はてなキーワード: 仏教語とは
日本は無宗教ではなくて多神教である、ちまたにあふれる宗教イベントを見よ・・・と思っていた。
因果応報という仏教思想は意外と日本人に根付いているのではないか?思うことがある。
元いじめっ子の子どもが他の子に虐められるのが因果応報というようなコメントを見てのことである。(日帝の子孫には何をしても構わないという反日の人を笑えない)
https://dictionary.goo.ne.jp/leaf/idiom/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E5%BF%9C%E5%A0%B1/m0u/
人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。▽もと仏教語。行為の善悪に応じて、その報いがあること。現在では悪いほうに用いられることが多い。「因」は因縁の意で、原因のこと。「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのこと。
よく見ると「もと仏教語」と書かれている。
元だろうと現だろうと、行為の善悪に応じて、その報いがあるという目に見えない法則というのは宗教的に感じる。
宗教的な感覚を抜きにしたら、あるべき姿や善悪に関わらず起きることは起きるという当たり前の思想になるのではないか。
例えば逮捕されなかった殺し屋の未来が幸せな人生か不幸な人生かは分からない。それを、人を殺したら後で自分自身が苦しむという法則で見なすのが因果応報という事だろうか。
これはやはり宗教的な考えではないだろうか。
因果応報という考えが嫌いとか嫌いではないとかそういう話をしたいわけではない。
全世界から見ても、日本人のTwitter好きは極めて異常らしい。熱心な情報発信家が多いのか、構ってもらいたい子ちゃんが多いのか、はたまた常に何かに怒ってらっしゃる方が多いのか、いずれにせよソーシャルメディアは盛況である。
ただ、よく思うのが、「ここまで言って委員会?」的な発言が多く見られるってことだね。ネトウヨにせよブサヨにせよ、未だに続くデザイン盗用疑惑の件にせよ、「そこまで言う必要があるのかね?」と思えるような書き込みばかりが目立つこの頃だ。
なるほど、意見など目立ってなんぼのこの世の中。「こんなご時世だ、つぶやくぐらいなら罪にはなるまい」と考えるのは当然至極か。
だが、それが正論であれただの誹謗中傷であれ、読む者の心象を著しく害するような発言は、必ずその文章を書いている者の心をも蝕んでいる。
「人を呪わば穴二つ」とはよく言ったもので、天を仰いで唾を吐けばその唾液は己の顔目がけて落下する。気分を害するのは、巡り巡って己自身となるわけだ。
不満を垂れ流す人は誰も幸せにはしない。そんな不満の源流にいる人をも侵食する。水面に広がる波紋は、打って返しては再び集まる。これこそ因果応報を絵に描いたようなもんだな。
そして、さらに悪いことには、悪辣な私見が拡散される度に同調する人が増える。これが同期というやつで、結果的には共倒れになる。
いつも粗探しに余年のない政治家、怒りばかりを口にするデモ隊、小言の絶えない奥様連中、この人達の共通点と言えば、どこから見ても幸せそうには見えないことだ。(口角下がって眉間には深いシワ、おおよそ幸福の人相ではあるまい)
そりゃそうです。因果応報はただの仏教語ではなく、この宇宙自然の法則なのだから。
良いと思ってやったことでも、そうではないことは多くある。知らぬ間に蓄積しては、気付いたときには猛毒になっている。くわばら、くわばらだ。
私はブログを見てから、twitterの反応を見たので件のブログの著者に感想が偏っていることを前置きした上で
へぇーそうなんだと、ネットで調べられる範囲で確認してみると、確かに仏教用語で漢字で書く「馳走」の意味合いが含まれる事がわかった。
ただ、増田のいう「無償で」という意味合いは必ずしも強く含まれているようには感じなかった。
もちろん、「馳走する」「もてなす」「振る舞う」ニュアンスに「無償で」の意味が含まれなくもない感じはあるけど、それでも由来が「馳走」であってここでいう「ごちそうさま」という言葉に「無償で」というのは強くは含まれないような感じをうける
これについては増田も
もちろん、現在ではこうした意味合いは薄れ、提供された食事に対する汎用性の高い感謝の言葉として通用していることは承知している。
と、あるので重箱の隅をつつくようでもうしわけないが揚げ足をとるつもりはない。
たしかに、世代によっては「無償で」という意味合いが含まれるものに関して「下卑た」イメージがつきまとう節はあると思う。
ただ、それこそ元の由来を踏まえるな「腐心して馳走」してくれたものにそのイメージは持たないだろうと思う。
増田は
とあるが、私はそうは感じなかった。
どちらかというと
どんな時でもごちそうさまという食事への感謝を表す言葉を著者がイメージするマナーや教養を持ちあわせいるであろう、そこそこの所得があるであろう人たちよりも、著者やがイメージするマナーや教養を持っていなさそうな低所得者層に見える人たちの口から発せられているのに著者の今までの先入観を崩され『悪くない風景だ』
という風に読めた。
「日本語の作文技術」で書かれていた要素に分解した書き方をすると
この時の「ごちそうさま」という言葉にはたぶん、増田のいう「無償」「下卑た」という意味合いは含まれいないと思う。
このあたりは増田も書く通り、
ので、私の憶測なのだが元のブログの著者が最後に書いていたように増田のような取り方の人もいれば私のような取り方の人もいるのだろうと思う。