はてなキーワード: 疑問符とは
これは友達から聞いた話。
彼は好きな女の子ができた。
彼以外の男からも頻繁に声をかけられデートにもよく誘われるという、いわゆる「モテ女」だった。
何度かデートしたあとダメもとで告白したら、なんとそれがOKされ、二人は付き合い始めることになった。
ある日セックスしたあとに彼は、その子を抱きしめながらこういったんだそうだ。
「俺のようなダメな人間が、君のような性格がよくてかわいい女の子とつきあうことができて、本当に幸せだよ」
それは皮肉でもなんでもなく、そのときの彼の素直な気持ちの告白だった。
自分からもつけくわえると、彼はイケメンでもなんでもなく、いわゆる「ふつうの男」だった。
それはたしかだ。
けれど、腕の中の彼女の反応は彼の予期したものとはまったくの別物だった。
「どうしてそんなこというの・・・?」
悲しそうな表情で、目に涙をためながら、喉を絞り出すようにそう言ったんだそうだ。
え?え?え?
脳内を疑問符でいっぱいにしながらも、とりあえず彼は謝りとおした。
そのあとで落ち着いてから聞いた彼女の主張を要約すると、つまりこういうことだ。
私とあなたは「つりあっている」のだと。
お似合いのカップルなんだと。
なのに、なぜそんな風に二人に不均衡があるような表現をするのだと。
それが、彼女を悲しくさせた原因らしい。
これを聞いて前にある精神科医が、男は所有の原理に生きていて、女は関係の原理に生きてるといってたのを思い出した。
読んだときはほんまかいとは思ったけど、あれもあながちウソじゃないんだな。
彼は図らずとも、低スペックの自分がスペックのいい彼女を手に入れたという意識でいたのかもしれない。
彼女はお似合いのカップルという関係を楽しんでいたにも関わらず。
よく考えてみたら、発端となった彼氏の言い方も相手を突き放してるみたいで配慮が足りなかったのかもと思う反面、
それでも、悲しむほどのことでもないだろうと反論したくなっている自分がいる。
新党にパ~ンチ!女子大生が立ち上がった記事を印刷する
平沼赳夫元経済産業相や与謝野馨元財務相らの新党結成をめぐってドタバタが続く政界に8日、現役女子大生たちがダメ出しをした。女子大生討論番組としてリニューアルするBSフジ「ワッチミー!TV×TV」の制作発表で、新党「たちあがれ日本」に早くも「ネーミングセンスが悪い!」。鳩山首相のリーダーシップにも疑問符を付け「殴り込みに行きたい」とバッサリと斬(き)っていた。
制作発表に集まったのは、東大、上智大、お茶の水女子大ら現役女子大生12人と、司会を務める鷲尾春果(23=法大卒)の計13人。“女子大生の朝まで生テレビ”を目指す彼女たちは、ドタバタ続きの政界に「言いたいことがある」と立ち上がった。
「今、怒っていること」のテーマでは、明大文学部3年の坂梨亜里咲さんが「新党『たちあがれ日本』のネーミングセンスの悪さ」を指摘。最新の時事ネタでバッサリと斬ると、一同に爆笑が広がった。「あり得ないよね」「もっとマシなのを付けたい」と散々で、“シルバー新党”と皮肉られる大御所議員たちの決意は女子大生にはまったく響いていなかった。
明学大3年の高橋未来さんは、同じテーマで「鳩山首相のリーダーシップのなさ」と回答した。不況による就職難を肌で感じている世代とあって「国民のことを考えていない。私がリーダーになって、この12人で殴り込みに行きたい」とダメ出しをした。一方で、お茶の水女子大3年の合田望星さんは「鳩山首相が唱える『駐留なき安保』は目指すべき」と首相を援護。「批判する自民党はおかしい。その発想が普天間問題にもつながっている」と自民党にダメ出しをした。
政治、経済、国際、環境、教育、医療などさまざまな分野に興味を持ち「今どきの女子大生は、国が抱える問題を真剣に考えている」と全員で訴える。早大政経学部3年の中村くららさんが「国会中継を見てもがっかり。眠ったり騒いだりしないで大人の対応をしてほしい」と語ると、全員が拍手していた。【梅田恵子】
他人のネーミングセンスを笑える立場じゃないと思うんだが。つか「望星」ってなんて読むんだこれ?
http://anond.hatelabo.jp/20100322070125
まあいろいろあっても本音はそんな感じだよね、って思いながらブクマ開いたらちょっとくらくらしてしまったので、わたしも増田になってみたよ。
「友情」と簡単に言うけれど、そもそも「友情」って、どういう感情のことをそう呼ぶのか、自分の抱いているこの気持ちは本当に「友情」なのか、もしかしたら何か他の気持ちをごまかしてそう呼んでいるだけなのではないか、そういうことを少しでも考えたことはある?
たとえば高校生とか大学生の男女間でしばしば交わされるこの約束。
「男とか女とかそういうの抜きにして、お互いに一人の人間として仲良くやっていこう」
別にこの言葉が青臭いと言って否定はしない。
でも、もしあなたに、この言葉が含む矛盾を拾い上げることができないのなら、「男女間の友情」を語る資格などないとわたしは思いますよ。
だって「男であること」「女であること」も含めて、一人の人間でしょう。
「男であること」「女であること」を抜きにしたら、その人はその人でなくなるし、あなたもあなたではなくなるんだよ。
たとえ思春期・第二次成長期を迎える前の、一緒にお風呂に入っててもおかしくないような小さな子ども同士であっても、この約束は成立しない。
だって、生まれたときから男性は生物学的に男性なのだし、女性は同様に女性だからだ(ただし性同一性障害の方についてはこのように単純に断言することはできないが、あくまで自己認識としての性をイメージしていただけたら、と思う)。
ああ、思春期以前の子どもにはエロ衝動がないなんて思ってる人がいたら大間違いだからね。
知識がないだけで性欲はあるんだよ。
そりゃ現れ方は大人よりダイレクトだったり、大人よりかわいらしかったり、いろいろあるけどね。
また、同性愛者についても相手が同性に変わるだけでおおまかな話は同じだ。
いつから同性愛者だったのか、生まれたときからなのか一年ぐらい前からなのか、それもあんまり関係ないと思う。
で、上記約束によってマブダチとなった男女、何しろ波長が合うので話しても話しても話が尽きない。
他の男の子には話せないけどこいつにだけはなぜだか何でも話せる、みたいなそういう関係ってありますよね。
んで、今度いっそのことパジャマパーティしようよ!夜を徹して語り合おうよ!って話になります。
もちろんエロい展開になどなろうはずがない。
だって「男とか女とか抜きにして」仲良くしてるんですから。
相手はお互いにとって男でも女でもないニュートラルな存在なんだから。
さて友人A子がそういうことで今度そのマブダチのB太郎の部屋に泊まりに行くと聞かされたあなたはどう感じますか?
「まあ正直ちょっとだけ心配だけど、B太郎も信頼できるやつだし、普段の二人を見てる限りそんな間違いなんて起こらないよね。本人同士がそういう関係って認め合ってるんだし、それを尊重するべきだよね」
ぐらいなもんでしょうか。
なぜ「正直ちょっとだけ心配」なの?
あるいは
「いくら男女関係ないって言っても、それとこれとは別だよ。A子だけじゃなくB太郎のためにもやめといたほうがいいよ」
と忠告しますか?
あるいは
「またまた友達とか言いながら、もうB太郎のティンティンもフラグもビンビンじゃん!お幸せに☆」
と勝手に二人が「男女の仲として」結ばれちゃう想像をしますか?
そして、泊まりに行くのが同期の女友達「C美」の部屋だったときは、あなたは同じように心配したり忠告したり妄想したりしましたか?
しませんでしたね?
この場合、B太郎、A子、C美は全員異性愛者と仮定してください。
同性愛者を登場させたい場合はその人のところを別の性に差し替えて読んでみればいいと思います。
それともそもそも、A子はB太郎とのパジャマパーティなんて企画しないのでしょうか?
なぜ?
同期のC美とはやってるんです。
マブダチのB太郎とならやったっていいはずですが。
なぜ?
さらにB太郎視点でも考えてみます。
仮にB太郎がA子の提案に「いいよ、おいでよ」と、もちろん下心などなしに(ここもわたしとしては疑問符がつくところですが、まあそれはいいです)快くA子を招いたとして、A子がしゃべり疲れて先に寝ちゃって寝返りを打った拍子におっぱいが露出したときに、B太郎は欲情せずにすむのですか?
「うわっ!!あああやべー、変なところが元気になってきたあああ!!俺は何欲情してんだ!相手は大親友のA子だぞ!最低だ俺!最低だ!」
と、アスカで自慰をしたシンジ君のように自己嫌悪に陥るかもしれませんが、まあとにかく欲情はします。
しますね?
たとえA子が恋愛対象になるのはあまりにアレな外見だったとしても、無防備なおっぱい露出を前にしてまったく変わりなく平然としていられますか?
その自信はありませんね?
これがもしB太郎と同期の男友達D男だとしたら、寝返りの拍子にその逞しい男性器があらわになったとしても、せいぜい大笑いしながらぞうさんをマジックで書くぐらいでしょう。
これがA子のおっぱいなら、いくら仲が良くてもA子がたとえマツコデラックスであっても、乳首部分を中心としてマジックで目玉おやじを書くことなどできないはずです。
なぜですか?
あるいは最初からA子の提案を飲まない可能性もありますね。
なぜ?
いきなり「C美」とか言いながら詰問されても、某有名大御所はてなーの名クイズシリーズをパクってるみたいで相当印象悪いと思いますが(ごめんなさい)、答えは言うまでもなく「A子とB太郎が互いに異性だから」ということです。
つまり、男女間の「友情」と同性間の「友情」は、違います(繰り返しますが、同性愛者の場合もまったく逆の意味で違います)。
どう違うか?
性的対象となるかどうか、に決まってるでしょ。
相手が「自分にとって性的対象になる性を持つ存在」である場合、そうでない存在と同列に考えることはできません。
お泊まりの話はそのひとつの例ですが(勢いだけで殴り書きしたのではっきり言って蛇足ですが)、何より冒頭に書いたように、男性であること、女性であることも含めてA子であり、B太郎という人だからです。
で?だから何?という話ですが、ではそのように、異性間にある「恋ではない(と当人は思っている)のだけれど親密な感情」は、同性間の「友情」と同じように「友情」ということばで括ってよいものなのか?とわたしは思うわけです。
つまり、性的要因による互いへの配慮、あるいはそれによるある種の葛藤が不可避である(別に不可避ではない、そういう状況にははじめから遭遇しない、との反論も予想されますが、厳密にはやはり不可避です)男女の親密な関係を「友情」という言葉で定義するのは、あまりに乱暴なのではないか?それは人間関係を自分の中で熟成させるうえでひとつの精神的怠慢と呼ぶべき事態なのではないのか?ということです。
ここであの「友達以上 恋人未満」という魔法のキーワードが出ます。
しかしこれはほとんどの場合、いずれ恋愛関係に発展することが見込まれている関係です。
よって、これは「友情」という言葉の定義にかかる問題とは切り離していいと思います。
では「お兄ちゃんみたい」「お姉ちゃんみたい」「弟みたい」「妹みたい」といった家族愛に似た親密さはどう扱うべきか。
これは「相手を異性とは認識しているが性的欲求は感じていない」ということです。
しかし異性として認識しているのなら上記のようにおっぱいに目玉のおやじの落書きをしたりすることはできませんので、ていうかそんな落書きをするような人がこの世にいるかどうか知りませんが、注目すべきはあくまで「みたい」どまりで、本物の家族ではないことです。妹のように純粋にマスコット的にかわいがっていたロリ美少女が寝返りの拍子に意外とたわわなおっぱいを露出させたら、やはり一瞬でも吸い付きたい衝動に駆られてしまうのが男なのではないでしょうか。これが実の妹に同じような衝動を感じてしまうのであればちょっといろいろ人として違うと思うのですが、良識的なはてな村民にそんな人はきっといないと思います。
とにかく男女の関係とは多重的で、ひとつのことばでビシッと定義できるものではないように思います。
自分の話になりますが、わたしには学生時代からずっと連絡を取り合っている友達が何人かいますし、彼らのことを「人間的に」大好きです。
男も女も。
しかし、ふとした拍子である男子と図らずもエロい雰囲気になってしまい、その場はなんとか未然に取り繕って今はまた前と同じように仲良くしていますが、それ以降、ふたりの間に「例の件はタブー」との暗黙の了解ができ、同時に、再発を避けたい気持ちと、何かこう、アバンギャルドを互いに期待する空気が混在して変にややこしいことになってしまっています。
付き合いが長くなればなるほど、そして関係が密なほど、こういうハプニングで意識せずもがなのことを意識せざるを得なくなります。
これでもわたしと彼の間にあるのは「友情」と呼べますか?
わたしたちが「友情」と言い張れば、そうなるのでしょう。
しかし、本当にこれが「友情」ですか?
わたしには、これを「友情」と呼ぶだけの図々しさは持てません。
でも、仕方ないと思います。
男は女に性欲を持ち、女は男に性欲を持つようにつくられている以上、こういうきっかけは世の中に無数に転がり続けているのです(くどいですが、同性愛者については読み替えてくださいね)。
あるいはわたしのように生々しい性欲でなくても、相手を「異性であるがゆえに」親しく感じたり、大切に感じたりする気持ちも、性欲に由来するものです。
恋だってもちろん。
それらがほんの少しでも混じってしまうと、その瞬間から二人の間にあるものは「友情」ではなくなっていきます。
異性に、明らかに恋愛とは異なるのだけれども好意的な感情を抱くことがあります。
たとえば「尊敬」とかです。
でも「友情」とは、違いますよね。
両立することはあります。結構よくあると思います。
しかし、イコールではありません。
じゃお前にとっての「友情」って何?って話ですが、「愛」の一種だとわたしは思っています。
相手の存在を大切に思い、相手の幸福を願い、ともに過ごす時間を大切に思う、簡単に言うとそういうようなことで、性欲さえなければ男女間にも十分に成立する余地はあると思うのですが、やはり性欲がある以上、男女間でこういう関係を長期間育んでいくのは難しいというのがわたしの考えです。もう眠いので寝ます。
ttp://science6.2ch.net/test/read.cgi/rikei/1259071558/594
594 :Nanashi_et_al.:2009/11/30(月) 13:15:07
私の専門は有機化学ですが、数ヶ月ほど前に私たちの業界でこんな事がありました。
中国のある研究グループが、通常は塩基や還元剤として使われる水素化ナトリウムという試薬を
使って、常識的には起こりえない酸化反応が起こったとしてアメリカ化学会誌に結果を報告しました。
アメリカ化学会誌は私たちの業界ではトップクラスの権威を誇る雑誌で、その報告の信頼性に
疑問符が打たれました。
今までだと、追試をした論文を待たなければならなかったのですが、その論文を見た複数のブロガーが
追試し、リアルタイムで反応を報告するという行動に出たのです。結局、本来不活性ガス下で
おこなうべき反応に空気(酸素)が混入していたために起こった、実験上のミスではないかという
結論が得られました。
しかし同時に注目されたのは、論文の検証や査読という機能がいまやブログやツウィッターで
おこなわれたという事実です。たぶんもう追試は論文にならないでしょうから、その結論はネットを
ウオッチした人間だけが知ることになります。
日本で起こったセルカン事件ではその機能を、2chが担ったと言えるのではないでしょうか。
そういう意味では今回のセルカン事件の検証は必然であったと思います。
何しろ悪評高い2chですから、今回の検証が胡散臭い目で見られるのは仕方がないです。でも2chと
ブログやtwitterのどっちが胡散臭いかというと、いい勝負です。
しかしその胡散臭い場こそで研究者倫理が機能したという事実は記憶しておくべきでしょう。
すみません、余計な感想を言いました。検証チームや申立人のみなさん、応援しています。
私たちにできることがあったら、是非言って下さい。
トルシエは監督業が生業だから、日本の若い世代を見て、この仕事が自分のステップアップの大きなチャンスと踏んで仕事をしたわけ
つまり、代表を勝たせる事が自分のステップアップに繋がるから、そのために必要な手段をとっていっただけのこと
しかし、途中で大きな金を産むようになった代表というコンテンツを、ブチを始めとした黒い拝金主義同盟の利害と離れていくわけだ
動こうとした時にはすでにトルシエが全国的に人気を博し、なんとか引きずり落とそうと、負けたら解任ノルマを貸してきたがことごとく突破されてきたわけ
そんなトルシエの決定的一打が直前での茸外し
責任を迫られたブチは、ネクで協会の意のままに動いてくれるド素人のジーコを起用、ジーコジャパンならぬ茸ジャパンがスタートするわけだ
この辺から、まずは金が第一という日本代表になる
つまり、もう何年も世界に勝つ為の代表じゃないわけよ
オシム就任は傾いた代表人気を建て直すべく、ブチが打った一手
世論にある程度同調しようとしながらも、息子の面倒みるから、協会の押す選手だけは使ってくれという裏取引があったかは定かでないが
事実、無能のアマルになにもせず年5千万だか7千万だか払っているのはばれてる
入れて守備の連携を確認しなければ いけないのに、
それをせずにシュート練習ばかりしていました。
まず、日本のマスコミははっきり言って一部を除いてアホだから柳沢を始めとして
「決定力不足」を敗因にあげているけれど、そうじゃない!
誰が監督したって、誰を選んだって、今の日本ではそんなに決定力は変わらない。
いかに組み立ての基礎を定着させ、そこから個々の個性を活かし組み合わせて、
どれだけ決定機を作れるか、が日本代表監督の、そしてチームとしての攻撃面
での評価であるはず。
で、あるにも関わらず、代表監督ともあろう者がこの期に及んでシュート練習で
何かを解決しようというのは、もう何とも言い難いですよね。
まあ、ジーコにそれを求めるのは無理な注文なわけですが。
散々ジーコとJFAを批判してきましたが、それを野放しにしたマスコミも同罪だと思っています。
それなりにサッカーを知ってる人であれば、「このまま行ったらやばいんじゃないか」って
ほとんどの人が思っていたと思う。
一部のジャーナリストとサポーターがジーコ解任を唱えていたけれども、大きなうねりにはならなかった。
サッカーダイジェストの山内編集長や、あんまり好きじゃないけれどサッカーの本質を突く
作家馳星周が言うように、かつてない才能が集結した日本サッカーの一大収穫期であった
にも関わらず、ジーコの強運を信じて楽観し、もしくは惨敗の不安を抱えながら
「まさかそんなに酷いことにならないだろう」と日本代表を放置した日本人。
そんな日本の集大成があの惨敗なのかな...って、日本という国の実力なのかな...って思います。
まあ、何が個人的にできたのかって言われると困るんですが、スタジアムでブーイングし、
でも、しておけば良かったって思う自分がいます。
今、JFAにもバッシングがきていますが、やはり評価・反省・批判のないところに向上は望めません。
はてなブックマークニュースという広告企画で、
インターネットで物議をかもしてる人物が登場してることがわかった。
問題となったのは「切込隊長」と名乗る人物。
100億円規模のプロジェクト専門のファンドを設立し、IQ190以上を自称するが、
その経歴には多くの疑問符がつけられ、まとめサイトがいくつも作られている。
今回の広告でも資金調達や金融関連の事業をやってるとほのめかしてるが、
台所の一角にしかみえない。
外資系ファンドの対日アドバイザーや知的財産権管理、3Dエンジンの開発、
複数の会社の上場準備などを手がけてると語るわりには、どうも質素なオフィスである。
はたして、この企画を担当したはてなは、誰かを騙そうとしてるのだろうか。
ライフネット生命は信用できるのであろうか。
http://b.hatena.ne.jp/articles/200910/532
パパになった切込隊長
http://b.hatena.ne.jp/articles/200910/532
切込隊長という御仁がいる。
僕には好きな人が居て、その人もどうやら僕のことを好きらしかった。
僕はいわゆる非モテというやつで、恋人なんてついぞ出来る気配はなかったけど、元気に実直に、自分の良心に反さないようには生きていた。、
彼女はそんな僕の内面(他人からすぐ見えるところだから外面か)をなぜだか好いてくれたようだった。
彼女は自分の感情を隠すことが下手なようで、彼女が僕に好意を抱いてくれていることは、すぐに僕の知るところとなった。
女性からの好意を感じたことのなかった僕はいつしか、彼女のことを特別に気にかけるようになった。
彼女と同じ空間にいるだけで意識してしまうし、つい姿を目で追ってしまう。
友達に相談したら、それが好きになるということなのだと教えられた。
かくして僕と彼女は、たいした会話も交わさないまま両思いというやつになっていたらしい。
だけど彼女が好きなのは理想化された僕で、僕が好きなのは自分を好いてくれる彼女なのだった。
次第に彼女と言葉を交わすことになった僕が最もよく聞いた単語は『意外』だったような気がする。
僕のだらしない実態を聞いて驚く彼女相手に自虐みちた笑顔を浮かべながら、彼女が好きなのはこんな自分ではないのだと繰り返し再認識した。
僕の方こそ本当に彼女のことを好きだったのかと言われると疑問符がつく。
つくのだけれど付き合うということに憧れのような感情をいだいていた僕は、彼女に告白することになった。
彼女の好きそうな状況で彼女の好みそうな台詞で行った告白は、5年よりも長い5秒程度の沈黙の後に受理され、めでたく僕の彼女いない歴がリセットされたのだった。
付き合うということが、僕にはよくわかっていなかったのだと思う。
メールを送るにしてもどんなことを言えば良いのかわからないし、
結局のところ、息苦しさを感じながら彼女と会話するよりだらだらインターネットを見ていた方が僕の性にはあっていたのだ。
僕と彼女は申し訳程度に数回のデートを重ねたが、その度に彼女の僕に対する気持ちが離れていくのがわかった。僕の彼女への気持ちも同様だったから。
電光石火の早業で、僕は彼女に振られることとなった。
僕は自分の最後の言葉が「ありがとう」だったのか「元気でね」だったのか思い出せない。本当は「ごめんね」と言うべきだったように思う。
気づけばもうあれから5年も経っていて、僕の彼女いない歴は着々とかつての記録に近づいている。
つきあうということがどういうことなのかは、未だもってわからないままだ。
切込隊長という御仁がいる。以前は2ちゃんねるの運営に関わり、今のなりわいはというと、
どうやら一匹狼の投資顧問。事業に失敗した父親の借金を自らの才覚で百億円稼いで埋めて、
いまも政界、財界、その他なにやらIT周辺の裏稼業にも精通している、といったふれこみで、
にわかにネット住民たちの信頼を一身に集めていた。
「俺様キングダム」と銘打ったブログも大人気、ネットラジオでも言いたい放題で「アタマのいいやつ」
という評価も最近、定まりつつあった。表のマスコミに姿を現さなかった分、その信頼度に上乗せもされた。
そろそろ雑誌メディアにも進出、他でもない本誌でも執筆するようになっているし、
ベストブロガーとして表彰までされている。そんな彼が、一気に今度はまな板に乗せられる側に。
彼自身語ってきた彼自身のことについて、疑惑と中傷が連鎖的に噴出、嫉妬ややっかみも呼び込んで
結構な騒動になった
ネット空間特有の大言壮語、「ネタ」として目に立ち、そしていっときの愉快の素になるならば、
あやしげな言説も拍手喝采受け入れる住民たちが、いったんその制御を誤ると一点、熾烈な攻撃にまわる。
わが同胞に宿るホラ吹きの習俗、オコの伝統はこのような形で活きてるのかも知れない。だが、ホラは
それをよしとする聴衆、観客との関係性において初めて十全に機能する。ホラ吹きとしての器量に
疑問符がつけられたら最後、それまでの賞賛は瞬時にひっくりかえり、オセロよろしく盤面逆転、
それまでの贔屓筋まで一気に「叩き」にまわるのも実世間と変わらない。隊長の場合も、
そのような電網空間でのトラブル解決のスキルが高い=アタマがいい、と目されてきた分、
いざ自分に火の粉が降りかかった場合の処理の手際にも、当然鋭い視線が投げかけられる。
まして、その「アタマがいい」を担保していた経歴その他の要素にまで疑問をぶつけられた日には、
かなり辛いことになる。電網世間の煉獄で痔図から選ばれてしまうことを欲して画策したものの恍惚と不安、
共にわれにあり。
リフレ村の方では「ブランチャードがインフレ率を4%前後に誘導することに言及した」ことで色々と盛り上がっているようでありますな。
http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20100214#p2
要するに、マクロ経済学の大御所ブランチャードが「今まではインフレ率は2%前後に誘導するのが望ましいとされていたが、2%程度だとゼロ金利に陥りやすいので、もう少し高めの4%前後にインフレ率を誘導した方がいいのかもしれない」という論文を発表したと。で、日頃から高めのインフレターゲットによる景気回復を主張なさっている皆様が盛り上がったという構図のようであります。
で、それに対して(直接言及があったわけではないものの)、我らが池田先生が果敢に反論。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51377205.html
あちこちで話題になっているIMFの論文をざっと読んでみた。日経の記事には「平時から4%など高めの物価上昇率を容認し金利水準も引き上げることで、金融危機のような経済ショック時の利下げの余地を広げることが望ましい」と書いてあるが、この記者は明らかに原論文を読んでいない(か英語が読めない)。論文にはこう書いてある:
Should policymakers therefore aim for a higher target inflation rate in normal times, in order to increase the room for monetary policy to react to such shocks? To be concrete, are the net costs of inflation much higher at, say, 4 percent than at 2 percent, the current target range?
[...]
Perhaps more important is the risk that higher inflation rates may induce changes in the structure of the economy (such as the widespread use of wage indexation) that magnify inflation shocks and reduce the effectiveness of policy action.But the question remains whether these costs are outweighed by the potential benefits in terms of avoiding the zero interest rate bound.
と書いており、むしろ高いインフレ目標には否定的だ。
うわぁ。読めてない。全然読めてないよ池田先生。ここでブランチャードが書いているのは、
ということであって、「高いインフレ目標には否定的」なんてこの段落から読み取れるわけがありません。これでは突っ込まれてもしょうがない。池田先生にはエントリーをアップする前に深呼吸を3回することをお勧めしたいと思います。
さて、一方でリフレ村で給食当番をなさっているらしい矢野先生は、高らかに以下のエントリーをアップされました。
http://d.hatena.ne.jp/koiti_yano/20100215/p1
(以下略)
…いや、先生、ブランチャードの論文はリフレを全然サポートしてません。ちょっと考えれば分かる話です。なぜブランチャードは2%ではなく4%のインフレを検討課題としてあげているのでしょうか?ご自身も翻訳されているとおり、「ゼロ金利制約(それ以上利下げできない状態)にハマるリスクを回避するため」です。リフレ派の人たちが主張するとおり、「ゼロ金利制約に陥っても、中銀が高めのレートでインフレターゲットを実行すればデフレから脱却できる!」のであれば、なにも4%のインフレを許容してまでゼロ金利を回避する必要などありません。処方箋はあるのですから、それを粛々と実行して安定成長へと復帰すればよろしい。
ブランチャードらがここまで繰り返しゼロ金利制約の問題を強調するのは、その処方箋が当てにならないと判断したからです。この点を明確にするために、以下でブランチャード論文の一節を翻訳します。この論文は
という3部構成になっており、問題の4%インフレは第3部の一項目です。以下で翻訳するのは第1部のB節、つまり「今や否定されつつある過去のコンセンサス」について語った一節です。
http://www.imf.org/external/pubs/ft/spn/2010/spn1003.pdf
「インフレーションはただ安定しているだけでなく、非常に低く抑えられているべきだ(多くの中央銀行は2%前後をターゲットに選んでいる)」という広いコンセンサス(increasing consensus)があった。これは低インフレによって流動性の罠へ陥ってしまうのではないかという議論へと繋がった。低い平均インフレは低い平均名目金利を招き、そして名目金利はゼロ以下には下げられないので、低インフレの下では不景気の際に利下げ(金融緩和)の余地が小さいと言うことになる。しかしながら、この低インフレの危険性は低いと見なされた。なぜなら、中央銀行が将来の高い名目マネーサプライ成長率とひいては将来の高いインフレーションにコミット(訳注:約束)できるなら、中銀は期待インフレ率の上昇によって将来の予想実質金利を低下させ、それによって現在の景気を刺激することが出来るからだ(脚注)。そして、それほど景気へのショックが大きくない世界では、2%のインフレがあればゼロ金利制約を回避するのには十分だと思われたのである。こうして、議論の焦点は、コミットメントの重要性と中央銀行のインフレ期待への影響力へと絞られたのである。
大恐慌時に発生した流動性の罠、それに伴うひどいデフレと低い名目金利は、もはや歴史上の出来事であると認識され、そのような政策の失敗は今や回避可能であると考えられた。1990年代の日本の経験、すなわちデフレ、ゼロ金利および長く続く不景気は、この認識の前に不愉快に立ちふさがる問題だった。しかし、これは日銀が将来のマネーサプライ増と将来のインフレとにコミットする能力ないしは意思に欠けるからであると片付けられてしまった(公平を期しておくと、Fedは日本の経験を無視したわけではなく、2000年の初めにデフレのリスクを憂慮した論文を発表している)。
(脚注ではEggertsson and Woodford (2003)が参照されている)
ブランチャードらがなぜゼロ金利(流動性の罠)に陥るリスクを重視するのか、このB節から明らかであると言えると思います。 特に太字で強調した部分を参照してください。どこかで見たことがある主張ではありませんか。少し分かり易く言い換えれば、リフレ政策が役に立ちそうにないから、「低インフレによって流動性の罠へ陥ってしまうのではないか」という懸念が復活しており、だからこそリフレ政策が必要になるような状況に陥らないように政策を運営すべきだと彼らは主張しているのです。4%のインフレ率というのはそのための政策案です(ただし、ブランチャードらもイマイチ自信がないのか、6つ挙げられた政策オプションのうち、この4%インフレの案だけは表題にクエスションマークが付いています)。
紅茶を片手に「まぁ、当然の話だよね」などと余裕をかましている場合ではありません。さぁ、今こそ高らかに「リフレ政策があれば流動性の罠など恐るるに足らない、だから4%のインフレ率なんか必要ない!」と宣言を!
青臭い話なんだが聞いてくれ。
少し前に日記(http://anond.hatelabo.jp/20100118010703)を書いた元増田なんだが、今日病院に行ってきた。
結果は人格障害でないよってことで終わったんだが、それで悩みが無くなるものでなくまだうじうじ考えてしまっている。
一回自分を疑うと色んな事に自信をなくす。
・過去の親切も好意も全部嘘っぽく見える。
もしかしたら偽善だったのかも、自己満足だったのかも、自己評価を上げるためだけにやっていたのかも、と自分の行動・感情に疑問符がつくから困る。
・↑のことにあいまって、これから自分が他人とどう接していけばいいか分からなくなった。
仮に誰かが困っていて「助けよう」と思っても、すぐに「いや、この考えは無意識では打算が働いているのかもしれない」とブレーキがかかって結局何もできなくなりそう。自分の感情に自信が持てなくなって(少し変な表現だけど)、他人と心から笑える自信がなくなった。
・自己評価と他己評価の折り合いをどうつけるか。
今まで他人の目を意識しすぎて動いていたから他人の目を気にせずにやらないといけないのはわかってるけど、自己中心になりすぎても問題があるしなぁ…、と悩む。
とこんな感じに悩んでるんだが、みんなはどう考えて行動してるの?
ttp://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091223-OYT1T00167.htm
◆定まらぬ方向◆
「ガソリン税の暫定税率の廃止をどうしますかね。廃止すると、税収が減るしどうしますかね」
菅国家戦略相が問題提起すると、ほかの閣僚は「ガソリン税は維持して、自動車重量税を下げますかね」「でも、自動車関係の労組が反対しますよ」と思い思いに発言し、方向は定まらない。
首相は、独り言のように「衆院選のマニフェストで、ガソリン価格は下げると言っちゃったんだよな」とつぶやいたが、特に気にとめる閣僚はおらず、結論は保留となった。
閣僚間で議論しても、合意事項について紙を残さないのが特徴だという。財務省筋は「紙にすると、閣僚に責任が生じるから、しないのでしょう。『おれはこう言ってやった』と言うだけで、まとめようとしない」と言う。首相を支える平野官房長官らが調整役を果たしていないことへの批判も強い。
経済官庁幹部はこう指摘する。
禿しく胴衣!音楽好きじゃない俺は入会して何して良いか全く分からなくなって結局放置したwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
まああんなSNSなんて腐るほどあるから困らないけど、あれだけ有名なSNSがあの有り様で良いのか疑問符が大きくつくところではあるな!!
これからはもっといろんなSNSが出てくるに違いないが、myspaceほどのSNSは出てこないだろ。だって、会員数が2億いて、アメリカの人口より多い!
スゴイ人の数の割には中身が無いSNSの代表で、言っちゃなんだがミクシイのほうが10^2π倍面白い。
BLを読む♂です。
無知なのでBLの起源がどこにあるのかはわからないけれど、現在のBLで少女マンガの影響を受けた作品が多いのは間違いないんじゃないかと思う。だけども、BL自体が独自進化しすぎた所為で、その欠片をみつけるのが難解な部分もあります。でも、個人的には物語の軸は現在でも少女マンガではないかと思います。
よしながふみなんかは、独自路線をいきすぎていて、あれをまともなBLと呼ぶのかどうかは個人的には疑問符(作品の質は別問題)。ヤマシタトモコなんかも、いいBLを書く人だけど少女マンガというよりも青年マンガの影響のが強い(本人もそういっている)。bassoもおもしろいけれども、BL王道にしては渋すぎる(誰かわからない人は是非ググろう)。
この辺りの作家さんたちは一般に知名度が高い人たちですが、作風として王道BLかといえば個人的には疑問符がつきます。本気でBLしか書くことができない作家さんの作品を読むと少女マンガの影響は如実に感じることができます。
それら2党だって、存在自体は憲法上問題ない。
少なくとも、憲法学での通説、最高裁判例、内閣法制局による政府解釈を前提とする限り。
政教分離原則が禁止してるのは、あくまでも“政治→宗教”であって、“宗教→政治”じゃない。
“宗教→政治”で最も問題になるのは、多数派による宗教的少数者の弾圧。
でも、“政治-X→宗教”だったら、“宗教A→政治-X→宗教A以外”となるだろ。
それに、“宗教A→政治-X→宗教A”で、自宗教を優遇するってこともできない。
だから、上記2党が政権獲っても、憲法を改悪しないのであれば、自宗教を利したり、他宗教を抑圧したり、宗教団体を他の公益団体よりも優遇したりしなければ、政教分離原則上問題ない。
もちろん、政権与党になっちゃダメとか、政党結成がダメとか、そもそも政治参加もダメって学説もある。
「輸出激減なのに景気回復だって?この冗談の本質は巨大なポンジ・スキームだ」
------------------
バーナード・マドフの「虚名」を覚えておられるだろうか? マドフは元ナスダック会長。その社会的名声を利用し、「あなただけの耳寄りな情報だが、とても条件の良い投資話がある…」と金持ち、セレブに近づき巨額の詐欺を行った。証券詐欺、郵便詐欺、マネーロンダリング…被害者は1341名、被害総額は132億ドル。被害者のなかには名うてのファンドも日本の投資家も含まれる。マドフは懲役150年の量刑で服役している。満期には彼は220歳となる。
マドフの金融詐欺の基本は「ネズミ講」。これを「ポンジ・スキーム」と言う。
世界大不況の最中、堂々の四兆元(邦貨換算57兆円)を投じて景気回復策を展開し、新車販売世界一、外貨準備世界一。GDPもドイツを抜いて世界第三位。年内に日本を抜き去るのは確実と言われる。
強気、強気の一手だが、世界のエコノミストはこれを「パンダの押しの一手」と揶揄し、中国自身は「グリーンスパン流の押し」と自己評価している。
中国は国家目標として『保八』を掲げ、さきにもGDP成長率を7・9%とし、目標の8%成長にあと一歩という印象を世界に与えようと必死だ。
この成長率が非常に疑わしい数字であることは、日本以外のエコノミストには常識なのでいちいち論じない。中国が牽引しているのだと喧伝される、世界の景気回復の兆候と本物の経済回復の問題は何の関係もない。
中国政府のバラマキ57兆円の財源は70%が地方政府負担。銀行に命じて根拠が希薄な、そもそも返済計画が疑わしい事業につぎつぎと貸し出しを実行させた。
既存の道路や鉄道に平行しての同じルートの複線工事も多い。民間企業に対する貸し出しは行われず、それは地下銀行・ヤミ金融の担当となっている。
遠からず現在建設中のビルは倒壊し、橋梁は流れ、高速道路は陥没するだろう。いずれもひどい手抜き工事だからだ。
http://labaq.com/archives/51252588.html
http://labaq.com/archives/51202852.html
さて、問題は帳簿の誤魔化しである。銀行経営を粉飾するには保有資産の簿価が高ければ良い。不動産価格が上昇し、株式が高騰すると、詐欺的粉飾は成立する。
粉飾がばれると当然銀行は失速する。バブル経済は風船が割れるように、ポンとはじけることになる。
英紙「ディリー・テレグラフ」はこれを2009年8月11日付で書いている。「世界経済は中国の『奇跡』の回復に依存して良いのか?」として始まる疑問符は、中国経済が成長しているという判断は、現在のデータからは成立しづらい、第一にバルチック指数が七月以降も25%下落しているという矛盾を突く。バルチック指数とは海運の運賃と貨物量との相関関係を表し、港湾の貨物が激減している証拠である。
中国経済の主柱である輸出が40%も落ち込んでいるのだ。GDPの4割をその輸出に依存していて、どうしてGDP成長というありえないことが可能なのか?
そして人民銀行が新しく貸し出しを20%増加したところ、上海株式指数は年初来80%の上昇を示している。この熱狂的な狂騰ぶりは07年バブルと全くの相似形だ。
ポンジ・スキームを巨大化したものがいまの中国経済の実態である、という分析で同紙は結んでいる。
誰の目にもそれは明らかではあるが、問題は何時そのバブルがはじけるかということだ。
李克強訪豪を前に「上海派」と「太子党」が陰湿に胡錦涛執行部へ揺さぶり
第十七回党大会は、江沢民の懐刀だった曾慶紅が「引退と引き替えに」、習近平を三階級特進させた。浙江省書記からまず上海市書記に栄転させ、ついで政治局常務委員、国家副主席と三段階を一気にまたいだ。
曾と、その背後にいる江沢民と意思である。
同時に曾慶紅は賀国強と周永康を法務公安規律のポストに送り込んだ。つまり習、周、賀の三人が政治局で「江沢民派」であり、同時に習近平は太子党の利権を代弁する。
だから筆者は書いた。
「中国では石川五右衛門と長谷川平蔵は同一人物である」と。いうまでもなく利権汚職と捜査の元締めが同じだから(呵々大笑)。
さて上海派と太子党にとって「団派」(共産主義青年団)ほど疎ましくも邪魔の存在はない。胡錦涛、李克強、李源潮、王洋らが団派である。
共産主義の理想を追求し、汚職にときに立ち向かい、政治改革を獅子吼し、五月蠅いのだ。
したがって団派 vs 上海派+太子党 の対決構造が、いまの中国の権力構造の基軸にある。
さて、先週あたりに李克強の子分たちが、周永康の「捜査」により汚職で断罪されようとしている事は述べた。李克強のパワーを弱め、引いては胡錦涛の指導力を弱体化させるのが目的である。
リオ・テントは豪の鉱山会社だが、中国が買収をしかけ、豪政府が資源ナショナリズムに立脚して中国鋸業(チャナルコ)を退け、BHPとの提携に踏み切った。
リオとBHPの合併は世界最大の鉄鉱石鉱山企業の誕生、カルテルと実質は同じ。
いずれ、執拗な中国のことだから、なにか政治的意趣返しがあるだろうと予測されていた。
案の定、リオ・テントの中国駐在社員四人をスパイだと言って拘束し、豪勢府はすっかり慌てた。豪中関係がにわかに緊張した。
もうひとつ背景があった。
このスパイ事件は背後に権力中枢の闘争が絡んでいると指摘したのは博訊新聞網(7月19日付け)である。同紙によれば来週から豪訪問を予定している李克強(副首相、次期首相候補に有力)への当てこすり、一番やっかいな外交を李が、どれほどの能力で処理できるかの試験にもなるとばかり上海派と太子党が仕組んだ。
というのも、習近平は副主席になって一番目の訪問先は北朝鮮、つぎに北京五輪の責任者に抜擢され、外国首脳とつぎつぎとあった。それからメキシコを訪問したが、評判は芳しくなかった。外交能力に疑問符がつけられた。ならばライバル李克強いは外交もうまくこなせるのか、と団派への面当てが再開したわけである。
この事件で浮き彫りになったことは胡政権の脆さと、最高意思決定機関の内部闘争の深刻さ、要するに上海派の横暴に対して、適宜適切な対抗措置がとれない実態である。
素人です。
ですのでこの項に登場する経済学者の言説は大いに誤った解釈をしている可能性が高いです。
でも気にせず逝きます。
*クソ長くなったので先に結論部分をまとめます
②ケインズの理論に欠点があったために、労働市場の積極的改善というその利点もろとも葬られてしまった。
④その為労働力ダンピングや失業率の高止まりが防がれにくい素地が築かれた。
後編:日本においてブラックがのさばっている理由についての考察
①日本は戦後ずっと右肩上がりで成長してきたために、失業問題に大きく悩まされる時期があまりなかった
②それがゆえに社蓄の害が単に個人の人生観に回収され、社会的問題とならなかった
③バブル後の増加した非正規雇用者の悲惨な状況を見て(または未必に協力して創出し)失業への強い恐怖を抱くようになった
④失業への強い恐怖から、不当労働行為を甘んじて受ける(法律上は勝てても経済体力的に持たないという理屈もあるだろう)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まずブラック企業がのさばりやすい理由、つまり労働力のダンピングがおきやすい理由を最初に考えた(としてください)のはアダムスミスみたいです。
「使用者達は、暗黙のうちに、しかし恒常的かつ一様の団結を結んで、労働の賃金を実際の額以上に上昇させまいとしている。
我々がこのような団結をめったに耳にしないのは、誰もが耳にしないほどそれが通常の、ものごとの自然の状態といっていいものだからである。」
また労働争議の段に際しては
「それまでの蓄えから、使用者は1年から2年耐えられるのが普通なのに対し、
労働者は仕事がないと1週間で困窮するのがほとんどで1ヶ月耐えられる労働者は稀で1年持つ人はまずいない。
長期的にみれば、雇い主にとっても労働者が必要だとしても、その必要性は切迫したものではない」
あらかじめ使用者側にハンディを負わせないと(つまり自由を制限して)労働力のダンピングが起きてしまう、
アダムスミスは良く知られているように自由放任を是とした学者ですが、
こと労働市場に関しては、積極的に自由競争市場を作り出す必要性を主張していました。
しかしアダムスミスの後、デヴィッドリカードらから連綿と受け継がれてきた
自由放任主義にはこの視点が欠けていました。
「労働市場も自由競争させれば、労働の需要と供給は長期的には均衡する」と考えていました。
20世紀に登場したケインズはこのような自由放任主義に対し「貨幣改革論」の中で
「現在の状況に対して長期的な視点と言うのは見当違いである。長期的には我々はみな死んでいる」と強く批判しました
(ひょっとしたらアダムスミス的な意味で需要と供給の均衡を労働者が待つことができないといいたかったのかもと私は思いますが、如何せん切り貼りなので文脈がわかりません)
ケインズはリカード以降の古典派が、経済システムの調整不良の原因を貨幣賃金の硬直性に求め、
賃金体系を引き下げれば、生産物の価格低下をもたらし、それが新たな需要をつくり、
「ある個別産業について賃金を引き下げれば、それは総有効需要にも影響を及ぼす。
古典派の主張はある産業における賃金引下げが総有効需要に影響を与えない場合にのみ有効であるが、
賃金引下げが総有効需要を引き下げないという保証はどこにもない」
とし、
「むしろ賃金の引き下げが総有効需要の構成要素であるところの消費と投資を減少させ、雇用状況をかえって悪化させる」
可能性すらあることを示しました。(つまり賃金引下げがもたらす総需要減と生産価格の現象がもたらす需要増の比較で、いつも需要増が大きいわけはないと言っている)
(一般理論)
ケインズの登場後、しばらくは国家が経済に積極的に関与する必要が問われ、
世界恐慌を乗り切るために世界中で(戦争を含んだ)公共事業が行われました。
時代は流れて、1970年代に入るとミルトンフリードマンらの影響を受けた新自由主義が台頭してきました。
彼らはケインズが主張していた現在の所得が消費行動を決定するという主張を限界資本効率がケインズの予想に反して逓増していたことを示し、
その乗数効果に疑問符を投げかけ、金融政策による事態の解決が最も適切な行動だと主張しました。
政治的にも英国のマーガレットサッチャー、米国のロナルドレーガンという人物を得て、
マネタリズムはその全盛を迎えます。
英国、米国ともに結果的にインフレの抑制に成功しますが、失業率が高止まりし、社会情勢は不安定化していきました。
彼らは労働市場ももちろん完全な自由競争にあるべきだと考えていました。
しかし現実には給与格差が大きく広がり、賃金に収縮性が生まれたにも関わらず
日本でも中曽根⇒橋本⇒小泉と連綿と新自由主義的「構造改革」は受け継がれてきました。
ここまでを整理すると、
②ケインズの理論に欠点があったために、労働市場の積極的改善というその利点もろとも葬られてしまった。
④その為労働力ダンピングや失業率の高止まりが防がれにくい素地が築かれた。
という感じかと思います。
後編に続きます。
■ミクシィで「つよぽんを元気付けたい」 SMAPのCD「購入イベント」始まる
http://www.j-cast.com/2009/05/08040747.html
>このCDは08年8月に発売されたTBSの北京オリンピック2008テーマソング。歌詞に
>「きっと夢じゃない どんなに 遠く離れていても そばにいるから」
>などのフレーズがあるため、剛さんを応援するのにピッタリだと考えた。
「つよぽん」はきっと、この現実は夢であって欲しいと願っているだろうけど。
本当に彼らの力は働いているのか、分かる範囲で調べてみた。
*5/6 圏外
*5/5 圏外
*5/4 11位
*5/3 圏外
*5/2 圏外
*5/1 圏外
*4/30 圏外
5月4日から購入イベントが行われて、5月4日に11位になっているってことは確かに効果はあったんだろう。
でも、J-CASTニュースに取り上げられなかったら、話題にもならない。1日だけの一過性なイベントの効果は疑問符。
「つよぽん」に届いているんですかね、彼らの想い。たぶん届いてない。地デジの宣伝しつつ、アナログテレビを使っていた「つよぽん」がPCでインターネット利用していなければ確実にアウト。
1枚のCDが売れてSMAPに入るお金が5%の50円だとしても5人で割って10円。
コミュニティのトピックスにレスしている人が全員買ったとしても2万円。
やっぱ気付かないかもww