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2008-07-20

「クレィドゥ・ザ・スカイ」 森 博嗣のかんがえるせいじゅく

スカイクロラシリーズの最新作。

とはいえ、物語時系列的にいえば最終話の前日談になる。

つまり、刊行は5話→1話→2話→3話→4話の順で行なわれてきたことになる。

最後から始まって、最初にもどるなんてあたり、なんとなく円環構造になっているようにも見える。

各巻ともにこれといった事件が起るわけでもなく、突然変異によって生まれた<大人にならない戦闘機乗り「キルドレ」>達の日常を淡々とくりかえして描写するあたり、無限ループ構造をもった物語、すなわち東浩紀がいうところの「ゲーム的リアリズム」の書法にのっとってかかれているようにも思える。

現実」はその「環」の外にあり、キルドレ達は「環」の中で「戦闘」=「虚構」に耽溺する。

(そういえば、キルドレは老いない。これも終わりがない円環の象徴だ)

あと、文体も含めて作品をおおう雰囲気が村上春樹に似ているようにも感じた。

村上春樹というと代表作世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」が現実とのデタッチメントを書いた作品であるとよく評されることがあるが、本作もシリーズを通して、フーコやティーチャ、ソマナカやサガラといった「現実」側と人物とキルドレ達「虚構」の世界の住人を対比させているようにも思える。

そう考えると、きわめて現代的なテーマに現代的な手法でとりくんでいるのかもなんて感じたのだけど、このシリーズは単純に現実とのデタッチメントを書いただけの作品には思えない。

作者はインタビューでこのように述べている。

「戦うことは純粋で美しいという感覚を、子どもは持っている。スポーツが、そうでしょう。なのに大人は戦いは醜い、過ちだと決めつける」

キルドレはこうした既成の価値観から自由だ。

老いないという特性から、「現実世界」を特有な目で眺める。

空で戦うことにのみ価値見出し、それ以外のことにはほぼ頓着しない。

無限時間の中で空を自由に駆けるキルドレは、操縦桿を操り空に詩を紡ぐ。

その調べは重苦しい現実の中で、強く、気高い独自の価値観を歌い上げる。

一般的には「大人になること」や「しっかりと現実とやらにむきあうこと」に価値がおかれるが、その価値観ってほんとうにただしいのか?

キルドレたちのクレバーなまなざしはそう問いかける。

はたして「成熟」しているのは、「大人=現実」と「こども=虚構」のどちらだろうか。

2007-11-07

Fateは文学(笑) CLANNADは人生(笑) 泣きゲー(笑) 俺の嫁(笑) ツンデレ(笑) ヤンデレ(笑) 決断主義(笑) ゼロ年代の想像力(笑) ラノベ(笑) ゲーム的リアリズム(笑) ファウスト(笑) 新伝綺(笑) 

限界

さがせばいろいろありそうだけどな。

2007-03-27

http://anond.hatelabo.jp/20070327231234

 わざわざありがとう。でも、そこで語られている内容は自力で大体分かったんだけど(純文学自然主義リアリズムライトノベルエロゲーまんが・アニメ的リアリズムの対立概念)、結局「ゲーム的リアリズム」ってのが東浩紀の言う「動物化するポストモダン」ってのとどうつながっていくのかが分からない。そもそもどこで「動物化」している論拠が語られているのかよく覚えていないこっちが悪いのかもしれないけどさ。

 それと「データベース消費型の物語」ってまとめ方、ものすごく粗雑なまとめ方な気がするんですけど、そこについてはどう思われますか。

 
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