2014-07-27

寂しがりや、だなんて言うやつに限ってずぶとくて、いやらしい。

あなたは寂しくないの?」という質問を投げかけられ、「私は寂しがりやに見えるのか?」とずっと疑問に思っていたんだけど、結論が出た。

「私は寂しがりやではない。なぜなら、誰かで自分の寂しさを埋められると思わないから。そこまで他人に期待をするのがおこがましいから。」である

自分の寂しさは、自分しか埋められないのである他人自分の寂しさが埋められると思ったら大間違いだ。

上っ面の寂しがりやは、他人自分の寂しさが埋められると思っている。例えば、自分好きな人が淋しい時に、側にいれば、自分の寂しさがなくなると思っているのだ。だから、そういう人こそ、寂しがりやではないのだ。だって自分をそっちのけにしても、他人といることを選べるのだから

私は、自分幸せじゃないと、周りも不幸だと思ってしま人間なのだ

それは、好きな人と一緒にいても同じ話なのだ。分かり合えるといっても、それはホントウのホントウなの?と思うところがあるのです。

寂しさには、色々な種類があると思う。凸と凹のように。

寂しがりやだという人達は、お互いの凸凹が噛み合っていなくても、「私もそういう時に助けてね」と言う考えがあるから、お互いに優しくなれるのだ。

私は、そういう時に、優しくなれない人間だ。

自分孤独に勝てなくて、他人孤独を親切ぶって癒やそうなんておこがましい」と思うのだ。

もっと強く言うと、「自分の傷をなめて欲しくて、他人孤独たかるなんてもってのほか」と思っている。

これは、少女時代経験によるものが多いんだけど、私は周りの女の子の達の「トイレに一緒に行こう」という流れが大嫌いだった。

「私も一緒に来てほしいから、誰かのトイレに付き合う」ということだ。

自分の寂しさを埋めるために、他人孤独を利用することなんて出来ない。私は、私の孤独に向かい合うしかないのだ。誰がなんと言おうとも。

そういう付き合いをしておかないと、修学旅行の時にハミゴになったりする。そういう将来を計算して、「一緒にトイレにいこう」になるのは、大嫌いだ。

傷を舐め合うなんて、まっぴらごめんだ。ビジネスがうまくいかない人達が集まって、自分たちの中で回していこうなんて、無駄だと思っている。

自分の戦いは、自分で勝ち取らなきゃいけないのだ。

寂しがりや、だ、なんて、自分自分を称するヤツに限って、あざといんだ。

自分孤独自分が一番愛さなくてはいけないって思う。

  • わたしもそう思っていたし、ある面では正しいと思う。 それが正しいまま一生を終えることができる場合もあるだろう。 でも無理はしないでね。

  • 図太くていやらしくてもいいんじゃないか。 でも自分の寂しさが誰かがいればいつかどうにかなる、なんて思っていると失望するよねとは思う。

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