はてなキーワード: 進化論とは
もし進化論が正しければ、生き難いブス・ブサイクは淘汰されるはずだ。
特に古代・中世とは違いメディアの発達した近代では、庶民でも労せずにレベルの高い美人・イケメンを目にすることはできるため、真の美人・イケメンを知らないため見切り発車(発射)してしまうということも少ないはず。
それでもブス・ブサイクが減らないのは、進化論が正しくないかもしくは、
のどれかなんだろうか?
「一億総クリエイター」という言葉が使われている文脈では、生み出されたコンテンツの質は議論の対象になってない。
「一億総クリエイター」がうんぬんという話が浸透したのは、梅田望夫がその著作「web進化論」で言及したからだけど、
そこではチープ革命によって安価に必要な機材等が手に入るようになったので、
それなりのクオリティのものを誰もが手に入れることができるようになった、という話がされていた。
だからこれまではプロにしか表現できなかったものがアマチュアでもそれに近いレベルまで表現できるようになった、というのがそもそもの論旨。
それにプラスアルファして「発信のしやすさ」というのが挙げられるわけだ。
なので単なる「一億総発信者」という話だけではない。
さすがにこれについては本人、この対談の中でもう少し触れています。
東 (前略)個人の価値観でこういう風に生きてもらいたいとか、こういうふうに生きるべきだということを、友人や知人に言うことと、社会のみんながそれを信じるかどうかということについての予測は、まったく関係がないでしょう。その時に、ぼくは、そういう友人や知人を増やしていきたいとは思う。それこそが希望だから。でもそれは社会への絶望と両立するしかないんですよ。
大塚 それが公共性っていうことなんじゃないの?
東 それを公共性だというのであれば、南京虐殺は絶対になかった、韓国人や中国人はいますぐ死ぬべしと友人や知人に向けて書いている連中と同じになる。だって、彼らもそれは公共的な言説だと信じているのだから。だから私的な希望と公共性を混同することはできない。
大塚 (中略)たしかに、ネットの人間たちの狭い議論の中で、南京虐殺はなかったという人間と、あったという人間の間に何かが生まれると思うのは不毛なのかもしれないけど、ぼくはそこに、何かが生まれないとはやっぱり思わないし。
東 たとえ生まれたとしても、それは関係がない。問題はそんなことではなくて、ぼくが言いたいのは、いまやいろんな人間が自分の思想こそが公共的だと勘違いして、何億というホームページを開設して情報を垂れ流している。その時に、それに対して、ぼくこそが公共的なのだ、なぜならぼくは本も出しているし、東大とかも出てるからと言うわけにはいかないでしょう、ということです。もしそんな立場をとったら、それこそ不遜というものですよ。
大塚 ぼくの言っている公的というのはそうじゃない。あなたがいう公的というのは、俺のことを認めろ、ということだってのがよく分かったんで、理解はするけれども、ぼくはそういう意味では公的っていう言葉をまったく使っていない。ぼくは、つねに他者との関係によってあらわれるものを公的と言っているわけだから。
東 そんな公共性はネットによって実現されている。そのうえで、その「公共性」がいったい何を生み出しているだろうかというのが、先ほどから言ってるぼくの失望です。
同 pp.222-223
東 今なら、南京虐殺について調べたいと思ったら、ネット上で、一瞬にして、いろんな立場の人の意見を読むことができる。だから、その意味では、大塚さんのいう「公共性」は実現している。で、読んだから何が起きているのか、っていう話です。読んだから、そこで議論ができる。本当に真実の議論ができるか、それはできない。なぜかといったら、真実になんて誰にも近づけないからです。そうするとそこで起こるのは、誰が優位に立てるかの競争だけです。(中略)情報量が大きくなると「誰が頭がいいか競争」しかできなくなってしまう。
大塚 それは情報量が大きくなったからじゃなくて、まだそこに生きるわれわれがそういった環境に対して、どのように情報の処理や判断をしていくかの訓練ができていないからだと思うけど。
東 ぼくは、リテラシーの発想では対応は無理だと思います。
大塚 少なくともリテラシーの問題として対応し得る部分が、ぼくには充分ありうると思うけど。
東 リテラシー論というのは、普通読者の側の論理ですね。つまり読む側の話です。
大塚 いや、リテラシー論っていうのは、発信者論でもあるんだよ。読者の論理ではなく、書き手を教育する論理だと思う。
東 (略)百歩譲って、受信者のリテラシーは教育可能かもしれない。(中略)しかし、発信者の能力を教育するというのは難しい。人びとがネットで好き勝手なことを流す権利は、教育では止められない。だって、彼らはそれをやりたいんだから。
大塚 いや、発信者の教育はできる。にもかかわらず発信者としてあるための教育が未だなされていないということが問題だと思う。(中略)だからぼくはインターネットによって書く主体や、書き手としての自分、発信者としての自分というものを、この国において全員が意図すれば獲得できるという環境が生まれたときに、少なくともそれを断念していいほどに近代を通じてまだ努力はされていないと考える。(後略)
「無限に開かれた討議」というのは、根拠とか証拠とかデータを参照せずに、ひたすら思いこみだけでしゃべることも認めなくてはならにゃーようですにゃ
と東を批判します。この批判は全く妥当だと私も思います。少なくとも、知識人という立場にあるものが、知や学問に対してこのように不誠実であってはならない。大塚はこの対談では一貫してそういう立場から、東への激しい苛立ちを隠さずぶつけ続けていきます。
しかし一方で、おそらく東はそんな批判は織り込み済みなのだろうとも思います。たとえば、上記のような批判に対しては、それでは「ひたすら思い込みでしゃべる」人間を公共圏から駆逐していいのか、それが「公共圏」なのか?という反論も可能でしょう。そこまで下品な反論でなくとも、フレイザーは「複数のマイノリティによる多元的公共圏」は、それらの中には決して上品でないものも含まれうるが、しかしそれでも単一の公共圏よりはいいのだ、ということを「公共圏の再考:既存の民主主義の批判のために」で書いていたように記憶しています。
(もちろんフレイザーは、歴史修正主義公共圏?を容認はしないでしょうけれど)
さらに言うならば、インターネットの時代において、「ひたすら思い込みでしゃべる」人間を駆逐することがそもそも可能なのか、また、彼らが公共圏の議論に参加可能なレベルの「知の技法」を身につけることが可能なのか?という問いもあるでしょう。そして、東はその可能性に完全に絶望しています。ゆえに、
(同、p.189)
公民的な自覚をもたない人をどれだけ抱えられるか、そちらから社会設計を考えるしかない。これがぼくの前提です。
(同、p.231)
市民であり公民であることが正しい人間であり、それを育てていくことでしか社会は変えられないという理念に対して、ぼくは違和感がある。ぼくの関心は、むしろ、全員を市民や公民に育てあげることなど不可能だという諦めのうえで、でもそれでもいい社会をつくるにはどうするか、というところにある。
と語ります。
つまるところ、東が歴史修正主義を「容認」するとすればその限りにおいてであって、歴史修正主義者がどれほどネットの中で暴れ回ろうとも、結果として歴史修正が実現しないような社会であればそれでいいし、それよりない、と言っているように私は読みます。その結果として歴史修正主義を容認したように見えたとしても、それはそうした態度の反射的効果にすぎない、とは言いうるかもしれない。
とするならば、デリダが歴史修正主義を支持もしくは黙認した言葉が彼の著書にあるか、と聞くよりは、デリダの思想が、公共圏に対する東の絶望に結び付くのか否かを問うた方が生産的であるように思います。おそらく東本人も、デリダが歴史修正主義についてどう語ったかは問題ではないと語るでしょう。もちろんそこは、十分に問題ではあるのですが、そこで水掛け論を行っても仕方がない。
大塚―東対談における大塚は、激しい苛立ちと同時に、東から一生懸命言葉を引き出そうと我慢を重ねています。もちろん大塚の我慢を我々が共有する必要は微塵もありませんが、しかし東の公共性に対する批判を行うとき、どれだけ絶望しようと対話の中から公共性を見出していこうとする大塚の態度に私は共感を覚えるし、それに倣うべきだという態度を取りたいという志向は否めません。
> 卵と鶏のどちらが先かを問う文脈で進化論スルーしてスーパーの商品分類を持ち出すのは詭弁じゃなかろうか。
スーパーの商品分類を持ち出したのは、一般的な名称としてわかりやすいだろうからってことさ。
一般的には鶏が産んだ卵を鶏の卵と呼び、鶏が生まれてくるであろう卵は鶏の卵とは呼ばない。
鶏が生まれてくるであろう卵を鶏の卵と呼んでしまったら、産まれてくるまでそれが何の卵なのかわからないじゃないか。
じゃあ卵であるとき、それをなんと呼べばいい?
生まれてきたあとなら卵はなくなるから、卵の呼び名がなくても困らないのに、鶏が生まれてから鶏の卵だったって言うのかい?
鶏が生まれてくるであろう卵を鶏の卵と呼んでしまったら不便が生じるのだよ。
だから鶏が産んだ卵を鶏の卵と呼ぶのは合理的だって話さ。
近年にわかに、非常に注目を浴びている研究がある。それはクローンである。この研究が近年になって注目を浴びた原因が存在する。一九九七年二月二七日に「ネイチャー」誌が掲載した「核移植」という技術により作製されたクローン羊によって、多くの議題があがったのである。この研究によってさまざまな問題点が指摘され、そして多くの批判なども挙がり、現在では討論なども世界各国で行われている。本稿では、まずクローン、核移植とは何かを提唱し、その研究によりどのような利点、問題点が存在するのかという点について述べてみたい。
まずはクローンという言葉の意味について検証してみたい。今井(1997)によると、細胞を大概で培養し、それらがある特殊な性質を獲得した場合、たとえば遺伝子組換を行っている場合、それらはクローンと呼ばれる。さらに広辞苑によると「遺伝子組成が完全に等しい細胞または生物の集団。一個の細胞または生物を共通の祖先として、それから無姓生殖的に、かつ突然変異なしに増殖することによって生ずる。」いわゆる同じ物のコピーのようなものなのである。すなわち、今存在する人物のクローンも作ることの可能性はあると考えられているのである。一九九七年に発表されたクローン羊もこの無性生殖的に誕生した生物なのである。クローン羊は一九九六年夏に政府特殊法人のロスリン研究所のイアン・ウィルムット博士とキース・キャンベル博士によって無性生殖的に作り出された生物である。このクローン羊が誕生して7ヶ月たった後にウィルムット博士とキャンベル博士によって発表された。
このクローン羊は「ドリー」と呼ばれた。この研究に使われた方法が、核移植であった。熊谷(1997)によると核を提供する細胞は、六才の雌羊の乳腺細胞、羊の胎児から取った繊維芽細胞、受精9日後に当たる羊の胚からとったED細胞の三種類をクローン羊の作成に使われたと述べている。核移植とは精子の代わりに他の細胞の核を卵子に移植したのである。熊谷(1997)によると、ドリーの以前の方法では人間のクローンを作成できはしなかったが、ドリーの方法では細胞さえあれば、クローン人間が生まれる可能性はあると述べている。以前の方法だと一卵性双生児とにたようなもにしかならなかったが、新しい方法を使用すればほぼ同じようなコピーを作り出すことができると考えられている。
クローン人間が与える利益は多様にある。不妊症対策がそのひとつである。軽部(1997)は、男性に精子がない場合、クローン技術によって子供を作ることができると述べている。もちろんみずからのクローンを作ることですらできると考えられる。映画、「ジュラシックパーク」のなかで行われていた、恐竜を作り出すことも可能であると思われる。すなわち、すでに絶滅している生物を作成することもできるのではないのだろうか。今井(1997)は、クローン羊の報道があった後、一部の人々がヒトラーなどの危険な人物がよみがえるのではないかという不満があったと述べている。しかも非常に屈強な兵士を何人も同じような兵士を作り出すこともできるのではないだろうか。
クローンが作られる過程のなかで、問題が指摘されている。それは無性生殖的に増殖するということである。すなわち、性行為がこの過程の中で行われないのである。自然界の法則の中にも提唱されているように、雌雄間の性行為がない限り、子孫は残せないという理論がある。特に人間のクローンを作成すると、さまざまな理論を覆してしまう恐れがあり、多くの議論が出されることになる。
一つは宗教の理論を全面的に否定することである。宗教の考え方の中には、人間は神から生命を授かった生物であるという理論がある。そして同じ生物が二人存在しかねない時代もまじかに迫ってきている。その生物は人間の手で作り出されたものであり、宗教家から考えれば、それは禁断の科学ではないのかという議題があがるのは、明らかである。だが実際にこのような議題は時代とともに承認されている。たとえばダーウィンの進化論なども否定され続けられていたが、近日ローマの法王が進化論の一部を認めたことは記憶に新しい。一九九八年一月には人間へのクローン技術応用禁止令が欧州19カ国で調印された。この調印もクローン研究は神への冒涜とおもわれているゆえに発展した調印ではないかと考えられる。軽部氏(1998)によると、人間が神の変わりになってはいけないかという考えがある。
クローン人間が大部分の人口を占めたとき、非常な危険な状態になると考えられている。軽部(1998)によると、人間の遺伝的多様性が減少し、主としてヒトの長期的存在にかかわる問題となると述べている。すなわち、強力な伝染病などが流行すると、すべての人口がまとめて死滅しかねないのである。太古の時代から生物は少しずつ進化しており、このクローン人間の出現により進化が止まってしまうと考えられるのである。
前述でも述べたように、クローンは無性生殖的に行われるものである。結婚という概念すら必要なくなってしまうのである。さらに、筆者は性別という概念すらもなくなってしまうのではないかという問題が考えられた。女性は子供を産むために必要であるが、男性は不要になってしまうのではないだろうか。男性がいなくなるということではないが、彼らが不必要となったとき、少しずつ減少していく可能性も否定できない。
最相(1998)によると、「クローン人間が生まれてきた場合その子供は差別を受ける可能性が非常に高い、と述べている。子供とは親との家族関係、すなわち子供と親というものによって確立されるものである。これは特に女性のみで、クローンが作られた場合による。」養子などは子供の権利が象徴されるがクローンの場合親の権利によって生み出される可能性がある。子供の権利は完全に無視した状態になり兼ねないのである。
だが、実際に内面まで類似しているクローンを作り出せるとは考えにくい。その一つの原因は、人間の性格は生まれたときに決まっているのではなく、育つその過程によって性格が変わっていくものなのである。重要なことは、外見、そして根本的なものの類似しているものは作成できるだろう。筆者としては、実際に完全に一致したクローンを作り出すことは難しいと思われる。それゆえに前述でも述べた新しい第二のヒットラーが産まれかねない可能性はないと考えられる。元の人間とまったく同じような人生を歩まない限り、酷似するとは考えられない。
最後にクローン問題が世界各国に与えた影響を述べたい。軽部(1997)によるとアメリカではヒトクローン研究の一時的停止を議会に提出したと述べている。だが実際はいまだ審議中であり規制が実施されるのはまだ先と考えられている。他の国でも、いまだ完全な規制は敷かれてはいない。特にクローン技術を悪用する国家が現われることが無いよう監視をするべきではある。
クローン人間問題に対する議題は特に本稿でも述べた宗教関連によるものである。そして、クローンを研究している科学者はさまざまな批判によって研究が進められていない。実際にはクローン技術によって利益もあるが不利益も存在する。だがこの研究は今までの人間の理論を完全に覆すことのできる研究の一つである。人間はさまざまなものを今まで開発してきた。原子力なども以前は革命的と考えられてきたテクノロジーも第二次世界大戦では殺戮兵器としてつかわれてしまった。どのように新しい技術を使っていくのかという点を考慮しない限りクローンも原子力のような過ちを繰り返しかねないと思われる。
近年にわかに、非常に注目を浴びている研究がある。それはクローンである。この研究が近年になって注目を浴びた原因が存在する。一九九七年二月二七日に「ネイチャー」誌が掲載した「核移植」という技術により作製されたクローン羊によって、多くの議題があがったのである。この研究によってさまざまな問題点が指摘され、そして多くの批判なども挙がり、現在では討論なども世界各国で行われている。本稿では、まずクローン、核移植とは何かを提唱し、その研究によりどのような利点、問題点が存在するのかという点について述べてみたい。
まずはクローンという言葉の意味について検証してみたい。今井(1997)によると、細胞を大概で培養し、それらがある特殊な性質を獲得した場合、たとえば遺伝子組換を行っている場合、それらはクローンと呼ばれる。さらに広辞苑によると「遺伝子組成が完全に等しい細胞または生物の集団。一個の細胞または生物を共通の祖先として、それから無姓生殖的に、かつ突然変異なしに増殖することによって生ずる。」いわゆる同じ物のコピーのようなものなのである。すなわち、今存在する人物のクローンも作ることの可能性はあると考えられているのである。一九九七年に発表されたクローン羊もこの無性生殖的に誕生した生物なのである。クローン羊は一九九六年夏に政府特殊法人のロスリン研究所のイアン・ウィルムット博士とキース・キャンベル博士によって無性生殖的に作り出された生物である。このクローン羊が誕生して7ヶ月たった後にウィルムット博士とキャンベル博士によって発表された。
このクローン羊は「ドリー」と呼ばれた。この研究に使われた方法が、核移植であった。熊谷(1997)によると核を提供する細胞は、六才の雌羊の乳腺細胞、羊の胎児から取った繊維芽細胞、受精9日後に当たる羊の胚からとったED細胞の三種類をクローン羊の作成に使われたと述べている。核移植とは精子の代わりに他の細胞の核を卵子に移植したのである。熊谷(1997)によると、ドリーの以前の方法では人間のクローンを作成できはしなかったが、ドリーの方法では細胞さえあれば、クローン人間が生まれる可能性はあると述べている。以前の方法だと一卵性双生児とにたようなもにしかならなかったが、新しい方法を使用すればほぼ同じようなコピーを作り出すことができると考えられている。
クローン人間が与える利益は多様にある。不妊症対策がそのひとつである。軽部(1997)は、男性に精子がない場合、クローン技術によって子供を作ることができると述べている。もちろんみずからのクローンを作ることですらできると考えられる。映画、「ジュラシックパーク」のなかで行われていた、恐竜を作り出すことも可能であると思われる。すなわち、すでに絶滅している生物を作成することもできるのではないのだろうか。今井(1997)は、クローン羊の報道があった後、一部の人々がヒトラーなどの危険な人物がよみがえるのではないかという不満があったと述べている。しかも非常に屈強な兵士を何人も同じような兵士を作り出すこともできるのではないだろうか。
クローンが作られる過程のなかで、問題が指摘されている。それは無性生殖的に増殖するということである。すなわち、性行為がこの過程の中で行われないのである。自然界の法則の中にも提唱されているように、雌雄間の性行為がない限り、子孫は残せないという理論がある。特に人間のクローンを作成すると、さまざまな理論を覆してしまう恐れがあり、多くの議論が出されることになる。
一つは宗教の理論を全面的に否定することである。宗教の考え方の中には、人間は神から生命を授かった生物であるという理論がある。そして同じ生物が二人存在しかねない時代もまじかに迫ってきている。その生物は人間の手で作り出されたものであり、宗教家から考えれば、それは禁断の科学ではないのかという議題があがるのは、明らかである。だが実際にこのような議題は時代とともに承認されている。たとえばダーウィンの進化論なども否定され続けられていたが、近日ローマの法王が進化論の一部を認めたことは記憶に新しい。一九九八年一月には人間へのクローン技術応用禁止令が欧州19カ国で調印された。この調印もクローン研究は神への冒涜とおもわれているゆえに発展した調印ではないかと考えられる。軽部氏(1998)によると、人間が神の変わりになってはいけないかという考えがある。
クローン人間が大部分の人口を占めたとき、非常な危険な状態になると考えられている。軽部(1998)によると、人間の遺伝的多様性が減少し、主としてヒトの長期的存在にかかわる問題となると述べている。すなわち、強力な伝染病などが流行すると、すべての人口がまとめて死滅しかねないのである。太古の時代から生物は少しずつ進化しており、このクローン人間の出現により進化が止まってしまうと考えられるのである。
前述でも述べたように、クローンは無性生殖的に行われるものである。結婚という概念すら必要なくなってしまうのである。さらに、筆者は性別という概念すらもなくなってしまうのではないかという問題が考えられた。女性は子供を産むために必要であるが、男性は不要になってしまうのではないだろうか。男性がいなくなるということではないが、彼らが不必要となったとき、少しずつ減少していく可能性も否定できない。
最相(1998)によると、「クローン人間が生まれてきた場合その子供は差別を受ける可能性が非常に高い、と述べている。子供とは親との家族関係、すなわち子供と親というものによって確立されるものである。これは特に女性のみで、クローンが作られた場合による。」養子などは子供の権利が象徴されるがクローンの場合親の権利によって生み出される可能性がある。子供の権利は完全に無視した状態になり兼ねないのである。
だが、実際に内面まで類似しているクローンを作り出せるとは考えにくい。その一つの原因は、人間の性格は生まれたときに決まっているのではなく、育つその過程によって性格が変わっていくものなのである。重要なことは、外見、そして根本的なものの類似しているものは作成できるだろう。筆者としては、実際に完全に一致したクローンを作り出すことは難しいと思われる。それゆえに前述でも述べた新しい第二のヒットラーが産まれかねない可能性はないと考えられる。元の人間とまったく同じような人生を歩まない限り、酷似するとは考えられない。
最後にクローン問題が世界各国に与えた影響を述べたい。軽部(1997)によるとアメリカではヒトクローン研究の一時的停止を議会に提出したと述べている。だが実際はいまだ審議中であり規制が実施されるのはまだ先と考えられている。他の国でも、いまだ完全な規制は敷かれてはいない。特にクローン技術を悪用する国家が現われることが無いよう監視をするべきではある。
クローン人間問題に対する議題は特に本稿でも述べた宗教関連によるものである。そして、クローンを研究している科学者はさまざまな批判によって研究が進められていない。実際にはクローン技術によって利益もあるが不利益も存在する。だがこの研究は今までの人間の理論を完全に覆すことのできる研究の一つである。人間はさまざまなものを今まで開発してきた。原子力なども以前は革命的と考えられてきたテクノロジーも第二次世界大戦では殺戮兵器としてつかわれてしまった。どのように新しい技術を使っていくのかという点を考慮しない限りクローンも原子力のような過ちを繰り返しかねないと思われる。
[ジャララバード(アフガニスタン) 26日 ロイター] アフガニスタン東部ナンガルハル州で26日、日本人男性が武装勢力に拉致された。同州のスポークスマンが発表した。
この男性はダラエ・ヌールでの作業中に拉致されたとみられており、当局は男性の捜索を開始した。
日本のメディアによると、拉致されたのは日本の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」の伊藤和也さん。
ペシャワール会というのは以前からたびたびその名前を聞いていた。井戸を掘るお医者さんと、彼を支える会なのだと聞いていた。えらいひとたちがいるものだなあと思っていた。ところが何日か前にこんな報道があった。
アフガニスタンとパキスタンで活動する福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」がアフガン東部ナンガルハル州シェワ地区で、イスラム神学校「マドラサ」の建設を進めている。旧政権タリバン幹部を養成し過激派の温床とも批判されるマドラサだが、同会は「地元の要望が強く、貧困層の子供や孤児の養育が目的」としている。
マドラサはイスラム聖職者養成も目的とする寄宿学校で、青少年に聖典コーランの内容や読み書きなどを教える。アフガンでは二〇〇一年のタリバン政権崩壊後、各国NGOが学校建設を進めているが、ペシャワール会によると、非イスラム教国の団体によるマドラサ建設は初めて。
同会は干ばつによる食料不足を防ぐためシェワ地区などで農業用水路を造成。用水路は二十一キロ余り完成し砂漠地帯だった土地で耕作が可能になった。このため、隣国パキスタンに逃れていた難民が続々と帰還、地区周辺の人口が急増しているが、大きな学校がなく、信仰に根差したマドラサ建設の要望が出ていた。
約一万四千平方メートルの敷地に学舎と寮、モスク(礼拝所)を建設中で、今秋にも完成予定。同会現地代表の中村哲なかむら・てつ医師は「貧困層にとって寺子屋と養護施設の役割がある。過激思想を植え込むという考えは間違いで、科学なども教える大事な施設だ」としている。(シェワ共同=遠藤幹宜)
科学も思想もところが違えば過激にも穏健にもなる。進化論は科学ということになっているが、一部の人々にとっては過激であると映る。マドラサと一口に言ってもそこで教えられる思想というかイスラム神学というのは地球上どこへ行っても同じというわけではない。そのマドラサで教える側に立つピールであるとかホジャであるとかイマムであるとかの思想背景によって違ってくる。地域によっては女子のためのマドラサというのもある。どのようなマドラサを構想していたのだろうか。
寺子屋が必要ならば学校でよいではないか。養護施設が必要なら養護施設でよいではないか。なぜマドラサである必要があるのか。
ペシャワール会のウェブサイトを見る限り、マドラサ建設に協力しているというような話は一言も告知がない。あくまでも農業支援の話しかない。『過激思想を植え込むという考えは間違いで、科学なども教える大事な施設だ』というのは論点のすり替えだ。ペシャワール会のひとたちはどのように考えておられるのだろう。
何にせよ無事に解放されることを祈る。
「みんなはひとりのため」を外した「ひとりはみんなのため」が暴走するとアレなことになる、という話です。
暴走したときの危険を根拠にして元のものに倫理的な問題があると説くのはどう考えてもフェアではない。大抵なものは暴走したら有害に決まっていて、それは有用なものほどそうだ。問題は暴走のリスクがどれだけあって、それをどのようにすれば抑制できるかということであって、暴走の理論的可能性ではない。
これを度外視したこの批判は、類型的なレベルの低い原子力批判のようだ。原子炉が暴走したら確かにチェルノブイリのような悲劇が起こるには違いないが、チェルノブイリには機械系にも人間系にも、日本では存在しないような構造的な問題があって、それがあの事故の発生に不可欠だったこともわかっている。しかしこの種の原子力批判はそういうことを考慮した上でリスクを定量的に評価しようとは考えず、ただただ情緒的に危機を煽る。
率直に言って、今回の件でトリアージ批判をしている人たちには同様の危うさを感じる。有り体に言えば、数式や統計が苦手な人が、定量的な判断を回避して情緒に頼るという反知性主義的後退だ。
そして現実に、倫理的な二重拘束において自身の選択や行動にひいては存在に過剰に苦しむ人が、ことに若い人にあるとき、その枷は解き放っていい、時に無用な苦しみでしかないのだから、と私は言いたくなることがあります。少なくともそれは学問するとき無用な枷でしかないこともあります。しかし、資源の有限性を前提とする経済的な合理化がそのダブル・バインドを倫理的な枷を解き放ったとき、かつてSSの無法がまた関東軍の専横が横行したことも事実です。
学問やってる人間をなめないでほしい、と正直思う。学問をやる上で基本的なことは、自分が何を前提においているかを意識することだ。仮に、倫理的な前提を度外視して最適解を求めるのが経営学だとするなら、そのこと自体は価値中立的なのだ。その解を無批判に現実に適用しようと政治的に動いた時点で、はじめて問題が生じる。
このことは進化論と優生学の関係を考えればすぐにわかるだろう。進化論を安直に理解すると(事実記述と価値判断を混同すると)直ちに優生学的な判断に至る。そして、優生学を嫌う人道的な気持ちが創造科学という反動を産む。まさに悪夢だ。本当の悪は「事実記述と価値判断の混同」であって、進化論じたいではないのに。
実際のところ、こういう「最適解」を現実に直ちに適用するのは学問的手続きとしても粗雑なものとしてしか扱われない。学問上の前提の倫理的判断という必要な手続きが省略されているからだ。
HALTANさんを「あたまがわるい」とは、多くの人がまず思っていない、むろん私も思っていない。fuku33さん個人が叩かれて然るべきであったとは私自身は思いません。
それが正しいと思う。だが、実際に福耳氏やHALTAN氏の上に降りかかったリンチはいったい何なのだろう。これこそファシズム、軍靴の足音と考えるのは私だけだろうか。
増田で提示された「仙人になるための八つの試練」は、間違いなく仙人になる『試練』であり、非モテが異性と関係を持たぬまま幸せになる『方法』などではなかった。確かに仙人になる利点は述べてあったけれども、即、幸福とは直結しないことは誰にでも読み取れたし(ただし読み取れなかった思い込みの激しい人は少なからずいた。後述)、これを完遂できる人間がいるとは誰も考えていなかった。
著者はおそらく現代日本社会に適応した、古くからいる神仙の類だろうと思われる。彼は面白半分に仙道の入口を指し示しただけなのかもしれない。だが彼や読者の推測を超えて日本の社会は爛熟の相を迎えており、仙人になる才能、すなわち仙骨をもった人間を多く生み出していたのだった。彼らの多くは非モテと自称していた。
『試練』が提示されたことで多くの人が興味半分に仙道の門をくぐった。どうしても親を断ち切れない杜子春が大勢いた。色欲食欲につながれる俗人が大勢脱落した。酒に陥落するものもいた。それでもまだ十分に多い人数が残り、仙人と呼ばれるにふさわしい域まで到達した。
欲に突き動かされるのが凡俗であるならば、欲を捨て去るものを憎悪するのもまた凡俗である。西洋の哲人は有様を「ルサンチマン」と名付けた。
怒れる凡俗は非モテという名の道士に向かって叫ぶ。
「性欲を捨てたいんなら念じずともぶら下げているものを切り落とせばいい」
しかし仙道とは堕ちるに易し、極むるに難きもの。誰が好きこのんで折り返し不能点を低く定めようか。たしかに本邦には自らの素手により去勢を行うことで、怪力益々猛り剣術冴え渡る剛の者もいたと人伝えに聞く。だがそれで神仙に至れるなら宦官はこれすべて仙人でなければならぬ。無益な助言であった。無駄な恫喝であった。非モテ、いや道士たちはこの種の脅しに耳を貸すことはなかった。
仙人の域に到達したものが誰でも一番最初に驚くのが、人は生殖にいかにリソースをつぎ込んでいるかという事実であった。進化論的には生殖にエネルギーを使う生物がより生き残るのは当然である。おなじポテンシャルを持ちながら生殖に邁進するものとそうでないものの二種では、例え後者が2倍、いや3倍の寿命を持ちえたとしても前者の有利は揺らぐことがないだろう。
そう、八つの試練を乗り越えると目に見える結果が伴うのだ。不死とは言わないまでも不老長寿を現代の仙人たちは獲得したのであった。もっとも彼らにとって若さとは活力を維持できることを意味するのであって、若さがもたらす美しさには無頓着なのだった。
切望するが自分にはないもの、それを他人が持っていてなおかつ利用するそぶりすら見せない場合、それは容易に憎悪の対象になりうる。一般人がオタクを怖れ憎むのと、似てはいるものの違った論理で、凡俗は仙人たちを憎んだ。陰に陽に凡俗の仙人狩りが始まった。
メディアに若さを保っている人としてある仙人が取り上げられたのがそもそもの始まりだったという。その仙人にしてみれば、自分に嫉妬するものがいようなどとは思いも及ばず、軽い気持ちで受けた取材であった。メディアによりそのような人間が個の特質ではなく少数ですらないことが知れ渡ると、さらに凡俗の嫉妬心を煽った。
容姿に秀でたものはそれをもって傾仙を謀り、才能に自負を持つものは才で仙人どもを踏み越えんと欲した。何も持たぬ多くの凡夫は石をもって追った。当時進行中であった社会の静かな崩壊もその傾向を助長させ、事態は魔女狩りの様相すら帯びてきた。
まず童顔と形容されるような人々が不遇な扱いを受けるようになった。禁欲に関係のない才能ある普通の人々が、当人にすらわからぬ理由によって職を追われた。静かに暮らしていた同性愛者のカップルが襲撃され、犯人のわからぬまま時効を迎えた。子を持たぬ夫婦が……。
仙人のほうでも座して死を待つつもりはなかった。隠遁し、人に紛れ、そして連帯した。彼らの能力、資本をただ一点に集中し生き残りを画策した。彼らは宇宙開発に活路を見出したのである。結果、宇宙に居を定める最初の人間は日本人となり、今なお最大の人口を持つスペースコロニーは日本に所属するものとなった。構成員はほとんどが仙人であったのは言うまでもない。
それから千年の後、宇宙から地上を支配するに至った彼ら仙人達に、積もりに積もった殺劫でローマが壊滅することになるのだがそれはまた別のお話。
参考
http://anond.hatelabo.jp/20080728205902
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20080728205902
という2点かなぁ。ボノボはフリーセックスだけど子供は群れ全体で育てるというし、大昔の乱交的な農村でも子供は村全体で育てたもののそうだし。
不倫に罰を与えるという慣習は結婚制度を実質あらしめるために存在しているものだから、フリーセックス=結婚制度廃止に近いものがあるだろう。しかし世界を見渡しても結婚制度のない人間集団など聞いたこともないので、そういう状況が(将来においても)訪れるとは思えないな。
現実的には、フリーセックスを認めると性感染症の蔓延を招いてその人間集団が崩壊するので、認めない人間集団のほうが生き残りやすかった、という進化論的な理由もあるかもしれない。現代だって性の自由が拡大した結果、エイズの蔓延を招いたわけだしね。
どうも、この記事の作者です。前もって補足記事に追記して釘を刺しておいたにも関わらず、よくわからない反論(?)が来てしまったので、一応フォローしておきます。同様の誤解をしている人も結構いるらしいので。
実を言うと、この記事については反論することはあまりないんですね。言ってることは、細部はともかく全体としては同意できるものですし、知らないこともいろいろ書いてくれて勉強にはなりました。
ただし、唯一同意できないのは、それをもって私への反論だとしていることです。だって、この人の書いてることって、私の書いたことの「東京」と「関西」を入れ替えて、似たような立場から書いただけの話なんですから。それに私が文句言うわけないじゃないですか。そして、「関西の風土のよい点を聞きたい」といわれても、私は最初からお国自慢なんかする気はないと補足記事で断ったはずです。木によりて魚を求められても困ってしまうのですが。
この人に限らず、反応の中には、自分が批判されたと思いこんで怒っていらっしゃる方がおられたようで、それが少し気になりました。そうした方々は、私がいったい何を言っていると思ったんでしょうか。私は「東京」を批判したのではなく、「東京は中心で地方は周縁」という迷信を批判したのです。いくら私でも、東京の人の全員が「大阪人は民度が低い」なんてことを言っているとは思いませんよ。確かに、最初の記事を意地悪く読めば「東京の人間は全員偏見まみれ」と読めなくもないかもしれませんが、たとえば「アメリカでは、進化論さえも政治的な話題として扱われてしまう」という書き方だったらどうでしょうか。アメリカとかアメリカ人を全部ひっくるめて批判したことになるでしょうか?
その辺の誤解を防ぐために補足記事を書いたわけだし、題名に「東京が嫌いなんて誰が言った?」と書き、本文中に「文化や言語に優劣などありはしない」と太字を付けてまでわかりやすく書いたにもかかわらず、「お前なんか大嫌いだ」と言われるのであれば、もはやこの方は私が何を言おうと気にくわないのだと判断するほかありません。「そうですか、残念です」としか言いようがないことです。
この人ばかりではなく、同様の感情的な罵倒がいくつかあったことは残念です。「東京は中心」という迷信を批判したらそれがすなわち東京を批判したことになっているのだとしたら、その人の中では「東京こそが中心」という迷信が自明化されてしまっているのでは、とこちらまで邪推したくなりますよ、そのうち。
あと、埼玉の件が思った以上に誤解を招いているようなので、一応補足しておきます。
おそらく、誤解を招いているのはこの一文でしょう。
この「埼玉人」は集合名詞ではなく一般名詞です。つまり、「おおよそ埼玉人という奴らはすべて卑屈であって」という意味ではなく、「埼玉人の中にの卑屈な奴がいて」という話です。
たとえば「俺は百円ショップでまで値切るがめつい大阪のおばちゃんではない」と書いたとして、「大阪のおばちゃんは全て百円ショップで値切るほどがめついと思われているのか!」と読む人はいないでしょう。そういうわけで、最初は「『産む機械』じゃあるまいし、邪推も大概にしてくれ」と思って無視していたのですが、確かに主語が「我々」となってみると、「埼玉人」も集合名詞であると誤解しやすいかもしれないと思い直したので、一応念のため補足しておくことにしました。ただそれにしても、直後に
それとも、東京人は自分たちの身内も「ダサイタマ」などといって馬鹿にしているくらいだから、よそ者などもっと馬鹿にしても当然だとでも思っているのだろうか。
とまで書いているのだから、埼玉が馬鹿にされたと読まれるとは正直思いもしなかったのですが。
あ、ちなみに、上の引用箇所の「東京人」も「(その手の)東京人」とでも読み替えてくださいな。なにしろ、ホットエントリになると思わずに愚痴を書き捨てただけだから、細かいところで舌足らずなのは正直ご勘弁いただきたいです。そこを補うために補足記事を書いたくらいなので。
以下蛇足。私が匿名日記を書くとときどき、捨て記事のつもりで適当に書いた記事に限ってホットエントリに入ったりする(受けを狙うと全くといってよいほど入らない)んですが、そのとき必ず一部の特定の同じ人たちが罵倒を浴びせてくるのはなんでなんでしょうね?毎回、全然違う話題について述べているのに。好意的な反応をくださる方は毎回顔ぶれが別なので、ますます不思議です。
もういい加減腹が立ってきた。
b:id:perfectspell 間違い探しゲーム, 100字コメント一部にそういう人がいるから「埼玉は卑屈」「埼玉は馬鹿にされている」と書くのがOKなら、「大阪は民度が低い」と全てのメディア(ネット含む)が言ったとしても、エントリ主には「一部の」と脳内補完されて無問題?
本当に「間違い探しゲーム」ですね。まず、「民度」という言葉は集団に対して使う言葉ですね。次に、「馬鹿にされている」と書くことが罵倒なら「障害者は差別されている」と書けば障害者差別なんですかね?最後に、「埼玉は卑屈」なんて書いてないでしょ。人の書いたことをわかりやすく歪めないでください。だいたい、「一部の」とかそういう問題じゃなくて、たとえば「馬鹿な男が」とか書いたら「男は全員馬鹿」って意味になるんですか、という話ですよ。誤解の余地がある書き方をしてしまったことは認めますが、わざわざ悪い方に解釈されるのは心外です。
http://anond.hatelabo.jp/20080327165138
生きるために食べること、寝ること。交尾をして子孫を残すこと。これらは生き物として最低限の活動であって
その「最低限の活動」を全うできない個体が「劣っている」と評価されるのは至極当然のことだと思う。
とっくに学問的には否定されてる社会ダーウィニズムを信じている馬鹿がいつまでも淘汰されないのはなんでなんだろうね。
その、進化論的文脈でいう「劣っている」とか「優れている」は「繁殖」という一面に着目しての評価だから、あんたの言ってる「繁殖力の優れた個体は(繁殖力に)優れている」ってのは単なるトートロジーなの。そんなことぐらいちょっと考えればわかるだろ。
まー、後半からの引用はやめるとして、ちょっと面白かった部分を引用しよう。
(太字は原文通り)
だいたい俺は顔がキモいわ。『電波男』で「俺の顔をキモがった女ども、ゆるさんぞっ」と
居直って叫んだら、とたんに「いやキモくないですよ」と言い出す女どもが現れたけど、
うるさい黙れ死ね黙れ。今までさんざんキモがっておいて、俺が被害者だ貴様らこそが悪だ
と告発したら今度は善人面かよ。どこまで都合が良いんだ!いいか貴様らは悪だ!もちろん
美少女や美人にしか興味がない俺も悪だ!ブスやオバハンに迫られてもキモいだけだ!そうだ、
人間の性、悪なりだ!しかし、自分が悪だという自覚がない奴ら、頑として己の悪を認めようと
しない人間こそが一番の悪なのだ!悔い改めない悪は、悪をやめることができず、悪を自覚
しないものは悪を積み重ね続けるのだ!そして良心の呵責すら感じないのだ!偽善者め!
で、悟空はフリーザ倒すんだけど、これってもともとは猿(アジア人)だった悟空が文明開化
の後に人種的にも進化して「白人」になれました、っていうお話なんだよね・・・・・・。白人至上主義
的な人種進化論なのだ。だからヨーロッパやアメリカで受けるのも当然なのだ。
もちろん、日本でも馬鹿ウケ。『AKIRA』は「日本人は超能力を持ってしてもアメリカには
かなわないよトホホ」というイヤな現実を描いてしまった。しかし『ドラゴンボール』はその先を
行った。
「だったら、オラが金髪碧眼のアーリア人に進化しちまえばいいんだ」
誠にその通り!ただし、マイケル・ジャクソンもそう考えてあんな大変な顔面になってしまった。
という感じで、面白かったのだけど。
まだ頭の中がまとまっていない感じで、整理された感想というのが思いつかないのだが、女性もなかなか大変だというか、なんらかのロールモデルを提示しないとまずいのでは?という感じがした(一応、この本は喪女もターゲットに入れているみたいだが)。「負け犬の遠吠え」はまだセレブ感があったと思うが、現実はもっと悲惨なのではないかと思うから。
http://anond.hatelabo.jp/20080327165138
生きるために食べること、寝ること。交尾をして子孫を残すこと。これらは生き物として最低限の活動であって
その「最低限の活動」を全うできない個体が「劣っている」と評価されるのは至極当然のことだと思う。
とっくに学問的には否定されてる社会ダーウィニズムを信じている馬鹿がいつまでも淘汰されないのはなんでなんだろうね。
その、進化論的文脈でいう「劣っている」とか「優れている」は「繁殖」という一面に着目しての評価だから、あんたの言ってる「繁殖力の優れた個体は(繁殖力に)優れている」ってのは単なるトートロジーなの。そんなことぐらいちょっと考えればわかるだろ。
多数論証
88% の人々が UFO を信じているのだから、UFO は実在する。
はてなブックマーク - 今起きていること。日本人の賃金を下げよ。リストラせよ。雇うな
はてなブックマーク - 労働政策の基本は「人は守るが、雇用は守らない」元スウェーデン財務大臣 ペール・ヌーデル~スウェーデンはいかにして経済成長と強い社会保障を実現したか。日本そして世界への教訓
はてなブックマーク - 正社員の解雇には2千万円かかる!|社長は労働法をこう使え!|ダイヤモンド・オンライン
はてなブックマーク - 年収3000万円のパイロットの賃金も下げられず、 痴漢をした車掌にも退職金を支払う|社長は労働法をこう使え!|ダイヤモンド・オンライン
くじに当たった人を殺し、その人の臓器を移植して他の複数人を助けるのは良い行いか?
トロッコをこのまま走らせると5人が轢き殺される。向きを変えると1人だけ轢き殺される。向きを変えるべきか?
ミニョネット号事件 海水を飲んで衰弱したため、殺害され、その死体を残った3人の食料にした
韓国地下鉄火災事件における「多数派同調バイアス」と「正常性バイアス」
公共施設(特に鉄道)での黒人分離は人種差別に当たらないとし、これを合憲としたアメリカ合衆国の裁判 最高裁判決は1896年5月18日に下された 7対1の賛成多数によって判決は下された。
国民の自業自得(自己責任)。国民が地獄を味わうのは当然の義務。われわれを(選挙で合法的に)選んだのは国民なのだから、最後まで付き合ってもらうさ。ヒトラー
404 Blog Not Found:結局自己責任が一番安上がり
同じ仕事を日本人なら月20万円、中国人なら月1万円が相場とする。
搾取者は日本人をクビにして中国人を採用し、その際に他の会社と競争力を持たせるために、月2万円を中国人に払うとする。
この時点で、搾取者は月18万円の得。中国人は2万円の得、日本人は20万円の損。
泣く者は一人、笑う者は二人。合計金額は変わらないのに、この方が笑う者が増えている。
平壌と38度線の中間にあった沙里院(さりいん)のガードポイントをトラックで突破するときでした。
それまで何度も止められましたが、そのたびに時計や万年筆などの貴重品を渡して、見逃してもらっていました。
それがここでは女を出せと言われた。これは本当に困りましたね。
若い娘はまずい。子持ちはダメ、あまり年上もよくないということで、
結局は元芸者さんなどの水商売をしていた女性や、夫や子供を失った未亡人に、みんなの視線が自然と集中するのです。
そのうちリーダー役の人物が土下座して「みんなのためだ、行ってくれ」と頼んだ。
みんなから射すくめられるように見られるのですから、その女性は出て行かざるをえません。
そうやって女性を送り出していった人間が、生きのびて帰ってきたわけですから。
(中略)
さらにひどいことに、女性が明け方、ボロ雑巾のように帰ってくると、
「ロシア兵から悪い病気をうつされているかもしれないから、あの女の人に近寄っちゃだめよ」と、
本来であれば手をとってお礼を言ってもいいのに、そういうことを言って蔑んだ目で見る。
戻ってきた女性の周囲には誰も近寄らないのです。
[アローの不可能性定理][民主主義][じゃんけん][trade-off]
多数の者に人気のあるほうが善いというふうにはならない。セネカ
http://anond.hatelabo.jp/20080116115722
ちょっと異論。まあネタとしてハルヒ厨をからかってやりたいという意図はわかるんだけど、単なるイジメっこかよ、っていう。
ちなみにオレはハルヒの最初の一冊を本屋で立ち読みしただけの人間。アニメは見とらんし、大体の設定だけしか分かってない。だから間違ってたら適当に訂正くれ。
まず、批判される「スイーツ」って
こんな感じだろ。
で、ハルヒの場合はこう
どこが違うかというと、自分のあり方に対して常に懐疑的でありそれが行動原理にもエネルギーにもなっている所。だから転換も早い。見直し、検証に余念がないし、常に物事を前に進めようとしている。だから、仮にやることそのものは非常にフォーマットっぽく見えても彼女は自律的に見えるし、実際それは自律と言って差し支えない。
だが、「ではハルヒは完全に自律的な人間なのですか」と聞かれるとちょっと問題がある。彼女はそもそも非常に深く「自分はユニークな存在でなければならない、そして世界にはもっと『何か』があるはずだ」という深いとらわれを抱いており、それがいわば物語の根幹をなしている。そして彼女をとらえている「その先にもっと『何か』があるはず」というその衝動こそは、進化論を元につむがれた近代社会モデル、あるいは近代という名の病そのものであり、「自分はユニークな存在でなければならない」というものは近代的自我そのものだ。つまり、その意味ではハルヒは典型的すぎるほど典型的な近代人。多分生まれた時代が違えば地球一周したりアメリカ大陸発見したり降霊術に凝ったりしたような人間のタイプだし、その意味では彼女もまた近代というものに「とらわれた」人間であることは言うまでもない。
ただ、さらにいうと、「自分で考えてないスイーツ」を批判それ自体が、そのような「近代」概念に基づく批判なわけで、その場合批判する側の人間も実は全部「とらわれた」人間であるということになる。
まったりと生きてもいいんだよ、と誰か言えば終わってしまう。それだけの話でもある。まあそんな人間がいたらあの世界で真っ先にハルヒに存在を消されてしまいそうではあるのだが。