はてなキーワード: 人生観とは
初投稿です。
みなさんとは人生経験の違いで未熟な私は罵倒されるような内容でしょうが、人生観を広げようと思い投稿しました。
失恋という綺麗な言葉で表していいのかと思うが、とりあえず大切な人を失った。
幸い?にも公欠で10日間学校に行かなくて済んだから幾分気持ちの整理ができた。
正直こんなに辛いとは思っていなかった。
でも私の今の辛さ、今までの彼に比べたらちっぽけなんだろうと思う。
友達として楽しく過ごしたかったけど、彼は私のことを好きだという。
恋愛感情を持ってしまったならしょうがないけれど、そうなるならいつか終わりが来るのを知っていた。
もうずっと友達でいるのは無理なのか、と私は悲しくなって泣いた。
私は悲しくなったから、私を好きになった罰として、彼を浮気相手として、私の気が向くままに振り回したしひどいこともした。
それでも私を好きだといってくれた。でも若気の至りだと名前を付けて道徳心を忘れた私の心には届かなかった。
もう彼と一緒にいても楽しくなくて笑わなくなったし、演技ばかりするようになった。
そうしていくうちに、ある日彼の心は離れた。
彼は、2人の思い出話をして、別れよう、といった。
いつかこの日が来ると思っていたけれど、私は人に見せられないほど号泣した。
涙の訳は、ほんとうは好きだったのか、それとも男女の友情が脆かったことの絶望なのか分からない。
彼は、お前には笑顔でいてほしい、といった。
「救世の法」という本を、知り合いの会員さんからゴミ処分的な感じでもらった。
ただ、最後の「幸福の科学の活動一覧」を観て、うわすげぇ、と恐ろしく感じたのでなんとなくまとめておく。
彼は、大川隆法のことは割とどうでもいいかんじでした。「彼の言ってることはイミフ」といってました。
というか、そもそも自分が宗教団体に属しているという認識が薄いようです。
あくまでボランティアの仲間がそういう人達だ、という感じだとか。
彼自身ボランティアに参加していたらそこが幸福の科学のグループだった、とかその程度らしいです。
社会貢献を求めてボランティアに参加すると、いつの間にか中に入り込んでる、という仕組みなのかもしれないっすね。
そのつもりがなくても、楽しんでいるうちにどんどんのめり込んでいって、代替が登場するまで抜け出せなくなる状態。
以下「救世の法」から面白げなところピックアップ。別に読まなくてもいい。読んでも時間のむっだったったと思うのがオチ。
世界の人々は知らないかもしれませんが、1980年代には日本の幾つかの宗教の中で「われこそは再誕のブッダである」と言っていた人は、わたしが知るかぎりでも5,6人はいました
幾つかの教団が、自分のところこそ本物だ、という形で競争をしていたのです。それから二十年あまりの歳月が過ぎ、決着はついた、結論は出た、と私は考えています。
世間の人々が本物か偽物かを見極めるために、十年、二十年の歳月を欲しいと思うのは当然かも知れないので、この教を信じてきただけない期間があったことを責めるつもりはありません。
・人間の本質は霊的な存在であり、その霊的な存在が肉体に宿り、地上で人生を送っているという真理があります。
しかし、日本にはこの第一関門を乗り越えられない人が、数多くいます。
地上から見た善悪ではなく天上界から見た善悪においては、この世の法律で決めた善悪を越えて、人間として、本当に神仏の心を心として生きたかどうかが問われる。
上記の真理に反すると地獄に落ちてしまいます。知らずに落ちるのはかわいそうだしフェアではないので、真理を知っている宗教者は真理を説き続けているのです。
霊的人生観を教え、正しい生き方が何かを教えるのが宗教の役割なのです。善とは何かを語る宗教を善なるものとして受け入れ、それを元に生きることが必要なのです。
エル・カンターレは世界宗教をすべて束ね、精神的な柱になる使命を持った存在です。
魂としては、インドに生まれた歴史上のブッダに一番近いのですが、インドのブッダを越える大きな使命を持っています。
そしてエル・カンターレの魂の核の部分が、現代の日本に、大川隆法と言う名で生まれて活動しているのです。
私はすべての人々のすべての霊を救うために地上に現れました。
なぜなら、私は創造そのものだからです。私はこの地球の創造力の顕現であり、この大宇宙の創造力なのです。
これは、幸福の科学の、そして人類にとっての、最大の秘密です。
クラスノミンナニハナイショダヨ今こそ、その秘密が明かされるべきです。
他力の宗教のマーケットは自力の宗教の十倍あると言われています。
わたしの教えには自力の部分が多いのですが、他力には、そのまま他力で押して行けば、それなりに自力と同じ結論になります。
2009年には、店名が下り、幸福実現党を立党して政治活動を開始しました。
この世を救うということにおいては、単に教えで救うだけでは済まないものもあります。
この世において政治的に置き去りにされている人は数多くいるので、足らざるところを少しでも改善していくように努力する現実的な力もいるのです。
店名が下り、世直しに努力せよと言われたのですから、活動しなければならないと考えています。
本当はCO2ではなくてフォトンベルトなのです。
地球はやがてフォトンベルトから出ます。したがってCO2を削減しようとする今の政策は基本的に間違っていると思います。
むしろフォトンベルトが地球を通り過ぎた後は地球の寒冷化が始まるので、温暖化は良いことなのです。
国の財布の下が閉まるような政策を取ると、経済は必ず悪くなります。
本当は子ども手当を支給するよりも、わたしが著した経営書を政府が買い上げ、
これで会社を大きくしてくださいといって各企業に配ったほうが税収を増やすには効果があるかもしれないのです。
今の政府にはドリームがありません。私たちはこの国をもっと希望に満ちた国にして光り輝く未来をつくっていく
日本がまず私達が説く「国をとませる方法」を実証してみせ、他の国を導くことが重要なのです。
アフリカにも信者がいますが、アフリカの人たちは、「幸福の科学の教えを勉強すると、自分たちの国のやるべきことがわかる。
こうすれば良いのだということがわかる。まさしくこの教えで国が発展する」というようなことを言っています。
漢文のお経の読経を聞いて、何らかの霊波動を受けることは殆どありません。
しかし幸福の科学の経典「正心法語」は、わたしが読みあげたCDをかけると、私の場合数秒くらいで例反応が出てきます。
信じるか信じないかということはこの世では五分五分なので賭けのようなものです。
わたしの言っていることが正しかった場合、それを信じていた人は来世において極めて大きな功徳を得ることになります。
また、もしわたしの言っていたことが全部外れていた場合出会っても、それを信じていた人は、死後存在しないので、何も損をすることはありません。
死んだら何もかもなくなるのであれば、死後は騙されたと思う自分も存在しないのですから何の損もないでしょう?
わたしの言葉を信じる人の場合、あの世があるときの利益はかなり大きく、逆にあの世も霊もないときでも、あの世で騙されたといって怒る人はいないわけです。
親鸞風にいうとするならば、わたしにだまされても諦めてください。もしわたしが嘘つきだったならば、その時には「まな板の上の鯉」だと思って騙されてください。
幸福の科学は、地域宗教の枠を超えて、人類全体を幸福にするための手段や方法、理論としてありとあらゆる物を探求。だから科学も否定しない。
慈悲とは善きものを他人んい与えようとする性質のことです。
ひたすらに心を平和に保ち、心を穏やかにしてください。
他人を愛する人々、他人を愛そうとしている人々を愛して下さい。
そのような人々をこそ、あなた方は愛するべきです。そうすれば彼らもあなた方を愛するでしょう。
そうしているうちに、もしあなた方に、心の奥底から湧き出る豊かな愛の思いが生まれたなら、それが慈悲と呼ばれるものなのです。
慈悲は生まれつき備わっているものではありません。あなた方の日々の努力の蓄積によって慈悲は生まれるのです。
そのために人はみな修行をする必要が有るのです。
さすがに此処から先は引用だけでは面白さが伝わらないので実際に読んでください。
ミハエルとムハンマドが組んずほぐれつ。そこに大川隆法も参戦。父なるイエスがお前ら程々にしておけよ、となだめる。
九次元霊マニがゾロアスターにアッー!されてヘルメス神がグノーシスにピー。
霊的紛争の途中になぜかマルクスの霊が登場。日本からは松下幸之助と坂本龍馬が参戦だーっ!松下強い!
争いが最高潮にまで達した所でエル・カンターレ降臨。秩序に満ちた自由な社会が実現。
読んでいてがっつり体力を削られる本でした。腹筋を鍛えたい人にはお薦め。
幸福の科学グループのご案内。
主な活動は以下のとおり
「ヘレンの会=身障者を助けるためのボランティア」
「学校法人 幸福の科学学園(滋賀県)」 2016年には幸福の科学大学も開設予定。
「幸福の科学出版」
入会すると正心法語が授与されます。入会の奉納は1000円が目安です。
「○忌憚のない 意:『率直、ざっくばらんで、遠慮のない』 使用例:忌憚のない意見
×屈託のない 意:『気に病むことのないさっぱりとした』 使用例:屈託のない笑顔」
…最後で噴いたわw
それはそうとして、「体の相性」だけよくて「恋愛観・人生観」の一致しない相手って、単なるセフレじゃね?
増田にとっては「彼女」であっても、「彼女」にしてみれば「セフレ」なんじゃね?
もし「彼女」の側でも「彼女」のつもりなんだとしたら、それは「仕方ない」どころではなく彼女が悪いわ。感覚がおかしいわ。
どれくらいおかしいかつーと、たとえて言えば、結婚した相手に毎晩ベッドに入る前に入浴料要求するくらいおかしいわ。常軌を逸してるわ。
だから、悩むべきは増田の方ではなく、つきあった相手をセフレ扱いしかしない(しかもそのことに気付いてない阿呆な)彼女の方だわ。
いわゆる「女叩き」に合うのも覚悟の上で、どうにもまとまらないもやもやを増田に吐き出したいと思う。
最近Facebookで中学・高校時代の友人たちとの旧交がみるみるうちに復活しつつある。
田舎なので同級生のほとんどは大学進学と同時に都会に出て行き、そのままそこで暮らしている。
残っている友人たちは、地方公務員になったとか、あるいは親の仕事を継いだとか、そういう人たちだ。
わたしは少し前にうつ病を患い、真っ当な社会生活を営めるようになるまでに相当の時間を要した。
今も万全ではなく、回復過程にいる。
最近ようやく、休みの日に外を出歩いて気分転換できるだけの気力と体力を取り戻したところだ。
それに伴い、地元に残っている旧い友達、あるいは社会人になってから新しくできた友達と、週末に食事をしたりしている。
その延長線上で、男からセックスを求められることの多さに、本当に辟易している。
真正面から攻められたこともあるし、「あわよくば」的に滑稽なまでに必死な姿を見せつけられて悲しくなったこともある。
食事をおごられてるわけでもなく、好色をアピールしているわけでもなく、ただ、他愛のない話をしているだけのはずだ。
わたしのことが好きなのか、という意味の探りを入れると、彼らはすっと身を引く。
つまり、わたしは彼らにとって「セックスできるかもしれない女」のひとりでしかなかったということで、その事実に大変に傷つく。
男女の友情とか固く信じているわけではないが、もう少し、「セックスするかさもなくば他人」みたいな両極に振れずにすむような、余裕のある付き合いはできないものなのか、と思う。
先日、弟の結婚式で上京した。
せっかくの機会なので東京在住の友人たちとも久々に会ったのだが、彼らはそのような下品ながっつき方はしておらず、それでいて楽しく和やかな時間を過ごすことができた。
これが普通だろうに、地元組は、どうしてこれができないのだろうか、と思う。
旧い友人を、風俗の代わりにしかできないような、そんな人生楽しいか?
と、人生観すら否定したくなる。
そのくらい、わたしはわたしにセックスを求めたがる男友達を嫌悪している。
学生時代に性に奔放だったとかそういうわけでもない。
友達は男女ともにたくさんいたが、彼氏がいる時期は少なかった。
誰か教えてほしい。
彼らは、なんでこんなに下品な大人になってしまったの?
もう、レズになりそう。
冗談抜きで。
住んでる場所によって根本的な人間性がさほど違うとは思ってない。
言われている通り、表現の仕方が違うだけのことだと思う。
でもその違いってわりと大事だ。
奥底で思ってるぶんには別にいいんだよ。そういうもんだと思うからさ。
というわけで、男がせっくすせっくす!な生き物なのはもちろん知ってるさ。
ただ大人になったらもうちょっと節度を持って行動しましょうね、って話なんだけど、自分の友人に意外とそれができない人が多いって事実に落胆してる。
同じ頻度で会う男友達がことごとくこんなんばっかりで、あれれ~?この人たち前からこんなんだったっけ???と当惑しておるわけです。
茂木健一郎さん@kenichiromogi 「夢」についての連続ツイート(2011/8/14)
を読むことにしている
より一部引用。
『ゆめ(8)フロイトが看破したように、誰もが無意識の中では人には言えない欲望を持ち、嫉妬や怒り、哀しみなどの感情を持つ。それが夢において現れる。精神の無菌主義は禁物である。無意識の海に浮かんで、その上で他人に善意を向けねばならぬ。』
という言葉にどれだけ救われることか。
話は俺と元彼女のことに移る。
学生時代に付き合い始め、相性は良かった。周りもお互いも結婚するもんだと思ってたぐらい。けど2年前、彼女が俺より先に社会人になった時から歯車は狂い始めた。
が彼女をどれだけ寂しくさせたか。友人も家族も恋人も近くにいない。仕事では新人として足を引っ張る毎日。そのストレスと孤独をどう紛らわしていたんだろう。それを気遣って、支えてあげることが俺はできなかった。その結果、今年の年初に別れを告げられた。
その時の気持ちは辛かっただろう。それは理解できてるよ。
だけどな、
その辛さから脱却するために俺を女ゴコロの理解出来ない悪者に仕立て上げようとすることは間違ってる。
メールをすれば何かしらにつけて俺の言葉尻をとらえて「やっぱり、愛されてない」って勝手に決め付けること数度。その後俺の言葉は一切聞かない。
別れる3ヵ月前、「会わせたい人がいる」と会社の同僚に会わせようとしてたことがあった。多分、恋愛についての相談をしてたんだろうな。で、その会話の中で全部俺が悪者にされて、その悪者の虚像が彼女の中にどんどんできあがってたんだろう。)
で、最後は、
甘言で言い寄ってきた男との浮気を正当化して、俺と別れて、「今の選択肢は間違ってなかった」「私は今は幸せだよ」だとさ。
今は幸せ?当たり前だろ?略奪できるぐらい恋愛慣れor想いを寄せてきた男が不誠実な対応をするわけがない。ましてや愛されてない俺へのアンチの心情との相乗効果でさぞ幸せに感じるだろうな。付き合って数ヶ月で何がわかるの?その幸せ脳天気な頭で。
少なくとも、あんたがそうやって幸せを感じようとしていることが俺には悔しくて、死にたくなるぐらい悔しくて。不幸を感じることしかない。
「私は今はキラキラしてて頑張っちゃってる。けど全然辛くない」
↑
彼女は周囲にいる優秀な同僚=仕事も恋愛も休日もバリバリエンジョイしてキラキラしてる
になりたかったんだろう。
その人生観が合わない。だからやっぱりつきあい続けることはできない。そんな話し合いの末での別れ方なら納得もいったかもしれない。けど、彼女は急に俺を蹴落とすことで楽に幸せになろうとした。
元彼女の心情も、状況も理解できる。たぶん、俺だってその選択肢をする。
けど、それを見ないで、逃げるようにして、俺を不幸にして、自分だけ幸せになろうとしたそのツケは払えよ。昔からの女友達との仲を犠牲にしてまで幸せになろうとするなんて、いつか後悔してほしい。
友人の前では綺麗なことを言って。
って言い聞かせて。
だからせめて匿名でいいからドロドロしたことを全部言わせてくれ。フロイト先生、夢なんかじゃ発散しきれないぐらいの感情なんです。
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2011/09/post-346.php
フジ子・ヘミングについて冷泉彰彦が書いた文章を「いまさら」見たので,わたしの雑感を書く.
私が聞いた時,彼女の調子が悪かったのかもしれないが,彼女の「音」にはまったく感慨を覚えなかった.個人的に感想としては,演奏が始まる前,調律師が調律していた音の方が,よっぽど「ブリリアント」であった.おまえはなぜヨーロッパのオーケストラを聞くのか,と問われたら,こう答えるだろう.「音が違うから」と.それだけ,日本のオーケストラとヨーロッパのオーケストラでは,音がちがう.ピアノ演奏はあまり聞いたことがないが,少なくとも一人立体的な音を出している人はしっている.アルゼンチン出身の女性が出していた音は,立体的でたいへん美しかった.
たしかに,フジコの演奏を予断なく聴いて感動している人に水を差すようなことはしない.しかし,朝日新聞に出ているような広告をみたり,フジコがそういった過去を持っていることと彼女の演奏を結びつけたりといったことが過剰であると見受けられるためにクラシックファンに批判されているのではないか.
クラシックの音楽を解釈するために,人生観そして世界観に絡めて理解するというのは理解できる.しかし,それは立ち現われている音と「わたしの」人生観,「わたしの」世界観を絡めて解釈する行為であって,演奏者個人の来歴はさほど関係ない.演奏者個人の来歴が関係してくるのは,演奏に対しての価値判断が行われる場所においてであろう.つまり,フジコの演奏を聴いて,「天涯孤独だから」演奏に感動するというのはあまりよろしい態度ではないとわたしは思う.よって,「ブレンデル引退コンサートに巨匠の人生が凝縮されている」とわたしは述べない.「ブレンデルはさすがに引退か」とは思うが,そことは離れた場所で演奏を聴き判断する.そして演奏を判断するためのものとして,「音」「技術」「技巧」というものがあるのである.どんない偉大な経歴であったとしても,その場で聞いてしっくりこなかったのであれば,しっくりこなかった感動したのであれば,感動したと思えばよい.その場所に,「フジコの半生はこんなで」とか「ブレンデルの引退コンサートだから人生が云々」という話は関係ないのである.そういった話を引きはなして,演奏を聴かないがためにフジコファンは「耳がない」と馬鹿にされるのである.(フジコの弟が大声でブラボーと曲毎に叫ぶのも興ざめ)
物語を作って,物語の登場人物をステージにのせ,半生を聴衆に回顧させ,お涙頂戴芸をやっているから,フジコは批判される.それにわたしから言わせてもらうと,最初にフジコなんぞの演奏を聴いてしまった方がかわいそうである(フジコの演奏をすべて私は否定したいのではない,最初に出したアルバムは良いと思う.その後は練習不足がたたってか,年なのかしらないが全然ダメだと思っている).
ピアノの演奏には,お涙頂戴芸以上に素晴らしい芸術がある.それの根幹となっているのが各人が出す音である.フジコは全くそこができていない(というよりも年で,もうまともな音が出ないのではないか.長年鍛錬してきた他の老ピアニストと違って彼女にはブランクがある).その点から,フジコはさっさとお涙頂戴芸をやめるべきだし,フジコの演奏を非難しているのは,頭の固い日本の馬鹿クラシックファンだという発言をするのもやめていただきたい.
あとCDだといくらでもごまかせるので,実演聞いて判断するべき.
わたしのおすすめのピアニストは,ハンガリー出身でいまはイタリアに住んでるおじさんとか,ルーマニア出身で最近日本に演奏に来たのにおなかが痛くなって残念ながら帰ってしまったおじさんとか,アルゼンチン出身で体調不良でコンサートをキャンセルしてしまったおばあさんとか,もっといろいろいるがこの辺で.
最近多くのメールでどういう上司がいたかということをよく聞かれる。思えば変人が多かったな(笑)。
一番印象に残っているのは、俺が25歳から30歳の頃のA部長だ。
最近はだいぶ社内の上下関係もカジュアルになって来ているが、当時は若手社員が部長と気安く話すなんてなかなか許されない雰囲気だった。
レポートや報告を上げるにしても、逆に何か部長から指示が降りてくるにしても、常に自分の直属の主任、課長、次長、そして部長と言う階層を通じて行われる、明確な序列があった。
「おい、タケシ!ちょっと来い」
と言ってオレを部長席に呼び出したり、向こうからオレの席にふらりとやってきたりして、オレをかわいがってくれた。
また若僧のオレにも
「オマエがオレなら、どうする?」
と忌憚ない意見を求めてくれた。
A部長は当時、今のオレと同じくらいの歳だったと思うが、体型はスリムで、どんなに暑くてもスーツをきれいに着こなし、精悍な顔つきだった。今で言えば、かなりのイケメンで(当時、まだイケメンなんて言葉はかったが)、社内の女性らの中でも評判だった。
今の時代なら、GQやLEONとかの雑誌に出ていても不思議ではない、チョイ悪なオヤジだった。
すごいのは、このルックス以上にキャラクターが深くて濃いんだ。
哲学、文学、芸術とワインをこよなく愛し、食事に行けば、シェリー酒から始まり、赤ワインをたしなみながら、高級そうな葉巻を片手に、平気な顔をしてサルトルの実存主義について語る。
ヨーロッパ的な気品があって、高貴と自由があいまった雰囲気をこよなく愛する人だった。
でもさ、何かと理由をつけてすぐヨーロッパに出張してしまうんだ(俺も同行させられることが多かった)。
と言って、自分は2週間くらいヨーロッパを周遊するんだから、困ったもんだよ(笑)。
もちろん、本人は「視察」だって言い張ってたけどな。
電子メールや携帯電話なんてない時代だったから、A部長がヨーロッパ周遊で不在の間、A部長に指示をあおぐのは大変だった。オレら若手は、A部長が泊まりそうなホテルに、片っ端から電話させられたもんだ(笑)。
A部長の緊急決裁が必要になり、どうしてもつかまらないA部長を探して部署メンバー総出で、居場所を突き止めるべくフランスのToulouse中のホテルに電話をしたこともあった(前々からToulouseでフォアグラと白ワインを飲むのがいいと言っていたので)。
しかし、結局、どのホテルに電話してもまったく見つからない。本当は権限規定違反なのだが、最後は次長が代理決裁して何とかした。
それから数日すると、真っ黒に日焼けしたA部長が会社に現れて、「地中海の島で彼女とエンジョイしていた」とのことだった。オレたちは日本であわてまくっていたのにさ(笑)。あの時はあきれてものが言えなかったな。
こんなA部長の破天荒ぶりを書くと、ただの遊び人、趣味人にしか見えないかもしれない。
しかし、仕事はすさまじくでき、社内だけでなく取引先や競合企業からも敬意を集めていた。
当時は、朝から晩まで働くようなモーレツ商社マンがもてはやされていた。しかし、ヨーロッパ人を自称するA部長は、そういう連中を「バリューレスな社蓄」と呼び軽蔑していた。
「今すぐ資料をしまえ」
と言って、ことあるごとにオレら若手を食事に誘い出した(その後、会社に帰って仕事しなきゃいけないから、ますますモーレツ社員をやらざるを得ないんだけどさ・・・)。
食事の席では、普通なら社内政治や昔の武勇伝を聞かせる上司が多い中、A部長の口から会社や仕事の話しが出ることはなかった。
文学論、芸術論、音楽論、人生観までをゆっくりと語ってくれた。ウィスキーの飲み方、酒の種類、ワインのテロワール、ホステスへの接し方、葉巻の吸い方など今の遊びの基礎はすべてA部長に教わった(笑)。
九州の田舎村からニセ慶應ボーイになってバブル期に調子に乗りまくっていたオレは、「こんな洗練された人がいるのか」と憧れだったものだよ。
おっと、A部長の仕事ぶりを書くつもりが、ついつい遊び話になってしまった。
だが、この記事を書いていたら、オレもBourgogneワインを飲みたくなって来た(笑)。
続く
テレビがネットより優れているトコロ または15万件の苦情に見るネットの可能性
http://d.hatena.ne.jp/mizuiro_ahiru/20110725/p1
ただ「怠惰を許容する」コンテンツや仕組みを作っても流行らない。
家に帰ってまずTVをつけるような人は、
人生観を変えるような良コンテンツより「他者とコミュニケーションする為の素材」としてのコンテンツを求めている。
「昨日の○○みた?」
「面白かった~」
「でも、あのシーン、あれヒドくない?」
「分かる分かる!」
こんな風に、考察ではなく、感想を述べ合うに終始する会話を生み出すコンテンツこそ、彼らにとっての正義。
「でも、あれって実は○○が××なんだぜ」なんてことを言うのは、事実であれ、無粋の極み。しらける。
要は、TV好きは、考察ができないほど薄っぺらなコンテンツを好む。
これは“したり顔で会話をぶち壊しにくる知識人”の介入を防ぐためで、
仮に、ある程度知性的なコンテンツであれ、その情報は多くの人が既に知っており、
そこから更に踏み込むことは、コミュニケーションにおいて、それほど重要ではない。
TVが提供しているのは「怠惰」ではなく、「そこはかとなく会話を楽しむための素材」だ。
だから、チャンネル数は限られていて、そうすることで、より多くの人間が同じチャンネルを見る可能性を高めている。
TVをみる人にとって大切なことは「知的好奇心の充足」ではなく「共感」だ。
グリーやモバゲーが提供しているものも、勿論「怠惰」ではない。
そこで提供されているのは「知識人(思い込み含む)が付け入る隙のない新しい世界観」と「コミュニケーション機能」だ。
皆が同じ目線で語り合える場を提供したのが成功しており、みな積極的に情報を取りに行っている。TVも同様だ。
つまり、知識人が「面白くない!」と感じるコンテンツや仕組みこそが、意外にも、今後ネットで爆発的に流行る。
なぜなら、知識人の締め出しに成功しているからだ。
そして、大きくなった会社に、これらは作れない。
大きな会社には頭でっかちの知識人しかいないからだ。
中小企業の皆さん、
まだまだチャンスはありますよ。
※ちなみに、「怠惰を許容しつつ」というのも、とっても大事。ただ、それだけではダメ。
これって的中率が高いと思う。
暇な方はやってみて。
ちなみに自分はこれ↓
あなたは少々のことには動じない、心の豊かさ・落ち着きのあります。
協調性に富んでいて、相手の心の動きにも機敏で、周囲の気配りを大切にする人情家と言えるでしょう。
こうした奥ゆかしさが、周囲に引き立てられ幸運を掴むという福運に恵まれます。
ユーモアのセンスもありますが、健全な人生観をもっているので突飛なことはしません。
そういう意味では保守的ですが、好感の持てる清潔さがあります。
しかし、あまりにも正義感を振りかざしすぎると、周りが窮屈さを感じて、かえって反感を与えることがあります。
しかしそんな窮地も、持ち前のユーモアで巧く切り抜けることができるでしょう。
Twitterだねえ。
著名人が動いているのを見たり面白い事言ってるのを見るのもよい。
それくらいの、暇つぶし10割でしか使ってないのだけれど、それは活用できていないらしい。
有意義?な使い方っていうのがもっとある。
RTしたりされたり、そうして己を磨いていく。のかな。
#change2011とかいうタグを友達が使ってて、急に欧米が政府がとか言い出したぞなんだと思ったら、皆はもっとすごいや。
どうやらこれはイベントなのね、皆足並みそろえて燃えたぎっている。どーりで大学生が多いと思った。
そしてなんだかむずがゆい。
要するになんかアホらしい。
成長過程といえばそうなんだが、偉そうにまとまりの無い事を無勉強で呟くのはどうかと思うよ。
アウトプットは大事だけれど、それっぽい言い方をする事が練習になるわけではなくて、一応の論理的筋道を立ててモノを言うのがアウトプットの練習になるんだと思うよ。
「世界を変える、そのための努力もする」って、世界を変える事は目的で有り得ないだろが。
ある事をやりたいから、そのために動く結果として世界が変わるだけで。世界を変える事を第一に打ち出すってのは違和感。
その人をモデルとして生きていくのは悪い事じゃないが、その人の勉強量を見たら偉そうなことを言うのを恥じろよ。
知識人のまねごとをするなら勉強しろ。新書、ビジネス本コーナーの人口と、Twitter知識人の人口の開きは一体。
・・・
理解して無いだろお前らって言われてるじゃねえか!
「感動しました、すぐ行動に移します」って!何をだよ!勉強をか!考えてからしろよ洗脳されるぞそれ!
行動力は大事だけど、自分で考えた事を行動に移すんだよ!言われた通りじゃ何も変わってねえだろ!
、と。
世界と較べて日本の大学生は、という論調が多いことから目指すものは世界で通用するリーダーなんだろうけど、大半は日本の就活に飲み込まれ日本企業で活躍して埋没していくのかしら。
結論はプログラミングを学べなのかな?そんなことも聞いたこと無かったのかい。web進化論やら何やら何やらでさんざん言われてる事だろうに。
まあでも、少しでも本当に糧としてくれる人がいればいい、のかね。
もしくは、話を聞いて少しでも全体の意識が高くなってくれれば、それでいい、のかな。
このエントリーは三つに分けて考える必要がある
特にアニメが好きでもなく、知識があるわけでもないのに
畑違いの自身の知識だけで中身がないと断じてしまうのは、あまりにも幼稚だ
自分はお涙ちょうだいのドラマや惚れた腫れたの話が好きではないが
そうした話に感動する人もいる、場合によっては人生観が変わる人もいる
それを否定しないし、尊重する
自分が気にもとめない作品でも影で制作者の血のにじむような頑張りもあっただろう
あの作品は中身がない薄っぺらだ、あんな作品で感動する奴はたかが知れていると言ったらどうだろうか
さらに言えば
まどマギのようなオタク向けの作品以外でこうした論評を下しただろうか
このエントリーからはオタクに対して潜在的に見下しているものを感じる
最後に三つ目この人自身に対してだ
登場人物に感情移入できず、ストーリーもご都合主義のてんこもりで
うすっぺらに感じただけだった
それとも自分の感度が低すぎるのかなと書いてあるが
追記で謝罪するぐらいだから
お前の感度はクソ低いよバーカ
日本で始球式をすることも決まっている、話題のサンデル教授の本『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ。
シリアスゲーム的な考え方だと思った。押し付けがましくなく、それでいて熱意がある。
ダン・アリエリーの「予想通りに不合理」では、行動経済学として人々の社会規範と市場規範に焦点を当て、さまざまな実験を通して規範の適用の仕方を検証している。
サンデル教授はこれまで社会規範の適用されてきた社会に市場規範を適用するという最近の風潮を危惧している。
それは、アメリカのみならず、諸先進国においても同様だろう。GDPでは幸福は測れないということだ。
そうした現状で、公正な正義を一人一人が認識しようとすることは社会の幸福への試金石になるかもしれない。
宮台真司の推薦文にもある通り、サンデル教授はコミュニタリアン(共同体主義者)だそうだが、一部のコミュニタリアンにとっては違和感のある呼ばれ方だそうで、その原因は「正義は個々のコミュニティが好き勝手に定義したものに過ぎないという相対主義的見方を表しているように思える」からだそうだ。
つまり、コミュニタリアンと呼ぶ側(功利主義、自由主義)がコミュタリアンの物語の探求という考え方を見落としているということだ。
NHKの白熱教室を観た方はわかると思うけれど、サンデル教授は功利主義、自由主義、そして共同体主義を実際に起きた問題や思考実験によって人の正義と自由、正義と権利、自由と権利といった問題を焦点に繰り返し問題提議、検証していく。
5章以降のカントの示した人生観やロールズの考える自由は、より具体的で、わかりやすく、刺激的だ。
人生観で特に印象的だったのは、マッキンタイアの「物語の探求としての人生を生きる」という考え方だ。
自由を追い求める考え方は目的論を独善的とみなす。しかし、現実的には人々は人生という物語を解釈している。
自由に選択できることが真の意志の尊重とするが、
物語の探求という生き方は、アドベンチャーゲーム、ロールプレイングゲームのようにマルチエンディングのような、または、SF的な多世界解釈に近いと思う。
そして、それは強烈だ。これからの諸問題との対峙する時、コミュニタリアンの正義に対する捉え方は安易な自由や平等主義よりも解決への熱意を持っている。
サンデル教授は功利主義、自由主義、共同体主義という選択肢を検証し、最終的にトゥルールートとでもいうように納得させる形で共同体主義への道筋を示した。
心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱されたフロー体験というものがある。
フロー(英語:Flow )とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ZONE、ピークエクスペリエンスとも呼ばれる。その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。
チクセントミハイが見たところによれば、明確に列挙することができるフロー体験の構成要素が存在する。彼は8つ挙げている。
2. 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
4. 時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更
5. 直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)
6. 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)
フローを経験するためにこれら要素のすべてが必要というわけではない。
(フロー:wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC ])
目的論的な解釈や考え方はフロー体験を促しやすいのではないだろうか。
自己実現理論(じこじつげんりろん)とは心理学者・アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。又、これは、「マズローの欲求段階説」とも称される。
2. 安全の欲求(safety need)
3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4. 承認の欲求(esteem)
5. 自己実現の欲求(self actualization)
の5段階に分類した。
自己超越
マズローは晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それが、「自己超越」(self-transcendence)の段階である。 自己超越者(transcenders)の特徴は
1. 「在ること」(Being)の世界について、よく知っている
5. 深い洞察を得た経験が、今までにある
6. 他者の不幸に罪悪感を抱く
9. 聡明である
10. 多視点的な思考ができる
11. 外見は普通である(very normal on the outside)
マズローによると、このレベルに達している人は人口の2%ほどであり、子供でこの段階に達することは不可能である。 マズローは、自身が超越者だと考えた12人について調査し、この研究を深めた。
(自己実現理論 :wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96 ])
フロー体験や自己超越といった段階は、ただ安易な自由や平等を考える以上に、個々人が社会で生きる目的を認識することが重要であることを示しているように思える。
お前の人生は誰のものなのさ
俺から言わせれば、子供はどんな条件のもとで産んで育てても、間違い無く不幸になるよ
それはそれぞれの人生観から、逃れられない不幸に必ずぶつかるからだ
だけど、それはお前とは何の関係もない
例え自殺するほど子供が追い詰められたとしても、それはその子自身の導き出した結論なんだよ
「子供が不幸になるから産んであげたくない」っていうのは違うよ
「子供の人生に、その感情に、責任が取れないから産めない」のは違うよ
お前は、完璧に幸福な人生を歩んでもらわないと意味が無いと思ってるのか?
少しでも不幸があったら、その子の人生はもう欠陥品なのか?
お前が今現在「生まれたくなかった」と思うようになったのは、お前の親のせいなのか?
お前自身がそう思ったからだろ
生きていて人と関わってる以上、人は誰かを不幸にしてるんだよ
気付いてないだけで、必ず誰かを不幸にしている
その中には、お前自身も入ってる
それが嫌なら死ぬしか無いんだよ
それが出来ないなら、1人でも多くの人間を出来る限りで良いから幸福にしてやれ
生きてる事と、死んでいる事
どっちが幸福だと思うか、だよ
死んでいる状態は全部がゼロ
生きている状態は全部がある
あなたが自分の感じてる幸せを、自分が得てきた何かを伝えたいと思うなら
愛する相手と自分との間だけで生み出せる唯一無二のものが欲しいと思うなら
子供を産めばいい
生んだ瞬間からその人はあなたとは違う人間で、その人の感情はその人だけの所有物だ
たとえその人が「生まれたくなかった」と思っても、それはあなたの責任ではないし、そうだとしても何もしてやれない
あなたが不幸な人間を増やしたくないというなら、産まないというのも良いと思う
「生まれたくなかった」という思いに責任や対処ができる人間は、その人自身以外にはいない
だから、良いも悪いもない
お前が、産みたいかどうかだけだ
先日、在籍中にはずいぶんとお世話になっていたシステムエンジニア・兼・プログラマの方が亡くなられた。
その方が仕事で私に色々とご指導されたなかで、インパクトのあったものをここに書きます。言葉の力とは凄いもので、私は人生観が変わってしまいました。何が一番変わったかっていうと、人生が楽しくなったという事。人生が、です。仕事が、ではありません。
私と同じ様なお仕事をされるかた、そうでないかたも、興味のある方はどうぞ心の片隅にとどめてください。
確か品質の高いプログラム・システムとは、の話の中での言葉…。
私が作った資料が分かりづらい時のご指摘の言葉…。
「お前は会社にオナニー…云々」を2年ぐらいしてからもう一度聞いたとき「オナニーしに来ています」と答えた。腹がたったので。
私が書いたプログラムのコメントを指摘されたときの言葉ですね。
私が言われたとおりの事をして、結局その「言われたこと」に間違いがあって、そのまま実行した事でトラブルを起こした時の台詞。
「部下は上司の命令通りに動くものでは?」という私の文句に対して。
これは確か、仕様書のミスでプログラマが業務にそぐわないプログラムを書いちゃって、そのトラブル対策会議での話。
SE研修にて、やる気あるのか?と言われて、SEになりたいのか?プログラマになりたいのか?どっちだ?
(SE研修に来てるという状況を踏まえて)SEになりたいですと回答。
SEとプログラマの仕事、どっちが楽しいか?プログラマのほうと回答。
で、質問には「やっぱりプログラマのほうが好きです^q^」と回答。
トラブって私が一人会社に残って対応した。後日、なんで他の人に協力を要求しない?という話の中で。
「信じる」っていう言葉通りの意味じゃなくて、「理解する」「受け入れる」という意味だと思う。
送別会の中で、真っ赤な顔をして真面目な顔で言った、最後のお説教。
在籍中は私はこの人は「技術者」ではなくて「職人」だと思っていました。
id:anond:20101124154127 が罪の意識にさいなまれている。
彼は放っておいただけなのだから、あとは、自分の意思で自殺しただけだろう。刑法だ、保護責任遺棄致死だとか言う人もいるけど、法律ってそんなに人に冷たくない。実際に起訴されないのは、罪に問う必要がないからだと思う。彼が今後幸せな人生を歩めるように祈っている。
ところで、私も死にたいと思っている。
【私の状況説明】
私は、今年30になる。メジャーな個人競技で国体にも出て、ノーベル賞を何人も輩出した大学を出て、一部上場企業に勤めている。とりあえず生活の心配はないだろうし、遺伝子は優秀だろう。とはいえ、ルックスが悪く、自己中心的であるため交際相手に恵まれることもない人生を送り、ふとした出来事で今の結婚相手と出会い、結婚相手に必要な条件もよくわからずないまま、この子を幸せにしてやればいいかと結婚し、子供を作った。相手は、お金もない、職も続かない、6歳年上の、言行の一致しない、自称ぽっちゃりだ。唄がうまくて、食事のときの笑顔がいい子だった。
結婚生活が始まり、子供を育てるために一生懸命にやっていたが、結婚相手とは、人生観、コミュニケーション方法、セックス、さまざまな部分でうまくいかず、信頼関係を構築できなかった。何度も離婚だと叫ばれては、なだめていた。日々の生活が沈黙と罵倒になったころ、子供の人格形成を最上位に据えて熟考し、別居を決断した。決断したら実行は簡単だった。相手がいつものように罵詈雑言を並べて実家に帰ったときに、呼び戻さなかった。それから現在まで別居している。転勤になり、生活環境も数百km離れた。現在は子供の教育のため、隔週で会っている。
私は結婚する相手を間違えたのだと思う。価値観や言葉の重みが大きく違う相手と共同作業をするのは難しい。
生活に支障をきたしてしまって別居し、別居状態が安定していることも考慮すると、私のケースでは、正直、離婚してもいいのではないかと思う。
【私の抱いている望みと、私の見通し】
私は子供がたくさんほしい。子供の将来を華やかにし、それを見届けることこそ人生の最大の価値だと思っている。ところが、相手は身体的にも、精神的にも、もう子供を作りたくないようだ。無理をさせてもいいことはないだろう。そうすると、私は別の誰かと子供を作るしかない。
できれば、自分が尊敬できる人がいい。しかし、現在の私では自分の尊敬できる人に与えられるものがほとんどない。養育費の支払いもあるし、今の子の教育にも行く必要がある。新しい相手のために使うリソースは減るのだから、私と付き合うことに比較優位性がない。私はおそらく分不相応な望みを抱いたのだと思う。しかし、望みは人間の本能に近いものなのだと思う。おそらく執着から逃れられない。
これまで、悩みができるとあらゆる人に相談してきた。これまでは相談すれば解決が近づいていたが、それは、こんなエゴイスティックな悩みについては適用できないだろう。一緒に真剣に悩んでくれるいい人たちに対して、こんな不快な話題はかわいそうだ。私に利益ばかりをもたらしてきた人たちに対して申し訳がない。
そうすると、自分の状況を知り、それを動かす人間は、私一人になってしまう。これまでの人生では、親、友人、先生がたくさんいて、多くの意見を聞いて行動を決めることができていたから、なんでも成功してきた。広い世の中、チームでなら何でもできるが、自分ひとりで成功させることは不可能だろう。人間社会、一人で生きていない。私が失敗すれば手を差し伸べている周囲も不幸になる。私はもっと不幸だろう。それならば、迷惑のないうちに死ぬほうが合理的だ。
こんな私が、うまく新しい家庭を作る方法はあるのだろうか。
平沢唯ちゃんが誕生日を迎えて、ネット上ではたくさんの人が改めて「けいおんとはどういう物語なのか?」を語っている。
美少女所有願望を充たす為の物語であったり疑似青春体験装置であったり自己投影の対象であったり。恋人の代わり、娘の代わり、友達の代わり、現実よりも愛されている自分、元々手にしてない幸せの代わり。そんな話。
じゃあ私にとってけいおんがどういう物語なのか?っていうと、友達の代わりってのは確かにあると思う。私には律っちゃんに似た友達とムギちゃんに似た友達がいるので、けいおんを観ているとあるあるwってネタが多くて楽しい。
でも、でも、それ以上に私にとっては「終わらない日常を生きていくんだ」って事を理解する為の教材みたいな作品だったと思う。
バンド始めたからって武道館でライブできるわけじゃないし、劇的な何かが起きて人生観がすっかり変わるような事もないけど
毎日楽しく笑って、友達とおしゃべりして、ときどき喧嘩もして、小さな事で失敗して、反省して、友達に慰められて、努力ももちろんして、それで少しずつ成長していって、高校三年間が終わる頃には目を見張るような成長があって
この友達とはずっと友達なんだろうなぁってなんとなくだけど確信してて、そんな信頼があるから勇気が出て、新しい一歩を踏み出していける。
そんな、友達を大切にして、毎日を楽しく過ごす為に努力する事を良しとする人生観を、私はけいおんから学んだ。
と、昨日サウスパークを観ていて考えた。
サウスパークs11e14「The List」という話の中で(以下ネタバレ)、
カイルという少年がクラスのイケメンランキングで最下位にされて、人生に希望が見出せなくなって落ち込んでいると、夢の中にリンカーンが現れてこんな話をするんだ。
「クラスで一番のイケメンに選ばれた子は浮かれて女の子とのデートにばかり夢中になりなんの努力もしなくなり、40を過ぎた頃には美貌も衰えなんの価値もなくなる。でも不細工はそのぶん努力するから大人になった頃には立場が逆転してるよ」
と、ピアノの練習をしている不細工を見せながら言うんだ。
なんか、、、違くない?違うよね?絶対違うよね!不細工がピアノ練習してもあんま意味なくない?ピアノでプロになれる確率なんて天文学的な数字でしょ。プロになれるような才能あれば不細工だろうがイケメンだろうが関係なく練習するよ。
不細工だからとか、好かれないから、そういう負のエネルギーで頑張っても、大人になる頃には挫折するんじゃない?コミュニケーション能力がどうとかいってさ。
コミュニケーション能力ってなんだよ。周りの人間みんな嫌いだったら、嫌われてると思ったら、まともなコミュニケーションなんてとれるわけないじゃん。
だから、さ、不細工で、嫌われてる子供がするべき事は、大人になった時に役に立ちそうな勉強とか特殊技能の習得よりも先に
今、好かれる為の努力をして、友達を作って、人を好きになって、遠い将来に夢を託すのではなく、今の生活を楽しめるように最大限の努力をすること、なんじゃないのかな。
今の生活の延長が将来で、楽しいを作るためには努力が必要。そして、楽しむ事は悪い事じゃない。
こういう事を言ってくれる物語は少ないけど