はてなキーワード: 命題とは
東方風神録のエンディングにおいて、酒があまり飲めないキャラクターに対し、集団で酒を飲ませようという「空気」を作るシーンがある。
しかもこのシーンを批判的には描いていないので、これは日本の悪しき飲み会文化・アルハラを正しい事と思っているという事に相違無いと確信
白玉楼にて西行寺幽々子に仕える魂魄妖夢は、病気以外では休みが無く給金も無い(書籍文花帖話)。また紅魔館の十六夜咲夜は広大な館を
事実上一人で管理しなくてはならない状況である。部下の妖精メイドは役立たず。当主は労働条件を改善しようともしない
このような超ブラックな組織が東方人気の中心であるという事は、奴隷労働マインドが若者に刷り込まれているという事であり憂うべき事である。
東方というのはスペルカード、舞台背景、キャラ設定にいたるまで「何らかの元ネタ」というのを持っている。風神録は諏訪の神話をモチーフとしており、その為諏訪大社を東方ゆかりの聖地と勘違いする者共がキャラ絵馬を奉納するという事態が続いている。一橋大学のトークショーでは「やってはいけませんよ」と言っているが、諏訪大社をモチーフにしたのはこの酔っ払いののんべである。信仰を失った架空の神社にすればいいではないか。大体日本有数の信仰を誇る諏訪信仰を、幻想入りするほどに落ちぶれたものに貶めるとは全くの侮辱行為と言い切れるのである。あと東方星蓮船においては信貴山縁起絵巻の「尼公」を下敷きにしている。これもまた実在の信仰を東方に紐付ける愚行と言えよう。まあ、今年の夏コミの新作が完全に幻想郷で完結している「東方三月精」ネタである事は良き事である。漫画本編なんかは神話ネタでの結構紐付けが甚だしいが「妖精大戦争」は妖精の馬鹿騒ぎに過ぎないので何の害もモタラスマイ。
ZUNは世界観を重視していると言っているが、幻想郷という空間は果たしてしっかりとした生活空間なのであろうか。まず海が無いので塩が無い。塩は人間には欠かせないのにそれをのぞいてどうやって生きられるのだ。「岩塩」という解釈も成り立つが、作者自ら小説版東方儚月抄では岩塩は採れないと逃げ道を塞いでいる。まったく自滅とはこの事である。で、結局それら不都合を解消するには八雲紫の「スキマ」で調達するとか、妖怪の山で機械文明ごっこをしている河童や天狗がどうにかするとかしか考えられず、外の世界にベッタリ依存しとるやんけ。外の世界とは隔絶された幻想といっても。親の援助受けてる癖にイッパシの口を聞くクソガキでしかないのだ。あの色鮮やかな服もそうだ。布を色で染めるのには染料がいる。それもパソコンのカラーパレットをいじるようには簡単ではない。一つの色を作るのにもそれなりのコストがかかるのだ。どうやって作るというのか?香霖堂をドラえもんみたいに便利キャラにさせるか?魔力で服が生成させるか?それともスキマ(笑)なのか?
人間と妖怪が潰し合わないように戦うためのプロレスルールたる「スペルカード」。これを全作品の全シチュエーションで行っているのが実におぞましい。東方風神録は外の世界から幻想郷にやってきた新参者である。そいつがどうしてスペルカードルールを知っているって事だよ。あと東方地霊殿は地下に隔離された妖怪と戦うのにこいつらもまたスペルカードルールだよ。どこで知ったのやら。極めつけは星蓮船である。6面ボスは1000年の封印から解かれた直後に戦うわけだからスペルカードルールを知っている筈が無い。遊戯王とかのホビーアニメとかは「その世界ではそのホビーが大人気」って前提があるから問題は無いし、メダロット魂においては「デスメダロット」によるメダロットとは違うルール無用の戦いを通じて、「境界の外では中のルールは通じない」というホビーアニメを全否定しかねない命題を打ち出したりしている。そこいくと風・地・星でどうやってルールを徹底させたかといえば、同調するような圧力以外は考えにくい。「こうやって戦うのが常識でしょ」という感じで押し切ったのじゃあるまいか?大体ルールを懇切丁寧に教えるとすっごく間抜けになる。漫画版儚月抄で魔理沙が依姫にスペルカードルールを説明する会などは実にバカバカしい。依姫は主人公ズを圧倒していたんだから言う事を聞く必要なんて無いわけだ。
まず先に結論を述べます
「過去の最適化をしたからって未来が最適化されるわけではない」
僕らはよく「あのときああしていればよか」って思うのだけれど
じゃあ「過去を変えることはできるのか?」と考えたとき、まあ最初に過去に行くにはどうするのっていう技術的な話になると思う。ワームホールを使うとかドラえもんに頼むとか。
で、まあそこの議論はめんどくさいからやらない.だからとりあえず今は過去を変えることは出来るとなったと仮定します。
また、過去を変えたことで自分の今の未来へも影響を与えることができるとして(過去を変えた時点で宇宙がもうひとつ生まれてしまうので現在の宇宙に影響を与えるわけではない、とかいう人がいるわけですから)。
「よっしゃ!いっちょ過去いって今まで起こったすべてのいやなことをなかったことにしてくるわ!」
このようにしてタイムマシンに乗った僕は過去の最適化を行うわけです.
テストで満点を取って,憧れのあの子と付き合って,ほしかったゲームを買って,誰からも怒られず,みんなからは賞賛を送られ…
最高の人生をやり直せてるわけですが,いつかはまたタイムマシンに乗り込んだ時点,つまり今に帰ってきます.
そこからが問題です.僕は今の時点においてこれからなにが起こるか何もわかりません.それまで最高の人生を送ってこれたのはこれから起こることを知っていて修正することが出来たからです.
僕は未来が自分に押し寄せてきたときに結局またいつもどおりに”あてずっぽ”で進むべき方向の選択をすることになります.もちろん一番いいことが起こるであろう方向を選ぼうとすることはできます.でも解空間が単峰性とは限りません!!結局はローカルミニマムに陥ることになるんです(ここらへん最適化の専門用語です,すいません).
だからベストの状態への最短ルートを過去から取得できない以上過去の最適化にはなんの意味もないことになります.
「過去を最適化したからといって未来を最適化できるわけではない」
そしてここで付け足しです.数学的帰納法の考えを導入します.上の命題が成立つと仮定すると両辺に「+未来」して(?
「未来を最適化したからといってさらに先の未来を最適化できるわけではない」
つまり
「過去の最適化から最適化された未来を得ることは金輪際ない!」
じゃあどおすればいいんだって思うわけですが,そもそも人間にはきっと後悔しない人生なんて送る権利がはじめからないんだと思うわけです.
失敗したという情報から離れるように進むことしか出来ない.つまり失敗しなければ今よりよい場所へ向かうことはできない.
できるだけ良い思われる今を過ごすこと.人間に出来るのはそれくらいなのだと思います.
なんで自分がこんなことを考えているのかというと、昨日TEDで見た物理学者のせいです.
http://www.ted.com/talks/lang/jpn/clifford_stoll_on_everything.html
僕が一番この人を魅力的だろ感じた一言.
「ワオ! タイムマシンだ! なんてことだろう,昔に引き戻されました」
このひとは写真を見てそれをタイムマシンといった(比喩表現を用いたとは思えない本気の口調で,まるで今本当にタイムマシンを発明したかのように).
このインスピレーションは自分にとってとても印象的でした.感動的ですらありました.
なんてこった思ったのはこっちなんです.そんな発想今までしたことなかった.
もし過去へいって人生をやり直すことのできるタイムマシンが見つかったとしても,僕はそんなものは絶対に使いません.
下手したら過去に戻ってやりなおしたい瞬間が過ぎた後未来に戻るのにまた全ての自分の人生をやり直さなければならないからです.
そんなタイムマシンは絶対嫌です.
でもこのへんてこな頭の物理学者が発明したタイムマシンなら僕はいつでも乗っていいと思う.
過去はやり直すものではなく,懐かしむものなんです.
結局の所、みんなが帰結する先はこんな所なのかな?
「自分に3次元の彼女(嫁)が必要だと自分で思っているどうか?」
「自分に3次元の彼女(嫁)ができる可能性があると自分で思っているかどうか?」
「自分に3次元の彼女(嫁)ができないと思うなら、その理由はなんなのか?」
「そして、できない理由は自責なのか、他責なのか?」
「できない理由を改善するためのアクションは必要なのか?できるのか?」
「そこまでして欲しいと思っているのか?」
なんかさぁ、今のままの駄目な俺をそのまま丸ごと受け止めてくれ。
って言う気持ちはすげぇよく分かるけど・・・。
でも、きっとそういうのは、無理なんだろうなぁと、最近思う。
「自分に3次元の彼女(嫁)ができる可能性があると信じている。」
「自分に3次元の彼女(嫁)ができない理由は、自分の見た目が悪い、かつその見た目の悪さをカバーできるほどの中身が無く、さらにそのことで女性に対して引け目を感じており、積極的にアクションできないから。」
「そして、できない理由は自責なので、とりあえず見た目の悪さを改善すべく、最近、ダイエットなどを始めた。」
「できない理由を改善するためのアクションは必要だと思っており、実践中。」
「そこまでして欲しいんだな。今は・・・。」
どれも例外があって、どれも真じゃないんよね。
まさにその通りで
に対し
「例外があるじゃないか!」「論破だー」って騒いでる人が居るけど
例外を持ち出すのは論破じゃない
命題が
ならば
例外を一つ示せば論破になるけどね
あと
見てると
なんかさぁ、ここんところの増田界隈の話を聞いてて思い出したことがあって。
微妙に正しくおぼえてるか心配だけどさ。(と予防線を張りつつ)
「AならばB」が真である場合・・・
対偶の「BでないならAでない」は真だけど、
逆の「BならばA」と、裏の「AでないならBでない」。
っていうのは必ずしも真ではないんだよね。確か。
で、もともとの命題を適当に解釈して、逆を語って矛盾を突かれたり
対偶を語ろうとして語りきれてなかったり。
なんていう不毛なやりとりをしている様にみえるんだよね。
数学と違って、個人個人で別々な訳だから、
ある人にとって「AならばB」が真であっても、別の人にとっては真じゃなかったりするよね。
自分にとっての真実はみんなにとっての真実ではないって言うのを認めるってしんどいよね。
どれも例外があって、どれも真じゃないんよね。
でも、十把一絡げにして、それぞれを真にしたいんだよね。
その方が思考が楽になるもんね。
自分が例外じゃないっていうのがしんどいわけで。
あぁ、うん。もうね。認めたくないものだな・・・って感じですかね?
俺がつけた「証明」という言葉は数学的厳密性を求めてつけた言葉ではない。
次に、『反論が出来てしまう時点で証明にならない』という言葉は二重の意味で間違っている。
まず、反論という言葉を厳密に定義しないで使うとなると、例えば言いがかりでも「反論」として通ってしまうが言いがかりをつけられたら証明じゃない、なんてのはむちゃくちゃだ。
そして、反論という言葉を定義するとなると、『真である命題でかつ提示された証明と矛盾するもの』以外の定義はないだろう。それならば『反論が出来てしまう時点で証明にならない』という君の言が納得できる。が、今回提示された反論は『今はフロンティアがない』というものだが、これが真であることの証明は難しいし現時点ではされていない。
まず俺と君の貨幣に対する認識が違うことを説明しよう。貨幣は富(財)そのものではない。貨幣はものの価値を伝えるメディアでしかない。例えば俺が日当一万で働いたとする。そうして俺は一万を手に入れるが、それは俺の周りの人々に対して俺は一万円分の働きをしたということを伝えてくれる。俺はこの一万円で例えば時計を買ったとしよう。それは、俺がした一万円分の働きを一万円分の価値があると宣伝されている時計と交換するだけ。そのために使うのが貨幣。俺の仕事の価値と俺が欲しい時計の価値を知らせてくれて、それを交換するのに使える便利なメディアだ。だから貨幣は一枚1円もしないような印刷物でも電子マネーでも成り立つのだ。
そして、俺の言う普遍的な富とは人を豊かにするもの全てを指す。限定的な富と言ったのは、例えばあるバスの椅子の数。どうやっても増えないから、乗客みんなでたらい回しにするしかない。
ちなみに俺、
> 財が有限であれば、どれだけ多くの財が市場に流通しようと、究極はその限られた財をたらいまわしにして経済を維持する外ない。
と君が書いたところを
> 貨幣が有限であれば、どれだけ多くの財が市場に流通しようと、究極はその限られた貨幣をたらいまわしにして経済を維持するほかない。
と読み替えたよ。だってそう読み替えないと、
> 貨幣によって取引される財が有限かどうかとゼロサムゲームと関係があるか
という命題がおかしくなる。君は富の創出の余地があるのかないのかはゼロサムゲームとは関係ないと言っている。『財が有限であれば』という言葉は、『富の創出の余地がなければ』と置き換えることができると思うのだけれど、そうするともう前提自体が変だよね?
特定の個人を集団で精神的、または肉体的に危害を加えることを「いじめ」とするとき、
命題1
正論としては少数派にあるが、多数決の原理で多数派が小数の意見を無視、または弾圧することを「いじめ」と呼ぶのは意味として妥当か。
類題1
正論としては多数派にあり、多数決の原理で少数派の意見を無視、または弾圧することを「いじめ」と呼ぶのは意味として妥当か。
類題2
この世の全ての意見が多数派と少数派に別れることだけはわかっているという条件のもと、ネットで個人が、個人に対し相手の精神的危害を与えることは結果としていじめのそれと同じか。
命題1
「パンはパンでも叩けないパンは?」というなぞなぞに対して、フライパンと答えるのは意味として妥当か。
命題2
「あるみかんの上にあるみかん」というダジャレを、「或るみかんの上にアルミ缶」と解釈するのは妥当か。
命題3
「ちょwwwwwwwwwおまwwwwwwwねーよwww」という笑いを、「ちょw^9おまw^7ねーよw^3」と表現するのは意味として妥当か。
命題1
それは人類ならば必ず一度は体験する普遍なものか、それとも現代の若者に特有なものか。
命題2
それは全てのジャンルに言えることか、それとも一部のジャンルにのみ言えることか。
命題3
管打楽器で編成される音楽を「吹奏楽」ないし「弦抜きオケ」と称するとき、
一部吹奏楽団体は演奏にコントラバスやチェロ、ハープを用いることがあるが、吹奏楽という呼称は意味として妥当か。
命題3の類題
管打楽器で編成される音楽を「吹奏楽」ないし「弦抜きオケ」と称するとき、
争点はあくまでも「意味」であり、倫理、法律上の観点を求めるものではない。
命題1
命題1の類題
NHK受信料を支払わずに、NHKを視聴することを割れ厨と呼ぶのは意味として妥当か。
命題2
ヒッチハイクで本州一周することを、割れ厨と呼ぶのは意味として妥当か。
命題2の類題
タダで泊めてくれる家を渡り歩き、一宿一飯の恩義もせずに出ていくことを割れ厨と呼ぶのは意味として妥当か。
命題3
友人からコンテンツを借りて複製することを割れ厨と呼ぶのは意味として妥当か。
命題3の類題
いいたかったのはこういうこと。
(1)児童にポルノを見せるのは、法的にも立派な児童虐待。たとえ児童がそれを望んでも。
(2)親がスクリーンするとはかぎらない。むしろ積極的になる危険もある。
(3)児童が容易にポルノにアクセスできない社会環境を作るのが大人の勤め。
(4)そのかぎりにおいて、一定の権限を行政に付与するかどうかは市民が民主的手続きによって決めること。
(5)表現の自由を侵害するセンシティブな部分は、ガイドラインの合意形成過程をオープンにするなどして、規制を受ける側の意見を十分に反映すること。
(7)表現者側も、自分が児童虐待に加担する危険があることを認識し、緊張感と自律精神を持って、制作と営業に励むこと。
以上。俺なんかおかしなこと言ってる?
言ってます。どこがおかしいことかというと
これがおかしい。少なくとも自明ではないし、法的な話でもなんでもない。
望まないのに見せるのは虐待と言っても良いかもしれないが、「望んでいるものを見せる」のは、
倫理的感情的に好ましいかどうかは別として少なくとも虐待でもなんでもない。
卵が嫌いな子供や卵アレルギーな子供に無理やり卵を食わせるのは虐待だが、
この人の主張の正当性は、論理的にはすべて(1)の命題の真理性を前提にしているので、
(1)が間違いだということはその後の主張は全く無価値。
元増田です
「ある分野Aの素人がAに関わるすべてについて議論することは出来ない」
なら確かに元増田が議論についての素人であれば、演繹的に議論に付いて議論できないけど
あくまで俺は議論しても無駄なのはある分野"すべて"って言っている訳ではないし
全ての分野が、そのある分野Aに当てはまるとは言ってないです
あと後半、厳密に議論するなら
「(実現可能性がない)ならば(長年議論される)」の否定は
「(実現可能性がある)ならば(長年議論されない)」ではないです
(記号論理学、というよりも基礎的な論理を勉強したことがあれば明らかだとは思うのですが)
そんな記号論理学を使った議論をしてるんじゃない、って言うのであれば
反語の否定の対象を命題全体にとる必然性は皆無で、対象を(長年議論されない)にとれば対偶で
「(長年議論される)ならば(実現可能性がある)」が証明できる
まぁそもそもどっちであろうと「(実現可能性がある)ならば(長年議論されない)」になることは絶対にあり得ません
なんかこの程度の基本的な論理の知識がないために誤った結論を出してしまった、ってこと自体が
「素人だから理解できる範囲が限定されるので、詳細について議論する意味がない」と主張するなら、元増田が何の専門家であるか示さないと、そもそもこの命題自体意味をなさないと思われるが。
元増田がBIの専門家だとか経済学の専門家であることを求めているわけではなくて、議論をするに先立って「議論の専門家」という資格がまず求められるわけだが、そういう資格がどこにあるのか知りたいものである。そうでないと「「素人談義」は詳細に検討する価値がない」と結論付けられるのが元増田の主張のはずだから。
実現可能性がないものが30年間も議論されることがあると思ってるのか?
これが反語だとすると、「実現可能性のあるものが30年も議論されるわけがない」と解釈するべきなのだろうな。とすると、否定形は肯定にしたほうがいいのではないか。俺の読み違えかもしれないけど。
確かに怠惰を奨励するような言説が世に跋扈していて、それに惑わされる若者がいることは認めよう。そういう人たちを批判すること自体は構わないと思う。しかし森毅をそこで非難するのは誤爆と言わざるを得ない。
そんなときに、森が著書の中で
「ええかげんでいいんや。大学では勉強なんてしなくていい。エリートは勝手に育つもんだ」
と主張していたのに、救われた気がした。
いったい森毅がどこでそんなことを言っていたのだろうか。
「こうあるべきだ、という型に囚われる必要はないし、『エリートたるものかくあるべき』という型に学生をはめるのも馬鹿らしい」
「人に言われたことやイデオロギーを何でもかんでも真に受けて生きるのは痛々しいし危ない」
というそれだけのことに尽きる。ただ、これらの命題は自家撞着と紙一重(「俺の言うことを聞くな」というのはパラドックスである)だから、あんな持って回ったような言い方になっている、それだけのことだ。
私はそれを当時理解できずに痛い学生生活を送ったからこそ、その言葉の正しさを今になって身に沁みて実感していると確信している。
私が大学生になるかならないかの頃には、「怠惰の奨励」とはちょうど逆の言説が流れていた。「分数ができない大学生」だの「東大生はバカになったか」だのその手の本だ。その手の本を読めば、
「日本の大学生は勉強しない、教養がない、東大生でも厳密な学問を理解できない、旧帝大生といえども外国の大学生に比べて圧倒的に劣っている」
というようなことばかりが書かれていた。
それを真に受けた私は、「教養」とやらを身につけ、「あるべき大学生の姿」に自分を近づけるために随分つまらないことをやってしまった。興味も何もないのに哲学書だの文学書だのを紐解いてみたり、あるいは勉強の過程において、興味の範囲をはるかに超えて厳密さのために厳密さを追究してみたり。全く無駄であったとは言わないが、著しく非効率だったことは間違いない。そんな衒学的な「教養」だの、必要最低限を越えた完璧主義的な「厳密さ」だの(ε-δ論法というレベルではなく、物理数学を勉強するためにまず数理論理学を勉強するような類、あるいは読み始めた本は最後まで一行たりとも漏らさず理解しなければ許さないとする類の)を、自分の興味から逸脱してまで追い求めても、苦痛なだけで身に付くことは乏しかった。今だから分かるが、私はもっと自分を信用して、自分の興味に忠実になるべきだったのだと思う。そうすれば、「教養」だの「厳密さ」だのは、必要になった時点でいくらでも身につけることができただろうからだ。「青春」をエンジョイすることを放棄して人よりも多くの勉強時間を使っていたのに、人より飛び抜けて優秀でもない自分に嫌気がさしつつ、どうしてよいか全然わからなかった。修士論文のための研究をやっていて最後の数ヶ月でようやく自分の過ちに気づいたとき、余りに自分が時間を無駄にしていたことに気づいて絶望的な気分になったものだった。
敢えて長く自分語りを続けてみたが、あなたと対極的な私の失敗談を読んであなたはどう思っただろうか。「お前の下らん失敗など知るか、そんなどうでもいい本を真に受けたお前が悪いんだろうが」。その通りである。私が馬鹿だったのである。人に馬鹿と言われたくないがために、「教養がない大学生」「学力低下の大学生」と言われたくないがために、自分を無意味にガチガチに縛ったために自分の学生生活を楽しくなくしてしまった私の単なる自爆である。しかし私の失敗とあなたの失敗の一体なにが違うのか。どこかで見聞きしたことから勝手に自分で組み上げてしまった自己規範に従った結果、自分の人生をスポイルしたという点で、あなたと私のやったことは全く同じだ。そして森毅が言っていたことの真意を全く読み取れていなかったのも全く同じだ。
「他山の石」という言葉をご存じと思う。私の自分語りが痛いと思われるならば、あなたの自分語りも同じぐらい痛いことを思い知るべきだ。そして人を恨むのではなく、逆に過度に自分を責めるのでもなく、ただ自分が失敗したという事実を受け入れるべきだ。運が悪かったのか、環境が悪かったのか、そういったことが原因であなたや私は正しい道が見えなかったのかもしれない。だが、そのことに不満を言っても誰も助けてくれないし、失われた時間は返ってこないのだ。ならばせめて、今後の時間を無駄にしないようにお互い努力しようではないか。
我々はこの世にポコッと生まれてきた。
で、ある日、ポクッと死ぬ。あるいは苦しんで死ぬ。
死後、どうなるかは分からない。
つまり、自分の意識が近い将来においてどうなってしまうのか保証されない。だから、「(将来、存在するかどうか分からない)自分の意識があるうちに自分は何をやるべきなのか」ということ、「自分はどう生きるべきか」について人間は悩む。
「自分はどう生きるべきか」いう命題は人間がそれだけの知能をもつからこその悩みだ。
そして、「どうして現実と戦わなきゃいけないの?」という問いに戻る。
結局の所、「(死ぬ時に)自分として納得いく生を送れたか?という疑問に答えられるか」問題に帰結すると思う。
もちろん、何に対して納得するかは人によって違うので、「納得いく生」というのも人によって違う。例えば、現実ではなく、ゲームを選択して、本物の女を抱かない人生を送るのも良いと思う。ただ、「自分が死ぬ時に、本物の女性を抱かなかったことに対して後悔しないか?」。それが問題。
要するに、「何かでっかいことをやってやる」と行動している野心家の皆さんは、この世に生まれてきたチャンスを最大限に活かそうとしている。
ただ生きてただ死ぬ。
それを選ぶなら、人間とは呼べないよね、とかそういう話だと思う。