「あなたは寂しくないの?」という質問を投げかけられ、「私は寂しがりやに見えるのか?」とずっと疑問に思っていたんだけど、結論が出た。
「私は寂しがりやではない。なぜなら、誰かで自分の寂しさを埋められると思わないから。そこまで他人に期待をするのがおこがましいから。」である。
自分の寂しさは、自分でしか埋められないのである。他人で自分の寂しさが埋められると思ったら大間違いだ。
上っ面の寂しがりやは、他人で自分の寂しさが埋められると思っている。例えば、自分の好きな人が淋しい時に、側にいれば、自分の寂しさがなくなると思っているのだ。だから、そういう人こそ、寂しがりやではないのだ。だって、自分をそっちのけにしても、他人といることを選べるのだから。
私は、自分が幸せじゃないと、周りも不幸だと思ってしまう人間なのだ。
それは、好きな人と一緒にいても同じ話なのだ。分かり合えるといっても、それはホントウのホントウなの?と思うところがあるのです。
寂しさには、色々な種類があると思う。凸と凹のように。
寂しがりやだという人達は、お互いの凸凹が噛み合っていなくても、「私もそういう時に助けてね」と言う考えがあるから、お互いに優しくなれるのだ。
私は、そういう時に、優しくなれない人間だ。
「自分の孤独に勝てなくて、他人の孤独を親切ぶって癒やそうなんておこがましい」と思うのだ。
もっと強く言うと、「自分の傷をなめて欲しくて、他人の孤独にたかるなんてもってのほか」と思っている。
これは、少女時代の経験によるものが多いんだけど、私は周りの女の子の達の「トイレに一緒に行こう」という流れが大嫌いだった。
「私も一緒に来てほしいから、誰かのトイレに付き合う」ということだ。
自分の寂しさを埋めるために、他人の孤独を利用することなんて出来ない。私は、私の孤独に向かい合うしかないのだ。誰がなんと言おうとも。
そういう付き合いをしておかないと、修学旅行の時にハミゴになったりする。そういう将来を計算して、「一緒にトイレにいこう」になるのは、大嫌いだ。
傷を舐め合うなんて、まっぴらごめんだ。ビジネスがうまくいかない人達が集まって、自分たちの中で回していこうなんて、無駄だと思っている。
わたしもそう思っていたし、ある面では正しいと思う。 それが正しいまま一生を終えることができる場合もあるだろう。 でも無理はしないでね。
図太くていやらしくてもいいんじゃないか。 でも自分の寂しさが誰かがいればいつかどうにかなる、なんて思っていると失望するよねとは思う。