三十代半ばまでプログラマーだったけど、やりたいことがあって別の業界に転職した。
自分が新卒のころ、その業界の知名度は今よりもずっと低かったから、どうすればその道に進めるのかずっとわからないでいた。だから、おっさんになってから転職した。
大企業から案件のおこぼれをもらって、それで基礎を学んだ。仕事量は多いけど、手取り 20 万なかった。
仕事に慣れたころ、会社の経営が傾き始めた。他部署の業績悪化が足を引っぱり、テコ入れに精神論を売りにする外部のコンサルを雇うようになった。
自分のいた部署は堅実に売上を伸ばしていたのだけど、そのことが逆に経営層から疎まれ、最後は部門ごと他社へ移籍することとなった。
営業部の力が強く、どの営業担当から案件を回してもらうかで社内での立ち位置が変わった。
営業担当も互いに自分の影響力を伸ばそうと躍起になっていたから、社内はコップの中の嵐というより序列を争うホストクラブのようだった。
ここでも基本的な仕事内容は変わらなかったけど、プログラミングでの開発やブログ記事の執筆もやった。資産管理や部屋の掃除(引き出しはGの排泄物でいっぱいだった)なんかもやった。
書いた記事はまずまずの PV だったと思う。業務上の必要から ISMS も取得したし、案件入札に必要になるからと自前で資格も取った。給料は 5,000 円アップした。
半年くらいいると、世事に疎い自分にも徐々に社内の様子がわかってきた。要は自社経営の IT スクールの受講生を、自社運営の就職サイトで他社に斡旋する、あるいは IT スクールの講師をさせる、そういうカラクリをエコシステムと呼んでいた。
ある日、上司に昼飯に行こうと誘われ、料理を待つ間に派遣先を告げられた。社内にいる人間は人件費がアレだから外に出て稼いで来い、そう営業からお達しがあったと言う。
こうして入社から一年で派遣社員となり、送別の昼飯はワリカンだった。
プロパーどうしは人間関係がちょっとギスギスしており、派遣社員はプロパーに取り入りつつ、ちょっとした手抜きや仮病は見逃してもらっているようだった。
自分は自社の喧騒から距離をおけるようになった分、業務に集中するよう努めた。ただ、毎月サブロク協定の上限まで残業させられるので、月によっては時給換算で 1,000 円ちょっとになってしまうのが痛手だった。
生活のため食費を削っていたし、職場は密閉状態だったから、風邪やインフルで倒れないよう健康にだけは気をつけた。
自分以外の派遣社員はみな二十代で、業務中もゲームに興じる廃課金ユーザーが多かった。意外だったのは、自分たちを派遣先に送り込んだ上司は何のケアもしない高給取りの無能呼ばわりされていたことだった(自分は非常に高スペックな人だと認識していた)
年を越して、4/1 から自社に引き揚げて開発プロジェクトに投入されるという話が進んでいることを知った。どうも次年度の契約で派遣先と折り合いがつかず、交渉が決裂したようだ。派遣先の課長が「あなたの会社の営業さんはなんであんな(強気)なんスかね?どうにかなんないんスか?」とこぼしていたが、何の権限もない自分にはどうしようもなかった。
ただ、自社に戻って開発をしたり、上司や営業と顔を合わせてやりとりをする自分はどうしても想像できなかったので、自社の場当たり的な方針に依存するわけにもいかないだろうと強く自分に言い聞かせていた。
タイムリミットが迫るにつれ、次年度の希望を聞かれる機会が何度かあった。自分は業務優先で返事を先延ばしにしながら、周囲に悟られないよう履歴書を用意したり、面接を申し込んだりして少しずつ転職活動を進めていた。
年度末を迎え、担当営業からメールで次の配属先の発表があった。自分は最後まで希望を伝えなかったこともあり、おつかれさまでしたの一言だけだった(これは自分が悪いのでしかたがない)上司とは結局、送別の昼飯以降は会うことがなかったように思う。
数日後、本社に出向いて退職手続を済ませ、4 月中旬までに希望の 1 社に絞って面接をくりかえしたり、SPI を受検したり、必要書類を揃えたり、そこそこ忙しかった。
ここまでくるのに 4 年ほどかかったけど、正直言うと本当に大変だったのはここからだったと思う。
まわりの若い同僚はこれまで見てきた人たちと違って教えられたことをすぐに再現できたり、適切に応用することができる人たちばかりなので、そこからさらに 4 年間は取り残されないよう無理をしたと思う(実際、ちょっと体を壊してしまった)
今の職場も仕事量が多くて辛抱の毎日だけど、もう少しがんばってみようと思っている。
……
ちょうど 10 年くらいになるので、これまでの整理の意味で振り返っておこうと思った。
就職氷河期世代だから貯金だけはするようにしていて、老後の備えは何とかなるかもしれない。
おっさんになって人生をやり直す形になってしまったけど、いつも懸命だったし、自分との約束は守れたんじゃないかな(と思いたい)
あなたの人生で、一般的な人に比べて時間をかけて達成したものや得たものについて教えてください。 私の好きなとある写真家が、撮りたいと思ったシーンの写真を撮るのに三年かけ...
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△△△<教えてあげないよ! ジャン♪
△△△<教えてあげないよ! ジャン♪ 相変わらず、まったく文章を読む力がないようだ。 元増田は時間をかけた突出したエピソードを持っているかと聞いている。 教えてあげるどこ...
そんな事言うなよ ジャンにも人生はあるんだ
メスイキ😍
学部から修士課程のあと、 博士 → 諦めて就職 → 社会人で博士課程 → 博士学位を取得。1回目の博士入学から取得まで21年かかった。
すごいですね。私は少し下の年代で諦めて就職、までは一緒ですが、今から再チャレンジはできないなぁ。大学院での研究と関係する仕事をしていたから、社会人学生として戻れたんで...
増田の博士卒以外は低学歴という風潮
特定した
俺もお前が俺を特定したのを特定したぞ
生まれつきの病気との折り合いに30年くらい 受験も失敗したし彼女も諦めてたが 今は英語と第三言語マスターしつつ海外で仕事しながら結婚して子供もおる
増田で1000ブックマーク。5年かかった。
初代クラッシュバンディクーは途中で諦めたり、たまにやってみたくなって結局諦めたりしながら5年くらいかかって100%クリアした。
パブコメに毎回アツいご意見を送ってたら毎年法律がじりじり思う方向にかわってきた。 ただコロナ国会ではろくに法律改正審議がすすまなかった。記録が破られて残念だね
新卒で文系就職したけどやっぱ違うなと思ってキャリアを理系に戻して、紆余曲折を経て多少は納得できる研究・仕事ができるようになってきたと感じるまで15年くらいかかった。
象牙多層球
コミュ障で、増田にクソリプ送るのにも数年を要した。
気づいたらdmmのavを300本高2してたわ
大学卒業まて8年かけました
妻との不仲
ポケモンの選別とかに狂ったように時間かけた人たちとか多そう。
増田が知りたいのは「ライフワークと現時点での到達点」では? ブコメにもあったけど、偉業を成した人は「達成」とは感じてないと思う。 やなせたかし先生ですら「まだまだ書きた...
プログラミング 情報系の大学に行って、システムエンジニアになって、はじめの3年は楽しくもなく苦痛だったけど、今ではある程度仕事のためのコードを書けるようになった。 そして...
そんなことあったら休日のこんな時間に増田ひらいてないよ
スフィンクスとか謎かけ妖怪の類いかと思った。
結論だけ、書く。 失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した 失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した 失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した 失敗した失敗した失敗した失敗...
時間はかかっているが突出していないエピソードには感銘を受けません。 例えば「頑張って子育てをして大学まで行かせた」とか、「4ヶ月間も入院していた」などです。 だいなし...
対人技能…最近の言い回しだと、コミュ力を数十年ほど磨いた。 資格もないし数値化も出来ないのでただの主観評価でしかないんだけど、週休3日のフルリモートでほぼほぼストレスフリ...
話がクソつまらん嘘松