彼の帰りを待ち続けて、幾度目かの夏が来た。
もう二度と、会えないことは知っている。
当時高校生だったわたしの前に颯爽と現れた彼は、いとも簡単にわたしの心を奪っていった。
年上の彼は、まだ未成年で世間知らずで若さ・可愛さ・勢いだけが売りの女子高生からのアプローチには目もくれず、
「何の仕事をしているの?」
と聞いたことがある。
「街の雑務だ」
と言われた。
その時は「お役所の人なのかな」と思って特に追求しなかったけど、多分違う。
ただ彼は、いつか小説を書きたいと言っていた。
わたしも、本を読むことは好きだったので、
「書いたら一番に読ませてね」
衝撃を受けた出会いから一転、わたしと彼は穏やかな日々を送っていた。
客観的に見たら可愛らしい、主観的に見たら両手で顔を覆いたくなるようなアプローチを続けていた。
彼はそんなわたしに動じることなく、否定も肯定もせず、いつだって静かに見守り、そばにいさせてくれた。
彼の、そういうところが好きだった。
彼は少し変わっていて、不思議な人だった。
彼の仕事もそうだけど、例えばものすごく辛いカレーが好物で、行きつけのお店には彼専用のメニューがあったりだとか、
真顔で冗談を言ったりだとか。
母もそうで、父と結婚当初、いつものように甘口のカレーを作って食べさせたら、
普段辛口のカレーばかりだった父は口に合わず戻してしまった、という話を聞いた。
笑いながら聞いたら、
「飲み込むよう善処する」
と、ちょっと困ったような顔で言っていた。
「ひとくち食べてダメだったときのために、後入れスパイスを用意しておくね!」
「助かる」
3年生の夏、進路の相談をした。
正直わたしは、この恋を取るかやりたいことを取るか、悩んでいた。
好きな歴史の勉強をしたくて、その中でも学びたいことを学ぶためには関西のとある大学に行くのがベスト。
だけど関西となると、新幹線や飛行機で一本とは言え、地元にはそう頻繁に帰れない。
彼に会いたいと思えば、連絡せずとも街をぶらつけば会えてしまうこの現状を棄てるのはもったいなくて、
だけど妥協して別の勉強をするだとか、そういうことはしたくなかった。
「自分の思うように、後悔しないようにすればいい。俺はここにいる」
彼はそう言った。
最後のはわたしを宥めるために言わせてしまったのかもしれないけれど、
言外に「待っている」と言われたようで、舞い上がってしまったのを覚えている。
彼の、そういうところが本当に好きだった。
連絡するとしたらわたしからばかり、それも電話ではなくメールだったので、ケータイの画面を5度見位はしたと思う。
あわてて通話ボタンを押すと同時に彼がわたしの無事を確かめてきた。
「今どこにいる」
「家にいる」
「一人か?」
「うん」
「わかった」
初めて聞いた、彼の切羽詰まった声。
正直、何が何だか分からなかったけど、彼が来てくれる、それだけで安心できた。
彼はわたしの家に着くと、再度わたしの身に何も起こっていないかを確認し、誰かへ電話を掛けた。
多分仕事先の人だろう。
あまり聞かないように、かつ気が散らないように、わたしは静かに大人しく彼のためにお茶を淹れた。
わたしも、無理に聞かない方がいい気がして、黙ってお茶を差し出した。
彼は何かを考えているようだった。
多分、わたしへ何かを、何と伝えようか、考えていたんだと思う。
そう言って受け取ったお茶を数分かけて飲み干した彼は、窓から外を確認し、静かに話し出した。
「俺は、やらなくてはならないことがある」
わたしは黙って聞いていた。
「ずっと、小説を書きたいと思っていた。そのために、今の生き方を選んだ」
当時のわたしには分からなかったけれど、今になって思うとあれは、覚悟を決めた目だった。
「だが、……それはもう、出来そうにない」
直接的な表現ではなかったけど、彼にはこの未曾有の事態の中、夢を、約束を棄ててでも、やらなくちゃいけないことがあるらしく、
それをわたしには止められないことだけは、確かだった。
「ここは大丈夫だ。後悔の無いように生きろ」
頷くことしかできないわたしの頭をひと撫でし、彼は立ち上がった。
「……待ってる」
何か言わなくちゃと、伝えたいことはたくさんあったのに、絞り出せた言葉はこの一言だけだった。
彼は少しだけ目を見開いて、それから、「行ってくる」とだけ言って、出て行った。
彼がどこへ、何をしに行ったのか、結局分からずじまいだった。
彼がどこかへ行って10日後、彼の友人を名乗る青年が、わたしを訪ねて来た。
その人は、彼より幾分か年下で、わたしより幾分か年上だった。
そう言ってその人は、彼がよく吸っていたタバコと、愛用していたジッポライターをわたしの手のひらに乗せた。
「『約束を守れなくてすまない。君が作った甘口カレーを、食べてみたかった。どうか幸せになってくれ』と、言っていた」
無表情に見えるその人もまた、彼がいない事実を辛く思っていることは明白だった。
努めて表情を消していることも。
わたしとその人は、しばらく黙ったまま空を見上げていた。
何も言われなくても分かっていた。
何も言わなくても、きっと通じていた。
わたしも、彼の友人も、誰も「彼が死んだ」とは明言していない。
明言していないだけで、それが事実だということも、分かってはいる。
だけど、それを口にしたら、それが確定してしまうような気がして。
言葉にしなければ、きっとどこかで……なんて、絶対に無い奇跡を、今もまだ願わずにはいられないでいる。
一つの区切りとして、数人しか知らないこのことを、この匿名の日記に記してみた。
婚約者は全てを知っている。
知ったうえで、わたしを好きだと言ってくれて、彼のことを忘れられないまま好きになってしまったわたしを愛してくれた。
「忘れる必要はない」
「その人を好いていた気持ちも含めて、君の全てを愛している」
こんなに良い男がわたしの婚約者だなんて、わたし自身も驚いてはいるけれど、
この人と生きていきたいと思った。
後悔の無いように生きる。
それは思っていたより難しく、実際にわたしはあの時にわたしの気持ちを伝えられなかったことを一番に悔いている。
それでも、彼の願ったことだから、出来る限り精一杯、堂々と、自信をもって今に至っているつもりだ。
わたしは今も、帰ってこない彼を待ち続けている。
婚約者の隣で、彼のことを待っている。
そして伝えたい。
哀しくて、苦しくて、辛かったけど、婚約者と幸せに生きたのよ、と。
きっと貴方は、「それは良かった」と微笑んでくれるでしょう。
彼と、婚約者。
わたしの大好きで大切な人が2人揃ったら、それはきっと素敵な世界だ。
この嘘のような話は、ところどころフェイクを交えている。
匿名で、そもそもこのことを知っている人が限られているとはいえ、全てを赤裸々に全世界へ発信するほど愚かではないつもりだ。