2022-05-21

絵柄を真似されたくないという感情

 Twitter上でたびたび話題となる『トレパク』の件について、日々さまざまな立場意見を目にする。それを追っていく中で、「落とし所を見つけておかなければいけない」と思ったこと、それが本タイトルだ。

 ※『トレパク』については考えるキッカケに過ぎないため、本文では実例には触れない。


 絵柄を真似されたくないという感情

 なぜ『感情』と書いたかというと、ひとの絵柄の真似をすることについて『善悪』で考えたところで、本当に辿り着きたいゴールには辿り着けない(平行線になる)からだ。

 そして、一次創作物の著作権知的財産権)に関わる話とは異なるステージの『悩み』として向き合うべきだとも思う。

 「嫌だ」という感情に「合法だ」と言い返しても、もとより「真似されたくない」という感情もつ人間は煮え切らない思いを抱えるだけだ。

 私が思うに、本気で違法行為だと思って喚き立てている人はほとんどいないのではないだろうか。

 ※法律に関する詳細は、専門家ではないため割愛する。

 ただ、嫌な気持ち自体が本物であるが故に、そうさせた相手悪者だと言うほか、自分を守る方法を知らないのだろうと思う。

 絵柄を真似されたくない人って、どうしたらいいんだろう。

 真似していることを咎められた時、どうしたらいいんだろう。



 絵柄。辞書意味を調べると、『工芸品・布地などの絵の模様の構図』とあるが、アニメイラストに対してネット通用されている定義の例としては

・主線の強弱

・人体のデフォルメ

・影,ハイライトの入れ方

・全体の色彩

・加工方法   etc

さらに細かく

・まつ毛の本数

・瞳の塗り方

涙袋の有無

・歯列の描き込み  etc

さらさらに細かく

・まつ毛のハイライトの有無

・瞳孔のサイズ,形,有無

・眼球のハイライトの幅,不透明度 etc

 これ、全部『絵柄』だ。イラスト構成している全ての特徴を『絵柄』の一言で表すことができるわけだ。

 それも、辞書に載っているような「絵そのものを指す言葉」ではなく、作者の「描き方の傾向・作風」という概念に対して『絵柄』と呼んでいるのが、恐らくネットアニメイラストを嗜む者の間)では当たり前の意味合いとなっている。(風景画などの絵画を嗜む方達も同じように使うのだろうか?)

 絵柄の類似に関する議論平行線になりがちなのは、中心の言葉が広義であることが、一因として割と厄介な役割を持っていると思う。

 絵柄。改めて考えると実にふわっとした言葉だ。

 私は趣味で絵を描いていて、常日頃『絵柄』が安定していないと感じているのだが、時たま「あなたの絵柄が好きだ」と言って頂ける事がある。しかも、稀にかなりの熱弁を受けることもある。

 それはそれは嬉しい。もったいない言葉だ。ありがたい。けれど、不思議だ。

 自分では自分の絵の特徴が分かっていないのに、他人からはそれが見えているらしい。

 もちろん、こだわりを持って描いている部位はあるから、そこを褒められると堪らない気持ちになるのだが、逆に全く意識していなかった部分をGOODと言われたりもするのだ。

 私が意識していなくとも、見る人にとってはそこが私の『絵柄』なのだ

 キャラクター主体アニメイラストにおいて、見る側が最も注視し、特徴を感じやすいと言われているのは、キャラクターの『顔面』。さらに言うと『目』だとの意見がある。

 「目さえ描き込んでおけば、顔の輪郭さえ整えておけば、髪などは多少線が雑でも『作品としてそれっぽく』なる」という話を聞いた事があるだろうか。それほど、目の印象はイラストの印象に大きく関与している事がわかる。

 ということは、言ってしまえば『目の描き方の特徴』に他の人との類似性があるだけで、直感的に「『絵柄』が似ている」と判断されやすいのではなかろうか。

 逆に言えば、それ以外の部分の類似はあまり気付かれにくいことになる。

 そして、この「直感」は普段、ひとの描いたイラストを「どれくらい解剖して観察しているか」によって、それぞれ見えるものが異なってくることは断言して良いだろう。

 作者がどんな『絵柄』を好み、どの部分に“意欲的に”取り入れているかは、絵を見た人に全てありありと伝わるものではない。

 また、作者の描き方自体100%意図されたものとも言えない。

 見る人によっては「目」という一つのパーツが、作者にとっては「まぶた」「まつげ」「眼球」「瞳」「瞳孔」「目頭」「目尻」の七つのパーツであったりする。(解剖とはこの事)

 私はだんだんと、「絵柄が似ている」という言葉不安定さが見えてきたようだった。

 「絵柄を真似している」の一言だけでは、意見としてあまり漠然としているのだ。

 「同じ時間に、同じ歯磨き粉を使って歯磨きをしている」という意見を「モーニングルーティンを真似している」という大きな言葉で訴えるようなものではないか

 正直、そんな主張はまったく滑稽だと思わざるを得ないところだが、きっとそれでも「嫌だ」と思う人はいるのだろう。

 『絵柄』に『流行り』がある以上、その第一人者はいたはずだ。流行りの絵柄というのは数年単位面白いほど変わる。『流行り』は『真似』で広がる。

 その第一人者が「真似されたくなかった」と思っていないとは言い切れない。自分で見つけた絵柄の組み合わせなのに、自分で見つけた表現の仕方なのに、簡単に真似しないで、という感情があったかもしれない。

 真似されたくなかったけど、我慢したのかもしれない。

 じゃあそれ、実際に言葉にしていたら、『絵柄の流行り』ってどうなっていたんだろう。

 どうして第一人者は「真似してほしくないと言わなかった」のだろう。

 自分の絵って、何に影響されて、何に感銘を受けて描いているんだろう。

 自分は“何を表現するため”に“絵を描いて”いるんだろう。


 今更だが、この日記は一つの答えを弾き出すものではなく、自分や読まれた方が、この感情を持ったり向けられたりした時にどう対処するのが「自分に合っていて」「ストレスが少ないか」を考える手がかりになればと思って書いた。

 絵は、人によっては手段であり、人によっては目的だ。

 どうしたって芸術は、誰かの真似の連鎖で生まれものだ。

 その事実を受け止めたとき、何を思うかは自由だが、『ストレスのない考え』を見つけることが、この問題のゴールになるのではないかと思う。

 ちなみに、私は知らない世界だが、ネットでは一人の絵柄を1から10まで全てコピーたかのような模倣をする人もいるらしい。そうなったらいよいよ法の出番かもしれない。


追記。私は好きなイラストの好きだと思った部分は積極的に真似している。仮に「真似しないでほしい」と言われたら、申し訳ないが私の好みが変わるまで待ってほしいと言うだろう。

  • 行き過ぎると「お前がツイッターに存在することが不愉快」とか「お前がこの世に存在することが不愉快」みたいなあたりにたどり着くと思うんだよね 真似されたくないと思うのは勝手...

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