はてなキーワード: ロビイストとは
理由は4つある。
もうそれだけでどーしようもなくマイナーで、馬鹿みたいにちっぽけな話だ。誰も話なんか聞かない。
ところ変わって宮城県は気仙沼。「かつおフォーラムin気仙沼」が11月28日に開催された。
気仙沼港のカツオの水揚げ量って昨年比で半減してんだよ。で、外国の巻き網漁船を規制するように国に求めてる。
で、知ってた?
日本の文化としては大和朝廷からスタートして、鰹節は言うに及ばず、初鰹なんて小学生でも俳句で知ってる。
エロ漫画が規制される?いやー、日本のカツオを守るための規制ロビー活動の方がどう考えても重要度高いだろ。
とはいうものの、お上の規制(ただし東京都)とは穏やかではない。こりゃマズイのでは。
ゴルゴ13が好きで、1児のパパで、残業が多いけどそれなりに幸せに暮らしている。(北斗の拳が好きなママでも良い)
よーしパパちょっとだらだらネットで情報でも仕入れてみるぞとか(ry
そうしてググって出てくる書店で普通に買えるアレな漫画の数々。
「我が子と同じような年代の少女が(自主規制)されてる……!!」
実際には自主規制されてないというのは、ブラックジョークとしては質が悪くてどうしようもないな。
「ゴルゴとか北斗の拳がこれから読めなくなってしまうのは辛い。でも我が子のことを思えば……我慢するか」
まあ、普通はそうなるだろうな。
いや、普通という言い方は良くなかった。たしかに俺が悪かった。言い直そう。
日本が世界に誇る漫画という文化を理解せず、体制側が恣意的に運用可能な条文を読みもせず、ただ感情にまかせて判断するどうしようもない非文化的な社畜の父親であれば、愚かにもそう結論づけてしまうだろうな。
全く嘆かわしい限りだな。そう言う輩が都民有権者の大半を占めるとは!
「政治とは感情を操ることだ」と喝破したのはソノケンだが、まあそうだろうな。
といってもゾーニングとか自主規制とか窓口とか、落としどころはたくさんあるだろ?
いやね、ベトナム戦争をアメリカは結局のところ勝てなかったと言って良いと思うよ。
でもこれって悲しいけどゲリラ戦じゃなくて大義名分の戦いなのよね。
業界団体でもあれば「俺ゴルゴ読みたいけど娘も心配だから」と説明会だの決起集会だのに顔出したりするだろう。暇で情熱があれば。
ないよね。
言ってることまちまちだし。
「表現規制はお上の規制も自主規制もすれば表現が萎縮して面白くなくなるから反対だ!」
とか言われたらそりゃ親父さんは心配するだろう。
「アレやコレやソレは流石にマズイから規制、でゾーニングを徹底して」
とか言ってるのは良いけど、それ書店とか出版社に話し通してます?ああ、稟議書のフォーマットはこちらです。
ロビイストの方々が「頼むから何もしてくれるな。俺ら動くから」というのは、当たり前のことだろう。
だって仕切る人が居なくてわちゃわちゃだから、じゃあ東京都が規制するか、って話の流れなんだし。
わちゃわちゃっぷりを見せつけてどうする。モネラ界ですらS・セレビシエが仕切っただろ?
御輿が無く、集合場所が無く、各々勝手なことをすることで知られる広島のお祭り騒ぎ。毎度警察密着24時で見かけますね。
俺らがトッコー服着て夜店で買い物も出来ないってオカシクね?るせーよ迷惑とかかけてねーだろ。お祭りだろ。
とはいえ、そのへん判った上でみんな活動なさってるんでしょ?
だってヒラコーのあのコナミとかナムコとかの珍名おっぱいが出てきてクビがボーンの大同人って続き書かないの?諸君私は漫画が好きだ。
を、裏ルートで警察に怯えながら表書きには「文房具」って書いてもらって通販するとか面倒だし。
コレに関しては、どうかなあ。判ってる(人も居る)ような気もするけどなあ。
さて、話変わって同人誌の苛烈な自主規制の件、知ってる?奥付超重要とか。
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/event/2007/05/21/15765.html
いやー、国民の常識っしょ、知ってるっスよ俺らでも。みたいなことは誰も言わない。
そんなの気持ち悪いだろ。
それをコミケ準備会も虎の穴もメロンブックスも骨の髄まで理解している。
俺ら日陰者で、何時潰されるかも判らない。お上の規制はイヤだ、だからそうならないように活動します。
本当に自覚している。
その自覚が、今回東京都の表現規制条例反対と主張する人たちに、はたしてどれだけあるだろうか。
マイノリティが、マジョリティに何かを訴えかけるときに、オマエラは愚かだと言っても鼻で笑われるだろう。
社会通念を作り上げるのは普通のオッサンオバチャンであって、LO読者じゃない。
少数派は諦めろって事か!
TVshack.net, Movies-Links.tv, FilesPump.com, Now-Movies.com, PlanetMoviez.com, ThePirateCity.org and ZML.com.
アメリカでこれらのサイトが著作権を侵害しているとして閉鎖されました。
閉鎖されたサイトはいずれもいずれもネット上にアップロードされているファイルを検索できるサイトです。
アクセスすると連邦捜査局のものと思われる「このドメインは映画や音楽,ソフトウェアなどの著作権を侵害していたため閉鎖されました」という画像に差し替えられています。
実際には違法に映画のファイルがアクセス出来るサイトを閉鎖したようです。(例えばトイ・ストーリー3)
このニュースを扱った記事はたくさんあったのでその内1つを置いておきます。
http://www.theregister.co.uk/2010/07/01/us_movie_piracy_crackdown/
上の記事のコメント欄
http://forums.theregister.co.uk/forum/1/2010/07/01/us_movie_piracy_crackdown/
コメント欄には
「著作権を侵害するサイトへのリンクだけで閉鎖されたならどうしてGoogleは閉鎖されないんだ?」
「結局アメリカの法律はロビイストのために造られるんだよ」などといったコメントが並んでいます。
取り消し 下記参照今回閉鎖されたサイトには違法ファイルは置いてありません。あくまでもファイルの場所を検索するだけのサイトです。
それらのサイトを閉鎖させるというのはけっこう踏み込んだ判断だったのではないでしょうか。
WinnyやShare使用者を逮捕した日本でもそうですが最近はインターネットへの規制も強まって来ている感じですね。
一時の無法地帯ぶりがまるで嘘のようです。
日本語版の記事もありました。こちらの方が上の記事より新しくて詳しいです。
この記事によると閉鎖されたサイトは映画を違法に配信していたらしいですね。
それなら閉鎖されるのも当然かも。
2年前にUNAMID平和維持活動の立ち上げを一任されたマーチンルーサーアグウェイ司令官の言葉だ。司令官を退任することになっているAgwai氏は、ダルフール紛争は激烈な戦闘のフェーズとは違ったものになっていると、BBCのインタビューに答えている。
「もちろん盗賊行為、土地や水をめぐる地方住民の争いなどはなお解決されなければならないだろうが、いわゆる内戦と我々が理解している戦争は、もはやみられない」
過去2,3年の間にダルフールへ行ったことがある人は誰でも同じ結論を抱いているのではないだろうか。ところが、セーブ・ダルフールのロビイストたちは知ってか知らずか、Agwai司令官の発言を曲解した。まぁ予想通りだったが。
たとえばEnoughプロジェクトのNorris氏は、この点を意図的にスルーしている。
彼は自分と異なる意見の持ち主は誰でも、スーダン政府に肩を持つ工作員と非難する傾向があるのだ。
Agwai氏らは都合の悪いことをいわなかった。例えば、治安上の問題から帰郷できない300万人の国内避難民の存在。それから、アルバシール大統領とジャンジャウィードの一味にとっては、300万人を追っ払ったので、十分目的は達成しており、毎日武力行使するまでもないのだ。
Agwai氏はこんなことはいっていない。過去2年間、盗賊に襲われないように避難キャンプを防衛してきたAgwai氏がいっているのは、ダルフールは依然として人道的には危機的な状況を脱していないが、それはNorris氏が想像するようなジェノサイドや武力衝突によるものではない、ということだ。
「Promise of Engagement」のBec.Hamilton氏もまた、うかつなことにこの点を見過ごしている。
「まず、’戦争が終わった’ということと戦争が雨季や武装勢力の分裂あるいは選挙などの影響で小康状態にあるということは別のことだ。それに、この変化が確定的なものであるとしても、国内避難民の状況に無関係である。本当の問題はいかに戦争の結果として生じた不安定な状況が人道的な空間が圧迫しているかということである。」
この点、いいことをいっていると思うが、しかしベックはそれを台無しにするようなこともいう。
「結論として、Agwai司令官のコメントは間違っているわけではないが、かなり的外れだ」
このブログの読者であれば改めていうまでもないことだが、とりあえず進めよう。ダルフール救済のための国際的な取り組みで問題となっているのは、この種の見当違いの分析だ。ダルフール紛争をいかに理解するかは解決の重要な鍵である。この紛争をジェノサイドあるいは戦争と考え続けることは、飛行禁止区域とか平和維持軍、またバシール大統領の逮捕に関心を持つということだ。去年の大統領選において、クリントンやオバマがこれらの事柄に言及していたように、活動家の主流派の基調をなすこととなる。
しかし、現実はかなり異なる。スーダン西部における危機とは人道的な種類のものであり、軍事的な解決を要するものではない。Agwai司令官の分析で明らかなように、ダルフールの治安にとって重要なのは、盗賊行為や水問題、そして地元同士の争いの問題なのだ。Agwai司令官の分析は的を射ている。
こうした正反対の事実があるのにジェノサイドや戦争にこだわりつづける論者は、ますますピントはずれの呆れた論客と成り果てている。証拠に基づいて解決を探るという態度ではなく、解決へと導くような策略によって行動しているのだ。彼らは現場で何が起こっているのかについては関心がないのだ。Agwai司令官のコメントをろくに考えもせずに却下したことが何よりの証拠だ。
Norrisのようなタイプの人々は、ダルフール地方の治安状況がどうであれ、スーダン政府を崩壊させればそれでよいと考えているのだ。
平和というのは、ロビイストがドグマを捨てたときに初めて実現できるものだ。しかし活動家のなかには、平和よりも反ムスリム感情に突き動かされているタイプがいる。だからこそいまだに我々はダルフール救済をうまく実現できないのだろう。
コンビニでマテリアルガールがかかっててふと思ったんだけど(-ガール、というsuffixがつくからといって中田ヤスタカの未発表曲じゃありません)マドンナのパパ・ドント・プリーチのときの教皇ってあのポーランドの人でよかったんだっけ。
別にことさらドミニコ会=説教者修道会に対するあてこすりの意図はないよな。全体としてカトリック信仰に喧嘩を売る意図はあまりに明瞭だけれど。しかしまあドミニコ会士の現代における等価物は人権団体とか環境団体のロビイストだろうな。同性愛者に権利を、とか無神論的自由主義、不可知論を標榜しながら、彼らのやってることは「キリスト教徒にふさわしい精神」の押し売りの現代版だ。そしてそれにすばやくすりよる金貸しども。カーボンエミッションの売買は現代の贖宥状そのものだ。マモンのかわりにガイアとか人権、健康とかを偶像崇拝するというのがこの「新しい中世」の堕落した教義らしいよ。そのうちタバコを吸ってると公共に対する毒ガス攻撃として異端審問にかけられる世の中にマジなりそう。タバコを吸うという愚行がいかに自然法の観点から正当化しがたいか、スコラ的に論証できるようになっとくと就職口に困らない、まっくらな未来が来るかも。下々はカルミナブラーナでも聴いてその日暮らしの楽しみを謳歌するすべを学んでおきましょう。(児ポがらみの論点はあえてスルーしますがもちろん関係ありありです)
セーブ・ダルフールは近年のアメリカでもっとも大規模な運動のひとつだ。
ダルフール紛争が一年経過したころにこの運動ははじまった。平均的なアメリカ人にとっては何の縁もない地方の紛争である。レイプや殺人、ジェノサイドといった物語が新聞をにぎわし、それがダルフールを物語る言葉となっていった。この暴力を阻止するという動機にもとづいて、何百万人という市民が動員され、運動が盛り上がっていった。
しかし、その後5年たってみて、ダルフール紛争は近年でもっとも誤解された紛争のひとつとなってしまった。
というのもダルフール問題の活動家は運動を盛り上げるために、ダルフール紛争の本質を捻じ曲げたキャンペーンを行い、実態よりもセンセーショナルに扱ったからだ。
「何十万のダルフールの人々が”殺された”」というのだ。
活動家たちが認めたがらなかったのは、被害者の大多数が本当は紛争に起因する病気や栄養失調によって死んだのだという事実であった。
確かに、ダルフールで発生した圧倒的な戦争犯罪行為の事実を前にしては、病死と殺害とを識別することには、さして重要な意味はないのかもしれない。しかし、こうした分類の仕方に無頓着になった多くの活動家は、アメリカ政府に対して人道的な救援や平和構築よりもむしろ、暴力抑止や国際PKO部隊の派遣のための予算を要求するようになっていた。
セーブ・ダルフール連合は、政治家に圧力をかける多くの支持者を動員してきた。さらに、彼らは政府に暴力の抑止と国連部隊の派遣を働きかけるべくロビイストを雇っていた。
ロビイストが活動する以前のアメリカ政府は、ダルフール問題に対して10.1億ドルを投じていた。このうち、8.39億ドルが避難民キャンプや人道的支援のために使われ、平和維持活動のために直接割り当てられたのは1.75億ドルであった。このことは、当初、アメリカ政府が平和維持活動よりも人道支援に重点を置いていたことを意味する。
ところが、2006年から2008年にかけて、セーブ・ダルフール連合および他のグループは、政府に人道支援から平和維持活動に資金の使途をシフトさせようと働きかけた。恐らく、ロビイストと市民運動の盛り上がりによるものだろう。
これにより、現在までに支出された20.1億ドルのうち、51.3%にあたる10.3億ドルが人道支援の目的で使用され、9.8億ドル(48.7%)が平和維持活動にあてがわれることとなった。この比率の変化は人道支援から平和維持活動への重心移動を物語るものだ。
結局のところ、政府がこの比率を変えたことには大きな問題があるといわざるをえない。というのも、被害者調査によれば、ダルフール紛争の影響下で病死したり栄養失調で死亡した被害者の数が高止まりしているなかで、「殺害された」被害者数は2004年4月8日の停戦以降は著しく減少しているからだ。
もしダルフール活動家が資金の使途について軍事介入を重視するよう迫っていなければ、もっと多くの命が救済されたのではないのか。
また、多くの活動家がダルフール紛争の本質を見誤っていることも問題だ。彼らはスーダン政府および野蛮なアラブ部族が関与した虐殺については責められるべきだとしており、「セーブ・ダルフール」は、多くの宣伝、ニュースレターあるいはウェブサイト上で「進行中のジェノサイド」という言い方で紛争を表現している。
ジェノサイドという用語は、もともと事の重大さを国際社会に喚起するために使われた言葉だ。この言葉に触発されて、各国政府や国際機関が迅速に紛争に立ち向かうわけだ。
活動家は善意だったかもしれない。しかし、「ジェノサイド」という言葉が大衆の間で広まると、有責な事柄と無罪の事柄のバランスが失われ、予想もしなかったような事態になった。
「ジェノサイド」という言葉は、単一の志向をもった犯罪を示唆する。しかしながら、犯罪に関与した者たちが、実際、定義されたとおりの犯罪者であるかは定かではない。
もちろんスーダン政府はダルフールにおいて多くの人々を殺害しており、この点の戦争責任は免れえない。しかし、反政府勢力もまた、いくらかの責任を免れないだろう。国連がダルフール調査団を派遣した際、多くの反政府グループが深刻な人権侵害や人道法上の違反を犯していたことが明らかになったからだ。
つまり「ジェノサイド」という言葉は、紛争のある一面を浮かび上がらせるのは確かだが、それによって他の一面が逆に隠されてしまうことがあるのだ。
ダルフールについていえば、「ジェノサイド」という言葉が膾炙することによって、反政府勢力が国際社会のレーダーの捕捉網から感づかれずに済む効果を生み出してしまった。また国際社会の関心をもたれないまま、人道法違反を野放図にすることを許すことになったのだ。「ジェノサイド」という言葉にこれほど注目しなければ、恐らく活動家は反政府勢力の犯罪を見逃さなかっただろう。
例えば、ダルフールの反政府勢力の有力なスポンサーはエリトリアやチャド、SPLM(スーダン人民開放軍)だが、彼らは、昔からアメリカ政府の支援を受けてきている。つまり、反政府勢力のライフラインを支えているのはこれらの国や組織だ。
今日、ダルフールの状況は歪んだ見方がなされている。進行中の紛争や暴力行為の多くは盗賊や無法者そして部族間紛争に起因するものとみされている。UNAMID(国連とアフリカ連合(AU)の合同PKO部隊=国連・アフリカ連合ダルフール合同活動)によれば、09年6月における死者数は16名であり、いずれもスーダン政府軍と武装勢力との衝突によるものではなかった。
昨年一年間におけるダルフールでの被害者数は、政治学者が内戦と定義する一年当たり1千人の死者数を下回っていた。
このように状況が変化しているにもかかわらず、多くの活動家はスーダン政府が大規模な攻撃をダルフールに仕掛けていると論じ続けている。「進行中のジェノサイド」「ダルフール戦争」という言葉が、いまだに活動家の資料や宣伝に頻繁に使われているため、多くの人がダルフールはそんなに変わっていないのではないかと思い込んでしまっているのだ。
ただ最近、オバマ大統領は現状を指して「ジェノサイド」という言葉を使っており、国務省とアメリカ大使も、ダルフールのジェノサイドは終わったと主張しているスコット・グレイション(スーダン特使)と距離を置いているようだ。
しかし、そろそろアメリカ政府とダルフール活動家は性質においても規模においてもダルフールの状況は一変したという認識をもつべきだろう。
軍事介入や紛争の一方当事者(スーダン政府)の断罪のかわりに、平和構築と2百万人を超える国内避難民の救援に力を入れるべきときだ。
作者:マーク・グスタフソン
ThinkCに参加した人たちからは評価が高い白田氏の演説だけど、ギレン・ザビの演説級だと僕は思う。たくさんの人が知った方がいいと思うし、もっと評価されていいはずだ。一部で議事録もあがっているようだけど、現場の勢いはあんなものではなかったから僕の記録を公開することにした。それに今回のフォーラムは公開されないと聞いたから。
もしかしたら実際の発言とは多少異なっているかもしれない。そこのところは僕も危ぶんでいる。とはいえ、面白さとか迫力とかだったらある程度までちゃんと再現できてると思う。以下の記録を読んでくれて、白田氏の熱さが伝われば幸い。
...「制度改正ができるものならやってみろ」ということでしたが...
そんなこと10年前からやってきたんですよ!
博士論文で、著作権制度が産業保護奨励政策としての独占にすぎないことを明らかにした(1)。
博士論文の内容をくだいて一般向けにした、わかりやすい解説も書いた(2)。
あちらこちらの講演で語った。
雑誌記事で一般に訴えた。
オンライン記事でみなに訴えた(3)。
審議会に出て言いたいことを言ってきた。
ロージナ茶会という組織も作った──茶会はすでに解散してしまいましたが──。
パブリック・コメントも出した(4)。
私一人でできることは、ずっとやってきたんだ!
それでも、誰もついてきてくれないから...
いまだに、こんな議論を続けなければならないんじゃないですか。
法律論では、なんにも先に進まないことは、もうわかってますよ。
...この会場の誰が、私を援けてくれるんですか?
誰が、私と一緒に著作権制度の議論に本気で取り組んでくれるんですか?
最近は、茶会のメンバーですら、私の書いた記事にコメントくれなくなった(苦笑。
そこら辺(運営側)の人たちも、最近さりげなーく私の発言を無視するようになった。
それでも、一人でも、一歩でも先に進まなければいけないから、
こうしてここで喋っているんですよ!
会場から「白田の主張は偏ってるんじゃないか」というご指摘がありましたが...
そんなことは百も承知でやってんですよ!
日本の学界の主流である、ドイツやフランスの著作権理論がどんなものかは、よく知っています。
しかし私の博士論文では、イギリスの著作権制度がそれらに先行し、強い影響を与えたことを明らかにしている。私の研究では、産業保護策としての独占の付与が先んじ、その後、著作者の財産権だの、著作者の人格権だのといった主張がくっついてきたことを明らかにしている。
私はその研究に5年かけたんだ。貴重な若い時間を費やしたんだ。
だから、著作権制度が所有権や人格権を本質とするという主張については、賛成できない。さらに言えば、知的所有権のみならず所有権という概念それ自体があやふやであることもまた、岩波から出た論文集の中で指摘している(5)。
もちろん、こうした考えは学界では異端だろうし、支持者もいないだろうことは知っている。
しかし... 世間の大勢が、著作権は「天才を保護する権利だ」とか「創作者の心情を保護する権利だ」などと言ってるからといって、自分が5年かけて確認したことを、「著作権制度は、本質的に産業保護を目的とした独占にすぎない」という自らの主張を、曲げることは学者としてできない。世間の大勢を慮って自説を曲げることを曲学阿世という。首をくくられても自説を叫ぶのが学者なんじゃないですか?
いいですか... 社会のほとんどの人が「著作権は天才の権利だ」と信じて、それを強化拡大しようとする側にいるとき、シーソーは、圧倒的に権利強化の側に重く傾く。そのとき、たとえ100mの空高くはじき飛ばされようと、誰かがシーソーの反対側に立たなければ均衡など維持できないではないですか。
ローレンス・レッシグは、憲法学者でありながら、なぜ著作権制度について問題意識をもち、闘っているのか!
彼の本、『コモンズ』には、こういう一節があった。
──連邦議員が、少数の利益や既得権ではなく、一般的な福利を尊重すると考えることが頭がおかしいのなら、連邦最高裁が、形式的な法律の適用ではなく、われわれの自由や幸福について配慮すると考えることが頭がおかしいのなら、いますぐキチガイを増やさなければならない──
というものだ。したがって、私は百も承知で偏った議論を展開している。それは、それが全体としての均衡を維持するのに必要だと考えているからだ。
(1) 白田氏の唯一の学術論文である『コピーライトの史的展開』 知的財産研究叢書2, 信山社 のことらしい。
(2) ネットワークでは良く知られた『もう一つの著作権の話』青空文庫 のことのようだ。
(3) このあたり、氏のWebサイト『白田の情報法研究報告』でだいたい読める。
(4) 「知的財産推進計画2006」の見直しに関する意見募集にも提出している
(5) 知的所有について, 『[rakuten:book:11350650:title]』 第3巻 情報, pp. 85--105 のことらしい。
連邦最高裁が「自由や幸福について配慮すると考えることが頭がおかしい」という部分についてだけど、実際の記述は、『Free Culture』p. 313 にあった。引用すると以下のとおり。
でも、政府の役割が「バランスを追求する」ことであるべきだというのがバカげていると言うのであれば、わたしはバカの側に分類してほしい。というのも、そうなったらこれがかなり深刻な問題になってきたということだからだ。もし政府がバランスを追求しようとせず、政府が単に最強のロビイストたちの道具でしかないということが誰の目にも明らかになっていて、政府に別の基準を要求するのがバカげていて、政府がウソではなく真実を語るよう求めるという発想がおめでたいのであれば、世界最強の民主主義だったはずのアメリカは、いったいどうなっちゃったというのだ。
政府高官が真実をしゃべると期待するのは頭がおかしいのかもしれない。政府の政策が、強力な利益団体のお手盛り以上の何かだと信じるのは頭がおかしいのかもしれない。歴史を通じてずっとアメリカの伝統であったもの――自由な文化――を守ろうと論じるのは頭がおかしいのかもしれない。
それが頭がおかしいのなら、キチガイをもっと増やさなきゃいけない。それもすぐに。