はてなキーワード: セント・バーナードとは
恋を消費する若い女なので、ときどき所謂ワンナイトラブをやらかしてしまう。叩くなら叩いてくれ。ぜんぜん平気、私の身体も心も、誰に何をされようと私だけのものだから。
12月某日、私は私より美しい女友達と2人で渋谷に繰り出していた。友人は黒髪のロングヘアに柳眉で明らかな美女なのだが、性格がほどほどに悪い。奥渋の居酒屋で焼酎の水割りを飲みながら、友人は「別のお店に移動しよう、お兄さんにおごってもらえるような所がいい」と言い放った。美女なのでサマになっており、彼女と一緒なら私もおごってもらえることは確実だったので、「いいよ」と返事をした。
声をかけられたのは、お店を出てから3分後。美女の脅威を思い知る。声をかけてきた男性は、私たちよりざっと20以上は年上かと思われる2人組だった。彼らの顔は友人を見るなりパッと華やぎ、私に視線を移してちょっと暗くなった。
「2人、何してるの」「この人、テレビマンなんだよ」「タクシー代出すから、どっかで飲もうよ」
想定していたよりだいぶお兄さんだなと思ったものの、私と友人は彼らについて行くことに決めた。すると、後ろから背の高い男が寄ってきて、男性グループに合流した。3人組だったらしい。後から来た男はおそらく2人よりずっと後輩で、1軒目の飲み屋で切ったと思われる領収書を最年長の男に手渡していた。
この、後から来た男というのが、とにかく、すごく、あまりにも、私の好みにぴったりだった。「生理的に無理」という言い回しがあるが、この人はその逆だ。この時点で、私は彼の見た目しか知らない。それでも直観的に、「この人に抱かれたい」と強く思う何かが彼にはあった。俗にいうイケメンとか、芸能人の誰かに似ているとか、そういう感じではない。とにかく見た目がべらぼうに好みだったのだ。
私たちは近くにあったバーに入り、5人でテーブルを囲んだ。ゴミのような慣習に則り、最年長の先輩を私と友人が囲む。あまりにも好みの男は私の対角線に座った。初対面の男女5人の飲み会は、初対面の男女5人の飲み会らしく滞りなく進んだ。最年長の男性は、自分が手がけた大きな仕事や、友達だという芸能人の名前を教えてくれた。私はテレビを持っていないので、その芸能人を詳しく知らなかった。次に年配の男性は、AV男優をやっていますと言った。へー、と答えた。あまりにも好みの男は、「コイツは医者だよ」と他己紹介されていた。安心できる嘘だったが、あまりにも好みの男を前にすると、何の仕事をやっているかとか、どんなに有名な友達がいるかとか、ギャグのセンスがあるかないかとか、そういうあれこれはすごく些末なことに感じられた。
1時間ほど飲んだあと、年長の男が「場所を変えよう」と言い出した。目的地はすぐそばだったが、タクシーで行くことになった。普通のタクシーに大人5人は同時に乗れない。友人は年配組2人にがっちり囲まれており、私とあまりにも好みの男は渋谷の街に取り残された。とくに美人ではない私の処理係になってしまったであろう彼に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。あまりにも好みの男は、僕たちは歩きましょうか、と提案してきた。私とあまりにも好みの男は、2人で黙って街を歩いた。彼は身長が180センチを優に超え、どちらかといえば痩せ形だった。顔つきは若かったが肌はところどころざらついていて、年齢は30代も半ばを過ぎた頃に思われた。細い目に長いまつげがびっしりと伸び、少し離れてみると瞳の中がほとんど真っ黒に見える。まっすぐな眉は目とほとんど同じ太さで、高い鼻梁のわりに口は目立たなかった。あまりにも好みの男は、大きな犬のようだと思った。セント・バーナードとかボルゾイとかシェパードとか、ああいった類の大きくて豊かな毛並みの犬。中森明菜の歌に「ストライド長い脚先」の男と「そのあとを駆けるシェパード」というのが出て来るが、その2つを融合させたような感じだ。このまま彼を誘って道玄坂のホテルにでも消えたい気分だったが、タクシーで拉致された友人が心配だったので3人が待っている店へと急いで向かった。あまりにも好みの男とはほんの少しだけ会話をした。大学では何を専攻してたんですか。僕は社会学科でした。ああそうですか。医学部じゃないんですね。
無事に3人と合流し、初対面の男女5人の飲み会は、初対面の男女5人の飲み会らしく滞りなく終わった。泥酔した最年長者は友人に万札を握らせ、私のことはいないものとして扱った。残りの男性2人は便宜的に私たち2人のどちらとも連絡先を交換した。私は友人と2人でタクシーに乗った。タクシーの中で友人に、「2軒目に歩いてくるとき、あの背が高い人と何話したの」と聞かれた。「ほとんど話さなかったよ」と答えた。あまりにも好みの男があまりにも好みであることは友人には最後まで黙っていた。
次の日、あまりにも好みの男から便宜的に連絡があった。あたりさわりのない文章で、昨日はありがとうとか、先輩が酔っててごめんねとか、また飲もうねとか書いてあった。2秒で便宜的な返事をした。こちらこそありがとう、楽しかったです。よければ、今度2人で飲み直さない。はい、いいですよ。来週末は予定どうかな。金曜の夜ならOKです。
あっけないほどすぐに、私はあまりにも好みの男とデートすることに成功した。自分が消費されてかけていることにはうすうす気づいていた。あまりにも好みの男は、中目黒にある人気のイタリアンを予約してくれていた。このイタリアンは、あまりにも好みの男が自分以外の誰かと来た店であることにはうすうす気づいていた。私たちはチーズと生ハムを食べ、白ワインをまる1本あけた。私がお手洗いに立つタイミングであまりにも好みの男がお会計を済ませてくれたことにはうすうす気づいていた。私たちは少し離れて歩いて、あまりにも好みの男が常連だという会員制のバーへ向かった。これがあまりにも好みの男の常とう手段であることにはうすうす気づいていた。バーの深いソファで、私はあまりにも好みの男に手を握られ、身をすくめた。とうとう捉えられたのだ。私は逃げられなかったし、逃げなかったし、逃げる気は毛頭なかった。恵比寿のラブホテルに向かいながら、自分が消費されてしまうことにちっとも気づかないふりをした。あまりにも好みの男と寝ころんだシーツは、不思議と真昼の草原にいるような気分にさせた。自分がまだほんの子どもで、セント・バーナードとかボルゾイとかシェパードとか、ああいった類の大きくて豊かな毛並みの犬とじゃれているように感じた。私は、真昼の草原のうえで、大きくて豊かな毛並みの犬にささやいた。おねがい、避妊してください。
翌朝は冷たい空気の日だった。起き抜けに、私はもう一度抱かれた。2度目のセックスのとき、私は真夜中の草原にいるような気分になった。草原で一夜を過ごすつもりがなかった私は、ポケットの中の口紅しか化粧品を持っておらず、眉毛も描かずに外に出た。駅前にはゴミ袋がたくさん落ちていた。私は地下鉄に乗らなければいけない。気をつけて帰ってね。うん。また連絡するからね。うそでしょ。うそじゃないよ。
地下鉄の駅へ向かう階段を降りながら振り返ると、私をさっき抱いた男がこっちを見て手を振っていた。私はもう一度驚いた。この、私をさっき抱いた男というのが、とにかく、すごく、あまりにも、私の好みにぴったりだったのだ。私はこれから60年ぐらい生きて、その間に何人かの男とセックスをするだろう。でも、ホテルのシーツを草原に感じさせる男はもう現れないような気がする。