2008-10-10

こんにゃくゼリー論争の背後にある「食の安全意識対象の違いにつ

こんにゃくゼリー((マンナンライフは「フルーツこんにゃく」と称しているが、本稿では(読めば明らかなように)マ社の具体的事故防止策の当否について問題としない事、世間ではマ社の呼称にかかわらず「こんにゃくゼリー」と言い慣らされている事から、「こんにゃくゼリー」の語を用いる。))による死者はこの13年で17人にのぼる。

近年は「食の安全」の危機が叫ばれているが、事故米メラミン、ちょっと遡ればBSE等々、いずれも大問題とされたが、これらによる死亡例を私は聞かない。死者の数だけに注目すればこんにゃくゼリーによる被害は、社会問題となった食料品としては、久しく例を見ない甚大なものである。規制を求める声も、共感するか否かはともかく、理解できようというものだ。

しかし他方で、これに対する規制(を求める声)や行政指導に対しては反対の声も強力だ。これは他の社会問題化された食品についてはあまりみられない事実である。

規制反対派の「餅の死者の方が多い」という声に代表されるように、喉に詰まらせて死亡する危険のある食品こんにゃくゼリーだけではない。

もっとも餅を出す論者も、「餅も危険だから餅を規制しろ」などとは言っていない。

死亡に限らずとも、例えば「草加せんべいが固過ぎて歯が欠けた、池田大作許すまじ」「サンマの塩焼きで小骨が喉に刺さった、さんま許すまじ」といった声は聞かれない。

餅やせんべいは、それによって消費者健康を損ねても「食の安全」の問題とされないのだ。

これに対してこんにゃくゼリー規制賛成派から「伝統食品と新興食品とでは比較にならない」といった反論も見られるが、これによって規制反対派は説得されていない。

なぜなら、規制反対派にとって餅とこんにゃくゼリー本質的に同じ問題なので、いずれも「食の安全」の問題にならないからだ。

さて、それでは、規制反対派にとって、死者のいない事故米が非難され死亡例が止まないこんにゃくゼリーが容認されるのは何故だろうか。

それは両者の被害の「質」の違いにあると考える。

一致して非難される「食の安全」問題は、成分に関する問題である。

これに対しこんにゃくゼリーは、(化学的ではなく)物理的・工学的な性質から生じる問題である。

成分に関する問題は、それを摂取する全ての人が危険に晒される。

今まで安全だと思って摂取していた食品によって、健康が害される事になるのだ。

この危険は、食した人全てに、累積的に生じる。

ここでは「現実に自分や近親者がその食品を口にしたか」は問題とされないようだ。

森永ヒ素ミルク事件について、自分の身近に乳幼児がいなくとも、多くの人はこれを問題視した。

また、成分に関する問題は、現実健康被害が殆ど無くとも問題視されるようだ。

なお、危険な成分を含む食品も、危険性を明示している場合にはさほど非難されない。

しかし、こんにゃくゼリーの問題はこれを餅と同じ問題だと考える限り、危険性の明示の問題ではない。なぜなら餅はその危険が明示されていなくても容認され続けてきたからだ。

この視点を徹底するならば、こんにゃくゼリー危険パッケージに表記しなくてもなお問題が無いという立場に行き着く。

危険の明示の問題としつつ「これ以上の」規制に反対する立場については後で述べる。

閑話休題

これに対し、食品物理的性質に由来する問題は、全ての人が危険に晒されるわけではない。適性を有する者が食べる限り、全く問題がないのだ。

なるほど乳幼児こんにゃくゼリーを食べれば、高齢者が餅を食べれば、これらを喉に詰まらせよう。「しかし私は大丈夫。」

ここで悪いのは適性を欠くにもかかわらずそれを食べた(食べさせた)人だ。そうした愚か者のせいで、全く問題のない美食が規制され失われるのである。

ある科学物質を致死量の1%含む食品があったとしよう。簡単のために、この化学物質は全ての人にとって致死量が等しく、また排出も分解もされない事にする。

この食品を100回食べれば全ての人が死ぬ。

これは安全な食品とは言えない。「食の安全」の問題になる。

他方、1%の人が上手く食べられずに死ぬ食品があったとしよう。簡単のために、この食品は残り99%の人にとっては全く問題無いとする。ついでに自分が死ぬ1%か否かは事前に確実に判る事にしよう。

この食品は、99%の人にとっては完全に安全な食品なのだ。「1%が死ぬ」食品だが、99回食べようが何万回食べようが、死ぬ可能性は0だ。

はたしてこれは「食の安全」の問題だろうか。

「適格を欠く者が食べると危険がある食品」について、これが「食の安全」を脅かすと考える立場からは、こんにゃくゼリーは「食の安全」の問題となる。規制し、改善を要求する筋合いのものになる。

他方、このような食品は単に食べ手を選ぶだけで、規制改善が要求される「食の安全」の問題ではないと考えるならば、こんにゃくゼリーは許容される。

つまり、こんにゃくゼリー規制派と規制反対派の違いは、「食の安全」を成分の問題に限定せずに物理的性質をも含めるか否かによる。

形状や食感が「食の安全」の問題とならないと見る立場からは、これらを規制する事は不合理なのだ。粘りのない餅、軟らかい草加せんべい弾力を欠き妙に大きいこんにゃくゼリー強要されるのは、美食に対する無意味な制約なのだ。

ところで両者の折衷的な説として、充分に危険周知されるならば危険物理的性質も許されるとする見解がある。要するに「パッケージに書け」という立場だ。

この立場は、パッケージに書いていないならば非難に値すると考える点で、そしてパッケージに書く内容を指定する点で、本質的には食品物理的性質を食の安全の問題に含めており、こんにゃくゼリー規制派に属する。

この立場から餅が許容される根拠は、餅が危険であることはすでに歴史的に周知されている点に求められよう。

して危険性の十分な周知が行われている場合には、その周知にもかかわらず食べて事故にあった者が非難されることになる。

蒟蒻畑の件について言えば、マ社の活動が十分だと見る者からはこれ以上の規制は反対され、不十分と見る者からは製造停止も已むなしとされる。

どこをもって「十分」と見るかの線引きは難しい。例えば、「マ社がゼリーと言っていないとしても、殊更に調べない限りこれに気付かずゼリーと同視するのが通常であるあら、マ社は『蒟蒻畑ゼリーではありません』と積極的に広報する必要があった」という見解もあり得る。

以上をまとめれば、

という見解がある。

ような気がする。

余談。「今回は凍らせてたから〜」について。

凍らせるのは普通消費者して想定しうる行動だろうと思う。「凍らせて食べさせた以上自業自得だ!」と言ってる人のどれだけが「凍らせるなんてあり得ない、非常識だ」と思っているのだろうか。猫をレンジに入れるのとゼリー様の物を凍らせるのとでは、予見可能性に明らかに違いがある。某所で「凍らせずに食べるのが最も普通の食べ方だ」という意見を見かけけど、「最も」普通な場合に限定して安全性を確認するのは不適切と思われる。凍らせるのも非常識とまでは言えない程度に普通ではなかろうか。っていうか凍らせた蒟蒻畑も美味しいよ?

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