自分で考えて確信に至れるかを問題にしてるのだから、主体的という言葉の意味には当然、
オマエの言うような「主体的に真理探究を捨てる」ということは含まれないのだよ。
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こういう、感情的反応に左右され過ぎて、素直な受け止め方ができなくなってる人間が非常に多い。
それは何故かというと、自分が(借り物にしろそうでないにしろ)何らかの価値観・思想・行動規範に属しているという
帰属意識が過剰にあって、中立的な立場で外部からの情報を受け止めることが出来なくなっているからだ。
自分の属する立場と反する考えを言ってる人間が現れると、意識的にしろ無意識的にしろ敵であるとみなす。
だが、真理探究という立場からすれば、向かいあうべきは、対立する立場の人間ではなく、真理なのである。
向かいあうべき方向が狂っている、ということになる。
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一応念を押しておくが、だからと言ってオマエのその生きる姿勢を全否定しているわけではない。
ただ、あくまでも一つのヒントとして言っておく。それでは苦しいだろうと。
「敵」に向かいあう前に、じっくりと真実と向き合う時間を取ったほうがよっぽど有意義だし心も落ち着くのに。
そのことをよく考え直してもなお、借り物のほうが楽というならあえて止めはしない。
それくらい真実と向き合うのは難しくて苦しいことであり、一部の選ばれた人間にしか実践しにくいところがあるのは確かだ。
一度向き合ってしまえば、以降は楽になるから勧めてるんだけど。
こういう、感情的反応に左右され過ぎて、素直な受け止め方ができなくなってる人間が非常に多い。 それは何故かというと、自分が(借り物にしろそうでないにしろ)何らかの価値観・...