はてなキーワード: 柳美里とは
はてブ民の反応
柳美里という作家がいる。プライバシーを切り売りするタイプの小説をよく書いている。
他人の障害や出身をネタにする『石に泳ぐ魚』という本を書いて裁判にもなった(最高裁まであがいたが、柳が負けた)。
柳には内縁の夫との間に生まれた息子がいる。柳によると、ADHDで虚言癖があるのだという。
2008年に柳は息子の泣き顔写真とともに次のようなブログを投稿して、大規模な炎上に発展した。
「あまりに嘘つきなので(そして次から次へと嘘をつきつづける)朝7時から15時までひっぱたきまくり、学校休ませ、罰として朝食も昼食も与えていません」
「糞野郎ッ!」
「このまま育ったら、嘘つき演技型の犯罪者になるかもしれない」
柳はこの炎上騒動について
「ひとことだけ言っておきますが、『今日のできごと』は、『交換日記』と同様に、広義な解釈で『フィクション』です。どういう写真に、どういう文章をつけるかは、かなり計算しています」
と言って「フィクション」だと主張し、鎮静化をはかった。
児童相談所が調査に訪れたりもしたが、柳のブログ以外の証拠がないため、それ以上の進展はなかった。
息子が本当に「嘘つき」なのかどうかはわからない。
確定的に言えるのは、柳にとってブログは真偽を問わない創作の場であり、世間の注目を集めるために息子の虐待ネタを使ってもいいと考えているということだ。
昨日、柳は「授業中の骨折事故後の柔道強要による頚椎損傷事件の経緯」というブログを公開した。
学校教師の非道によって息子が怪我をしたということを実名つきで告発するものだ。ツイッターでもやってる。
つまり、「ヤベェ性癖持った奴も、コッソリその性癖を持ち続ける自由がある」みたいな意味?
誰かに自分の性癖がバレたとしても、「あいつはアナルオナニーするぞー」と触れ回られない自由ってことか。
えーと、それって結局普通の法の範疇じゃないか?「内心の自由」だと思うわ。
その領域に辛うじて近い思想家といえば、ジュディス・バトラーかなぁと思うけど。
あれは「世界の色んなセクシャリティのみんな!自分で「変態」(クィア)という称号を名乗ることで
「変態」(クィア)の意味を無効化しちゃおうぜ!みんなクィアなのさ!」
って理論だし、そもそも性癖のようなものが内心の範疇っていうのは現代法ではむしろ常識の範囲だろうし。
その部分を今更理論付けてる思想家って、ちょっといないと思うなぁ。
そもそも、「プライバシー」って感覚が構造主義以降の思想とはあんまり馴染まないし。
むしろ、「内容が事実であっても名誉毀損が成立する」っていう辺りの普通の判例引っ張った方がいい気がする。
柳美里の判例は、「セクシャリティ」が表現の自由を打ち破ったわけじゃないしね。それはあんまり関係ない。
他人の話をそれが誰か特定できる形で出版して訴えられたら、そりゃ負けるよ。しっかし、柳美里はキチガイ過ぎてどうしようもない。
別に論文を書くというわけでは全くないのだけど、プライバシー(自分の領域)とセクシュアリティ(性・性欲・性癖)の関係を描いた学術書って何かないですか。
表現の自由に関して、セクシュアリティでどうやって表現の自由を破ることができるかいろいろ考えていたんだけど、柳美里の『石に泳ぐ魚』裁判でプライバシーが表現の自由を破れることを思い出して、「あっ、しばしばいわれることだけど、セクシュアリティがプライバシーに含まれるとかだったら、セクシュアリティによって表現の自由を破ることも可能じゃね?」と今考えているところなのです。
ということで、「セクシュアリティがプライバシーに含まれる」ということを何か説明している学者や学術書を求めています。
何かバタイユとかレヴィナスとかフェミニズムとかがそういうの扱ってそうだけど、何かいいのないでしょうか。
ググっても上野千鶴子の説とその批判が出てきたり、ホモセクシュアリティの話が出てきたりして、クエリの投げ方がよくないんだろうな。
本当は国家行政や地方行政が表現を規制するのは全部NGというのが基本です。
表現の自由は人間関係や社会を構築するコアの一つで、これを破るにはプライバシー(柳美里とか)や、絶対であるべき思想・良心の自由および生命・身体の自由くらいの強力な人権が要る。
個人主体ではない、社会全体の概念である、公序良俗やわいせつの人権で破るのは大変筋が悪い(破れる、と根拠なく思っている人が多すぎるけど)。
これは自由主義以後の鉄則で、これを守らない国は基本的に自由主義国家ではない(この定義だと自由主義国家は世間で言われているよりかなり少なくなるが)。
自由主義より優れた人権思想があれば別だけど(普通はこれに民主主義と立憲主義が結合するし、場合によっては社会民主主義か新自由主義が結合する)、まだない。
ん? 名誉棄損は表現の自由を成立させている要件である「他者」を危害に晒すという根拠があって、表現の自由に優越しているんじゃないの?
上位原理(コミュニケーション)を損なわないために下位原理(他者)を保護しようということじゃないの?
性愛もコミュニケーションの下位原理の一つだから(ただしそれほど重要ではない。コミュニケーションには情動が普通必要だけど、性愛は情動の一種にすぎないし、特に人間は性愛以外のコミュニケーションが多い)、コミュニケーションを損なわないためには性愛を保護しなければならないんじゃないかな。
表現の自由より下位で保護されるべき原理となると、身体の自由や思想・良心の自由やプライバシー(柳美里とかあったね)や他者危害など極めて限定されると思うけど。
演劇の柳美里さんが自分のルーツを遡る番組を、NHKでやったのを見たことがある。十年以上前。
お父さん(故人)の友達を見つけて、朝鮮在住時代の父の話しを聞こうとしたら、
「あなた、朝鮮語できますか?」と聞かれた。
できない、と答えたら、
「それならば朝鮮時代のお父さんの話しはできない。日本に来てからの話ししかしない」って言われて、
柳さんベソベソ泣いてしまったんだよな。
そしたら
「あなたが悪いわけではない、朝鮮語を教えなかったお父さんが悪いんだ」と慰めて。
その番組見たときは(大変だな)としか思わなかったけど、それから柳さんの人生やらキャラクターを
知るようになって、柳さん個人がどれだけショックだったのか想像するに、驚いたよ。