はてなキーワード: 帰属意識とは
これは多くの非モテにとって理解しにくいのではないだろうか?
しかし、これは重度非モテ階級からすれば至極当然のことなのである。
そしてモテない原因は大別して3つあると考える。
このうち1つでも問題がある場合、非モテとなるわけであり
複合的である場合も多々あるわけだ。
実際には1によってこじらせた2が主原因であるが自覚はない。
イケメンでさえあればこんな惨めなことにならなかったという意識と
醜いことへのコンプレックスは半端ではないのだ。
そしてイケメンに対する嫉妬と憎悪も並々ならないものがあるのだ。
確固たる信念をもっていて、これがすべての行動原理となっている。
そもそも他の非モテとの認識のズレを生じさせている自覚もない。
集団への帰属意識が高いことが挙げられる。
なぜかはよくわからないが、日常的に虐げられている彼らは
また同様の境遇の者で集まれば差別されないという思いも強いのだろう。
そのとき彼らの敏感なセンサーにひっかかったのが
これを非モテSNSから排除しようと一生懸命になるのも無理はない。
だからオフ自体のシステムに反対する理由などないし、重要でもない。
いくらオフのシステムを改正しようと説得ははじめから無理なのだ。
真摯に理解し納得してくれれば、誤解は解け融和することができる。
だが、上でも述べたように彼らがモテない主要因は2なのだ。
今までの人生において味わってきた不条理なまでの仕打ちにより
円滑なコミュニケーションをとるのは難しいかもしれない。
多く見積もっても15%以下ではないかと思われるので
多数派の圧倒により、恒常的に劣勢に立たされてしまう。
結局は劣勢を挽回するどころか墓穴を掘って自滅することになる。
タレントが酔った勢いで全裸になって逮捕されて損害が1000億とかいう見出しをみたが、ほんとなの? その金は、分類すると、1)人に何かを伝えるためのコスト(広告) 2)単に注意を引くためのコスト(広告と広告の間の番組) の2つでいいの?
報道のされ方をみるとビッグネームなんだろうけど、テレビなんてもう10年ぐらい見てないので知らないんだよね。あと、広告・テレビ業界における1000億の価値もよくわかってないし。
サラリーマンの生涯収入って数億の下の方だよね? 仮に年収1000万×30年として、サラリーマン300人以上の損害? よくわからん。
ものを伝えることは大切な仕事だと思うけど、コストをかけすぎなんじゃないかと思う。そりゃまあ、視聴者だって何十人何百人と人の顔と名前覚えてられないから、アテンション力のあるタレントってのは貴重なんだろうけど、逆にいうと知られてさえいればだれでもいいわけでしょ。
あ。
国民的アイドル=大雑把に1億人に知られているとすると、一人あたりの損害額は1000円か。良質なアテンションの対価としては妥当な気がしてきた。うーん。
しかし、そう考えるとテレビの力の源泉ってのはアテンションなんだなぁ。大きな物語の喪失、だの、帰属意識の細分化、だの、趣味の多様化だの、情報の洪水だの、力道山が活躍してたころのテレビはみんながかじりついてた、だの、アテンションのバルク性の喪失だと捉えるとメディアの未来がみえないかな?
素朴にネーション(民族)=ステート(国家)を信じているわけではないけれど、
年金もらうようになるまで、働いている間は、
再分配のスポンサーになるわけで、
じゃあ誰を養うのに税金使うのよ、というところで、
今のところ日本人、という以上に納得できる線引きは無い。
(いずれ所属を何層かのレイヤーごとに選択し、
各自の帰属意識によりフィットするようになれば一番いいとは思う)
失業者になるかもしれないし、
老人ホームのお世話になるまで生き残るかもしれないけど、
外人になった上で日本に頼るってシチュエーションは想定できない。
だから、外人まで面倒みるなんて、母集団の設定が狂った割に合わない
保険をつかまされるのは勘弁。
俺は、某所に貼る為に描いたネタ絵とかを自分用保管庫として、自分のサイト作るのめんどいからpixivに貼ってる
自分をお気に入りに入れる人の大半は帰属意識持ってる匿名掲示板の住人だけど、たまーに。本当にたまーに自分の絵をお気に入りに入れてくれる自分が所属してる身内以外の人がいると嬉しくなる
あとさー、帰属意識が強いジャンルに所属してない人の絵って、凄く上手くても閲覧数やお気に入り少なくてビックリする
俺なんか、身内でだけ通用するオリジナルキャラ貼ったら閲覧100は2,3日でいくのに
すっげー力入れて描いたであろう上手い絵がまだ50とか不思議でしょうがない
別に絵の為にそういう住人に媚びを売れとは言わんが、もったいねーなーと
優秀ならどんな世の中だって生きていけるんだから、そんな話しても仕方ないだろ。
強欲な経営者がいて従業員が苦労してる、って問題なら別にいいんだよ。
「国の仕組みとして現状は歪だろ」って話を振ってるんだけど。
確かに、「それ、別に祭りじゃなくても・・・」「誰もがそういう風な経験するわけじゃない」って思う人もいるだろうけれど、
学校がそういう機会を与えてそういう力のある子を喚起させるにはいいとおもうよ。
それ別に祭りじゃなくても、って思うのだよね
3か月とか半年のロングスパンの課題を設定して、やらせればいいんじゃないの
ってかさ、勉学から分離した行事にしなくてもいいんじゃないの、とは思う
そもそも企業社会においては、「文化祭みたいなノリの仕事」って評価は皮肉の裏返しなんだよね
自己満足しか得られないような活動ってそういう評価を受けたりするよ
帰属意識を強めるのは同意なんだけど、
学校なんて所詮社会へ出るための1ステップにしか過ぎないし、しかも社会性の乏しい閉塞した空間だし、
そんなところで帰属意識強めてどうすんの?
http://anond.hatelabo.jp/20081109215449を読んで思ったこと。
私は文化祭大好き人間で、「みんなー!最後の文化祭はりきってこーぜ!!」というくらい暑苦しい人間でした。
文化祭なんて何年もまえに終わってしまったけれど、教育的効果は(自分に関して言えば)かなりあったと思う。
就活に使いやすいエピソードではあったとも思うな。
・一つのものを他人と協力して創り上げました!
・タイムマネジメントを学びました!
・仲間同士の意見のすれ違いの背景を分析する力がつきました!
・他人を感動させるにはどうしたら良いか考え自分なりに働きました!
確かに、「それ、別に祭りじゃなくても・・・」「誰もがそういう風な経験するわけじゃない」って思う人もいるだろうけれど、
学校がそういう機会を与えてそういう力のある子を喚起させるにはいいとおもうよ。
日本教育の根本は「機会均等」だからね。合わない子がいても仕方ないよ。(残念ながら)
それが肌に合わない子は部活や学問、課外活動など別のフィールドで活躍すればいいんだけど・・・そこが整備されないのが問題なのかなぁ?
話は変わるけれど、大学のゼミでナショナリズムについて話していたときに、
(文献はベネティクト・アンダーソンの『創造の共同体』だったと思います)
『文化祭って、小さなナショナリズムだよね』という意見が出てかなりショッキングだった経験があります。
(あと、「文化祭実行委員とか大っ嫌いだった!」と面と向かって言われましたw)
確かに「祭り」という行事の背景に「クラスの仲間」「学年」「母校」という共同体の姿を連想させやすくするし、
結果、結束や帰属意識を高めるには効果の高い装置ではあると思う。
他人に要求しておいて自分は平気でそのルールを破るなんて中々面白い人だね。
http://anond.hatelabo.jp/20080811045938
無い知恵絞るのをやめて、他人様のblog↓(それとも本人?)のアイデア拝借したんだろうけど全く駄目。
http://b.hatena.ne.jp/entry/8708498
色んな例で述べたように時間も有限な資源の一つなんだよ。1日48時間ほしいなんてセリフよくあるよね?
もし時間が無限なら、全ての患者にいくらでも労力を割くことが出来る(まあ時間=寿命までだから患者も苦痛はあるが実質死ないんだけど)。
経営判断も同様。周到なマーケティング・シミュレーションに際限なく時間を掛けられのであれば、事業リスクは大幅に低下する。
しかし現実はそうではないから、相対的に効率的で相対的に迅速で相対的に効果的な判断の方法が要求されてくるわけ。医療でも経営でもね。
つまり、これらは相変わらず資源の有限性に促された、経営学的・経済学的資源の最適配分の実践に過ぎない。
トリアージはそうした資源の有限性への対処という課題を、印象的に切り取ってみせる希有な例。
何より件のエントリーのブコメでも、筆者の含意をちゃんと理解した初学者以前のギャラリーが沢山いたんだしね。
というより、トリアージの現場で本当に足りないのは時間じゃないんだよ。
君を含む多くの人が「救命医療・人命に関わる問題にリソースを」と主張するように、マンパワーの頭数から訓練・研修のチャンス、
機械・設備や資金、従事者のケア等色んな物が足りない。そういう大状況があって初めてトリアージのような限界的な現象が生まれるわけ。
もし災害発生と同時に十分な医師・コメディカルを派遣し、被災者を医療拠点へ高速輸送・収容、物資設備の供給も十分という
状況であれば、全員に平時と同じだけ治療を施せる。しかし当然そうした是正には有限なリソース、パイの再分配という壁がある。
言ってみれば、今も国民自身の選択として日々命の「切り捨て」が進行中なんだよ。
結局、依然としてトリアージ的発想はこの世の現実。ちゃぶ台返しどころか釈迦の手の平なんだね。
抽象的な考えを苦手にしている(具体例の知識にも乏しいが)のはこれまでで十分理解したけど、相変わらず酷いよ。
http://anond.hatelabo.jp/20080810210828
>だから「有限」と「足りない」は違うw
一度物やサービスや資源の使用に何故価格なり税金なり規制が付き物だったりするのか、
そして時にそれらが高低強弱上下に変動するのか、理由を考えた方がいい。
まあ「あたまがわるい」から難しいかも知れないけど。
>ご都合主義乙。
翻訳すると「反論出来ませんごめんなさい」という事だよね。
前の「お前は原理主義的資本主義者だ!」とかいう意味不明な逃げ口上と同じだ。
逆選択もWikipediaに載っているはずだから、迷惑も顧みず必死に暴れる暇が有れば調べておくべき。
一応経済学や経営学を勉強したいなんて殊勝な事言ってたんだしさ。FRBの声明はどこかの経済記事もされていたはず。
>企業の全てが利益の最大化を単一目的としてはいない、と書いたんだが。
>本店をつぶしたほうが利益が出る場合でも、本店をつぶさないことがある。
>それは君の中の企業像であって、オープンソースのような形である程度共存共栄を図ってる企業もあるよ。そりゃ競争原理は働いてるけども。
>経営陣の倫理観の話では絶対にありえないと思い込みたがる君の世界観が不思議だ。
そこはお仲間とおぼしきサヨクの皆さんが全否定してくださって(企業は利益追求が本業ではないとの
分裂勘違い君劇場さんの言明に対し、山ほどある食品偽装を前に企業のモラルに何を期待しているの?具象的にも
抽象的にも企業は利益追求が本業、みたいな反論)いるから、安心して論破されたと認めていいよ。この助言は二度目。
例外は原則を覆さない、あるいは一見例外的に見えるような現象も実は原則に沿ったものだったりする、だってさ。
たとえばそちらが必死に拘泥して得意になっている「一見」利益にならない本社の維持でさえ、
従業員のモラルやブランド価値、地域地盤といった経営上の判断が必然的に絡んで来る。
限界的な例を考えれば話はもっと簡単。もし利益を追求しない事によって恒常的に売上高比数百%を
上回るコストを強いられる場合、その企業は赤字、ひいては倒産を強いられる「倫理的」選択を自ら進んで行うだろうか?
もちろんそういうダメ企業は潰れる方が世の中の為になるし、そうなるのが現実でもあるから、どっちでも構わないんだけどね。
まあ君は自称ネオリベらしいから、倫理を専ら企業任せにして公害なり偽装なりが横行しても何も気にしないんだろう。
>ということにしたいんだろうなあ。なるほどそんなごまかし方があったのか。
何なら迷惑顧みずに説明力の例をブコメから大量引用しようか?そうやって意固地に現実を認めないから、
ここのリソースを食いつぶして迷惑掛ける結果になっているんだけど、少しは反省しようよ。
>(追記)書き忘れてたけど、「自分の知能の希少性を思い知る」という表現は、希少性という単語の使い方をちょっと間違ってると思う。
それはそっちが自分で認めたように経営学や経済学一般を知らないからだよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%8C%E5%B0%91%E6%80%A7
述語というのは文脈により意味を変えるの。なんでそうやって恥を上塗りしたがるのか理解に苦しむ。
でまあ、そちらの必死の抵抗にもかかわわらず、流れは最初から何も変わってないから、まとめ的には↓のままでいいね。
http://anond.hatelabo.jp/20080810205804
・トリアージ的な、資源制約下の選択という問題はこの世界の普遍的な現実です。
・一般的に言えば、トリアージ的な資源の最適配分の積み重ねが「かわいそう」な人を(短期的にも長期的にも)最も少なく出来る。
・資源制約下の最適分配・資源の効率的運用という経済学的・経営学的課題の例としてトリアージは有効。
それにしても、あれだけ経済学や経営学に対する無知や理解力の無さを晒し上げられてフルボッコされたのに、
未だに虚勢だけは一人前というのが凄い。たぶん「自分はいわゆるはてなサヨクの一員だ」的なペラペラの
帰属意識に支えられているんだろうけど、素直に彼らに通報して助けを求めた方が格好付くかも知れないよ。
ただ指摘済みのアイデア剽窃の試みは完全に失敗したようだし、目利きの能力もなさそうなのが何ともね。
まあ壊れたレコード状態で生産性ゼロの君だから、このまま頬被りにするのが一番じゃないかな。
別にB層という言葉をつくって、カテゴリー化しているのはサヨクじゃなくて自民党だってことになってると思うんだけどな。
少なくとも私は誰かのことを「こいつらがB層だ」なんて思いませんし、先のエントリーでそんなことも言っていない。
ただ、ちゃんと字も読めるのにワンフレーズ・ポリティクスに乗っかって騒ぐだけの人が目の前にいたら、「こいつは自分を甘やかしている」とは思うけどね。
あと、「在日」という、それなりに歴史を背負って、帰属意識を持った人々がいる言葉を怪文書にたまたま出てくる意味もはっきりしない言葉と「同じだろ」と言ってしまう感覚も理解できない(ので、そういう人とどうコミュニケーションしていいかも正直解らない)。
民族概念なんてもともと定義が曖昧なのは当たり前で、それはその概念の重要性の否定にはならないからね。
現時点での拙の感想。
そもそも○○式などというものは参加者を所属するものへ無条件に従順に従わせ、帰属意識を高めるための儀式的なイベントであり、極めて反動的である。
よって卒業式などという反動的なものを執り行う事に反対しないどころか出席してしまう事がそもそもの間違いなのであるッ!
さて参加したい反動的な輩だけが参加すればよいという折衷案を提案する愚か者がいるかもしれないが断じてまかりならんぞ。
帰属意識を高めるための儀式はその組織に所属するものが原則全て参加する事に意義があり、参加しない者はあくまでも迫害されるべき異端でなければならない。
普通にサボってる奴?そんなもんいずれ簡単に何かに従属させられるだろう。
結論:自由参加はあり得ん。
秋葉原無差別殺傷事件について知ったのは友人からのメッセンジャーがきっかけだった。
まだマスコミによる本格的な報道が始まる前で、ニュー速で勢い13万なんていうスレを見て浮かれていた事を覚えている。
それから徐々に情報が公開されていき、見慣れた中央通りにおびただしい数のパトカーと救急車が道路を閉鎖している映像や、加藤容疑者と警察官が対峙し逮捕へと至る画像、そして血を流し倒れている被害者達を見た。これは只事じゃないぞ、と感じた。
僕は秋葉原に毎週行くようなヘビーなオタクではないし、何かに帰属意識を抱くような人間でもない。
だから今回の事件も今までと同様に、偏向報道をするマスコミとアンチマスコミを貫くネットを程よく消費しつつゲームやってるんだろうな、なんて思っていた。
だけど予想とは裏腹に、時間を経るに従って、僕は強い喪失感を抱くようになっていった。
「~は死んだ」なんてクリシェを自分が使うことになるなんて思わなかったし思いたくないのだが、そう表現する他ない感情だった。
だが、事件前の秋葉原と、これからの秋葉原を僕はどうしても接続できなかった。
あの事件は、これからどんな時でも秋葉原に影を落とすだろう。僕が中央通りを横切る時は必ずあの事件を思い出すだろう。
その時に抱く感情は、これまでの秋葉原にはまったくなかった感情だ。僕はたぶん、どこかで秋葉原という街を信頼していたのだと思う。
死とは連続性が失われ、再生不可能な形で唐突に、そして理不尽に切断されることなのだと知った。それは人も街も変わらない。
秋葉原は死んだ。
秋葉原は死してなお、新しい文化を生み出したのだ。本当に偉大な街だ。
今後の秋葉原は歩行者天国も暫く廃止するという話だし、実質的な意味でも大分変化していくのだろう。
今はまだその気になれないけれど、もう少し経って心の整理がついたら秋葉原に行こうと思う。
○○県の人は××な性格
ってのがピンと来ない人なんですよ。マヂでよくわかんない
それよりは、はてな村の住人の性質だの増田の傾向だのの方がまだ面白い
はてなから外を覗いて見ると、ネットには色んな種類の人種(日本人限定)がいると思う
ブロガー、2ちゃんねらー、ニコ坊、ウィキペディアン、アンサイクロペディアン、としあき、「」、VIPPER、ν速民、テンバイヤー、変態、派遣社員etcetc
最近知ったのは友人は自分の分類を「名無史」だって打ち明けた事。よく知らないけど、2ちゃんねるの歴史板に常駐してる歴史マニアだそうで
なんつーか、ネットでの自分の名前と言うか、自分はどこの文化の人だよ、どこの県の人だよってのをはっきり表す名前があるってのは面白いんじゃないかなって思うワケです
彼らは基本的にそれぞれの県に籠もって、遠出する事があっても自分達の方言で喋ったりしません
それもまた、いい感じの距離感みたいなのがあっていいんじゃないかなって思ったり
っつーか俺が知らないだけでいっぱいいると思うんだ!ネット上にある、自分達って集団は○○って言うんだぜ的なの
帰属意識とか気持ち悪いって言葉は聞くけど、それでもそういう集団の名前ってのは一人じゃないって安心感を与えてくれると思うんです