そうか……、アンタ下方婚に「魅せられ」ちまったんだな……!
タレと塩の二択でタレを選ぶ奴は信用できない
「自由には責任が伴う」というのは単なる「現象としての事実」では? 「かくあるべきか、否か」として扱われている限りどちらの言説にも肩入れできないかなぁ。
私は不自由だと思う。というのは、未成年というのは良くも悪くも責任を取れない存在だから。「責任を取る能力がない」のもそうだけど、それ以前に責任を取ることが立場として許されない。それを自由と受け取るのか、不自由として受け取るのか、評価の分かれるところだと思うけれども。
私が思うに、責任とは自由の根源であるのよな。自由の後に責任が産まれるのではなく、因果が逆。責任があるから自由が産まれる。
ただ世の中には「他人から押し付けられた責任」というのもあって、それは別に果たす必要のないものだと思うけど。それはそれで別の議論じゃないのかなぁ。その時、本題は「その責任とやらは誰の責任なのか?」であって、「彼に責任があるのか?ないのか?」にすり替えるのは議論の大枠からズレてる気がする。
「タトゥーを彫った責任」だの、「エログロを表現する責任」だのがそれ。理不尽な差別に晒された時、「差別を批判する」という責任の果たし方もある。「私にそんな責任はない」ではなく、「お前の責任を放棄するな」と返すべきじゃないのかな。
一方で、これは「自由は必ずしも人を幸せにしない」ことも意味してるのよな。子供がなぜ不自由なのかといえば、そりゃ大概の子供は(よほどの早熟でない限り)責任能力に劣るからだ。「責任を求められるくらいなら不自由である方がマシ」という人は、一定の割合で常に存在すると思う。
人は自分のキャパシティを超えた責任を放棄したがるし、それに伴う自由を謳歌する他人を「不公平だ」と引き摺り下ろしたくなる。キャパシティの大きさは人それぞれだし、「大きいか、小さいか」では測れない連続的な量をとると思う。
社会が自由であればあるほど世の中は弱肉強食に近づくし、弱者に優しい社会であればあるほど監視社会は間近に迫る。でも強者が弱肉強食を望んでいるかと言えば必ずしもそうではないし、弱者だって監視社会の息苦しさに耐えられるわけではない。みんな強者になりたいんだよね。
結局何が言いたいかと言うと、みんな、自分のキャパシティは大きくとれるようにしような。勉強して力をつけような。強く生きような。自分のために。他人のために。
だから後ろにつけてるときにベル鳴らしたって警官は取り締まらねぇって言ってるだろカント主義者か?
って言うかいちいち自転車止めて降ろす方がクレームの原因になるし自社の仕事じゃないものを「オタクの工事」面する方がよっぽど怒られるわ
そして給料もらってる以上給料以上の仕事は絶対にしねぇわ(激ウマレトリック)。実務の知識ねぇ奴が他人を再教育しようとすんな