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2008-11-15

F係長、あなたのyeah!連発は品があるとは言えません

F係長

あなたの英語について一言申し上げたいのですが、

面と向かって言える人間関係ではありませんので、

どうにかあなたに伝わることを願いつつ

ここに書くことにします。

申し上げたいのは、あなたがクライアントとの電話で連発する

「yeah!」についてです。

あなたはフレンドリーな会話を演出しているつもりかもしれませんが、

とてもビジネスパートナーに対して適切な使い方をしてるとは思えません。

例えば、あなたはこう言っているつもりかもしれません。

「はい。・・・・はい。・・・・なるほど、わかりました!」

それを英語ではこうおっしゃいますね。

「yeah... yeah... yeah!yeah!yeah!yeah!yeah!」

もちろんクライアントにあなたの意思は伝わっていると思います。

でも、これではまるで、

未開の部族が伝統的な格闘技に興じて歓声を上げているようにしか聞こえません。

「yeah」はビジネスで使うのが間違いとは言いませんが、

くだけた表現ですので、適度につかうのが効果的かと思われます。

連発すると品があるようには聞こえませんので、

もっと相槌の語彙についてお勉強なさることをお勧めします。

どうかあなたがこれを読まれますように。

2008-11-12

http://anond.hatelabo.jp/20081110235852

あんまり気にしなくて大丈夫

むしろその韓国人キリスト教観の方が心配。

(韓)>でも敬虔なクリスチャンには、「イスラーム(?)が汚れの象徴の豚をキリストの聖女(主人公ジャンヌの生まれ変わり)に食わせようとしている」と映る。

手元にある「豚料理大全」にはフレンチの技法もイッパイ、なぜだろうねw

フランス人レビ記や申命記の戒律(コシェルってヤツね)を嫌い、

創世記にある神のありがたい言葉wを採用してる。

なのでイスラームはぜーんぜん関係ない。

以下、聖書はJSS版からの引用。新共同訳は探すのが面倒でね、すまん。

(旧約聖書)>

Gen 1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

Gen 1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

(韓)>ほかにもサブタイトルにいくつか性やら麻薬連想させるものがあってアウト。

いやいや、そもそも聖書記述が「性的恥辱を感じました」そのものだから。

ここでまた創世記第3章7節のありがたいお言葉

(旧約聖書)>

Gen 3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

Gen 3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

(韓)>イブ=ジャンヌ=まろん(主人公)という設定も完全にレッドゾーンらしい。

(韓)>仏教の考えである輪廻転生がなぜか使われていたりする。

(韓)>「これはクリスチャンぶち切れるよ」とのこと。

まあ確かに魂の継承輪廻という概念キリスト教からみれば「異端」だけど

(少なくともプロテスタントカトリックロシア正教ギリシャ正教はそうだろう)、

reincarnation や karma という言葉が一般的なくらいに神秘思想も知られているよ?

グノーシス思想ならばむしろ連中のほうが詳しい)

そもそも輪廻仏教思想じゃなく、元はヴェーダから来たヒンドゥー思想

種村輪廻ヒンドゥー的でも仏教的でもないけどさw

(韓)>たぶんイブは誘惑に負けてリンゴを食べた者なのに…。ってことかな?

イブが食したのが「リンゴ」であるという記述聖書のどこにも書いてないw

確かにヨーロッパで「知恵の樹の実」は伝統的にリンゴだとされているけど、

創世記の最初の舞台メソポタミア周辺の気候はリンゴ栽培にあんまり向いてないんだもの。

ヨーロッパ醸造された幻想のひとつだ。

(旧約聖書JSS)>

Gen 3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

Gen 3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。

Gen 3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」

Gen 3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

Gen 3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

ココはむしろ神自身がウソツキだったことを糾弾したくなる。

蛇の言ったことの方が事実だったんだから。

下の引用に至っては神の狂いっぷりがキモいくらいでw

神が自分を「われわれ」と呼んでいることにも注目!

これは多神教時代の名残の消しそこないで、「唯一神」の自己否定(w)が旧約聖書に載っている。

神の呼称のひとつ「エル」に複数形「エロヒム」が存在する理由でもあるw

(旧約聖書JSS)>

Gen 3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

Gen 3:23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。

Gen 3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

(韓)>ほかにも、(まあこれはこじつけ見たいにも思えるんだけど。)ロザリオの形がハーケンクロイツに見えるコマがあったり、

うん、こじつけ

スワスティカは「調和」「秩序」のシンボルとして十字架よりはるかに長い歴史を持つ。

キリスト教自身でスワスティカを変形十字架として使ってた例がある(コレ重要w)。

ここ数十年の反ナチという刷り込み、思想制御、言論統制の方が私には恐いね。

(韓)>それと韓国人が「子供の頃フランス人女の子ジャンヌダルクってあだ名を付けてからかったら、

(韓)>その女の子の父親がマジ切れして殺されかけた」ってゆってた。

日本人韓国に行って、韓国人に「ヒデヨシ」と呼ばれ続けたら俺も怒るw

これはジャンヌうんぬんが問題なわけじゃないぞ。

名前を無視されること、名前を尊重されないこと」を侮辱と感じただけジャマイカ

宗教概念すら「小道具」にして遊び倒せる下地が日本にあることはむしろ誇るべきことだと思うがね。

エリートへの敬意がないのは何故か?

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51136972.html を読んで思ったこと。

日本には、エリートという伝統そのものがないからだ。

に同意。日本人エリートなんて頭でっかちだと思ってる。私も高校生ぐらいの頃まではそう思ってた。

けれども大学に入り、「エリートと成り得る人の卵」に接して、意見は180°変わった。エリートになるにはまず努力が必要なのだということに気がついたからだ。頭でっかちだと馬鹿にしていた官僚達も、勉強して努力してその地位をつかみ取ったのだ。そして、彼らは霞ヶ関で夜遅くまで働いている。そんな彼らをこき下ろすような論調のマスコミはあれど、彼らを讃え上げる人々はあまり居ない。これは何故か?

それについて元エントリではこう書いてある。

そして、なぜエリートを敬う伝統が生じなかったか。

エリートとなりうる人々に、人々が無礼をもって答えてきたからではないのか。

ではなぜ日本の人々はエリートと成り得る人々に無礼を持って答えてきたのだろうか?人々は無知蒙昧だからなのか?

ここで一つ疑問がわく。エリートとは元はフランス語であるが、海外ではエリートは人々に尊敬されているのか?とりあえず、手元にある The Concise Oxford Dictionary で elite を引いてみた。こうある。

a group of people considered to be superior in a particular sosiety or organization.

ここで superior という単語に注目してみたい。これを同じく The Concise Oxford Dictionary で引いてみたところ、5番目の定義にこうある。

conceited.

更にこれを引いてみると、

excessively proud of oneself.

とされている。少なくとも英語ではエリートという単語に日本語と同じく多少の侮蔑的な意味合いが含まれているらしい。元のフランス語ではどうなのかを調べるには残念ながら私の手元に資料が足りないし、あいにく私はフランス語がわからない。誰かフランス語が出来る方補足ぷりーず。

さて、人々はなぜエリートを敬わないかというところに話を戻そう。それは、普通に暮らしているとエリート仕事を実感することはないし、そもそもエリートに接する機会自体が少ないためエリートに未知のものに対するものと同類の恐れを抱いてしまうからではないのだろうか?まず前者については、エリートが優秀だから起こる現象だろう。結婚出産などといった国に一意に登録してある戸籍を変更するという大仕事でも、役所に書類を何枚か提出するだけですんでしまう。これはエリートが作ったシステムが優秀だからだ。優秀なシステムであるほどその中身や制作者のことなどユーザには連想させない。そしてこれが後者の問題にもかかってくる。エリートは優秀だからこそ人々の目に見えず、接する機会もなく、そして人々に誤解されていく。

かしこの人々の誤解をもって、人々は無知蒙昧だ、と断じてしまうこと自体が一番エリートを誤解させてしまうのではないだろうか?エリートを知るには少なくともエリートとある程度同じだけの高みに立たなければならない。そんな人がエリートを擁護して人々の無知蒙昧さや無礼さを非難しても、エリートエリート擁護派の人もよく知らない人々は両者を一緒くたにしてエリート馬鹿にされた、としか感じないだろう。

再帰的な話になってきた。このエントリー自体がエリート擁護派のエントリーであり、言外に私はある程度エリートと同じだけの高みに立っている人間で、エリート尊敬しない奴は愚かだと断じてしまっている。そしてますます人々とエリートの隙間を広げてしまう気がする。

どうにかしてこの再帰をほどくことは出来ないだろうか?

2008-11-10

日本語は既にかなり滅びてますがなにか?

梅田もっちーダンコーガイ自己啓発(笑)の両巨頭が紹介した本には無批判に絶賛がつくといういつもの流れ。はてな村民がいかに自分の頭で考えない人間かよくわかるね。ちょっと前には、英語嫌いの益川先生が歴史に名を残す研究をしたという話が流れたばっかりなのに、すぐ忘れてしまってるんだから。

餅は餅屋という言葉を知らないか

ま、そんなことはともかくとして、言語学新書レベルに読みかじった経験があれば、この両氏の書評著者のインタビューを読んだだけで、モチヲや弾のお勧めを期待してこの本を読めば期待はずれに終わることがよくわかる。誤解なきよう、私は「日本語が亡びるとき」が面白くない本だとは思わない。何しろ相手は小説家、本当のことであろうが嘘のことであろうが面白く書いて読み手に深い印象を与えるプロなのだから、それは期待してもよい。ただし、著者に言語学バックグラウンドがない時点で、論としての面白さを期待するのは諦めるべきだ。SFとして面白いものが科学理論としてよくできているわけではないのと同様、純文学作家言語論に学術的レベルを期待するのは酷というものだ。もともとそういうものなのだから、モチヲや弾のようにあの本を絶賛する人というのは、アジテーターとしての自分を売り込みたいだけか、アフィリエイトで稼ぎたいだけか、あるいはまともな議論とトンデモの区別が付かない程度の知的素養しかないか、そのどれかだろうと思ってしまうのは私だけか(そういえば一部のはてな界隈で人気な「温暖化懐疑論」の論者に気象学者が一人もいないのはどういうことなんだろうね?)。

高校世界史を復習しろ

そもそも、著者が言うような意味日本語が亡びるというのが先走りにすぎるのは英語歴史自体が証明している。英語がどうして、同じゲルマン語のドイツ語よりも、ロマンス語フランス語に見た目が似ているかと気になったことはないだろうか。あれはノルマン・コンクエストの帰結である。英語は文化的外圧に曝されるどころか外敵に征服され、日本語と同じかそれ以上に外来語に「汚染」された言語なのだ。しかしその伝統からシェイクスピアをはじめとする華麗な英文学伝統が花開いた。

日本語も、実際に「地域語」であり、現代と比べものにならない外圧に曝された時代があった。飛鳥奈良時代や、明治維新期などはそれぞれ強大な帝国の圧倒的な文化力・軍事力の前に日本は存亡の危機に瀕していた。しかしそれらの時代に外の文化を大きく導入したことで、逆に日本語の文化は大きく栄えた。

単なる「国力」だけで、言語が「地域語」に堕し、その結果衰退するなどというのが俗論にすぎないことがよくわかるだろう。

日本語の最大の敵は「日本語

そもそも、「日本語が亡びる」という問題意識自体、日本列島言語を「日本語」という名で無自覚にひとくくりにしてしまうことの問題が現れている。アイヌ語琉球語を考えてみるがよい。これらを「方言」と呼ぶのは無理があるだろう。しかしながら「日本語」の隆盛のもと、これらの言語文化は危機に瀕している。

いや、言い直す。そもそも何を「方言」とよび何を「国語」「標準語」と呼ぶかは政治的な産物でしかない。ポルトガル語オランダ語は、かつてはスペイン語ドイツ語の一方言でしかなかった。デンマークでは読み書きができる知識人ドイツ語フランス語を使っていて、アンデルセンキルケゴールが現れる前の「デンマーク語」は「汚い方言」でしかなかった。

その意味で、日本の文化を見直してみるとよい。「遠野物語」のような地域の民話を語れるのは一部の語り部に過ぎないのではないか?いや、かつて日本の「中央」を荷った「上方文化」でさえ、衰退が甚だしい。関西弁ラジオテレビの成立以降、急速に流入した「標準語」の影響によって激しく変質し、江戸時代後期から明治時代にかけて成立した上方落語でさえ、若者子供のかなり多くはまともに聴き取りができない。上方落語日本言語文化の貴重な財産であることは誰も否定しまいが、これを日本人は自ら衰退に追い込んでいるのである。人間国宝米朝師匠事実上現役を退いた今、その前途ははなはだ暗い。

あるいは地域的な変化でなく時間的な変化を見てみるとよい。能は勿論、狂言歌舞伎でさえまともに聴き取れない日本人がどれほどいるか。源氏物語はおろか、明治期の擬古文でさえ現代語訳なしで読めない日本人がどれほどいるか。いやそればかりか、旧字体・旧仮名遣いの文章ですらろくに読めない人間とて決して珍しくあるまい。

このようなことになったのも、一つには近代化の推進のため我々が明治期と戦後に「国語」の成立と普及を強引に推進したせいだというと言い過ぎだろうか。世界に誇る日本文学などと言うが、我々が現代「日本語」を通じて享受できる文化遺産など、たかだか百年分ぐらいしかないのである。

守るべき「日本語」って何?

というか、元々これはそういうものなのである。「国語」という概念は「近代国家」が政治的に成立させるものだ。「江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた」という本があるが、これによると実際、江戸時代では各地の方言通訳する商売が成立していたという。あるいはフランスでは近代化以前、知識人はもっぱらラテン語で読み書きをしており、フランス語は単なる「俗ラテン語」のなれの果てでしかなかった。日本ではもっとひどく、仮名文字さえ実は統一されていなかった。変体仮名というのを聞いたことがあるだろうか。うなぎ屋の看板などで今もその名残を見ることができる。これらがきちんとした正書法と文法を揃えたのは疑いもなく時の権力政治的な措置なのだ。

それを思えば、「今の」日本語がどういう形であれ変容するのは当然であり、むしろ「近代国家」という枠組みが溶解しかかっている(EUを見ればそれは明らかだろう)現在、無理に「国語」を防衛しようとする思想はまさに時代遅れナショナリズム保守反動でしかないとさえ言えるのだ。


からかい半分で書き始めた文章につい力がこもってしまったが、いずれにせよ、「守るべき国語」というのはかくのごとく、大いなる虚構だ。関西人である私がこのように完璧な「標準語」で読み書きができるように、北欧あたりではテレビを通じて完璧英語を多くの人が身につけている。だがそれがいったいなんであろうか。言語の遣い手としては、一つの言語しか使えないよりも複数の言語が使えた方が楽しいに決まっている。考えてみれば、何の問題もないのではないか。

仮にそうした時代になろうとも、日本語でしか書けないような優れた文学作品があるのならば、日本語が読める人は必ずや読むであろう。日本語でなくても書けるものは、日本語で読む必要はない。そうなって困るのはいったい誰なのだろうか。「普遍語」を寡占してグローバリズム伝道を行うことで糧を得ていた人、昔日の栄光に浸る老人、それぐらいしか私には思いつかないのだが。

追記(ブコメ宛)

b:id:Nean えっと、だいたいの論旨に異議はないんだけれど、水村は「国語」が「虚構」ということを知った上で書いてるってのがいつの間にか飛んでるんでない? 「国力」の論点も変ですぜぃ。

水村は「国語」の虚構性を半分ぐらいしか理解していなかったと私は思います。たとえばここで挙げたような方言の視点はほとんどなかったのではないでしょうか。水村は東京生まれということなのでおそらく気づかなかったのでしょう。私のような方言話者にしてみれば「母語が『現地語』でしかない状況」なんて「なにをいまさら」でしかない、というのがこの記事を書いた大きな動機の一つでもあります。

「国力」についてはその辺の地方人バイアスが入っているかもしれませんが、正直あまり自覚はできていません。

http://anond.hatelabo.jp/20081110171823

そうなんだよ。

何でも売ってる割に、みんなさんぴん茶なんだよ。

伝統なのか…

すごいな。

でも変。

2008-11-09

http://anond.hatelabo.jp/20081109125610

それをやんなくても外国外国人普通に生活できてる

まず「理不尽な集団訓練」に関しては「やってない」という根拠が無いよ。すくなくとも徴兵制のある国は全部「やって」るわけだしな。むしろ日本の方がヌルいくらいかもわからん。少なくともすぐお隣、韓国人はそう思ってるだろうしな。

また「自分で頭を使う訓練」にしても、日本環境が色々親切すぎるのに比べれば諸外国のヒトは日常的に「頭を使う」訓練してるよね。少なくとも「この電車○○行きです、○○へお乗り換えの方は○○でお降り……」なんて恥ずかしいアナウンスこそ日本ぐらいなもんなわけで、ホント日本は頭使わないでも暮らしていける社会。そういう「社会教育」の機会が失われて久しい日本なのに、日本人世界の中でとりあえず一番バカというわけでもないのは家庭教育学校教育伝統のお陰だろう? 常識的に考えて。

[][]目的と手段の区別

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/cmt/6cdb3dea0bb4403bfeb5700075dcb754

池田信夫

きょう届いた『Voice』12月号で、山形浩生氏が「クルーグマンは正しかった」とか繰り言を書いているが、そこにこういう一節があります:

インフレターゲットを口を極めて罵っている一知半解な論者が、ブログで実質金利マイナスにすべきだと得意げに主張している>

一知半解はどっちかね。このブログの昔の記事からずっと読んでもわかるが、私はクルーグマンの「日本自然利子率が負になっていた」という主張は正しく、実質金利を負にできれば望ましいと一貫して書いている。問題は、デフレのときはインフレ目標がきかないということなんだよ(それはクルーグマンも認めている)。

この目的マイナス金利)と手段(インフレ目標)の区別のつかない手合いが実に多い。これはWoodfordもGaliも書いているから、くだらない悪口を書く前に、大学院以上のマクロ経済学教科書を読んでみろ。まぁ読んでも君にはわからないだろうけど。

参考

http://anond.hatelabo.jp/20081029051532

クルーグマン米国日本になってしまった」

クルーグマン氏は、ブルームバーグインタビューに対し「あらゆる点から考えて、われわれは“流動性の罠”の領域にいる。バーナンキ議長はあと何回か利下げを実施できるが、実体経済に影響を及ぼさないだろう。ええ、そう。伝統的で従来型の金融政策が奏功する余地はない。弾切れだ」と述べ、さらに「米国日本になってしまった」と語っている。

2008-11-08

梅田望夫「紹介・水村美苗日本語が亡びるとき』」の補足説明を試みる。

【要旨】

 梅田望夫さんが水村美苗日本語が亡びるとき』の紹介をしていた。ブックマーク数は多いのだが、梅田さんの紹介にやや舌足らずな点もあるからか、反応もいまひとつのような気がする。ただ、わたしも水村さんの論を読んで非常に感銘を受けたことはたしかなので、まずは、水村さんの議論の骨子を紹介してみることにした。ただし、わたしが読んだのは新潮9月号で発表されたものであり、ここで紹介することも本の第1章から3章までの議論にとどまる、という点をご海容頂きたい。

ここで紹介したのは水村さんの問題意識であり、この問題に対して水村さんがどのように思考を進めていくか、というメインの部分については実際に「新潮9月号や本をごらんいただきたいと思います(この一文追記)。

(追記2)梅田さんがこの本をどう見ているかについては、すでに8月時点でこの本の前身の論稿に触れられたエセーがすでにあるのでこれもご覧になるとよいかと思います。以下の記事のブックマーク数があまり多くなかったので補足しておきます。

http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080823/trd0808230354002-n1.htm

【本文】(本文途中からお名前を「望田」さんと誤っている箇所があったので修正いたします。大変失礼いたしました。また指摘してくださった方に感謝いたします。)

水村美苗の新刊『日本語が亡びるとき』が梅田望夫さんのブログで紹介されていた

http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1

 コメント欄ブックマークでのコメント欄では芳しい反応は少ないようで、梅田さんの議論とかみ合っていないし、梅田さんの高揚の理由がわからずポカンしているように見える。

 これはおそらく、水村美苗および梅田望夫の問題意識がちゃんと理解されていないからではないかと思う(その点で梅田さんの紹介が不十分ということはあるかと思う)。とはいっても、本書が梅田さんの心に響いた理由をわたしは想像できるし、わたし自身も「新潮9月号を読んでおもしろいと感じた。なので、以下で水村さんの議論を紹介したい。

 水村さんの議論、および望田梅田さんがインスパイアされた問題意識というのは、たとえば、英語公用語化論のようなレベルでの「日本語の危機」というようなものではない。すなわち、日本の「国語」としての日本語と、英米の「国語」としての英語とのパワーバランス等が問題とされているわけではないのだ。国語 vs 国語」という問題、ではないのだ。

 そうではなくて、水村の議論はこうである。

 水村の分け方によれば、言語には「普遍語―国語―現地語」の3レベルがある。

 中世では「普遍語」としてのラテン語および「現地語」(のちにフランス語ドイツ語になる言語)しか存在していなかった。

 近代国民国家の時代になると、(学術的な成果等の)「普遍的なこと」を語る言語として、「普遍語」の他に、「国語」(もと現地語)が登場した。この意味で「普遍語」の役割を果たす「国語」が複数あるというのが20世紀半ばまでの状況であった。

 しかし状況は変わった。世紀末から21世紀初めをみると、もともとは数ある「国語」の内の1つにすぎなかった英語が「普遍語」なろうとしている。それに伴い他の「国語」は「普遍語」の座を降ろされようとしている(例としてフランス語の衰退が挙げられる)、と言うのが水村の議論の骨子だ。

そういうことであるから、日本語が「現地語」として滅びるといっているのではなくて、普遍的なことを語る役割を担わされてきた近代国民国家の「国語」が、英語が新たな「普遍語」となることによって、変質をこうむる、という見通しを水村は述べているのである。 

 以上が水村さんの議論の紹介。

 このことからわかるように、望田梅田さんがこの本を読んで感動したというのは非常によくわかる気がする(追記;小飼弾さんが興奮するのもよくわかる気がするhttp://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51136258.html)。望田梅田さん自身をどのように考えているかは知らないが、わたしがこの本を読んで思ったのは、

日本という「現地」に帰属しつつ他方で「普遍的なもの」とつながっているという点では「外国人」のような存在、すなわち、「在地の普遍人」というでもいうべきメンタリティーを有している人間にとっては、今回の水村さんの本を読んで刺激を受けるのだろうな、ということだ。

 というわけでブクマコメント欄にあった、

英語日本語日常的に使用していることを前提に書評が進められている感じがする。日常的に日本語のみしか使ってない人にとっては「心の叫び」は届かないのでは

という反応などが、もうひとつの、ある意味で正しい反応だといえるのではないだろうか。

これも参照。http://anond.hatelabo.jp/20081111185728

【★追記。以上の議論から、文学においてはどんな問題が生ずるか。水村さんの見方はこうだったと思う。

 近代においては、国語国民国民文学という等式が存在し得た。国語普遍的な内容を記述できる言語であり、国民文学普遍的な内容を論ずることができるものであった。もっというと、

ローカル(現地)なことがらを普遍的なレベルでとりあげ記述することを可能にしたのが

近代国民国家における国語による国民文学

であった。

しかし、「国語」が「普遍語」としての地位から陥落しつつある21世紀初の状況を見ると、今後そのようなことは可能であろうか。

これが水村さんの問題意識である。

このような問題は翻訳論において繰り返し語られていて、水村さんもこれに言及している。】

【★さらに追記:

「別に日本語が『現地語』になるとして何か問題でも?」という反応に対して、水村さんの議論からはどのような応答があり得るだろうか、考えてみる。

「現地語」のみを読み「現地語」のみで語る、他のものには触れないし読まない。そうなると、文学が、そして、それによって表現される知性が、衰退する、という反応が出てくるのではないか。 

文学とは異なるが、このことの理解を助けるために、テレビ番組を例に挙げてみよう(わたしはテレビをじっくり見る習慣を持たなくなったので、これから書くテレビ番組の状況は、幸いなことに、誤っているかもしれませんが)。

テレビ番組低俗化していく、という説が挙げる例の一つに次のものがあるだろう。お笑い芸人テレビに出してそのトークで番組を構成する、そのトークの中身は(試聴者もそれを知っていることは前提とされているものの)芸人同士の内輪のからみや楽屋ネタのようなものであり、ネタとして完成された作品であることは少ない。

このような内輪のみに意識が向けられ、内輪のもののみに言及し、その範囲での閉じた連環が固定される。 

テレビの現状が本当にこのようなものであるかは知らないが、仮に、このような番組しか放送されていない世界になれば、テレビというメディアは衰退するという主張が現れておかしくはない。

日本語が、「普遍語」の役割を果たしうる「国語」であることをやめ「現地語」になってしまう、という水村さんらが表明される危機意識というのは、このようなものとして理解することができるのではないだろうか。

水村さんのインタビュー記事を読むと、

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm

中途半端国民バイリンガル化を求めるより、少数精鋭の二重言語者を育て、翻訳出版伝統を維持する。作文を書かせるより、古典たっぷり読ませる教育を積む。それが日本語生命を保つ現実的な方策

ここで「少数精鋭」でもよいので「翻訳出版伝統を維持する」ことが主張されているのは、上で述べたように、外に目を向けなくなることにより日本語および日本社会ローカルレベルへと自壊していくのを防がなければという問題意識を背景とした主張だと、わたしは理解した。】

 

2008-11-06

 日本では、すべてが可能であることを疑い、オタクの力に疑問を呈する人がまだいるなら、今夜がその答えだ。今度の選挙は違うと信じて、投票所に並んだ人々の列が答えだ。老いも若きも、自民党支持者も民主党支持者も、在日朝鮮人日本人も、同性愛者もそうでない人も、健常者も障害者も、すべてが出した答えだ。我々は日本(の一員)なのだ。

 長い道のりだった。だが今夜、今日の決戦を経て日本に変革が訪れた。

 この勝利は皆さんのものだ。私は最初から首相に最もなりそうな候補者だったわけではない。金はないわけではなかったが、平民たちが500円、1000円、2000円と献金してくれた。極寒の日もうだるような暑さの日も見知らぬ人の家の玄関を覗いて回った人々のおかげで選挙運動は力を得た。人民の、人民による、人民のための政治が滅んでいなかったと。

 我々の前には大きな仕事が待っている。拉致問題の解決、危機に直面した地球、世紀の金融危機だ。新エネルギーを開発し、仕事を創出し、学校を建て、脅威に対処し、米国との同盟関係を修復しなければならない。

 道は長く険しい。坂は急だ。だが、私は今夜ほど希望に満ちたことはない。私は約束する。我々は一つの国民として目標に到達するのだ。

 挫折やつまずきもあろう。だが、私は皆さんに、常に正直であるつもりだ。この勝利は、変革のためのきっかけでしかない。後戻りはできない。

 今夜我々は、この国の真の力は武力ではなく、コンテンツ伝統技術と不屈の精神に由来することを証明した。この選挙戦では語り継ぐべき多くの物語があった。秋田投票した女性もその一つだ。106歳の彼女は、かつて(女性という)性別から選挙に参加できなかった。彼女日本敗戦後の混乱に包まれ、高度経済成長によって失敗を克服する国を見た。彼女日本がどれだけ変化できるか知っている。我々はできる。

 我々の子どもたちが来世紀を生き、私の娘が森光子さんのように長生きすればどんな変革を目にするのだろうか。どんな進歩を成し遂げられるのだろうか。今がその使命に答えるチャンスだ。今が我々の時代だ。子供たちに機会の扉を開き、豊かさを取り戻し、国体護持を唱え、基本となる真実を確かなものにする時だ。皮肉や疑いに直面した時、「できない」と私たちに語る人がいる時、時間を超えた道理で答えるのだ。為せば成る、と。

2008-11-05

子供のころ、僕は町の道場で空手を習っていた。

空手にはいくつも流派があって、有名なのは極真正道会館といった直接身体に拳をあてるフルコンタクト空手だけど、僕が入門した近所の道場は寸止めルール伝統派だった。

あれは小学校に入学する前だったのか後だったのか、ともかくそのころやってたアニメに影響されて始めたのははっきり覚えている。

そんな理由で始めた空手だったからそれほど熱心にやってたわけではなくて、最初のころは練習時間に居眠りして怒られたりもしたけれど、なんとなく惰性で続けているうちにそこそこは強くなって、試合なんかにも出るようになった。

当時の小学生の試合は男女の区別がなく学年で分けられてただけだったけど、中にはとても強い女の子もいた。

その子は僕が通ってたのとは別の道場の先生の娘で、その地区では何度も優勝している実力の持ち主だった。

試合はトーナメント制だったのでお互い勝ちすすめばいつかは当たることになるのだけど、僕はなぜだかいつも早い時期にその子と当たって毎回負けていたので、小学生のころは一度も入賞したことがなかった。

中学3年のとき、地区大会の型の試合で初めて準優勝して全国大会に出れることになった。

長年の努力が実を結んだ、なんてことではなくて単に高校受験のために選手層が薄くなっていたのだ。

全国大会出場者は地区の本部道場で強化合宿をすることになっていたので僕もそれに参加し、同じく参加していた彼女とそこで初めて話しをする機会があった。

僕のほうは何度も彼女に負けていたので当然覚えていたのだけど、彼女にとってはトーナメントを勝ちすすむなかで当たった相手のひとりでしかない。

記憶になくても不思議はなかったのに、彼女のほうから「試合で何度も当たったよね」と言ってもらえたのは嬉しかった。

決して可愛くはない彼女が、そのときはすごく可愛く見えた。

高校1年の終わりに引越すことになって、通っていた道場に行けなくなったときに僕は空手を辞めた。

彼女のこともたまに思い出すことがあるくらいでしかなかったのだけど、今日(日付でいえばもう昨日になっているが)20年ぶりに偶然再会した。

再会といっても向こうはまったく気づいてないだろうし、第一本人かどうかも確かじゃない。

近所のドラッグストアレジ打ってる女性の顔になんとなく面影があり、レシートに打ち出されていた名前同姓同名だっただけだ。

確かめたいとも思うけど、確かめたところで意味がないことでもある。

次にその店に行ったとき、もし彼女レジに立っていたら僕はどうするんだろう。

話しかけてみるだろうか、知らないふりをするだろうか。

どちらにしても後悔しそうな気がする。

2008-11-01

日本は侵略国家であったのか」を読む つづき

前回↓が途中で切れたため、その段落から改めてつづきを貼ります。

http://anond.hatelabo.jp/20081101232814

 さて日本中国大陸朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争突入し3 百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局(NSA)のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成18年5月号に青山学院大学福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカ1940年から1948年までの8年間これをモニターしていた。当時ソ連は1回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争最中である1943 年から解読作業を開始した。そしてなんと37年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば1933年に生まれたアメリカフランクリン・ルーズベルト政権の中には3百人のコミンテルンスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2の財務次官ハリーホワイトであった。ハリーホワイト日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルト共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリーホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機100機からなるフライイングタイガース派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ1ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカ日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。

 「ホームページに載っている」と、また典拠をあいまいになさっていますね。アクセス日時を明記して、該当のURLを示すことも論文ルールとして確立しています。典拠となる論文の題名も該当ページも省略されていますが明記するのが普通です。先行研究の要約と著者の意見の区別がつかないのも問題です。先行研究の要約にオリジナリティはありません。先行研究について論じたいのであれば別でしょうが、先行研究を手がかりに、何かを主張したいのであれば、引用でも注でも根拠となる史料(この場合は「機密資料」)の該当部分を明記するのが論文ルールです。ちなみに孫引きは基本的にしてはいけません。原典にあたらずに引用元の編集が正確であるとは言えないからです。つまり、読む側からすると、根拠が示されていないがために、その主張を認めることはできません(学問ルールにおいては、主張する側に立証責任があります)。

 ルーズベルト戦争をしないという公約大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1撃を引かせる必要があった。日本ルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。日本アメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第2,第3の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車洗濯機パソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類歴史の中で支配、被支配の関係戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。

 繰り返しますが、根拠のない推測は論文の中では無価値です。さて、戦った結果、無条件降伏して占領(=支配)されました。その後、戦争をせずとも、サンフランシスコ講和条約を結んで独立できましたし、奄美諸島小笠原諸島沖縄も返還されました。

 さて大東亜戦争の後、多くのアジアアフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。

 しつこく繰り返しますが、風が吹けば桶屋が儲かる式の主張に説得力はありません。「国家間の問題も話し合いによって解決」とのことですが、イラク戦争グルジア戦争は話し合いではありません。「百年、2百年」の根拠も示されていません。「人種平等」を推進した国際連合を結成したのは、勝った「強者」の国々でした。

 一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。しかし人類歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカ日本首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返

ってこない。ロシアとの関係でも北方四島は60年以上不法に占拠されたままである。竹島韓国の実行支配が続いている。

 また、「・・・・・・という人」、さらに「・・・・・・と思っているのであろう」ですが、藁人形を叩いても論文に説得力は生まれません。論文で心情の吐露をしても説得力は増しません。私の立場を表明しておきますが、人の生を無益だとする考え方には賛同しないことと、批判的検討を行うことは両立すると考えています。

 東京裁判はあの戦争責任を全て日本押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロール戦後63年を経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本アメリカ化が加速する。日本経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法アメリカシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は20年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係改善の必要があると思っている。

繰り返しますが、論文における藁人形叩きに意味はありません。

 自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。

 国を主語にしたのですから、そのように表明している公式見解くらい示してください。個々の語りについても、他者が参照できる形で提示されないものは論拠になりません。最後まで「侵略」の定義がなされないままでしたね。

戦時中アジア諸国と日本との関わりについては以下の諸論文を参照。

吉川利治「タイ国ブーン政権太平洋戦争」『東南アジア研究』19(4)、1982年、363-387ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/56071/1/KJ00000133800.pdf

大野徹「ビルマ国軍史(その2)」『東南アジア研究』8(3)、1970、347-377ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/55632/1/KJ00000134014.pdf

中里成章「日本軍の南方作戦とインド」『東洋文化研究所紀要東京大学)』151、2007年、149-217ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/5716/1/ioc151004.pdf

黒田展之・小林裕一郎「シンガポール華僑粛清事件裁判記録(1)」『法と政治関西学院大学)』49(2/3)、1998年、327-337ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0001061933

同「シンガポール華僑粛清事件裁判記録(2・完)」『法と政治関西学院大学)』49(4)、1998年、575-614ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0000592111

谷川榮彦「太平洋戦争東南アジア民族独立運動」『法政研究九州大学)』53(3)、1987年、361-398ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008279870

 日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在先進国の中でも暴行殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。

事実を丹念に」見せるのが実証的研究です。この「論文」はそうではありません。

「嘘やねつ造は全く必要がない」心の底から同意します。

以上、お目汚し失礼しました。もっと勉強しなければ……

(追記)日本新聞記事へのリンクを貼り忘れていたので追加します。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081031-00000123-jij-soci

http://www.asahi.com/politics/update/1031/TKY200810310298.html

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008110102000087.html

(再追記)論文の題名に誤りがあったので訂正しました。田母神様、申し訳ありませんでした。

2008-10-29

[][]クルーグマン米国日本になってしまった」

http://www.business-i.jp/news/bb-page/news/200810220019a.nwc

ポール・クルーグマン氏(55)と初めて出会ったときのことは忘れられない。男子トイレでの出来事だった。

 1998年8月、シンガポールトイレで手を洗っていると、隣に(著名な)エコノミストがいることに気づいた。クルーグマン氏が今しがた講演した「流動性の罠(わな)」による日本経済の弱体化について、ちょっとした雑談をしながら、私たちはトイレの流し台が壊れているのをみた。

 「これこそまさに、流動性の問題だ。世界中どこに行ってもつきまとってくる。」クルーグマン氏は顔色一つ変えずにそう言った。

 そのときのクルーグマン氏のジョークを思いだしたのは、彼がノーベル経済学賞を受賞したからというわけではなく、国際金融システムが陥っている状況と関係があるからだ。問題は各国中央銀行が信用、ひいては経済コントロールする能力を失ってしまうのかどうかにある。

 ≪アジア危機を予言

 「経済活動における貿易の傾向と拠点の分析」によってノーベル賞を受賞したクルーグマン氏は、日本バブル崩壊後のいわゆる「失われた10年」に関する研究でも知られる。

 アジアクルーグマン氏に対する評価が高まったのは1990年代半ばのことで、当時、同氏は1997年のアジア危機を首尾一貫して予言した人物の一人だった。その数年後には、クルーグマン氏はアジアが目覚ましい回復を遂げると予測し、的中させた。

 日本金融政策の停滞に関する調査研究が、アジアやその他の地域にも通じることを証明した。日本の「失われた10年」が、例外ではなく世界中蔓延(まんえん)するリスクだ。

 米国も例外ではなかった。1月以降、米連邦準備制度理事会は主要政策金利を4.25%から1.5%まで引き下げてきた。そうした政策が米国経済の支援となっただろうか。

 ≪「米国日本に…」≫

 中央銀行金融政策を施してからその効果が経済に表れるまでに相当な時間差はあるものの、米国消費者は信用危機の予期せぬ影響を完全には体感し始めてはいない。バーナンキFRB議長は一段の利下げ圧力にさらされるであろう。

 クルーグマン氏は、ブルームバーグインタビューに対し「あらゆる点から考えて、われわれは“流動性の罠”の領域にいる。バーナンキ議長はあと何回か利下げを実施できるが、実体経済に影響を及ぼさないだろう。ええ、そう。伝統的で従来型の金融政策が奏功する余地はない。弾切れだ」と述べ、さらに「米国日本になってしまった」と語っている。

 ≪ケインズ主義浮上≫

 クルーグマン氏はまた、経済において政府が果たす役割を重視するケインズ経済学ケインズ主義)の提唱者でもある。12日に米NBC放送のインタビューに対して、ニュージャージー州知事ゴールドマン・サックス会長のジョン・コーザイン氏の発言を補足して、「恐らく肝心なのは、われわれが実体経済に対する刺激を必要としているということだ」と語っている。

 王立科学アカデミーが期を逃さず現時点でクルーグマン氏への授賞を決定したのは、ケインズ主義が過去の遺物ではないとの認識が高まっていることと関係があるように思われる。

 現状はケインズ主義が葬られたとする向きにはほど遠い。米国金融システム国有化しているのと同様に、航空会社自動車メーカー、大手小売業者が政府資産としてバランスシートに計上されるのも時間の問題のように思える。

 グローバリゼーション世界に、国有企業民営化され、そして再び国有化されるといった循環をもたらしている。レッセフェール(自由放任)型資本主義の信奉者である経済学者フリードマン氏の政策よりも、長きにわたってケインズ提唱し、最近ではクルーグマン氏が主張する経済政策に軍配があがるように思われる。

 しかし、やはり最大のリスクの一つは、中央銀行の(存在)意義が危機にひんしていることだ。日本の信用システムはいまなお罠にかかったままだ。他の国が日本と同じ羽目に陥れば、事態はさらに悪化しかねない。(William Pesek)

                  ◇

 William Pesek氏は、ブルームバーグニュースコラムニストです。このコラムの内容は同氏自身の見解です。

2008-10-28

http://anond.hatelabo.jp/20081028130604

中国の奥地とかインドとかに木や岩と結婚する風習があると聞いたが。

もちろん法的な裏づけはなくて、伝統的な風習でしかない。

「○○は俺の嫁」ってのに、法律上の効力を認めたら何かメリットがあるのか?

配偶者控除が適用されるとか?

2008-10-25

http://anond.hatelabo.jp/20081025062245

あなたが歳をとったから、そう感じるだけになっただけだよ。

橋口たかしの画風は、良くも悪くも昔ながらの少年マンガ風。

昔のコロコロコミックスには、あんな画風の絵が多かったような気がする。

だから子どもたちには受けがいいし、そういう少年マンガに馴染んだ大人(コナンが好きな人とか)にとっても受け入れやすいんじゃないのかな。

ただ、そういう伝統的な少年マンガを求めてない人にとっては、つまらないマンガ家さんではあるよね。

私もつまんないと思うし。

2008-10-10

こんにゃくゼリー論争の背後にある「食の安全意識対象の違いにつ

こんにゃくゼリー((マンナンライフは「フルーツこんにゃく」と称しているが、本稿では(読めば明らかなように)マ社の具体的事故防止策の当否について問題としない事、世間ではマ社の呼称にかかわらず「こんにゃくゼリー」と言い慣らされている事から、「こんにゃくゼリー」の語を用いる。))による死者はこの13年で17人にのぼる。

近年は「食の安全」の危機が叫ばれているが、事故米メラミン、ちょっと遡ればBSE等々、いずれも大問題とされたが、これらによる死亡例を私は聞かない。死者の数だけに注目すればこんにゃくゼリーによる被害は、社会問題となった食料品としては、久しく例を見ない甚大なものである。規制を求める声も、共感するか否かはともかく、理解できようというものだ。

しかし他方で、これに対する規制(を求める声)や行政指導に対しては反対の声も強力だ。これは他の社会問題化された食品についてはあまりみられない事実である。

規制反対派の「餅の死者の方が多い」という声に代表されるように、喉に詰まらせて死亡する危険のある食品こんにゃくゼリーだけではない。

もっとも餅を出す論者も、「餅も危険だから餅を規制しろ」などとは言っていない。

死亡に限らずとも、例えば「草加せんべいが固過ぎて歯が欠けた、池田大作許すまじ」「サンマの塩焼きで小骨が喉に刺さった、さんま許すまじ」といった声は聞かれない。

餅やせんべいは、それによって消費者健康を損ねても「食の安全」の問題とされないのだ。

これに対してこんにゃくゼリー規制賛成派から「伝統食品と新興食品とでは比較にならない」といった反論も見られるが、これによって規制反対派は説得されていない。

なぜなら、規制反対派にとって餅とこんにゃくゼリー本質的に同じ問題なので、いずれも「食の安全」の問題にならないからだ。

さて、それでは、規制反対派にとって、死者のいない事故米が非難され死亡例が止まないこんにゃくゼリーが容認されるのは何故だろうか。

それは両者の被害の「質」の違いにあると考える。

一致して非難される「食の安全」問題は、成分に関する問題である。

これに対しこんにゃくゼリーは、(化学的ではなく)物理的・工学的な性質から生じる問題である。

成分に関する問題は、それを摂取する全ての人が危険に晒される。

今まで安全だと思って摂取していた食品によって、健康が害される事になるのだ。

この危険は、食した人全てに、累積的に生じる。

ここでは「現実に自分や近親者がその食品を口にしたか」は問題とされないようだ。

森永ヒ素ミルク事件について、自分の身近に乳幼児がいなくとも、多くの人はこれを問題視した。

また、成分に関する問題は、現実健康被害が殆ど無くとも問題視されるようだ。

なお、危険な成分を含む食品も、危険性を明示している場合にはさほど非難されない。

しかし、こんにゃくゼリーの問題はこれを餅と同じ問題だと考える限り、危険性の明示の問題ではない。なぜなら餅はその危険が明示されていなくても容認され続けてきたからだ。

この視点を徹底するならば、こんにゃくゼリー危険パッケージに表記しなくてもなお問題が無いという立場に行き着く。

危険の明示の問題としつつ「これ以上の」規制に反対する立場については後で述べる。

閑話休題

これに対し、食品物理的性質に由来する問題は、全ての人が危険に晒されるわけではない。適性を有する者が食べる限り、全く問題がないのだ。

なるほど乳幼児こんにゃくゼリーを食べれば、高齢者が餅を食べれば、これらを喉に詰まらせよう。「しかし私は大丈夫。」

ここで悪いのは適性を欠くにもかかわらずそれを食べた(食べさせた)人だ。そうした愚か者のせいで、全く問題のない美食が規制され失われるのである。

ある科学物質を致死量の1%含む食品があったとしよう。簡単のために、この化学物質は全ての人にとって致死量が等しく、また排出も分解もされない事にする。

この食品を100回食べれば全ての人が死ぬ。

これは安全な食品とは言えない。「食の安全」の問題になる。

他方、1%の人が上手く食べられずに死ぬ食品があったとしよう。簡単のために、この食品は残り99%の人にとっては全く問題無いとする。ついでに自分が死ぬ1%か否かは事前に確実に判る事にしよう。

この食品は、99%の人にとっては完全に安全な食品なのだ。「1%が死ぬ」食品だが、99回食べようが何万回食べようが、死ぬ可能性は0だ。

はたしてこれは「食の安全」の問題だろうか。

「適格を欠く者が食べると危険がある食品」について、これが「食の安全」を脅かすと考える立場からは、こんにゃくゼリーは「食の安全」の問題となる。規制し、改善を要求する筋合いのものになる。

他方、このような食品は単に食べ手を選ぶだけで、規制改善が要求される「食の安全」の問題ではないと考えるならば、こんにゃくゼリーは許容される。

つまり、こんにゃくゼリー規制派と規制反対派の違いは、「食の安全」を成分の問題に限定せずに物理的性質をも含めるか否かによる。

形状や食感が「食の安全」の問題とならないと見る立場からは、これらを規制する事は不合理なのだ。粘りのない餅、軟らかい草加せんべい弾力を欠き妙に大きいこんにゃくゼリー強要されるのは、美食に対する無意味な制約なのだ。

ところで両者の折衷的な説として、充分に危険周知されるならば危険物理的性質も許されるとする見解がある。要するに「パッケージに書け」という立場だ。

この立場は、パッケージに書いていないならば非難に値すると考える点で、そしてパッケージに書く内容を指定する点で、本質的には食品物理的性質を食の安全の問題に含めており、こんにゃくゼリー規制派に属する。

この立場から餅が許容される根拠は、餅が危険であることはすでに歴史的に周知されている点に求められよう。

して危険性の十分な周知が行われている場合には、その周知にもかかわらず食べて事故にあった者が非難されることになる。

蒟蒻畑の件について言えば、マ社の活動が十分だと見る者からはこれ以上の規制は反対され、不十分と見る者からは製造停止も已むなしとされる。

どこをもって「十分」と見るかの線引きは難しい。例えば、「マ社がゼリーと言っていないとしても、殊更に調べない限りこれに気付かずゼリーと同視するのが通常であるあら、マ社は『蒟蒻畑ゼリーではありません』と積極的に広報する必要があった」という見解もあり得る。

以上をまとめれば、

という見解がある。

ような気がする。

余談。「今回は凍らせてたから〜」について。

凍らせるのは普通消費者して想定しうる行動だろうと思う。「凍らせて食べさせた以上自業自得だ!」と言ってる人のどれだけが「凍らせるなんてあり得ない、非常識だ」と思っているのだろうか。猫をレンジに入れるのとゼリー様の物を凍らせるのとでは、予見可能性に明らかに違いがある。某所で「凍らせずに食べるのが最も普通の食べ方だ」という意見を見かけけど、「最も」普通な場合に限定して安全性を確認するのは不適切と思われる。凍らせるのも非常識とまでは言えない程度に普通ではなかろうか。っていうか凍らせた蒟蒻畑も美味しいよ?

2008-10-03

レースの下着はなぜあんなに女性を美しくするのか

突然ですが

女性の下着はレースに限ります。

純白で手織りなら完璧です。

レースの下着は女性の体が持つ曲線の美しさを強調しつつ、

メスとしての艶かしさを清廉さで覆い、

女性をひとつの芸術作品に仕立て上げます。

それは、人類が成し遂げた「デザインによる自然の超越」のひとつと言えるでしょう。

中世ヨーロッパではレースは「糸の宝石」と呼ばれるほど珍重され、貴族がこぞって買い求めました。

レースはなぜこれほどまでに美しいのか。そして、どうやって広まったのか。

そこには、ひとつの物語があります。

レース伯爵物語

まだフランス群雄割拠の時代に、

レース伯爵は生まれました。

レース伯爵家系は代々続く貴族家系で、

イタリア貴族である母の家系には代々続く伝統的な織り技法が伝わっておりました。

レース伯爵は、群雄割拠貴族貴族を襲い、多くの家が絶える時代に

優秀な領主である父と、美しく優しい母に守られて、

織物の伝統技法を教えられながら激動の時代を生きました。

しかし、その時代も長くは続かず、

フランス王家ルイ14世フランス領土拡大に動き出すと

領主の父はルイ14世と戦わなければならない事態になりました。

レース伯爵の父は元々王家に忠誠を誓っていましたが、

強権的で重税を強いるルイ14世の統治は領民の利益に反すると判断し、

またイタリアの妻の家系との関係を重視して、

圧倒的な武力を誇るルイ14世と戦う決意をしたのです。

歴史が示すとおり、戦争ルイ14世の勝利に終わり、

レース伯爵の父は善戦虚しく討ち死に、

母と家来は捕えられて処刑されてしまいました。

ただ、まだ年端のいかなかったレース伯爵だけが処刑を免れ、

陸の孤島のような小さな砦に監視付きで閉じ込められることとなりました。

レース伯爵はただ過ぎていく日々のなかで

母から伝えられた織物をひたすら織り続けていきました。

それは彼にとって、頼れる父と優しい母に守られた暖かい日々を思い出すための作業だったのです。

10年が過ぎ20年が過ぎ、

ルイ14世の治世でフランスは栄え貴族の文化が花開いていきました。

陸の孤島にいるレース伯爵はそんな時代の動きとは関係なく、

ただひたすら伝統の織物を織り続けていました。

陸の孤島に取り残されてからさらに10年20年が過ぎていくうちに、

レース伯爵の織る織物は少しずつ、人々の心を動かしていきました。

まずは監視の兵士、

そして兵士の間で

そして、ついにはルイ14世の耳にもその評判が届くようになりました。

ルイ14世過去に葬った領主の息子のことなどはすっかり忘れていましたが、

その織物を一度見たいと、

レース伯爵を王宮に呼び寄せ、

織物を見ることにしました。

レース伯爵はすでに初老になっていましたが、

彼が織る織物はルイ14世の目を引き、心を奪いました。

そして、そのあまりの優美さにルイ14世は彼の釈放を決め、

王宮付きの衣装係として特別な待遇を与えました。

ルイ14世が認めたことで、レース伯爵の織物は彼の名前を冠して貴族中に広まり、

さらに伯爵は教えを請う人には惜しげもなく織り方を教えたため

彼の織物はフランスの宮廷衣装の彩を支えるものとなりました。

レース伯爵解放され、一躍貴族文化の中心人物となりましたが、

その後も妻を娶ることなく、

子を成すこともなく、

ただ日々を織物を織ることで過ごしていきました。

逞しい父と優しい母に囲まれて幸せだった、暖かい日々を思い続けながら。

334 :可愛い奥様:2007/06/26(火) 09:46:19 ID:raxdPvfD0

OLだった頃、会社で働いていた日本に超詳しいベルギー人が言ったことに納得してた。

日本文化は身内受けの凝り性文化だそう。

外国文化に負けまいとしているのではなく、

世に意図的にインパクトを与えようとしているのでもなく、

今ここにいる同じ価値観を共有する仲間からの喝采を浴びたいと考える。

その結果、同じものを志す者同士の「これすごいだろ、おもしろいだろ」合戦が始まり、

そこで生み出される物が自然と研ぎ澄まされていく。

でもその競争は、敵対的なものではなく、お互いを尊敬しあいながら、静かに深く進行していく。

そしてある日、偶然目撃した異文化出身の人間外国人)から、

それがすごいものであることを知らされる。

ほとんどの日本人はその日が来るまで、自分たちが作り上げた物がすごいものとは知らない。

もろもろの伝統文化、芸能、電化製品アニメ、他、みんな同じパターン世界に広まっていった。

だから、日本がここまで発展してきたのも必然的なものだし、

この精神が衰えない限り、これからも日本は誰に頼まれることもなく、

知らないうちに勝手世界インパクトを与え続けていくだろうと。

ラコステクロコダイル

俺は右向いてるのがラコステ、左向いてるのがクロコダイルって覚えてる

ラコステのほうが歴史古いから、伝統的→右翼→右向きという覚え方です

みんなは?

2008-09-22

民主主義の罠―国益考えて投票とか言ってる奴はバカ

別にナショナリズム批判とかそういう話ではない。

民主主義社会において、選挙投票は「どうすれば自分が一番トクをするか」だけを考えて投票すべきものなのだ。

これが唯一絶対に正しい答えである。

「どうすれば日本が良くなるか。」なんていちいち考えて投票してるやつはバカの極みである。

口先だけの政治家の養分でしかない。

誰(どの党)に投票すれば日本全体を良くしてくれるかなんて問題に答えはない。

日本圧力団体(好意的に呼ぶなら利益集団)を考えてみよう。

医者はどうすれば診療報酬が一番もらえるかだけを考えて投票している。

百姓はどうすれば農家が優遇されるかだけを考えて投票している。

財界はどうすれば労働者の権利を弱め法人の税金を減らし自分たちが金儲けできるかだけを考えて投票している。

年寄りはどうすれば自分たちが年金を沢山貰い、医療費を払わずに済むかだけを考えて投票している。

彼らは自分たちの利益にならなければ伝統的な支持政党すら捨てる動きを見せている。

全く合理的で正しいプレイヤーだ。

ところが、いまどきの若者ときたら、そもそも選挙に行かないクズはさておき、やれ誰の政策が国益資するだの、どの政党日本のことを考えているかなど悪い意味純粋なことをネットで(冷めているフリをしながら)熱く語って、そしておそらくそれを投票行動に反映させている。

そんなに難しく考える必要が無い。

自分の一票だけで誰が当選するか、どの政党与党になるか変わるのであれば、それは「日本国益」なんてものを深く考えて投票するのが良いかもしれない。

しかし、どうせ一票は一票に過ぎない。であれば、単純に自分が一番トクしそうなところに票を投げておくのが一番合理的な唯一の正解なのだ。

そうすれば、勝手にいいように調整されるように民主主義という市場はできている。

外交だの国防だの難しいところは結局、どこの誰が政権とってもなんとかしてくれるんだから。

ただ、どうすれば自分個人がトクをするかだけ考えて投票行動しよう。

日本国益を考えて投票」なんていっている奴は「9条反対!」だけを唱えているような団体以上のお花畑君である。

2008-09-21

http://anond.hatelabo.jp/20080921144452

透明人間になったらなにする」の返答は

「女湯を覗きに行く」はもう、テンプレートと化した返答だろ。

男の子向けの漫画透明人間になれた主人公は必ず女風呂に向かう。

ドラえもんの時代からの伝統芸だ。

むしろそう答えないほうがどうかしてるレベルだとおもうぞ。

というか、そう答えないやつは何なんだ!

マクロス伝統は受け継がれているようで安心した。

2008-09-16

http://anond.hatelabo.jp/20080916225634

東京にも何世代にもわたってすんでいるご家族もいれば、地域交流もあれば、伝統的な祭り町内会もある。

ただ、良くも悪くも日本的な村社会なので。

地方からやってきた人が見る東京都と 東京村はきっと別物なんだろうなぁとか思います。

ま、村に来たと思って地道になじめばいいとおもうよ。

そういう意味では、引っ越したら両隣に引っ越し挨拶をするというのは、ウザイいんだけど、地域にとけ込む一つの橋渡しだったのにね。

なくなってきていて、東京村に入れない人はますます、入れなくなってきてるよね。

2008-09-10

http://anond.hatelabo.jp/20080909222057

うちの家では

最近年寄りダメすぐる。

昔の年寄り、マジぱネェwwww

というのがデファクト・スタンダードです。昨日も60代ぽい婆さんが信号無視してんの見た。恥ずかしくねえのかよ、小学生が見てるよ。あんた。

子どもの頃…30年くらい前、年寄り漢文とかすらすら読めんの普通だったんだぜ。古文なんて趣味レベルだぜ。戦争とか行ったりして、その後で「やっぱ平和大事だよな」とか超説得力あるじゃん。でもって70越えても元気で、冗談とか面白い。スポーツとか楽しんで、そのくせ清貧で礼儀とか弁えて伝統とか超大事にしてんだぜ。年金なんてほとんど貰えない癖にニコニコしてたぜ。

無茶苦茶偉いじゃん。

まったく今の老人に、少しは彼らの爪の垢呑ませたいもんだよな。ホント。

2008-09-07

イスラムオタが非オタ彼女イスラム世界を軽く紹介するための10冊

http://anond.hatelabo.jp/20080721222220

まあ、どのくらいの数のイスラムオタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、その上で全く知らないイスラム世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、イスラムのことを紹介するために見せるべき10冊を選んでみたいのだけれど。

(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女アニメ布教するのではなく相互のコミュニケーションの入口として)

あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴う4巻、6巻のシリーズは避けたい。

できれば新書文庫、長くても単行本一冊にとどめたい。

あと、いくらイスラム的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。

映画好きが『カリガリ博士』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。

そういう感じ。

彼女の設定は

イスラム知識はいわゆる「テレビまんが」的なものを除けば、高校倫理世界史程度はかじっている

サブカル度も低いが、頭はけっこう良い

という条件で。

まずは俺的に。出した順番は実質的には意味がない。

井筒俊彦イスラーム文化』(岩波文庫

まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「井筒以前」を濃縮しきっていて、「井筒以後」を決定づけたという点では外せないんだよなあ。厚さも文庫一冊だし。

ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。

この情報過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報彼女に伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」試験としてはいいタスクだろうと思う。

片倉もとこ『イスラーム日常世界』(岩波新書)、桜井啓子『日本ムスリム社会』(ちくま新書

アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうな入門書(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのものという意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには一番よさそうな素材なんじゃないのかな。

イスラムオタとしてはこの二つは“エッセンス”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。

ニザーミー『ライラとマジュヌーン』(平凡社

ある種のイスラム神秘主義オタが持ってる愛への憧憬と、ペルシア文芸のオタ的な悲劇へのこだわりを彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも谷口悟朗

童貞的なださカッコよさ」を体現するマジュヌーン

童貞的に好みな女」を体現するライラ

の二人をはじめとして、オタ好きのするキャラ世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由。

リチャード・ベルコーラン入門』(ちくま学芸文庫

たぶんこれを見た彼女は「聖書学だよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。

この系譜の作品がその後続いていないこと、これが東洋学では古典になったこと、イスラム世界伝統とは相容れず、それが日本に輸入されてもおかしくはなさそうなのに、日本国内でこういうのがつくられないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。

佐藤次高・鈴木董・坂本勉編『新書イスラーム世界史』(講談社現代新書

「やっぱり新書は一般のためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは板垣雄三編『「対テロ戦争」とイスラム世界』(岩波新書

でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかける著者たちの思いが好きだから。

断腸の思いで削りに削ってそれでも三巻、っていう尺が、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、その「捨てる」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。

全三巻の長さを俺自身は冗長とは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、一方でこれが『新書アフリカ史』や『物語△の歴史』(中公新書)だったらきっちり全一巻にしてしまうだろうとも思う。

なのに、各所に頭下げて迷惑かけて全三巻を作ってしまう、というあたり、どうしても「自分の物語を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえ著者たちがそういうキャラでなかったとしても、親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。

深見奈緒子世界イスラーム建築』(講談社現代新書

今の若年層で神戸モスク東京ジャーミーを見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。

現段階でイスラム建築研究の制度的担保がなされていない日本において、関連する新書はこの作品以外にはほとんどないとも言えて(中公新書の『モスクが語るイスラム史』は絶版)、こういうクオリティの作品が日本でこの時代にようやく出てきたんだよ、というのは、別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなくイスラム好きとしては不思議に誇らしいし、報道や資料集でしかイスラム建築を知らない彼女には見せてあげたいなと思う。

マルジャン・サトラピ『刺繍イラン女性が語る恋愛結婚』(明石書店

現地女性の「目」あるいは「語り」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。「座学の教義理解からはとらえられない地域の日常を毎日生きる」的な感覚イスラム教徒には共通してあるのかなということを感じていて、だからこそ地域を知るための基本書は『もっと知りたい○』(弘文堂)、『暮らしがわかるアジア読本●』(河出書房新社)、『◎を知る■章』(明石書店)以外ではあり得なかったとも思う。

日常を生きる」というイスラム教徒感覚を知りたいという気持ちが今日さらに強まっているとするなら、その「理解」の源は現地の声をじっくり聴くことにあるんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。

中田考『イスラームロジック』(講談社選書メチエ

これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。

こういう日本人イスラム教徒イスラム理解をこういうかたちで書籍化して、それが非イスラム教徒に受け入れられるか気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。

谷川流涼宮ハルヒの憂鬱』(角川スニーカー文庫

9本まではあっさり決まったんだけど10本目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にハルヒを選んだ。

井筒から始まってハルヒで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、YouTube以降のアニメ時代の先駆けとなった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。

というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10本目はこんなのどうよ、というのがあったら教えてください。

「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。

こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。

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