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はてなキーワード: 自然主義とは

2016-02-18

ハースハウス自然主義ってのは同性愛は不自然だとかいとき

自然」の意味での自然主義なんだろうな。

種の存続が重要だとか言ってるし。まあ目的論だろう。

同性愛者でも、種の存続のために我慢して異性間で性行為をし続けたり、

人口妊娠に関与したりすれば、そのことが有徳であることに貢献するのだろうな。

自然主義っつうか、非超自然主義なんだろうな。

敬虔からよい行為をすることからは有徳とは言えないとするってことは。

2015-05-26

弱者男性話題を眺めてて思うんだけど、

フェミリベサヨ諸氏は、進化心理学におけるヒトの性行動研究の成果をただ知らないから無茶苦茶いってるのか、

その成果の存在を知った上で黙殺しながら道徳主義的誤謬に突き進んでるのか、

はたまた、彼ら自身生物学的な事実から自然主義誤謬を犯してしまうから知らないふりをしているのか、

どれなんだろう。

2013-12-25

映画史勉強について

まず「アメリカン・ニューシネマ」ってムーブメント60年代後半から70年代にかけてあったことを知りましょう。くわしくはググれ。そんで代表作とか一通り観ろ。

その元祖たる『俺たちに明日はない』はフランスゴダール勝手にしやがれ』のパクリとまでは言わんけどそれに近いものであるということを知りましょう。

次にゴダールは「ヌーヴェルヴァーグ」というフランス50年代後半から60年代にかけての運動旗手であったことを知りましょう。

とりあえずヌーヴェルヴァーグについてはゴダールトリュフォーの初期代表作をググってざっと観ましょう。ゴダールは難しいので分からないならそれはそれでいいです。

ヌーヴェルヴァーグイタリアにおける自然主義の影響がすごいので「ネオレアリズモ」でググって適当代表作を観ましょう。

ヌーヴェルヴァーグは他にハリウッド黄金期やヒッチコックを高く評価していたことを知りましょう。

というわけでジョン・フォードハワード・ホークスビリー・ワイルダーウィリアム・ワイラーフランク・キャプラあたりのオーソドックスハリウッド黄金期の名作を純粋に楽しみましょう。

ヒッチコックは『逃走迷路』『見知らぬ乗客』『ロープ』『裏窓』『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』『鳥』あたりでも観ましょう。これらがどうすごいのかはググれ。

ヒッチコック技法1920年代の「ドイツ表現主義」の影響がすごいのでF・W・ムルナウ吸血鬼ノスフェラトゥ』とかフリッツ・ラングとかローベルト・ヴィーネ『カリガリ博士』を観ましょう。ググれ。

ムルナウの『サンライズ』でモンタージュという技法の巧みさを知ったところでグリフィスの『国民の創生』とかエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』あたりでも観てへーって思っておきましょう。


あとまぁホークスとかに多いけど「スクリューボール・コメディ」っていうのがあるんだが適当にググってくれ。

コメディ映画史おいてはチャップリンとかマルクス兄弟とかバスター・キートンがその前の下地としてあるのは知っとくといいよ。

現代映画だとウディ・アレンとかかな。キートンは『将軍キートンキートンの大列車強盗)』『キートン探偵学入門』あたりはすごい。


他にもホラー映画史とか戦争映画史とかミュージカル映画史とか西部劇史とか「フィルム・ノワール」とかいろんな物差しがあるんだけど小休憩終了につきここまで。

そんじゃーね

2012-10-30

今そんな力量のある小説家現代にいるだろうか?

尼崎のあの事件を素材に多数登場人物が登場させ、バイオレンスを維持してミステリー性を失わず自然主義で書ける作家

ルーゴンマッカール叢書のシリーズで『獣人』『居酒屋』『ジェルミナール』を書いた故エミール・ゾラ以外に現代に居るだろうか?

あの事件は名作ホラーミステリー小説『黒の家』以上

ミステリー」「恐怖」「バイオレンス」を現実やすやす凌駕してしまったのでそれ以上のレベルを書ける作家となると思い当たる人がいない

2010-04-14

開くことと閉じること

 ここしばらくのところ、開かれた人間と閉じられた人間、ということを考えてきた。

それを考えるに至った理由は、高校時代には良いことだと思ってきた好奇心が、

大学に入って、なんだか悪いことのように思えてきたからだ。僕自身、周りの影響を受けて遠慮するようになってきたのだ。

それが大人になることなのかもしれない。だけど全く楽しくなかったし、読んできた無数の本の内容が

全て否定されるような気がした。それに否定してくる人たちはみんな退屈だったんだ。

 これは悲しいことだった。そしてそれに共感する人間もいた。

退屈は悪いことだ。新しいものを生み出すことをしない。

退屈の空気に慣れると、変化を嫌がるようになる。

だけど変化を否定した組織共同体は、死んでいるんだ。変わるとしても、腐敗するだけなんだ。

 僕の周りでは、どうやって変えるかについて議論をする奴はいなかった。

開かれた人間は閉じた人間には興味がなくて、自分たちでやっていけばいい、と言うんだ。

そうなのかもしれない。変わりたくないって言ってるやつを無理に変えることはない。

でも、変わりたいけど変わり方がわからないやつに対して、何ができるかを考えることには意味がある。

それともう一つ。この文章をここまで読んでいるだけでも、完全に閉じてはいないことを分かってほしい。

 僕の周囲を見渡してみると、好奇心を肯定する人間と、否定する人間、そういう基準で人間を二つに分けられることに気付いた。

ここで書かれている「好奇心」は、質問を歓迎するか、ということで言い変えてみてもいい。

 好奇心を肯定する人間は吸収し続けている。これを開いている人間と呼ぶことにしよう。

好奇心を否定する人間は、ルール学習した後は、それを変えることを好まない。

これを、閉じている人間と呼ぶことにしよう。

一般的に学校先生は殆ど閉じている。学校という組織が開くことを否定するものだからだ。

彼らは、質問はありませんか、と言う。

だけど、僕らの疑問に興味を持ってはくれないんだ。

予習が足りないとか、授業をちゃんと聞けとか、そんなことを言うんだ。

 開かれた人間は大体が、閉じられちゃったら仕方ないよね、と考えている。

諦めてしまっているんだ。ただ開かれている人間を見つけたら、一気に仲良くなる。

例えば、筒井康隆や、阿佐田哲也の交友関係みたいに。

で、僕が考えるのは、なんとか人間をこじ開けることができないかということだ。

 それを小説でやろうと考えていたんだが、小説を動かすエンジンになる「思想」

が明確化されていないのに小説の結論を出すのは難しい。

だからエッセイを使ってみることにしたんだ。

エッセイというのは、ポール・グレアムが「エッセイの時代」

http://blog.livedoor.jp/simoom634/archives/50189369.html

というエッセイで言及していたことだ。

つまり、頭の中で考えるんじゃなくて、文章にして考えてみるんだ。

 グレアムの流儀に従ってみることにしよう。

エッセイは質問から始まる。

閉じた人ってどんな人?開かれた人ってどんな人?って具合に。

で、僕にはあらかじめ考えがあったわけじゃないんだ。どこにたどり着くかもわかってないんだ。

 ここで2つ目の質問を出そう。これは大事なテーマだ。

「閉じた人はどうやったら、開いた人になれるの?」

これは最初に書いた定義に従えば、どうすれば好奇心を取り戻せるかってことだ。

それは閉じた組織にいるときには難しいことだ。閉じた組織は疑問を持つことを否定するんだ。

じゃあどうする?反抗するのがいいのか?従って、だけど頭では違うことを考えているのがいいのか?

 

 これはどちらも間違っている。

 反抗したところで、閉じた思考の持ち主は、とりわけあなたの上司は、閉じることに関してはあなたよりも一枚上手だ。

なにしろ彼はあなたよりも長い間、どうやったら疑問を抑えられるかを学んできたのだから。

 

 もし従ったならば、あなたの思考は多かれ少なかれ、それに適応してしまう。

思考を麻痺させるプロセスに抗い続けるのは難しい。

 開かれた人間はコースアウトするんだ。面白そうなところに向かおうとするんだ。

そして自分ルールを見つけて、楽しく生きるために必要な原則を見つけるんだ。

開くために必要な手段は、素朴な疑問を持って、それを潰さないようにすることだ。

それと、楽しんで生きることができる例をもっと沢山知ることだ。仕事は義務で、趣味に生きるっていうのではなくてね。

 開かれている人の集まる場所を考えてみよう。一人になることだって、麻痺させないためには悪くないんだけど、

それは寂しいし、慣れないだろう。

だから開かれた人のいる場所を考えてみることにしよう。

彼らは大体が一人でいるか、小さな組織にいる。

もしくは、大きな組織の中でも、独立性の高い小さな組織にいる。

大きな組織と開かれた人は相性が良くないんだ。

彼らが彼ら自身のルールに従うから。。

 子供の頃はみんな開いている。みんな素朴な疑問や、旺盛な好奇心を持っている。

それが「正しい」ものかは別にしてね。

 それが大人になるにつれて、規律とか、常識とか、空気とかを理解するようになっていく。

親や学校社会教育で、そういうものに従うのが正しいものだと思うようになっていく。

閉じた人間はこう答える。でもこれは伝統だから。歴史には理由があるんだよ。

もっと閉じた人間はこう答える。これはルールだから。ちゃんと守らないと。

それはトートロジー(Q女とは?A人間のうち男でない方みたいな説明のこと)じゃない?って疑問には、沈黙を持って答える。

 開かれた人間には確信がある。それは自分で考えたものだ。

閉じた人間には確信がある。それは何度も教えられたものだ。

どちらでもない人間は迷う。おかしいなあ、と思う。

それを開いてやろう、とぼくは思うわけだ。

音楽小説映画エッセイや美しい学問は、人を開く役に立つ。

必要なのは、相互に矛盾するような性質のものを両方受容することだ。

たとえば、自然主義小説と、ファンタジー

パンクロックと、クラシック

古典力学と、量子力学

こんな具合に。

 

 だけど、どちらでもない人間は、少ししか空いてないわけだ。

だから一度に沢山の物を入れることはできない。

それに強烈なメッセージには拒否反応を示すかもしれない。

始めは、変わってしまうのは怖いことだから。

「教え」が入り込んでくるのは、自分自分でなくなるような気がするからだ。

だけど、「考え」だって、「教え」の総和にすぎないわけだ。

素敵な大人達が厳選したものではあるけどね。

 それに対抗するには、沢山の教えを学んで、シャッフルすることだ。

沢山の教えの中には、閉じたものも、開いたものもある。

だけど歴史に残るものには、開いた人の作るものが圧倒的に多い。

彼らが何かを変えてきたからだ。

だからそういうものを受け入れることによって、開いた人になることができる。

 だけど、閉じた大人たちだって、本を読めとは言うんだ。

どの本を読めとは言わないけどね。

それは彼らがどの本が良いかを理解できないからだ。

そういう訓練を(つまり沢山の本を読むことだ)してこなかったからだ。

 別に本に限らないんだ。音楽でも、映画でも、漫画でもいいんだけど。

とにかく自分の中に規制を設けないことだ。読みもしないのに、聞きもしないのに批判をしないことだ。

そしてとりあえずちょっとずつ試してみることだ。

何か気に入ったものがあれば、その作者の他の作品や、その作者が好きだったものや、薦めているものや、

amazonで薦められているものを調べたりしてみることだ。

一つ注意点。昔の小説は、昔の作品は、長い前置きがあるんだ。

忙しい現代人の為には作られていないんだ。

それを耐えるためには、読みやすい文章のものを選ぶこと。そしてそういう事実を理解することだ。

 だけどそうやって開いたところで、社会押し付けはしつこく続く。

これに対抗する方法は、戦うことじゃない。さっさと逃げることなんだ。

 素晴らしい場所を見つけるんだ。技術や知識を磨きながらね。

なんなら素晴らしい場所を作ったっていい。

素晴らしい場所を作るっていうのは、尊敬できる友人と起業するってことだ。

 そうすれば素晴らしい人生を送れるはずだ。少なくとも閉じた人間よりは、沢山のことを見ることができるし、

沢山の感情を感じることができるんだ。

2009-03-12

http://anond.hatelabo.jp/20090308152436

自分価値観を無闇に押し付けてくる奴ってなんなんだろ。

音楽楽しみ方は人それぞれなんだし。

それに様々な要素からひとつだけ抜き出して叩くってのもたちが悪い。

今回のミクCDの評判を見れば、それがミクの歌声のみによるもの

じゃないことくらい容易に判断できるだろうに。

これじゃあ山岡士郎いちゃもんと変らん。

努力といえば、デジタル技術進歩によって

アマチュアミュージシャン音楽活動はだいぶ変った。

それこそ努力や資金がなければできなかった

本格的な音楽活動の敷居がだいぶ下がった。

ボーカロイドもそんな技術のひとつだ。

このエントリを読むと、まさにそんな技術に対する反発心が窺える。

自然主義的な。

やっぱりソフトを使ってボーカルピッチをちょこっと修正したり

するのも許せないたちなんだろうな。

2009-02-26

ラノベ的なもの、ラノベ的でないもの

 ライトノベル・ブームなどと一部では言われているものの、実際には現在、まともな関心に値するライトノベルはほとんどない。そもそもここ数年間(〇四年以降)で、一部マニアの関心を超えて認知するに足るラノベ作家は、有川浩冲方丁、それに桜庭一樹の三人くらいしかいなかった。しかも皮肉なことに、その彼らの作品の質は、むしろラノベ的なもの(ここではあえて漠然とした表現を使っておくが)から距離をとることで維持されてきたように思われる。

 どういうことか。例えば有川。『空の中』『海の底』の二作で決定された彼女メジャー路線・一般文芸路線は、それ以前の作品、例えば『塩の街』が豊富に持っていたセカイ系想像力の抑圧の上に成立した。ハードカバー版『塩の街』を読むと、有川がその切断を意図的に行ったことが確認できる。また冲方の『マルドゥック・スクランブル』は、ラノベ特有のキャラクター小説とは対極にある自然主義リアリズム、およびのちに獲得した日本SF大賞という名声からして、ライトノベルの状況からある程度独立制作された作品だと考えてよい。つまりSFであるがライトノベルではない。三人の中では最もゼロ年代ラノベに深く関わっていた桜庭でさえ、メタフィクション的な志向の強い『桜色ハミングディスタンス』を発表した後はミステリ作品や一般文芸作品を精力的に執筆するようになり、結局『赤朽葉家の伝説』で「ライトノベル」「キャラクター小説」と完全に決別してしまう。ゼロ年代後半以降、ラノベ作家たちのほとんどは一方で低品質な異能バトルを、他方で、急速に整備されたネット環境をフルに生かした一部マニア向けの、ただ萌えキャラが登場するだけの作品を無批判に生産する閉塞した状況に陥っていた。上記三人がかろうじて良質の作家たりえていたのは、彼女らがともかくは、そのようなラノベ特有の作り手と受け手が一体となった閉塞した空間(ラノベサイトこのラノニュースサイト2ちゃんねる)に荷担することを拒否しえていたからにほかならない。つまりライトノベルは、ジャンル全体として、ここ数年圧倒的に―――その市場の巨大さと比較すれば信じがたいほどに―――不毛だったのである。

 ライトノベルという表現ジャンルは、上遠野浩平以後、急速に量的拡大と質的分化を遂げた。あらゆるジャンルと同じように、ライトノベルにもまた「ラノベ的」としか言いようのない物語や文体が存在する(例えばそこには、SF冬の時代の数少ない遺産がある)。にもかかわらず私たちはここ数年、ライトノベルジャンル特有の諸規則を生かした、つまりいかにもラノベ的でかつ高水準の作品というものを何一つ手にしていない。これは驚くべきことだ。ラノベジャンルとして死んでいる。

 おそらくこの問題を、いままで最も真摯に受け止めてきた作家桜庭である。彼女出世作『赤朽葉家の伝説』は、その意味で徴候的な作品だった。物語から「萌え」的要素を排除し、オリエンタルマジックリアリズムイメージ社会科学系タームを大量に投入して作られたこの作品は、評論家受け・一般文芸受けの戦略に満ちたかなり空虚な作品だ。にもかかわらずそれは、桜庭のかつての傑作『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』やライトノベルミステリ最高峰『GOSICK』などよりも評価されてしまう。桜庭はそのことをよく分かっている。彼女は、ライトノベルというだけでは、誰も作品をまともに見ない。逆を言えばちょっと文体を変えエサをばらまけばすぐに文学的・一般文芸的(「もはやラノベではない」)とされるその現状を、アイロニカルに追認して『赤朽葉』を書いたわけだ。その所作は悲劇を通り越して、滑稽というほかない。僕はそんな桜庭を見ながら、ますますライトノベルの終わりを痛感している。

2008-08-25

遺伝子を残すことと浮気の話

 社内恋愛はこれだから困る。

「よく弘子としゃべっているけど、私より弘子の方がかわいいんでしょ」

「はあ?そんなことないよ」

 彼女の部屋でエッチしていた時だ。

「私より弘子の方が若いしね。若い子が好きでしょ」

「年齢なんて関係ないだろ。何?やきもちやいているの?」

「男って、浮気するように体ができているんでしょ」

「はあ?何言ってるの」

「雄って、自分の遺伝子を多く残すために、たくさんの雌と交尾する必要があるんでしょ」

「バカ、何言っているだよ」

利己遺伝子ってやつよ」

「それどこかで読んだな。お前、『ふたりエッチ』読まなかったか」

「何だっていいでしょ」

「あれはそういう意味じゃないだろ。浮気っぽい女が、正当化する話で使ったマンガの話だろ」

「じゃあ、何なのよ」

「とにかく、俺は別に弘子にそんな感情なんて持ってねーよ」

 まるで社内では彼女に監視されているみたいだ。

 他の女性社員と楽しく話しちゃいけないのかよ。

別の日。

「愛は4年で終わるって、知っているか?」

「何よ急に」

「いやいや、お前がこの前言っていた遺伝子何たらの話だよ」

「何?調べてきたの?」

結婚離婚浮気も、すべて優れた子孫を多く残すためなんだよ。ほれ、複数の家族が集団で生活していた原始時代は、4年で乳離れした子どもの世話は周囲にまかせて、配偶者を変えることができたらしい。両親が異なれば、子どもの体質も変わるので、伝染病流行しても全滅は防げるかもしれない」

遺伝子を残すための知恵ってこと?」

「だから子孫を増やすことだけ考えれば、配偶者も変えてもやむなし、という時代があったんだろうな」

「愛が4年で終わり、男が浮気性なのは、その時代のなごりって訳?」

「しかし、それはそれであって、雄に浮気する傾向があることと、浮気が許されることとは、全く無関係だよ」

「それも『ふたりエッチ』にあった?」

「いや『男のための自分探し』って本。自然が「いかにあるか」と探求した結果が、浮気を「すべきである」と正当化することはありえないのさ。自分の家族恋愛関係をブチ壊すほどの本能があるのはなぜかを論じることと、本能に流されてもよいと認めることは、全く違うのさ」

「なんだか哲学ね」

「そこらへん、『ふたりエッチ』にもちゃんと書いてあったぞ。『利己的な遺伝子』には、人間性に関わる生活様式は遺伝子より文化に決定されている、とね」

「文化が雄の浮気を止めているってこと?」

「俺もさ、日本の文化に忠実なのさ」

「そんなことで私が納得できると思っているの?」

「また弘子の話かよ。関係ねーよ、俺には」

 しかしあれだな、原始時代ではないにしろ、いつ来てもおかしくないパンデミックで生き残る為に、やはり多様な子どもを残すべきなんだろうか。

 それも「自然主義的誤謬」と呼ばれる謝った考え方だな。

 なにしろ、俺には子どもはごめんだ。

2007-08-17

「のが」っていう言い方が苦手

 NANAで初めて見て、あの作品がブームの元なのかもしれないと思っているのでそういう見方で書くけども、NANAブームの頃から「○○の方が○○」という言い回しを「○○のが○○」と省略する表記をウェブでよくみかけるようになった。

 凄く個人的(+理不尽かもしれない)な感想ながら、それが目障りで、目にするたびに少々ムカつく事もあったし(なんだかんだで今は割と慣れたが)、実際に見間違ったり読みづらくなるケースはあると思う。

 いずれにせよ嫌悪している理由に説得力はないかもしれないが、とりわけ不快感を覚えるのは、実生活で使った(であろう)、もしくは流行った(であろう)言い回しを当たり前のようにウェブというテキスト界で使われるようになってしまったのではないか、ということ。

 そもそも「のが」という省略形の語感から考えて、おそらく若い層(自分もその層だけど)が作り出した、流行言葉みたいなものなんじゃないかと思う。

 実際にNANAはそういった特に若い層を題材&ターゲットにしているし、無関係じゃないのではとも。

 流行っている言葉を使う人にとって、話したり文章を書いたりするシーンでそういった言い回しが、どれだけ自然に思い浮かぶものかというのは承知しているつもりだけども、やはり情報の伝達手段がテキスト主体であるウェブ上で、まるでメールをしたり普段仲間と話すような感覚のままそこかしこで使い倒すのはいかがなものかと思ってしまう。

 NANA2次元だし、違和感なく登場人物が「のが」って使うかもしれないけども、あの作品はいわゆる自然主義リアリズムで描かれていると言えるだろうし、つまるところNANAは元々、現実を模写するような構造で創られたわけで。

 いくら紙面でセリフという文章として使われていて、日頃自分たちが読みなれている言い回しとはいえ、その”ウェブ外の現実(実生活)”の感覚(とりわけ言い回しなどの点において)をウェブに持ち込むという事は、情報を伝え合う気があるのかないのか、少し配慮にかけるのではと感じた思い出。

 あとウェブで調べる限り、この言い回しに不快感を感じる人が何となく少なそうなのがちょっと意外だった。

 念のために書くと、実生活で使う分にはウェブ上ほど気になるものではないように思うのも確か。

「の方が」をなんとなく短く、場合によってはそれを可愛く感じて使う人もいたりするだろうが「のが」という短縮形にしたところで、聞こえ方の感触はそんなに違和感の強いものではないと思う。

 要するに、そういう類の略語を使用するのは「テキスト」ではなく「音」だけにしといてくださいということ。

2007-03-27

http://anond.hatelabo.jp/20070327231234

 わざわざありがとう。でも、そこで語られている内容は自力で大体分かったんだけど(純文学自然主義リアリズムライトノベルエロゲーまんが・アニメ的リアリズムの対立概念)、結局「ゲーム的リアリズム」ってのが東浩紀の言う「動物化するポストモダン」ってのとどうつながっていくのかが分からない。そもそもどこで「動物化」している論拠が語られているのかよく覚えていないこっちが悪いのかもしれないけどさ。

 それと「データベース消費型の物語」ってまとめ方、ものすごく粗雑なまとめ方な気がするんですけど、そこについてはどう思われますか。

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