はてなキーワード: 水平思考とは
このジュゲムの話、前に読んだことあるなって思ったらコレだった。
(略)
マリオ64を開始し、冒頭でピーチ姫からの招待があり、次に画面に映し出されるキャラクターは、なんとジュゲムである。マリオでなければクッパでもない。Lさんに至っては最初から最後まで出てこない。なぜ、単なる雑魚キャラに過ぎなかったジュゲムがこのような扱いをされるのかと言えば、彼が、カメラを携えているからである。
マリオ64というゲームはゲームの冒頭からカメラの存在、そしてカメラを操作する必要性をプレイヤーに宣言することから始まるゲームなのだ。
(略)
中身は違うけどね
非常にマイナーなゲームで知る人ぞ知る「ウミガメのスープ」というゲームがあるのだが、はてなerの人達なら知っている人も少なくないだろう。
このゲームは水平思考を鍛えるゲームとして一時期ネットのライフハック()クラスタの話題を総ナメにしたけど、今となってはもう過去のゲーム。
未だに出遅れた一部の人間がプレイしているものの、古参はすっかり居なくなってしまったのが実情だ。
ウミガメのスープに着想を得たと思われ、おそらくウミガメのスープの128倍は有名なゲームakinatorも今ではすっかり名前を聞かない。
ウミガメのスープの人気が失われた原因の一つにそもそもキャッチフレーズでもある水平思考を鍛えるという文言に胡散臭さが漂っていたことは否めない。
水平思考は論理的思考(垂直思考)の対義語で、ロジカルシンキングだけではカバーできない思考領域を補完するものとして現れた、ということになっている。
水平思考ではアイデアを大量に広く考えることを求められる。これはロジカルシンキングの前工程にくる「仮説立案」のステップを鍛えているという位置づけである。
なるほどいくら論理思考によって仮説を論理的に検証できても、そもそも独創的な仮説、固定観念に囚われない仮説を考える能力がなければ駄目というのはその通りである。
そういう意味では水平思考が一部で話題を集めたのは良い傾向だったのだが、いかんせん水平思考を鍛えるゲームの質が悪すぎた。
繰り返すがウミガメのスープというゲームなのだが、これはやったことのある人なら分かるだろうが発想力がそれほど鍛えられない。そして時間がとんでもなくかかる。
さらに出てくる問題のパターンが決まっており経験者なら8割以上の問題に既視感を抱くことだろう。問題のパターンが決まっているため解き方もほぼ決まってくる。
こんな具合であるから、「これでは水平思考が鍛えられないわな。流行らないでくれよ。」と私は世間で話題になりかける頃に思ったものだ。まぁ流行りはしなかったが。
それでもゲームとしては面白いから一昨年までは時には徹夜までしながら連日熱心にやり込んでいたものである。
それが昨年になって完全に下火となって、私は相手が居なくなったこともありすっかりやる気を失い全くやらなくなってしまった次第である。
ウミガメのスープが水平思考ゲーとしてはクソゲーなのは分かったが、じゃあどんなゲームなら水平思考が鍛えられるって言うんだい?と思った人は多いだろう。
あいにくゲームではないが、例えばこんな習慣を身に付けたほうがウミガメのスープなんてやるよりもよほどマシである。
人間は意識せずとも心の中に思考が浮かんでくることがある。これを心理学では自動思考と呼ぶが、自動思考は明確に意識されないことが非常に多い。
自動思考は意識せずに発生するわけだが、発生した自動思考を意識することは可能なのであって、意識することで発想力の幅が広がるのである。
例えば、みんなに嫌われている人がいるとして、その人に対してなんとなく「意外といい人だな」とチラッと思っても、理性が「いやそんなはずはない」と打ち消して忘却の彼方に追いやってしまう。
しかし、後にその人と仲良くなってそこで初めて、以前にいい人だという印象をチラッと持ったことがあるのを思い出す。そういった経験があるはずだ。
そういうなんとなく思った自動思考をなるべく捕まえて明確に意識してみよう。さらにここが大事なのだがそれを5秒で言葉にしてみよう。
なぜ5秒かというと時間が経過すると自動思考を忘れてしまいやすいだけでなく、印象が理性によって塗り替えられてしまうからだ。
塗り替えられて改ざんされた自動思考はもはや原型をとどめておらず、常識や先入観にまみれたつまらないものになっているだろう。
だからなるべく速く言語化して元の感覚が色あせても思い出せるフックを作っておくわけだな。
フックとしての役目を果たすためにはなるべく独特な表現を使うのがいい。「意外といい人」では月並みすぎる。
「ライオンのようないい人」はどうだろう?ライオンのように乱暴そうに見えて、実は気がやさしい、という意味である。
最近ようやく仮説思考が新常識として浸透してきた感があるが、お前らちょっと待ってほしい。
仮説思考を結論ありきで思考することと混同してないか?
本来仮説思考とは、確からしいと推測される仮説を「複数」立てて、それぞれの仮説を検証した上で、最も妥当な仮説を決定するというプロセスのはずであって。
最初から1つの仮説しか念頭にないのでは単なる決めつけと同じ。馬鹿丸出しもいいとこである。
経営コンサルでありビジネスにおける意志決定の開拓者の一人でもある飯久保廣嗣さんは「複数思考」ということをしきりに言っている。
シンプルイズベストは真理だが、複数思考を経ないシンプル思考はただの思い込み。馬鹿丸出しということである。
君はGoogle面接で「ロジカルシンキングだけでは何が駄目なのか?」と問われたら何と答えるかね?
模範解答は「ロジカルシンキングでは仮説を立てることができません。ですから、先入観で立てた仮説に縛られてしまいます。」である。
厳密には統計分析を駆使すればロジカルシンキングで仮説を立てることは出来なくもない。
将棋棋士も感覚でまず仮説を立てる。味の良さげな筋をいくつか「第一感」で捉えて、それを「読み」と言って詳しく調べていくのだ。
複数思考には感性は欠かせない。
感性もその人の偏見だろ!思い込みと一緒じゃないか!と怒り狂う奴がいそうだが、少し違うのだよ。
思い込みは本人の願望。そうであってほしいという欲があるから、決めつけが発生してしまう。これでは複数思考じゃなく単一思考にしかならない。
感性というのは願望だけでは決まらない広がりのある世界。だから複数思考が可能になる。
ラテラルシンキングを育てるのに、「ウミガメのスープ」というゲームがあるが、俺はこのやり方には断固反対だ。
確かにいろんな可能性を考える力が育つ。だけど実践的ではない。なぜなら人間の仮説立案には、先ほども述べたように願望に強く引きずられる性質があるから。
社会心理学における帰属のことを思い出してもらえると、このことがよく分かるだろう。
ウミガメのスープはフィクションのお話なので自分に直接利害のない話ばかりであり、願望に引きずられずに仮説立案する力が育たないのだ!!
結局のところ、ウミガメのスープは頭のよい人達が現実の人生で行っている思考プロセスを誰でも再現できるように生ぬるくしたものに過ぎない。
いまめまぐるしいネット社会なので不特定多数と短文でコミュニケートするのが常識になっている。リアル社会においてもその傾向は少しずつ加速している。
そんな時代においてシンプル思考が重んじられるのは当然のなりゆきであるが、
複数思考がないがしろになってシンプル思考だったはずのものが単なる決めつけに堕してしまってゐるのもまた事実である。
シンプルな主張は、それをバックアップする論理構造や事実確認、それから事実を幅広く見渡す視野があって初めて価値がある。
結論ありきの単一思考しか出来ない馬鹿は、そうした思考過程を丸ごとすっ飛ばして主張するから始末におえない。
複数の仮説を比較するという発想がまるまる欠けている。
彼らがもし対立する仮説を提示された時には、公平に比較する代わりに、相手が間違っていると最初から決めてかかって難癖をつける。あしらう。
確かに、短文コミュニケーションが主体の現在のネット社会では、それがスマートなやり方と言える。
しかし、人生全体を考えた場合には、バカもバカ、大バカである。
ネットのノリで結論ありきで排他的に何もかも丸め込むようなやり方でしか思考できなくなったらもう重症の2chねらー。
残念ながらここ数年、リアルの人間を見ていてそういう2chねらーが急速に増えてきた。
向こう数年、人類が正常な進化を遂げるには、正しい仮説思考の普及が危急される。
賢い人はどうしてるか?賢い人は、ネットでは結論ありきの態度でいるが、それは演技であって頭の中ではちゃんと思考しているのだ。
それが可能なのは、賢く現実問題を解決できる分、色んなことを考える余裕があるからなんだよ。
バカどもはとにかく余裕がない。余裕がないから短絡思考が当たり前になる。
人間敵にバカだなと思う人に水平思考のスクリーニングテストを実施すると高確率で低得点になる。
これの意味することはすなわち水平思考とは人間力なのだ。人間力と密接なのではなく人間力そのものなのだ。
垂直思考とは論理思考に他ならないが論理にこだわり過ぎると一般に人間的な未熟さを露呈し始める。
一般に人にものを伝えるには論理が大切と思われている。人間多種多様だから違ったタイプの人間に主張を
伝えるには論理立てて話すことが確かに欠かせない。論理の使えない人間は同類どうしの狭い世界でしか
生きられない悲しい運命を背負っている。だが、こうも言えるのだ。すなわち論理とは体裁を整えて伝えやすくする
だけの役目しか持たず論理の材料を集めてくるには別の能力が必要なのだ。それが水平思考なのだ。
私は何故人々がそれぞれの狭い世界で一生を終えてしまうのか、何故思考の限界がこうも生涯にわたり
暗い影を落とすのかに興味を持って追跡調査してきた。その結果分かったのは思考観が思考の限界を決める
という事実だった。何が思考であり何が思考でないかを我々は無意識に取捨選択している。
水平思考が苦手な人はそのフィルターがきつい人であって嫌いなものが多い。最近弱々しい優男が
増えてきたこととも関係がある。嫌いだから頭皮的な行動をとってしまうのだ。彼らの人間力はどん底である。
垂直思考がかなり先天的なものであるのに対して水平思考は育ちにも大きく関係している。
狭苦しい思考観を植え付けられた人はロクな人間にならないということだ。こういうたぐいの現象は
枚挙にいとまが無いが思考観という角度から診たときにキレイに整理できることだろう。
するといくつかのタイプに思考観が分類でき、駄目なパターンとして次のようなものが浮かび上がってくる。
よくわからんからボツ、おもしろくないからボツ、根拠がないからボツ・・・。
普段からそうやって思考を狭めると多くの人は思考停止に陥る。何も考えることがなくなってドンドン雑になるのだ。
しかし一握りの人は狭いままで思考のスピードを維持でき、彼らが思考の模範としてあがめられてしまっているのだ。
他方で材料をどんどん広げる人は評価されない。何故だと思う?本当に良い材料を発見したなら評価される
と思うだろう?そうじゃないんだ。ここで先ほどから繰り返している思考観の概念が必要なのだ。