はてなキーワード: 伝統とは
自分はもう40代なんだけど、それなりに紆余曲折の末、若い頃に思い描いていた夢にやや近い仕事ができてるし、先のステップも見えているんで、多分死ぬまで夢に近づいてく道にいるだろうなと思ってる。
夢ってのは甘美な言葉でね。夢のためなら大概のことは犠牲にできちゃうし、逆に大概のことを犠牲にするくらいコミットしてないとかなわないから夢なんだとも言える。でも、大概のことを犠牲にする言い訳にも使えるんだよね。
夢の内容によっては年齢にリミットがある場合もあるから当てはまらないかもしれないけど、彼氏にこう考えてもらったらどうかな。「40になって、あるいは60になっても芽が出ずに、相方が仕事して自分が主夫してて、毎日洗濯したり子供迎えに行ったり晩飯の材料買出しに行ったりして、それでもまだ夢を追っている生活」が想像できるかどうか。人にもよるけど、男にとって「一生喰わせてもらう」「外で稼いでくる相方のためにずっと家を守っている」っていうのは伝統的な観念に反するから、受け入れ難い人もいる。だから「いつかは夢を実現して、家族に喰わせてやる」って思っているかもしれない。男のプライドってやつだね。でも、「夢を追う」と「家族を持つ」を両方取りたかったら、一生家族に喰わせてもらうって選択肢を現実のものとして考えないとならない。つまり夢のために「男のプライド」を犠牲にする覚悟がいる。その覚悟が無いと、家族の方を犠牲にすることになるよ。
仮にネットで無料で閲覧できるコンテンツがクールで、テレビや映画など伝統的なメディアに乗るコンテンツは古臭いものだという認識が一般的になったとする。その瞬間旧来のメディアが持っていた市場の何パーセントかは文字通り消失することになる。本来あるはずだった広告費や雇用などは安価で単位時間当たりに流通する貨幣が圧倒的に少ないCGM市場に飲み込まれ、失われる。コンテンツの受け手作り手両方がCGMに費やした時間という名の生産性も含め、もう二度と戻らない。
オールドメディアは広告を利用して印象を操作し、たいして優れているわけでもないコンテンツを高値で売りつけていたのだ。ユーザが生産するコンテンツだってそれに大きく劣るわけではない。などと言う向きもあるかもしれない。それは確かに真実だが、泡がはじけて最終的に困るのはわれわれだ。今の社会はそれなりの資金が継続的に流通することを前提にして成立している。
参加者のほとんどが「必ずしも生存に必要でない財」を生産する社会が100年後にも変わらず存在している可能性はかなり低い。生存を秤にかけるような覚悟でCGMコンテンツを作っている訳でもないのだろうし、取るに足らない自尊心を満たすために希少な衆目を得ようと苦心するくらいなら、その時間をより経済的な価値のある財の生産に当てる方が余程幸せになれるはずだ。その意味ではオールドメディアのハッタリだってCGMコンテンツより幾分マシだと言い切るものである。
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ほとんど働かなくても十分なほどの資源が手に入る社会ならば、有り余った時間をつぶすためのお遊びを考える余裕もあるかもしれない。昔は暴力で奴隷を手に入れることでそういう状況を作り出すこともできた訳だが、今となっては望むべくもない。ロボット産業の発展に望みを託すのみである。
www.midnighteye.comより、雨宮まみの「弟よ!」経由。
長いので二つに分けました。
日本のアダルトビデオ、略してAVと言われているがそれは驚くべき多様性の世界でもある。もし欲情を喚起するためにセックスを描写し、売り物にするのがポルノグラフィの定義なら、どこからどう見てもそれはポルノなのだ。AVは安価で日本中至るところで目にすることができる。この国のどんなビデオショップに行ってもこのジャンルの商品はたいてい、大きな棚を占めている。
しかし、日本の映画表現が欧米で多くの信者を生み出す一方、アダルトビデオはほとんど顧みられていない。日本の得意とする怪獣もの、アニメをはじめとする全ジャンルに関する日本映画のフェスティバルはヨーロッパ・北米で花盛りだが、AVはどこにある?もちろん、日本のポルノは性器を直接描写できないという問題を抱えている。それらは処理画像の向こうにあり、欧米の視聴者にとってはいささか奇異に映るものだ。にもかかわらず、AVは魅力的な分野である。
まずは、ピンク映画。これは1960年代初頭から制作されている。小林悟の「肉体の市場」がおおまかにいってこの分野のさきがけといえよう。性への大いなる情熱、そして時には理由なき暴力や変わった性的ファンタジーまで描写する一方、ヌードシーンは一部に限られ、疑似性交が主を占める。
そして裏映画(訳注:日本語ではブルーフィルムがより的確な表現だと思います)、こちらはさらに映画史の初期にまでさかのぼることができる。こちらは本番ありの無修正、たいてい8分から10分の短い映画だ。白黒映画時代に欧米に存在したブルー・ムービーは時には手の込んだプロットを開陳していたが、日本のはたいてい伝統的な畳の部屋で性交にいそしむ男女を描写するにとどまっている。裏映画が上映されるのは、だいたい温泉街であった。男の客にとっての温泉街でのくつろぎは、しばしば買春と結びついており、そうした街の赤線地帯では法律で固く禁じられている裏映画ショーを楽しむことができた。今日では裏映画は裏ビデオに取って代わられ、そうした未修整のポルノビデオはビデオショップで信用のある客にのみこっそり売られている。
ビデオデッキの普及に伴い、アダルトビデオは1980年代初頭に成長をとげる。家庭で映画を見る習慣が広まり、そしてもちろんビデオデッキが接続されたテレビでセックスを鑑賞することを人々は望んだ。初期AVは、東映や新東宝といった大手ピンク映画会社により支配された。撮影済みの映画をビデオ化し、自宅向け市場へと流したのだが、短いバージョンであることもしばしばだった。市場の急速な拡大につれ、それらの映画会社はビデオ専用の映像を制作するようになった。これらの映像は直接ビデオで撮影されているにもかかわらず、ピンク映画の伝統を踏襲し、ピンク映画のルール・制限に固執した。
ピンク映画会社の制作するAVは、高額な費用をもって制作され、ほとんどの場合有名女優を主役にすえていた。しかし新世代の野心あるポルノ映像作家はビデオという形態は安価であり、あらゆる種類の新しい可能性を提供してくれることに気づき始めた。つまり機材取り回しの容易さ、無限ともいえる長さの尺をとてつもなく低コストで撮影できるということである。
これらの新しい可能性を最大限に生かした最初の監督が、かつてピンク映画の監督だった代々木忠である。「ドキュメント・ザ・オナニー」シリーズ(80年代初め)にて今日のAVにて見ることのできる根源的要素を彼は取り入れた。本番の導入、そして素人俳優の採用によって秘められた日本のセックス事情をドキュメンタリースタイルで描写したのだ。
「ドキュメント・ザ・オナニー」は驚くべきヒットを記録し、映像に関心のなかった投資家連中という新しいグループの注目を引くことになった。裏本・ビニ本業者はAV制作会社を設立し、金鉱とも思えるそのビジネスに飛び込んでいった。
少額の予算でピンク映画会社に勝つために、本番は彼らの切り札となった。こうした決断は大島渚の刺激であるともいえよう。著名な日本人監督である大島がフランス資本で撮影したアートシアター系映画である「愛のコリーダ」(1976年)は、命がけの悲しい情熱を最大限に表現するために実際のセックスをいくつものシーンにおさめた。一方で、非合法である裏映画からの強い影響も見てとれる。裏モノである「洗濯屋ケンちゃん」が一躍注目を浴びることになった。いつ、誰が作ったのかは現在に至るまでまったく不明である。しかし多くのフィルムが出回り、それらはビデオにコピーされた。主要雑誌はこの映像について書き立て、大きな話題となった。裏映画の直コピーの常として、「洗濯屋ケンちゃん」はもちろん非合法なものであったが、新しい本物のセックスという報道記事によって、どんなにお金をかけても得ることのできない宣伝性を得ることになった。
もちろん、新しいAVにおけるセックスは本物であったが、いぜん審査されていた。セックスシーンでは役者の全身はおろか、クローズアップも映し出されていた。しかし、性器とヘアーはAV業界でいうところの「モザイク」と呼ばれる電子的処理画像に隠されていた。処理画像がある限り、スクリーン上のすべてが許された。精液が処理画像から飛び出して、非処理画面に映る女優にかかってもおとがめなしである。ピンク映画では役者のモチモノは家具や植木鉢をレンズとの間に置くことによって隠されていたが、いまや自由な撮影が可能となった。編集の段階でモザイクをかけ、ぼかすだけでいいのである。
そうした映像処理は、海外映画の審査に起源を発している。ヌードシーンはこれまでカットされることはなかったが、俳優の性器は黒塗り、もしくは白のぼかしで隠されていた。この和らげられた映像が、ある程度本来のイメージを知る、手がかりになったのである。
こうした規格を確固たるものにし、政府の取り締まり・警察の逮捕といった危険からAV産業を守るため、AV会社により自主審査団体が設立された。映倫(ピンク映画を制作する業界により審査委員会が運営されている)をモデルとしたビデ倫が設立された。業界トップは、AV監督がアナーキーな連中の集まりであることを正確に把握しており、最初から強い手段をとることにした。ルールを守らせるための必要な権威づけのために、ビデ倫は審査委員会に警察官僚や役人の天下りを呼び寄せたのだ。
現在ではAV業界は一大産業を形成している。しかしその内訳はさまざまである。ピンク映画会社が今もなお重要な役割を果たす一方、無数の小さな会社があり、世には知られぬ顧客の嗜好を満たすべく特異化をはかっている。とはいっても、AVには二大分野が存在する。つまり、「単体」と「企画」である。単体ものはふつう、大きな会社が扱うが、大予算とひとりのスター女優に焦点を合わせるところに特徴がある。美しい女の子を起用し、なるだけソフトに、かわいく作られる。一方企画ものでは4、5人の女優が一本のビデオに出演する。彼女たちはかわいくもなく、見た目がイマイチであるのは決して珍しいことではないが、カメラの前での行為は大胆不敵である。企画ものはセックスについて変わった側面を取り上げることが多く、小さな会社が制作している。企画ものの方が予算が安く済むからだ。単体女優はスターであり、一本につき100から200万の金を手にする。企画女優はというと、10万から20万といったところだ。にもかかわらず、ふたつのやり方は相互補完的だ。多くの男性視聴者は女の子にふたつのことを望む、つまり可愛らしさと変態さだ。
日本では魅力的な若手女優が必要とされており、単体の女の子はスターでありアイドルでもある。企画の女の子はというと、タレント的であり、それはアマチュアを意味する。こうしたタレント募集のやり方はまさしく日本的だ。モデル事務所やタレント事務所は多くのスカウトマンをかかえている。スカウトマンは若い男連中であり、ファッションに敏感な若い子でにぎわう東京の一角に、前途有望な娘を見つけるべく徘徊している。彼らは若い女性に声をかけ、音楽・ファッション業界の仕事をもちかける。実際、ファッションモデルやテレビのエキストラになる場合もある。レコード会社が特定の容姿を歌唱力より優先させたい場合には歌手になることも。一部の女の子たちは、スカウトマンから声をかけられ、そうした仕事に着くことを夢見ながらおしゃれして渋谷・原宿の通りを歩く。しかし多くの場合、モデル事務所はAVの仕事をもちかけ、そして多くの女の子が「いいですよ」と答える。街角からリクルートされたタレントたちの登場するAVの信じられない本数が示すように。彼女たちはたいてい手っ取り早く金を稼ぐためにAVに出演する。もしくは冒険や遊び心、モデルキャリアへの道を見いだしているのかもしれない。
企画もののスタイルやジャンルを一覧にするにはいささか数が多すぎる。しかしその中で最も重要であり、かつ一般的なものをあげるとしたら、ピンク映画の時代から続く、ずばりそのものの異性間セックスが最初に来るであろう。教師・女生徒・看護婦といったちょっとした嗜好を交えたり、レイプ(AVでは一大分野だ)・緊縛などの暴力の一形態を伴うこともある。しかしAVはビデオならではの特異なジャンルも拡大しつつある。ブッカケ(集団男性が女性の体に射精する、顔がより好まれる)や密着ドキュメンタリーの特殊なケースであるハメ撮りなどである。
ドキュメンタリー的手法は日本のAVの多くに見られる。しかしハメ撮りほどドキュメンタリー的なものはないであろう。手短にいうと、ハメ撮りはポルノ的日記の一種である。それは男性(たいていカメラマンや監督である)の主導のもと、タレントや女優をフィルムに収める作業である。カメラ片手にしゃぶってもらったり、テーブルに置かれたカメラで性交を記録したり、時には行為中にずばりそのものにカメラを向ける。こうしたやり方がたぶん、映像にじかの力を与えているのだろう。キャストなし、クルーなし。ただふたりがやって、その男がまさしくそこでセックスをしている、非常に個人的な視点を視聴者はまっすぐに見せられる(原注:残念ながら、筆者は女性による女性の視点からのハメ撮りにお目にかかったことがない)。
しかし、ハメ撮りの売り物はセックスだけではない。セックスと同じくらいの興奮を呼び覚ますのが、ふつうの、一般的な女の子がどうやって「演じる」かという点だ。彼女たちは朝、地下鉄であなたの隣りに座っていたかもしれない、夜にはビールを運ぶウエイトレスだったかもしれない…夢みたまえ。ハメ撮りが売るもの、それは夢であり、日本の男たちが望むけど実現不可能な、あるいは現実には十分に得られないような性的出会いがあるかもしれない、という夢だ。でもそのイメージはリアルである。それこそ手に取れるくらいリアルだ。
<カンパニー松尾: ハメ撮りの達人>
今日のようなハメ撮りを作ったのが、カンパニー松尾だ。ハメ撮りという生まれたてのジャンルを親密な映像体験に仕立て上げた。彼の代表作である「オークション01」「オークション02」は2004年に制作された。これらの作品(デジタル撮影され、DVDにて販売されている)は松尾が出会ったさまざまな女性との個人的な出会いを多く収録している。
たいてい松尾はレディースコミックに広告を掲載し、彼と会う勇気を持ち合わせた女性を募集する。作品の各章は彼女たちが実際に電話をかけるところから始まる。松尾は彼自身が電話を取り、待ち合わせ場所を決めるシーンをカメラに収める。次に私たちが見るのは、松尾が彼女のいるところに向かって移動するところだ。松尾はおおいに旅を楽しんでいるように見え、それを日記スタイルで撮る。いろんな駅のシーン、車窓からの眺め、日本の日常光景は常に導入部分となり、彼の行き先を示す。最終的に彼は女性が指定する場所で面会する。その場所は彼女の住む町だったり、リゾートだったりする。女性はときに彼をからかう。居場所を推測させたり、行き先の張り紙を残すこともある。しかしたいていの場合、駅などの待ち合わせ場所に彼女たちは素直に現れる。松尾は非常におだやかに話す、好ましい感じのする男だ。こうした資質がものごとをうまく進める理由であるに違いない。しかし最初から明らかなのは、彼女たちはお金を受け取っていて、なにやらセックスのようなものがこのふたりの参加者のあいだで始まることだ。
まず第一に、松尾は女性のことを知りたがる。彼らはしゃべり、冗談をとばし、お互いが容易になじめるみちすじを探す。そしてすべてはカメラに記録される。今回の出会いに至った動機、いつもの生活、そして夢。ついに彼らはホテルや彼女の自宅へと向かう。
この段階において、視聴者はすでに彼女について十分知っている。とても親しく感じられる。ある娘たちは積極的にセックスに至ろうとするし、渋々な娘もいる。なんであれ、松尾は撮影する。彼女が「だめ」と言う時でさえ、松尾はありのままにカメラにおさめる。驚くべきことは、女性たちは作品の中では自らについてとてもあけすけで、その多くがセックスの段になっても決してシャイではないことだ。日本の女の子が実際にどうやって考え、何を求めているか知りたければ、多くの洞察がここから得られよう。
松尾は1965年、日本の中央に位置する愛知県に生まれた。高校時代から、松尾はテレビ業界を希望していた。専門学校を卒業すると、松尾は音楽番組制作会社に入った。この仕事には彼は大いに失望させられた。音楽のことを考え、バンドの内面を映像化するかわりに単調な台本を追う日々だった。ひょっとしたら意外でないかもしれないが、会社はほどなく倒産した。失業した松尾は飲み屋で昔からの友人に会う。友人はAVの世界への参加をもちかけた…ここからは彼自身の言葉で語ってもらうとしよう。
2006年の2月に私は東京のファッショナブルなエリアである原宿にある、新しく広々とした松尾のオフィスで彼に会った。ちなみに原宿は日本の若者文化の先端を行くホットスポットとして知られている。
→処女の肉体を求める
→他の男を知ってる女だと、自分と比較されたら困る(ベンチマーク禁止厨)
→(浮気するのは男の甲斐性だが、)女は貞操を守るのが務めだ(悪しき伝統)
→男も女も等しく、結婚した相手とだけにしなさい(キリスト教原理主義的純潔主義)
→結婚前に数々の男と軽々しく寝るような女が、結婚したからといってすぐ性格が変わるわけないだろ(疑りと嫉妬)
→肉体の結びつきははかないが、魂と魂の結びつきは永遠だ(精神重視)
→処女だからって、否定すべき理由は特にないよ
→とりあえず、ふしだらな女よりいいんじゃない?(消去法)
→そもそも女に興味がない(女嫌い)
→むしろ、男の方がもっと興味がある(ホモ)
むしろ、文学の危機にあるのは英語です。標準ツール化され、微妙なニュアンスはどんどん失われていきます。NHKアナの標準語だけで小説を書けといわれたら困りますよね。
仕事において、形式知を伝達するためのツールとしての英語はどんどん重要になります。出来る限り勉強はすべきです。ただ、文学的な英語までマスターする必要はないでしょう。シンプルに、過不足なく伝える英語が大事になります。
「日本語は亡びぬ、何度でもよみがえるさ!」
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20081221#p1
これを読んでいて安部公房の事を思い出した。
安部公房は徹底して簡潔な表現で文章を削り込んで小説を書く事にかなりの労力を注いだ作家で、自身の執筆を「消しゴムで書く」などと表現していた。
語彙なども極力簡単なものを使おうと「小学校五年生ぐらいの言葉ですましたい(*1)」と言っているくらいだ。
「ぼくが問題にするのは、〈正確な文章〉だ。複雑なものをどれだけ正確に伝えられるかということ。文章に対しては、いい文章かわるい文章かであって、〈美しい文章〉というのはおかしい。フローベールが六法全書のような文章を書きたいと言ったのはよくわかる。つまり表現の、内容と形式がどこまで一致するか、という問題だ。(*2)」
誤解を恐れずシンプルに言うと、まさに「NHKアナの標準語だけで小説を書」く事を目指していた作家だと思う。
さらに安部公房は徹底した「反伝統」指向の文化論の持ち主で、その辺りの思想も面白いのですが、それについてはまた稿を改めて。
出典
*1「構造主義的な思考形式」(1978.1.16)
んー、革マルなんかはもうそうなんだろうね。彼ら自身も高齢化してるし、立て看板とか檄文フォントとかそういう「60年代伝統文化」を残すためにって感じ?
でも、このtoledっていうか、ブログで騒いでる人たちって、別にそういう組織と関係ないんじゃない。革マルとかはまあそりゃ元は比較的いい大学に入った子達で、その後なにか間違えたまま「理論闘争」してるから、一応は学術的な文献(すごい古い教科書的なマル経とか)読んでるけど、このブロガーな人たちって、そういう文献を知ったかなだけでまともに読んでない感じ(アマゾンリンクとか貼ってるけどさあ、革マルがせこせこ同人誌に研究ノーと書くような厚みがない)。例えば昔の左翼は「情況」みたいな思想的には偏向でも(体裁上は)まあ学術的な雑誌も作ったわけで。(査読なさそうけど。んなもん日本ローカルの雑誌なんて「社会学ナントカ」で査読付きって言ってもたかが知れてるけど。)
本当は、派遣どうこうで騒いでる新左翼みたいなのも知ったかバカって感じで同じかなあと思ったんだけど、あれは普通に代々木とか仲良いの感じもする。
地域のお祭りとかに参加せず愛国がどーの言ってる人らはなんだかな
【追記】
http://anond.hatelabo.jp/20081208211003
昔の事を未来に伝える事より、今身近にいる、同じ土を踏んでる人達を大事にする方がよっぽど大事だ
今モラル無い30以上の人をどうこうするのはムリとして、若い世代にマナーやモラルを伝える事なんか重要だと思う
優しさや思いやりとか、大事だよな
全然かんけーないけど、ブックオフみたいなのが乱立して創作物を創作者の気にくわない形で楽しまれてるあたりから、人の事を考えない下地ができあがってきたのかなーって思ったり
新品で楽しんでほしいのに、一次創作者達はみんな
金さえあればなー、若い世代に金さえあれば、ゲームをコピーしたり漫画や雑誌をネットで落としたりする人減ると思うのに
金が無いのに選択肢だけやたら多いから荒むんだろうなー
ってことか?
そら戦後教育が悪いって言われるわ
一応釣られておくが「一国家一言語一民族」なんか伝統じゃないから。江戸時代までは東北と九州とか違う地域で話し言葉が通じなかったし、遺伝的に見ても日本国内でヨーロッパの隣国間以上の違いはあったりする。戦前だって台湾とか韓国も日本の一部だったわけだし。この程度のことも理解しない国民が少なからずいるのは教育の欠陥かもしれない。
(軽くネタバレ注意)
ピクサースタジオの新作映画『WALL・E』は、制作者のアメリカエンターテイメント文化に対する愛が色濃く反映されたものだった。
例えばアニメーション技術的な部分では、カートゥーンの伝統的なモーション、テンポ感、デザインを踏襲しつつも
最新の3DCG技術を使って新しい映像表現に挑戦している(これはピクサー作品全般に言えることだが)
それからモティーフに関して言えば、宇宙船のデザインがスター某に出てきそうな感じだったり、劇中に出てくるシネマアーカイブや歌も
アメリカの昔のポピュラーなものを巧みに使っていて、そういう懐古心を喚起させる造りになっていたのが特徴的だった。
さらに『WALL・E』と併映の同スタジオ制作短編『プレスト』は
コンセプト自体が3DCGでカートゥーンおなじみのドタバタアクションギャグをやるというもので、伝統芸に対する愛がよりストレートに表現されていた。
ピクサーの感心するところは、そういう「俺の国の文化SUGEEグッドだろ?」っていうスタンスでありながら、
ただのオナニーにならずに世界中の人が楽しめるような映像作品にちゃんと昇華させているところ
ただの自己陶酔の為の自慢は、傍からみていると滑稽で醜いだけだけれど
『WALL・E』のような作品で愛国心を提示されると、傍から見てても「なんか楽しそうでうらやましいよ、あんたら」
という満更でもない気分になる。
こういう風にヘイ!って陽気に楽しくに愛国心をさらけ出せるのは、国民性の問題もあるかもしれないし
一概にこれが正しい愛国の表現方法だよみたいに言うつもりは無いけれど
「日本の文化SUGEE!」って表現するときの、手本にしたい姿勢だなと思う。一人のプロ3DCGアニメーターを志す者として。
関連
日本SUGEEEEEEEEEEEEEEEE!ってなるコピペくれ
http://vipvipblogblog.blog119.fc2.com/blog-entry-248.html
「日本SUGEE!」を殺すために記す。
国籍法改正について。
全然興味なくて、一ヶ月ほど前から遠くでボーっと見てる。反対派の意見を覗いてみたら「中韓が!」ばっかりで辟易した。あと、いろんなところに宣伝としてコピペしていくのでウザイ。
ていうか、皆何をもって「日本人」としてるんだろ。とりあえず自分は日本国籍を持つ日本人だけど、ホントに日本人か?と問われると分からなくなる。戸籍謄本のおかげで、明治までは先祖が日本に住んでいたことは分かる。けど、それ以前は分からない。まあ山奥の田舎の農民(戦国武将の本拠地があったけど)なので、多分ずっとそこに住んでただろうけど、いつから住み始めたのかどっから来たのかとか知らない。血だって、4、5代前に取り婿取り嫁してるので、名字は繋いでるけど、血としては繋がってない。その取り婿も同じ村だし江戸時代とかまで遡れたら混ざってそうな気はする。まあこれはどうでもいいな。
それに、明治になるまでアイヌの人も琉球の人も日本人じゃなかったんだよなあ。
みんな「日本人」としてのアイデンティティをどこに持ってるの?自分は正直思い浮かびません。
この歳になるまで祖母の実家を本家(本籍地)と勘違いしてたし。あとそこら辺との親戚付き合いがないからなあ。爺ちゃん婆ちゃんの顔は知ってるけど、その前の人は知らない。戸籍で名前は知ってるけど。
何が言いたいいんだろう、自分。相変わらずアウトプットが下手だ。
伝統なんて時代が経てば変容していくし、そういったことを許容できる人間になりたい。日本が消える時代があってもいいじゃない(今回の法改正がそれに通じるとはあんま思わないんだけどね)。
事実や数字を覚えることは記憶の無駄使いだと主要なコメンテイターは言った。
ベストセラーWikinomicsの著者であり、ネット世代の擁護者であるDon Tapscotによると、グーグルやwikipedia、他のオンラインライブラリの存在は、学校におけるふるめかしい暗記が役立つ場所を無くしてしまった。よりよいアプローチは、子供達に、オンラインで入手可能な知識を処理し応用するようなクリエイティビティについて考えさせることだ。
Tapscottは言う「知識の泉は教師ではなくインターネットになった。子供は歴史を学ぶのは、現在の世界や物事が何故こうなっているのかを理解するためであるべきだ。それには全ての日付を知る必要は無い。ヘースティングスの戦いについて知るのに、それが1066年にあったことを覚える必要はない。グーグルで簡単に、それがいつだったのか調べられるし歴史の中に位置付けることができる」
Tapscottは自らのアプローチが反・教育であることを否定する。新しい事を知るのは以前よりも重要になっているのだと。「光速で新たな情報を処理する必要のある世界では、子供達はかつての何倍もの基盤となる知識を創造しなければならない。だからこそ、事実や数字を覚えるのは時間の無駄なのだ」
Tapscottはネット世代”という用語の言い出しっぺであり、それは彼の1998年のベストセラー「Growing Up Digital」で初出した。 Tapscottの観測は、彼の最新の書であるGrown Up Digitalの中の、1978 年から1994年の間に生まれた12の国の8000人の研究に基づいている。彼の観察はイギリス(British)の教室における伝統的な教育を削減し学習の個人化の傾向と一致している。
学校はますます個別学習や、いわゆる「濃縮活動」へとむかっており、生徒は自分のペースで学習し、最も興味のある事に集中するようになっている。
例えばBerkshireのAt Wellington Collegeではティーンエイジャーは教室の前から教えられるのではなく、大きなテーブルの周りに座ってセミナーのスタイルで議論をする。
Tapscottは、今日普及している教育のモデルは工業の時代にあわせて設計されたものだと信じている。このような方法は、大量生産経済に向いていたのだろう。デジタル経済におけるチャレンジやネット世代の脳には向いていない。
彼は、若い人々の頭脳は、両親たちと違った風に働いていることを示唆する。デジタルの浸透(そこでは子供達がネットサーフしながらメッセージを送ったりMP3プレイヤーで音楽を聞いている)は、クリティカルシンキングの技能を発達させるのに役立だてると論じた。
彼の視点は誰にでも受けいれらそうなものではない。……(他の人の意見なので省略)
もっと知識を増やさなきゃって言ってるのに「うらやましい」と言ちゃうのはなぁ。
http://anond.hatelabo.jp/20081127203814
http://blog-imgs-19.fc2.com/n/a/t/natumiti/2008022001_02_0b.jpg
確かに日本は高い方だよなぁ。私学はどこも高いけど。
ちなみに都内の国立大の留学生の話を聞いたが(大学・アパートの隣人・会社など)、東南アジアから来てる人は基本的に高等教育を受ける時点で階層としてはかなり上だしうちの大学は日本でも難しい方なので海外からはおおよそトップクラスの(といってももっと優秀な人はアメリカに行くらしい)人が来てたよ。物価が違うからじゃないの?ときいてみたけど換算しても多分高い(本当に金額がわかってるのかどうか謎だったりする場合もある)と言ってた。韓国人は基本的に仕送りしてもらってたけど他の国は通貨の価値が円に比べれば格段に安い国ばかりだったので国費留学でプラス奨学金もらってる人がほとんどだったな。けど仕送りはない、友達もしてもらってないといってた。元々階層としては上の方の人たちなので何とも言えないけど。
ヨーロッパ系の学生はスペイン・イタリア・ドイツ・スウェーデン・フランスあたりだったので学費の安い国だよな。ドイツはただってきいたんだけどなぁ。この表だとかかってるね。ドイツは学費関連では何か変わるみたいな話があったときに僕のときはタダだったよと言ってたので単に授業料免除をもらってたとかそういうはなしかもしれない。でもあと二人くらい企業で出会った人がいたんだけど二人ともタダだって言ってた気が。一人はアメリカに留学したときにこんなに学費がかかるとは思わなかったとびっくりしたという話をしてたしなぁ。それでも日本の学費を聞いたらびっくりしてたけど。高いwwwってさ。
イギリス人は貴族のしかもかなり金持ちなひとだったのでかなりの資産を自分で運用してて、大学は本国で出たけど日本でもっかいはいりなおしてた。卒業後は高校のオーラルコミュニケーション?の教師をやったりとかしつつぶらぶら遊んでて、おまえは国に帰らなくていいのかと聞いたらみんなそうやって5年くらいは遊んでるからいいんだよ、俺の友達今オーストラリアにいるぜ、今度遊びに行くんだとか言ってた。貴族階級はがちだね。格が違う。
日本語がわからないから授業料免除の用紙の書き方がわからないとよく泣きつかれたなぁ。引っ越してきた日に斜め上の人がやってきて「私インドネシア人ですけどあなた何人ですか?」ときかれたのもよい思い出。インドネシアでは引っ越してきた人のところに今まで住んでた人が挨拶に行くらしい。上の階に住んでた台湾人の夫婦(どちらも学生)は生活が厳しい、なかなか奨学金に通らないとこぼしていたし、知り合いのスペイン人は女の子をナンパしては養ってもらってたりなどした。女の子をみたらにっこりするのは礼儀なんだけどウィンクするのは軽い男で俺はそんな男じゃない、なんだそうだ。韓国人のちょう優秀な子が卒業式に日本人が卒業式で伝統衣装を着るというのにびっくりしたと言ってたのも印象的だった。今はアメリカに留学してるけど多分国費留学で成績もすごい優秀なので免除もらってんだろうなぁ。優秀な人って基本的に奨学金もらえるからあんまりお金の苦労してない感じがする。なんかはなしがずれた。すまん。
参考
■[知識][経済]2008年11月17日 朝日新聞 クルーグマンの記事 全文
http://anond.hatelabo.jp/20081118194540
金融政策が影響力を失い財政政策しか残っていないと言うのは、「不思議の国のアリス」の世界だ。この世界では貯蓄を高めるのが悪い事で、健全な財政も悪い事。逆に完全にムダな政府支出が善いこと。「あべこべの世界」だ。ここには長くいたくない。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/1030466313fe91ad865d0bfa2b9c9f1a
彼(クルーグマン)は、1998年に"It's Baaack!"と題する論文で、
伝統的な見方では、流動性トラップに置いて金融政策は無力で、財政支出の拡大だけが唯一の出口、ということになるけれど、これは考え直すべきだ。もし中央銀行が、自分たちは無責任になり、将来はもっと高い物価水準を目指します、ということを信用できる形で約束できれば、金融政策もやっぱり有効になる。
と主張した。これに日本の「リフレ派」と称するエコノミストが唱和して、日銀が異常な金融緩和を行ない、それが円キャリーを誘発してアメリカのバブルの一因となった。それなのに今回は同じ状況でインフレ目標を提案しないで、かつて「やけくその政策」とバカにした財政政策を推奨するのはどういうわけか。彼の議論が機会主義的で一貫性を欠くのは今に始まったことではないが、学者ならかつての自分の提案が間違っていたことを認め、それが日米の経済に少なからぬ悪影響を与えたことを謝罪してほしいものだ。
補足 (池田信夫)
2008-11-18 13:36:26
TBにも書かれているが、クルーグマンがこの記事の質問に答えています(日本語が読めるわけないが)。
http://krugman.blogs.nytimes.com/2008/11/15/macro-policy-in-a-liquidity-trap-wonkish/
This misses a key point that I and others tried to make for Japan in the 90s and are trying to make again now: creating inflation is easy if you’re an irresponsible country. It may not be easy at all if you aren’t.
要するに、日本では(アメリカでも)無理だということを認めたわけです。しかし、それに代わって彼が提言する財政支出は、もっと無責任な政策です。こういうとき国際的な影響を考えないのは、政治家も経済学者も同じ。かつての「インタゲ」論議が日本国内のことばかり考えて、結果的にグローバルな過剰流動性を作り出した愚を繰り返してはならない。