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蓬莱学園の復刊とラノベ図書館04 ライトノベルの二次文庫を出すにはどうする?|中津宗一郎
しかしここで問題になるのが、ライトノベルというジャンルの傾向です。「書き下ろし文庫」として書かれたライトノベルは、良い意味でも「読み捨て」という傾向が強いのは否めません。例えばスニーカー文庫という名称も、元々は『スニーカーのように履き替えられる、読み捨てして軽やかに読める文庫』という意味が付与されていたとも言われています。
このスニーカー文庫の名前の由来について、ブクマで疑問視する声があったのでググってみた。
ラノベ史探訪(1)-「スニーカー文庫」:名称の公募から決定まで【前編】 | ライトノベル研究会
スニーカー文庫はもともと、「角川文庫・青帯」という形で角川文庫内の一部として生まれたらしい。
ラノベ史探訪(2)-「スニーカー文庫」:名称の公募から決定まで【後編】 | ライトノベル研究会
発表当初から「スニーカーシリーズ」となっていた記載は、「コンプティーク」や「ドラゴンマガジン」の1989年3月号発売の頃に「スニーカー文庫」に変わっていきます。
この記事の中では、「スニーカー」が選ばれたことについて、「私見」としてこう書かれている。
上記候補の中からなぜ「スニーカー」という名称が選ばれたのかについて。出版社側からすれば、靴の中では手軽でカジュアルなスニーカーのイメージが、若者向け作品を刊行していた「角川文庫・青帯」のイメージに合致したからではないかと(もちろん若者に馴染み深い単語だからといった他の理由もあったとは思います)。
(中略)
ただここで注目したいのは、「スニーカー」という名称が公募の形をとって読者側から(公募ゆえ「応募者=読者」とも限りませんが)提案された点です。つまり読者側にとって当時の「角川文庫・青帯」は、スニーカーのような手軽さがあると少なからず思われていた、ということになります。その「手軽さ=ライトさ」という意識こそ、1990年末頃に「ライトノベル」という名称の誕生へ繋がっていく…こうした仮説の検証も今後行っていく必要がありそうです。
スニーカーという語には、当時の読者の「ラノベ」(と後に呼ばれるジャンル)に対する「手軽」「カジュアル」「ライトさ」のイメージが反映されていたのではないか、という内容だ。
これ自体はもっともな話である。だが、少なくとも「履き替えられる」「読み捨て」とまでは書かれていないのは間違いない。
という話が、もしもこの記事を参考にして言っているのだとすれば、さすがにやや誇張した要約と言わざるを得ないだろう(文化軽視の風潮があると危機感を煽るため?)
ただ一方で、noteの著者はまさに、もともとスニーカーの編集部にいた人らしい(在籍時期は90年代とのことなので命名時に立ち会ってはいない)
そのため引用した記事とは無関係に、スニーカー=「読み捨て」の意図があったと言えるだけの根拠を得ていた可能性は十分にある。編集部内ではそういう意識で語られてたとか、応募ハガキ?にそんな感じのことが書かれてたとか。
どっちなのかは本人に聞かなきゃわからん。俺は直接聞くほどではないので、気になる人はどうぞ。
おしまい。
あかほりさとるはメディアミックスの作品が多いから復刊難しいと思うよ
NHKが権利買い取った「マペット放送局」とかが分かりやすいけど
DVD出してくれって言っても、どう権利を整理するんだ?って考えたら無理な奴
作者がOKで、富士見ファンタジアがOKで、遊演体がOKなら電子化はすぐ出来そうだ
紙の本として復刊すると高くなるんだよね
胸キュン刑事 新装版を書店で見つけて、値段も見ずにレジに出して、請求にびっくりしたよ
一冊3000円してたからね
読者参加型の「シスター・プリンセス」とか「聖エルザクルセイダーズ」も
ラノベの文化として話す時に、蓬莱とか聖エルザや、メディアミックス系の作品群はちょっと違う感がある
一側面であるのは確かだけど
某ラーメン屋と地元酒蔵のトラブルのお蔭か、珍しく神奈川の日本酒が話題になっているので。
一般的に、神奈川に酒どころのイメージはあまりないだろうけれども、実は例の阿夫利山の麓に14軒の酒蔵がある。
ちなみにこんな書き出しにも関わらずでスマンが、自分は件の酒蔵の酒は飲んだことがない。個人的に好きなのは以下。
神奈川の酒では有名な方かもしれない。
酒米の栽培から酒造りまでを一貫して自社でやっており、雑味の少ない綺麗な酒を造る。
今の時期は「夏ヤゴ」ラベルなんかをキンキンに冷やして、刺身やカルパッチョと一緒にキュッといきたい。
残草蓬莱は「ざるそうほうらい」と読む。「ざんそうほうらい」ではない。
白ワインっぽい日本酒から、ドッシリ日本酒らしい酒までオールマイティに造っている。
先日は焼鳥だとか夏野菜の炭火焼きと一緒に飲んだ。うまかったなあ。
とにかく「食事と一緒に楽しむ酒」に特化している。香りが穏やかで旨味が強い。
一般的に日本酒は製造したらすぐに瓶詰めして出荷するが、ここの蔵では数年寝かせてから出荷している酒も多い。
そういう酒は常温でも良いが、熱燗にすると更に深みが増す。これの熱燗と蟹味噌を合わせてみてほしい。雲丹でもいいな。飛ぶぞ。
なかなか味わい深い回答が得られたので転載。わかるやつだけ笑ってくれ。
『蓬莱学園の冒険!』は、日本のライトノベル作品で、作者は竹井10日(たけいとおる)氏です。同作は、学園を舞台にしたファンタジーアドベンチャー作品で、主人公の蓬莱透(ほうらい とおる)が、蓬莱学園で起こる謎の事件を解決するために、クラスメイトとともに冒険を繰り広げる物語です。
物語は、現代の日本を舞台に、妖怪や神話の世界が現れるという設定で展開されます。主人公の蓬莱透は、謎の力を持つ「異端能力者」として、蓬莱学園に入学します。そこで彼は、異能力を持つクラスメイトたちと出会い、謎めいた事件を解決するために、共に戦いを挑みます。物語は、ミステリー要素やコメディー要素も含んでおり、読者を飽きさせません。
『蓬莱学園の冒険!』は、竹井10日氏が手がけるライトノベル作品の中でも人気の高い作品の一つで、アニメ化や漫画化もされ、広く愛されています。
作者だれだよw
中身の方は、もしかするとそういうのもあったのかもしれないので一概に否定はできないが
普通そうじゃないよな?
「鋼鉄の虹」は、1995年に遊演体が主催したオンラインゲームの一つです。当時はまだ一般的ではなかったインターネットを利用したゲームとして、話題を呼びました。
「鋼鉄の虹」は、プレイヤーがパイロットとなり、ロボット兵器「デスターロボ」を操り、仲間とともに敵と戦うという内容でした。プレイヤーは、自分のロボットに武器や装甲をカスタマイズすることができ、戦いを有利に進めるためには、戦術や協力プレイも重要でした。
当時のインターネット接続環境は、現在のように高速かつ安定しておらず、プレイヤー同士の通信が遅延することがよくありました。しかし、「鋼鉄の虹」は、多くのプレイヤーがオンラインで同時にプレイすることができるという革新的な試みであり、オンラインゲームの先駆け的存在として、現在のオンラインゲームの発展に大きな影響を与えたとされています。
「ゲームの歴史」並みに突っ込みどころしかない。なんだデスターロボって。
「鋼鉄の虹」は、1995年に遊演体(ゆうえんたい)というインターネットサービスプロバイダーが主催した、日本初の大規模ネットワークゲームイベントです。当時は、インターネットが普及しておらず、モデムを使って電話回線を介して接続するという、現在とは異なる環境で行われました。
「鋼鉄の虹」は、約3,000人のプレイヤーが参加した、リアルタイムで行われるオンラインゲームで、プレイヤーたちは自分が所属する国を代表して、仮想空間上で互いに戦ったり、情報を収集して自国の発展を促したりすることが目的でした。また、当時の日本のインターネット界隈では、まだオンラインゲームというものが珍しかったこともあり、多くの人々の注目を集めました。
「鋼鉄の虹」は、参加者たちの熱意や情熱によって盛り上がり、その後も遊演体主催のネットワークゲームイベントが数多く開催されるきっかけとなりました。現在では、オンラインゲームは一般的なものとなっていますが、当時の日本のインターネット文化を象徴する出来事の一つとして、記憶されています。
日本最初のオンラインゲーなのか。遊演体はインターット文化史上のエポックだったらしい。
新潟まで陸路二日、そこから朝鮮海運の船に割り込んで海路で六日。ようやくウラジオストック到着の報を聞き、甲板に出ると雪がちらついていた。その冬時江が初めて目にした雪であった。
まだ岸までは五キロメートルほどあったが、灰色の景色に沈む懐かしい街が小さく見えていた。しかし懐かしいのは地形ばかりで、港には見慣れぬ高い塔が立ち枯れた林のようにいくつも屹立し、その先端からは黒雲のような煙を絶え間なく吐き出していた。
「あれがぜんぶ煙突か」
「発電所です。燃料は石炭で、北樺太にあるのと同じものですな」
無意識につぶやいた言葉に応じたのは、大太鼓のように太く響く男の声だった。白髪を時代遅れの髷に結い、顔の下半分は髭に埋もれた野武士のような容姿だが、ほんの少し前までこの国の老中だった男、遠藤である。
「四郎左衛門。あまり寒いところへ出てきては体に障るのではないですか」
「私はすでに四郎左衛門ではありませぬ」
「……そうでした。遠藤殿」
思わず在職中の感覚で呼びかけてしまい、時江は気まずく言い直した。遠藤、かつての遠藤四郎左衛門蓬莱は本人の言う通り、頼みもしないのに城を下り、この旅に随伴してきた物好きな男だ。
「それは初耳です。ウラジオストックへも?」
「無論です」
「どう思いました」
そう尋ねたのは、ふと、遠藤が自分の故郷をどう見たか、興味が湧いたからだ。しかし帰ってきたのは時江の思いもよらぬ答えだった。
秦の始皇帝の命を受けた徐福は、不老不死の薬を求めて日本にわたり、
日本の各地には徐福が暮らしたという伝承が残っている。冒頭で述べた新宮市の徐福公園もその一つだ。ここには公園が整備される以前、江戸時代前期に紀州徳川藩初代の徳川頼宣の命でつくられた「秦徐福之墓」の碑が立っている
始皇帝も本気になった。徐福のいう三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(ほうらい・ほうじょう・えいしゅう)のこと。それは渤海の(遼東半島と山東半島に挟まれた内海)の先にある神仙が住むとされた山のことである。さっそく徐福は命を受けて東の海へと出発した。その時には3000人の童男童女(若い男女のこと)と百工(多くの技術者)と財宝に五穀の種子を詰めこんでいた。こうして船出した徐福一行が帰ってくることはなかった。「淮南衡山列伝」では、平原広沢(広い平野と湿地)を得て王となったと記述されている。
この出来事は紀元前219年頃のことと考えられている。日本ではようやく長い縄文時代が終わり弥生時代を迎えた頃である。卑弥呼が登場するのは、ようやくこれから400年ほど後のこと。まだ日本には文字で記録されるような文明はなかった。そのためか『古事記』『日本書紀』には徐福に関する記述はない。
ただ不思議なことに古来より日本の各地には徐福が暮らしたという伝承が残っている。冒頭で述べた新宮市の徐福公園もその一つだ。ここには公園が整備される以前、江戸時代前期に紀州徳川藩初代の徳川頼宣の命でつくられた「秦徐福之墓」の碑が立っている。
あくまで、伝承の人物だったはずの徐福研究が活気づいたのは1990年代初頭からだった。長らく徐福は『史記』に記されながらも、存在が疑問視されてきた。『史記』は歴史書として名高いが、一方で批判的な視点での読解が求められる書物である。なにしろ作者である司馬遷も自分で見たり聞いたりしたことを書いているわけではない。徐福も司馬遷の生きた時代からは100年あまりも前の人物である。
『史記』のほかにも徐福の記述がある史書は多かったが、話の荒唐無稽さもあって、あくまで伝説上の人物という見方が強かった。
その認識が覆されたのは1982年のことである。当時『中華人民共和国地名辞典』編纂に携わっていた徐州師範学院教授の羅其湘は江蘇省の連雲港市郊外に後徐阜村という地名があるのを見つけた。調べてみると、この村は清の初め頃までは徐福村と呼ばれていたのだという。
これを契機に秦・漢代の造船所跡などの遺跡も見つかり、にわかに徐福の実在性は高まったのである。今では、この村は廟も建てられ徐福生誕の地として観光地になっているという。