おたくの人が忌避?されるのは何でだろうかと考えてみた。以前おたくの人が好きなアニメの感想を書いていて感動したーという内容でした。
内容は特に問題のあるものではなく女の子たちが協力して何かを成し遂げるようなものだったかな。それに感動したという内容。たぶん子供がああいう純粋な物語に感動したという分には問題にされないのだと思う。おたくは大人であり、大人が子供向けのアニメを見て真面目に感動できることが忌避される原因。それはなんでかというと大人になったら厳しい現実社会を生きるためにある程度子供のときに持っていた純粋な感性は薄れる(なくなるわけじゃない、大人になったからってそういう感性が消えるわけじゃない、ていうか消せないし)、というか薄れさせないと生きるのが困難になる。厳しい現実社会を純粋な感性がないふりをして頑張って生き延びている大人側から見ると、純粋な物語にまだ感動できる感性を残して生きているよというのがちょっと癪に障るのだと思う。だからたぶん動機は嫉妬。
大人になってもああいう純粋な感性を残したまま生きているのって結構大変だと思うのだけど・・・。あれが現実に対する反逆にさえ見えるのかも。純粋な感動できる感性は何が何でも捨て去る気がない、持ったまま生き続けるよというかたくなさ?が現実に対する反逆的生き方に見えるとか。
下の兄弟が自閉症で、健常者であった私は両親から凄く期待をされていた。親の悩みを聞き、兄弟の面倒も見て、家事も手伝い、そんな日々が続いていった。
そんな私が発達障害と判明したのは、うつ病になってからだ。それまでは、行動が少し変な健常者として、苦労しながらも過ごしてきていた。
本当に、両親の期待を裏切ってしまって申し訳ないと感じる。「早く結婚を」「子供を」と言われてきていたのに、うつ病になって発達障害と判明して、全て裏切ってしまった。
期待をさせてごめんなさい。
けれども、自分はとても楽になった。期待されなくなって、無茶な要求も少なくなって、心底安心している自分もいる。
私にかけた労力や金銭、時間や苦労、その事を考えると、こんな役に立たない奴は早々にいなくなった方が良いだろうというのも分かってはいる。ネット民が障害者へ「はやくしね」と書いているのも納得だ。
けれども、死ぬ事ができなかった。うつ病で希死念慮持ちで、首を吊ろうと何回もしたけど、上手くいかなかった。川に行っても飛び降りることもできなかった。
死ぬ事も生きる事も上手くできないなんて、私はなんて不器用なんだろうか。それでも、今は私は幸せに過ごしている。
これからも、この後悔と申し訳なさを抱えて、しばらく生きていくんだろう。役立たずだと後ろ指をさされながらも、自分の幸せを信じて生きていくんだろう。
死ななくてごめんなさい。
それでも私は生きていきたいのです。
おぢさんと、お互いに存ハラ遊びをしあおうや…
おや?どうして?
単純に考えられるところは単純に考えるべきだ。
そして、表現者側に都合よく、この部分は「中の人」の人格として不可分であるが、こっから先は違います、などと使い分けられるというのはおそらく通らない。それで押し通せると思うなら流石に見通しが甘いと思うよ。