はてなキーワード: バンドマスターとは
上岡龍太郎の漫談を聞いていても分かる通り、普通の人が聞いても「何言ってんだこのおっさん」から入らなければならない彼の演芸は、ダイナミックさで矮小さを誤魔化して潜在的に世界を侮らせる現代芸能界の風潮とは合わなかったのだろう、と思う。
タモリなどはそこら辺が上手くて、プレイヤーではなくコンダクターだったりバンドマスターとしてたまにチロッと指揮棒を見せたりエセピアノを弾いたりして場の雰囲気をコントロールしていた。
上岡龍太郎は話芸に特化していた。
話芸に特化していたからこそ、途中でその限界に達した。結局、緊張と緩和にしろ、守破離、起承転結にしろ、忙しくない読者がいないと役に立たない技術だった。
#Shorts動画がそうであるように、一分以内に型をつけなければならないのが現代のエンターテイメントだ。
だから、彼が辞めた後に彼の漫談を聞き流しながら作業する方々は多い。
現代の芸人とタメを張れるぐらい愉快な言葉を話していた気もするけれど、実は書いてる最中で思い出せなくなるぐらい薄っぺらな話で、だから、それこそがコメディアンとしての彼の話芸の極地なんだろうな、と思った。
いいじゃないか、その時はナンバーワンだとタメを張れると思えていても。
どうせ、あなたが思い出せないぐらい下らない話を丁寧に丁寧に聞かされて、そして面白かったなぁと思いながら薄ぼらけた意識のまま劇場からバラエティから帰っていくのだから。
なるほど、なんて小さな豊かさを持って帰らせてくれるのだろう。
現代では監視社会に差し掛かっていて、鬱陶しがられてるやつは記録も遡られてそいつの不正を徹底的に否定される状態ではある。
それがいつ発生するかもわからなかったりするのもしんどい部分だ。
こんな時代に、あのハッタリによって作られた小さく記憶も不確かな豊かさがあったことを忘れずに生きるのは大事なことなのかもしれない。
結局ここまで書いたこともそれっぽく整えて、それっぽく書いて、それっぽく見せただけのものなのだし
合掌
幼少から続けているヴァイオリンにまつわる、悩ましい話である。
ヴァイオリンという楽器は、ピアノに次いで西洋音楽では今なお抜きにできない、重要な楽器に含まれる。
これは現在まで残っている楽器の中では最も歴史があるものの一つであり、加えて発展の過程で弓に劇的な近代化が施され、結果演奏上の制約が殆どない、豊かな表現力を持つようになったことが理由に挙げられる。
なので、ヴァイオリンの問題は楽器ではなく、奏者の問題に帰結すると。
どういうことかというと、象徴的な話として、曲を弾くときに最初からほぼ最後までツッコまれるのが音程、指が回ってないことだったりする。
というか、指の適正位置はもちろん、そもそもの楽器の構え方や弓の持ち方動かし方まで、「ここは絶対こうする、しなきゃ許さん」みたいな、まさに箸の上げ下げレベルで超細かいマイクロマネージメントの洗礼が、毎回のレッスンで待っている。
そしてそういう「基礎」と見なされるような訓練と並行して音楽的表現、つまり「曲の弾き方」も習うわけだが、これは先生の言う「ここはもっと大きく」「ここは突然弱く」「ここは弓たっぷり」「こっちは弓の毛3本で」といった指示を覚え、実践する作業に終始する。
つまり音楽的センスや解釈力を養う目的でやってるはずのことが、往々にして「先生の劣化コピー」育成以外の何者でもない状態になっていることが大半なのだ。
そういうレッスンを幼稚園保育園の頃から受けてきた結果どうなるかというと、プロアマ問わず多くのヴァイオリン弾きが歌わないで演奏しているのだ。
言い換えるなら、手先指先のコントロールばかりに注意と集中の殆どを費やすようになってしまい、それが演奏だと勘違いしている人が多い。
少しでも音楽やったことある人には信じがたい話だと思うが、事実である。
まあ自分の知る限り、そんなことが起きているのはヴァイオリンだけなので無理もない。
これが管打楽器やギターとかだと「歌ってはいるけど、歌い方のセンスが(ry」で残念賞というパターンがある。
しかしヴァイオリン弾きはそういう一般的な「下手くそ」以前のレベルで止まっているのだから頭を抱えてしまう。
それでよくあるのが「上手いけど、つまらない演奏」というやつである。
聞く所によるとその昔、某大物歌手と海外の某有名ビッグバンドが日本でコラボしたとき、日本人弦楽器奏者のレベルの低さにバンドマスターがブチ切れて、本国から奏者を呼び直したなんて話もあったり。
つまらないだけならまだいい。
これに奏者の自己顕示欲が加わって「上手いけど腹が立つ演奏」なんてのも存在するのだ!
しかもそういう演奏をする奴は高確率で「上手くなるのに百万回さらった」みたいな苦労話をひけらかす。
それ自慢になってないどころか、全然楽しく見えないんだけど。音楽、楽しくないの?
てか、小手先の微調整だけで弾こうとするから、百万回さらわないと弾けるようにならないってだけじゃんか。
そんなんで偉ぶること自体どうかしてる。
とどめは、こうしたヴァイオリン奏者の傾向は洋の東西を問わないということ。
からかわれる事はそれなりにあるが、サークルにすごくしつこくからかってくるヤツがいた。
もう、ことあるごとに身長のことからかってきて本当に嫌だった。
だけど、バンドマスター(リーダー)である手前、バンド内の空気悪くするわけにいかないから笑って流していた。
その後の飲みでもまた「ヒール脱いだらどんだけ小さいんだww」とかからかわれてすごく嫌だった。
そいつの存在が嫌でたまらない事と、就活が始まった事で、しばらくサークルに行かなくなった。
就活中も、そいつにからかわれた記憶がES書いてるときもよみがえってきて辛かった。
もうひとつ辛かったのが嫌な事にはっきり嫌と言えない自分も情けなさである。
そんな事言ったら泣いてしまいそうだったし。
直しようがない身長というものを気にしている、というのもすごく惨めだった。
心の弱点を晒す事にも抵抗があった。
しばらくサークルに行ってないと寂しくなって、また最近サークルのライブを観に行った。
からかったりはしてこなかったけど、とにかく会話が苦痛だった。
もう関わりたくないのでわざとよそよそしくした。
観るだけだったが、その日のサークルは割と楽しめた。
だけど、数日経つとまた、サークルに参加したくないと思ってしまい、次の総会も出たくなくなってしまった。
身長の事をからかわれ、我慢して、ひたすら笑って耐えたという記憶がサークルという場自体も苦痛にしてしまったらしい。
嫌いなそいつとはもう組まなければ良い話なのだが、とにかくサークルの総会に参加する、と考えるだけで苦しい。
でも苦しい・・・というのが今の状態。
私は自分の身長が気になりすぎて街を歩く時も女性の身長ばかりみてしまう。
1日の6割くらいは身長の事を考えているのだけど、こういうのはやはり異常なのだろうか?
かわかわれた言葉は常に頭にストックしてあって、ことあるごとに蘇ってくる。
傷ついた言葉は10年は余裕で覚えている。
何か嫌な事言われたらまた何年も引きづるから、なるべく友達は作らないようにしている。
一人がもともと好きというのもあるが、またからかわれたら嫌だなと思うと不安で落ち着かない。
醜形恐怖症だろうか?
死にたい、と思う事もそこそこある。
でも色々やりたい事もあるのでやっぱり生きたい。
でも辛いので、何かアドバイス頼む。