はてなキーワード: 眼高手低とは
文章が書けるかといえば書けないのだけど、今から絵の練習をするぐらいなら文章の練習をしたほうがマシな気がする。
文章の練習というと「気に入った作家のいいと思った文章を真似してみろ」なんてのが有名だけど、問題になるのは私が文章を読むのがあまり好きじゃないってことだ。
自分が件の練習法を聞いて思いつくのは梶井基次郎の「桜の樹の下には 屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。」ぐらいのものだ。
梶井基次郎も教科書に乗っていたから知っているだけで全文読んだことがあるのは教科書に全文載っていた檸檬ぐらいだ。
好きな作家といわれても恒川光太郎ぐらいしか思いつかないが、彼の世界観は好きだが文章が好きかと言われるとそうでもない。
練習のための資料探しに大して好きでもない本を必死に読むというのもなんだか阿呆らしい。
基本的に娯楽で本を読むときは漫画を読むし、勉強のための本は挿絵が多いものを選ぶ。
文字だけの本は苦手なのだが、文字による表現を学びたいなら文字だけの本を読んで気に入った文章を探す必要がある気がする。
私は趣味として創作がしたいので、出来ることならその行程の大部分は楽しい時間を過ごす形にしていきたい。
漫画を読むなら漫画を描けばいいという発想もあるのだが、前にそれをやって絵の練習で完全に躓いた。
とにかく手先が器用ではないので線がまともに引けなかったし、モノの輪郭や特徴の捉え方がよく分からない。
自分の美術の成績は概ね「2」だったことから才能がないのは知っていたが、まさか本当にモノを見るという機能自体がここまで劣っていると思わなかった。
そもそも絵を見ていいと思ったこと自体が実はあまりなく、自分の中で絵の美味い漫画家は大暮維人と荒木飛呂彦なのだが、それがどう上手いと感じるのか分析しようとしても「綺麗な線が沢山描かれてるから」ぐらいしか分からない。
美術や芸術を見てもピンとくることはなく、せいぜいがミュシャを見て「アニメの絵みたいで可愛い」と感じるのが精一杯なのは流石にどうかと思うがそうなのだからしょうがない。
眼高手低とはよくいったもので、こんな自分が「漫画を描いてみたい」と考えると脳裏に浮かぶのは藤本タツキのようなとんでもない作品だ。
藤本タツキがその昔新都社で描いていたよく分からない漫画ではなく、今現在描いているルックバックのような作品だ。
でも自分がアレを作ろうとするなら一生かかっても無理だろう。
もし突然神様が同じレベルの技術をくれても、背景を描くのがしんどくて無理だろうし、フリー素材の張り合わせで背景を代替しようとしても選ぶのが面倒で投げ出すだろう。
自分のやる気の範囲で出来るのはせいぜい背景が真っ白で棒人間が何かを喋っているような漫画でしかない。
そういったいわゆる「白ハゲ」とされるような漫画を描く場合は、たいてい世の中に訴えたい事がなければいけないと思うのだが、それがあるわけでもない。
何か作りたいものがあるのではなく「創るということをやってみたい」という気持ちだけがあるのだ。
行き詰まっている。
消費するという行為に飽きが来ているので創作を始めたいというただそれだけの動機から次はどこに行けば良いのかが分からない。
キャンプや釣りなんかは試したが、あれも結局は消費活動の一種であることに気づいてしまうとなんだか虚しくなって今は退屈さしか感じない。
そもそこれは鬱なのではないだろうかという気さえある。
行き詰まっている。
https://anond.hatelabo.jp/20200629213448
おけパ中島がバズリ
https://twitter.com/sanada_jp/status/1269465337675698176
https://anond.hatelabo.jp/20200706042509(感想屋そのものには誘導したくない)
要約すると、
『とても文章力のある感想書きが界隈を席巻してしまった』という内容の愚痴増田が話題になる
↓
神字書きと字書きを題材にした創作漫画の登場人物『おけけパワー中島』に注目が集まる
↓
有償でポジティブな感想を書きますと言いだした『感想屋さん』を名乗る人物が、サービス内容の不備や文章の稚拙さおよび返金対応への不誠実さなど千々に炎上
ここ一週間ほどの間で、以上のような文脈が発生した。
この結果、感想屋という文言に幾つかの意味合いが発生してしまい混乱を招いたり、炎上したものと似た屋号のサービスへの悪影響が心配されたり、純粋な長文感想書きが誤解から心を痛めたりしている。このあたりは個々に注意されたし。また、有償の『感想屋さん』の問題点については羅列していったらきりがないので、特別に記述はしない。
前置きが長い。
私はオタクである。特に創作はしていない。時折、特に萌えを感じた時に短文を書く程度の人間である。昔長文を書こうとしたが冒頭三千字を書いたあたりで挫折し放置している。その上特に交流もしていないし、感想も書かない。一言で言えば、ROM専である。
それなのに、私には妙な自信があった。それは言葉にするならば、「俺だって本気出せば書ける」。小説はそれなりに読むオタクだから、ちょっとした文章ならば書ける。商業のような文章は無理でも、なろう程度なら。書評は無理でも、紹介文くらいなら。また嫌なことに、学生時分は図書委員会だの新聞委員会だので短文を書いて「本を読む人だから文章がうまい」と言ってもらって有頂天になったりしていた(今自分で思い出して、あれはお世辞だったのだろうと恥じ入っている)。
そんな私が、ここ一週間の流れを追って、何を思ったか。
まず増田を読んで、二次創作するオタクは大変だなあ、と他人事のように思った。
二次を書き、二次を読み、交流し、その動向に一喜一憂する。どうも大変そうだ。ROM専はその点気楽でいい。だが、まあ、感想というのは良くも悪くも人に影響を与えるものなのだな。時には感想を書くのも、善行かもしれない。そのように思った。
次におけパ中島に触れた。
最初は創作物として面白く読み、リツイートした。その後おけパ中島が話題になっていることを知り、もう一度、我が身我が事として考えてみた。私にとっての神とは誰だろう、おけパは誰に当たるだろう。実際に当てはめてみると、ツイッターでつぶやかれている感想は、なるほどもっともと思えるものも多々あった。私の悪いところは、ツイッターにすぐ感化されるところだ。オタクの嘆きに共感し、すぐに自分で考えついたように錯覚する。私は、まるで自分が主人公になったかのように(馬鹿げたことだ)酔いしれ、おけパ中島への薄っぺらい恨み節をツイートしてみたりした。
感想屋が出してきたものは、かなりひどいものだった。界隈のオタクの気持ちを踏みにじるものだったし、何より悪文だった。それは野次馬である私にさえわかるものだった。下手くそで、金を取るような文章ではなかったし、そも人に見せられるような文章ですらなかった。
その程度の文章に、私はひどく動揺した。
何が私に衝撃を与えたかって、それは、その悪文が、私の書くものに途方もなく似通っていたことだ。
いや、あそこまでの悪文ではない。ない、と信じたい。下ネタを好まないゆえにあそこまでの下劣さではない、はずだ。
だが、似ている。文章の構成が、筆の運びが、何より配慮の欠けた思考回路が。私もかつてこういう文を書いて、自信満々に教師に提出したことがなかったか。こういう感想を、臆面もなくファンレターとして出しやしなかっただろうか。その稚拙な文章が他人を傷つけていたかもしれないことを、否定できない。
それは、他人よりも本が好きだという自負だ。小説を読むのが好きなことと、文章を書くのが得意なことを、取り違えて混同した、おぞましい勘違いだ。その上、私が読むのは『他人に比べて』多い程度であって、誇れる程ではない。何一つ、誇れることなどなかったはずだ。眼高手低とはこういう事を言う。
私は自分の文章に向き合ったことがあっただろうか。何度も推敲し、多面的に読み直し、練り上げた文章を書き上げたことなど、一度でもあっただろうか? そう問うてみれば、一度もなかった。この文章だって、ほとんど読み返さず、激情のままに綴っているだけだ。プロットも、描写力も、考えて作ったことなど、一度もない。
私自身が、物事を考えたことはあっただろうか。物語を読んで、薄っぺらい表面的な理解をしてすべてを分かった気になったことは。まるで自分で考えたかのような顔をして、他人の考察を口にしたことは。私は、私自身の無能と向き合った事が、これまでに一回でもあったのか?
これは恐ろしい事だ。誰かにとって恐ろしいのではない。タイムラインのオタクにとって恐ろしいのではなく、創造上の誰かにとって恐ろしいのではなく、私にとって恐ろしい。誰かではない。私の恐怖だ。私の足元が崩れ、私の心が崩れている。他人事ではない。それが、こんなにも恐ろしい。
私は今、パソコンでエディタを開いて、この文を書いている。隣にはもうひとつウインドウが開いていて、そこはまだ新規ファイルのままで、まっさらだ。そこに、小説を書いてみようと、思っている。
私は感想屋にすらなれない。
『なれなかった』と、過去形にしたい。今、切実にそう思う。せめて自分に誇れる自分でありたい。
そして、今度こそ。
自分で読み返してひどいな、これ。