はてなキーワード: 尺度とは
名誉に関しては、褒章のランクなどで序列をつけることはできるけど、それにしたって国民の多くがそれを利用できるほど褒章は乱発されていない。
数値化できていないから尺度として使えない。逆に言えば「やりがい」「社会的貢献度」「名誉」も、ちゃんと数値化できるような基準があるのなら、それを使えるのにって話。
それは資本主義における評価でしょ。
なんでも市場価値ではかろうとするから出生数が増えないという流れの話を、でも労働を評価する上では金銭を尺度とする以外ないというジレンマはあるけどな。
全く別の横だけど。
比較は必要。だけどその比較の尺度は市場価値を根拠にしていない。今のところ金以外に労働の価値を比較する尺度が流通していないから金を尺度として使わざるを得ない。
労働の価値は市場が決めるのに、市場価値を根拠にしていないから、意味がないって話でしょ。
その尺度は、「絶対」なのか「相対」なのか、「絶対」としたら、他の労働価値はその絶対基準でどの程度なのか、定義する必要あるよね。
一応別の増田なんだけど、序列そのものが問題なのではなく、序列を金で表現する必要がないという話でしょ。
比較は必要。だけどその比較の尺度は市場価値を根拠にしていない。今のところ金以外に労働の価値を比較する尺度が流通していないから金を尺度として使わざるを得ない。
それだけのことじゃん。
他に適切な尺度があるのに金を尺度として使用しているということなら問題だけど、金以外に労働を評価できる尺度が確立されてないからなぁ。
複数の人から疑問を呈されてもやめらんないあたり
序列意識が物凄く根深い人なんだなと感じる。
あなたは「主婦労働を尊重せよ」といいつつ何故か執拗に尺度を求める。
そこに突っ込まれると「誤解だ」「悪意の誘導だ」といい
主婦労働の市場価値の低さを示されると「市場で測るべきでない」とまで逃げを打つのに
すぐ戻ってきて「尺度が必要だ」と叫ぶ。
「主婦労働は〇〇(社会のある職業)よりも上」という足場を欲している。
横だけど、ただ問題は、少なくとも現状では、オタクフィルターを通さない限りどういう尺度を持ってきてもまともなボーカルよりボカロが優れるということにはならないってことだと思う。
まず始めにそれはただ愚痴をこぼす形で言ったものだから真面目な反応が返ってきてちょっとビビった。
という言外の意がある。
体感でいうと論理的に話ができると感じる人間は、100人に1人とかじゃないだろうか。よく分からん。
まあハッキリしないが「多すぎる」と感じている位には「論理的に話が出来ないと感じる人」と出会ってしまうことの方が多いよ。
それが不運によるものなのか、自分の人との付き合い方の問題なのか、世の中に(自分よりも)論理的思考のできない人が多いことによるものなのかどうかは分からんし、あんま考えたことないな。
そもそも「アイツは論理的に話が出来ない」とする自分の判断自体が間違ってる可能性もあるんだろう。
精神的な成熟度合いを計る尺度については人それぞれだと思うけど、自分としてはひとえに「どの程度の理性があるか」で評価してると思う。
気に入らないと思う理由による。
道理に合わない勝手な理由で滅べと言ってるのなら「自己中心的で精神的に幼いなあ」と思うだろうけど、
情理を尽くした理由の上でそう望んでいるのなら、その是非は別として「精神的に幼い」とは思わない。
あと、人から「それは道理に合わない」と指摘されて訂正できる程度の理性を備えているようなら「精神的に幼い」と思わない。
人間が過ちを犯すことは仕方がないので、人の話に聞く耳を持って自分の間違いを素直に正せるなら問題ないと思ってる。
そして、たとえ「道理に合わない勝手な理由で滅べと言ってる」としても、それが「道理に合わないことだと自覚した上で」主張してるなら、「精神的に幼い」とはあまり思わないだろうと思う。(場合によるけど)
原因としてはまぁ、いろいろと調子に乗っている僕が気に入らなかったのが発端で、
本人達としては「からかっていただけ」という意識でしかないと思う。
主に悪口、迷惑電話、モノやお金が無くなったり嫌がらせをされたり、
程度としてはそんなにひどいものではなかったと今となっては思う。
でも田舎の小学生に見える世界は家と学校ぐらいで、それが全てだった。
どこにいてもあいつらは僕に嫌がらせをしてくる、必ず顔を合わせる。
表向きは友達だと思っていた人に裏切られる。そんなのは日常茶飯事だった。
性格はどんどん暗くなり、発言する時には相手の顔色をどんどん伺うようになった。
ストレスで身長が止まり、何とか言い訳を作って学校を休もうと企んだ。
夜には明日が来なければ良いと毎日思ったし、土日は天国、平日は地獄だった。
自殺を考えないことも無かったけど、自分が苦しむ恐ろしさの想像には勝てなかったし、
もし死ぬときには僕をいじめたみんなを殺す前には死ねないと思いとどまった。
高校は小・中学校のメンバーがほとんど行かない学区内の進学校に進んだ。
僕をいじめたやつらは、一番近いアホな公立か、そこにも行けずに私立へと進んだ。
いじめられていた期間で身に染み付いた処世術で僕は高校3年間を無難に乗り切った。
かつて年間で100を超えていた遅刻・早退・欠席は高校3年間で1度も無かった。
空間に存在することさえ気をつけていた学生生活に怯えること無かった。
進路を決定づけるセンター試験の日、僕は数年ぶりにあいつらと出くわした。
底辺に近い公立に進み、遊びでセンターを受けに来たようないじめっ子のあいつらは
ここ一本に絞って緊張でガチガチの僕を見つけ、悪口を履き続けた。
もちろんそれは彼らにとってはかったるいセンター試験の中で見つけた
暇つぶしに過ぎなかっただろうし、僕もそれを理由にするつもりは無いけど、僕は大学に入るのが1年遅れた。
あの日に限ったことじゃないけど、あいつらが吐いた暴言は今もすぐに思い出せる。
僕は大学を卒業後、東京の企業に就職し、世間で言えば勝ち組といわれるステータスを手にしている。
帰省すれば、同級生の話を聞くこともあるが、
30も近づいてきてるというのにフリーターだったり、叶わない夢を追い続けていたり、
お前らがかつて見下していた僕はこうだぞ、と。
彼らは僕の見ている世界を知らない。
彼らの中で僕はまだ15年前のからかいの対象だった僕でしかない。
あの時「自分が死ぬぐらいなら相手を殺してから死んでやる」とまで思ったあいつらから
結局僕は今でも逃げ続けているように思う。
故に、勉強以外については親に理解されなくて当たり前だ,くらいに考えていたほうがいい。
「親に自分のことを理解してもらいたい」という希望は、日本に限って言えば、子供は持たないほうがいい。そうしないと、辛い。
うちの親は収入面では中流の上の方だったと思うけれど、いろんな意味で教育は中流どまんなかって感じだったかな。
いざ勉強シーズンが始まると、どんだけ抵抗しても「勉強のために」という理由だけでやめさせられた。
その時から分かってはイタけれど、親は社会的に認知されたもの以外の価値を認識すること自体ができない。
これ自体を責めてみたところで意味が無い。親はそういう時代に生まれてきたのだから。
「子供にいろいろ習い事させるのは良い親」という社会的な尺度があったからだろう。
ところが、習い事に関しては、小学校高学年くらいからそういう社会的な尺度が消失する。
こうした分野で子供が成功したり、社会的に評価されることは稀である。
そう考えると、別に習い事をさせていても誰も褒めてくれないし、そのための負担は小さくないので続けるメリットが親にはない。
親自身も元から対して情熱を注いでいない。勉強の妨げになるのであればあっさりと切り捨てられる。
いや、実際には勉強の妨げになっていなくても、「自分がそう感じた」というだけで辞める理由になるのだ。
少なくとも、私は、姉が無条件でピアノをやめさせられたことに危機感を感じ、
折につけて「ピアノやってても勉強も頑張れるよ」とアピールをしていたがその時が来たらあっさりとやめさせられた。
最初から最後まで、そこに子供の都合は存在しない。交渉の余地すら無い。
(子供過ぎて、勉強も頑張る、程度しか交渉の手段を知らなかったということもあるが、外をまきこまない限りおそらく無理だっただろう。
そして外を巻き込んだら、多分親に恥をかかせたという罰で殴る蹴るの暴行を受けていたと思う。そうでなくてもよく殴られたしね)
子供は圧倒的な才能や成果を示さない限り、そこで潰される。
そして、これ自体も悪いことではないと思う。
実際、才能がないのに、変にしがみついていても、あんまりいいこと無い。
はやめに見切りをつけて、そのぶん自分にとってたのしいことややりたいことに力を向けるのはむしろ好ましいとさえ言えるかもしれない。
(まぁこれにしても、子供にそういう話をした上で判断させるべきところだとは思うのだが・・・難しいか)
よろしく無いのは、全部親の都合で、親が勝手に決めたことであり、親のわがままにすぎないのに、
なぜか親自身がそれを認識していないか、認めようとしないことである。
親は子供に何の説明もしない。謝罪とまではいわずとも、メカニズムを説明すべきなのにそうしない。
結果として、子供は「自分の意志でやりたいことを選べない」ということを学習する。
「がんばろうががんばるまいが、親が認めなければ自分の大切な物は維持できない」と学んでしまう。
高校生ぐらいのときにこういう仕打ちを受けたなら、まぁ自力救済の道を探っていただろうが
無力な小学生時代にこれをやられると、自分の無力をしみじみと受け入れるしか無い。
しかも、当時は今この記事で書いてるように、明確に親から受けた抑圧を言語化して把握できたわけではない。
無意識に刷り込まれるようにして教訓を植えつけられるので、抵抗しようもない。
むしろ、当時を振り返ると、1ヶ月ほど落ち込んだ後
「親は自分の為を思って勉強に集中させてくれたんだ」「私にピアノは無用だったのだ」と本気で思い込んでいたような記憶がある。
つまり「親の言ってることは自分のためであり、絶対的に正しい」という刷り込みが成立していたということになる。
実際小学校4年でピアノをやめさせられた後は、2年間ひたすら勉強ばかりしていた。
そんでちゃんと進学校に入って、それはそれで誇らしい気持ちになった。親には心から感謝したと思う。
実際にこの辺りまでは、親の言うことは間違いというわけじゃないのだ。ただ私の心を全く無視してるというだけであり、実際この当時の私は自分で考えて自分で決めるということがあまりできる子ではなかった。親が決めてくれたことに従うほうが楽だったし、必要だったと思う。
ただ、中学校に入ると、もうこれは露骨に問題にすれ違いが生じる。
私のような知恵遅れでも、このころになると自分の意思でいろいろ考えるようになる。
でも、まぁ上のような感じで、自分の意思でヤリたいと思ってもやれないという思い込みがあるから
もやもやしつつも勉強以外のことはあんまりできなかった。勉強か、漫画か、小説か、そんくらい。
親のほうでも、もう社会的に認められている価値尺度が勉強くらいしかない。
親はいつだって「社会的には親はどんな感じか」ってことだけ気を使っていて、一度も自分の頭を使って考えたことがない。
子供が何を望んでいるかに興味を持ち、それにどう答えるか、という形で考える訓練をしたことがない。
私が何の部活に入っているかも、私にはどういう友だちがいるのかも、
結局高校卒業するまで全然知らなかったくらいだから本当に我が子には全く興味がなかったのだと思う。
(ちなみにバスケ部な)
そういえば、友達は小学校4年の時に親に強制的に絶交させられてから作ったことがない。
中学2年の時にU君という友達がひとりいたけれど、遊びに行ったことも家に招いたこともなかったので
その内に、Uくんも、もっと親密に付き合ってくれる奴のグループに行ってしまった。
多分、自分がもうちょっと勇気を出して親に何か訴えれば事態は変わったのかもしれないが、
結局そのまま6年間過ごして、まぁそれなりにいいところの大学に受かったので、東京に逃げた。
欝で寝込んでるなう。コミュ力ゼロの私には、東京で友だちを作ることもできなかった。
多分もうチョットしたら冷静になれて自分の側にも問題があって、過去を嘆いてもしょうがないから
今からでも努力して何とかすべきって思えるようになるんだろうけれど、どうしても今の時点では親を恨む気持ちが強すぎて動けない。
ともだち地獄云々の記事を読んだけれど、
要するにこれは友達が云々というよりは「普通」の枠がどんどん狭く、ハードルが高くなってしまって
その気持ちはよく分かるし大変やなー、と思うんやけれど、この部分気になる。
別に俺はドMだからハードモードでやりたいんだって人はそうしたらいいけれど、ちょっと荷物下ろして道端で休んでる人を鞭打つ必要もないでしょう。「死のロングウォーク」(スティーブン・キングの超絶傑作)はフィクションとしては死ぬほど面白いけど、現実では一番やっちゃだめなフィクションだってのに、なんで好んであのゲームをやりたがるのか
こいつ「死のロングウォーク」ちゃんと読んだんか、と思ってしまう。あと進学校とか友達多いやつは別にドMじゃねー。
ネットでの受験や勉強に対するイメージというのはいろいろとおかしい。
例えば東大合格するには1日10時間勉強しろだとか、訳の解らんことを言ってる奴を見かけるし、
そもそも受験勉強をバトルロワイヤルのような蹴落とし合いだと勘違いしてることがまず変だ。
(これはあほな親の影響かもしれん。低学歴の親ほどこのイメージを持っている。受験とか勉強にネガティブイメージ持ちすぎ)
上のような理屈で言えば、進学校では弱肉強食の世界が繰り広げられる。プレイヤーは生き残るために
いじめが多発しているように思われるかもしれないが、そんなことは一切ない。むしろいじめは極端に少ないだろう。
なぜなら、進学校における受験勉強は、バトルロワイヤルではなく、ロングウォークだからだ。
ゆったりとペースを守って歩き続ければいい競技だ。しかも休憩ありだし特定の地点までいけばゴールさせてもらえるヌルい仕様になっている。
ロングウォークを知らない人に一応説明しておく。詳しくはWikipediaよめ。というか原作読め。
100人の少年が、時速4マイルをキープして休みなく歩き続けるだけの競技。
時速4マイルを下回ると警告が発せられ、警告の累積が4回になると射殺される。一定時間警告を受けなければ、その累積は消滅する。
またこの競技は強制的に徴収されるものではなく、志願者が審査の上選ばれるものであり、その点でもバトルロワイヤルと全然違う。全く違う。
ロングウォークにおいて、参加者は、ゲームで勝つという絶対的な目標がある、
ゴールという絶対的な存在に対して、にわかな友達関係や、友達どうしの上下関係などゴミのようなものである。
つまり参加者はその絶対的な対してどこまでも対等であり、孤独である。
友達が多いことには価値がなく、友だちが少ないことはマイナスでもない。競技上はそこに意味はない。
周囲の人間を殺すことは許されていないし、周囲の人間を殺すことに何のメリットもない。
殺すような奴は即刻警告を受けて退場させられるだけだ。
大事なことは「退場させられない」ことであり、「余計なことをして自分の速度を落とさないこと」である。
これが守れる範囲で自由にすることはできる。
しかし、この条件が厳しいので、いじめなどというくだらないことをやっている隙がない。
競技のルールを守る以上は、同じ競技者としてリスペクトされ、競技のルールを破る奴は、違反者として相手にされない。ただそれだけだ。
しかも、厳密かつ明確なルールと厳しいゴール条件があるとき、人は攻撃しあうのではなく、助けあう。
シビアな状況では、本来的同士のものであっても、時に助け合い、支え合うのだ。本当に争うのはゴール手前くらいである。
お互いルールを共有し、リスペクトしあっている場合、仲間でなくても人は助けあうのだ。ソッチの方が強いのだ。
もちろんロングウォークでは脱落者は出るけれど、別の受験では実際に死ぬわけじゃない。でも脱落するのは苦しいから皆頑張る。
イジメなんざ結局、明確なルールや、高めのゴールを持たない、暇を持て余したやつらの破滅願望みたいなものだろう。
イジメ以外に序列をつけるものがないんだろ? 原始人でもできるからな。力で序列決めるとか。
ようするに、イジメやってますって時点で、それは自分たちはサルと同程度の社会能力しかありませんって言ってるのと同じなんだよ。
何ひとつ明確なルールがないから、ともだちみたいな曖昧なものを無理やり旗印に掲げてしまう。
ともだちなんかマイルールの典型みたいなものだから、ともだち集団ごとのマイルールの押し付け合戦になってバトルロワイヤルになる。
子供らが考えるともだちなんて完成度が低くて脆弱な仕組みだと、クラス全体を支え切れないから、常に外部に怯えないといけないから
自分から敵を作って攻撃的になる。 なんか本当に話を聞いてても馬鹿馬鹿しい。
サルですら、序列さえ決めてしまったらあとは安定する。戦いはボスを巡る争いに限る。それすらもできない。サル以下だ。
無駄にプライドばっかり高くて、やってることはサル以下。イジメをやるってのはそういうことだ、と教師は子供に教えるべき。
まぁ教師もストレス多いのか、職場内いじめとか多そうだけどなー。派閥争いとか無駄なことやってそうだけどなー。
はい、どう考えても少しの人間だけが救われて外部の人間は救われてないですね。傲慢と卑屈が合わさって最悪ですね。
子供の浅はかな知恵で、わがままを制御して十分に機能する社会が作れるならSFはいらねーての。私にだってよく分かんねーよ。
まーでも真面目な話、進学校になればなるほど、共同体の一員であることの価値が大きくて、イジメごときでそれを台無しに仕様とは思わないし、
いじめというものが実に非生産的であることが分かるからあんまりいじめってやらないと思うんだ。
あとそもそも、ロングウォークもそうだけど、こういう「競技」に参加する人間ってたいていイジメ被経験者だから、いじめに強い嫌悪感あることが多いね。
高校に通ってもいじめやったりいじめられてるやつらってさすがにちょっと甘いんじゃないか?
タイトルと違うけど、
お金を信用という違う尺度で捉えたのは面白いね。だけどちょっと机上論すぎるね。
信用=金ならば、約束を守ったりして信用を上乗せしていけばお金がもらえるってことになる。それってちょっとおかしくない?
さらに君は信用を漠然的な概念として捉えているようだけど、社会的に言う信用とは何か。僕がパッと思いつくのは「ローン」なんだ。銀行はその人がきっと返してくれると信用してお金を貸すわけだ。ここで銀行がこの人が信用できるかどうかを決める尺度はその人の年収であったり、家族構成だったりするわけ。決して会話のキャッチボール云々じゃない。
2011年ボジョレーヌーボーキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!! : 2のまとめRより。
95年「ここ数年で一番出来が良い」
96年「10年に1度の逸品」
98年「10年に1度の当たり年」
99年「品質は昨年より良い」
00年「出来は上々で申し分の無い仕上がり」
01年「ここ10年で最高」
04年「香りが強く中々の出来栄え」
05年「ここ数年で最高」
06年「昨年同様良い出来栄え」
07年「柔らかく果実味が豊かで上質な味わい」
08年「豊かな果実味と程よい酸味が調和した味」
09年「50年に1度の出来栄え」
11年「50年に1度の出来」
これを出来の良い順に並べる、というのに挑戦してみる。
まず目につくのが「○年に一度」という表現。例えば11年の「50年に1度の出来」だが、これを過去50年で最高とするのは早計。そもそも同種の短評が、ここに上げた17例の中に5例ある。同じような「○年に一度」の中では数字が大きいほど出来がよいとみるだけに留めるのがいいだろう。
よってその5例については以下の様になる。
ちなみに評価が同等の場合は、醸造技術の進歩なども考慮して年度が古い方を上とした。
さらにこれらの5例との比較が明示されているものをピックアップしてみる。
99年は98年より上ということであるが、これが09年や11年同等の50年に一度、あるいはそれ以上の出来であるならば、「昨年より良い」などという評価でお茶を濁すとは思えないので、それよりは下にするのが妥当だろう。「09年と同等」と評価された10年については先述した通り、同等評価なら古い方が上の原則を適用し、出た暫定ランキングが以下。
次に注目したいのが、05年の「ここ数年で最高」ここ数年というのが過去何年なのかが曖昧だが、前年よりいいだけなのであれば99年のように、「昨年より良い」でいいはずなので、少なくとも過去2年よりも上と解釈すべきだ。すると100年に一度であった03年を上回る。翌06年も05年と同様に良いということなので、これも03年よりは上とする。よってここまでで
ここからが若干難しくなるのがだが、まずは
について考えてみる。
96、98年の評価は「10年に1度」級であるが、最初に言った通り「このレベルのものはここ10年なかった」などと読むべきではない。だが、97年については96年よりは上でなければならない。99年とどちらが上なのかについてはひとまず保留。
次に
95年「ここ数年で一番出来が良い」
だが、1976以来の出来である97年よりは下であるのは間違いないのだが、「10年に一度」である96年と比較してどうなのか。統計的に解釈すれば「10年に一度」というのは「全ての年に序列をつけたならば上位10%に入るであろう」とも読めるのだが、95年以前がどうであったのかが分からないのでどうにも判断のしようがない。単位が違うので比較するのは少々乱暴ではあるが、「数年」よりは「10年」ということで、96年より下とする。
まだランキングされずに残っているのは
00年「出来は上々で申し分の無い仕上がり」
01年「ここ10年で最高」
04年「香りが強く中々の出来栄え」
07年「柔らかく果実味が豊かで上質な味わい」
02年 > 01年であることに異論を挟む必要はないだろう。さらに01年が「ここ10年で最高」であることから、99年以下に入るはずはない。99年の一つ上は11年の「50年に1度の出来」である。どちらを上とするか。最近10年の内、「50年に一度」以上の評価が5回も出現するあたり、この評価の尺度の信ぴょう性にはいささか疑問があるのだが、「ここ10年で最高」程度が「50年に一度」を上回るというのも考えにくいので、それよりは下とする。したがって、ランキングは以下のようなものとなった。
残ってしまった4年度については、恐らく「大した出来ではないが今年の特徴は〇〇である」ということを、ぼやかしたものであろう。よって、95年以下で、順位については飲む人のお好みで、とするのが妥当ではないか。
保留にしたままの97年と99年であるが、50年、100年に一度の出来がここ十年で5度も出現するほど醸造技術は年々進歩しているのだろうということで、とりあえず99年を上とする。
越えられない壁(以下は順不同)
要約:自閉症や統合失調症に対する治療の鍵は、最近亡くなった子供たちの脳にあるかも知れない。治療の進歩のために、研究者たちは寄付された研究材料の国際バンクへのアクセスを必要としている。
現在の科学の課題事項の中で、死んで間もない子供の脳の研究に匹敵するほどのショッキングな話題はまずないだろう。その研究から得られる結果―自閉症や統合失調症といった精神状態の理解(おそらくは治療も?)の進歩―は曖昧なものである。そして、その困難はと言えば、明確である。突然の、そしてときには暴力的な状況によって自らの子供を失い悲しみに暮れる両親から譲り受けなければならないのだ―その子の、脳を。
だから、個々の研究者、機関、財団が、中絶児からの胎児脳と同じように新生児、幼児、それより大きな子供たちの脳をもっと研究できるようにしてくれと大っぴらに表明するのがはばかられるというのはよくわかる。それでもなお、ttp://www.nature.com/news/2011/111026/full/478442a.htmlで取り上げたニュースが示すように、一部のアメリカの患者グループは声を上げ始めている。これらのグループは、支援を受けるに値する。更に、彼らはアメリカ内外でより野心的な目標に向かってともに進み、支援をしてくれる科学研究機関を必要としている。その目標とは、世界中から集める数万を超えるであろう子供と胎児の脳を保管する国際組織バンクである。Natureは今日ここに、そのようなバンクの支援をすることを誓約する。
そのような施設であれば、発達の早期段階にある脳組織で研究を行いたいと願う膨大な数の科学者を集めることになるだろう。今日の生物学の技術を持ってすれば、不完全な発達による神経学的疾患についての豊富な情報を抽出できる。自閉症や統合失調症、双極性障害と言った精神発達状態は今日の社会にとって巨大な負担となっているにもかかわらず、これらに対する有効な治療はまだ無い。統合失調症だけでもアメリカでは毎年数十億ドルの費用がかかっている。
これらの疾患について研究している多くの科学者は若年者の脳組織にアクセスできない。現在存在する脳バンクを非公式に調査した結果では、バンクが保管する胎児、幼児、10代の若者の脳は僅か1300だという。
ある子供の個性の座、などという微妙な問題を含む研究材料の供給を国際的な尺度で増大させるなど、どうしたら可能だろうか?供給不足の一因は輸送の問題である。しかしこの問題はいくつかの成人脳バンクが解決しており、原理的には子供の場合も違いはない。
現実のものであれ想定されたものであれ、最大の障害はこの話題の微妙さと両親からの募集にある。究極的にはこの障害に直面しなければならない。そして、アメリカでの議論を主導しているのは苦しむ両親たちとの会話の経験がある自閉症支援団体である。彼らは、事故で子供を亡くした両親にその子の脳を寄付することの価値を納得してもらうよう働きかけを続けている。それと平行して、NIHは子供の脳を積極的に集め、より広く生体医療のコミュニティーに利用してもらえるような、脳組織収集の全国ネットワークを立ち上げる方針である。
これらの事はゆっくりとしか進行していないが、ともかく動き続けている。そして、これらのゆっくりした国内での動きが国際的な動きに発展するためにどうすればよいか考えるのに早すぎるということはない。より多くの国が集まればより多くのドナーが集まる。個人の脳に大きな可変性がもともと備わっていることは、脳組織の研究が統計学的に有意なものであるためには大変多くの数が必要になることを意味する。
脳バンクの国際ネットワークは以前にも行われたことがある。たとえばBrainNetヨーロッパはヨーロッパの19の国で脳組織を集める唯一の門戸として10年前に設立されたが、どの国でも子供の脳は意味のある数を集められていない。アメリカの支援団体であるAutism Speaksは既に自らの脳バンクをオックスフォードにあるイギリスの保管所に加えている。
ネットワークでつながれた収集組織は胎児脳にも同様に広げるべきで、これが国際的な取り組みを行うもう一つの理由でもある。アメリカでは過去20年間に、少なくとも8人の中絶医療関係者が殺されており、そのうち4人が医師である。NIHのような団体が(中絶)胎児からの収集について強力な公式の宣言をするわけにいかないのもわかろうというものだ。
正式には今年開かれたばかりだが、精神発達疾患について精力的にtranslational researchを行っているMarylandのBaltimoreにあるLieber脳発達研究所は、自らの研究プログラムのために若い人々の脳の収集を行っている。収集はそれほど政治的に反対の強くないヨーロッパの3国(スコットランド、デンマーク、ブルガリア)の胎児の脳から始まる事になっている。実際、Lieber研究所は個人的、政治的な感情に十分配慮した上で小児や胎児の脳バンクを運営していく方法の見本を実証しようとしているのだ。国内や国際的な脳バンクのネットワークができたとしたら、それらに協力するのですか、とOrganizerらに問うたところ、「協力する」とのことであった。しかし、それを待っているわけにはいかない。行われなければならない重要な研究は既に多すぎるほどなのだから。
A priceless resource
Nature 478, 427 (27 October 2011) doi:10.1038/478427a
Published online 26 October 2011
しかし、日本ではこうした議論が少ないように思う。科学は、ひとりでに発達したりしない。犠牲も伴う。
疾患に苦しんでいる人を救うのはこうした働きの積み重ねだったりする。
拙い訳だが、せめて、片隅でいい。誰かの頭に引っかかってくれれば。
名前なんてものに意味はない。あれは単なる記号だ。強いて言うとすれば、自らが属している領域と、その領域内での力量を表すことのできる道具であるということくらいだ。
その力量というものも、実質的な尺度とは言いがたい。単なるまやかしとも言えるし、自らがここにいると標榜する旗の色調の派手さ奇抜さを競っているだけなのかもしれない。
兎にも角にも、今現在名前と呼ばれているものにはそれほど重要な意味なんてものはない。
無論、両親や親類の願いや思いといったものは託されているだろう。だがそれだけだ。そういった願いや思いが、一体何になるというのだろう。
我々の多くはその名を知らない。他者のものも、自身のものも。誰も教えてくれないし、誰も見つけられない。だから知りようがないし、教えようがない。
それは、だからある意味ではないも同然のことなのかもしれない。誰にも理解されない、認知されない概念など、あってもなくても似たようなものだからだ。
けれど、ときどき僅かながらも真名に敏感な反応を示す者たちがいる。そのものの性質を朧気ながらも読み取り、適切な語彙でもって固定化しようと試みる者たちがいる。
彼らはおよそ無意識の内にそれらのことをやってのけるのだが、その呼び名が、あるいは渾名が他の名前よりもよっぽど正鵠を射ているので、小さく持て囃されたりする。
真名を知ることは、己を知ることの第一歩となりうる。故に人は、真名を知ろうと努力せねばならない。対外的な好奇心よりも、内向的な思慮分別を重視せねばならない。
そうでなければ壊れてしまう。