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2009-12-19

将来の夢考

 http://anond.hatelabo.jp/20091217224219

 つづき。

「やっぱりラオスラオスに決まりです」

「なんでまた、そんなところを」

 ぼくはガイドブックから視線を上げて、うれしそうにする彼女を見る。

 彼女ラオスガイドブックを開き、ぺージをめくりながら、つぎつぎ指さす。

「やっぱりメコン河ですかね。特にこのシーパンドーン、四千の島という意味だって書いてありますし、あとはボーラウェン高原、すごくきれいなところなんです。さっきFlickrでチェックしたら、みんなバイクで。やっぱり取らないといけないですかね、免許

 ぼくはぽかんとする。

「あー、いや、1人あたりGDPとか、総人口とか、交通の便とか、そういうのを調べないと。それじゃあ、観光目的だよ」

観光目的です」

 はっきりと言う。

 彼女のいまの夢は、観光目的ラオス工場を建てるということ。

 一見すると私益と社益の混同ではあるのだが、社益を私益にFIXさせることが出来るようになると、あんがい会社勤めは悪くないと思い始めたようだった。

ラオスをバックパック旅行したいと思っていたんです。でも、それだといろいろ心配しないといけませんよね? でも工場建てて、そこに派遣されれば、全部解決だって気付いたんです」

 なんとも途方がないことをうれしそうに言う。

 確かに製造業生産拠点を東南アジア工場移転しており、その中でもラオスの特に南部は穴場ではあるのだ(北部は中華系が占拠している)。いまは無理でも、3年後ぐらいなら、けっこうよい投資環境が整っているかも知れない。

「ね? いい考えでしょう?」

「え、ああ、筋はいいかも……」

「だから、いまのうちからラーオ語勉強しなくちゃ」

「はあ……」

 こんなことをわざわざ言い出すまでもなく、多くの日本人会社の夢と自分の夢を重ねることにより夢を実現させている。それが出来るようになれば、リスク会社に背負わせたまま自分の夢を実現することが出来る。

 彼女のようにそれがたとえ観光目的であったとしても、それが社益とFIXされれば、そのような夢や情熱を持つことは推奨される。

 ただ、上手く会社自分のつじつまを合わせなければならない。

 そのために同僚と夢を話し合い、共有し合い、仕事をこなして認められ発言力をつけ、いくつものプロジェクトを成功させ実力をつけなければならない。会社が夢を見ないなら、そこに自分ビジョンを植え付ける、たきつける。会社絶望したのなら実績だけ作って、自分を別の会社に高く売りつける。

 なんともたくましい。

 半年ほど前、彼女がしきりに仕事を辞めたいと言っていたのを思い出す。

 もう何度目かの作戦会議のあと、まだぐしゃぐしゃになってぼくのところに投げ出されていない別の案件で行き詰まっているらしく、彼女は言う。

「わたし、もうこの会社やめたいんです」

「え? なんで?」

製造業合わないって思うんです、機械苦手だし」

「はあ」

「それに、子供の頃からの夢があるんです、わたしデザイナーになりたいんです」

 それはよくある現実逃避で、ほとんどの場合上手くいかないことは保証できるのだが、彼女の場合、それが根深いように思えた。

「みんながなりたいものに、生活を掛けてしまうと、とってもつらいですよ?」

「ああ、よく聞く話ですね。競争者が多くて誰もがなりたいところは自然に過酷な労働環境になるって」

作家なんかだと、たいてい仕事を持っていて、作家業が軌道に乗るまではその仕事をつづけるのがほとんどですし。本業年収の倍を作家業で稼げるようになってから、作家業を本業にするなんて、よく聞く話で、それに」

 ぼくは、言うべきか、言うべきでないか迷う。

 それに気付いた彼女は、視線で続きを促す。

 それなりに痛いことではあるのだ。

本業にしてしまっていたときがあったんです、プロカメラマンだったんです、昔」

 ぼくは、彼女に話す。

 進学校に入りながら、大学受験をやめてカメラ専門学校に入ったこと。それから、先輩のつてをつたってプロの端くれになったこと。下積み時代は長くて苦しくて、それでもある分野ではそれなりに認められるところまでは行ったこと。しかし、生活は激務で荒れ果て、収入は底辺に近いところだったこと。

 それを彼女は静かに聞く。

「それで辞めたんです。先行きも暗いし。これをつづけても意味がないって」

 彼女は首を傾げる。

「なんで辞めたんですか? カメラ

「いえ、辞めたのは、カメラで生活することで、カメラは辞めてません」

 ああ、なるほどと彼女は頷く。

「ぼくはカメラは好きだけど、カメラで生活することは好きじゃないって気付いたんです。実際のところ変わらないんです、カメラで生活していようがしていまいが、カメラすること自体は何ら変わらない。それが仕事である意味はないって気付いたんです」

「それで製図屋さんに?」

「ええ、この業界ニッチなんです。みんなきっとずっと製図ばかりしているのは退屈だろうと思うんです。なので高給で、仕事が楽で、専門性が高くて、安定しているにも関わらず、あまり多くの人がなりたがらない」

「でも、趣味カメラをやりたい人にはぴったり」

 ぼくは笑う。

「そのとおり」

 彼女が遠慮がちに聞く。

「どんな写真を撮るんですか?」

「え? ああ、自然が多いですかね。アマゾンとか一度撮ってみたいかなぁ」

 結局のところとぼくは思う。

 誰もが思いつきやすい夢というのは、非常に環境の厳しい実現しても不幸になりやすい夢であると。そこにあるレッドオーシャンを目指すよりは、誰も気付いていない未開のニッチブルーオーシャンを目指す方がいい。

 しかし、そんな南の楽園への道は紆余曲折が待っていて、それを探すためにそれほどハードではない仕事とのダブルスクールをすることは悪いことではないと。むしろ、そっちの方が、自分の可能性が多様になり、レッドオーシャンの血みどろの戦いに振り回されることなく、自分のやりたいように出来るのだと。

 レッドオーシャンの嵐の中では船はコントロールさえ失ってしまうが、誰もいない大海原では、自分が取りたい進路を選ぶことができると。

 そして、多くの日本人はもっと楽ちんな、会社自分の夢を実現させるために、会社自分の折り合いをつける選択をしているのだと。

 いままさに、彼女がしているように。

「というわけで、ラーオ語覚えてくださいね?」

 唐突な彼女言葉にぼくは視線を上げる。

「え?」

「だって、そうですよね? うちの会社ラオス工場を建てたら、製図屋さんも派出所ラオスに作らないと、契約あるんだし。そのときあなたが派遣されるためには、ラーオ語が話せるのはあなただけという状況になっているのが、望ましいんです」

「はあ」

 なんとも、深慮遠謀な話だ。

「しかし、ラーオ語って、なんともニッチな」

「だからこそ、ブルーオーシャン、でしょ?」

 ああ、それでラオスかと得心がいく。ラオスにほんとうに工場が建てられるかどうかはともかく、その夢のために情熱的に生きれるのであれば、それはよいことなのだ。

「計画にはぼくも入っているんですか?」

「え、だってあなたがいないと不便なんです、いろいろと。それに、あなた、わたしのことどう思っているの?」

 伏し目がちに聞く彼女を見て、ぼくはどきりとする。

 さんざんに曖昧だ、曖昧だと揶揄されてきただけに、その曖昧さを維持したいのだということは言えそうになかった。

 彼女は、言葉定義にとらわれやすい。

 たとえば、結婚してもいいというと、結婚ネガティブな面に意識がむき、それはどうかなと思い始める。同じように、恋人になりたいというと、恋人が出来たときのネガティブな面に意識がむく。

 彼女はきまぐれだから、そのきまぐれに、その言葉定義が合わなくなったとき、たとえばその気まぐれには恋人であることが不都合であったとき、その関係性を疎む、という性質があるのだ。

 なので、彼女のきまぐれにいつでもつきあえるように曖昧にしておく。

 これがぼくが彼女とつきあううちに見つけた処世術だったのだ。

 ぼくはとてもストライクゾーンが広く、そして彼女ボールゾーンがおもいっきり広い。

 なので、なるべくそボールに球を投げないように、細心の注意を払う。

 でも、ほんとうのところはそんな他人が作った言葉定義は、いわばレッドオーシャンで、ぼくと彼女だけにしか適用できそうのない、ニッチブルーオーシャンを探したいと思っている。

 それはいったいどういうものなのかというと、それはぼくにも分からず、そのときどきに都合のよいように、彼氏にも、友達にも、相棒にも、変化するなにかだと思うのだ。

 ときには問題を解決したり、ときにはいっしょに遊んだり、ときには恋愛物質に翻弄されたり、ときには抱きしめたり。

 ようはぼくは彼女と一緒にいたくて、いろいろなことがしたくて、そこには好きという気持ちも、愛しているという気持ちも、一緒にいると楽しいという気持ちも、悪ガキのように作戦会議をするのも楽しいという気持ちも、彼女のあらしの側にいるとこっちも活性化するのでうれしいという気持ちも、ごっちゃになって含まれている。

 それを定義する言葉がなくて、言葉曖昧になる。

「ねえ、どうなんです?」

「ラーオ語、覚えます。ひょっとしたら会えなくなる可能性を消しておきたいんです」

「また、曖昧

 彼女は不機嫌そうに眉をしかめた。

(それはきまぐれなあなたに合わせるためなんだけどなぁ……)

 それでも、彼女はよしと意気込み、ラオス工場を建てる計画の推進をはじめる。

 その姿があまりにも眩しくて、ぼくはそれに見入ってしまう。

 彼女の飛躍するような自由奔放なあらしの側にいると、こちらまで、もっと高い理想と夢を追わなければならない気になってくる。

 彼女は停滞を嫌う。

 それがぼくに向くときに、うわ、頑張らなくっちゃとなるのが嬉しかったりするのだ。

(しかし、ラオスか……、途方もないなあ……)

2009-12-04

なんと。三日連続で。学校を休んでしまった。

理由はまあ、風邪というか。熱ないんだけど。

この三日、本気で寝た。朝6時くらいに起きて、9時から昼まで寝て、2時から翌日の7時まで寝た。こんな感じの繰り返し。

疲れが出たんだと思う。やっと受験が終わったから。

10月の終わりから毎日毎日学校行って塾行って11時まで勉強して家に帰って倒れこむような生活を続けた。毎日、ほんとに休むことなく。

いや、これも他の進学校の人にとっては生ぬるいだろって言われそうだけどね。

他の人はこれをもっと続けなきゃいけないんだよなあ。きついね。きつすぎる。

まだ合否はででないんだけど、多分、大丈夫。うん。

でも、何で自分だけ学校休んでるんだと思うんだよな。友人だって同じことしてたのに、ちゃんと学校行ってる。

やっぱりやる気のなさかなあ。

まず、毎日休まず学校に行くってことが耐えられない。どうしてもサボりたくなる。サボってどっか行きたくなる。

学校に行くのも実質残り一カ月くらいしかないのにね。

多分人と話すのがめんどいんだろうな。こんな風にパソコンしてた方が楽で楽しい

とか言ってたらもう駄目だ駄目だ、大学行っても絶対こうなる。大体こんなのが社会に通用するはずがない。

とりあえず、明日はちゃんと学校行こう。さすがにもう寝疲れたし。友人に何て言われるかね。

友人は自分がサボり魔ってもう知ってるし。

・・・ああでも、まだパソコンしたい。

2009-12-03

今考えれば、大学はまともな男性の宝庫だった

現在地方中小企業で働いている26歳女だ。

 

 

県庁所在地でさえ過疎化が進む地方都市に生まれ、そこで育った。

私は社交的なタイプではなかったけれど、そこそこ勉強ができたので中学校までの成績は学年100人の中で20番以内だった。

学校にはまじめな男の子から不良ぽい男の子までいたが、所詮子どもなので根っからの悪い人たちではない。

そう思っていた。その時は。

好きな男の子もいた。好きだとは言えなかったけれど。

その後、県下3番手進学校に進学した。

 

 

みんなまじめだ。

不良っぽい子はほとんどいない。

 

 

中学校の時、100人中20番だった私の成績は200人中150番程度まで落ちた。

高校で新しくできた友達と一緒に必死に落ちこぼれないように頑張った。頑張った結果、200人の中80番程度を取り戻した。

部活水泳も頑張った。結果は出なかったけれど。

3年生になったら勉強漬けになった。センター対策で数学をやり直すが忘れているところも多い。古文の助動詞の扱いもあいまいなままだ。

覚えている英単語が少なくて、入試問題英語がなんて書いてあるか分からない。

 

 

今度ばかりは、今までの人生で一番勉強した。

テレビも見ずにお風呂と食事以外はほとんど勉強した。

 

 

入試本番は、緊張しながらも今まで覚えたことをひとつずつ書いていった。

 

 

都内の中堅私立大学の結果が届いた。

合格だった。

力が抜けた。

 

 

地元国立大学文学部の結果が届いた。

合格だった。

お母さんと一緒に泣いた。

 

 

 

地元国立大学に入学した。

大学生活は楽しかった。

周りにいるのは良い人ばかり、長い夏休みは友達と旅行に行ったり買い物に行ったりとにかく楽しかった。

2年生の時には初めての恋人ができた。

初めて手をつなぎ、初めてキスをして、初めてHもした。でも、私が彼の交友関係に嫉妬してしまったのが別れる原因になった。

 

 

 

20歳の時に、成人式があった。

懐かしい顔に会ってうれしかったが、同時に驚いた。

学生以外に正社員はほとんどいないのだ。セブンイレブンローソンユニクロ

よく名を聞く店で、フリーターで働いているらしい。中学校の頃、好きだった子はホストになっていた。

小学校の頃、仲の良かった子は既にできちゃった婚子どもがいるらしい。成人式には来ていなかったが風俗で働いている子もいるという。

現実離れした話ばかりで、実感が持てなかった。

 

 

  

就職活動だ。3年のときに長女である私は、地元に残ることにした。

エントリーシートを悩みながら書いた。何度も面接の練習をした。

それでも、地元地銀は落ちてしまった。地元メーカも同様だ。

だが、13社目の県庁所在地中小企業には引っかかった。そこに決めた。

元の彼氏は、東京の大手企業子会社SEをするということを噂で聞いた。

 

 

 

入社した。

同期は同じ大学女の子

独身男性はほとんどおらず、既婚者のおじさんばかりだった。

100人ちょっとの会社で今までに大卒者は15人程度らしい。

専門学校卒の独身男性もいたが、30歳越えで風俗の話ばかりをしていた。

理解できなかった。

大学時代の男性たちがいかにまともな人たちだったか気づいた。

 

 

 

今年また不況が来た。

採用人数は0でも構わない様だ。

 

 

 

楽しかった青春はもう戻らない。

2009-11-27

幼稚園の頃常に一人でいることが多く母に知恵遅れだと思われ、変な施設に毎週通っていた。
しかし本の漢字を覚えるのが早かったらしく、問題無しということでその施設は卒業

小学校に入る。奇抜な行動が多かったのだろうか、暴れっこ数人にいじめの標的にされた。
一方でユニークさが受け友達も多かった。ただしモアイとかいう変なあだ名で呼ばれていたが。
いじめられると大声で叫ぶらしい。そのときのことは嫌でよく覚えていない。
一番ひどかったのが昼休みベルマーク委員会の作業をしている時にいじめっ子数人がやってきて
僕のズボンを脱がせたことだ。女生徒が一人いて悲鳴を上げていたのを覚えている。(今でもこの夢を見て寝声で叫ぶことがある)
とにかく字が汚く、習字教室にも通うが効果はなかった。教育熱心でヒステリックな母には月2のペースで怒られ、ファミコン禁止!と言われた。
テストの点数は95点くらいが殆ど。国語は80点くらい。優秀な生徒として通っていたようだ。

中学に入ってもいじめはあった。殴られることはあったが、とくに自殺願望もなかった。
塾に週3ペースで通い、テストの成績は250人中10位以内だった。
勉強学校ストレスに対し兄に怒鳴り散らしていた。
卒業のときにもらった寄せ書きには「お前変な奴だな」みたいな文が多かった。

高校は公立の進学校に入り、部活文系クラブ部長をやらされた。
とにかく勉強勉強で、ゲームは当然禁止。内緒ゲームボーイを買いシレン等をやりこんだ。
昼食時はほぼ一人だった気がする。その頃自分マイペースだと思っていた。
親からはライバル意識が足りないといわれた。

そして大学偏差値60前半の理系の学部に入る。
しかし非リア充の道を進む。文科系クラブに入るが半年で離脱。二回生後半になるまでバイトはしなかった。
食堂が込むのが嫌だという理由だけで他の人より早く食堂に駆け込み、クラブ以外の友達はゼロ
親に仕送りの報告はしないし、夜更かしも日常茶飯事だった。
単位は可が多く、3回生ごろになると5割が不可だった。
そして4回生大学院試験に落ち、単位も足りず一留。翌年の大学院試験も落ち、就職を余儀なくされる。
(このとき実家に帰り、幼少期の施設の話を聞かされる。)
就職課の教授のところに行き、企業を紹介してもらう。
面接の結果はひどかったが、教授がお願いしたらしく入社が決定した。

入社一年目は半年間色々研修を受け、とある事業所に配属が決定した。
一年の間に遅刻は8回くらいした覚えがある。この頃から上司に「周りとなじめていない」と言われたり、
人事からは「人の気持ちを考えていない」等と言われた。
注意されたことはそのときものすごく深刻に考えるんだけど・・・すぐ忘れたがるくせがある。

二年目の秋(現在
人事に呼び出される。「君を他の部署に移動させたいが行かせるところが無い」と言われる。
人事の偉い人に説教された。怒鳴られた。そうでもしなきゃ状況分かってもらえないとでも思ったのだろう。
メシは一人で食う、言われたことを守れない、納期に無頓着、等。

上司日記を出して最近コミュニケーション等の改善を図ることに。
先輩社員との会話が増え始めたが、自分にはジョークが通じないらしく、「そこはつっこめよ!」とだめだしをくらった。
肝心の日記事実記述が多くて最近注意された。しかも最近遅刻してしまった(半年ぶり)

もうアスペでいいかな・・・診断所行って見てもらおう。

2009-11-24

http://anond.hatelabo.jp/20091124004225

社会で通用する能力を持つことは十分証明された。

進学校の同級生を基準にすると焦るだろうけど、その横並び意識さえ捨てればその年齢なら出発点として十分早い。

多少時間がかかっても、なにか資格でもとれば、十分通用する。今は、30ではじめるしごとだって、当たり前なんだから。

2009-11-16

アキバ大量殺人加藤智大の知られていない一面

カトーの一面

・車を買い替えていた。

ゲームパソコンをもっていた。

フィギュアを買っていた。

・10万持って服を買いに行ったことがある。

・一流メーカーの高級ナイフを6本も買う金があった。

・一食千円。携帯は使い放題プラン

風俗経験あり(魔法使いは目指していない)。

中学時代に彼女がいた。

地元の有名進学校出身。

理系短大を出ている。

吃音でもワキガでも極度の汗かきでもない。

キモメンではなく平均的な顔。にきび痕もない。

地方在住なのに二週に一度は秋葉へ行っていた。

欲しい物があれば他県でもひとっ飛び。

運動神経抜群で足が速い。

・初対面のミリタリーショップの店員と談笑できる話術。

・2トントラックを簡単に借りて乗りこなす行動力。

拳銃を向けられると直ぐに降参する冷静な判断力。

メイド指輪プレゼントできる求愛力。

2ちゃんねるオフ会に参加する社交力。

太宰治寺山修司の後輩で人を惹きつける文章力

ソープに連れて行ってくれる先輩がいた。

・同僚・後輩からは兄貴分扱い。

・「死にたい」などと窮状をメールで相談できる友人が複数。

親友と言ってくれる人もいた。

・両親健在。父親は労金幹部で高給。借金も払ってくれる。

ニートでも引きこもりでもなく正社員採用歴あり。

・20代半ば(その気になればやり直せる年齢)。

2009-11-14

中高一貫女子校6年目、いい子たちに囲まれて平穏に、もうすぐ卒業する。

という書き出しに込めた皮肉自分の6年間を象徴するようで、はやく卒業したい。嘘ではないのだけど。いい子たちに囲まれて平穏無事に過ごした。友達がいて、家族が健在で、部活もゆるくやって、そこそこの成績で、健康で。来月の始めに18になる。辞書が好きだ。授業の合間に思いついて「思春期」とひいたら広辞苑曰く17までだそうで、だから書く。思春期の終わりに寄せて。

思い返せば昔からなんとなくずれていて、死骸を見つめる子供のまま成長してしまった。戦争に興味がある。ミリリマニアではない。グロ好きでもない。使命感もないけど時々小銭の募金をする。POSO宗教戦争動画樹海写真身体改造系のあれこれとか、そういうのをなんとなく見た。熱く好きな人と話が合わない。気持ち悪がる人とも話が合わない。いつだったか、15に届かない歳のとき、SAW(15禁)の何作めかを観に行かないかと誘われて、エグさを嬉しそうに語る彼女に引いた。当時上映されていた犬と死が出てくる映画に泣いたという話にも引いた。言うことのいちいちに意図を感じて、目指す先に馬鹿らしくなった。結局なぜか、クリスマスに2人で「シャーロットからの贈り物」?という、超平和映画を見て、ああもう一体なにキャラ目指してんの、と思ってうんざりしつつ、自分も似たようなもので、映画はなにを観ても面白いしなにを観ても泣かない。そう書くとドライな感じだけどなにを観ても音にビビる。そんな自分、隣でなぜか鼻をすする友人を無視した。お前は黙ってSAW観て泣くな。

マイナーアーティストを好きになってニコニコで聴いていたらたまたま軍艦島を撮った写真をまとめた動画BGMに使われていて、それをきれいだと思った。一応進学校と言われる高校で、スカート短くして笑って、ほとんど意味のない言葉を吐いても誰も気にしないような教室で、息してて、廃墟廃墟が好きだと言って分かるよと言ってもらっても、あるいは分からないと言われても、どっちにしろ殆ど変わらない。私がおばあさんの纏足を眺めてなにを思うか、言っても分からないのと同じで。当り前じゃないか人間はみんなそうだと偉そうに断言するあんたが嫌いだ。なんでそんなこと分かるのか、なぜ断言できるのか。私はまだ17だけど、絶対、あなたにだって分かるはずないのに。分かって欲しがる私の同類でしょう。

すごくベタな、例えば「親友」とか、そういうのに憧れているのかもしれない。だけど私は誰が死んでも泣かないと思う。廊下を歩いていて、通り過ぎる人を次々に殺したことがある。昔見た外国アニメみたいに、体の断面はマットな肌色で首は高く遠くに跳ぶ。トイレでレバーに八つ当たりする。出て、鏡の前で自分の不細工さに気がついて、何か思う前に隣の知り合い(友達)になにか意味のない言葉を言うか言われるか。息がつまりそうなんて、全然、違う。息をするのと同じなんだ。吸う空気にまで文句を言うのはおこがましい。そこは東京の高校のお手洗いだもん。私は恵まれていて。

人間が好きだ。どのくらい好きかって、戦争を見たがるくらい好きだ。自殺系サイトでくだを巻いた中学時代、いろんな変な人がいたし、私もきっと変な人で、世の中の普通の人もわりと変だ。すごく簡単に人を嫌うくせになんだかとても良く強い部分もあって。したたかだなと思うし、不器用馬鹿で、平凡なままドラマチックで、とても好きだよ。いろんな変な人に引かずに付き合った変な自分は背が低い。おかしな話だけど、もし小さい頃にもう少したくさんアニメ漫画に触れていたらオタクグループに属しただろうし、もしもう少しお洒落な親のもとに生まれていたら恋愛青春を謳歌したかもしれない。もし運動神経がよかったり人前でなにかするのに抵抗がなかったりしたら部活に打ち込んだと思う。もし本を読まずに生きていれば、きっとこうではなかった。もし背が高かったらもっと男らしくなっていたと思う。そうではなくこうであって、そして父が廃棄されたパソコンをくれた。

会ってみたりもした。男の人が気持ち悪くなった。同性愛者を名乗る友人ができた。顔を知らない友人のために死ねる気もしたし、死ねとも言ったし、言われて、リストカットも通院も珍しくなくむしろ誇るような見せびらかすようなそんな中二病に、罹りつつやっぱり馬鹿じゃないかとは思っていた。それでも人が好きだ。痴漢に遭おうと見知らぬおじさんに誘われようと、話をしてみたいと思う。あなたはどんな変な人なのか。なにが好きでなにが嫌いで。趣味の悪いネクタイに微笑む自分は気持ち悪いんでしょう。死体を見たがる自分も、雨ににやつく自分も。そしてまた変な子と仲良くなる。mixiの、趣旨よく分からない、綺麗で暗い写真を使っているコミュに入っているような子。拒まない。社交性がない自分に友達がいる理由がどこにあるのか分からないけど拒むという選択肢がそもそもない。拒むときは世間のそれを借りる。彼女たちは狂った私を好む、世間の逆をいく、なんだかまたありふれて見える、やはり共感できない、変な連帯感、みたいな、いうなれば友情、というものをくれた。なんか分かんないけど私、信号守るし飲酒喫煙もしないし国立大学目指してるよ。注射嫌過ぎて泣きそうだし体育嫌いだから学校行きたくなくて時々さぼるけど良い子だと思う。宿題なかったら22時には寝たいさ。

なになに系というのはなんなんだろう。私は可愛い系だ。背が低くて真面目でおとなしい。だからまともな友達がいる。

2009-11-07

大学行ったら楽できる、と言っていた教師たち

私が通っていた高校は進学校だったの授業は難しく夏休みなども短かったです。

高校の教師はよく大学は楽だ、春休み夏休みは2カ月ずつあるぞ、だから今は頑張れと言っていました。

実際大学に来てみるとそれは間違いではなかったけど、そういった教師を馬鹿にするようになりました。

大学はとても簡単に卒業できるところです。それなりに友達や知り合いがいればノート過去問は融通してもらえるので単位は簡単に手に入るし、大学や科目、担当教員次第では一夜漬けして最後のテストに出るだけで単位がもらえる。

単位をどうとるかはその人に自由だけど、余った時間の使い方が人によってバラバラでした。

たとえば

充実している人…勉強 サークル ゼミ などの活動をしている

駄目な人…ゲーム漫画マージャンなどでずっと遊んでる

サークルに入って友達と遊んだりすることで人脈を作る人もいるけど、駄目な人は本当にダメな人でした。

そして、大学は楽、と言っていた教師は、大学で何もしなかったんだろうな、と思うようになりました。

真剣に何かに取り組んでいる人やものすごい知識を持っている人たちがいるというのを彼らが知らないとしか思えなかったからです。

大学は素晴らしいところだから真剣勉強しなさい、と言ってくれた教師が一人だけいましたが、少数派でしょう。

知識を与える職業に就いている人がそんなこともわからないだなんて、残念なことだと心から思います。

どちらかというと、この日記では理想現実の話をしたかったです。

それと、私が言っていた学校だと駄目な教師ほどそう言っていたいたのが印象深かったことがありました。

セールストーク、というか進学させるため、としては間違ってないけど、大学ではいろんなことができる、ぐらいのことは言ってほしかったなと思います。

2009-11-05

俺が非モテになった理由

俺は、26歳の彼女いない暦=年齢の男だ。

身長は168、で体重70くらい。

顔は子供っぽい童顔で今でも20歳くらいに間違えられる。

小学校中学校自分女の子に苛められていた。もともと、社交性があまりなく重要な場面で空気が読めないのが災いしたらしい。

「○○はきもい」「死ね

などと、頻繁に言われていた。

それは、中学になっても続いた。

こんな自分が、コンプレックスを拭う事ができるのはアニメ漫画小説などの内向的趣味でありそれを語ることができる男のオタク友達だった。

このころから、電子工作自作PCプログラムに嵌ることになる。

幸い、自分勉強だけはできたので県下の公立進学校に進学した。

高校に進んでも、付き合うのはオタクタイプの友達ばかりだった。

このようなグループに入ると女の子と話すことは皆無に近い。

ゲームの話や、ラノベ漫画の話ばかりに熱中していた。

同級生の中には付き合っているという話も聞くようになったが、はっきり言って興味がそれほどなかった。

好きな女の子タイプを聞かれたら、あずまんが大阪と答えるような高校生だった。

大学旧帝大電子工学科に進んだ。

就職が良いというのもあったし、自分の興味にも合っていた。

好きな勉強ができるというのは辛いながらもそれなりに楽しいギャル女やギャル男が大嫌いな自分にとって、基本的に真面目な男しかいないこの環境というは非常に心地いい。

でも、20歳を越えたころから周りの友人に彼女ができ始めた。サークル合コンで知り合っているらしい。

自分女の子は好きだ。だが子供のころのトラウマから特に同年代の女の子が怖いのだ。

自分合コンに参加してみた。私立の女子大生との合コンだった。

だが、そもそも何を話して良いのかわからない。彼女がいたことがないと言うと驚かれた。そんな風には見えないと。

子供っぽい顔も、年齢が高くなってくると悪くない顔に見えるらしい。

だが、共通の話題が一切見つからず、隅でじっと一人で酒を飲んでいた。

このような合コンには何度か参加した。

中にはアプローチと思われる行動をしてくる人もいて

血液型星座が同じだと「運命感じる」などと言ってくる人もいたり

幹事が用意した肝試しのイベントでは寄り添ってくる人もいた。

だが自分はそれに対してどんなリアクションをとったら良いかわからないし、子供のころのコンプレックスからか恐怖を感じてしまう。

決して、女の子が嫌いなわけではないのだが。。。。。

そのうち、研究室配属後はこのようなイベントにも参加しなくなった。

就職は、誰でも名前を知ってる大手の自動車メーカーに決まった。

学校推薦と教授の推薦もあり、簡単に内定できた。

就職後は忙しい日々を送りながらも、同窓会合コンに参加してみる。

自分の勤務先を知るやいなや、甘い目線で話しかけてくる元同級生の女の子。はっきり言って気味が悪い。

合コンでも、似たような感触を受ける。

彼女らは自分自身ではなく、自分年収ボーナスに興味があるのだ。

そんなこんなで、26年たった今でも彼女いない暦=年齢だ。

良妻賢母みたいな人が理想なのだが、女性の見分け方も話す話題もさっぱりだ。

http://anond.hatelabo.jp/20091105114402

まぁ、せいぜい青チャートとかの例題をしっかりやってりゃ、十分ですよね。

だからそれすら出来てないやつらは、

浪人覚悟で部活に命かけてるやつ。 ex.進学校なのに本気で甲子園目指してる、など

・真性のバカ。どうしようもない。努力してるしてないに関わらず。友達にすら軽んじられてるレベル

・美大とか行こうとしてる方々。周囲も「ああ、お前勉強なんてせんでいいよな」と理解を示すレベルで絵とかがうまい

・なんか知らんけど模試だといい判定出てるから、どうやら「学校で習うお勉強」が嫌いであえて対策してないやつ

のどれかだった。

2009-11-01

いつしか「楽しみ方」を忘れてしまっていたようだ

気が付かないうちに、人は大人になっていくもので、

自分まだ子供の心は忘れてない」ってずっと信じていたけど、気が付いたらすっかり悲しい大人になってしまった

しかも、子供のうちに経験しておくべき色々なことをしないままで

最後におもいっきりはしゃいで、後先の事を考えずにおもいっきり楽しんだのっていつだろう...

とふと考えてみた

きっと、そこに「今」を楽しむことができていないいわゆる「非リア」脱出の為のヒントが隠されていると思ったから

私が思い出せる限りでは、それは多分中学の時だったと思う

詳細には、高校受験勉強を本格的に始める前まで

よくある表現だけど、「あの時は色々バカやったなぁ〜」ってやつ

一番の思い出は、深夜にチャリで高級住宅街を叫びながら猛ダッシュしたこと

今考えると迷惑な話だけれど

それが、田舎の二流の進学校に入り、うちの高校はトップ校に追いつくのが目標だったから、

とにかく勉強させられて、ほぼ毎週試験やらなんやらがあったし、

専門的な学科だったから、普通科よりもさらに忙しくて、

青春」なんておくってる暇すらなく、気づいたら卒業していた

マンガとか、雑誌とかを見て、高校生活ってこんなにもキラキラしているんだって妄想だけで楽しんでた

そんな勉強漬けの高校生活を送ったにも関わらず、

大学入試に失敗して、小規模の二流の私大に入った

高校時代楽しめなかったから、せめて大学では!と思って、半ば、「大学デビュー」する感じで、テニサーに入ってみた

上京後、家庭の事情で祖母の家に居候していた私は、

今日飲み会だか遅くなるとか、オールして朝帰りするなど祖母に言えるはずもなかったから、

飲み会に参加しても、11時帰宅する為にお酒もそこそにいつも早退していたし、

テニスの練習の日は運悪く授業が夜まであったため、参加できなかった

そして、気が付いたらなんとなくサークルでアウェイな感じになっていたので、

ここでも大学生らしい「楽しみ方」を学ばずにサークルを辞めてしまった

その後は、暇さえあればバイトを入れまくり、家ではネット勉強に勤しんだ

バイトでの付き合いもまた、大学生っぽいけれど、サークルの時と同じ理由からラストまではいなかったから、

バイト後の飲み会とかは殆ど参加しなかった

クラスでの飲み会とかもあったけど、本当に暇さえあればバイトを入れていたので、

全然参加しなかった

もはや、このころから、大学生らしい「盛り上がり方」が分からなくなってきていた

そして、現在アメリカ留学中だが、

毎週どこかでパーティーがあっていて、バイトをしていない分暇な時間が増えたから

ちょっといってみようかと思っても、「楽しみ方」が分からない

言語の壁もあるからなおさらだ

そして、なんとなくパーティーに行く事すらも苦痛となり、

今日ハロウィンだが、こうして家でネットをしている

このまま一生「楽しみ方」をしらないで過ごすのだろうかと思ったら、なんだか急に虚しくなった

でもいざその場に行くとなると、どうしていいのか分からずぎこちない

どうやったら、中学生の時みたいに心のそこから楽しむことができるのだろう?

2009-10-27

勉強なんて意味あるのという問いにマジレスしてみる。

まず、意味あるの?って何なの?意味ないと死ぬの?意味があることによって、何だ。君の人生に大きく影響するのかね?

だめだこれじゃマジレスじゃないな。

にゃんとー。

 小学校中学校には本当にいろんな奴がいたと思う。記憶がおぼろげな事と、そんなに深く考えていなかったせいか、はっきりとしたことは言えないが。目に見えるはっきりとした格差が存在したと思う。学校に真面目に来ない不良というのがいた。もちろん真面目に来ないというのは文字通りの意味で全く学校に来られない訳では無い。パフォーマンスだったんだなぁと思う。そうやることで自分は特別だ、とまではいかないとしても、当たり前であることから逃げていたんだと思う。たいていの家庭の親はそんなのを認めないから、結果的にそうなっているのは、放任されている子供ばかりだった。改造制服を着ているのも決まってそう言う生徒だった。完全に一種のテンプレートである。ただ先生の言うことを全く聞かないわけでもないし、学校でのべつ幕無しにけんかをしているわけでもない。一種のファッションみたいだった。そう言うファッションみたいなものの中に、茶髪にする事、ボンタンをはくこと、ルーズソックスを履くことと同じように勉強をしないというのが存在していた。下手したら自分普通じゃない。という自己肯定の中には勉強をしないと言うことが含まれているのでは?と思う程度に。

 少し見方を変えるとそれはそれで帰属意識じゃないのだろうかと思う。勉強をあくせくやるのはスマートではないという空気はあったし、そもそも真面目というのはあまり好まれるレッテルでは無かった。そんな中で、不良とかやんちゃとかいうレッテルの中にいればそこまでカッコワルイという感じではなかった。そんな中で彼らも彼らなりにそういう空気を敏感に感じていたのだろう。しかもそういうグループ内で勉強をしているだなんてことはとても信じられない行為であっただろう。

 脇にそれた。本題に戻ると、勉強意味があるかと感じる様な層はそもそも勉強をしようという動機付けは皆無であるように思われる。しっかり勉強をした方が得だという空気は高校に入ってからであったし、地方進学校程度ではその中でも十二分に諦めてしまっている人間はいた。現在小学校中学校がどのような状態であるかは知らないが、おそらく上で述べた、

勉強をする事はカッコワルイという空気

は解消されていないであろう。そもそも中学程度までの学習一般教養ではないのか?と感じる。

そして一番酷いのは現在新卒雇用状況を全く知らないまま義務教育を終える事だ。中学の学年主任の先生中小企業揶揄する様な話をしていて、その頃新聞赤旗朝日により少々左に染められていた、自分には信じられなかった。今考えるとある程度は正しい事をいっている気がする。(というかほとんど正しい)

全力でマジレスしてみた。

2009-10-13

http://anond.hatelabo.jp/20091013143601

俺は全然進学校じゃなかった(そもそも国立大に行く奴が浪人生合わせて年数人)けど、受験期は学校来なくなる奴いっぱいいたな。

何か家で受験勉強してたらしいんだけど、その割にほぼ全員俺より成績悪かったから何か残念な気持ちになってた。

受験生のときに高校に真面目に出席しなくなるのって

わりと進学校ありがちな現象なんだな。

漏れもあんまり学校に行かなくなったんだけど、

「こんな真面目な学校なのにほとんど学校行かない俺ってスゲーーーー」

とか勘違いしてたよ。

きもいね。

2009-10-01

http://anond.hatelabo.jp/20091001115934

大学行ったとしても大学より高校名が重要。それが田舎クオリティ

中高進学校の話題になると異様に盛り上がる人たちがいて、何なんだろうと思ってたがそういうことか。なるほど。

2009-09-10

いじめっ子市長になるらしい

タイトル釣り

いつものように朝仕事をサボってニュースサイトやらなにやらを見ていたら、地元市長選挙ニュースがふと目に入った。

で、内容を見てみたら小・中学校時代の同級生と同じ名前の人が今度の市長選挙出馬するらしいとの話。

ただの同姓同名か?とおもってググってみたら、まさにその同級生本人だった。

出身中学、学年が一緒で、小・中学校の同学年で同姓同名なんていなかったし。

あいつも出世したなー、と感慨にふけっているときに思い出したことは、「あれ、こいつ俺の事いじめてなかったっけ?」

いじめと言っても、そいつは主犯ではなくて周りと一緒になってからかったりされた程度だったけど、

お調子者で結構印象に残るタイプだったから覚えてたのかも(そこら辺が政治家としての才能に結びついてるのかね)。

俺は俺で当時は結構痛い子だったのは自覚してるから、今となっては思い出す度にちょっと胸が切なくなる程度の思い出だけど。

そんな彼は、中学卒業後は地元の中堅進学校に行って某有名私大を卒業後、政治家秘書経験して議員になったようだ。

中学まではそんなに成績はぱっとしない奴だったから、きっと高校時代に何か思うところがあったんだろう。

(俺の地元から東京の有名私大に行くには、よっぽど高校時代に努力してないと無理)

俺もいじめっ子ごときにいつまでも負けてらんねーな、と思い直しつつ仕事に戻るのであった。

2009-09-07

姉と母

 食卓の空気が険悪になる事が我が家にはたびたびあった。それは何度も経験したことのある出来事だったが、それが私を余計嫌な気分にさせた。その空気の原因は、母の怒りだった。怒りの方向は、その場にすらいない私の姉の将来の夢について。彼女の夢は小学校の教師だった。母は姉が小学校の教師になる事に、強く反対しているのである。

 私には3つ上の姉がいて、私たちは自分でも言えるくらいに仲が良かった。ここ数年喧嘩などしたことがなかったし、一緒にテレビを見たり、話をするのはとても楽しかった。現在彼女大学生になり、一人暮らしをしているが、家族無料通話をいいことに相変わらず電話で話をすることは多い。

 

 姉が高校に入学するころ、姉は食事の場で、自分に教師という夢がある事を言った。父は、夢を持つ事、目標を持つ事はとてもいいことだから、とにかくがんばってみなさいというようなことを言った。姉はとてもいい顔だった。私は姉を色んな意味で、羨ましく思った。(色んな意味意識してたわけじゃないけど。)

 だが、食事後みんなでテレビを見ていると、急に母は姉の夢に反対であることを言い、姉に説教すらし始めた。母の顔には怒りがにじみ出ていた。姉や父は母に理由を尋ねたが、母は、「親だからわかる。姉が教師になんかなれっこない。」というように曖昧で断定的な返答しかしなかった。なれっこない。何度もこの言葉を聞いた姉は泣いていた。夜中にも、すすり泣きの声が聞こえた。母は、今までにもこういう主張をすることがたびたびあったのだ。なぜか姉がなにか(部活リーダー、学級長、地元進学校への高校受験etc....)をしようとするたびに、できっこないだの、やれっこないだの言って、やめさせようとする。高校受験の時も、姉が地元進学校受験しようとするのをやめさせようとしていた。姉は母に反発して猛勉強し、見事合格した。彼女は私に「これで母さんも、ちょっとは私を認めてくれたかな」と漏らした。その矢先、再び母は姉の夢を今までにないくらい強く否定したのである。当時ピカピカの中学生だった私にも、なれっこないと言われた姉の痛みが伝わってきた。

 

 それから数年が経ち、姉は大学生、私は高校生になった。時々真夜中に父と母が話し合いをしているのが聞こえた。普段は温和な父の、大きな声。だが、父の説得も母は聞く耳を持たなかった。姉は夢をあきらめず、母も反対の立場を変えなかった。母は反対の理由を話したがらなかったが、問い詰めると、時々漏らすように理由の一部だけを言った。以下はその要約。

先生は何十人もの子供に影響を与える。姉がなれば悪影響を与えてしまう。

・なので教育実習地元学校に来ると、近隣の皆様のひんしゅくを買う。

・姉は子供の時から不器用。だからできっこない。

先生のような重大な仕事に就くと、大変な人生が待っている。平凡な生き方のほうが姉にとって幸せ

自分はこれらを聞いて半ば呆れていたのだが、最後の理由を聞いて、母なりの姉への思いやりなのかなと思っていた。

 

 だがある日、食事の場で、父が姉が教職を取ろうとしている事を家族に語った。私が嫌な予感を持ちながら母を見ると、母は怒りとも悲しみとも言える複雑な表情をして、ポツリと「なぜ私をこんなに苦しめるの・・・」と言った。その時私は、母の今までの主張は全て自分自分の都合のためだったのではないかという事を感じた。母は世間体を気にするタチだった。「先生のような重大な仕事に就くと、大変な人生が待っている。平凡な生き方のほうが姉にとって幸せ」という理由は単なるタテマエであって、本音は「先生は何十人もの子供に影響を与える。姉がなれば悪影響を与えてしまう。なので教育実習地元学校に来ると、近隣の皆様のひんしゅく(自分が)を買う。」ということにあり、自分の保身(?)のための主張なのではないか、という邪推をしていた。邪推であって欲しかった。子供だった私が羨ましく、妬ましかった。

 私は食欲をなくし、台所を早めに去った。去り際に見た父の顔は、怒りで満ちていた。

2009-09-02

http://anond.hatelabo.jp/20090902004437

俺は大和民族日本国をなんとしても維持したい派。だから、極端な産めよ増やせよ的な政策もやむなしかと思う。たとえば

なお、不妊治療費は、医療費控除とは別枠で全額税額控除とし、治療中は上記の子無し税を免除する。この理由で10年以上子無し税免除が続いた場合、その後も子無し税免除とするのが妥当だろう。

2009-08-31

政治について一から知りたいのに、誰の話も信用できない。

来年成人するから選挙の機会もあるだろうし、いい加減ちゃんと政治に関して知っておきたい。
 けれども政治についての知識を例えばネットから得ようとしても、正直言ってどれを信じていいかがわからないから困っている。

 例えば民主党自民党か選べって言われたとして。
 民主党を選ぼうとすると「政策にどうやら問題があるらしい」みたいな声が聞こえて、逆に自民党だと「政策実行力に欠ける」とかそんなイメージがわく。で、どっちが正しいかを判断しきれる情報が見つからない。というより、仮に民主党問題点が列挙されたとしても「自民党支持者が書いた詭弁」に見えてしまうし、その逆もまたそうなのだ。自分で政策を見極める頭もないし、特定の政治団体に偏らずにそれを会得する方法も浮かばない。本でも読む? では何の本を? ロック、それともケインズ? むしろいっそアリストテレス? ああもうぐるぐるしてくる。

 問題なのは、誰のどの情報も信頼できない状態なんだと思う。特に「団体」の構成員からの意見がどうしても信用できない。政治に限らず。
 ものすごく真剣になってる人のなりふり構わない感じがどうしても気持ち悪くて、それは多分小さい頃にオウム真理教事件とかの報道を見たり同時多発テロ以後のお祭り騒ぎに流れてったからだとも思うんだけど、ともかく誰かが自分に必死になればなるほど冷めてしまう。懐疑的になってしまう。ドン引きしてしまう。感情的にこうなりたくないって思ってしまう。
 そういえば、中学の時に通っていた塾が「合宿」と称して自己啓発セミナーまがいのことをやっていたっけ。当時好きだった女の子が涙流しながら「頑張るぞー」って絶叫してた。宗教としか思えなかった。その子はたまに手首を切りながら難関進学校合格し、けれども志望大学には行けなかったらしい。集団でイデオロギープールに浸かることに、ものすごい抵抗を覚える原因はここなのかもしれない。
 僕の政治団体に対するイメージはたぶんこんなのだ。偏見ですよね、気を付けます。
 とにかく自分で判断したいとは常々思っている。投票に関しても、所詮は自己満足であり一票にそれほど価値が無くとも、政治に関わる以上は見極めて一票を投じたい。けれども特に政治の話を誰かから聞く場合、その人の支持政党とかそんな情報まで入ってきてしまう。で、このとき聞き手は話し手に説得されただけになってしまい、じゃあ彼と同じ政党を……ってなるのはすごくいやだ。自分で選んでないから。潔癖症かな。中二病だな。

 本当にもう、政治を見極める視野ってどうすれば身に付くんだろう。
 ていうか皆さんはどうやって投票されたんですか?
 まずどこでどんな知識から入れていったんでしょうか?
 テレビネットも人も信用できないんです。
 メディアリテラシー教育するメディアって、何がもっともふさわしいんですかね?
 所詮は『程度の差こそあれ、全ての教育洗脳である』とは言えども。

2009-08-06

書籍から見るゼロ年代

今年でゼロ年代が終わる.2000年が始まったときはミレニアム!と晴れ晴れしい気分であり,まさかゼロ年代なんてカタカナで時代が表されるだなんて思っても見なかった.そんなことを近頃思っていると「そういや,2000年とか2001年ってどんな本が平積みにされてたっけ?」と思ったので,簡単にまとめてみた.これは客観的な統計データのまとめではないし,選んだ本やその解説には恣意性だって含まれてると思うけど,はてブ等でフォローしてもらえたらと思う.

一般書では『だから,あなたも生き抜いて』がベストセラーであった.閉塞感のあった90年代において日本経済社会システムも崩壊が始まり,これまでのような一億層中流社会は望めなくなった.そんな時代に単なるサクセスストーリーとしてだけでなく,「生き抜く」ことを薦めるこの本がゼロ年代最初の年のベストセラーであったことは興味深い.

経済書では『経済ってそういうことだったのか会議』がよく書店平積みされていた.お金のことは銀行専門家にまかせておけばよい,といった価値観から自分の身は自分で守ろう,そのためには少しずつでも知識をつけようという価値観へ既に変化し始めているように思える.

また,9.11以前に文明の衝突論を展開していたという点でハンチントンが後にもてはやされた.『文明の衝突』は1998年

また,ソーカル事件を発端とする科学論者と科学者間の間の論争である『サイエンスウォーズ』『知の欺瞞』が出版された.一連の流れにより,科学は正しいものという固定観念が崩れ始めるが,その悪影響として疑似科学が隙間に入ってくることとなる.

2001年は一般書・自己啓発本として『チーズはどこへ消えた?』や『金持ち父さん貧乏父さん』がベストセラーとなった.これらは自分探しブームの終焉でもあり,ありのままの全肯定でもある.その他の一般書では『声に出して読みたい日本語』のような日本語ブームが始まる年である.

ゼロ年代を象徴する批評家東浩紀が『動物化するポストモダン』を出版し,アカデミズムからサブカルへの転向,遅れてやってきたエヴァ批評として有名となった.その後の現代思想批評界は東浩紀とそのフォロワーによって進められることとなる.

また,疑似科学論争の大きなきっかけとなる『水からの伝言』がブームとなり,教育界では道徳の授業で使われたり,科学者集団がその疑似科学性を啓蒙したりする騒ぎとなった.

2002年は一般書では『生きかた上手』や『声に出して読みたい日本語』,『常識として知っておきたい日本語』がベストセラーとなった.また,『本当の学力をつける本』で陰山メソッドが有名となり,公立校進学校化など各々が一律である必要がなく,教育にも個性や多様性を認めるような社会風潮となっている.とはいえ,これらの風潮は後の格差社会と繋がらないとは言い切れない.

格差社会といえば,玄田の『仕事のなかの曖昧な不安』は社会安定を失った日本の将来を予見する内容であり,当時の日本社会空気を表す本としてピックアップすることができる.

不況下における人々の意識を表すかのように森永の『年収300万円時代を生き抜く経済学』がベストセラーとなった.この年を前後してエコノミストと呼ばれる人々が盛んにマスメディアに出るようになり,銀行に預けるのではなく,個人が投資する時代になったと盛んに喧伝した.

9.11以降の社会を分析するかのように,ネグリハートの『<帝国>』やチョムスキーの『メディアコントロール』などが読まれた.特に『<帝国>』は左派に大きな影響を与えたといえる.

2004年は『バカの壁』が大いにベストセラーとなり,養老孟司ブームが到来する.その続編でもある『死の壁』も同様にベストセラーとなり,これらと時期を同じくして,新書ブームが到来.多くの出版社新書に力を入れ始める.

仕事のなかの曖昧な不安』を受ける形で『13歳のハローワーク』が出版され,自分探し(何がやりたい?)と自己肯定(何をやっても自分らしい)が同時に薦められるような時代となった.その一方で堀江貴文『稼ぐが勝ち』が売れ,Tシャツ姿で六本木ヒルズで新進気鋭の社長となっているホリエモンが多くの若者共感と多くの大人の反感を買った.この共感した若者は『希望格差社会』において希望が持てない若者たちであり,株取引による一発逆転という大平光代サクセスストーリーとは別の形の逆転劇を夢想させた.

新書ブームを背景に『頭がいい人、悪い人の話し方』,『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』がベストセラーとなった.特に『さおだけ屋~』はタイトル売りという技を駆使し,その後多くのフォロワーを生んだ.また,これまで『仕事のなかの曖昧な不安』『希望格差社会』といった「労働」というジャンルハードカバー本であった内容がついに『下流社会』と新書の形をすることで大衆化し,格差社会というゼロ年代キーワードを体現した.

また,東一辺倒であった批評界において,『嗤う日本ナショナリズム』によって社会学の北田が登場し,2ちゃんねる批評というものが生まれた.これはゼロ年代が徹底的にサブカル批評へ偏ることを決定づけた.

相変わらずの新書ブームで『国家の品格』『人は見た目が9割』等がベストセラーとなった.『国家の品格』は養老孟司から続く理系人ブームを引き継ぐとともに,後の品格ブームを起こした.『人は~』は『さおだけ~』のフォロワーであるタイトル売りであり,『なぜ、社長ベンツは4ドアなのか?』といったフォロワーも生まれた.

また現在まで続く重要な流れとして『ウェブ進化論』『Google』『「みんなの意見」は案外正しい』といったWeb論が生まれ,Web2.0玉石混淆,群衆の英知といった言葉がよく聞かれるようになった.これらの著書により,これまでYahooを使っていた人々がGoogleに移行したり,Wikipedia大衆化したりするようになった.これらのWeb論はあまりにオプティミスティックであると当初から批判されたが,アーリーアダプターにしか知られていなかったWebの様子を大衆化したその社会的影響は計り知れない.また,『フラット化する世界』がベストセラーとなり,インドの台頭が認知され始めた.

品格ブームを引きずって『女性品格』,○○力ブームを引きずって『鈍感力』などが一般書としてベストセラーとなった.また,理系人による本として『生物と無生物のあいだ』が読まれた.

データ重要となったことを示すような本として『その数字が戦略を決める』がよく書店平積みされていた.Web時代においてGoogleが大規模DBデータをため込むようになり,既存の専門家よりもデータが多くを語るような時代が幕開けしたことを告げた.

その一方で,「炎上」という言葉が一般用語化し,梅田オプティミストによるWeb論に対して,Webの負の面を大衆化させるような本として『ウェブ炎上』や『フラット革命』が登場した.

また,格差社会論は「ワーキング・プア」や「ロスト・ジェネレーション」といった言葉を生み出し,ワープア論壇やロスジェネ論壇と呼ばれるものが生み出され始めた.特に「『丸山眞男』をひっぱたきたい----31歳、フリーター希望は、戦争。」という赤木の論考は衝撃的であった.

どういう流れからか,『×型 自分説明書』という血液型本がバカ売れした.これも疑似科学ブームの一端なのだろうか.そして,はてなー大好きの勝間本『効率が10倍アップする新・知的生産術 自分グーグル化する方法』がついにベストセラー化した.いつの頃からかライフハックという言葉がよく聞かれるようになり,多くの自己啓発本書店平積みされていた.また,サブプライム問題までは外資系コンサルが重宝され『地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」』が売れた.

批評界では東にケンカを売る形で宇野ゼロ年代の想像力』が,東のフォロワーとして濱野『アーキテクチャ生態系』が現れたが,どちらも東の影響を多分に受けており,ゼロ年代批評が東一辺倒であることを決定的にした.

ロスジェネ論壇ではその名の通り『ロスジェネ』という雑誌が創刊し,蟹工船ブームが生まれた.また,秋葉原通り魔事件が起こったことにより,多くのメディアによって事件が消費され,それらは常にロスジェネ論壇,フリーター論壇とともに語られた.

##せっかくISBN記法したのに,増田だと使えないのね.

文字ばっかりでごめんなさい.

2009-08-04

高校の時、母親病気で亡くなった。父は恋人を作って家を出ていった

編集元:生活全般板より


768 おさかなくわえた名無しさん :2009/07/14(火) 01:29:44 ID:Sz0CHrYx


夜中にこっそり長文を貼ります。怒らないで。


高校の時、母親病気で亡くなった。

父は弱い人だったのだと思う。

苦しむ母親から目をそらして、他に恋人を作って、母親が亡くなると家を出ていった。

高校卒業までは面倒をみる。その後は自力で暮らしてくれ」


受験も追い込みに入る3年生の秋、わたしはこうして独り暮らしを始めることになった。

わたしの通っていた高校進学校で、ほぼ100%の生徒が大学を目指していた。

わたしだけ、大学受験という目標は消えた。

授業料家賃光熱費は父が負担していた。

生活費は送ってもらえなかった。

どこを探しても家にはお金がなかった。

父の新しい相手は他人の奥さんだった。きっと慰謝料のために何もかも持っていったのだろう。


769 おさかなくわえた名無しさん :2009/07/14(火) 01:30:38 ID:Sz0CHrYx


わたしは母の死から立ち直れていなかった。

バイト奨学金で自力で進学することすら思いつかない世間知らずの甘えた娘だった。

お金を送って」と父に連絡すらしなかった。父を憎みすぎて声を聞きたくなかったから。

目先のお金がなかった。

受験勉強する友人から離れてアルバイトを始めた。

お小遣いをかせぐバイトはあんなに楽しかったのに。

食べるものがなくて追い詰められてするバイトは苦しいだけだった。


心配してくれる友人はいた。大人の人も。

父の噂がひろがり、わたしは恥ずかしさと情けなさで、周囲の人から距離をおいた。


年が明けて、TVセンター試験の話題が出始めたころ、心が折れた。

バイトに追われてはいたが、惰性で勉強は続けていた。それをやめた。

年末年始のわずかなバイト料を持って、わたしは家出をした。

昔は仲良しの家族が住んでいた、もう誰もいない賃貸マンションから逃げた。

3年生の登校日はもうほとんどない。

誰も心配もしないし探そうともしないはず。


770 おさかなくわえた名無しさん :2009/07/14(火) 01:31:39 ID:Sz0CHrYx


遠い場所まで逃げた。冬の家出はつらい。

考え事をしたいだけなのに、寒くて外にはいられない。

怪しまれないようにネカフェを転々として、お金はどんどん減っていった。

最悪の決心をした。援助交際をしよう。処女を売ろう。体を売ろう。

街に立って親切そうな人にこちらから声をかけることにした。


良さそうな人はなかなか見つからない。

ようやく優しそうな30代くらいの人に目をつけた。

声をかける前に目が合った。

「何か?」

「あの・・・」

練習したはずなのに、わたしと遊びませんか、とは言えなかった。

その人は察したらしかった。

じろじろと見られた。警察の人かも知れないと思っておびえた。

家出?」 頷くわたし。

お金がない?」 また頷く。

「泊まるあては?」 首を横に振る。

男の人は少し考え込んだ。そして「一緒においで」といった。


立派なマンションに着いて、少し驚いた。

エレベーターで上がり、男の人は「ただいま」といってドアを開け

わたしに「上がって」といった。

「おかえり」と若くて綺麗な女の人が出てきたときは死ぬほど驚いた。

「あら、こちらは?」

「俺もよく知らん。家出してきて困ってるらしい」

「ええ? あら、それは、えっと、あ、とにかく上がってね」

奥さんらしかった。すごく驚いて慌てていた。


771 おさかなくわえた名無しさん :2009/07/14(火) 01:32:28 ID:Sz0CHrYx


先にお風呂をすすめられた。

その間に夫婦会議があったようだ。

わたしがお風呂から出ると、奥さんはすっかり落ち着いていて

「大変だったね。すぐご飯にするから」と笑いかけてきた。

こんな展開になるとは思わなかった。どっと安心した。


事情はきかれなかった。

でも黙っていたら怪しまれるし、間が持たない。

食後のお茶時間、わたしは勝手自分事情を説明した。

時々、質問された。2人とも真剣にきいてくれた。

奥さんは口に手をあてて「つらいわね」と涙声でいってくれた。

旦那さんも「つらいな、それ」といって黙ってしまった。

わたしは思わず泣き出してしまい、ご夫婦はわたしが泣き止むまで

長いこと待っていてくれた。


それから覚悟を決めて、旦那さんに援助交際を持ちかけようとしたことを謝った。

信じてもらえる自信はなかったけど、今回が初めてだと必死に強調した。

怖かった、もう二度としないと言った。

奥さんは「ああ、そういうことか」と旦那さんの方をちらっと見て笑った。

「成功してたら旦那とあなたをグーで殴るとこだった」

「もうこんなこと考えるのもだめ」

優しく言われた。怒られはしなかった。

「ごめんなさい」と繰り返して、また泣いた。


772 おさかなくわえた名無しさん :2009/07/14(火) 01:33:24 ID:Sz0CHrYx


旦那さんは30歳、奥さんは24歳。新婚さんだった。

「落ち着くまで泊まっていくといい」

言葉に甘えることになった。

翌日、学校先生に連絡をいれてくれた。

「そうですか、よろしくっていわれたよ。冷たいもんだな」

旦那さんは苦笑いしてた。騒ぎになってなくてよかった。

「のんびりしててね」

何日かはそうした。

いつまでも何もしないでいると申し訳ない。

奥さんの家事を手伝わせてもらうことにした。

奥さんは優しくて明るくて、急に姉ができたような気がした。

2人並んで旦那さんに「いってらっしゃい」「おかえりなさい」を言うようになった。

不思議光景だな」と旦那さんは笑った。


夫婦に相談に乗ってもらって、今後のことを話した。

地元が嫌ならこっちで職探ししたら? こうなったら最後まで協力するよ」

そうしますといって卒業式に出るために一度帰宅した。

お寺に行って母のお墓の供養のことを頼んだ。

卒業式の後、安い菓子折りを持って、近所や学校先生や友人宅に挨拶回りした。

父には「○○で働きます。引っ越すので後始末よろしく」とだけ連絡した。

みんな旦那さんのアドバイスに従ったこと。

「それでいい。けじめは大事だよ」と旦那さんに言われた。


773 おさかなくわえた名無しさん :2009/07/14(火) 01:34:16 ID:Sz0CHrYx


父からは卒業祝いか手切れ金か、いくらかお金が振り込まれた。

「いまさら」と腹が立った。

「無視されるよりましだと考えたら」と慰められた。

そのお金引越しができた。


夫婦の近所のアパートを紹介してもらった。

心苦しかったけど、お金を借りて敷金礼金を払った。

アルバイトはすぐ見つかった。

バイトしながら正社員の口を探す日々が始まった。

最初は疲れてしまって、食事はご夫婦のお世話にばかりなっていた。

奥さんが何かと物をもってきてくれた。

2週間くらいで体が慣れて自活できるようになった。


今はある会社で経理事務をやっている。

節約すれば貯金もできる。

正社員として決まったとき、ご夫婦はすごく喜んでくれた。

「娘が独立したみたいだ」と旦那さんは笑った。

「妹でしょ」と奥さんも笑った。

「俺が12歳のときにできた娘」と旦那さんがいった。

年齢でいえばそうなる。

夫婦にいろいろ借りてしまったお金も少しずつ返せている。

まだ先は長いけど。


774 おさかなくわえた名無しさん :2009/07/14(火) 01:35:09 ID:Sz0CHrYx


どうしてこんなに親切にしてくれたのか聞いたことがある。

たまたまだよ」と言われた。

「誰でも助けるかというとそうじゃないが。でも放っとけない」

夫婦のこともいろいろときいた。

わたしほどじゃないけど、お2人ともあまり良い家庭環境ではなかったこと。

それで意気投合して温かい家庭を作ろうと、奥さんが卒業してすぐに結婚したこと。

「そうは見えません。奥さんはずっと幸せに育ったお嬢様みたい」というと

「あら嬉しいことを」と奥さんは笑った。

「俺のおかげだな」と旦那さんがいった。

「でもね、きみには悪いけど、俺たち、きみ以上にきみのお父さんを

嫌いかもしれないよ」と言われた。

子供捨てるような親はね、大嫌いなんだ」と旦那さんがいった。

奥さんが頷いて、わたしの方を見て「ごめんね」といった。


775 おさかなくわえた名無しさん :2009/07/14(火) 01:36:11 ID:Sz0CHrYx


今でもご夫婦のお宅をたまに訪ねている。

仲良しのご夫婦を見るのが好きだから。

自分の両親も昔はこうだったと思うとつらくなる。

でも、このお2人のおかげで将来は自分も温かい家庭を持ちたいと思うことができる。


わたしには母がいた。亡くなってしまったけど優しかった母。

優しかった父はどこかに消えてしまった。

かわりに6歳年上のお姉さんができた。

12歳年上のお父さんもできた。




以上です。

2009-07-28

http://anond.hatelabo.jp/20090728151420

私学もバカにできないと思うけどなあ。

俺の育った田舎だと、公立中高が崩壊しまくり

ヤンキー漫画そのままの不良がわんさかいる。

そいで、育ちのいい奴は小学生の段階で猛勉強して私立の進学校に進む。公立の進学校が存在しないから。

優秀な学校資源を集中するという発想は同意するけど、私学か国公立というのは基準にならないと思う。

大学に関してはMARCH未満は大半潰していいと思う。

新聞の感じもろくに読めなかい奴が相当数いて、とても大学と呼べるレベルじゃない。

2009-07-21

ぼくのいい加減さについて

自分がいい加減な人間だということを認識したのは、高校生の最初の定期試験だった。

いや、正確に言うと、そのときに認識したわけではなく、大学受験に失敗して自分人生について(たった18年だが)反省をしていたときに、高校生の最初の定期試験に対して「ああ、良い具体例だな」と思ったわけ。

 

単純に考えれば、進学時によくある洗礼なんだよ。

進研ゼミDM漫画にあるような、「高校生勉強中学生とは違う!」という脅しのような、でも、実際の話。

 

それまで、つまり、中学までは、自分勉強らしい勉強はしていなかった。あくまで、「勉強らしい」という部分が大事で、まったく勉強していなかったわけじゃない。教科書は配られた日にはあらかた読んでしまっていたし、暇なときも読んでいた。親は漫画やらゲームやらを買ってくれる人ではなかったから、それしかなかった。

そんなわけだから、授業のノート適当にしかつけていなくても、試験期間前に努力せずとも、基本的に成績は超絶優秀だった。当たり前だろう、四六時中、それこそ暗記するまで教科書を読んでいるような人間だったんだから。

これについては、余談だが、言いたいことがある。

子供のときは努力で差がつく。大人になったら努力では差がつかない。才能で差がつく。そして努力しない奴はひたすら落ちていく。」

一般化するつもりはないけど、ま、そんな気がする。

 

で、話を戻そう。想像するまでもなく自分は相当尊大自意識を持って高校に入学した。もちろんトップクラス進学校だ。

最初の定期テストまで、本当に中学校の延長で「勉強」していた。試験前も最初から試験を切っている奴や試験から逃げているような奴と一緒に部活に精を出していた。

いや、結果をみてビビったよ。人生で90点以下の試験なんて、小学校の時に無理やり受けさせられた日能研の全国実力試験の時以来だったから。無理やりというか、母がママ友から「一緒に受けよう」といわれて断りきれなくて、そのとばっちりを受けたのだけど。しかも、あのときは、何十人か一緒に受けた同級生たちの間で唯一全国ランキング名前が載ったし、教科書にない問題は基本的には解けなくて当たり前と当時は思っていたわけだから自尊心に傷は付かなかった。

また、脱線した。要するに、高校の最初の定期試験の点数をみてビビった話だ。平均点以下だった。自分では正解を書いているつもりが、結構間違っていた。しかも平均点以下。おいこいつら、みんな俺より頭がいいのかと思ったら、冷や汗の出る思いがしたが、あとで、話を聞いて驚いた。過去問があったらしい。

さすがに将来シケプリを作成するような連中は違うなと今なら思うけど、まあ、最初は酷く彼らを嫌悪した。

それでも、90点以下の点数を取ったという事実に変わりはなく、そのことが自尊心を大きく傷つけた。それでも「教科書はトモダチ、恐くない」な自分からすれば、試験前の期間に試験対策をすれば、また再び成績優秀者に戻れたんだけど。とにかく、定期試験なんてそんなものだ。自分ターニングポイントは其処だったのだけど、まあ、当時は気が付かないよな。とにかく、いい加減な人間だ。<先頭集団にいられれば、それでいい>と思っているのだから。何か、野望とか目標とか夢とか、そういった焦がれるものがなかった。ただ、「下は嫌だな」と漠然とした感覚だけがあった。だから、ダメになってから気が付く。それは、攻めて行って失敗した<ダメ>じゃなくて、<なんか、これじゃダメ>の<ダメ>だ。

 

部活仲間に「お前みたいに『何でも常識の範囲だろ?』って顔をしている奴はいつか痛い目に合う」といわれたことがある。多分、本人も親や先輩や、塾の先生かしらないが、言われたことがあるのだろう。

一浪して、必死こいて勉強して、東大に入ったが、そこで再びビビッたのは、どんだけ努力しても勝てねぇっていう連中に何人も出会ったこと。何を血迷ったが、自分はそこで降りてしまった。競争することから。意識して努力することから。もとから、そういったものからは半分足を踏み外している状態だったから簡単だった。あとは、もう、流れるようなものだ。「下でもいいか」と。

 

企業に勤めるようになって、クライアントに食事の席で、

「ああ、大学努力しなくなっちゃったパターンだ。」

といわれたときに耳が痛かった。

<先頭集団にいられれば、それでいい>といういい加減なモティベーションは、先頭集団に入れないとなったときに、いとも簡単に外される梯子だ。高校部活仲間に言われたように、僕は痛い目に合った。僕のいい加減さが招いた結果だ。

http://anond.hatelabo.jp/20090718175758

誰もが時が経つとわかるんだよね、「ああ、あの時の自分思春期真っ只中だったんだな」って。

でまあ、だいたい小っ恥ずかしい思いをする。

「親はただ、自分子供に苦労してほしくないと思っていたんだな」

「なぜそれがわからなかったんだろう?なぜあんなにイライラしてたんだろう?」

多少頭の回転が早くても、将来そんな回想をする自分自身までは想像できてないんだろうなあ。

ま、それはさておき。四の五の言わず東大に行け。ダメだったら浪人一浪してもダメだったら早慶に行け。

社会の厳しさについての考察それからでも遅くない。

つーか、東北大に進学しようと思っている理由は?

難易度的になんとなく。世間体的になんとなく。

「てめーの一時の感情に左右されるようなもんじゃねー」とか言いつつ、さしずめそんなところだろ?

地方公立の進学校生徒にありがちな発想。

以下の点についてはどう考えてる?

大学卒業後、どのように生活の糧を得るつもりなのか?何の仕事をするつもりなのか?

・その仕事を得るためには、どのような道を経なければならないか?

東北大からその道に進むことは(特に東大早慶と比べて)容易なのか?

考えた結果、東北だというのなら自分能力を過信しているかリテラシーが足りないか。

考えてないのに東北だというのならただの馬鹿。親を馬鹿にする資格なし。

しかしいい親だなー、東大薦めてくれるなんて。普通は親も東北大で万歳するところだから。

2009-07-20

http://anond.hatelabo.jp/20090720110338

昔からなんとなく、私のことはかわいくないんだろうなと思ってたけど、やっぱりなあ。って。

弟がいるんだけども、学生の頃は一般的に言うヤンキー万引きで捕まったり公共物破損して捕まったり。でも親的には昔から弟のほうがかわいいみたい。で、子供心に私は、どうして弟のほうが好かれるのか分からなくって、良い子になろうと勤めて、勉強もがんばって進学校に進んだし、問題も起こさず過ごしてきたわけ。でも、それは努力で解消される問題じゃなかったんだなあ。実家にかえったときに親の晩酌に付き合っててさ、「私は昔から、あんたより弟君のほうが頭いいって思ってた。努力しなかったからあんまり実にならなかったけど、本当は頭のいい子なんだよ」って母親に言われた私はどういうリアクションを取ればいいのか。

わかるなぁ。。何事もなく「いいコ」に育った子よりも、迷惑かけて苦労させられた子のほうが、思い入れが強くなるって。あるんだよね。切ないことに。すごく理不尽なんだけど。何度も山を乗り越えるって、そういうことだから。親の愛情って、絶対に平等にはなりえないよなぁ。

結局、ヤンキーになったり万引きしたりっていうのは、誰かの注目を集めたくてやっているわけで。彼の行動によって、親の注目がまんまと彼に集まるという構造

ある意味増田は親から見れば「安心してほっとける存在」なんだと思う。そして、弟君は「いまでも、いつまでも心配で仕方ない存在」なんだよね。子供からすれば、等しく注目してもらいたいものだけどさ。

一度時間をとってもらって、母親に対して思うところを(子供の頃まで遡って)全部伝えてみるのもいいかもしれないよ。

それにしても、増田は親想いのいい子供だねぇ。俺なんて、年に2度。母の日誕生日電話するぐらいだったよ。母が亡くなってもうじき5年経つけど、増田のようにマメに連絡してればよかったなぁって思うことがよくある。

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