はてなキーワード: 帰属意識とは
たぶんいろんな側面の話がまじりあっててこの話は面倒。
あと、初詣に行っても信仰心は芽生えない、ってのは必ずしも正しくないと思うよ。日本人の宗教観は柔軟だけど、信仰心がユビキタス(宗教用語としての)に存在するため見えづらいだけだと思う。内心どうでもいいと思ってるなら、初詣なんかいかないよ。
俺はおそらく増田言うところの「それなりの年齢」だけど、帰属意識の欠如が起こす問題って、
横だが、社会を社会として保つ(=「崩壊」させない)ものってのは、社会への帰属意識(たとえば愛国心、愛社精神、愛校心、などなど)なのか? それは違わね?
その手の「帰属意識には重要な機能があります(だから持つ必要があります)」っていうロジックの怪しさと押し付けがましさには辟易するよ
これ酷いな。
「お前ら、この社会をちゃんとメンテしとけよな、俺は嫌だけどw」か。
記念トラバしとこ。
その手の「帰属意識には重要な機能があります(だから持つ必要があります)」っていうロジックの怪しさと押し付けがましさには辟易するよ
その属性を持つ事による利益を存分に享受しておきながらそこへの帰属意識を頑なに否定するってのは第二反抗期特有のものだね。
貴方の年齢は知らないけど、もし若いのなら「まあ、そのうち分かるよ」とだけ。もしそれなりの年齢なら「日本ってつくづく平和やね」としか。
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/33225
僕はあまり普段から興味持ってない人。手塚漫画とかガンダムの人の漫画でアイヌのことは知ってる程度。
当然、例に挙げられていたような本は読んでないし、知り合いにも居ないな。
で、感想。
僕の生活範囲内ではなかったのは事実。東京在住、北海道の友達は居るけどちゃんと聞いたこと無いな。
で、何を持って差別が在るとするのかって、境界は難しいと思う。
理不尽な思いをしたときに、その原因は自分が被差別民族だからだと思う事は多々ありそう。そういう主張を
かき集めたら、差別は在るって事になりそうな気がする。
被差別者として差別の存在を主張したい気持ちと、利権に絡むいやらしさと両方あるとおもう。
僕は小学生からプログラミングにはまってたけど、いじめに近い状態のときに、パソコンだらけだった境遇のせいだと思った。
そんとき、ああ、わかりやすい原因があると、それを理由にしがちだなと思った。
同情してもらいやすい不幸と、説明しにく不幸がある。
後者が前者を妬む事もあって「お前らの受けた不幸なんて差別なんてたいそれたものじゃねーだろ、うぜえ」ってね、
自体は複雑になるんだと思う。
・被差別主張全般に対する厄介感
僕なんかのほほんと生きてるほうなので、(時に自殺したいとか苦しむこともありますが)
平和なときに、メンドクサイ主張を聞きたくないっていうのもあるね。
在日も部落もアイヌも、うぜぇね。内心にこっそりそういう部分ある。
冷静に考えれば十分同情に値するかわいそうな境遇だってこともわかるけど、それをちゃんと調べて理解して同情するのってコストが結構かかる。
疲労するね、つかれるね、善意をちゃんと維持するの。
だって、無関係なんだもの。私の人生には。
・本読んだ?
「本を読んだか読んでいないかを答えるつもりは無い」って先に名言すればいいのに。
なぜ、答えないのかにはいろんな理由があっていい。それを読んでない後ろめたさだと決め付けられたら否定すればいい。
否定した上で、答えない理由にこだわるのは本題からそれるから、別の機会でいいと思う。
「アイヌなんて嫌いだ」と言われる事が差別なのか、それはオタきもいと言われるのとどう違うのか。そういう所を話すべき。
・大学進学率
実際に合否の判定にアイヌ民族の血統であることが左右された事例がどのぐらいあるのか、それが知りたい。
本買うのはめんどうだなぁ、どっかのサイトにまとまってる?でも、実態調査なんてできないだろうからなぁ。
で、最終的に大学進学率が低いっていうのは、どうしてなのか。合否判定に影響してなくても
ほかの原因が進学率の数字に出ることもあるんじゃないの。地域によっても進学率は違うし、男女だって違う。年代でも違う。
アイヌの拘りが住居地域に現れて進学の交通不便さが影響して進学率の数字に影響するとかさ。
正直、大学がアイヌ族を落とすようなことしてると思えないんだよね。僕の生きてきて出会った人でアイヌは徹底的に調べ上げて排除してやるなんて差別意識もってる人いなかったもの。
応募書類にアイヌ族かどうか明記しろとかそういう事例もあるの?そういうの書かないでも大学側が調べられるの?
結果的に進学率が低いんだって数字をみつけて、差別があることの補強材料にしてるのが、どうも無理やり感を感じる。
在日朝鮮人も嫌ってるようだけど、被差別主張に嫌悪をもってるんだとおもうなぁ。想像にすぎないけど。
彼のような人がいる事が、差別が有ることの証明だって意見もあったけど、
・最終的にどうなるのがいいんだろうね。
個人的には、アイヌも在日も部落も無くなっちゃえばいいと思うんだけど、これはもちろん暴論で無くしたくないって思ってるから無くならない。
民族意識とか狭い帰属意識を主張するともめる。もめない為にはもっと大きな帰属意識にしていくしかない。
アイヌ人がその立場から和人を和人呼ばわりするのだって、数の違いでしかなくて、根本的には差別と同じなんだと思う。
和人はアイヌを差別している差別主義者呼ばわりされてるわけだし。してないし、知らないことが差別?違うでしょう。
とか言うことをもんもんと考えました。
自分で考えて確信に至れるかを問題にしてるのだから、主体的という言葉の意味には当然、
オマエの言うような「主体的に真理探究を捨てる」ということは含まれないのだよ。
.
こういう、感情的反応に左右され過ぎて、素直な受け止め方ができなくなってる人間が非常に多い。
それは何故かというと、自分が(借り物にしろそうでないにしろ)何らかの価値観・思想・行動規範に属しているという
帰属意識が過剰にあって、中立的な立場で外部からの情報を受け止めることが出来なくなっているからだ。
自分の属する立場と反する考えを言ってる人間が現れると、意識的にしろ無意識的にしろ敵であるとみなす。
だが、真理探究という立場からすれば、向かいあうべきは、対立する立場の人間ではなく、真理なのである。
向かいあうべき方向が狂っている、ということになる。
.
一応念を押しておくが、だからと言ってオマエのその生きる姿勢を全否定しているわけではない。
ただ、あくまでも一つのヒントとして言っておく。それでは苦しいだろうと。
「敵」に向かいあう前に、じっくりと真実と向き合う時間を取ったほうがよっぽど有意義だし心も落ち着くのに。
そのことをよく考え直してもなお、借り物のほうが楽というならあえて止めはしない。
それくらい真実と向き合うのは難しくて苦しいことであり、一部の選ばれた人間にしか実践しにくいところがあるのは確かだ。
一度向き合ってしまえば、以降は楽になるから勧めてるんだけど。
自分だったら
何十人もフォローするのが苦痛。
これより先に、いやまっさきに
そもそもみんなよろしくやってるのに声がかからんかったっていうのは私が参入したら迷惑だろう…
これが浮かぶかな。なんで呼んでくれなかったの!!!?????ってなっちゃうな
ネトゲのギルドつながりで知り合って、今はゲーム自体よりもリアルで絡むのが主体になった人たちがいる。
いい歳になってきたしリアルも忙しいし、何よりもうそろそろゲーム自体が寿命なのだ。
現状はこいつらと飲んだり食ったり行楽したり新しい漫画アニメゲームを薦めあったりしたい、というコミュニティであって、ネトゲという共通の趣味はもはや発端でしかない。
で、元からリアルでの交流も多かったのだが、交流の主体としてはmixiが用いられていた。
旅行の計画だの、やれ上京するから暇な人迎撃してよ!だの、楽しく遊んでいたつもりだったのだが…
ここにきてツイッターである。
いつの間にかmixiでの発言やら日記やらが減ってきて、ああついにこのコミュニティも衰退して疎遠になっていく段階にきたのかな…と思っていたら、みんな何も言わずにツイッターに移行していっていたのだ。
ふとした興味で、ツイッターをやっていると公言していたギルドメンバーのアカウントを糸口にフォロワーをつたっていったらこれが出てくる出てくる。
活発度はギルドの全盛期そのまま。
だったら自分もアカウントとって、となるのが普通の前向きな発想なんだろうけど、私の場合そうならなかった。
何十人もフォローするのが苦痛。
クラスタだのハッシュタグだの、沢山の人をフォローしたり沢山発言したりすることで帰属意識を高める要素みたいなのが苦痛。
そもそもみんなよろしくやってるのに声がかからんかったっていうのは私が参入したら迷惑だろう…
というところまで至って、あーこれ非コミュの発想じゃないか。となった。
楽しく交流できてると思っていたのが間違いだったのだろう。
みんな楽しくやっていってください。
「サラリーマン」と括ってしまうことで拡散してしまうものがあると知りつつ、ひとつの視点を提案してみたいです。
あ、三十手前職歴なしのたわごとです。
あとは貶すなり加えるなり好きにしてください。
帰属意識という点で、あらゆる伝統技能職や専門職よりも職人(あるいは奉公)精神を求められるのが、現代のサラリーマンなんじゃないか。
そう考えることで、よくわからない精神的敷居の高さ、正社員にあらずんば人にあらず的な空気、新卒>>>>>>既卒+経験、という現象の一旦が説明できないだろうかと思う次第です。
変なタイトルつけちゃったけどさ。私が言いたいのはね。
そうした職人精神とか、「社畜」の心意気みたいなのは、あってもいいと思う。立派に働いている友人たちは尊敬してる。
でも、それが日本的な相互監視と相まってできた「空気」に追い詰められた人が「自死」を選んだとき、その人の弱さのせいみたいに言うのは、やっぱりおかしい。
だから、私はもうすぐここから逃げるつもりです。
何度負けたって、それが死でなければ、人生は続くのだから。
「空気」を喜ばせるより、こんな私でもいて欲しいと言ってくれる人を喜ばせるために、これからは生きてくつもりです。
先ず最近特に思うのは、140文字の中で@なんとかRT:だのQTだの、せっかくでっかい独り言を言うだけの場所だったのに
無理矢理な使い方に広げて行こうとしてる、という事。
twitterは「相互で」コミュニケーションする事を強要されないから、独り言の様に気易く参加出来るんですよ。
って「元々」の考えは理解出来るし、後発のコミュニケーションサービスとしてはそういった新しいパラダイムは
必要だと思うけど、相互じゃ無くて良い、言いっ放しで良い、けど、そんなでっかい独り言をせっかくだから
誰かに聞かせられる場、ってのに意味があるんだろ、その意味が「ビジネスツール」なのか
アピール下手の為の「ハードルの低い出会い系」なのかは知らないけども、どちらにしろ人を集めれなきゃ
存在する意味さえ無いし。
なら、フォローなんて考えむしろ要らないでしょ、参加して直ぐは全員のツィートが表示されているし、
(まぁさすがに読めなきゃ意味ないだろうから、表示言語圏の選択くらい出来ても良いだろうけど)
自分の発言は全員に見られる、それが何万人相手だろうが。
で、そこから見てて興味が無い独り言やウザい奴だけブロックしていけば良い。
それがメンドクサイとか使いづらいって思うのなら、つぶやきを垂れ流すサービスじゃなくて、
もっと発言や遣り取りの流れを管理して行える他のものを使う方が良いだろうし。
それなら全員コテハン前提のスレッドフロート掲示板で「>>」で発言をツリー形成して追いかけられる、
とかの方が遣り取りのし易さでも、TLの見易さでも、参加しようとする他の人が状況を把握する上でも
良いだろうに、と思えてならない。
で、何が言いたいかって言うと、結局は日本においては2chがいかにコミュニケーションの場として
完成されているか、ってのをtwitterによって意識しただけだったと。
日本では2chがコミュニティの有り様として完成し過ぎていて、それが、物珍しさが過ぎるとfacebookも
tumblerもおそらくtwitterも下火になる理由なんじゃないかな。
あれだけの参加人数が、あれだけ集中して発言しあっても、議論したければそれが可能だし、言いっ放したければ
それも可能で、混沌としてるとは言われつつも、独自の空気感や、そこから一般社会へのトレンドすら生み出せる
擬似的な一体感や、それを守ったり育てたりしていける帰属意識みたいなものを、錯覚させる事も出来る、
もうコミュニケーションの器として他のものとは比べ物にならないくらい、完成してるし、システムとしても
無理無く誰でも扱い易いって事でもある。
匿名である事が問題だとかは、個人的には、「自由で活発なコミュニケーション」の本質にとっては、重要な事だとは
とても思えないけど、ある程度の品性やmixi程度の顕名性が必要とされるのなら、単にスレッド式掲示板に、
ID登録を必要とさせてプロフィールページがあれば良いだけなんだし。
マーケティング媒体としては、失敗したセカンドライフや、すぐ炎上する扱いにくいブログを絡ませるより、ハードル低くて
利用し易そう、って流れが出来たらもう終わりは近いでしょ。
入社時点で若干のプログラミング経験あり。オタクであり、仕事オタクでもあるので、仕事に対するモチベーションは基本的に高い。かつ対人関係を余り気にせず自分の仕事に没頭するので、それほどストレスをため込まずに安定的に仕事をこなしていく。現場でプログラムをこなすことに生き甲斐を感じるタイプで、管理者をあまり志向していない。後輩育成にはそこそこ熱心。反面技術面でのプライドが極めて高く、誤りを指摘されると極端に落ち込む。意外なことに会社に対する帰属意識は比較的高い(かつ、自分から一度できあがった環境を出ることが苦手)ので、会社に居着いてくれる可能性は高い。
入社時点で若干のプログラミング経験あり。仕事熱心で生真面目、周囲に対して繊細な心遣いができるタイプなので女性陣にもてる。反面、組織の理不尽を見逃せず、先輩には煙たがれる。気持ちが言動にストレートに出るタイプなので、本人の気分が不安定な時には周囲も巻き込むことになる。長期的な視野よりも、目の前の仕事をこなしていくことに懸命になってしまう性格で、なんでもかんでも一人で抱え込む傾向が強く、こまめにケアしてあげないと、ある日突然メンタルヘルスが不調になって出社しなくなったりするので、注意が必要である。
入社時点では完全な素人。文系大学出身のお調子者である。明朗で元気だが、基本的にうっかりしており、細かなミスを連発する。人の話も基本的に聞かない。それでいて、天性の勘で仕事をこなしていくが、理屈ではないので、何を考えて仕事をしているか周囲の人間が聞いても納得の得られる回答はできない。どんなにデスマーチな現場でも元気で明るいので向いた仕事があれば重宝される。吸収力はあるので、時間経過に沿って落ち着きと実力が備わってくることが期待されるが、基本的に組織に対する帰属意識が余り強くないので、油断すると転職して外資系企業に飛び出していってしまう。
入社時点で若干のプログラミング経験あり。適度に仕事熱心で、適度に友達づきあいをし、精神的にも安定していて、技術面も社会性もバランスが取れて高い。まさに見本のような新人であり、社内でも取り合いになることが予想される。独身ばかりの社内にあって、入社後数年で、あっさりと大学のときから付き合っていた彼女と結婚したりする。後輩ができれば良い兄貴分をこなし、組織のリーダーとして振る舞うこともできる。これは会社を背負っていく人材だと周囲が安心していると、突然嫁さんが始めたパン屋を手伝うとかいって退職して専業主夫になってしまうので、注意が必要である。
入社時点で十五年以上のプログラミング経験がある。過去から現代までの幅広い開発知識があり、嘘くさいほどの技術力で、最初から社内トップレベルの技術者として入社して来るため、受け入れ側でもトクベツな新人として扱うようになる。実際突出した技術力でなんでも一人でできてしまうので、まったく手が掛からないどころか、社内の大人たちに対してプレッシャーを与えるタイプである。天才的なひらめきで、次々と新しい技術的発見を成し遂げるものの、反面、周囲の人間との関わりが少ないためか、対人関係への興味が薄く、一言でいって薄情であり、入社後の人間的成長はあまり見られない。
入社時点ではプログラム経験はない。文系で真面目に部活動などをこなしてきていて、リーダーを志向する気持ちが強い。とはいえ、まだまだ管理者としての経験が薄い机上の軍師であり、実際にチームをまとめる能力はない。成長するに従って現場のリーダー、管理者へシフトしていくが、技術者としては中途半端な人材に育ってしまう。ほっておくと、個人的な動機で会社を飛び出してしまう。
自分のことをまったく話さないので、どの程度の実力があって、何に興味があるのか誰も分からないが、仕事を与えてみると仕事だけはこなす。過度に対話が苦手で、それが原因で何度も失敗するが、自分から改めようとすることはない。それでいて会社の集まりには決まって顔を出すので、特に会社を避けているわけではないようだ。
まず、意味あるの?って何なの?意味ないと死ぬの?意味があることによって、何だ。君の人生に大きく影響するのかね?
だめだこれじゃマジレスじゃないな。
にゃんとー。
小学校と中学校には本当にいろんな奴がいたと思う。記憶がおぼろげな事と、そんなに深く考えていなかったせいか、はっきりとしたことは言えないが。目に見えるはっきりとした格差が存在したと思う。学校に真面目に来ない不良というのがいた。もちろん真面目に来ないというのは文字通りの意味で全く学校に来られない訳では無い。パフォーマンスだったんだなぁと思う。そうやることで自分は特別だ、とまではいかないとしても、当たり前であることから逃げていたんだと思う。たいていの家庭の親はそんなのを認めないから、結果的にそうなっているのは、放任されている子供ばかりだった。改造制服を着ているのも決まってそう言う生徒だった。完全に一種のテンプレートである。ただ先生の言うことを全く聞かないわけでもないし、学校でのべつ幕無しにけんかをしているわけでもない。一種のファッションみたいだった。そう言うファッションみたいなものの中に、茶髪にする事、ボンタンをはくこと、ルーズソックスを履くことと同じように勉強をしないというのが存在していた。下手したら自分は普通じゃない。という自己肯定の中には勉強をしないと言うことが含まれているのでは?と思う程度に。
少し見方を変えるとそれはそれで帰属意識じゃないのだろうかと思う。勉強をあくせくやるのはスマートではないという空気はあったし、そもそも真面目というのはあまり好まれるレッテルでは無かった。そんな中で、不良とかやんちゃとかいうレッテルの中にいればそこまでカッコワルイという感じではなかった。そんな中で彼らも彼らなりにそういう空気を敏感に感じていたのだろう。しかもそういうグループ内で勉強をしているだなんてことはとても信じられない行為であっただろう。
脇にそれた。本題に戻ると、勉強に意味があるかと感じる様な層はそもそも勉強をしようという動機付けは皆無であるように思われる。しっかり勉強をした方が得だという空気は高校に入ってからであったし、地方の進学校程度ではその中でも十二分に諦めてしまっている人間はいた。現在の小学校、中学校がどのような状態であるかは知らないが、おそらく上で述べた、
は解消されていないであろう。そもそも中学程度までの学習は一般教養ではないのか?と感じる。
そして一番酷いのは現在の新卒の雇用状況を全く知らないまま義務教育を終える事だ。中学の学年主任の先生が中小企業を揶揄する様な話をしていて、その頃新聞の赤旗と朝日により少々左に染められていた、自分には信じられなかった。今考えるとある程度は正しい事をいっている気がする。(というかほとんど正しい)
全力でマジレスしてみた。
ブクマコメで温かいお言葉をたくさんいただいてしまった。大変ありがたい。
優しいのは私の周りにいる人達だけじゃなくて、多分世の中には優しい人が大勢いるんだろうと思う。あんまり優しい人が多いものだから、私はちょっと世の中をナメてしまいかねない。そんな生やさしいもんじゃねえぞと言ってくださっても構わない。
色々言っていただいたので、軽く追記しようと思う。
まず、自分について把握していること。
重症軽症という言葉を使ってしまったが、これはいわゆるトランスセクシュアル、トランスジェンダーと呼ばれるもので、前者がいわゆる性同一性障害の中核群、後者は肉体を変えたいとまでは思わないが性別違和があるというものである。ともに性同一性障害として認知されており、私もこの後者の部類であるものと自分では思っている。
とは言え、広く一般のトランスジェンダーに対し「覚悟がない」だとか「肉体の性別で生きていくという選択肢もあるんじゃないの?」などと言う気は全くない。今回ぼやいているのはあくまでも私個人の問題だ。あくまでも私が、私の中にある不安のために、私を宥めてみたり鼓舞してみたりしようとしているだけだ。以降も、そういう文脈と思っていただきたい。
考えていたこと。
前回のエントリで
この辺りの「どっちでもいいよ」感というのが、非常に微妙なところで、批難されるに値するところだろう。
と書いた部分が、どうも人目に止まるものだったようだ。実は、指摘を受けてぎくりとした。
この文章自体は、実のところ何の気なしに書いた。ただどうも色々露呈してしまったらしい。つまり私は、そもそも心のどこかで、「どっちかであるべき」と思ってしまっているのである。
自然の摂理とかその手のものを持ち出すつもりはなく、それは一種の「しめし」の問題だ。
つまりこういうことである。「特殊」な人間がそれを白日の下にさらけ出して生きるなら、それ相応の、格好よく言えば「覚悟」のようなものを示すべきなのではないか、それが大人としての礼節であり責任というものではないのか。そして実際そのくらいでなければ、世の中渡っていけないんじゃないの、という。
以前友人の一人が、私がこのような人間であることを知らないままに率直さをもって、このように言ったことがある。「オナベって、美人じゃないと説得力ないよね」。正直に言うが、私は納得しさえしたのだ。このように思っている人は大勢いるに違いないのだろう、という点において。
私たち(私は性同一性障害というものになにか帰属意識を持っているわけではないが、こう言う)はどう言い繕っても特殊である。特殊な人間は多分、普通よりもいろんなものを持っていなければならない。嫌悪されないだけの人格や、社会から不要と見なされないための能力。軽蔑したがる人につけいられないためには隙(醜さもその一つだ)があってはならず、見当違いな憐憫を浴びないためには生まれ育ちが不幸でない方がよい。あまりにも乱暴な物言いと呆れられるかもしれないけれど、それが実際のところなんじゃないのと思っている。
だから常に毅然としていなければならない。物事をよく弁え、その上で覚悟を持ってこの生き方を選択したのだと言うことができなければならない。不快だと顔をしかめられても、だけど仕方がないじゃないですかと言えるだけの、こちら側から示せるもの。それがつまり「しめし」と言ったことの意味だ。
ちょっと格好をつけ過ぎたので恥ずかしい。繰り返すがこんなこと、他人に押しつけるつもりは毛頭ない。そもそもいつでもこんなことを考えているわけじゃなくて、冒頭にも言ったように、「世の中結構なんとかなっちゃうもんでしょう」くらいのつもりで日々生きている。
けれど多分心底には、このような物事の捉え方があるのだと思う。だから前回のエントリで「批難されるに値する」と書いた。
そして、けれど、多分本当のところは、こういう考え方がちょっとおかしいんだということは、自分でも薄々分かっている。前段落で書いたことのうち、まだしも尤もらしいのは「覚悟を持って選択した」あたりくらいのものだ。それ以外はクソみたいな「べき」論だ。
考えてみること。
本当は、「どっちでもいいよ」と言ってしまいたい。どっちでもいいんだけど、どっちかと言ったら男として生きたいと思っていて、どちらを選ぶかは自分の勝手だから勝手にするんだよ、何と引き替えるつもりもなければ何の努力も払うことなしに、当たり前みたいな顔でそうするんだ、と、そういう風に言ってのけられるようになりたい。
私は、そうする権利を持っていないつもりでいる。心のどこかで、それは不当に失ったものだと思ってさえいる。
だけど多分ここに書いたようなことは全部、何もかも、自分の一人相撲でしかないんだろう。規定しているのは自分自身で、だから必要なものがあるとすれば、それは「自分で選んで、自分で決めるんだ」という覚悟だけだろう。それがありさえすればきっと、「どっちでもいいよ」と言い切ることもできるようになるんだと思う。
長々しい愚痴に対してのご静聴、ありがとうございました。
そういえばここに至るまで、私が感じていると主張するところの「性別違和」や「どっちでもいいや」感の実態というものに触れていなかった、と思い出したのだけれど、それはここで問題にしたいことではない気がするのでやっぱり書かない。あまりにも長くなってしまうこともあるし。
性同一性障害の人はネット上にたくさんいて、私よりも心情吐露に優れた人もすぐ見つかるだろうと思うので、そちらをあたって「こんなようなものなのかあ」と読んでいただければ、それでいいかと思う。
元増田です。
口が裂けても積極的だとは言えないスタンスではありましたが一応さぼらず参加してました。
やる気の無い人間がしゃしゃり出てもアレだと思いますし。
あーそういう事情もあるか。全く知らなかった訳ではないけど、クラスにも学校にも帰属意識が低かったので、集団の評価とかどうでもいいやとか思ってました。
自分の意思と無関係に参加が決まってしまう行動にはどうも腰が上がらんのです。バイトと重なった場合は断りを入れて帰りました。バイトは好き好んで参加しているので。
団体行動特有の盛り上がりを強要するような雰囲気にどうにもついていけません。そんな人間がなまじ関わりを増やすと恨みを買う事が増えるのです。
期間は2週間でも悪評はずっと続く事が多いじゃないですか。その後の学生生活が凄まじく面倒になるのは困る。
就職して親元を離れてから盆と正月には実家に帰省してるけど本当は面倒くさくてあまり帰りたくない。
親孝行だと思って我慢してるけど、正直なところ、1年で盆と正月とGWしかまとめて休めないのに実家の帰省だけで終わってしまうのが嫌なのだ。
こんな風に書くと両親と仲が良くないかと思われるかもしれないけど、両親ともに嫌いなわけではなくそんなに仲は悪くないと自分では思っている。
しかし、実家の居心地の良さを感じず、そのことを自分でも不思議に思っていた。
何故かとしばらく考えてみたけど、小さい頃から両親は共働きで自分はあまりかまってもらえなかったので家庭への帰属意識が低いんじゃないのかなぁという結論に至った。
果たして自分は、自分を犠牲にしてでも親孝行するべきか、それとも親を犠牲にしても自分のために生きるべきかどうすればいいんだろうか。
いい加減に「正社員」を雇用形態や人生のキャリアプランの最上位にあるという前提で語るのはよさないか。
そもそも「既婚、正社員」組と「独身、非正規雇用」組が勝ち組・負け組みに分かれているように見えているのも本人の思い込みのような気が。
多分、独身者は良い意味でも悪い意味でも独善的で、そういう人間は家庭を持つことをうざがるし、さらに会社に帰属意識を持つこともうざがることがあっても不思議じゃない。
「なんとなく家庭を持って結局独りよがりに生きて、かつての父の様に嫁や子供を不幸にするぐらいなら最初から結婚しない」という人間は居る。