り上げた次の小説を出したのち、執筆時間のすべてを費やすため、ジャズクラブを畳んだ。



時間のすべて」という言葉には、村上にとっては余人とは異なる意味がある。

30年を経て、彼は僧侶のように統制された生活を送っている。

すべてが作品を作り出すのを助けるように調整されている。

彼は毎日のように長距離を走り、泳ぎ、健康的な食生活を送り、夜9時には床につき、朝4時に起きる。

そして起床後5、6時間は机に向かい執筆に集中する(2時に起きることもあるという)。

彼は自分の事務所を監禁場所だとみなしている。

「ただし自発的な、幸せ監禁だけれど」



「集中は僕の人生もっと幸せものだ」という。

「集中できないとき、人はあまり幸せではない。僕は考えるのが速くないけれど、何かに興味を持てば、それを何年も続けられる。退屈することはない。僕はヤカンのようなものだ。沸かすのに時間はかかるけれど、いつまでも熱い」



そうした日々の湯沸かしが続いていって、世界でも類まれな作品群ができあがった。

30年の歳月を経て積み重ねられたそれには人を虜にする不思議さがあり、様々なジャンルSFファンタジーリアリズムハードボイルド)と様々な文化日本アメリカ)をつなぐ位置にある穴を埋めている。

どんな作家にも、少なくともこれほど深くまでは、埋められなかった穴だ。

時とともに村上小説は長くシリアスになる傾向が強くなった。

シットコム引用もその傾向に調和している。

そして今、とりわげ激しく長い湯沸かしの結実として、もっとも長く、奇妙で、シリアスな本が上梓された。



低く深い声で村上たくみ英語を操る。

彼は翻訳者を通して会話するのが嫌いだという。

なまりは強く、落ち着くべき箇所で動詞の活用が劇的に現れたり消えたりする。

はいえ相互の理解に支障を来たすことはまずない。

特定の熟語("I guess" 「ではないか」、 "like that"「というような」)が、ときたまおかしな位置で使われることがある。

安全言葉いから逸脱するのを楽しんでいる節が彼にはあった。

英語即興の遊びをしているように感じられたのである

私たちは東京にある彼の事務所で席を持った。

その事務所は半ば冗談ながら村上製作所と名付けられている。

数人のスタッフが靴を履かず他の部屋で作業をしている。

村上は青いハーフパンツと半袖のボタン付きシャツで現れた。

彼のキャラクターと同じように、アイロン掛けしたばかりのように見えるシャツだった(彼はアイロンけが好きだという)。

靴は履いていない。

彼はペンギンのある本の表紙を模したマグカップブラックコーヒーを飲んだ。

その本とはレイモンド・チャンドラーの『ビッグスリープ』、彼の昔からお気に入り小説であり、今日本語訳をしている小説でもある。



話を始めながら、私はあらかじめ用意していた『1Q84』をテーブルの上に置いた。

村上純粋にびくっとしたようだった。

その本は932ページあり、ほぼ30センチのその厚みは本格的な法律書を思わせるほどだ。



「大きいな」と村上は言った。

電話帳みたいだ」

1 - 2 - 3

2012-01-06

作家志望が書いたつまらない小説ありがちなこと

 

 ・ 登場人物がやたら多い。

 

 これは大風呂敷だけを広げて、畳むことに失敗するパターン

 1ページか、二ページそこらで、登場人物がやたら出てくる。本人の中ではしっかりとキャラクターが浮かんでいるのであるが、いざ書きだすとなかなか先に進まない。他人に読ませても「キャラクターの区別がつかない」とか言われる。他人をお話の中にすんなり引き入れるには、多くても主要キャラクターは三人か四人がベストでしょ。

 ・読み始めて、しばらくしても何についての話なのかよくわからない。

 

 いきなり長編に取り掛かろうとする小説家志望にありがちなパターンである。ずーっと読んでいってもなんだかよく分からない主人公の日常が書かれてあるだけで、いつまでたっても事件が起きないのだ。セントラルクエスチョン(主人公は○○できるのか?)を提示するのが遅すぎる。遅くても10ページまでには何の話なのか提示しないと、読む方はあきてしまう可能性があるのだ。

 

 ・登場人物が画一的すぎる

 

 女子高生が出てきたら女子高生の口調、オタクオタクの口調や行動、ヤンキーヤンキー校長が出てきたら校長、婆が出てきたら婆、どれもこれも画一的で、その個人特有の人物造形ができていないのだ。女子高生だったらこんなことはしないだろうとか、ヤンキーはこんなこと言わないだろうかとか考えず、こいつ自身はどう動くかを考えるべき。

 ・感情をそのまま言葉表現しようとする 

 

 主人公が不安だと思ったときに、そのまま言葉で私は不安だと表現するのは簡単。

 そうじゃなく描写で表すほうがいい。不安なら、「私の進む先に暗く淀んだ雲が漂っていた」これだけでいい。

 ・敵の底が浅い

 

 これは、ダメ映画小説漫画すべてに言えるが、敵または悪役の底が浅すぎる。みんな似たり寄ったり、同じような口調や行動でありきたりこの上ない。書き手が主人公ばっかりに気持ちが入っていて、陰と陽の配分がなされていないのだ(不思議と悪役の存在感が薄い小説は、主人公も同じく薄いことが多い)

 悪役を描くときは、どうせなら主人公より悪役の方に肩入れしてしまうくらい入念に丹精込めて造型しないと、濃密な戦いは生まれないぞ。主人公以上に、なにか独特の倫理観や、哲学を持ってないと魅力は出てこない。<リンク:共犯者 (新潮クライムファイル)>共犯者関根元を見習ってくれ。

 ・退屈な生活をおくる主人公のもとに、都合良く謎の美少女が現れる。

 

 導入で、ここまでうんざりさせられる展開は他にない。冒頭に退屈した主人公の日常が延々と描かれ、突如としてその生活に舞い降りた謎の美少女。これがラブストーリーとかになったりしたらもう最悪…。導入としてはすごくわかりやすくて、お話も運びやすいのはわかるがもう一つ何かひとひねりちょうだい!

 

 ・自分でも言葉にできない鬱積した感情を書こうとしている

 自分の中に溜まった抽象的な[何か」を表現しました、と言う小説はたいがい、つまらない。こういう小説は冒頭にかならず自意識を垂れ流したような文章が長々と続き、ちょっと書いている本人が陶酔している。こういうのを描くのは、玄人向けというか、並外れた文章表現客観性がないとなかなかうまくいかないのよ。最近芥川賞とった「きことわ」ぐらいのレベルなら別だけど。

・なんか自然描写だけの小説

 

 なんかさらーっとしてて、自然とかそういう情景描写ばっかりの小説ってあるよね。たぶん自分の中では美しい情景が思い描けてると思うんだよ。でも他人ってそんなにあなたが感動したことに共感はしてくれないんだよ。よくありがちなのが自然人間の死を対比させているパターンね。

 

・文章もテーマも立派なんだけど、全体的に大したことが起こらない、地味。

 

 こういう小説が一番多い。文章もプロ並み、テーマも素晴らしい、でも地味なんだよってやつ。こういう人はとことん地味な話を書くべか、または自分が普段全く読まないような超エンタメ小説劇薬小説などを買いあさって読んで、一度頭をフルチェンジしてみるのが一番ベストである

・文章もテーマも立派だし、起こっていることもまぁまぁなんだけど、モチーフがありきたりで既視感がある。

 そこらへんに転がってるような話だけじゃ駄目なんだよな。

 ・お話シンプルすぎる。ひねりがまったくない 

  海外の古い短編なんか読むと、こんなんでいいの!?って思うくらいシンプルなのもあるけど。それは昔の時代から通用しただけのことであって、今の時代は「ひねり」をどんどん入れて、読者の意表をつかないと、すぐにあきられてしまう。じゃあ二転三転すればいいのかっていうとそういうわけでもないんだけど、読者を驚かせてやろうってぐらいのサービス精神がほしい。

 

 

2011-12-25

今すぐ消えろ!日本カルチャーシーンを「残念」にした戦犯タイプ

ハロー



聖おにいさんオサレというのよりサブカル臭。それも悪いタイプの。

http://anond.hatelabo.jp/20081210172325

とても根が深いサブカルミーハー問題。『このマンガがすごい2010』を読んで。

http://anond.hatelabo.jp/20091216230059

このマンガがすごい!」は罪深い延命装置。もう犠牲者を増やすな!!

http://anond.hatelabo.jp/20111224192828



を書いたぼくだよ。みなさん自意識丸出しでごちゃごちゃ言ってくるんで、胸焼けするぐらい非常に切ない気持ちになりました。なんというかもう……。

「かわいそうだね?」

って言葉しかでてきません(おっと、つい芥川賞受賞作家ネタが飛び出しちゃったよ。やべー、まさかここで芸術に携われる人間だったら絶対にチェックしておくべき、芸術を理解できないやつは興味ないふりして精神防衛していることでお馴染みの芥川賞ネタが飛び出すとは、俺のセンスパねえ)。

はてなブックマーク、およびツイッターの皆様がたは心のホメオスタシス機能をフル稼働させて自分の殻に閉じこもっちゃっていますね。みなさん図星を突かれたことを必死に隠そうとしていますけど、何で等身大自分直視できないのかねえ。

「格好をつけないことで、格好をつけている」

「「ホメればセンスいいと思われる記号」を批判すればセンスいいと見られると思ってる人の典型的批判」

やれやれ。春の熊に全員屠殺してもらいたいよ(センスある村上春樹ネタ)。

ぼくはきみたちの断末魔叫びで心が汚れちゃったんで、ストラヴィンスキーを聞いて洗い流していました。グッドなアートエバーグリーンな輝きでディ・モールト・ベネだね。

ということで、本題。反応を見ていると、ぼくが批判したい対象がイマイチ伝わっていないようなんで、ここでまとめて表明してみようと思う。

これ以上、この惨状を放置しているとホント取り返しのつかないことになるからね。砂漠に水を与えるようなものだけど、何もやらないよりはマシ、かな……。

きみらの軽い脳みそでも理解できるように4つに大別してあげているから熟読してほしい。2010年代はこういう奴らをいかカルチャーシーンから排除するかにかかっているので、宇野常寛さん、荻上チキさん辺りは参考にしてほしいね東浩紀さんは河原で石でも積んでてください。

では、いきますよー。



映画秘宝

ボンクラ」なんていう安っぽい価値観連帯して、「中学生マインド」なんていう恥ずかしい心性を至上価値にしちゃっている一派。やっていることはひよこのオスメスの仕分けみたいなもん。ライムスター宇多丸町山智浩辺りが「いい」といったものを「味方」と見なして手放しで褒め称えて、けなしたものを一緒になって叩けば、「センスあるポジション」にいられると思っている。

「売れてる邦画はテキトーに叩いておけばおk」みたいな頭からっぽな行動も平気でしちゃう。そんで周りも見てもいないのに賛同しだすから目も当てられない。

中身をまともに分析しないで「大沢たかおが出演しているから、これはクソ映画だ」みたいな論理で動いていて、そんで「バカな大衆」と「審美眼のあるセンス抜群の俺」という謎の対比をしだすんだよね。「なぜこういう内容の邦画がいま売れるのか」なんていう深遠なトピックに触れることは一切ないし、考える頭もない。

自分の物の見方だとか価値観だとかが一切抜け落ちた、ゾンビみたいな奴ら。サブカル年長者の金魚フンをやることに、羞恥心の欠片もない。「独自な物の見方をする人間」についていけば、「独自な物の見方をする個性的なわたし」が出来上がると思っている。

彼らの反応は非常にわかりやすい。ちょっと宇多丸ラジオを聞いただけで、習性がまるわかりで、「ああ、この映画はこいつら叩くだろうな」ってことがすぐに判別可能になる。その分かりやすさが蔓延の原因だといえよう。映画リテラシーがないのに、センスいいと思われたいやつらの格好の逃げ場になっている。

そんで、こういう奴って美意識がないから恥ずかしげもなく部屋に映画ポスターをべたべた貼って、ダサいバンドTシャツを着ていたりするんだよね。それでいて、オシャレに過剰なコンプレックスを抱いているから、「無理してオシャレしているやつは上辺だけの中身のない単なるカッコつけで、ちょっとダサいくらいの自分が本当は一番センスいいんだ病」にかかっていて非常に厄介。自分のダサさまで理論武装しなきゃ生きていけないなんて、ほんとに可哀想だ。

この病気を完治させるには映画について語りだすたびに「それ、ウィークエンドシャッフル宇多丸が言っていたことだね」って言い続けるしかないと思う。「あ、その映画町山智浩キラキラで紹介してたやつか」、「昔、みうらじゅんがその映画ネタにしているのを見たことあるよ」でも可。



伊集院光

人生大切なことは、すべて伊集院光ラジオから教わった」とか真顔で言っちゃう恥ずかしいやつら。

映画秘宝系との違いは、映画を見たりする気力も何もなくて、横になってラジオを聞くぐらいの体力しか残されていないのに、自分が第一線にいることを疑わずに最新のカルチャー必死に否定してくる。「最近アニメって萌えばっかりで中身がないよね」って見もしないくせにしたり顔で口を挟んでくるのがこいつら。

自分中年化し、ついていけないことを認めることができなくて、漫画アニメ伊集院が褒めるものけが絶対だと思っている。『わたしは真悟』だとか『アストロ球団』だとかね。

映画秘宝系はまだ自分の足で作品を鑑賞しようっていう根性があるけど、こういう奴らにはそれすらない。平気でCMカットMP3音源違法ダウンロードして、「やっぱり伊集院さんって聡明だよなあ」なんてアホ面下げてる。その続きはもちろん「本当に頭が良い人って伊集院さんのことを言うんだよな。やっぱり人は学歴職業じゃなくて、物の見方で頭の良さが決まるんだよな~」なんて考えいて、「ダメ自分は本当は感性が鋭くて、周りのくだらない奴らよりもずっとずっと頭がいいんだ!」って泣きながら自己肯定をしている。

「人見知りなのは感性が鋭いからだ!」

バイト面接で受からないのは、感性が鋭いからだ!」

住民税を滞納しているのは、感性が鋭いからだ!」

もうなんでもあり。

こういう奴らのためにはっきり言ってあげるけど、「感性」っていうのは行動で示さなきゃ形にならない。布団のなかで自分を慰めるための感性だなんて、ありゃしないよ。ゴミクズよ、もうよせ、こんな不毛自己肯定は。



ビレバン

ある意味一番病気かもしれない。

「センスがいい」というタグを貼られた商品を必死に買い集めて、なんにもない空っぽ自分必死デコレートしようと頑張っている。ビレバン下駄を履かせてもらわなきゃ、外を歩くことすらできない可哀想な人。自分ビレバンから与えられる餌を食べているだけの家畜だってことに気づけない。

こういう奴がセンスいいと思われたい一心カルチャーシーンを引っ掻き回して、むちゃくちゃにしていく。「このマンガがすごい!」で上位に入る漫画悲惨犠牲者なのは、前の記事に書いた通り。

なんにも作り出せない、作ろうともしないくせに、必死に消費物で「ぼくちゃん、クリエイティブなんだじょ!」とアッピールしたい厚かましい愚鈍マリオネットたち。

こういう奴には「お前、ひょっとして浅野いにお漫画の登場人物を気取ってない?」って聞いてみよう。ズレてない眼鏡を何度も押し上げながら、「き、きみぃ、いにお漫画はね、単なるセンチメンタルじゃなくて実験的な手法にも取り組んでいて云々」って聞いてもいない作品論を震えながら語りだすぞ。

さらに「そのボブ、もしかしてつぶやきシローリスペクトしているの?」って言ったら卒倒しちゃうので注意。

もし友人にこの手合いがいたら適度に自意識を潰してあげて、「やっぱビートルズが一番だよな」ぐらいのレベルに留めさせてあげるのが吉。弾けもしないのに部屋に置いてあるギターは、親切心で河原で燃やそう。



つぶやき批評家

そう、お前らだよ。お・ま・え・ら☆

はてブツイッターなどの安全からお手軽に一言批判して、「ふふ~ん、ぼくちゃん、こいつらよりも頭がいいもんね~。見てみて! ぼくこの人否定しているよ!! こいつより頭いいんだよ!! ほら、見ろよ、もっと! 見ろっ、見ろぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!!!」と汚い欲望を身体中の穴から漏らしている。

文字数制限を盾にして根拠もなにも示さずに、自分の頭で否定できる一文をなんとか見つけ出して、「やれやれ。きみはなんにもわかってないね」とただ否定するだけ。熟議に何の貢献もしない、耳を汚すだけのノイズ

大抵のバカなネットユーザーは脳の大部分が「最新情報の暴飲暴食」でスカスカになっているため(俗に言う「グルーポンおせち状態」)、比較検証なんていう基本的なこともできない(本人は「できない」とすら気づいていない。そこを突かれると「時間がないから」「忙しいから」と言い訳して、何も届いていないメールボックスをチェックしだす)。だから、「最後勝利宣言をした人間」に説得力があると思っちゃう。

このような「つぶやき批評家(気取り)」と「情報ジャンキー」はまとめてネット中毒矯正院にぶち込むべきですね! そこで『アルプスの少女ハイジ』でも見せて、少ない情報いかに咀嚼するかを学ばせたほうがいい。こいつら、醜く太っていることが勲章だと思っているからさ。



以上、今すぐカルチャーシーンから撤退すべき害毒な消費者タイプでした。こういう奴らが蔓延っちゃったのは「個性大事」という間違った教育と、「作品の解釈受け手が決める」なんていう甘やかしの成果だと思う。

確かにある程度の解釈は読者に任されるだろうけど、それを理由に笑っても怒っても何しても構わないなんてことはない。それだとスタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』を見て、原子力礼賛だと思っちゃうようなことを許してしまう。

ぼくのような高い視座に立てているクリエイターって本当に少ない。名前を挙げるとしたら、映画監督紀里谷和明か、小説家岩崎夏海くらいか

特に岩崎夏海の『「小説の読み方」の教科書』は上記であげた連帯のためだけや、センスいいと思われたいだけに消費する行為の解毒剤として最適なので、みんな読みなさい。早く読まないと、時代に取り残されちゃうよ。2010年代クリエイターズバイブルだね、この本は。

みんなもうさ、中身のない自分を無理やり肯定するためにアートを利用するのはやめようよ。空っぽ自分直視して、中身ある人間になるために努力するべきじゃない? ソクラテスプラトンも、みんなそうやって大きくなっていったんだよ。

2011-12-05

ハックルという人物は、いつまでも理解出来ない存在で在り続けてほしい

http://www.4gamer.net/games/000/G000000/20111205001/index_2.html

なんというかね。僕は,理解できないものであり続けるのってとても大事だなっていつも思うんですよ。

そして,そのためにはね。自分自身が理解しちゃダメなんです(笑)だって自分で分からないものは他人が分かりようがないでしょ。

めちゃくちゃなのが良いってことでは決してないんだけどね。でも,「理論」と「感性」の違いというか,「理論」と「感性」の関係ってどういうものが良いのだろうかというのは,昔からの僕の中のテーマ

たぶん,人間が理解できるかできないかギリギリのところで,かつ微妙に説明がつかないところにこそ,ヒット作品って生まれる

簡単に理解できるものなっちゃうと,ライバルが多くなりすぎちゃうし,先に行き過ぎちゃうと,今度は理解できる人がいない。

偶然や運も含めて「才能」と呼ばないといけないんだと思いますよ。才能ってかなり運で左右される部分もあるし。

もしドラだけでハックルさんを理解したつもりになってはいけない。

もしどらは、単に「理解しがたいキャラ」を演じてるハックルさんが、地を出しただけ

我々には想像もつかない存在であるハックルさんが、理解できる部分だけを抽出して示してくれたものなのだよ。



http://ulog.cc/a/fromdusktildawn/11738

謙虚」だとか「偏見を持たない」という表現を選ぶのは、「かろうじてウソでなない範囲で、道徳的に正しく尊敬できる人間を目指しているように見える」という理由からであって、必ずしも「身も蓋もなくリアルに役に立つ」からではないのです

実際に役に立つ自己啓発ノウハウを、できるだけ妥当な評価をするとすれば、たぶん、そういう人たちを「卑怯な手段で成功した」と思いこみたい人から邪悪に見え、「自分成功者になりたい」と思いこみたい人から道徳的で崇高に見えるけど、実際は、そのどちらとも簡単には言えないような、簡単な言葉では表現不可能な技術ノウハウの体系のように思えます

ハックルさんの書いてることはそういうことなんだよ(棒






http://anond.hatelabo.jp/20111115162629

書いた人間だけれど

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20111117/1321497082

捕捉されてた。はっきり言ってキモいありがとうございます

これは「ハックル」でエゴサーチしているっぽいところが笑いどころ。

ちなみに私はずっと増田で書いているが、書いたことがハックルさんに取り上げられたのは3回ある。常に他の誰かを攻撃する時だった。なんだかねー。




いや、違うか。彼は待ってたわけだ。

fujiponさんの記事を見て、直接文句をいうのではなくて、あえて誰かがその記事に茶々入れるのを待っていた。

そして、機が来たと思って一気にそれを放出したのだ。

その他の自分に対する言及のストックを見ても、こちらの可能性のほうが高い。

彼のPC内にある「こいつだはは絶対に許さないよ」リストとか見たらすごいことになってそうだ。





そんな訳で、彼は機が整うまで待てるタイプなのかもしれない。

いや、タイミングのウマさよりも、エネルギーを貯められるということのほうが重要かもしれない。

彼のわけわからんエネルギーをわけわからん形で貯めて、他の人の考えもつかないヘンテコリン物質を創りだすその性質は、ダークマター(未元物質)さんを彷彿とさせる。

間違いなく小説家よりはアウトサイダーアートとかに向いてると思います

エースの系譜は、ひたすら10年間自分の指導する生徒を使いつぶしながら、自分だけは可愛いマネジャーに手を出してリア充を満喫する監督の話だけれども

あの作品に投影された作者の心境を思うに、どんだけのどす黒い感情が彼の中にあるのか。彼を表現するのに小説という枠は狭すぎるぜ。

彼自身は小説には無限の可能性があるみたいなことを書いてたけど、

乙武さんは、「自由」という言葉を驚くほど軽い調子で口にするが、問題なのは、そもそも乙武さんの「自由」に対する考え方がとても貧弱なところだ。真の自由は「自由に発言させ、自由に考え」る中からは生まれない。発言を規制し、考え方の枠組みを押しつけるところから生まれるのである

多分彼が小説の枠の狭さとか自分執筆能力矮小さに気づいたら、小説をぶっ壊すくらいのことはしてくれると思う。

少なくとも日本小説の枠の狭さに耐え切れずに「小説の読み方の教科書」みたいな本を書いちゃったくらいであるわけだしね。




そんな彼の最新作はこれ

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20111130/1322621523

僕はページを開いたタブをそっと閉じた。ハックルさんの本気は人類には早すぎる。

小説は正直もういいんで、彼が次にどんな未元物質を生み出すのか今から楽しみでしょうがないです



・・・さて、こう書いた私は彼に何を投影しとるんかな?

2011-12-02

http://anond.hatelabo.jp/20111202125722

出版社で働いて小説家漫画家編集者になってみてはどうでしょう

出版業界の内部を知っておくことは小説でご飯を食べていくつもりなら有益

そして元増田さんが何かショートショートを書いて増田に投下してくれるのを期待する視線

|∀・)ジー

http://anond.hatelabo.jp/20111202145432

だよねぇ……

公募賞の受賞者に担当がついて最初に言うことは、

「専業作家になろうとは当面思わないでください」

なぜなら、作家1本で食っていけるだけの人はごくわずかだから

賞をとるレベルの人であっても、受賞作から数作で消えることもままある。



北村薫埼玉高校教師小説家の二足のわらじだった。

日本推理作家協会賞」受賞当時もまだ教師。直木賞ときはさすがに専業。

瀬名秀明は在学中にデビュー日本SF大賞受賞時は大学勤務、現在兼業

大鐘稔彦は医者やりながら作家原作者。「孤高のメス映画化されたね。

二足のわらじは決してめずらしいものではない。



……で、元増田の受賞歴はどんなんだっけ?

http://anond.hatelabo.jp/20111202125722

小説家としてやっていけるのは

「よーしとりあえず無様に就活に全力投球して、その詳細をメモしておいて、いつか小説ネタに使おう」

くらい考えられる人間だよ。

現在大学三年。偏差値は60後半台の大学

もう留年が確定して半期遅れての就職になることが決まっている。

就活、何すればいいんだろう。

やりたい仕事なんて思いつかない。

中学の時からずっと小説は書き続けてきた。

物語を作ったり、文章で人の心を動かしたりは好きだった。

ネットで少しはファンができるぐらいの成果がある。

大学辛口教授自分の文章を認めてもらったこともある。

小説家になりたかった。

でも、まともな職につかなくてはいけない。

このご時世、作家なんて職業がろくに食えるものじゃないことは知っている。

じゃあなにを?と思うけど、本当にそれ以外やりたいことが浮かばない。

バイト子供勉強を教えていたことがある。

教えるのがうまいと言われていて、

実際に担当した小学生を全員第二志望以上の私立中学に受からせ、

担当した高校生医療系の大学に受からせた。

もっとも、彼らの全ての勉強を見ていたわけではないけれど。

でも、心の底では子供勉強なんてしなくていい、遊べと思っている。

中学入試や高校入試無駄ハイレベル学校を目指させるのは、

子供の心をすり減らすだけだ。

同級生が心をすり減らしてきたのを目の当たりにして、敵意が消えない。

そういえば、倉庫整理のバイト日雇いでしたこともあった。

一日でやめた。

同時に二つ以上のことを理解できなくて、なにをどう運んだかが分からなくなって、

気づいたらパニック障害をぶり返しかけていた。

最初大阪弁で怒鳴り散らした先輩は最後には呆れて「自分、初めてか」と聞いた。

腕が震えて腕をボールペンで突き刺すのに忙しくてしゃべれなかった。

中学職業体験ではスーパー仕事レジ以外)をやったので、

これぐらい平気だろうと思っていてなめていた。甘かった。

働いたことがあるのはそれぐらいだった。

話がそれた。

就活どうするかだ。

たぶん、頭でものを考えたり計画を立てて準備する仕事が向いている。

逆にその場その場で機転を利かせる仕事は絶対に避けるほかない。

スーパーレジ打ちなんて想像したらそれだけで吐きそうだ。

でも、自分性格からして極限まで甘えてギリギリになって就職先が見つからないと思う。

これから人生が腐っていく。

大体、就職のために変わった勉強をしようなんて思えない。

こういう文章を書くだけで何もしない甘えたガキの俺は、十年後に後悔して自殺するだろう。

もういっそブラック企業に身売りして根性叩きなおしてもらった方がいいんだ。

それ以外方法がなくなるまで甘えてしまうだろう。なんで生きているんだ。早く死ねよ。

とりあえずリクナビとかマイナビ身投げしてみよう。大学から帰ったら。

それ以前に卒論題目もまともに決まっていないけれど。

ああもう、小説だけ書ければいいんだ。それ以外は全部余分なんだ。

でも、そういうわけにはいかないんだ。

働こう。就活をしなければならない。甘えるな精神病ごっこで逃げるな。働け。さもなくば死ね

2011-11-21

http://anond.hatelabo.jp/20111121020342

自分親族を思い出したので、個人的な思いで答えにならんかもだけど、書くよ。



まず、ツレの弟が君と似ている。

両親もそんなかんじで、結局母親が出て行ってしまっているが、絵描きバイトが月1で、あとは夜シフトコンビニ店員。

お金いから仕方なく実家暮らし、壁ボコボコ

普段は人当たりいいし、リーマンみたいに楽してないから、話しているとコイツ心が優しいなと思うんだけど、突然キレたりする。

あくまでその弟について思うことだけど、

ツレの家族はそういう職業不定な子を定石通り、ちゃんと定職についてほしい、でないと半人前、と扱っている。

家族で食事したり飲んだりするけど、そういう扱いがちらついて、確信的になると、弟はキレて出て行く。

(もし弟が自殺しそうなくらい不安定だったらそんな扱いを表に出さないんじゃないかと思う。)

ここには、思想の戦いがあって、弟は数で負けているだけだと思っている。

親や兄弟は、朝起きて仕事(教えれば誰でもできるような事)をして、夜は仕事の付き合いや家族で団欒、

そんな日々の繰り返しで家族を増やして貯蓄もそこそこする、みたいなのが、幸せというか正解であって、

定職もつかずフラフラしているのは、考える余地もなく甲斐性なしだと思っている。

弟は、それを正解とは思えないが、自分の現状も、胸を張って正解とは言えないので、一人で追い込まれてやるせなくなっている。



一方、うちの叔父の話なんだけど、

アラフォーで、フリーカメラマンやってる。昔は地方局に勤めてたみたいだけどイヤになって

今は競馬の馬の写真とかを、お金がないか深夜バスで何百キロも乗り継いで撮って売ってる。

暇な時は訪問販売とか怪しいことやっている。もちろん実家暮らし独身

もしこのおっさんがツレの家族だったら、扱い酷いだろうなと思う。

けど叔父の家族は、自慢の息子だって言っている。

そしておっさん自身は、悲壮感なく、苦労している分優しくて、話していると楽しくなる。

おっさんと話していると、この人の人生も正解だなと思える。



自明かもしれないけど、人のそこそこ満足に生きられるかは、

ステータスの違いでなくて、その場の思想(ベーズとなる考え方)の違いだと思う。

君が「文才もなくて本当にまいった」と書いているが、それは文才があることが正解だと思っていて、

文才がない自分に気分が落ち込んでいる(まぁ建前上書いただけかもしれないけど)とする。

確かに文才があったら、はてぶで人気エントリーになるかもしれないけど、君が小説家とかコピーライターとか

文才を生産活動につなげるような生き方を目指していないかぎり、結局は旅行とかと同じ一時の消費活動で、

しかしたら空しくなる可能性だってある。文才はないことを悔やむ必要はなく、あったら喜べばいい。

そういう精神衛生上ベターな考え方をできる状態に自分をおけるかが大事だと思う。

正直、何件かFBが付いている時点で、君の文章は何人かの人を動かしたのだからいいんじゃないの。



自分も昔、自己啓発を読みまくったり、一人旅して散財してむなしくなったり、心療内科に通って「嫌な気分よさようなら」を読んだりした。

カウンセラーのとこにも半年ほどかかったけど、結局、生きるのが楽しくないとか、将来に希望を持てないとか、

悶々と考えたって、スッとするような回答は誰も与えてくれない。

もし与えてほしいなら宗教にハマるとか、そっちに拾ってもらうことになる。

宗教という言葉を使うなら、会社ある意味宗教で、似たような人間が回りにいて、違和感が薄れていった結果だと思う。


なので君が、そんなに違和感を感じないコミュニティを見つけて馴染んでいけば、イライラは減るんじゃないかと思う。

自分をどうにかするんじゃなくて、自分に近い人を探して混ざっていくことがいいと思う。

大事なのは自分でもんもん考えて行き詰っているんだから

自分ひとりでやらないで、自分を肯定してくれるような人を見つけて関わってみることだと思う。



追伸:

当てがなく若い男が体をもてあそんでいるなら、自分は今被災地にいるので、ボランティアにでも来いよと言いたい。

2011-11-18

増田の良いところ・・・なのかな?

ブログメルマガを数か月前に始めたんですが、どうしても続かないんですよねえ…」

という人の理由は、だいたい決まっています

本人は「面倒だから」「忙しいから」と、執筆時間が取れないことを理由に思っているのですが、実はそうではありません。

「書く準備がないから」です



ブログメルマガなどネットでの情報発信になると、大抵はパソコンを使うと思いますが、

多くの人が、パソコンの前に腰を掛けて画面を見つめてから、「さあ、書くぞー!」と思い始めます

そうすると、何回かは書けるかもしれませんが、やがて書くことがなくなってきます

から何も出てこなくなってしまうのです

以前書いたことしか思い浮かばなくなってしまう。書くことが思い浮かばない。

から書ける時間がかかってしまう、だから書けずに続かない、というわけです



 

小説家という職業は、机に座って仕事をしているイメージがありますよね。

机に座って、原稿用紙を前にして、「よーし書くぞー」と書き始めるように思ってしまます

でも、作家の多くは、「さあ、書くぞー!」とペンを入れている時には、もう仕事のうちの半分以上が進んでいるのです

それは、構成を作ったりキャラクター造成をしたり、そしてその分野に詳しい人に取材をし、その分野のいろんな文献を用意した上で書き始めるのです

まり、「さあ、書くぞー!」という時には既に、準備をしたものを仕上げる状態になっているわけです

最後に作品として組み上げていく仕事なのですから、全体としての仕事はもう終盤に差し掛かっているわけです




モノを書く時は、書く時点では終盤でなければならないのです

それまでのインプットや準備が、大切です

何も書く準備がない状態で「さあ、書くぞー!」とやるから、そこから何も進まなくなります




営業日報を書くのが毎日大変だという人は、日報を開いてから日報を書く」仕事が始まるからダメなのです

日報を開く前に、「日報を書く準備」をする、つまり日報に書くべき内容を先に整理して置いたり、資料をこまめに集めて置いたりするわけです

手元に準備したものが多ければ多いほど、「さあ、書くぞー!」という時には、その準備したものをササッと組み立てればいいだけなのです

どうしてもモノが書けないという人は、「書く準備」に力を入れてみましょう。

「書く準備」が万全であればあるほど、簡単に書けるようになります

実際に書くのは、全体の終盤でいいのです

「さあ、書くぞー!」という時点で、既に書くための仕事がどれだけ進んでいるのか、ということを考えていきましょう。


ブログ持ってるけど、ブログはある程度書くテーマ決めてソレしか書かない。

考えずに更新できるから楽といえば楽だけど、たまにつまらく感じる時がある。

ブログ持ってると、なんかしらんけど、書かないでいるのが悪いことのように思えてきちゃうからね。

読者の目も気になるからいろいろ細かいこと気にしないといけないしね。特に他人の記事のコピペとか気を使うのでしんどい。

どうせ自分の書いた記事なんて誰もずっと読んでくれたりはしてないのにさ。




増田ではかくじゅんびができたときしかかかない。というか書きたいって思った時しか書かない。

増田はダレがよむことを期待もせず、読者の存在勝手想像してプレッシャーを感じることもなく、

ただ自分が書きたいと思った時、書くことを考え終えたときに書けばいい。

楽でいいです

ただ書きたい、ってんじゃなくかきながら文章を上手にしていきたいとか、誰かに伝えて共感して欲しいとか

そういうことを考えだした人は、まぁブログとかやればいいじゃないかな。

でもブログをかく習慣が出来る前に、増田でならすのは大いにありだと思います





まぁそのかわり、自分ストレッチする要素もないけどな。楽すぎるってのは人の成長に良くないです

むしろ、制約もないから(自分らしさに拘る必要もない)、

この記事みたく、本当にそのとき感情のまま支離滅裂なことを書いちゃったり、自分堕落させる危険もあるわけでなー。

読まれる文章を書きたいって人は、増田なんか使ってないで、しんどくても早めにブログに移行していくほうがいいと思います

まあ、増田で書くにしても、自分なりのルールを決めて書けばいいんじゃないかな。 

せめて自分一人称やら文末を統一するという初歩的なレベルから、私には想像もつかないような厳しいルールまで。

たとえば、「ラブやん」の田丸浩史いわく、一番むかつく言葉は「ま、」とか「まぁ」らしいです

散々偉そうなことを言っといて、すぐ「俺はどうでもいいけど」みたいなポーズを取るのは、たしかに他人からしたら気に入らないかも。

私よく使ってるので、これからマイルールで、この「ま、」とか「まぁ」ってのを禁止して文章書くように意識しようかな。

私的には結構しんどいけど、他の人はどうだろう。

ヒモ生活がしんどいけど働く気にもなれない。

すいません、ヒモです。生きててすいません。

今は38円の充填豆腐冷奴食いながら、ブラックニッカの水割り飲んでます

足元では彼女が寝てますが、これ書きます

それでですね、俺元は一応金融マンでした。結構イカした金融マンだったと思います自分で言うのもなんだけど。

ところが、ある日突然何もかもがプチーンと弾けて、俺は仕事を辞めました。まー、限界だったんだと思います

親は俺を勘当し「二度と我が家に近寄るな。タカリに来るな」と言いました。まー、そんなもんですしょうがないです

そういうわけで、俺は二度と親に迷惑をかけないようこの東京ヒモ生活を始めました。そろそろ四ヶ月が経ちます

彼女公務員です結構キツい仕事のようで、大分疲れた顔で帰って来ることが多いです

大学時代から付き合い7年目。仕事を辞めた俺を受け入れてくれた、大事な宿主です

そういうわけで、家事は全般的に俺が請け負うことになりました。まぁ、それくらいは当然ですよね。

朝起きると、まず朝食を拵えます彼女和食が好みなので、魚をメインに組み立てます

まぁ、アジの開き、厚焼き玉子、ほうれん草の胡麻汚し、メシ、味噌汁、みたいなのを作ります

彼女は6時半には家を出て行くので、その後膨大な時間が残ります。まぁ、洗濯をして掃除をして一時間半。

それから買出しその他の雑用をしてもう一時間半。まだいいとこ10です

この辺りで煙草を一本吸って、コーヒーを飲みます。そして本を読む。すると、2時くらいになります

さて、この後彼女が帰るまでの数時間、俺は何をすればいいんでしょうか?

もちろん、この生活がずっと続くとは思ってません。いつかは、俺も働かなきゃいけない。

そういうわけで、FPや証アナをとってみたり、あるいは中小企業診断士勉強をしたりと色々してみたんですが。

なんていうか、自分がもう一回組織で働くビジョンが一ミリも出て来ません。多分、働くくらいなら死ぬ、と

割と真剣に思ってるんだと思います。ところが、埋め難い退屈が同時にある。

ふと思うんですけど、専業主婦の皆さんって普段何してるんでしょうか。だって、どう考えても家事なんて、

どんなに遅いとしても午前中には終わるじゃないですか。その後数時間の空白をどうやって埋めてるんだろう?

これは人生に二度と訪れない休憩時間だ、やりたかったことをやろう、とかも思ったんです

例えば、かつて小説家になりたくて本を読む時間が欲しかったこととかを思い出して、必死に本を読んだり

あるいは文章を書いたりしてみたんです。でも、全然やる気にならない。

じゃあ、カネになることをやればいいじゃないか。例えば、金融出身なら投資やれよ、とかそういう話なんですが。

これもまた、全く手につかない。マネーゲームは大好きだった筈なのに。だから金融に行った筈なのに、

全然やる気が起こらないんです自分の状態が全然理解出来ない。家事楽しいのに、それ以外何もできない。

一日煙草を二本吸いますコーヒーを二杯飲みます。あと、人並みにメシを食います

それでも生活費って、年金保険を入れても正直5万でお釣りがきちゃうんです

この生活が永続しないことなんてわかりきってます。俺も彼女もいずれ老いる。何かを考えなきゃいけない。

なのに、全く気力が回復しないんです。「これって鬱か?」と思ったんですが、そういう症状も全くない。

これまでの半生、わりとエネルギッシュに生きて来たつもりなんです。なのに、今ここから抜け出す気力が1ミリもない。

これはどういうことなのか、自分にも全然からない。欲望という欲望が消えてしまったみたいなんです

身体的な症状といえば、完全な不能になったことだけが唯一の問題点なんですが。

その点も、あの若かりし頃の行き場のない欲望から開放されて、むしろ快適なくらいで。

なんなんでしょうか、この状態。甘えるな、働け、と言われたらそのとおりです

しかし、俺は多分カネが尽きても多分働かない気がしてならない。彼女に放り出されたら、今のこの気持ちのまま

サクっと自殺しちゃうと思うんです。こんな状態は自然じゃないし、正しくもないと心の底から思います

しかし、何も沸いてこない。どうしていいか全くわからない。

わけのわからない文章を書いてすいません。寝ます

2011-11-10

[] 本来の「もしドラ」はこういう小説だったんじゃないか

長くなったので、先に結論だけ書いておきます

もしドラには2つテーマ性を感じた。(作者的にはもっとあるのだろうけれど力を感じたのはこの2つだけ)

 ・人間出会いや出発点を描く、という意味では素晴らしい作品だと思う。

 ・社会からズレてしまっているor適応する振りをして生きている人の生きづらさとその解放を描く、という意味では中途半端もったいない

全体としては今ひとつだけれど、ものすごく光る要素を感じる作品だったと思う。



というわけで、「小説の読み方の教科書」の次に「もしドラ」の感想を書こうかと思ったけど、

この不思議な「小説」については、単体で語りにくいので、「少女不十分」という「小説」を補助線として使わせてもらいたいと思う。

ちなみに、西尾維新の作品を読んでない人にはわけわからんですがご了承ください。





ものすごく読みたくなる西尾維新少女不十分」感想文 http://zeark969.blog38.fc2.com/?no=2968

私はこの感想読んで、少女不十分よりもむしろむしろ「もしドラ」を読み返したくなった。

(というか少女不十分の内容としては不適切だと思っている。少女不十分は「難民探偵(白)」のようなものなので、こっちも読んで見るよろし)

はてなベテラン小説家としては新人として「少女不十分」を書いた結果がもしドラなんじゃなかろうか、と。

 

僕は本作以外に西尾作品を知らないが、西尾維新の作品がいくつも映像化されていることくらいは知っている。

まり、できるのだ。

西尾維新だってシンプルな文章と無理のない展開でベストセラーとなり、映画化されるレベルものを仕上げるのは容易なはずなのだ。

ではなぜそうしなかったのか?

それはこの作品が小説家を目指していたかつての西尾維新の半自伝的内容であることを思えばすぐに答えは出てくる。

しかしたら今よりも小説に対して真摯だったかもしれない時代の話。

西尾維新はこの作品を絶対的に小説としてだけ存在させたかったに違いない。

間違ってもいつものように高く評価され、メディアミックスされないために、あえて未熟な箇所を多く設置したのだ。

少女不十分が新人の作品だとしたら、おそらく三ページも読まれない内に棚に戻されてしまうだろう。

西尾維新という安心ブランドがあるから、読者は多少の違和感は覚えつつも読み進めてくれるのだ。

そして気づく。

普通に書けば一行で済む文章に、比喩暗喩、掛詞、反語、反復、倒置法、隙あらば韻を踏もうとするなど

数々の言葉遊びを仕掛け、自分小説を支えてくれたファンに精一杯「活字」で恩返しをしてくれていることに。

そこに筋の通ったストーリーなど必要ないことに。

これこそ本作が絶対的に小説でなければならない理由だ。

10年かけて築いた信頼関係がここにある。

僕は本作以外に岩崎作品を知らないが、岩崎夏海の作品がいくつも映像化されていることくらいは知っている。

まり、できるのだ。

岩崎夏海だってシンプルな文章と無理のない展開でベストセラーとなり、映画化されるレベルものを仕上げるのは容易なはずなのだ。

ではなぜそうしなかったのか?

それはこの作品が小説家を目指していたかつての岩崎夏海の半自伝的内容であることを思えばすぐに答えは出てくる。

しかしたら今よりも小説に対して真摯だったかもしれない時代の話。

岩崎夏海はこの作品を絶対的に小説としてだけ存在させたかったに違いない。

間違ってもいつものように高く評価され、メディアミックスされないために、あえて未熟な箇所を多く設置したのだ



もしドラ新人の作品だとしたら、おそらく三ページも読まれない内に棚に戻されてしまうだろう。

ハックルという安心ブランドがあるから、読者は多少の違和感は覚えつつも読み進めてくれるのだ。そして気づく。

普通に書けば一行で済む文章に、比喩暗喩、掛詞、反語、反復、倒置法、隙あらば韻を踏もうとするなど数々の言葉遊びを仕掛け、

自分自尊心を支えてくれたはてな村住民に精一杯「活字」で恩返しをしてくれていることに。

そこに筋の通ったストーリーなど必要ないことに。これこそ本作が絶対的に小説でなければならない理由だ。

10年かけて築いた信頼関係がここにある。

本来はこういう小説だったんじゃないかと思う。





少女不十分に対する批判と、もしドラに対する批判って、文章力「以外」ではほとんど同じだと思う。

ご都合主義だとか、作者の自慢だとか、作者のこと自体が気に入らないとか、これが本当だったら俺の人生は何なんだ、とか色々。

テーマも似てると思う。 

少女不十分の少女みなみであるし、少女不十分の主人公は岩崎夏海であり、

あるいは、少女不十分の少女岩崎夏海であり、少女不十分の主人公はドラッカーである

(この「混在」のせいで、読者からすると「ドラッカー」の価値がわかりにくいを通り越してドラッカーなめてるような小説に見えるのはご愛嬌。)



そういえば、岩崎夏海がめずらしく西尾維新化物語をほめていたのが結構印象的だった。

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20111006/1317885951

しかし読めばわかるが、彼はその褒め方について化物語面白さを全然語れていないと思う。的外れもいいところだと思う。

多分、それはもっと本質的な部分で感動させられたのだろうけれど、猫物語(白)の羽川翼のように、

化物語自分本質を付いているということを、それにゆさぶられることによって見えた自分の核の部分を見つめることを避けたのかも知れない。

彼はジョブズについても的はずれな分析とか論評を書いているが、

意外とブログに書いているとぜんぜん違う部分で本当にジョブズに救われたような部分があるのではないか

彼が的はずれなことを書いている記事ほど、彼がその対象に本当に揺さぶられてるんじゃないかとおもう。

この人は結構こういう「出会い」の体験を何度もしている人なんじゃないだろうか。

ぎりぎりの所でなにかと出会って救われたり、出会い自分を飛躍的に変化させる、ということを、体験から理屈を越えたレベルで信じているのだと思う。

(この部分に思いを馳せないと、この作品には、つながりとして「?」を感じてしまうことになると思う。)

ブログを読んでいても、この人は「真の教師」を求め、自分も誰かにとってのそれでありたいんだろうな、という点はよく伝わる。

もしドラ成功後は、デュルケムの言うところのアノミー自殺に対抗するためだろうかその傾向を加速している印象だ。(あまりにも空回りしている印象があるが)





もしドラ」も、正直ドラッカーについてすべてを理解できているようには感じなかった。

ただ、その必要はないんだ、と思う。それは学者仕事で会って読者の仕事ではない。

むしろ化物語ヒロイン阿良々木暦出会うことで、生まれ変わりを果たすように、

みなみドラッカーコミットしていく過程自分をみつめ、劇的に変化する。その部分が大事なんだと思う。

経営学者としてでもなく、社会生態学者としてでもなく、一人の人物としてドラッカー出会い

そこから何でもいいか自分物語に必要な何かを学び取り、自分自分で救い、クソッタレ世界の中で生きていく。

そういう「一人の人間の、出発までの話」を書こうとした部分はすごいと思う。

私はそういう意味で、この本は「ドラッカー入門書」という言葉は正しいと思う。まぁドラッカーに限らずの「出会い入門書」と言いたい。

先に感想を書いた「小説の読み方の教科書」は少し茶化したような書き方をしたけれど、もしドラは本当に「小説との出会い方の教科書」と読んでもいいと思う。

(もちろんもしドラは「出会い方」しか教えてくれないので、その後の「斬り結ぶ」方法や「深める」方法などは別の書物を参考にするべきだが)




「成長ではなくて出会いを描く物語」「劇的な結末ではなくて出発点を描く物語」「恋愛や友情以外でも人を変える出会いはある点を語った話」という点に絞ってみれば、この作品はかなり素晴らしい作品だと思う。(逆に前者側の評価指標で見るとすごい低評価になる)

作者がもしドラ成功した後すぐ別のところに興味が移ってしまうあたりを見ると(的はずれなことも多いけれど)

おそらくこの人はそういう「出会い」や「出発」を求めてやまないタイプなのではないかと思う。

正直アニメでもなんでも、ありきたりな結末には飽き飽きしているので、むしろこういう「強烈な出会い」や「強い動機の出発点」を描ける点を大事にしてほしいなと思う。

時代的にも、大人が語る将来や成功といったものにはネガティブイメージがつきまとう。

大事なのは、そういうつまらないゴールを目指してごちゃごちゃやる話とか、決断主義もののような、義務感で戦うみたいな話じゃないと思う。

ゴールはよく分からなくても、スタートせずにはいられないような強烈な出会いを描くことなんじゃないかと思う。

大人が読んだら無責任で、危険な話かもしれなくても、まずワクワクさせられるスタートをこそ、読みたいと思う。





ここから蛇足。それにしても・・・

ここまでわかってた上で、要するに結末部分はおまけだ、というのはわかっていても、まぁラストはひどい。笑えない。

あれは物語カスにする要素であったと思う。蛇足どころの話ではない。この結びによって、この話そのもの茶番になっている。あまりにも若者馬鹿にしている。

出版社ダイヤモンド社でなければこの部分は書かなかったのではないかと今でも信じたい。

もちろん、作家としては新人の彼が、出版社の意向を無視して好きな様に書けるわけではなかっただろう点は承知している。

から、この作品については特に序盤については高く評価しつつも、次回作以降の期待を込めて全体としては低い評価を付けたいと思う。

そういうわけで、私は序盤と中盤以降で、別の作品とまでは言わないが、作者の本質は序盤にあると思っているため、

作者がその「結末」を持って、「序盤」部分の書店員の行動を正当化したあれは、全く理解できなかった。  http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20110812/1313128129

作者自身が、序盤と結末をつないでしまうこの感覺が私には今でも理解出来ない。どういうつもりなんだろうか・・・




結論 うまくここに接続出来なかったのでやや唐突ですがご了承ください

良くも悪くも40歳のこれはオッサンでないと書けない、40歳のオッサンの感性で書かれた話だと思う

この作品を理解する上でドラッカーの知識は全く必要ないが、ある程度の人生経験というか前提を共有できることは必須だと思われる

少女不十分」が、西尾作品を読んだ人でないとほんとうの意味で感動出来ないように

(彼の10年の積み重ねや作品傾向を知らないと、作品の芯の部分に心から共感できず、ただのお話に読めてしまうのと同様に)

もしドラ」という作品がほんとうの意味でわかるのは、ビジネスの良いも悪いも知った40過ぎのオッサンではないか

はいま21歳だけれど、この小説を今の時点で本当にわかったとは言い切れないので、コレ以上はなんとも言えない。





次はfateかPersona4の話をしたいと思いますzeroじゃなくてstay/nightの話ね。

本当はもしドラのもう一つのテーマであろう「生き辛さ」について書きたかったのだけれど、

正直もしドラはコレについて十分に描き切れた作品だとは到底言いがたいので、それはPersona4fate stay/nightにまかせる。

2011-11-01

turimotonaoki

2006年タイ売春婦に対する調査では、10%がお金が有っても売春を続けると回答しており、売春業を嫌いだと回答した者は8%に過ぎない。

タイフリー売春婦について http://www.npo-gina.org/pasd/GINA/sub4-p.htm

この統計から判断するに、売春楽しいと思ったりお金が貰えなくても続ける人は一定数居るでしょうね。

日本でも中村うさぎという小説家が、お金ではなく自分に女としての価値が残っているかを試すという目的性風俗店で働いていましたし。


http://anond.hatelabo.jp/20111031192301

2011-10-30

http://anond.hatelabo.jp/20111030121758

でも三浦しをん早稲田一文で親が大学教授で、就職活動とき出版社を受けて試験で(?)文章を書いて出したら「あなた編集者ではなく小説家をめざすべきだ」と言われてそっちへ応募したらデビューという華々しい成功者だと思う…

http://anond.hatelabo.jp/20111030092912

楽しそうに仕事をしている男や仕事を生きがいにしてるような男、それなりに地位があったり高給取りの男は主夫なんてやってくれなさそうだから

仕事に疲れてる感じの男、仕事やりがいを感じてない男、あとは非正規雇用とか派遣社員アルバイト低賃金の男あたりに狙いを定めればいいんじゃないかね。

Twitter仕事愚痴や将来の不安をよくつぶやいてる男とかさ。

(そんな男に魅力があると感じるかどうかは微妙だが)



あとは、夢追い人を養うかわりに家事をやってもらうとか?

(家にいて欲しいなら小説家芸術家漫画家などのインドア系夢追い人に限られるが)

そういう人達がいるコミュニティに参加して、出会ってみれば。

このタイプの男は魅力があるかもしれない。夢が見られるから

2011-10-29

二次創作したいならちゃんとルール学んでくださいよ

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20111028/1319793383

なんかジョブズの話し始めてからだんだんずれてきて、そろそろ笑えなくなってきたので早急に元の路線に戻っていただきたいと思う今日このごろ。

最近の彼は、なんだか勝手がよくわかっていない同人入門者、みたいな感じなんですよね、例えばこの記事。

こういうのは感覚的に、グレーと言うか真っ黒が許容される同人業界でも禁じ手に近い行為だと思うんですけどね。




1 同人ゴロのやり口を「マーケティング教科書」とかいっていたいけな学生に売りつけるようならさすがに問題があると思う

彼の最近の記事はまこと同人ゴロじみてきている。しか王道

まり人気のアニメキャラ自分が万能の夢の世界に取り込んで、(自分チンコに自信がないから)触手を使ってネチョネチョするに相当します。

彼の場合は人気の実在人物(ドラッカージョブズ)を、俺最強の論理空間に取り込んで、自分の文章に自信がないかRPMさんという言い訳を利用してパロディ化する、と。

まさかと思いますが、これがあなたが「マーケティング道場」でやりたいことなんじゃないだろうかと今から危惧しています

そして、もしそうだとするなら別に止めはしませんが、あまりにもずさんと言うか初心者じみていてわろえないので二点ほど指摘しておきます



2 シンプルなスケベに応える作品は、シンプル故に、それに特化したセンスがある人以外がやってもうまくいかない

私は上の同人屋を批判してるわけじゃないですよ?むしろ積極的にそういう供給を求めてるくらいでね。

絵が上手い人が、好きなキャラエロを描いているのであれば消費者側は細かいことは気にしない。むしろエロ目的って割り切るその姿勢賞賛すら浴びせるでしょう。

他にもギャグに特化したり、いろんなサービス精神から顧客の望むもの提供できるなら、それもまたよしです


そういう目で見てみると、

岩崎さんは、並の事柄、たとえば自分矮小葛藤を大げさに語るであるとか、

凡俗のはてなを相手にマヨナカテレビを気取ってみせるというテーマであれば、十分な文章力をお持ちだとは思います

しかジョブズ二次創作を行える程の技術があるとは思えないのでやめといたほうがいいと思います

ジョブズのファンは作画厨とかデザイン厨が多いです。まず作画がプロレベルでないとおよびでない、と思うんですよ。

ドラッカーはともかくジョブズアニメみてないよね? アニメみなくても描けるという人多いけど、意外と難しいですよ?



結果として現状では、あまりうまく言ってませんよね。

例えば絵も話も下手な人が「なの○の陵辱本」を作って即売会持って行ってもフルボッコですよ。

「これ、なんの本?」「えと、一応、なの○の陵辱本です」「ツインテールしか共通してねぇじゃねーか。な○はを汚すな!」となります

謎の白い液体でどろどろにするのは良くても、キャラへのリスペクトが足りない奴の同人は「汚れ」と違ってゆるさない。それがファンというものです

現状岩崎さんのエントリはそんな感じです。某隊長にも「岩崎ジョブズ・・・ハゲしか共通点がねぇや!」とか言われちゃってますよね。

みんなはジョブズに関する同人誌を求めているわけであって、ジョブズに似せた別物をジョブズとして売る行為は一番嫌うわけですね。

で、そういう「嫌い」でもあまりにひどい場合は逆の意味で1回か2回くらいなら話題になると思いますが、そのうち表紙切りサークル名切りが発生します。

こうなると二度と浮上できなくなる諸刃の剣なのでやめたほうがいいんじゃないでしょうか。

※「蛸○屋」さんや「きみ○ぶち」さんのような、キャラ世界観解体して再構成するような高度な二次創作存在しますが、なおさら初心者にはオススメできない。




というかさ。ぶっちゃけ、リアリティのある二次創作が書きたいなら、秋元師匠を書けばいいじゃん。吉田兄貴を書けばいいじゃん。

なんでジョブズなの?馬鹿なの?保身なの?ミジンコハートなの? ここを避けて別の人を書いてる限り、あなた二次創作に魅力は生じないと思いますけどなぁ。





3 実在の人物に対する二次創作は、いろいろとややこしい問題を引き起こす

1の問題は、単に売れないよ、売れなくなるよ、という自己責任の問題なので別に構わないのですが、2はもしかしたら法的社会的に問題あるかも知れません。

まりネタネタとして構わないんだけれど、適当なことを言ってドラッカーとかジョブズ脳内で陵辱する読者におっぴろげるのは名誉毀損になるんじゃないか、と。

大物であればあるほど、本人は笑って許したり、岩崎とか言う虫けらのことは最初から無視してくれると思いますが、

周りの人間はそうでもなかったりします。特にジョブズに関しては、今喪中のようなものですから岩崎さんのやってることは信長気取りの蛮行だと言えるでしょう。

ベストセラー作家でなかったらかるく打首になってもおかしくないレベル


そろそろ、「自分ネタ面白いから反応してくれている」と「尊敬する人を汚すのが不愉快からしばらくは注意してあげている」を区別しないと

唐沢なんちゃらさんと同じカテゴリに放り込まれると思いますよ?


1の最後に「なんで秋元はんの話しないの?」などと書いてみましたが、よくお分かりみたいですね。

ここで中途半端岩崎さんが知恵を回してるのがわかるのが感じられてまたつまらなく思えるんですよね。

はてなーみたいに善良というか卑小なものを相手にして自分を大きく見せることだけは得意だけど、

本当にでかいものに立ち向かう勇気なんてないって全身で表現してるようにさえみえてしまう。

(もちろん個人の感想で、事実がそうだと言うつもりはないですが)




ついでに蛇足

二次創作に頼り続けると、多分一時創作のために必要ないろんなモノが衰える場合が多い

これは私がそう思ってるだけで、反例はたくさんあります岩崎さんにも当てはまらいかも知れません。


同じ分野の最前線にとどまり続けるためには、徐々に上がっていく期待のハードルを飛び越え続けることが必要。

そのハードルを超える力を鍛えることを避け、別のもっとひくいハードルにのりかえ続ける、という思考は

まさしくビジネス同人作家には適していると思われますが、作家としては致命的な性癖だと思われます

ドラッカーもそんな安易な乗り換えは推奨してません。 画力なり筆力を鍛えるのは当然それと別途必要です

まさかRPMさんとベストセラー作家のご自身のハードルの高さが同じだとか本気で思ってるわけじゃあないと思いたいわけですが、

もしそうだと思っているのであれば、もう小説家を諦めたほうがよろしいと思います

2011-10-13

自分母親先祖遊郭してたって、聞かされた増田いる? いないと思うけど (今は親は固い職業)

小学生の時聞かされた。

変だよね、こんなの。

遊郭としてたと言っても、すぐ前の世代ではなく、その前にやめて地主になって、それをある宗教寄付して、無一文の状態になって・・・と色々あったらしい

その色々が続いてない事も無いから、こんな事を言ってくるのかもしれないが   ( 精神的にいろいろあるからかもしれないが、別に親は生活やお金には困っていない。全然余裕なのに・・・ )

それにしても・・・

から私に関する事だけ、洞察力が欠落したような事を平気で行う人だった

実の母親から、お前の幸せを願ってません と宣言されるようなものだし

普通健全な家庭の特に専業主婦の人が聞いたら嫌がるようなことを好んで言う傾向もあった

(別にエロい事と言う訳じゃないですエロい人ではないと思います)

言わなくて良い事実とか、厭世的になるような事とか

例えば、森村誠一氏の小説を読んで、なぜそんなものを読むのか聞いたら、「私は本当の事が知りたいもん」と言ったりされたりとか

森村氏は優れた小説家だと思うけど、年若い人が見ると、厭世的になったり人間不信になる可能性もあると思う。私に勧めてきたわけではないけど、こういう事も踏まえた上での答えとしては適当ではないと思う。

本当の事と言っても、小説フィクションなので、本当の事が知りたいなら、ノンフィクションドキュメントルポを読むべきだと思うし。

言うとしたら、氏は、厭世観を持つような事実を扱いながらも、それだけではない深い何かがあるとか、それを超えたものもあるとか、何とか言えないものなのだろうか、と思う。

世の中にあるものを無批判に肯定的に受け止めるのではなく、時には皮肉や風刺も、クリティカルな思考をするために必要なように、社会の暗黒面を描くのもより良い情況を目指すためには、有効だとか、視点としては、そういう目も必要だから、とか何とでも良い言い方は色々できると思う。

しかし、彼女場合はそんな事をわかって読んでいたのではないような気がする。

何を考えているかからない。

これは離れて暮らしている今もそうだが

どういう人間だったかと言うのが、チグハグすぎて思い描けないし、人に説明もできない。

これは父にも言える事だが。




それで、トラバはしてないけど、さっき書いた恋愛に夢が描けない話

これに繋がらない事もないわけだが

人様のお嬢さんを金にものを言わせて攫ってきて、性的搾取をしてきた先祖・・・と考えると、他人にそんな事をした人間の子孫は、恋愛なんてできない、と思いつめてしまった部分は、小学生だったので、少なからずあると思う。

小学生ごころにはきつすぎる。

ある程度、自己防衛的な思考や論理的な判断力が、育った状態でしかも安定した身分の状態の大学生くらいになってから先祖歴史として話すのなら、わからないでもないと思うが・・・



遊郭というのは、気になるから、何かの折に目に触れたものを読んだり、本を立ち読みしたりして、調べた範囲でも、摩訶不思議構造になっている

江戸時代とそれ以降での違いというのもあるし、江戸時代でも、遊郭というのとその他のものでは、だいぶ違ったようだった



世界皮肉でできている

江戸時代にも一番多かったのは吉原ではない

病気で亡くなった江戸を描く漫画家杉浦日向子さんは、このあたりちゃんと書いていた。(ただ地名を正確に書いてたというだけだけど)

明治以降国家神道として神道流行らせたりする時に、その町のイメージが悪くなってはいけないという配慮からなのか何かはよくわからないけど、映画でも何かの作品でもその町を舞台にしたものは、江戸時代心中モノが描かれたりしてたけど、今は全然ない。他の町も吉原以外は似たようなもので、特にタブーだかたというわけではなく、吉原通俗的にそのような場所として有名だからわかりやすいからかもしれないが。( 江戸時代吉原と今のとではだいぶ趣が違うけど )

ここにも、私は皮肉を感じてしまう事がある。

有名な江戸時代人形浄瑠璃歌舞伎の演目で、伊達の殿様に切り殺されてしまう太夫の話がある。実話かどうかは定かではないらしいが、その太夫の死体が流れ着いた淵や、亡骸が祀られたとされている寺か神社もあるらしい。この話は、武士より武士みたいな形で亡くなってしまった遊女というところが皮肉なのだと思う。 創作だとしたら、こういう人身売買に誑かされて鼻の下を伸ばしている武士に対する皮肉もあったのではないかと思う。

遊女の腹から生まれた大名 で検索すると 23人もいたと記したページも出る

http://kkubota.cool.ne.jp/saihouji.htm

皮肉

江戸時代でも人身売買は悪いとわかる倫理観はあったと思う。わからないわけがないと思う。

それなのに、簡単に誑かされてしまう。

ハックルの人と一神教

http://anond.hatelabo.jp/20111012183212

あなたの言いたいことはわかる。

随所にある押し付けがましさと、先覚者ぶった態度が気に入らないという人間は多いと思う。

しかも説明が説明になってないのに長々と語るからなおさら、ね。



しかし、それについて、私は割りと好意的に受け取った。

要するに、そんだけ彼の中ではマネジメントとか、すぐれた小説との出会いが衝撃が大きかったんだろう、

どうすれば伝わるか、なんて考える余裕が無いくらい、いっぱいいっぱいなんだろう。

たどたどしく自分の感動を語って、伝わらないことにヤキモキしてしまう。小説家としてはともかく人としてみたらものすごく可愛い



彼は子供のように、純粋・・・とは言わないけどシンプルに物事を考てしまう人なんだと思う。

これを20代の若造が言ってたらふざけんな、になるけど40過ぎのオッサンが言ってるんだからむしろ頑張れって気分にならないか

個人的にはすこし羨ましいとまで思ったよ。真似したいとは思わないけれど。




あえて言うと、この人の良くない点は

自分が正しい」というにとどまらず「別に間違いでない他人の意見も間違いと言ってしまう」、この一点にある。



何かを語る時、何かを否定せずにはいられないっていう性癖みたいなものね。多様性を認められない。

何かすごいものを見つけたら、何でもそれを中心において、それと比較することでしか物事を測れない。

百年の孤独」に感動したら、他の小説マンガをすべて百年の孤独比較して読まずにはおれない。

ドン・キホーテハックルベリー凄さを語ろうと思ったら、周りをこき下ろさずにはおれない。

自分の読みの正しさを主張するためには、名指しで人間を批判せずにはおれない。

あらゆる自己啓発の本に書かれているとおり、何でも比較せずには済まされないってのは敵を作りやすく不幸の原因になる最たるものなんだけれどな。

ただ、その精神のあり方も興味深いと思う。




彼は典型的一神教精神の持ち主なんだと思う。

自分こそが正しい、自分の周りの人間は間違っている、自分が教化してやらねばならない。

そういうあり方。

そうです。あのコが僕の畏敬する天使様なのです



和を尊ぶと書いて出る杭は打つ、と呼ぶような日本において、

40過ぎになってもこういう考え方を維持できるってのがすごいと思う。

要するに、ソレほどまでに他人を嫌悪しているというか、プライドが高いわけでしょう?

どれほどまでに人生鬱屈を抱えてきてるんだろうこの人は、と思う。




これほど全力で後ろ向きに生きている人も珍しいと思う。

こういう人は処女作なんかだと、装飾抜きで己の鬱屈自分の分身に語らせてぶちまけるような本を書いて、

全然売れないけれど一部の人間にはカルト的人気ってのが定番なんだけれど

いきなり「女子高生」「マネジメント」など計算された本を世に送り出せるわけだから私の理解を超える。

小説家としてはいろいろ問題がある彼と、企画屋としては優秀なのかもしれない彼のちぐはぐなキメラ具合が本当に面白い




なんにせよ、ホメオパシー教や反原発教、子供をまもれ教などの人たちを見ればわかるように、

彼のような一神教の人たちは、一度神を見つけてそれに身を捧げてしまった人ってのは、

常人じゃ考えられないほど精神が強固にしばられてしまってるし、そのことに幸せを感じるものであり、

それを否定されると攻撃的になるのは宗教の性質上仕方ない。

他人から見たら不幸な生き方に見えるとしても、一神教人間にとっての幸せとはこういうもの

一体、人間にとっての真の不幸とはなんなのでしょうか?

どれほど多くの友人がいても、どれほど親密な家族がいたとしても・・・

互いを縛ることなく、対等の建前のもとに、ただ、自我を垂れ流し合っているだけの関係だとしたら・・・

人の心はとどまることなく拡散し、やがて、自分自身の姿すら正常に認識できなくなってしまうでしょう。

心はつなぎとめなければ、容易に拡散するものです

あるいは、なにが「自分」なのかがわからなくなった状態こそが、真の不幸だとは思いませんか?

彼女の大地に穿たれたような心の強さは、彼女自身が、しっかりと自らの魂の形を認識しているからに他なりません。

それが可能だったのは、彼女が常に、「縛る者」と鎖によってつながり合っていたかです

それが神か・・・父親か・・・あるいは・・・

心の命じるままに、より強く自らを縛るものを求めた結果・・・彼女は今、ここにこうして在るのです

それでも、貴方は彼女のあり方を間違いだと思いますか?

矮小偽善的な「自由」を振りかざす前に、彼女にとって真の幸福とは何か、を考えてみましたか

こういう思考が前提にある以上、彼が身分に対してもこだわりがあり、

自らを一つ上に置いて、私達のように「教養がない人間」を当然のように見下すのも彼にとっては自明のこと。

それを堂々と語るあたりは、現代離れ、日本人離れしているというか世間知らずだと思うけれども、それもまた面白い



私ら外野はてブ増田でなんか言った程度では彼の心に何一つ届かせることなんてできない。

歴史における一神教の強さから考えると、彼を打ち負かしたいなら、彼に匹敵する信念やら信仰を示すしかないんじゃない?

2011-10-11

[] 書評 岩崎夏海小説の読み方の教科書

はっきり言って非常に面白かった。というか岩崎さんがすごい萌えキャラに見えてきた。ラノベヒロインとしてみればA級クラスの完成度だよマジで





全体を一言でまとめると「読書術の本だと思った?残念、ハックルちゃんでした!」という感じ

タイトル通り読書術を期待して読むとかなり肩透かしを食らうが、むしろ小利口な読書本を期待するはてな民は最初からおるまい。

この本は、どちらかと言うと「岩崎夏海版 小説を書くことについて語るときに僕の語ること」と名付けたほうが良い。

小説とは何か、小説はなんのために読むのか、小説面白さとは何か、という彼流の思索を綴ったものである

岩崎さんがどのようなことを考えて小説を書いているかがわかるので「もしドラ」について語りたい人は必読であると思われる。




まえがきだけで本の半分消費 

しょっぱなからイノベーション(笑)があり、100ページ読んでも小説の読み方についての話が始まらない「小説の読み方」の本になっている。

「いいから早く小説の読み方の話をしろ」などと野暮なことを言い出す人はそもそもこの本を読む必要はない、という彼の強気姿勢が伺える。


ではそのまえがきで何を書いてるかというと、上で書いたとおり。

岩崎さん自身の読書遍歴とか、小説歴史と称して実際はドン・キホーテハックルベリー冒険いかに素晴らしいかという話を彼自身の語りで延々と説明するのだけれど、論理性を欠いているせいか、はたまたまた繰り返しの多い冗長な構成のせいか情熱が空回って言いたいことは全くこちらに伝わらないのが実に岩崎さんらしい。

どちらかというと、彼が推理小説および推理小説的な読み方に偏った日本の読者批判をするところの方が面白い

ところどころに、Amazonレビューやねうらおさんによるもしドラの「誤読」に対しての嫌味が入っており、ニヤニヤが止まらない。




読書術のところはありきたり

(ありきたりというのは決して悪い意味ではなく、基本をしっかり押さえているという意味でいいことではあるのだが)

正直言ってこの部分だけが目的なら「未来形読書術」「打たれ強くなるための読書術」という本を読むことをおすすめする。



まず「どうやって読むか」は目的によって変わる。

「なぜ小説を読むのか」について岩崎さんがどう考えているかだが、彼ははっきりと成長のため=「自分人生を豊かにするため」「器を広げるため」と言い切っている。つまり、もともとラノベ的な消費のされ方をする作品群は彼の考える小説に含まれていないように思われる。じゃあもしドラには使えないんじゃ・・・


一応「成長するための読書」を目的としたとき意識するべきことは以下のとおり

・「正しい読み方」はドン・キホーテとか百年の孤独ハックルベリー冒険など、読者を鍛えてくれる本を読めばを読めば自然と身につく。

・できる限り長い作品に挑戦して小説世界に浸ることで現実道徳などの柵を取り外す。

・結末や筋書きを意識したり、物事の善悪、登場人物の正否などを勝手に判断せず、素直に作品で描かれていることを体験する。

・二度読み、三度読みによって、物語をいろんな視点から眺め、登場人物や世界にに奥行き立体性をもたせたり、行間に気づくようになる。

・作品が発する問いに自ら向き合うことで自分を成長させる

そのあとに実践編が続く。

ただ、この部分はハックルベリーを読んだことがある人なら、まぁ普通にそう読むよな、ということが書いてあるだけなので興味があるなら、程度でよい。

どちらかというと、説明の内容よりも、説明をしているとき表現の端々に感じる「読者を子供扱いする彼の意識」の方が読んでて面白かった。

ここで彼が言いたいのは、あくまでハックルベリー冒険という小説いかにすごいか、ということだ。

私もこの小説は、いろんなことを考えさせられる素晴らしい作品だと思うので私からもぜひお勧めしたい。

大人こそ読むべき。続あしながおじさんとあわせて読むとなお良いです




岩崎さんの見所である鼻息のあらs「よくわからないけど強い使命感がある」点は今回も発揮されている

立ち読みするなら150p以降がオススメ

彼がこの本で最も主張したかったことはこの部分で、「今の小説家と読者との関係を問い直す」ことであると思われる。

彼はよりよい小説を世に送り出し、世の中を変えるため、「俺が今の小説界を世直ししてやる」くらいの意気込みを語ってるんですよ。


「読者は小説の読み方も知らずに偉そうなことを言うな」と言って、読み方を教えると共に、ある程度の責任を課す。行間読めとかいろいろね。

一方で小説家に対しても「論理的な整合性とか読者の顔色気にしたりして一番大事面白さを追求できていない」と言って批判する。

そうすることによって「小説面白さって何だった?お前らもう一度考えなおしてみようぜ!」と熱血教師のノリで問いかけるわけです

この部分が最高に面白い。「お前が言うな」って野暮なツッコミ無用だ。昂ったっていいじゃないかハックルもの

というか私は個々の部分を読んで、2年前に竜騎士07という人が、

うみねこのなく頃に」という作品でミステリーケンカ売ってた時のドタバタを思い出した。

あの時のスッタモンダがまた見られるのかと思うとワクワクせざるを得ない。

個人的な意見をいうなら、私はめちゃくちゃ好意的だ。応援したいとすら思う。岩崎さんの人気の秘密は、この熱さを持続し続けることが出来る部分にあるのだろう。

こんな人ばっかりだと困るけど、他の作家さんも意気込みとしては時々このくらい熱い思いでやってほしい。





しかし、彼の主張の正しさを示すには、彼がその主張を裏付けるだけの作品を世に出すことが求められる。

そうでなければせいぜいラストイニング鶴ヶ島という人物のように「ブレないところがチャームポイントの頑固キャラ」止まりになってしまう。

萌えキャラならこれでもいいけど、作家としてそれいいのかハックル!?といいたいところだけれど・・・



ファンには吉報 どうやら岩崎さんは次回作を予定して意欲を燃やしているぞ!

コレについては本を読んで確かめてみて欲しい。

自分マーク・トウェインに重ねて、次回作を「ハックルベリー冒険」なみの傑作になると確信している彼の語りの部分は生で読まないともったいない

というわけで、彼の使命感がどういう形で次の作品に反映されるのか、今から楽しみでしょうがないです





ちゅいき♪

すんません、この記事読んで、初めてこの本のタイトルが「小説の読み方の教科書」で在ることに気づいたので直しました。

http://d.hatena.ne.jp/the-world-is-yours/20111018/p1

理由は、この本の内容で「教科書」を名乗る精神性が、自分の頭の中でまったく理解できなかったかですハックルさんの偉大さにまた一つ気づきました。

2011-09-25

マネジメントと教師との違いを理解してない人って外部者によくいるんだよ

http://d.hatena.ne.jp/kyoumoe/20110925/1316897912


ハックルさんはドラッカーのこの文章を理解していると振舞いたくてしょうがないわけよ。

最近は、愛想を良くすること、人付き合いを良くすること、人間を助けることが

マネージャー資質として重要視されている。 そのようなことで十分なはずがない

事実、うまくいっている組織には、必ず一人は、手をとって助けもせず、

人付き合いも良くないボスが居る、この種のボスは、

とっつきにくく気難しく、わがままなくせに、しばしば誰よりも多くの人を育てる。

何が正しいかだけを考え、誰が正しいかを考えない。

真摯さよりも、知的能力を評価したりはしない。

このような資質を欠くものは、いかに愛想がよく、助けになり、人付き合いがよかろうと、

また以下に有能であって、聡明であろうと、危険である

そのようなものは、マネージャーとしても、紳士としても失格である

マネージャーに出来なければならないことは、そのほとんどが教わらなくても学ぶことができる。

しかし、学ぶことのできない資質後天的に獲得することができない資質

はじめからみにつけていなければならない資質が1つだけある。才能ではない。真摯である

実際には文字面しか理解してなくて、状況を一切考慮せずどこでもこの言葉の通りに従う

福音主義者みたいな状態になってるだけなんだけどな。





内田樹がよく嘆いているわけだけれど、

教育って一面だけを取り出してわかったかのように語る人間がすごく多いらいしね。

特に塾教師だけやったことがあるとか、俺は東大卒だとか、俺は会社で多くの部下を育てた、とかね

なぜかわからんけど、「俺には教育or勉強の才能がある」って思い込んでる人間がすごく多い。

その状況では正しかったのかもしれない、ある一面では正しいのかもしれない、でもそこで

「真の教育」とか語っちゃう人間ってのは、それこそ小説家マルクス主義者かどっちかだと思うのよね。



自分が知ってる一面だけとらえてすべてわかったつもりになり、

知ったかを語っちゃうのってぶっちゃけすごく恥ずかしいことなんだけれど

なぜか教育については口をだす権利があると思ってる人が多いんだよな。(「近頃の若いもの」とか「ゲーム脳」とか「ソーシャルゲー」と一緒)

そんだけ今の教育が駄目だって認識が広く共有されてるってことなのかもしれないけれど。

2011-09-21

バカの前に横たわる二重の壁

公式RTの発言によってその人の人格を判断するというのがいかにバカげてるかという話。


人民よ! バナナを食え! バナナこそは至高なり! ああバナナ! 汝はちんこ暗喩なり! 思い起こせば人類歴史十万年、バナナは毅然としてそこにあり、人類によって食べられる日を待っていたのだ。人の叡智がバナナ出会ったそのときバナナ秘密人類に開示された。バナナ! カリウム豊富! バナナ! 黄色くて曲がってる! バナナ! 場合によっては釘も打てる! バナナ永遠なれ!!!!!!

引用するなと言われると引用したくなる駄目読者です。こんなダメダメな私は増田に埋まってますぅ。



これ文脈抜いてここだけ公式RTしたらとんでもないことになるだろうなぁ。

文脈といっても元の文は「全体がでっちあげ」である。ちゃんと序文でそう述べられている。

まり「でっちあげだが、単体としては整合性がとれている話」「その話の一部」という二重構造であり、

公式RTで抜き出したらこの二重構造が全部消える。

ある人が、本当は良い人だし知識も豊富だけど、皮肉のためにツイッターでのアカウントでは露悪かつバカっぽい的な発言を繰り返しているとしよう。

その一連の流れの中ではある発言が文脈としても整合性がとれているとしよう。

jonetsuさんとかは良いキャラクターしてるよね。あの調子で死ぬまでやってほしい。というか幸せになったら殺したい。


そういう人がたとえば「福島は見殺しにするけどガンバロウ日本」みたいな発言をしたとする。

これは普通の人には <バカには文末のカッコ笑いとか、表現の周りにあるカッコが見えないという「裸の民衆様」を表現するアート>なのであるが、

まずバカには文脈を考慮する脳みそがない。


しかもこの場合、文脈的には整合性がとれている。そういうキャラとしていつも似たような発言をしているからだ。

ところが、またここでキャラと実物の違いが分からないバカがいる。




よくリテラシーというと、知識とかメタ知識とかの話なるけれど、

ネットでよく問題になるバカというのはリテラシー以前の問題だ。




ネットの発言には、つねにこの「文脈」と「キャラ」の二重の壁がある。バカというのはこの壁が見えないということだ。

見えないから常にその壁にぶち当たって、壁とお話をしている酔っぱらいみたいな人たちがたくさんいる。

そういう人は、人間と本当の意味で会話をすることもないし、出会うこともない。




ネットでは、バカにはコミュニケーションそのものが閉ざされているシビアなセカイだ。

ネットを始めるなら、この2つのバカの壁存在くらいは学んでからにしよう。

それまでは、リアル人間というものを学んだほうがいい。コミュニケーションに関していえば、ネットしか学べないものはろくなものがない。





更に言うとバカよりひどいマジキチの壁というのがある。

例えば福田なにがしとかい主婦の人。まぁあれもキャラかも知れない。キャラなのだとしたら小説家になるべき逸材。

あれは自分脳内という壁があって、その壁から一歩も外に出られない人である

自らを精神病院に放り込んでいるようなもので、ほんとうの意味では誰とも会話してないし、誰にも話しかけていない。

あい人間は、周りから見ると恐怖を感じるが、実際的にはなんの害も無いので、そのまま病院にいてもらうのが世のためその人のためだ。

自分たちが関わらなくても、ボランティア人達看護師として彼女の面倒は見てくれている。関わり合いにならないのが吉。

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