あと、完全に憶測でしか無いけど、
下手な発展途上国なんて自殺も他殺も殆ど把握されてないだろうし、
把握されても別にきちんと記録するでもないだろうし。
ばあちゃんとか母親がいつまでも食べ物を山盛りエンドレスで出すのは愛、みたいな風潮どうにかならんの。
少なくとも、もうお腹いっぱいだからいいよ、って言われたら止めるのが思いやりだろ。
例えその「いいよ」が遠慮だったとしても、相手の主張は尊重しろよ。
相手が拒否してんのに自分がそうしたいからっていつまでも食い物責めにすんのは、どう考えても相手に対する愛よりも自分が満足したいエゴが勝ってるんじゃないの。
もてなしってのはさ、まず自分のことは二の次で、相手が心地よいと思える状態を作り出すことじゃん。
高級旅館とか一流レストランとかで、客がもういいって言ってんのに食事を出す手を止めないとか、客がまだ寝ないっつってんのにフトン敷き出すとかありえないよね。
なのにそれがばあちゃんや母ちゃんだと許されちゃうのはなんでなの。
ばあちゃんは自分が昔ひもじかったから、孫には同じ思いをさせたくなくてつい沢山ゴハンを出してしまう、って推測はわかるよ。
でもさ、孫はそんなにひもじがってないわけよ実際は。ばあちゃんのその願いは時代が達成してくれてるの。そしてばあちゃんはボケてなければそのくらいのことは理解できるはず。
だから、もしばあちゃんが上記のような理由で孫相手にゴハンをエンドレスしているとしたら、それは孫のためを思っている以上に、孫を依り代に自分の過去に復讐しているに他ならないと思うわけだ。
果たしてそれは愛か? 思いやりか? と。
愛ってのは、本当の意味で相手を思いやることだろ。
自分の基準にしがみついて、思いやりという錦の御旗で武装して、逆らえなくなった相手を好き放題にすることじゃないだろ。
愛してるなら相手をちゃんと見ろよ。話を聞く姿勢を持てよ。想像する手を抜くなよ。
食べきれないほど出されてやっぱり食べきれなかった孫が、そのたんびに申し訳ない思いをして自分を責めてるんだぞ。
まさにあれだ、AVを鵜呑みにしたアクロバティックなセッ○スで彼女も喜んでると信じて疑わない独りよがりバカと同じだ(台無し)。
知人が一つの階が8畳くらいの2階建てに住んでいるのを見て住みたくなった。
6万くらいで住んでいると聞いてびっくりした。
一軒家に住むというのはよく稼いだ大人しかできず、なおかつ何部屋もあるものだと思っていたので、
なんか一軒家って夢があるよね。住んでみたいのう。
・限られた時間の中で、医者による手助けがより多く必要な状態の人により多くの時間を割くんじゃないか。
比較的状態はよいが、より手助けが必要な状態になるリスクがある人に、短い時間であっても定期的に診察することが重要な場合があるのかもしれない。
・きちんと診断・対応すると、怒ってきちんと診断・対応した医者を非難してより手助けが必要な人を助けるための時間を浪費させたり、
本人が納得いく診断が得られるまでドクターショッピング等で他の医療機関をより混雑させたりする人が多いから仕方なくそうしているのかもしれない。
・ところで、元の文を書いた人は、医療費の出所についてもう少し考えたほうがいいと思う。
・あと、http://anond.hatelabo.jp/20140727203112の最後の文は、
「病気ではない人格障害の人にもうつ病という」のほうがまだマシだな。
DSM4-TRに主に基づいていた時期の話だが、DSM4-TRでは、性格と病気は軸が違うから、人格障害だからうつ病ではないなんてことはなかったはず。
図太くていやらしくてもいいんじゃないか。
ランズエンド辺りで通販で買えばいい。
あらゆる男性がそうだとも思わないけど、大半はそうかもね。
と出たんだけど。
知り合いで公務員の人がいてtwitterでよく「仕事行きたくねー」とか「つれーわ」、とか言っている人がいる。
それはまだいいのだけど、個人的に看過しがたい文言をつぶやくことがあって、それは「転職してーわ」ってやつだ。
これ何が問題かというとこの知り合い全然転職するつもりもないところ。ポーズで言ってるわけだ。
公務員は安定している。色々大変なのはわかるが、やはりそうだろう。
だが、そうであっても、安易に転職したいとか言わない方がいいのではないか、とつぶやきを見るたびに灰色の気持ちになる。
私の友人に、初めての職で本当に苦労して、二つ目の職でようやく胸を張って働くことができた人がいる。
また、「どんなにつらくても三年は続ける!」と言って、本当に3年働き通して転職して現在幸せな家庭を築いた人がいる。
そうした人から比べた時に、初めの人間の「転職してーわ」はなんと薄っぺらく、そしてなんて安定しているところからの物言いだろうか、と思うのだ。
わたしもそう思っていたし、ある面では正しいと思う。
それが正しいまま一生を終えることができる場合もあるだろう。
でも無理はしないでね。
少なくとも去年とか一昨年とかはあったと思うが。
自分のアタマで考えようという本があったと思います(未読)が、自分のアタマで考えるのをやめる選択肢もあんじゃね?というお話。わりかし実話。
最高責任者とか芸術家とかでない限り、自分のアタマで考えたことは「誰かに説明して納得してもらう」というフェーズが必要なわけですが、これが超めんどくさい!
去年と同じで行きましょう!とか競合他社と同じ戦略で行きましょう!とか、偉い人の方針をまるごと継承しましょう、ならサラッと通ることに対して、「現状の問題を分析するとこういう構造になってて、どこがどう問題と考えられるので、このようにやりかたを変えれば、このくらいよいことが起こるでしょう」みたいなのを説明するがすんごくすんごく面倒。
話の前提をちゃんと共有しないと理屈が通らないので、考えに至る前提条件とかを事細かに説明して、相手との認識が合わなかったら合うように調整して、、、と、この過程も面倒。それで分かってもらえればいいけど、認識や考え方の違いにより分かってもらえなかったりすることも多々あってかなりストレスがたまる。
それでようやく「自分のアタマで考えたこと」を分かってもらえても、今度は責任論になる。それって絶対?100%?間違ってたら責任取るの?去年と同じやり方なら去年と同じ結果になる、ってのは共通意見だけど、お前のはどうなの?的な。
そんなん100%なんて世の中にありえないだろ、と思いつつも言い出したのが自分であるし、時間をかけて“分かっていただいた”手前、しぶしぶ了承せざるを得ないという。
客観的にまとめると、自分のアタマで考えた結果、説明のためにものすごいコストや苦労をかけてストレスをためこみ、結果自分の責任が増しただけ。なにこれ?自分で考えるのなんてやめて、他人の、いつものやりかたに乗っかったほうが楽じゃね?
これ、人によると思うけど「よし、この件は自分のアタマで真面目に考えてみよう!」と思い立った結果、、、、なんにも結論が導き出せねえ・・・ってなったこと、ないですか?
やべえ、どの因子がどう関わってるのか整理しきれねえ。そもそもどこの範囲まで前提として考慮に入れるべきかが全然わかんねえ。「Aと言う視点なら正しいとも言えるし、Bという視点なら間違いとも言える」みたいな項目ばっかりで、結論を下せねえ・・・。なにを考えても「他人がだした別案」に引っ張られちまう。あれ?もしかして自分バカなのかな?みたいな。
そのへんなんとかごまかしつつ、ちょっと"甘い"かなって思いながら考察した結論を他人に見せると、もうなんていうのかな、アタマの鋭いやつってのはどこでもいるもので、ピンポイントでその迷い点みたいのを突かれちゃったりする。自分でも「自分バカなのかな」と薄々感づいてる点を、改めて他人にも認識させられるという、この痛恨の一撃的な大ダメージ!
これの根本的な原因は「世界は自分のアタマで整理しきれるほど単純ではないし、不確実性に満ちている」ってことで、そこからすると結論を間違えたり、推論を見失ったりすることは別に恥じることでもないんけど、そういう大きなこと忘れちゃうのよね人は。
それで、結構多くの人は「自分は天才とまでは言わないけども、周囲の中でまあまあ“使える”ほうだし、今は流されてるけど、本気出せば自分で考えて結論出すようなこともできるもんね!」みたいな根拠のない自信を持ってしまう。それが根こそぎ崩れるのはでかい。歳をとってるほどでかい!
これも客観的にみると、自分のアタマで考えたばっかりに、自分がバカであると発見して勝手に凹んでる、ってだけ。あれ?なにしてんだろうねこの人。
さて、親とか親戚とか近所の八百屋さんとか、そういう身近な大人を見てみよう。自分のアタマで考えてる人って、ものすごく少ない。浅いし、近視眼的だし、人生綱渡りだな、的な印象を持つことすらある。
でも、その人たちって、不幸ですか?かなり幸せそうじゃない?自分はすごいという自信のもとに楽しく過ごし、うまくいかなかったことは運が悪かった、また次があるさ、と片付けてポジティブに生きている。掘り込んだ原因分析なんてしないで場当たりに生きてる。若者から人生訓を聞かれたら嬉々として語っちゃう、的な幸せさに溢れてる。
それに対して、真面目に自分のアタマで考えて、結果すり減ったり自己嫌悪に陥ったりするのって、あまり人生を幸せにする行為ではないんじゃなかろうか。どうだろう?
注:これはある種の実験です。なにかに気づいた人はそっとしておいてください
女だけど男性ってそういうものなのかなあと確かにずっと思ってる。
かわいくてニコニコしていてセックスができる存在であればいいのかな?って思って、
まだそれでお互い成り立っている時はいいけれど、
いずれ歳をとって、女性として見られなくなった時、男性はいったい傍にいてくれるのかな?といつもそこに思考がたどり着く。
女性として以外でも価値を示せればいいんだろうけど、それってこちら側に求められてるものなのか、
そんなものは男とするから女とする必要はないよと言われてしまったらいったいどうしたらよいのか。
結婚したら大切にしたいけど、大切にした行く末がそれだったら悲しいなあと思う。