はてなキーワード: 映画批評とは
超映画批評に限らんけど。女二人が「めっちゃ泣きましたー!」言ってるCMとか、ロッキンオンの長文の方のディスクレビューとか、風俗の無料紹介所くらい胡散臭い
批評とか感想なら(中身のない罵倒や絶賛を除いて)それが曲解や電波でも、映画を読んだ一人一人の自由な考えだから間違いじゃないいつも答えはひとつじゃない「愛してる」と君が言う口先だけだとしてもたまらなく嬉しくなるから。それに色々な評論を読んでいろんな角度から君を見てきたその全てが愛しくて作品理解を深めたり、「違う違う、そうじゃ、そうじゃない」とツッコミ入れるのも楽しみ方の一つ。
ただ、点数低い(評判悪い)から見ないとか、点数高い!見にいく!とかはよくない。スマステやネガキャンに流されてるだけかも。面白い映画が見たいならチャップリンとかエドウッドとか、評価が定まった古典作品を見ればいい。
週ファミのクロスレビューでも、点数より採点者一人一人のコメントや点数を付けた理由とかが大事だったはず。
だから絶賛されてたり好評価でも、お仕事でやってるだけかもよ?と疑ってかかるべき。でも胡散臭い採点ならそのうち誰も相手にしなくなるから別にいいか。
本を読んだり映画を観賞したりした後、日記がわりにちょっとした感想や批評を書きたくなることってあると思う。そしてときには、それを公開して作品について他の人と話し合ったりしたくなることもあると思う。
でも自分のブログ等でそれをする場合、自分がどんな本や映画を見るのかといった情報が読者に知られることとなってしまう。そんなの気にしないという人ももちろんいるだろうが、それは嫌だという人もそれなりにいるだろう。またそうしたやり方をする場合、どうしても自分が発信者で他の人は情報の受け手という関係になりやすく、対等な立場で忌憚のない意見交換をするということは難しいんじゃないかとも思う。
こうした難点を考えるとき、増田は誰が書いたかわからず、またトラバによって気軽に対等な意見交換をすることも可能であり、感想・批評の投下にきわめて適した場所ではないかと思うのだけど、そういうのはほとんど見ない。なぜ?何か理由があるのだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20130320200411
「本当は誰も作画を語れないのに、あえて語らないのだというポーズをする優越感ゲーム」気持ち悪いです。
ま、でも、難しいですよね作画語り。
演出語りをそこそこ「それっぽく」する人は多いですけど、その語彙は基本、映画批評からの輸入ですし。
アニメしか見ずに、アニメの演出を語れるようになった人っていないんじゃないですかね。
作画語りの語彙不足についても、結局は実写作品(映画や演劇)の批評から「役者の演技を語る語彙」を引っ張ってくるのが一番手っ取り早い気がします。
「そんなお勉強したくねーよ」「映画だの演劇だの、お高くとまりやがって」
と言いたくもなるでしょうが。
しかし、昔の作画オタクって、その辺の教養を身につけてる人が多かったような気もするのですが(特撮オタクは間違いなく多かった)。
今はそうでもないのかな。
ヒドかった。
手元に紙面がない(間違って捨ててしまった)ので引用できないのが残念だが、
はてなで問題視されている「自然分娩至上主義の問題点」とか「吉村医院のカルト性」に
ついては、一切言及されていない批評になっている。
「いい映画なんだろうなあ」、吉村医院も「いいお医者さんなんだろうなあ」という
5段階評価で「星4つ」の評価がされている。
この評価は
http://garth.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/2010-0999.html
や
http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20101109/p1
のような
「吉村医院のカルト性が露呈されているので、カギカッコ付きの『いい映画』」
という皮肉的評価ではない。
単純に、「出産や女体の神秘を描いた、いい映画」として星4つ評価なのである。
なんか
無邪気な「ノリ」で星4つ付けているのである。
そもそも、日経は、意外なことに、こういう「ナチュラル原理主義」に対して、
ワキが甘い。
ホメオパシーが問題になる前の今年の7月頃とかに、これも日経夕刊だったが、
ホメオパシーを好意的に取り上げていた。
朝日によるホメオパシーバッシングが始まってからも、日経のホメオパシー批判は
やけに遅く、全然力が入っていなかった。
日経の男性読者というのは、こういうナチュラル原理主義に対して
懐疑的な人が多いからあまり実害ないのかもしれないが、
その奥さんは、ナチュラル原理主義に対抗できる「リテラシー」を
ちゃんと持ち合わせているのか?
修羅場スレ愛好家なのだが,最近修羅場投稿に対して「状況がわからない」「理解できない」というレスが相次いでいる。んでその投稿を見てみると,確かにわかりやすくはないが,きちんと状況は把握できることの方が圧倒的に多い。しかしほとんどというよりもほぼすべてのレスが投降者に対して「国語力が足りない」と断じるものである。
これは一体何なのだろう。自分の読解力がおかしいのだろうか。と考えてみたのだが,このスレに限らず映画批評にしてもブログで見かけることにしてもえ?何でそう解釈するの?ということがここ最近非常に多くなってきている気がするのだ。
いったい国語力が足りないのは誰なんだろう。何となく空恐ろしいものを感じる。自分の読解力を信じて疑わないことも怖いし,もし貧弱な国語力しか持ってない人がそんなに多数いるのであればそれはそれで恐ろしい。
「SF映画批評するのに古典SF小説全部読んでる必要がある、と言ってるのと同じ」っていうはてブのコメントを見て、全然SF知らんのにガチ評論の必要性があるならどうすっかなーということをちょっと考えてたらなんとなく面白かったので、とりとめもなく書く。
SF映画のガチ評論をしてみようって考えたら、まずはSF好きな奴に話ききにいくかなあ。おうよ、ちょっとSFについて教えてちょー。誰読めばいいの? そもそもSFってなんぞ? どこで流行ってんの? なんかわかりやすいSF論のお勧めある?
んで大体SFの概要をつかんだあとは、どうするかな。1、2冊はお勧めされた奴を実際に読んでみると思う。(誰に質問したとしても、必ず「夏への扉」を読む羽目になるのだろう)そんでああこういう感じかーって思ったあと、次はもう個別撃破じゃなくて全体像の把握に行くかな。SF小説批評の材料として使うには、作品のあらすじとメインアイディアと作者の略歴把握してSF史ではどういう位置づけをされてるかを把握しときゃー十分かな。それは古典SF小説そのものを読まなくても、SF評論家の人の書いた文献を読むだけで把握できる。はず。そういうのある? ってこれは図書館で司書にきくかな。あるって言われる。貸してちょいいよー。SFガイドとかSFベスト100とか、そういったSF評論をまとめた本ってどのくらいあるんだろ。100冊くらい? 一日2冊で2か月弱。これはもう全部読めそう。んじゃそれを図書館行ってもりもりSF論を読みつつ、メモって、どうも大物っぽい奴の名前は検索かけたらSFマガジンって雑誌でよく特集組まれてるし、んじゃこれ専門誌っぽいからバックナンバーぱら見しよーかーとか。あとなんか有名っぽい賞があるな。受賞作品の傾向とスポンサーも調べとくか。
こんな感じで毎日SFを考えた生活を送れば、1年後には的は外さぬガチ評論ができそうって思えた。最初に興味がなかったとしても、やってる間にSF好きになって、そしたら加速するかなと。
なんか懐かしくなってきた。青春時代にネットもなく彼女もおらず運動音痴で音痴で無趣味でぶさいくで友達いない俺は、一日中海外SFとファンタジーの有名作品を黙々と読んでいた。それと並行して毎月ドラマガとウォーロックとSFマガジンとログインとニュータイプも読んでた。そういった雑誌に掲載されてる書評は次に読むべき1冊を探すための貴重な道しるべだった。そんな暇あるならサッカーでもすればよかったのにと思わんでもないけれど、サッカーしてたら絶対あのクソクソ超絶面白い「蜘蛛女のキス」をホモじゃん! って切り捨てて読んでないからまあいいや。大丈夫よバレンティン、これは、全部、夢の中のお話なんだから。ちょっとエッチな福袋じゃなくて、喜多嶋隆の海外SF紹介コーナー目当てで読んでるんだ!って己に言い訳しつつ購入したコンプティーク。「殺人プログラミング」がドエロいという評論を読んですみやかに購入し、まあ衝撃的にドエロかったんだけど(町中の人間をたった一言で催眠状態に陥れることができるって設定は今思い返しても天才ちゃうか。しかもド田舎なのに全米ナンバーワンレベルの美人ばっかり住んでるの)、そこからモダンホラー御三家を知った。黙々とエロいクーンツをこなし、キングを読んで読んで読んですぐにマキャモン。そうこうしてるあいだにあの超怖い「リング」が発刊されてモダンのホラーの言ってる場合じゃねえよ! 怖いよ! 超怖い! 日本人すげえの? じゃあ和製ホラーもっと読まないと! って小池真理子読んで鳩が豆鉄砲食らったような顔になってうろうろした。でもあのころのがつがつした焦燥感に駆られた「ジャンル内の有名作品は全部目を通すぜ」読書ってやけに楽しかった。
ところで映画評論家の人が映画批評のために参考文献としてSF評論読むかーって思ったときに、SF界が想像以上にてきとーな業界でまともな評論が一本もなかった場合、映画評論家はどうするんだろうなあ。しゃーねえなあ、じゃあ古典SF全部読むべか! ってもりもりSF読んでどんどん造詣深くなっていって、そのうち肩書が「映画評論家・SF評論家」ってなるのかね。5年後とかに。知り合いの教授はいろいろやっててふと気がついたらアベック評論家って肩書きになってうろたえてた。
どっちもファンって訳じゃないけど。ひぐらしは漫画版と小説版を読んだだけ、三池崇史の作品もそこそこ。
三池崇史があの題材で映画を撮れば、ある意味面白いのが出来た気がする。
そしてひぐらし信者が怒り、オタク層が騒ぎ、それを見て三池信者が怒り。サブカルな映画オタク層(他に上手い表現が見付からなかった)が評論めいたことを書きながら、三池を持ち上げたり貶したり(持ち上げる方が多い)
評論好きのサブカルな層がその対立を分析する文章を書き。2chの痛いニュースとかで話題になって。
映画批評系の雑誌やサイトからは、映画自体はイマイチ(凡庸もしくは滅茶苦茶)と評価をされ。
竜騎士07は色々あって潰れる。三池崇史はどこ吹く風で次の作品に取り掛かる。
竜騎士07は前の事件で、マスコミに取り合げられた時の反応を見た感じ、潰れやすそうな気がする。
アニメオタク(特に漫画やアニメしか見ないタイプ)は基本実写なら全部叩く気がする。
あのキャラクターで実写はアレだけど、ストーリー的にはそんなに不可能とは思わないけどな。
トンデモ作品にはなるけど。
三池信者はとりあえず絶賛で、アニメオタクが貶してるのを見てぶち切れ。
サブカルな映画オタク層が「自分たちは一歩線を引いて」みたいな文章を書く。
以上俺の妄想。
別に三池崇史特別好きな訳でもないのに、こんな文章になってしまった。
ひぐらしは原作やってないから、なんとも言えないけど漫画は割と面白かった
初めに投稿した時。間違えてたおまけに機能を知らなかった、反省している。
映画批評を生産/消費している層とは、ヌーベルバーグの作家たちが旺盛に作品を発表していた時期に学生であった人たちなのである。
マンガ批評を生産/消費している層とは、ニューウェーブの作家たちが作品を発表し始めていた時期に学生であった人たちなのである。
アニメ批評を生産/消費している層とは、ヤマトかガンダムかエヴァがブームだった時期に思春期だった人たちなのである。
美少女ゲーム批評を生産/消費している層とは、Leaf・Keyがブレイクする時期に思春期だった人たちなのである。
つまり、特定の作家(ないし作品)に依存した資本の運動にとりこまれた一定の層が、自分たちがまるで作品を通じて世界と繋がれたかのように勘違いできた幸運な時代を、言葉によってなんとか歴史化しよう、正当化しよう、再現しよう、復興しようetcという涙ぐましい世代的運動、これが日本における「批評」なのである。それ以上でもそれ以下でもない。普遍的なものとしての「批評的価値」なんてない、ということは知っておいて欲しい。批評を語る側にも読む側にも。