はてなキーワード: 奇妙とは
前方からスーツを着た男性と、私服姿の女性が並んで歩いてくる。
男性はどっちかっていうと「だらしない」感じ。(シャツはシワだらけだし、パンツは折り目がない。髪の毛もぼさぼさ)
一方、女性は傘をさしていた。
で、奇妙ってのはここからなんだ。
まず晴れてるのに雨傘さしてるってこと。
つまり、男性の顔が見えないように隠している状態ね。
男性はしきりに傘のほうに顔を向けて話しかけている様子。
すれ違い際に聞こえた会話では、
この会話からすると、二人は知り合いだと推察できるわけだが、ならばなぜ雨が降ってもいないのに傘をさし、男性の顔が見えないようにするのか。
女性の心理「話したくも顔も見たくもないよー、っていう空気を読んでよね。」
なんだろうか。
でもさ、見ず知らずでもないのに、しかも横並んで歩いてるのに顔が見えないように傘で遮るってどういうことよ。
この行動だけを見ると、てっとりばやく言っちゃえば、ものすごく「失礼」だよな。
とはいえ、この女性がこういう行動に至った要因が他にあるんだろうとは思うけどね。
(もしかしたら男性は嫌がっている女性に度々言い寄っているのかもしれない)
真実は分からん訳で。
しかし男性もめげずによく話しかけてたなぁ。
傘の下から顔をのぞき込もうとしてたりしたけど、傘で完全ブロックだったし。
明日から彼は女性に話しかけることをやめるだろうか。
俺ならやめるだろうな。
女性の姿を見つけたら、通りの反対側に渡るくらい避けるよ。
別に生活が苦しいとか辛いとかじゃないですが、メンタル面で。
実生活には全く支障のないレベルではあるけど、外の世界はすべて、親、親戚、恋人、友人、知人、他人、誰と問わず、もちろん自分も、嫌い。
何かと嘘まみれで本音と建て前がバラバラ、思ってることと行動がバラバラ、思い通りにできることは少なく、何をするにも面倒で鬱陶しく、究極的には、人が生きていることそのものが何のためかもサッパリ分からない、きりが無いほどの理由がある。
そんな気持ちでいれば、生きることが苦痛で面倒になって当然のことだった。
「じゃあどうしてそう思うんだろ?」って、嫌な気持ちを解消できるまで考え抜けば良かったものを、漠然としたまま放置していて、心がグダグダになっていた、てのがさっきまでのこと。
さっきシャワー浴びながらハッとした。
これなんだ。
これをずっと“理解はしていても、自分の中に受け入れられてなかった”と気づいた。消化不良でお腹を壊しっぱなしだった。
この世界がエゴによってのみ支えられている、という疑いようのない現実に、反発ばかりして疲れ果ててしまい、受け入れるという大事なステップの前で力尽きていた。そしてどうにも動けなくなり、重く暗い気持ちに沈み、逃げて閉じこもってしまっていた。
人が賞賛するような偉業、美しいこと、素晴らしいことの数々も、「そんなの全部、人がこうありたいと欲するエゴが根源じゃないか」と、ただ反発していた。
愛だとか、世のため、人のため、あなたのためという、いかにも美しそうな理由だって、エゴに矛盾しないというだけで、どれも後付けの理由でしかない。エゴに矛盾しないから自然と認められ、誰もが正しいと思っている、実に奇妙で美しい作り物。
そう、それでよかった。それが駄目なことではなく正常なことなんだと飲み込めた。
このエゴ世界を全部受け入れた上で、生きたいように生きればいいんだと。
言わば「エゴマスター」にでもなったつもりで、上手にエゴを扱って生きればいいんだと。
「この世界はエゴ100%でできている、そして俺もまたエゴ100%でできているんだ。」
複雑で面倒とばかり思っていた世界は、実はこんなにもシンプルで分かりやすいものだった。
当たり前のことを受け入れてみて、凄く楽な気持ちになれた。
何か、俺これから嫌な人間になりそうな気がする、もう手遅れか?
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◆「ラノベの悪役台詞みたい」「頭の悪いラノベ文章みたい」というご感想。
読まないんだけど、ラノベにこういうの多いんだ?
それとも、そういうラノベを読む人が多いのかな?
ぃぁー、何という肉日記。
http://anond.hatelabo.jp/20090519175408
俺は、収入も含めてお互いが家庭に提供するバリューがお互いイーブンじゃないと、フェアじゃないと思ってる。
高収入にはいろんな罠がある、かもしれない。
自分は30代内科医で、彼女は20代精神科医。遠距離。もともとそんなに裕福じゃないほうの生まれ育ち。
今はそこそこ稼いでいる。で、この家事負担記事は興味ぶかく読んだ。
確かに、一般的な視点から言えば、この筆者は結婚というものを理解していないっぽい。
カネのあるほうがないほうに重箱隅的な「フェアネス」を要求してしまうと、
それは往々にしてデリカシー違反となるんだよね。(このことは匿名ダイアリーに書いて、それなりに読まれた)。
http://anond.hatelabo.jp/20080713154347
ただ、この問題は医者同士のようなhigh-yieldなカップルになると、かなり重要な葛藤を生むポイントなんだと思うなあ。
自分も少し前までは、自分の収入なんて奥さんにくれてやるし、家事は五分五分で分担してかまわない、
プリンシプルはそれで十分でしょ、くらいに思っていた。(前のダイアリーはそうなっている。)
ところが、今、彼女の本業収入はわたしのそれを追い抜いており、非常勤をふくめた総収入でもそのうち抜かれることが確実だ。
別に一緒に住んでいるわけではないが、仮想的な世帯収入は、同世代の人びとにくらべてかなり優遇されているはず。
今までの交際とくらべ、もっとも経済面での自由度が大きいと言ってよい。
しかし、非常に奇妙なことに、わたしたちがケンカするのはたいていお金に関してなのだ!
学生時代の付き合いのように、双方が貧しければお互いにいたわりあって先へ進む。経済的余裕が一方にあれば、
そうでない方を共同経済圏に入れて押し付けがましいことは言わない(この匿名ダイアリーの筆者はそこの罠にはまっている)。
ところが、カップルの双方がほぼ対等の収入を得ていて、しかも高収入というのは、実はかなり困る。
少なくともわたしはこういうのは初体験だし、想像外の困難を伴っている。彼女もそうだろう。
実際、一方が交際関連費用を片務的に負担しつづけたりすると、かなり腹が立ってくる。向こうだって十分に稼いでいるのに、
どうしてこちらばかり出さねばならないのか、と。ここは人間心理の非常に興味ぶかいところで、
もし向こうが航空費や食事代をホイホイ出せるような経済の人じゃなければ別に腹が立たないのである。
一方、向こうは向こうで、「お互い経済に余裕があるのだから、お金のことを気にする必要はないはずだ」と反論してくる。
ほかにも、将来の潜在的な家事負担割合などについて、
収入やキャリアパスとからめてかなり真剣に議論を交わしたりもしている。
自分たちは今、この経済問題に結構悩まされていて、というかケンカをするとしてもこの問題関連が9割なのである。
裕福な家庭ならばまわりでそこそこ見るが、夫婦の双方が潤沢な収入を得ていてかつ関係が円満でもある家庭というものは
正直なかなか見ないような気がする。彼女にしても、母親は生粋の専業主婦だったそうだ。
まったくカネのなかったころには想像もつかなかったが、高収入同士だからこそ経済的に折り合いがつけにくいという
正直、この件ではわたしもまったく手探りである。本当によくわからない。こういうことを悩むこと自体が人間的に
成熟が足りない、という意見さえもありだと思う。でも、一回も見たことのない行動様式を創造するのは難しいんだ。
うまい回答を見つけられなくて残念でもあるが、しばらくこの件は掘り下げていくことになるだろう。
時々、変な夢を見る。なんというかそこで繰り広げられている光景は明らかに奇妙で、意味不明で、合理性を欠いているのだが、
自分自身を含め誰もそんなことは気にしない。たまに、「何かおかしい」ということに気付いて、これは夢だと思い、
ほっぺをつねる。これで目が覚めることもあれば、そうやって目が覚めるという夢をまだ見ていることもある。
そして、どういうわけか目が覚めるとそれまで見ていた夢がいったい何だったのかさっぱり思い出せない。
しかし、昨日見た変な夢は何故か結構覚えていたので、ちょっと書いてみる。
私は世界を救う旅に出ていた。何でかわからないが、とにかくそういう使命を負っていた。そして何故かただひたすら走っている。
私は一人ではなく、数人の仲間がいた。だから恐れるものは何もない。ただひたすら前に進むだけだ。
途中で巨大なカブトムシみたいなのが出てくるが無視して突き進む。
街の中だろうと城の中だろうとかまわず、みんなで走る。みんな疲れないんだろうかとかは思わない。
その内、走ってるのが自分たちだけでなく、どこかの村の人やどこかの騎士団みたいな格好をした集団もみんな走っている。
進む方向はみんな一緒だ。なんだかよくわからないが、みんな力を貸してくれているようだ。
そして遂に旅の終着点にたどり着いた。普段は陽気で明るいメンバー達の顔が真剣になる。
当たり前だ。これから世界の命運をかけた戦いが始まるのだ。誰だって真剣になる。
しかし、そこで何かが変なことに気付く。何故かみんな行儀良く一列に並んでいるのだ。まるで上官を前にした軍人みたいに。
なんだかよくわからないが、自分もそれにならう。チームワークを乱してはいけない。
そして舞台の隅から足音が聞こえてくる。最後の敵の登場だ。
ここに来るまで今まで一回も戦闘なんてやっていないが、そんなことは誰も気にしない。
一人の男が出てきた。身長は170cmぐらいでタキシード姿でマイクを右手に持っている。
・・・・・・・・・・あれ?
男が口を開く。
みなさん、お待たせしました。それではごゆっくりお楽しみ下さい。
は?
けいおん リニューアル
・・・・・・・・・・目が覚めた。
,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
(.___,,,... -ァァフ| あ…ありのまま 今日 起こった事を話すぜ!
|i i| }! }} //|
|l、{ j} /,,ィ//| 世界を救う旅に出て目的地に着いたと思ったらけいおんのコンサート会場だった
i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ
|リ u' } ,ノ _,!V,ハ |
/´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人 な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
/' ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ おれも何をされたのかわからなかった…
,゙ / )ヽ iLレ u' | | ヾlトハ〉
|/_/ ハ !ニ⊇ '/:} V:::::ヽ 頭がどうにかなりそうだった…
// 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ
/'´r -—一ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐ \ 初夢とか正夢とか白昼夢とか悪夢とか
/ // 广¨´ /' /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
ノ ' / ノ:::::`ー-、___/:::::// ヽ }
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::... イ もっと恐ろしい、夢の不可解さを味わったぜ…
ああ、わかってるよ。多分疲れているんだと思う。明日までにやらなきゃいけない仕事もさっき終わったし、今日はもう寝るよ。おやすみ。
雑談はお互いの考え方を理解するチャンス お互いを少しでも理解しておくとそのあとの交渉など仕事もやりやすくなる
相手と簡単に共有できる話題を提案することで会話を始めるのが基本
状況に応じて適切な話題を探すように努力することが上達への近道
世界でもっとも頻繁に使われている
もっとも共有しやすい
日本食は人気が高い
話題を持っていれば雑談しやすい
どんな相手とも簡単に共有出来る話題
相手と簡単に共有できるものを、お互いの共通の状況や環境から選ぶ
映画チケットの列でなら 列の長さ 見ようとしている映画 見える建物 など
女性同士 服や靴をほめる
日常的なものはかえって正確に説明できない
あらかじめうまく話せるように練習しておくといい
Yes/Noだけの応えでは雑談が続かない ぎこちない沈黙 相手にさらに話題を強要してしまう
相手が話題を提供してくれたことを認識して、それについてもっと話すことで雑談を続ける
興味、活動、経験など
例)「今日は寒いね」「たしかに。でも私の犬を公園で散歩させるにはもってこいの天気だ」
雑談を続けるネタにできるだけでなく、お互いの信頼と理解を築いていくことができる
漠然と聞き流さない
相手の話の中から自分の次の話題を探すようにする
それについてコメントしたり、自分と関連づけながら発展させていく
お互いが積極的に相手の話から話題を探し、個人情報をまぜつつ雑談を続けることで初対面でもうまく話せ、お互いの理解が深まり印象もよくなる
相手の表現をまねることも効果的 同じ表現を使うことで相手が理解しやすく、リラックスする
同じ表現を続けて使うと奇妙な印象を与えてしまい話が続かなくなる原因になる
相手の話の内容に合った受け答えをする ずれたことを言うと相手に理解されてない印象を与えてしまう
なにを~? どこで~? いつ~? なぜ~? どうやって~?
趣味はなにか なぜそれが好きなのか なにに関心があるか など
相手に興味を持ってもらえるように=相手の雑談のネタになるように
関係する小話をいくつか用意するのも効果的
まずは相手と簡単に共有できる話題から始める
自分の応答に、個人情報や相手の話関連の話題をつけたして、話を広げる
相手に会話に興味があることを身体や言葉で示し、相手が話しやすくする
雑談はお互いの考え方を理解するチャンス お互いを少しでも理解しておくとそのあとの交渉など仕事もやりやすくなる
相手と簡単に共有できる話題を提案することで会話を始めるのが基本
状況に応じて適切な話題を探すように努力することが上達への近道
世界でもっとも頻繁に使われている
もっとも共有しやすい
日本食は人気が高い
話題を持っていれば雑談しやすい
どんな相手とも簡単に共有出来る話題
相手と簡単に共有できるものを、お互いの共通の状況や環境から選ぶ
映画チケットの列でなら 列の長さ 見ようとしている映画 見える建物 など
女性同士 服や靴をほめる
日常的なものはかえって正確に説明できない
あらかじめうまく話せるように練習しておくといい
Yes/Noだけの応えでは雑談が続かない ぎこちない沈黙 相手にさらに話題を強要してしまう
相手が話題を提供してくれたことを認識して、それについてもっと話すことで雑談を続ける
興味、活動、経験など
例)「今日は寒いね」「たしかに。でも私の犬を公園で散歩させるにはもってこいの天気だ」
雑談を続けるネタにできるだけでなく、お互いの信頼と理解を築いていくことができる
漠然と聞き流さない
相手の話の中から自分の次の話題を探すようにする
それについてコメントしたり、自分と関連づけながら発展させていく
お互いが積極的に相手の話から話題を探し、個人情報をまぜつつ雑談を続けることで初対面でもうまく話せ、お互いの理解が深まり印象もよくなる
相手の表現をまねることも効果的 同じ表現を使うことで相手が理解しやすく、リラックスする
同じ表現を続けて使うと奇妙な印象を与えてしまい話が続かなくなる原因になる
相手の話の内容に合った受け答えをする ずれたことを言うと相手に理解されてない印象を与えてしまう
なにを~? どこで~? いつ~? なぜ~? どうやって~?
趣味はなにか なぜそれが好きなのか なにに関心があるか など
相手に興味を持ってもらえるように=相手の雑談のネタになるように
関係する小話をいくつか用意するのも効果的
まずは相手と簡単に共有できる話題から始める
自分の応答に、個人情報や相手の話関連の話題をつけたして、話を広げる
相手に会話に興味があることを身体や言葉で示し、相手が話しやすくする
興味深くて暇なときに読んだりしてるんだけれど、
彼らはどうやって事実を知る・もしくは集団ストーカーという呪縛から逃れることができるんだろう。
「それはあなたの思い違いではありませんか」「病院へ行ってみたらどうでしょう?」などといえば
即刻”加害者”としての烙印を押されるだけで、関わろうとすればするほど状況は悪化するだけ。
家族に諭されてもそれは同じで、それを原因に離婚にまで至っているブログもいくつもある。
彼らにとっては、普段と違う雲が出ていたり、自宅の前を改造バイクが走ったり、
上空をヘリコプターが飛んだり、会話中の語尾を伸ばされたり、
見慣れない車が停車していたり、駅の中を走っている人がいたり、
電車の中で子供が騒いでいたりしているのが奇妙でしょうがない。
「私への嫌がらせなのでは?」
あなたも、普段の何てことのない行動で加害者・加担者・工作員だと思われているかも。
http://blog.goo.ne.jp/aori45/e/ceae6030f769e19104df7c344dcc682b
僕のような若造からすれば、雲の上におわすような仕事をされてきたお方なのだが、
先日また酒宴の末席を汚す機会に恵まれて、いろいろお話を伺うことができた。
その後、縁あって彼が昔関わった仕事に関わることになったのだが、
何故か、とてつもなく寂しく、そして怖くなった。
というのも、八月のパーティー以降、彼の昔日の仕事仲間が相次いで亡くなったからだ。
これほどまでに当てはまるのかと驚きを禁じ得ないほどの活力を漲らせているものの、
彼も八十近く、いつ亡くなってもおかしくない。
僕が関わることになった仕事は一~二年はかかるプロジェクトだ。
彼が亡くなってしまう前に完成するだろうか。
人が死ぬのが怖いと、初めてリアルに思った。
三十年生きてきたが、幸か不幸か身内の葬式は一度しか経験していない。
十年前、大学に入る直前に祖母が亡くなったきりだ。
思えば、いつ亡くなってもおかしくない年齢の人と知己を得たのは初めてだ。
そしてその人に捧げうる供物を用意できそうなのも。
先人達が築いてきた業界に、業績に対して、何かしら恩返しができればと常々考えている。
それがたとえ名前が出るところではないとしても。
しかしいざ表だってできる立場になると、
しかもその大恩人を目の前にすると、奇妙な戦慄に襲われる。
あなたの仕事を待っている人は、本当にたくさんいるのです。
先に逝った盟友と酒を交わすのは、まだ早いですよ。
何故人は死ななくちゃならないのだろう。
アスファルトに無残に散る桜の花弁を、踏み締めながら思う。
出版は老舗の雑誌が次々と廃刊し、テレビは視聴率低下によって広告離れが起き、音楽は久しくミリオンが生まれていない。
一方、ネットの世界に目を向けてみるとニコ動、youtube、pixiv、twitter等々、様々なサイトが盛り上がりを見せ、大きなうねりを生み出そうとしている。テレビ等の既存メディアとは対照的だ。
だがしかし、言ってしまえばネットのコンテンツはどれもこれも素人の提供する予算もクオリティも低い代物である。
長らく映画ファンの間では邦画がつまらない理由は「ハリウッドに比べて予算が少ないから」と言われてきた。
何故、既存メディアの提供する潤沢な予算で作られたプロのコンテンツよりも、ネットのコンテンツが支持されるのだろうか。
ネットのコンテンツの中には、企業制作の予算のかけられたコンテンツも存在するが、それらも不思議と支持されていない。何十分の一、何百分の一の予算で作られたyoutubeの動画の方が支持される。
この現象を紐解くために、低調な既存メディア内において、根強く支持されるコンテンツに目を向けてみよう。
そうすると人気バラエティや人気お笑い芸人に対して、「脱力」だとか「ゆるい」だとかのキーワードが頻出していることに気づく。
二つとも、元はマイナスな意味を持っていた。「脱力」は「落胆」と同義だったし、「ゆるい」の場合は、例えば「ゆるキャラ」は当初は嘲りの目線が多分に含まれていた。
ここでは「脱力」「ゆるい」を総じて『ロウ』と呼称しよう。
今、世の中で支持されているものはそのほとんどが『ロウ』なものだ。
お笑いのネタ番組はキッチリと構成されたコントを見せるものから、数秒の一発ギャグを次々と見せるという『ロウ』なものに変化したし、別の潮流の『すべらない話』も人がいてただ面白い話をするだけ、という『ロウ』なものだと言える。
深夜バラエティがゴールデンに行って失敗するのは、『ロウ』なものから予算のかけられた『ハイ』なものになってしまったから、と言える。
そして、『ロウ』なものが何より一番溢れているのは、そう、インターネットの世界だ。
素人の一個人がお金をかけずに作った動画なんて、「ロウ」としか言いようがない。
では、何故『ロウ』が人々の心を惹きつけるのだろうか。
その答えは、コンテンツ産業の中でいち早く不況に見舞われていた出版業界を見ればわかる。
出版業界では90年代半ばから「出版不況」と言われるようになったが、既に80年代には「活字離れ」と言われる現象が起きている。
「活字離れ」という状況下で、それでも数百万部売れるベストセラーは、「文章力がない」「素人が書いたようだ」と書評家が酷評するという奇妙な現象が起きていた。
ここでも『ロウ』が支持されるという状況が立ち現れたのだ。
評論家の中島梓は著書『ベストセラーの構造』にて、「私にも書けるかもしれない、というアマチュアの親しみやすさ」が支持される要因だ、と分析した。
四半世紀経過した現在、まったく同じ分析が下されたネットのヒットコンテンツがある。『初音ミク』だ。
ネットには『ロウ』が溢れている。『ロウ』の「アマチュアの親しみやすさ」が人々を惹き付け、「私にもできるかもしれない」と思わせる。その思いは初音ミク等のソフトウェアがサポートし、発表する場所はネットが与えてくれる。そうやって生まれたコンテンツを見た人がまた同じ思いに駆られ……ネットはそうやってぐるぐると回り続ける。
地デジはおそらく失敗するだろう。何故なら双方向を視聴者からのリアクションしか想定していない。ネットの双方向は、互いに作りあい刺激しあうことだ。
一億総クリエイター社会では、受信機は同時に送信機ではなくてはいけないし、コンテンツを見る場所は同時にコンテンツを発表できる場所でなくてはならないのだ。
http://blog.livedoor.jp/meitanntei4044/archives/860046.html
そして最後にもう一つ。。。。コレは正直いいたくないんですがー機材君は自分に正直すぎるくらい正直なんで言っちゃいますがwキモかったwwwみくちゃんwwwラブwwwみたいのがwww
逆にマイノリティ的な優越感を与えてた感はありますが初音ミクを期待してあの声だったらみくちゃんラブはがっかりするだろう、って言うのは計算の範疇でした。
えー結論から言うと機材君は初音ミクという文化に対してはものすごく否定的です。これ、流通とかの面では凄い革命が起こってるんだけど音楽という娯楽が商業的にも文化的にも前に進む為には何一つ利益は無いと思ってる。そもそも同じ声でおきた歌もののブームメントなんて長続きされたらどうすればいい?本当に美空ひばりばりに歌で感動させることの出来る才能がパン屋で働いて暮らしている現代は俺には異様に居心地が悪いんです。みんなマジで死ねwwww
表現が過激なのは憂さ晴らしの要素を多分に含んでいると思われるが、簡単にウケるコミュニティへの未練を断ち切りたいという意思の表れでもあるのかもしれない。
http://blog.livedoor.jp/meitanntei4044/archives/859319.html
初音ミクは使えば簡単に賞賛をうけることが出来るけどそれは前に進む努力を放棄することでもある。少なくとも俺のような甘えん坊には。
褒められて伸びるタイプじゃないんだ。機材君は。
また、2chにこのような投稿があった。同一人物である確証は全くないが、奇妙な一致ではある。
http://pc12.2ch.net/test/read.cgi/streaming/1238332071/383
383 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/30(月) 14:24:36 ID:rPNli/5OO
例えば俺の話だが
「つまんね」「糞J-POP乙」だったわけだが
ミクを使った途端に
「いいね」「神曲」
と疑問に思いましたよ。
たぶんここの住人も俺のミク曲聞いた事ある人あるかもねね。
WBC終わったけど、例によって韓国が文句言ってるみたいだね。
ぶっちぎりの2強がいた場合、後はトーナメントの組み合わせ次第で5戦になるのはあたり前田のクラッカーなんだよ。戦った国の数に偏りが出るのも、通算何勝何敗っていうのが意味をなさないのも当然。
2大会連続で準決勝に駒を進めた日本と韓国が世界の野球2強国なのは間違いないわけで、その片方が運悪く負けるのは勝負の世界じゃしょうがないとしか言いようがない。それに対して運だ何だって文句を言うのはかっこ悪いだけじゃなく、そもそもロジックが間違ってる。
ダブルエリミネート方式に対してこういった文句を言うのは、勝ち残り式トーナメント方式に対して敗者復活戦がなくて優勝できなかったと言ってるのと同じことだから。
アイドルのことよく知らないけど、少し語ってみる。
supercellの大躍進を見て、ふと思ったんだが、初音ミクを「アイドル」として捉えた場合、
今のアイドルでいうと、PerfumeとAKB48を2で割ると、ちょうど初音ミクになるのではないだろうか。
中田ヤスタカプロデュースになってからの人工的な「感情のない冷たい感じ」と「アイドルとしてのかわいらしさ」がウケた。
いうまでもこの人工的な「感情のない冷たい感じ」は、vocaloidである初音ミクの特徴でもある。
12月20日 - 『Twinkle Snow Powdery Snow』をネット配信限定でリリース。mora winで5日間連続売り上げ1位を記録した。この頃からファンの手で動画共有サイトYouTubeなどにPerfumeの動画が投稿され、大量に視聴される。
(まあ今の時代、動画系サイト、もしくは着メロを経由することでマイナーなミュージシャンがファン達の手によってメジャーへとなっていくものだが)。
初音ミクが出た後、Perfumeの曲を初音ミクに歌わせた動画が出てきたのも、
単純に初音ミク=テクノロジーの結晶と、テクノ系アイドルという親和性だけでなく、時代的にマッチした興味深いコラボだったといえる。
「会いに行けるアイドル」[2]をコンセプトに専用劇場でほとんど毎日公演を行っている。メディアを通した遠い存在だったアイドルを身近に感じ、その成長していく過程をファンに見てもらい、共に成長していくアイドル・プロジェクトである。
と、「会いに行ける」=身近さと、「その成長していく過程をファンに見てもらい、共に成長していく」というのがある。
ファン以外は誰が誰だかわからないアイドルたちの、ファンの集積が「AKB48のファン」となる。
それは様々な楽曲、様々なテイストのイラストで「プロデュース」された初音ミクのちょうど真逆だ。
一般人からは「AKB48という名前はわかるが、メンバーの名前がわからない」というある種の奇妙な匿名性を得ている。
結局ファン以外からすれば、得体の知れない集団となってしまい、おそらくこの奇妙な匿名性を維持したまま活動を終了するだろう。
ブランドとしての「AKB48」はあるが、ファンは自分が気に入った各メンバーを応援することで、結果的にAKB48を応援することになる。
初音ミクは公式イラストはあるものの、無数の楽曲・イラストによって、イメージが定まらないが、
逆にそこがプロデュースする方からすれば「自分色に染められる」魅力となり、
またファン(受け手)側からすれば、自分好みを初音ミクを選べることとなる。
また、初音ミクは当然ながらニコ動でのアップと、公式設定にはない「ネギ」を持つ、はちゅねの登場などの「成長」や、
自分が好きな動画を見ることで「再生数が伸びる」という「成長」や結果としてランキングに入るという「成長」がある。
また特徴的なのが、アイドル(与える側:高)-ファン(享受する側:低)という上下関係ではなく、
自分たちで初音ミクを歌わせ、イラストを描き、動画を作りと、自分たちがプロデュース(曲などを与える)することで、アイドルとの上下関係が逆になっている。
たまたまそうなったら「自分の意見がアイドルに届いた」と擬似的なプロデュース感覚を得るのと違い、
まさしく自分の手でアイドル自身をプロデュースできるのだ。それは「究極の応援方法」とも言える。
なんかグダグダになってきたのでまとめよう。
Perfumeの「冷たさ(=人工的な魅力)」と、AKB48の「応援できる」「自分で育てられる」部分を足して2で割ったら、
ちょうど初音ミクになるよね、という話。
今流行ってるアイドルを見ると、初音ミクがあまりにもピタっと当てはまっていて、興味深い。
初音ミクがよりメジャーになっていくのが、当然の流れに思える。
恐ろしいことに、まだミクは本気出してないのだ。きっと。
自分のブログに書いても誰もたどり着かないので、ここにも書く。
その日のことは今も鮮明に覚えている。
その日は朝から「ちょっとおかしなこと」が立て続けに起こった。まず、3月上旬とはとても思えない暖かさだった。湿気があったので、生ぬるかったと言うほうが正確かもしれない。その生ぬるい気候を伝えようと、サンデージャポンが「靖国神社で桜が開花したこと」をトップでとりあげた。サンデージャポンのような(良い意味で)ふざけた番組が真面目なノリで桜の開花を伝えるなんて、それもなかなか奇妙に思えた。
それから、ジョギングおじさんがジョギングをしなかった。毎週日曜日の11時に僕のマンションの前をジョギングするおじさんがいて、そのおじさんがジョギングを休んだのを僕はそれまで見たことがなかった。僕はそのおじさんを「ジョギングおじさん」と呼んでいた。そのジョギングおじさんを見ると、僕はとてもほのぼのとした気持ちになれた。日曜の朝は、当時の僕にとって1週間で最ものんびりした時間だった。ジョギングおじさんは、その日曜日の朝の象徴だった。
しかし、その日はジョギングおじさんは来なかった。表へ出て、ジョギングおじさんを見ながらタバコに火をつけるのが当時の習慣になっていたんだけれど、その日は待てど暮らせどおじさんがこなかった。これは本当に驚きだった。このことを何人かの友人に話しても、僕の驚きの1%も驚いてもらえなくて、そのうち友人に話すのはやめてしまった。でもとにかく僕は驚いた。おじさん無しで火をつけたタバコを吸いながら、なんか調子が狂うな、と考えていた。
その後も、遅い朝食を食べようといつもの定食屋に行ったのに臨時休業だったり、花粉の季節なのに間違えて洗濯物を外に干してしまったり、なんだかいつまでたっても落ち着かない変な日だった。
そして、その日の夜、僕は彼女と19年ぶりの再会をした。
彼女はいちおう幼なじみで、僕の実家から200メートルくらい離れたところに住んでいた。なぜ「いちおう」かと言うと、それまで僕と彼女はほとんど口を聞いたことがなかったのだ。なにかの具合で僕と彼女の家のあいだに学区の境目があって、違う小学校に通っていた。親同士の仲が良いということも特になかった。そんなわけで、通りでたまたますれ違っても、ろくに挨拶もしなかった。大人になれば、「軽い会釈」という便利なものを覚えるが、当時の僕らはそんな便利なものは知らなくて、何も言わず、視線も交わさずにすれ違った。
そして、気づいたら彼女の家の表札は違う名字になっていて、僕は彼女が引っ越したんだと知った。
今さっき書いたばかりで申し訳ないが、その日、つまりはジョギングおじさんが来なかった日に19年ぶりの再会をしたというのは、ちょっと正確ではない。実は、その日からさかのぼること2週間前、僕は彼女が「サンマルク・カフェ」で働いているのをたまたま目にし、思わず声をかけたのだ。レジでお客さんの対応をしているときには全く気づかなかったのだが、ホールに出て、テーブルを黙々とふく顔を見てすぐに彼女だとわかった。
驚くべきことに彼女も僕を覚えていてくれた。僕が、「すいません」「あのー」「○○さんですよね」「以前、近所に住んでいた・・・」などと喋っているときには不思議そうに首をかしげていたのだが、僕が名刺を取り出そうとして黙った瞬間、「あ!」と素っ頓狂な声を上げて、名刺を出すまでもなく僕の名前を呼んでくれた。そしてお互いが笑顔で通り一遍の挨拶をし、改めて僕は会社のメールアドレスが書かれた名刺を渡した。
正確にはそれが19年ぶりの再会だったというわけだ。まあ、特に意味もないことを数分間話しただけだけど。
サンマルク・カフェの帰り道、当時と違って通り一遍の挨拶ができるようになったということと、当時から1ミリも変わっていない彼女の姿形を交互に考えたり思い浮かべたりして、「なんだかなあ」という気持ちになった。そう。彼女は1ミリも変わっていなかったのだ。信じてもらえないと思うが、僕にはそう感じられたのだ。
3日後に彼女からメールがきた。とても礼儀正しい、感じの良いメールだった。何度かメールをやりとりしたあと自由が丘でイタリア料理を食べる約束をした。
僕は10分早く自由が丘駅に着いて、交番の前にある喫煙所でタバコを吸いながら彼女を待った。もう6時過ぎで、徐々に薄暗くなってきていた。まわりの人たちは過ぎ行く日曜日を慈しむようにとても穏やかに会話していた。でも、彼らはよその星の住人のように、どこかよそよそしく見えた。小学校のときに通っていた教会で牧師さんに見せてもらった天国の絵(それはそれは平和な絵だった)と、メトロポリタン美術館で見たダリの絵を足して2で割ったような不思議な光景だった。
彼女は5分後にやってきた。着いたらメールか電話をしてくるだろうなと思って携帯を握りしめていたが、彼女はスタスタと歩いて僕のところまでやってきて、「お待たせしました」と軽く会釈をした。僕も「いえいえ」と言って、会釈を返した。
お店に直行するには少し早い時間だったので、僕と彼女は少し遠回りをして店に向かった。最初少しぎこちなかった会話も、ABCマートを右に曲がるころにはそのぎこちない感じはどこかに行ってしまっていた。予約していたお店に入り、通された席に座ることにはむしろとてもくつろいでいた。彼女とはとても話しが合ったのだ。僕と彼女は性格も、それまでの人生も全然共通点が無かったが、彼女の話すことはとても面白くかんじたし、僕の話すことも彼女はとても面白がってくれた。
でも、朝からの奇妙な感覚は依然として続いていた。そして、彼女との会話がはずめばはずむほど、奇妙な感覚はより強くなった。なぜだ?僕は彼女と話しながら一瞬考えてみた。でも、よくわからなかったし、彼女と話すことはとても楽しいことだったので、難しいことを考えるのはやめた。
(2)に続く
【作者より】
すいません、力尽きました。続きを書いたら、この記事にリンクを貼ります。。。このくらいだと長さもちょうどよいかなと。。。(言い訳)
分割して投稿するの、良くないですかね?あんまり長いのを投稿するより、分割したほうがいいかなと。
まずいときは叱ってください。もうしません。
憲法の話は置いといて、権力者の責任の取り方の話だけど、それ日本だけの価値観。だから外国には通用しないよ。奇妙なものと写るだけ。ある種の責任逃れにさえ見られるかも知れない。もしくはここまで罪を認めたんだからこいつらは徹底的にボコられても文句も言わん奴らだろうと思われる。
この日本的価値観については、弁当爺の又吉イエス論が詳しい。「(権力者の)○○は腹を切って死ぬべきだ。なぜなら、他人に腹を切れというものはまず自分が腹を切るべきだからである」って奴ね。他人に何かをさせるものはまず自分がそれをしなければならないっていう価値観が、日本では無くなっちゃったのに日本化された沖縄では残ってたんじゃないかっていう。
だからさ、日本支配下時代のインドネシアの軍人学校の話なんか、日本人の価値観とか美意識でできすぎてるんで、作り話じゃないかって俺は思ってる。少なくともそれに対するインドネシア人の反応は作り話だろうと。
どんな話かっていうと、その軍人学校の生徒たちが最近たるんどると。で、そのクラスのリーダーを呼び出して、けしからんから良いというまで校庭に立っとれと、インドネシアの猛暑の中、そのリーダー生徒を何時間も立たせたわけだ。普通に考えたらこんなの拷問で、猛反発が起きてもおかしくないんだけど、そうはならなかった。どうしてならなかったのか? それは命じた教官もその生徒の隣りで一緒に延々立ち続けたからだ、ってやつ。
こんな話さあ、日本人の価値基準でできてて、しかもそれを外国人が納得するっていうところがあり得ないと思うんだよなあ。こっちの一方的な価値観は通用せず、単に拷問させた人として反乱が起こると思うんだ。
人間同士の価値観の違いっていうのはそのくらい断絶してるもんだと俺は考えている。だから戦後、権力者たちが自害してももっと状況は悪くなったんじゃないかなあ。
カルデロンさん一家の問題にも結論が出たようなので、少し書いてみる。
強制退去に賛成と反対の意見があるのだけど、それぞれ国籍法の改正の時にはどういう意見だったんだろうというのを考える。
2つのことがらについての賛成と反対の組み合わせは4つ考えられるのだけど、主に下の2つになるのではと思って不思議な気持ちになる。
不思議な感じというのは、最高裁判所の判決が強制退去と国籍法の改正の背後にあるから。だから、どちらの意見の人も片方では最高裁の判決に賛成し、もう片方では反対していることになる。
最高裁の強制退去の判決が出たにもかかわらずこれに反対している人は、国籍法の改正の時にはどうしていたんだろう。最高裁の違憲判決が出たのだから国籍法の改正はあたりまえといったことは主張してはいなかったんだろうか。
最高裁の判決が出たのだから強制退去は当たり前だといっている人は、国籍法の改正に反対するときは最高裁の判決をどう受け止めていたのだろう。
そんなことを考えていると奇妙な気分になる。最高裁の判決以外にも、公平性という考え方でも同じことが言える。国籍法の改正の理由は、婚姻している場合としていない場合での公平性、もしくは生前認知と生後認知での公平性を保つためという考え方によるものだろう。そして強制退去にも公平性がでてくる。入管の主張としては、裁判によって子供が中学生になったからといって特別滞在を認めれば他の人との公平性が保てないというような形で。
http://anond.hatelabo.jp/20090313153918
自分が左寄りだと認識した上で自分の考えを言うのなら嫌いじゃない。そういう人は相手と摩擦が起こらないように話し方に工夫をするしな。でも、そういうことを認識しないまま、左寄りな意見が世論そのものみたいに考えちゃってる人がいるような気がしてならない。
これはもう、「俺はサヨクである」という強烈な自負をもって活動的ブクマをしている人たちに他ならない。
快不快のみで物事を決定して動物的にコメするネトウヨに対して、はてサは「今までの経験から鑑みて、『はてサ』ならこう言うだろう」というある程度計算に基づいたテンプレ回答を返してくる。なぜはてサにはそのような打算をせねばいけないのか。
それはつまるところ、2chウヨとはてサの誕生する過程の違いなのだ。
匿名はリアルより簡単にマジョリティを演出できる(もちろん一人や二人では無理だけど)システムだ。
「空気」さえ作ることができれば後は楽勝だ。
ゲームやお笑いを餌にして、イノセントなおガキ樣を釣れば教化は八割完了したようなもんだ。
しかしだからこその問題もある。名無しである以上、彼ら自身のグループの中から可視的オピニオンリーダーを選ぶことは難しいのだ。
彼ら自身が識別可能な唯一の仲間、それは自分自身に他ならない。
大多数の仲で、浮き彫りとなってエンファサイズされた己の存在を認識した瞬間、ネトウヨの中で記憶と認識の捏造が生じる。
「みんなが言ってるから正しい」という受身な姿勢から「俺の主張にみんな賛成してくれている。俺は正しい!」という世界の中心で俺を叫ぶ姿勢への転換だ。つまりは自意識の発露だ。なるほど、ネトウヨが十代にウケるのも道理かもしれない。
「己に対するトートロジカルな自信」と「圧倒的な(と自分では思ってる)賛同者数」。後者の権威は強固だ。非難しても揺らいだのかどうかすらわからない。だが、その存在の曖昧さが不安を覚える者だっている。奇妙な盲信に嫌悪感を抱き反発する若者を、ひいては血気盛んなマイノリティを生み出す。では、そんな怒れるはみ出し者たちはどこへ行くのか?
はてサは生まれついての少数派だ。
まず、母体となるはてなー自体の数も2ch比べて圧倒的に少ない。
宗教法人よろしく信者数の捏造なんてできない。数では自信が持てない。
ではどうするか。はてな特有の武器はあるか。idだ。ではidをどうやって使う?
馴れ合いに、だ。
匿名文化には生まれ得なかったオピニオンリーダーたちを輩出させ、
そいつらに"繋がらせる"。そいつらと繋がらせる。
それにぞれに対応した権威付け方法がある。
つながり乞食の相互確認手段でしかなかったはずのこれらの馴れ合い手段。
しかし外から見た人間たちは誤解する。「ああ、こんなに人気があるのか」と。
「言われてみれば、正しいような気がする。面白いような気がする」
数が生まれる。決して人数は多くない。だからこそ徹底して教育してやる必要がある。
その教育施設として最も悪名高いのが「はてな村」と呼ばれる場所だ。他人の揉め事ほど面白いものはない。
エンターテイメントを売り物にする点ではそうはてサとネトウヨの手管に違いはない。
対岸の揉め事やネタを通して、信徒は論者たちのキャラに対しての理解も深め、やがては親近感を覚えるまでに至る。
畏怖憧れ尊敬同調蔑視性的好意その他様々なものが交じり合って人と人の結びつきは強くなる。(そのほとんどは「自分が一方的に深くつながってるつもりなだけ」だけど。だからオフ会で「お前は俺のことご存知だけど、俺はお前を存知ねぇよ」的なエピソードがばんばん出てくる)。はてサにとっての正しさとはつきつめれば「俺が信頼している○○さんが正しいから正しい」だ。信頼に強調打ってもいい。信頼
そして、敵がいる。ウヨにとっての在日だとかアカだとか、そんなヒキコモリにとっては想像上の生物でしかないよーな敵ではない。もっと卑近である種の親近感を覚えやすいやつらだ。ワンクリックでアクセスできるご近所さん。2chねらーだ。
はてなーは大抵2chからの流民だったりする。自分が前に所属していたグループを見下すほどの快感はこの世に存在しない。
そこからつまはじきにされた元いじめられっこなら尚更だ。
「尻の青いがきどもめ。貴様らはまだそんなところに這いつくばっているのか」
人はそれを高二病と呼ぶ。
はてサにとっての教化はまさにこのステージへの移行をもって完了とする。
あとはその状態をいかに維持するか。単純だ。延々とネトウヨをクソがきと馬鹿にしておけばよい。
そのためにはまず強力に「俺ははてサである」という自己暗示をかける必要がある。
だから彼らには"そういうこと(はてサであること)を認識しないまま~"というのは当てはまらないし、有得ない。
そう、はてサは常にネトウヨの存在が前提にある。自然、態度は後出しじゃんけんにならざるをえない。
"嘲笑"は彼らにとって義務だ。"ねちねちしたコメにスターをつける"のも同様。
互いに即座に代わりが聞かない存在である以上、仲間内で権威付けをしあわなければいけない。敵を貶めなくてはいけない、"摩擦"を起こせ。
ブクマコメがテンプレ的になるのも、コメ対象となる「問題」に常に「正答」が存在するからだ。はてサとしての100点回答が。
一億と二千回繰り広げられてきた問答で先輩たちが血を吐くような思いでひねり出してきた知識のリサイクル。
あなたが本当に実験的な音楽を聞いていたなら、むしろ初音ミクを理解しない方がよっぽど奇妙に感じる。彼らの音楽は常人が聞いても理解出来ない。なぜなら常識を遥かに逸脱しているから、だから刺激的であって面白いのだけど、あなたは実験音楽を聞いて何も学べなかったの?あなたには人間が歌うことが常識であるんだろうね。悪いけど、そういった常識があるのなら、結局あなたはファッションで音楽を聞いていたことになるんだよ。実験音楽は崇高だとか言ってる一番腹立つ連中と同じ。
書評:川口マーン惠美 著『日本はもうドイツに学ばない?』(徳間書店)
小生のようにドイツを知らず、漠然とした技術大国=ドイツの印象を身勝手に抱いてきた者にとって、この評論集は新鮮な驚きのパケッジであり、あのメルセデス・ベンツをつくる器用なドイツ人が、他方では奇妙な思考体系をもつことなど想定外のこと。またドイツおよびドイツ人の意外な側面を知り、本書はとても有益である。
一般的に日本人のドイツの印象は良い。いや、良かった、と過去形で書くべきだろう。
森鴎外が留学し、伊藤博文はプロシア帝国憲法を範にとって明治欽定憲法を起草、制定した。ゲーテ、トーマスマン、ヘルマンヘッセ、ワグナー。
手塚富雄、高橋義考という人たちの名訳でドイツ文学にしたしみ、西尾幹二の新訳でニーチェに親しむことができだ。三島由紀夫も第二外国語はドイツ語だった。
大学ではドイツ語を第二外国語に選択する学生は稀となり、中国語へ語学ブームは移った。
日本の戦後政治は混沌としてきたが、ドイツもご多分に漏れず混沌そのもの、いや東西ドイツ統一以後は、旧東ドイツの貧困を旧西ドイツが吸収し、そのためドイツの経済優等生の質が劣化した。さらには欧州通貨統一によって、ドイツ経済は中国に抜かれるほどに疲弊した。米国、日本に次ぐGDP世界三位は北京が獲得した。
ドイツにも政治家の右往左往、右顧左眄、売国奴の跳梁跋扈があり、構図的にいえば、ちょうど日本に売国的媚中派と保守派とに二分され、さらにその保守が真性保守、体制保守、偽装保守などに細分化されるように、ドイツの政治は、ロシアの利益と通底する二流の政治家がいる。
言うまでもなく売国奴的政治家とは、シュレーダー前首相である。
川口さんは舌鋒鋭くこう批判する。
「シュレーダーは首相在任中、毎年中国を訪れたが、当地では、徹頭徹尾相手の嫌がることには口を噤み、大型商談をまとめることだけに心を尽くし、中国人のやんやの喝采を浴びて満面の笑みを浮かべているのが常だった。そして、このシュレーダー外交を、官邸で、裏からしっかり支えていた」男が、後述するシュタインマイヤーというニヒルな政治家だった。
戦後、アデナゥワーは米国と協調したが、ブラント政権で東方外交へ急傾斜をはじめた。そしてブラントの個人秘書は東ドイツのスパイだった。
後継シュミット時代に「ドイツ経済は完全な停滞状態にはいったしまった。それを引き継いだのがCDUのコール首相。行き過ぎた福祉にブレーキをかけ、19990年には華々しく東西ドイツを統一下」(本書140p)
だが、いまやドイツ統一の偉業をなしとげたコール首相は顧みられず、現首相メルケルへの罵詈雑言が左派からなされる。仕掛け人は現連立政権にありながら次期首相の座を虎視眈々と狙うシュタインマイヤーらSPDの面々である。
現ドイツ政権は左右大連立で「十五の大臣のうち8つがSPD」。外交を取り仕切るのは左派なのである。
日本との比較で二点、異なるポイントがあると川口さんは指摘する。
「ドイツには日本とは決定的に違う二つの負い目がある」、それは「ホロコーストと戦時賠償未払い」
東方外交をすすめたブラント元首相はユダヤ人慰霊塔に跪き、ヒトラーを擁したドイツ軍がなした狼藉を謝罪したが、「ヒットラーの率いたドイツと自分とを同一視していない」。
いや一般的にも「ドイツ人政治家の謝罪はヒットラーが起したことに対する謝罪であり、自分や国民の罪に対するものではない」。
つまり「親族に人非人がいたことに対する悲しみの表現のようなものであり、つまり『あいつのしたことは本当に悪いことだった。恥ずかしい、許してくれ』と誤っているのだ。日本は幸いなことに、あとにも先にも身内にこのたぐいの人非人を持たなかった」(本書73p)。
本書にはホーネッカー(旧東ドイツの独裁者)が、旧東ドイツ市民が秘密警察に監視されつつ、生活がうまく行かずモノもなく、途端の苦しみを味わっていても、一人だけ核戦争にも生き残り、モスクワへ逃げる場合に備えた豪華な核シェルターを築いた事実が暴かれる。その妄想ともいえる塹壕が、ドイツ統一後、埋められる前の見学ツアーが行われ、川口女史はでかけて、壮大な無駄と独裁の虚無を見いだす。
それにしても直撃取材のフットワークの良いこと!
また“ドイツの良心”などと左翼ジャーナリズムに持て囃された“ドイツの大江健三郎的な作家”ギュンター・グラスが青年時代はナチの「太鼓持ち」だったこと、シュレーダー前首相がプーチンの代理人のごとき政治屋ロビィストであること、ダライラマとの関係でベルリンが北京へ頭を下げるのも、日本と同様であり、北京とはビジネスさえ旨くいけば中国に叩頭しても構わないと考えているのがドイツ人の大半であること等々。
次々と暴かれるドイツの真相を知れば知るほどに、表題のようにドイツに学ぶことなんぞ、もはや無いという結論が出てくるのだった。
2009年5月から施行される裁判員制度。重大な刑事事件の第一審を6人の裁判員と3人の裁判官で"事実の認定""法令の適応""量刑の判断"を決定しなければなりません。そんな裁判員制度、なぜ日本でしなければならないのか、誰が得をするのか、もしかして一定数の利権の為に国民が利用されるだけなのか、反対賛成という議論ではなく、施行する事で社会がどう変わるのかをドグマ的メモとして言及したいと思います。 (半分パラノイアです)
まぁ、一般的に知らないのが当たり前だと思います。「法律なんか分からない」「私には無理だよ」というのが大多数ではないでしょうか。しかも、マスコミ、特にTVや新聞で報道される過激な犯罪、無罪を主張する被告人、嘆き悲しむ被害者遺族の姿、少年犯罪などを見て勝手に、「最近では、変な犯罪が増えたよね~」などと思い込まされているし、悪いことをすれば、全員が逮捕され刑務所に入れられると思っていたりもする。
しかし、マクロ的に見ると全く違う。むしろ逆のロジックなのかもしれない。逮捕されたところで刑務所のキャパシティが決まっているので数パーセントしか入れられない。少年院を合わせても想像以上に少ないのが現状だろう。
それからマスコミで報道される事件というのは、万人受けする記事を書く上での選別をしているので、つまらない殺しとか、話題性のない強盗とかは一切取り扱わないし、教育上使えるものを選んでいる程度だと思われます。だから実際裁判員として法廷で担当する案件はもっとえげつない事件に当たる可能性は十分にあります。
例えば、4人で銀行強盗をして帰りに仲間3人を殺したなど、マスコミでは報道していない(できない)事件を目にすることになると思うし、事件現場の写真や、証拠写真、バラバラ遺体写真も見ることになるかもしれない。言うまでもないが、これもTVで見ることはできない。
そもそも日本というのは、犯罪率や再犯率が非常に少ない国であります。重大事件といっても年間で何百件程しかないですし、その内7割が全面自供をしているので、裁判員として法廷に参加しても、7割の確立でただ見ているだけという授業参観状態になると考えられます。国民が想像している「無罪を主張している被告人」などというのは1%にも満たないですし、それがマスコミで話題になり報道されるので、人々が誤解をし勝手なイメージで司法を捉えてしまっているのではないでしょうか。
刑事事件というのは、警察が逮捕して検察庁に送られます。そこの執務室で検事が起訴するかを判断します。起訴された被告人は裁判所で裁かれる流れなのですが、この時の裁判所での有罪率が99.9%と言われています。ということは、検事が起訴すれば有罪。逆にいうと、犯罪者でも起訴されなければ無罪になるということなのです。つまり、裁判所で白黒を決めているのではなく、検察で有罪か無罪かを決め、裁判所で量刑を決めているのです。
少し話が脱線しますが、被害者遺族が法廷で被告人に質問などができるようになりました。しかし、この制度も明らかに奇妙なのです。例えば、こんなシーンを見た事ないだろうか。自分の子供を殺された母親が被告人を恨んで殺してやると涙してる姿を。しかし、実際にはこんなケースは希有で、殆どの殺人は身内殺人や遺族殺人ですから意味がないのです。しかも、色々時間掛けて参加しても最終的に無罪になれば被害者遺族は無残な事になります。このことから被害者参加の意味というのは私には理解ができないのです。
ご存知だと思いますが、国民の殆どが裁判に興味がなく参加したがらないのが現状です。これは施行後も変わらないでしょう。なのに裁判員制度は走りだしています。検察も弁護士も判事も政治家かも、これといって得をする組織がありませんし、国民も得をするとは思いません。
今までの司法村のあり方にガタがきているからか?グローバル化によって日本が静寂してるからか?いくら考えても何の為に施行するか考えつきません。個人的には、裁判官と話ができるし、法廷の雰囲気を体感できるので前向きに参加するのでいいのですが、俯瞰的に見たときにこれといった理由が思い浮かばないのが結論です。
ここからは私の理想論なのですが、裁判員制度を施行するのであれば、もっと国民が司法に介入してもいいのではと思っています。今の裁判員制度だと一生に数回しか参加できないですが、国民一人ひとりが裁判員を年に1回参加する頻度にすればいいのではと考えます。確定申告みたいに。そして、取り扱う案件も幅広くし、裁判官の人事権も参加できるようにすれば良いのではないでしょうか。つまり、社会の当たり前として考える事により色々解決すると思う訳です。具体的に何が変化するのか考えて見ました。3つあります。
一つ目は、大企業は勿論の事、中小企業や個人で仕事している人でも裁判員制度で穴が開くことを前提で仕事を組み立てようとします。そのことで働きすぎの企業体系も、仕事のあり方すら変化するのでは考えます。
二つ目は、司法村の改革です。重大事件以外も裁判員制度にすることで保守的な司法をオープンにできればと願います。
三つ目はは、国民一人ひとりの意識改革です。日本人は極めて傍観者的であり、お任せ意識が強く、何事にも関わろうとしません。昨今では、グローバル化で日本は先進国と言われていますが新興国の追随で、このままでは淘汰の可能性もあります。裁判員制度をきっかけに、銘々が少しでも自立し国全体の温床になればと妄想します。
ショッキングな事に、裁判官は法律を調べて量刑を決めていません。判例と比較して量刑を決めているのが実態です。なぜかというと、司法村で個性的な事(判例を無視した量刑)をすると左遷やクビになるからです。冒頭で述べたように、基本的に検察が白黒を決めているようなものなので、裁判所ではセレモニーが行われているだけなのです。判事にとってノルマは絶対ですし、仕事を溜めるのはご法度、勾留を却下することもできない、そんなマニュアルを見ているが如く流れ作業をしている判事なので、裁判員制度くらいでは保守的な考えは直らないだろうと思う訳です。
何が言いたいかと申しますと、例え裁判員(素人)が参加したとしても、3人の裁判官の内一人でも無罪に入れないと過半数でも無罪にならないことから、判事は絶対の権限を持っていますし永山基準は変わらず、保守的な形態は緩和しないのではと懸念します。
先ほどでも述べましたが、私としては、判事の人事権や重大事件以外(勾留判断とか)でも国民の監視下に入れることにより、ブラックボックスの司法村の透明化、国民のインセンティブ、国の温床になると考えますので、やるのであれば徹底してやるべきだと私は思う訳です。
反嫌儲の腐れデジタルミレニアムコピーワンス搾取はてサのクソどもはいいかげん嫌儲に歴史と理論がある事を知れよアホが!!著作権を振りかざた権威にひれ伏す権力の犬である腐れデジタルミレニアムコピーワンス搾取はてサどもよ、おまいらは打倒されるべき抑圧貴族階級に過ぎん!!何がゆとりだ。腐れデジタルミレニアムコピーワンス搾取はてサ老害こそ文化を独占資本化する帝国主義者だろうが!!
http://www.ezweb.co.jp/~higan/
サイバー反体制派、エレクトロニックフロンティアファウンデーション共同設立者
産業世界を牛耳る政府どもよ、お前たち肉と鋼鉄でできたか弱い巨人どもよ、私は新しい精神の住処、サイバースペースの住人だ。未来のために私はお前たち過去の人間に要求する。我々のことは放っておいてくれ、と。お前たちは我々にとって歓迎すべからざる客だ。我々の集まるところでお前たちの権威は通用しない。
我々は選挙によって選ばれた政府など持たないし、また持つ気もない。従って、私がお前たちに向かって語りかける言葉には、自由が常に語ってやまぬ言葉以上のいかなる権威も含まれていない。そこで私は宣言する。我々が建設中のグローバルな社会空間は当然ながらお前たちが押しつけようと画策する専従体制からは独立している、と。お前たちは我々を規則で縛ることが出来るような道徳的な権利など持っていないし、また我々が真に恐れるに足るようないかなる強制手段も持ち合わせてはいない。政治は統治される国民の同意があって初めて力を持つ。お前たちは我々の同意を促すこともできない。我々はお前たちを歓迎しない。お前たちは我々のことを知らないし、我々の世界も知らない。サイバースペースはお前たちの引いた国境の中にありはしない。公共の建設事業か何かのように、自分たちで作ってしまえるなどと思ったら大間違いだ。そんなことはできはしない。これは自然の営みと同じで、我々の共同の行為と通じて自然に成長していくものだ。
お前たちは我々の大いなる集団の対話に参加したことはないし、また我々の豊かな市場の富を作ったわけでもない。我々の文化も知らなければ、倫理も不文律も知るまい。それは、お前たちが押し付けるどんな強制よりもはるかに多くの秩序を我々の社会に現にもたらしているものだ。お前たちは我々の世界に解決すべき問題が存在すると言う。そしてそのことを口実にして我々の世界を侵略しようとしている。お前たちの言う問題の多くは実際には存在しない。本当に摩擦があり、問題点があれば、我々はそれを認めて我々なりの方法で対処するだろう。我々は我々だけの社会契約を作りつつある。我々の世界の統治は我々の世界の諸条件に応じて自然に発生する物であって、お前たちの勝手な条件から生まれるものではない。我々の世界は違うのだ。
サイバースペースは様々な商取引、関係、そして思考そのものからできあがっていて、それが我々のコミュニケーションのウェブの中にまるで定常波のように隈無く広がっている。我々の世界はいたるところにあるとともにどこにもない。ただしそれは肉体が住める場所ではない。
我々が作りつつある世界はどんな人でも入ることができる。人種、経済力、軍事力、あるいは生まれによる特権や偏見による制限はない。
我々が作りつつある世界では、誰もがどこでも自分の信ずることを表現する事が出来る。それがいかに奇妙な考えであろうと、沈黙を強制されたり、体制への同調を強制されたりすることを恐れる必要はない。
お前たちが考える、所有、表現、自我、運動、前後の関係(コンテクスト)に関する法的概念は我々には適用されない。それは物質に基づくものだからだ。我々の世界に物質は存在しない。
我々の自我は肉体を持たない。だからお前たちと違って、我々は肉体的強制によって、秩序を獲得することは出来ないのだ。我々の世界の統治は、倫理学、啓蒙的な利己主義、連邦体制といった土台から生じるであろうと我々は信じている。我々の自我はお前たちの法的権限が及ばない多岐にわたる領域に分散して存在する事が出来る。我々の世界を構成する様々な文化が唯一一致して認める法は「黄金律(汝の欲することを人にもなせ)」しかない。我々はこれを基礎にして個別の問題の解決を見出そうと望んでいる。しかしお前たちが押しつけようと図る解決法は到底受け入れられない。アメリカでは、お前たちはテレコミュニケーション改革法案なる法律をでっち上げたところだ。これはお前たち自身の憲法を否定し、ジェファーソン、ワシントン、ミル、マディソン、トクビィル、ブランダイスらの描いた夢に泥を塗るのに等しい行為だ。この夢は我々の世界で新しく生まれ変わるに違いない。
お前たちは自分たち自身の子供に脅えている。子供たちはサイバースペースのネイティブなのに、お前たちの方はいつまでたっても根付かぬ移民のままだからだ。この子どもたちを恐れるがゆえに、お前たちは、自分たち自身では卑怯にも真正面から引き受けることの出来ない親としての責任を官僚たちに委ねるのだ。我々の世界では、人間性に関わるあらゆる感情やその表現は、下劣なものから崇高なものまで、みなシームレスな全体を形作る部分であり、ビットによるグローバルな対話の一部なのである。人を窒息させるのも空気なら鳥を舞い上がらせるのも空気であり、両者を区別する事は出来ない。
中国、ドイツ、フランス、ロシア、シンガポール、イタリア、アメリカで、お前たちはサイバースペースのフロンティアに番兵を立たせて自由のウイルスの侵入を何とか食い止めようとしている。それで少しの間は感染を防げるかもしれないが、まもなく世界中がビットメディアに覆い尽くされれば、それも無駄になろう。
お前たちのますます陳腐化する情報産業界は、延命を図ろうとアメリカやその他のいたるところで自分たちの主張を世界中に通すための法律を作ろうとするだろう。その法律とやらは、アイデアもまた別種の工業製品だとのたまう。それは高炉から流れ出た鋼鉄に比べてちょいとばかり高級などというものでは何らないというわけだ。しかし我々の方では、人間の精神が作り出せるものはすべて再生産できるし、また無償で無限回分配することができる。思考のグローバルな伝達にはもはやお前たちの工場の完成を待つには及ばないのである。
このような、陰険で植民知的な措置のおかげで、我々はかつての自由と自己決定を愛した人々と同じ立場に立たされている。かつてこの人々たちは遠くから何の説明もなく権力を揮う政府に対し異議を唱えねばならなかった。我々はここに何としても宣言せねばならない。我々のヴァーチャルな自我はお前たちの権力に対して免疫抵抗を持っている、と。たとえ我々は我々自身を地球全体に分散させているから、誰にも我々の思考を捕縛することはできない。
我々はサイバースペースに精神の文明を作り上げるだろう。そしてそれはかつてお前たち政府が作り上げた世界よりもはるかに人間的で美しいものになるに違いない。
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