はてなキーワード: コモンズの悲劇とは
投票率が低いという話を聞くと、「コモンズの悲劇」を思い出す。
コモンズの悲劇(コモンズのひげき、英: Tragedy of the Commons)とは、多数者が利用できる共有資源が乱獲されることによって資源の枯渇を招いてしまうという経済学における法則。
中略
たとえば、共有地(コモンズ)である牧草地に複数の農民が牛を放牧する。農民は利益の最大化を求めてより多くの牛を放牧する。自身の所有地であれば、牛が牧草を食べ尽くさないように数を調整するが、共有地では、自身が牛を増やさないと他の農民が牛を増やしてしまい、自身の取り分が減ってしまうので、牛を無尽蔵に増やし続ける結果になる。こうして農民が共有地を自由に利用する限り、資源である牧草地は荒れ果て、結果としてすべての農民が被害を受けることになる。
——————引用ここまで。
つまり、個人レベルで行動を最適化すると、集団レベルで良い結果にならないことがある、という話だ。
専門的な言い方を許してもらえれば、自然選択とはごく限られた場合を除いて、個体または遺伝子のレベルにかかるものなので、集団にとって有利なことでも、個体にとってコストなら進化し得ない。
投票率の話に戻す。
お金はかからないが、投票先を選んだり、並んだり、時間的なコストは絶対にかかる。
また、重要な点として、このコストは個体レベルにかかっている。
一方で、投票すると言う行為によって得られるメリットは集団レベルのメリットであり、
個体レベルで見たとき、コストをペイできるだけのメリットがあるとは言い難い。
もちろん、ひとりひとりの投票がひとりひとりにとって重要な意味をもつという主張は正しいが、あくまでそれは集団レベルの話。
個体の行動を最適化すると、むしろ投票に行かないことが合理的であるように思う。
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では、どう改善していくか。
こうした人たちに投票の集団レベルの意義を説いても意味がない。
あくまで個体レベルで議論しないと、聞く耳すらもってくれないだろう。
叩かれることは大きなコスト、それも個体レベルのコストなので、投票に行かないコストが、投票に行くコストを上回り、投票に行く方が合理的になる。
ただ、これには大きな落とし穴がある。嘘をつけばいいのだ。
すなわち最適な行動は、「投票に行かずに、行ったと主張すること」になる。
逆に言えば、嘘をつけないシステムを作ればそれでいい。
ラーメンチェーン店の一風堂は、投票済証明書を提示した人を対象に、替玉一玉もしくは半熟塩玉子をサービスするという「選挙割」をおこなっている。
タピオカドリンクを販売するTapistaでは、ドリンクが半額になる。
意外とこのようなサービスを実施する企業は多いし、増えてきているように思う。
とくに、鉄道や携帯会社など、インフラに近いサービスを提供する企業ほど、こういうことをすると効果的だろう。
実際には、投票に行かない人にもちゃんと周知させる必要があったり、さまざまな問題があるは思うが、個人レベルでのメリットを上げることができれば、投票率は上がる。
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投票するという行為に伴う個人レベルでのコストと天秤にかけることが重要である。
最後に話は逸れるが、投票率を上げることと、国政を正しく導くことは、必ずしも同義ではないと思う。
そもそも個人の考えと支持者の考えが完全にマッチすることはかなり稀なはずなので、政策ごとに国民の意見を反映できる別のシステムを作るのも重要だ。