みんなで公民館に集まったんだけど肝心のスネ夫の肉体がバラバラに分解され頭部がいま広東省にあるらしいので戻って来るまで念仏を唱えようという流れになりみんなで念仏を唱えてたんだけど出来杉が途中からラップ調で念仏を唱えるので何度も中断し最後にはジャイアンが切れて出来杉を殴って追い出した。
遅かれ早かれ、落ち着く先は受容された社会だと私も思うわ。このテンションを維持するのは難しく、飽きるというか疲れてしまうだろう。
おっそうだな
これが運命、という啓示が予めあったにも関わらず、それに従わなかったパターン。
まず、その運命に反する行動をとるときに、ものすごい抵抗がある。
その後、しばらくはもやもやと抱えたまま生きる。
本来の運命ではないことが起こったことをはっきりと自覚してからは、死にたくなる。大うつ病がやってくる。
その後は、よくある受容が起こる。
ただ、受容の程度がえげつない。
記憶が抜け落ちる。解離性健忘が起こる。
私の場合は、なにかからの接続がぷっつりと切れ、糸が抜かれるような感覚があるときがあった。
それからの感じ方というのは、感覚でいうと、時計じかけのオレンジのアレックスの状態。
ルドヴィコ療法の如く、目を見開かされながら、自分のいない世界線を、ずっと見る感じ。
ただ、自分のいない世界線といっても、自分という登場人物はいて、あくまで世界線の一部として存在している感じ。
それまであった主人公感は完全に抜け落ちる。
自分の時間は与えられるが、自分の本来やりたいことは手に付かない。
でも、自分のいない世界線は、自分の在不在に関わらず、本来進むべき脚本に従って続いていく。
自分の場合は他人との関わりに於いてだったので、その他人の演じる分まで演じている感じ。
なんであんなことしたんやろ。
運命には従ったほうがよい。
つまんねえ。
記念 真紀子だワッショイ!!
うん。最近多い。
もちろん、新型コロナウィルスの感染拡大が完全に止まるのが一番なのだが、インフルエンザみたいに社会に定着してしまったら、どうなるかを考える。
おそらくは社会の総意として、大騒ぎするのをやめる。コロナのせいで1年に数千人が亡くなったとしても、それこそインフルエンザ(2019年だと9月までに3000人が亡くなっている)や、交通事故(2019年は3215人が亡くなった)、自殺(去年は2万人を割った)のような社会における不可避のリスクとして受け入れられるようになっていくのではないだろうか。
毎年、コロナウィルスのせいで数千人規模の死者が出たとしても、来年も再来年も同じような状況を続けさせるなら、おそらく社会がもたない。各種イベントの中止や学校教育の後退、何よりも景気の大幅な失速による倒産や失業の拡大によって、病気を原因とするよりも多くの人が命を落とすことになりかねない。失業率と自殺者数との相関係数がものすごく高いことはよく知られている。
だからきっと、メディアも政府も騒がなくなる。基本的にメディアは飽きっぽいし、さすがに新ネタも無くなっていくだろうから、コロナ報道もそのうち減っていく。毎年、数千人のオーダーで人が死んでも、それは大きな問題ではなくなる。