はてなキーワード: 責任能力とは
あぁ、そうだね。
人殺そうが、物盗もうが、起訴されて裁判で有罪にならなければ犯罪者じゃないよね。
ゴメンゴメン。
そんなことはないよ、犯罪者と断ずることが出来るのは、裁判官だけなんだから。
そりゃそうだろう、裁判官の判断を仰げば、白黒ハッキリしてしまうからだ。
だったら、起訴しなければ良い。
もちろん、<法的には>犯罪者ではない、裁判所が判断しなかったのだから。
でも、起訴しない理由なんて幾らでもあるだろう?
・犯行をした事は明白だが、被害が軽微で法定で争うほどではない
・etc
・そもそも嫌疑なし
そのどれかも、「はっきりしない」、判断されなかったからね。
有名な事件。唾棄すべき醜悪な犯罪。
平成11年3月10日から平成12年8月1日までの約1年5か月の間に犯行当時3歳から10歳であった合計11名の幼女に対しなした4件の強姦未遂,5件の強制わいせつ及び2件の強姦致傷の事案。
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/DCE4F7E05CA2628849256BBB00269334.pdf
被告人は,前記のとおり公判廷においては犯行時の記憶がないなどと不合理な弁解を繰り返しているが,捜査段階においては本件各犯行に至る経緯及び動機について以下のような内容の供述をしていた。すなわち,被告人は,平成8年ころ,自宅近くの広瀬川の河川敷で犬の散歩をしている小学校高学年くらいの女の子を見つけ,その女の子が,自分の好みのタイプであったことから,一緒に散歩するようになった。この女の子に対しては何もしていないが,その女の子に欲情したのがきっかけで,次第に年齢の低い女の子について性欲を満たす対象とみるようになった。・・・
好きな娘ではぬけないタイプ?
精神分裂病で責任能力どころか訴訟能力がないと主張して、性倒錯(小児性愛)および非社会性人格障害のみ認められた。
この後「4日に1回程度の割合で好みの女の子を捜しにいってはセックスを試みようとするようになった」
被害幼女らの被告人に対する嫌悪感等は,当然のことながら顕著であり,
- 「私に変なことをした男の人が刑務所から出てきたら怖いから,ずっと刑務所の中に入れてください。」(同第1),
- 「犯人が牢屋から出てきたらとても怖いので,ずっと犯人を牢屋に入れておいて下さい。」(同第2),
- 「もう絶対に会いたくありません。」(同第3),
- 「今でも被告人のことを思い出すと,怖くて涙が出そうになります。」(同第4),
- 「本当に怖かったです。」(同第5),
- 「ずっと牢屋に入っていて欲しい。」(同第7),
- 「もう会いたくありません。変なことをされて気持ちが悪くて,怖かったです。」(同第8),
- 「消えちゃってほしい。怖い。」(同第9),
- 「変なことをするお兄ちゃんはきらいなのでもうあいたくないです。」(同第11),
被害を間近で目撃することになった被害幼女の姉においても「怖いし,嫌い。もう会いたくない。」(同第10)などと口々に訴えている。
すこし的はずれかも知れないですが……
おそらく根っこは子供という存在への、個々人の認識や定義の問題です。
・責任能力
・判断能力
・理解力 等々
つまり、或る行動をおこす際に、その行動でおきる結果を十分に予測した上で理性的な判断をくだしているのかですね。
大きく見れば、子供と大人の違いという図式の中でしょうが、性に限定してみても中にはいろんな論者がいますよ。
性についての知識を教えることは、防止や抑止になるという人もいれば、逆に助長するという人もいるし。
性関係の本や情報も、上と同様でしょう。
ただ根っこは、子供が責任持った判断を行えるの?行えないの? 行えるのはいつからなの?どうやって教えればいいの?っていうところの認識の差があるでしょう。
とはいえ法律やルール化する上で、18?とかの年齢基準にその認識をおいたわけですよね。(年齢などの絶対基準じゃないと運用できないから)具体的には選挙権や、民法の責任能力?などにも上記の思想が反映されていますよね。ただ、選挙権の引き下げなど子供対大人の定義分けを最近法改正したすこし統一したようなことがあったような……。話がそれましたね。
では、法律に対して世論はどうかといえば、これは何とも言えません。
それは権利や判断力・責任能力などの概念は、測定・定義することが難しい以上、各論者が自分の仮説や思想を作り出しやすい状況にあるからです。証明し合意をつくりずらい範疇の問題なんですよね。しかし、そういったことを深く理解せずに自分の主張を信じる人たちが徒党を組んで、同じ思想をもつ人数が多いから、正しいという錯覚に囚われたりしているという状況でしょう。
最後になります。”宗教戦争”という表現がありましたがまさにそうです。個々人の思想の問題です。なので、自分はこれが正解ときめるしかないでしょう。(外にあまり迷惑を懸けない程度に信条をもつという良識は必要ですが。)
もともと、そこに病気があるわけではない。病気でない人が、病気と判断するから病気が生まれるのだ。
それなら、「「病気」ですがなにか?」と開き直ってみたらどうなんだろう。
それでいいんじゃないか?
「病気ですが、別段不自由している訳ではないので、治療する必要はないです。放置しておいてください。」
それでいいと思う。
ただ、自分はロリコンじゃないので、元増田のような人に対して不安を感じる事もある。
ただ、ここで、本質的なのは、思慮分別があるかどうかだろう。
つまり、責任能力はあった上で、ロリコンという性癖を持つことはなんら問題がないと思う。
問題は、責任能力がない上に、ロリコンという性癖を持っていることだろう。
しかし、こういう指摘をする人もあるだろう。
現実の性犯罪をみていると、ある種の性癖、つまり”本能”が”理性”を飛び越えることはままある。
理性を明らかに有しているであろう人であっても、性犯罪を犯すことはあるからだ。
故に、病気として根絶しようとする力が働くのだと考える。
ただ、可能性だけで目障りなものを切り捨てていくのは、実に短絡的過ぎる。
この件、思ってたんだけど、世の中には性暴力犯罪者のことを、理性を自分でコントロールできない、つまり正常な判断能力のないクマとか野獣扱いする人がいるじゃない?
相手はクマとか野獣で制御不能なんだから責任能力なしで、襲われる女の方に自衛する責任があるっていう考え方。
更には女に性暴力衝動を喚起されたんだから性暴力犯罪者が被害者的な。
そういう文脈で性暴力犯罪者を扱うのは、知的障害者の一種扱いと同じなんじゃないかな。
で。更に、世の中には児童ポルノとか陵辱ものとかいった性暴力メディアを、「これがあるから犯罪をしないでいられる、必要な代償物なんだ」と公言する人もいるわけじゃない。
その人たちは、そういうメディアがなければ自分は理性をコントロールできません、責任能力ありませんって宣言してるわけでしょ。
それって自分たちを障害者として扱ってくださいっていうアピールなんじゃないかなあ。
モルヒネとかだって、一般では使用が禁止されてるけど医療機関での疼痛管理には使われてる。
だから、そういう性暴力衝動をコントロールできない人を障害者と見なして、そういう人たちを対象に、医療行為の一環として性暴力メディアを処方するというのはありなのかなと思うんだよね。
ちゃんと病院を受診して医師の診断を受けて認定されたら、という形で。
元の話はそういうことなんじゃないかと思った。
一日遅れになったがお返事するぞ。
故意でない交通事故で交通違反をした歩行者側の過失を計算に入れるということに理はあるかもしれないが、なぜ意図的に歩行者を轢いたケースに対して歩行者の過失をあげつらう必要が?
同じ歩き方をしていた歩行者に対して、方や故意の運転手が突っ込み、方や過失の運転手が突っ込んだ。違うのは運転手に対する罰。歩き方の「悪さ」は同じ。運転手が故意であろうと過失であろうと、あるいはそこに自動車が突っ込まずその人が死ななかったとしても、危険な歩き方であった点は覆らない。君の理屈がおかしいのは、運転手の心持ちひとつで歩行者の歩き方に対する評価を変えてしまうことだよ。それらは異なる二つの事象であって連動していない。
そうだよ。だから宝石店は警備を強化し何重にも保険をかけて身を守る。リスクにあった行動をするんだ。もし君が宝石店が無防備でも悪くないと思うなら、これは老婆心で言うんだが、宝石店の経営者にはならないほうがいいね。
ささいな点だが一応つっこんどく。現代の刑法学ではふつう、責任能力とは心神喪失とか心神耗弱についての論点を言う。故意過失についての論点は構成要件該当性に含まれる。でないと故殺と過失致死が構成要件段階で区別できない。専門用語で議論がしたいなら応じるが、私としてはあまり蛸壺にしたくないな。
幼稚園児の頃のことをに思い出した.
命の大切さを教えるには格好の機会だと思ったのだろう.
その時はたぶん「自分は蟻を殺しているんだな.
それはやってはいけないことなんだな」と考えたのだろう.
でも今考えてみると,「潰して」いたけれど
「殺して」いるつもりはなかったような気がしてきた.
確かに結果的には同じことなのだけれど…
それで今日ふと疑問に思ったのが,
意図的に人を殺すことができるのだろうかということ.
「殺す」という言葉が氾濫しているけど,
仮にそういうものや他人から影響を受けていない人がいたとして
その人でも,よくある「カッとなってやった」という場合に
「殺った」になってしまうのだろうか?殺すという概念を
知らないのにカッとなって何を「やって」しまうのだろう?
というのが今日沸いた疑問.
本能的に食べるのだからそうだとも言えそうだけど,
「殺す」は本能的な行為なのか分からない.大昔から食物を得るために
殺して食べてきたからそうかもしれないし,獲っていただけかもしれない)
それでも「殴る」とか「刺す」という概念を知っていれば
それをやって「殺してしまう」ことはあるかもしれない.
それは蟻を潰したけど,(意図せずに)殺してしまうと言うのと同じことか.
でも殴ると痛いとか刺したら血が出るということを知らなかったら
殴ったり刺したりするだろうか?でも自分は蟻を潰していたか…
知っていても知らなくても結果的には殺してしまったのだから,
「私は意図的に殴った(刺した)だけで,殺してはいません.
殺すなんて行為は私の辞書にはありません」みたいなことを言ったり,
「私は意図的に殴った(刺した)けれど,それをしたら
人は死んでしまうなんて知りませんでした」なんて茶番は
今の社会では通じないよな.責任能力の有る無しとは別の話になるのかな?
この日記書き始めたときは「殺す」なんて言葉や概念を知らなければ,
人を意図的に殺すことはできないから,「殺してはいけない」と
教えるために「殺す」とはどういうことかを知らなければ(教えなければ)
ならないなら,最初から「殺す」を教えなければいいと思ったけど
上みたいな茶番劇の予防措置として,やはり教えておくべきなんだろうな.
殺してはいけないなんて幸い今の自分には当たり前すぎて
読み返すしてみてとても変なことを書いている気がしてきた.
法律に詳しい人に教えてもらいたいこと。
ググってみたけど、探し方が悪いのか見つけられなかった。
心神耗弱などによって責任能力がない、と認められる人というのがいる。ニュースでみかける、刑事責任を問われないような人。
こういう人も選挙権を持っているの?
基本的な人権が認められてる、といのは想像がつくんだけど、どの辺までの権利が認められるの?
人間としてまともな範囲で衣食住が足りた生活を送る権利、という以上の全部を持っているものなの?
責任能力も無ければ、常識的な社会生活もおくれない、人間関係に支障をきたしまくり、みたいな人間は、どの程度社会に影響する権利持ってるのだろう。別に生きてていいし、幸せになってくれればその方が個人的にも嬉しいんだけど、罪を犯しても罰を受けない人間が、他の人と同じだけの権利を行使する、というのでは、社会制度がちょっと歪むような気がする。
その辺りは、法律ではどういう風に判断されて、現実的にどういう風に対応されているんでしょうか。
詳しい人、お願いします。
飲み会などにも多く参加
友人とよく食事や買い物に出かける
俺:大学生
以前、精神科に通院していて今も薬を飲む
休日になると両親は大体出かけていて、夕飯ではお酒を飲みつつ今日あった話を楽しそうにしている。
気が合うのだろうで幸せそう。今もその声を聞きつつ増田を書いているのだが辛い。
父が千葉の女児殺害事件のニュースで「あんな奴死ねばいい」と言っていてかなりグサッときた。俺は死ぬべきなのか。
前に刑事責任能力の話や医療観察法の話をしたら嫌がられた。なのでもう話さずに聞いているだけのことにしている。
思ったことなど。
オタクとの関連性を頑張ってるマスコミだが、知的障害者だった。どこまで追いかけていくのか。
劣ったモノが死なされる世界だと、最初に死ぬのは障害者。つぎに来るのは病人・老人あたりとして、非モテ・キモオタはどれくらいで死ぬんだろう?
知的障害者だから「責任能力がありません」になりそうで怖い。むしろそうなった方が知的障害者の人たちに不幸。
刑に対して情状酌量(出会い頭の事故等)はあってもいいとは思うんだけど、責任能力が胡散臭くて仕方が無い。
現在容疑者であり、まだ犯人になっていないのに、押収した物品はおろか、レンタルしたビデオやCDまでマスコミに流す警察は個人情報保護法違反にはならないの?
元NPOセンター職員が http://anond.hatelabo.jp/20080805220021 について思うことを雑文にしてみた。
県庁の話とかが出てるので、元記事のNPOとは「NPO法人」のことだと推定。
NPO法人と(法人でない)NPOの違いって言うのは、要するに株式会社と個人商店みたいなもの。
法に従った登記をすることで団体自体が責任能力を持つようになる。(詳しくはググって)
だから、「NPO法人にすると毎年補助金が出るんでしょ?」と期待する人がいるが、
それは「個人商店から株式会社にするとお金もらえるんでしょ?」と同じくらいの誤解。
ちなみに、NPO法人の手続きは、他の法人と比べるととんでもなく簡単。
必要なのは役員4人と構成員10人(役員含む)、あとは書類作成の手間くらい。
約2ヶ月後に認証(書類不備以外、所轄庁に設立拒否の権限がない)の証明書が出るので、
これで「自分たちが法的責任能力ある非営利組織である」ことの証明を得る。
もっとも、NPO法人数の増加に加え、
最近は法人格の有無より活動実績とかを重視するところも増えてるので、
NPO法人化することが助成金獲得の切り札には、もはや成り得ない。
他にもイロイロとあるけど、とりあえず3つ。
・自分の活動分野にしか興味がない人の助成金申請書はただの嘆願書になりがち。
過去の実績を聞いているのに、現在の社会情勢を論じて終了とかよくある話。
そんな中にプロの「助成金ゲッター」が混じると、申請書の時点で圧勝確定。
・1度助成金を受けると2度目を取りやすくなる。
なぜなら、行政が「(金額に見合うだけの)成果が無くても知ったことではないが、持ち逃げはさすがに勘弁」
というスタンスだから、(書類に報告できる程度の)過去の補助金活用が猛アピールになる。
・行政自体に広報する気がなく、自ら助成金の情報を集めていてるような人しか申し込まない(そのくせ金額は大きかったりする)
ただし、それ以前に勝負にすらなっていないケースの方が、遙かに多い。
NPOの中の人の現実問題として、NPO専業で30を超えたくらいになった人って、
いざ他の世界に転身しようとすると、
基本的に自営業か公務員(年齢制限が緩和されたから)ぐらいしかない。
世間的な評価はフリーターと同レベル(ついでに収入も)。まともな転職先など望めない。
「NPOから他業種へ移り、人並み以上の富と名声を得る、ほとんど唯一の方法」と表した方が近い。
ただ革新系の政党や、現与党でも若手を中心に、政治家と話す機会が多いのは確か。
当時20代半ばの若造だった自分ですら、某政党の県代表、地元選出の国会議員、
さらには元大臣から直接貰った名刺がホルダーの中にしまってある。
今からこの道を進んだとしても、「先輩」達を押しのけて、勝ち残らなければならない。
政治家になるということ自体が細い道だというのに。
ちなみに自分はまだ年齢的にそこまでは達していなかったことと、
学生時代に取得した資格が効いたことで、今は一般企業に拾われている。
大金持ちとは言わなくとも、そこそこの功名と財を成した人はいる。
ただ、その大半はたまたま好きなことに熱中していたら、
たまたまものすごくマッチョな人で、たまたま経営的に上手くいった人。
失礼ながら、むしろ企業でそうなっているところの方がよほど多いハズ。
なんだかんだで元記事主は能力と行動力にあふれたマッチョなんだろう。
大半のNPOは、地道に、まっすぐ、自らの「想い」を果たすことのみを目指している。
それゆえに経営的なコトを見てなかったり(見る必要すら気づいてなかったり)
想いというより思いこみになってるところが多いんですけど。
万引きや性犯罪を繰り返す人間にしたって盗癖やセックス依存症が原因であることが多そう。
窃盗や危険運転も、元をただせばギャンブル依存症だったり、アルコール依存症だったりしないだろうか。
でも、ほとんどの場合は責任能力が認められて、刑の軽減はされないようだ。むしろ何度も同じ犯罪を繰り返すと、悪質だとしてより刑が重くなる。
個人的には心神耗弱の場合、刑の軽減はともかくとして、ちゃんと医療刑務所かそれに準ずる措置をとるべきだと思うのだが。
ただ閉じ込めておくだけでは刑期が満了したとき、犯罪を予防しきれないと思う。
まあ、これを進めていくと人権無視のロンブローゾ派とか、ロボトミーとかM型遺伝子異常とかになっちゃうんだけどね。
しかし、「習い事を続けられないのは、あなたの意志や性格のせいではない」なんて雑誌に載ってたりするのに、刑事事件になると全面的に犯人の責任能力や自由意志のせいにされるのは何かひっかかるものがある。