はてなキーワード: 桜庭とは
昨日のジャンプ買った?
・ 「アイシールド21」という作品にはひとつの欠点もないと感じる信心深い人
増田もそう思ってるよ。嘘じゃない。
看過できない仕上がりだったとも思っている。
なのでここにその旨のお気持ちを記録しておく。
・今回の読切に少しでも思うところがあった人
・「アイシールド21」という作品全体を通じて積年の思いがある人
向けの内容である。
・筆者について
・はじめに
・読切のストーリーについて
・作画について
・まとめ
の順で触れていく。
あと言っておくが「アイシールド21」の21周年は心から祝っている。
おめでとう。読切企画を実現してくれた関係者各位、先生方、心からありがとう。
・往年のアイシールドファン。連載開始から最終話までリアルタイムでジャンプで読んでた
・連載後半は2ちゃんのアイシスレ見たりもしてた(本スレがアンチスレを兼ねる様相で当時はおどろいた)
かきおろし読切の制作が決定したという作者の告知があってからこの日をずっと楽しみにしていた。
完結して十何年もたった作品の続きが読める、
こんな奇跡はまたとない。
発売日、即ジャンプ買って読んだ。
………………。
昨日からSNSは「アイシールド21が読めて嬉しい!」といった歓喜の声にあふれている。作品名でトレンド入りもしている。
いちファンが作品に真剣に相対したいち記録となることを信じてせっせとこれをネットの海に流している。
まずあの話、どうでした?
…とは思えなかった。
というか読切では当然のように「ヒル魔とセナ、双璧のW主人公」みたいな雰囲気が醸されているのだが、
という確認がなされないまま作られている印象だった。
ヒル魔というキャラクターが大いなる魅力や影響力をもっている、そのこと自体に異論はない。
彼の求心力とある種のカリスマ性が、読者並びに各種ファンダムを今なお牽引していることにも異論はない。
(原作者が格別の思い入れを注いでいることにも、この際異論はないものとする)
それでも、少年漫画としての「アイシールド21」に考えをはせるなら、第1話の構造からいっても、
この物語は「アメフトを通して描かれる小早川瀬那の成長譚」でなくてはならないはずだ。
……にもかかわらず、本作はそこをぶらしていった。
連載半ばから、ヒル魔は悪い意味でどんどん主人公化していった。
そしてそれが改善されていないどころか、全面化していたのが今回の読切だった。
思えば、最終話の落としどころはまだマシだった。
セナの結末とは別のレイヤーで、ヒル魔の着地点を描いていたからだ。
最京大・炎馬大・バベルスという別の進路をとり、三国志の道を選ぶ。
ここの3人が対等なライバルとなる結末は、
にもかかわらず読切で披露されたのは
「セナvsヒル魔、NFLにいくのはどっちだ!?」対決………って、
武蔵と栗田の立場がなさすぎて、あんまりじゃないのか????????
(※さらに言うなら武蔵に至っては読切に影も形も出演がないの、本当にあんまりだったと思う。回想の円陣にもいないとはいったい…。
※この点について「読切から興味をもった読者に武蔵の存在を伏せたかった・ネタバレを防止したかったからでは」という擁護意見も目にしたが、
そうであるなら円陣では後ろ姿で顔が見えないように描いたりすればいいだけだし、現在軸の観客ポジションにはいてもいいはずである。
読切の大筋を
という骨子にするのならせめて
セナ率いるドリームチーム vs デビルバッツ創立時メンバー3人が再結成するドリームチーム
…みたいな構図にはできなかったものだろうか。
さらに「AIをしのぐのは人間の勇気」みたいなテーマを(是非はともかく)導入したいのだったら、
半端にセナを主人公とせず、いっそいさぎよく「読切なので主人公はヒル魔です。セナは脇役として登場してもらいます」などとして構成してしまうほうが、
まだ「作者のエゴ」と「読者」と「読切作品としての完成度」、すべてに対して誠実な仕上がりをみたのではないだろうか。
このあたりの整合性のとれていなさ、ちぐはぐさが、読み味の違和感、納得感の薄さにつながっているように思う。
(※余談だが、アイシールドがスポーツマンガとして傑出している点であり特色のひとつに、
「天才と凡人」というテーマを残酷なまでに描いているところが挙げられると思う。
それを思うと、読切からその要素が完全に排除されていたのも惜しむべき点だった。
その意味においても、読切では
「身体能力においてはある種の天才であるセナと、今度はそれに挑む身体的凡人ヒル魔」
といったふうにセナとは別の視点≒ヒル魔視点から描いてしまうほうがいっそ面白かったんじゃないだろうか。
原作者のヒル魔描きたい欲も、キャラファン読者の需要も両方満たされただろうし
本作の新たな面を見せることができたんじゃないか、等々。
後述するが、原作者と編集者はそういった検討すらしなかったのだろうか)
「セナvsヒル魔の試合」という今回の読切が、アニメ最終話の追認に近いものになってしまっていることにも絶望しかない。
アニメのアイシールドはあらゆる意味で筆舌尽くしがたい出来栄えなのだが、満を持した読切がそれと今さらカブるって、そんなことがあっていいのか。
村田先生、みんなご存じ、少年漫画界屈指の超絶技巧ハイレベル画力の持ち主。
すなわち『ワンパンマン』のようなアップデートされた村田先生の作画で、
…というファンの期待は儚くも裏切られた。
今回の読切の作画、
……そうか……。
初期からずっと絵がうまくて、
どんどん画力が凄みを増していって、
20巻あたりになってくると最強に脂がのってきて、
強いこだわりや作品愛を感じられて、
あのすばらしい絵が、だいぶ淡泊でラフな方向へ変わってしまった、
そんな、あの頃の絵柄…
遠くにいるキャラには顔描き込みさえなく、
そんな、あの頃の絵柄…
それを誰も指摘しないままジャンプでお届けされていた、
そんな、あの頃の絵柄………
…………そうか………。
掲載日もガチガチに21周年に合わせているわけではなさそうだし、
読切制作告知はずいぶん前に行われていたし、
そんなこまごまとしたミスをチェックして修正する手間すら…惜しかったのだろうか。
もしや、アイシールド、描きたく……なかったのだろうか。
憶測にすぎないけれど、したくもない想像が膨らんでしまう作画がただただ悲しい。
なぜこんなにも失望感が大きいのか。
失望感を覚えるということは、
そもそも「アイシールド21」という漫画に何らかの幻想を抱かせるような霧でもかかっていたんじゃないだろうか。
その正体は何か。
理由をたどると「原作・作画の分業制でつくられた作品であること」が挙げられると思う。
そもそも、原作者の稲垣先生のほうはそこまでキャラの扱いに手厚いタイプではないと見受けられる。
かと思えば突飛なタイミングで再登場させたり、
桜庭のアイドルヘアや阿含のドレッドをある日突然無慈悲に剃り上げてファンを阿鼻叫喚の渦に叩き込んだり等々
(事実アイシ、ドクターストーン、トリリオンゲームと3本つづけて大ヒットを飛ばしている優れたストーリーテラーであるわけだし、どれもとんでもなく面白いし)
バックボーンを想像させる表情や振る舞いなどの魅力を付与して、
色んなキャラの色んな一面を描きまくってくれた。
別冊として出たデータブックでは各校の全チームメイトの顔カットを100人単位で書き起こし、
人物紹介には毎巻のように「ウォーリーを探せ」のようなぎっしり楽しい一枚絵を用意し、
神龍寺戦完結巻にいたっては、カバー絵などの余白をフルに使って、
アイシはただストーリーが面白い・アメフト題材に新規性があるというだけではなく、
そういう層のファンを獲得したという意味でも、商業的な成功をみた。
これは原作・作画別れているからこその、やや特殊な事例であると思う。
それは村田先生が魔法をかけてシナジーを起こしたキャラなのだ。
そして時を経て、魔法は解けていった。
何かのきっかけで、のっぴきならない理由で、本作を作画することへの情熱が失われてしまったのかもしれない。
読者にそれを知るすべはない。
ともあれ、作画による丁寧なフォローや補足はされなくなり、ありし日の熱量は失われ、
原作がある意味むき出しとなった結果が、連載終盤のアイシールドともいえる。
読切でも、魔法は解けたままだった。
そのことが残念でならない。
長々と書いてきたが、ぶっちゃけ少し真面目に作品に相対していればこのくらいのことはいくらでも思い浮かぶはずと思う。
なのにお出しされてきたのは、
そういう出来栄えの読切だった。
これに関して「編集者何やってんだよ」という視座を欠くわけにはいかない。
読切をつくるとなって、まともな打ち合わせの一つもしなかったのか?
批判されている点は?
少しリサーチすれば情報や感想は玉石混交いくらでも掘り出せるはずだ。
それを作品化するとして、最良の形とは?
精査していればもう少しブレや迷走は防げたはずだ。
編集者は作画クオリティ面にまでは口出しできないかもしれない。
にしても、あきらかな作画のミスを校閲し指摘することはできるはずだ。
「どうせ手を抜いたって、愛がなくたって、ファンなら喜んでジャンプを買い、涙を流してありがたがるだろう」
と、作品の知名度にあぐらをかいた編集部によって読者全員がナメられていること、
それが記念読切から透けてみえてくることが、作品を愛読してきた者として慚愧にたえない。
期待は捨てているけれど、改めて言いたい。
そして少しでも反省したなら俺らに誠意を見せてくれ。
すなわち、ファンもアンチもぐうの音も出ずに拍手喝采してしまうような、素晴らしいクオリティに練り上げた「アイシールド21」短期集中連載とか企画してください。金とアンケートならいくらでも出します。わあわあ言うとりますが未だにアイシールド大好きなんです。よろしくお願いします。ほんとマジで。
曲目
Google翻訳のアプリを利用して画像から文字を取得したため、曲名、歌手名が正しく表記されていない場合があります。
蒼い星くず 加山 雄三
青葉城恋唄 さとう 宗幸
アケミという名で十八で 千 昌夫
あざみの歌 伊藤 久男
あじさいの雨 渡 哲也
あの鐘を鳴らすのはあなた 286 和田 アキ子
雨 1256 三善 英史
雨の御堂筋 欧陽 菲菲
逢わずに愛して 内山田洋とクール・ファイブ 13
22 小柳ルミ子 漁火恋唄
射手座の女 敏いとうとハッピー&ブルー 232 愛しき日々 堀内孝雄 40
命の花 大月みやこ 383
祝い酒 坂本冬美 26
455 門脇 陸男 祝い船
ザ・ピーナッツ ウナ・セラ・ディ東京 355
松原のぶえ 461 男なら
おもいで酒 小林幸子 195
想い出の渚 ザ・ワイルド・ワンズ 199
お嫁においで 加山雄三
松原のぶえ 305 おんなの出船
悲しい色やね 34 上田正樹
がまん坂 18 北島三郎
北の漁場 41 北島三郎
京都の恋 196 渚 ゆう子
くちなしの花 462 渡哲也
圭子の夢は夜ひらく
369 藤圭子 恋あざみ
高山厳 152 心凍らせて
343 森山良子 この広い野原いっぱい
伊東ゆかり 197 小指の思い出
酒よ 36 ジジサン
さざんかの宿 大川栄策 88
サチコ ニック・ニューサー 481
里がえり 嶋三喜夫 1278
435 河島英五
田端義夫 483 十九の春
大橋 純子 155 シルエット・ロマンス
ジジサン 90 酔った歌
杉良太郎 47 すきま風
60 谷村新司 1 森田公一とトップギャラン 若者 小林幸子 1280 雪泣夜(せつないよ) 小柳ルミ子 48 瀬戸の花嫁 森進一 1281 セビアの雨 ジローズ 7 「戦争を知らない子供たち 平和勝次とダークホース 360 宗右衛門町ブルース 北海道民謡 1561年 ソーラン節 内山田洋とクール・ファイブ 2 そして、神戸 49 五木ひろし そして・・・めぐり逢い 布施明 50 そっとおやすみ にしきのあきら 187 空に太陽がある限り 増位山太志郎 283 そんな女のひとりごと 増位山太志郎 157 「そんな夕子にほれました 上田正樹 301 たかこ 真木 柚布子 1282 黄昏のルンバ
トワ・エ・モア 480 誰もいない海
三船和子 198 だんな様
五木ひろし 442 契り
敵は幾万 1570年 軍歌
時の流れに身をまかせ テレサ・テン 63
和田アキ子 160 どしゃぶりの雨のなかで
内山田洋とクール・ファイブ 191 長崎は今日も雨だった
ザ・タイガース 164 花の首飾り
165 はしだのりひことクライマックス 花嫁
167 佳山 明生 氷の雨
釜山港へ帰れ 67 渥美次郎
ブルー・シャトウ 169 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ
箱崎晋一郎 抱擁 142
北海道民謡 北帰行 365
骨まで愛して 大泉逸郎 96 孫
75 北島三郎 まつり
坂本九 83 見上げてごらん夜の星を
伍代夏子 441 水なし川
渡哲也 51 みちづれ
シャオ・リンシュウ 419 昔の名前で出ています
香西かおり 260 静けさ
藤あや子 377 むらさき雨情
やっぱすきやねん やしきたかじん 84
山 北島三郎 378
雪の進軍 1575 軍歌
夢追い酒 76 渥美次郎
夢の夜 181 南こうせつ
https://www.police.pref.osaka.lg.jp/sodan/sodan/1/13360.html
「コラボしたユニットは、「DRAMATIC STARS」「FRAME」「THE虎牙道」の3ユニットです!」
「DRAMATIC STARS」…メンバーは天道輝(28歳元弁護士)、桜庭薫(26歳元外科医)、柏木翼(24歳元パイロット候補生)
「FRAME」…メンバーは木村龍(20歳元消防士)、握野英雄(23歳元警察官)、信玄誠司(31歳元自衛官)
「THE虎牙道」…メンバーは大河タケル(17歳元プロボクサー)、円城寺道流(24歳元ラーメン屋店主)、牙崎漣(18歳元拳法家)
旧民法の20歳成人で定義するにしても、この中に未成年は二人しかいないね。18歳成人で定義すると一人だけ。
こうしてみると女性向け二次元コンテンツには成人男性キャラが多く、男性向けコンテンツの十代少女に対する執着の異常性が浮き彫りになるな
https://anond.hatelabo.jp/20220627202642
の実況後感想です。
・メンタル組で話すシーンとかハイジョ5人の友情を感じるシーンとかのオリジナル要素が良かったです
・前半36分15分飛ばしていい
・↑サイスタのメインストーリーを早口で低クオリティで再現するだけのシーン
・ない方がマシレベル
・プロデューサー、いる?
ストーリー、つまんなくないですか?
ポジティブな感想で「アイドルのこういう面や交流を見たかった」とか言ってますが、これはSideMを好きな人間なのでアイドルの新規カード来た~くらいの感情です。
アイドルマスターSideMで舞台やりたいです!ってオファーしてくださったそうですが
ああこの作り手はSideMのこういうところが好きなんだな、というのがわかりませんでした。
かろうじて「他のユニットメンバーと一緒に進んでいくことが大切」なのかなというのが夏来と旬やメンタル組のやりとりでうっっっっすら感じましたが…。
SideMって当然サイスタで語られている以外にもアイドルたちのバックボーンや葛藤ってたくさんあるはずなんですが、
サイスタすらもまともにやってないんじゃないか?という印象でした。
SideMでやる必要あった?アイドルマスターっていう看板が欲しかっただけじゃないの?という印象です。
元アイドルの方が脚本、2.5で有名な方が演出、と聞いて正直期待していたのですがまさかサイスタのメインストーリーよりも薄い作品が出来上がると思いませんでした。
死んで空に浮かんでいるプロデューサー、
意味不明なプロジェクションマッピング、
早口、
これを無視して「良かった~!」って言ってる人たち本当に怖い
前半の早口とかただ丸暗記したセリフを読むだけのシーンとか普通に不愉快でした。
サイスタのメインストーリーを知っているのでなんとかついていけましたが、
メインストーリー知らない人は知らないキャラが沢山出てきて早口でまくし立ててるようにうつりませんか?
私が普段見ている舞台が、チケットとるのがそこそこ難しい2.5や宝塚や劇団四季くらいなので、この箱の規模だったらこんなもんだよ、みたいな感じだったらすみません。
ツイッターですごく評判がよかったので、では見るかと思って買いましたが正直高い買い物だったな、という気持ちが大きいです。
こうしてはてぶを書くことで費用対効果を得てます。(得てるか?)
配信組だったのものあり、現地で見たらまた没入感は違うのかもしれませんがこのテンションで現地行かせられたら普通にキレてしまうと思う。
もし二回目三回目とかあるなら値段に見合う舞台にしてほしいです。
今回、担当がいないので気楽に見れましたが、それでもン?って思ってしまう部分は多々ありました。
まず、ターゲットがどこに向いてるのかよくわからなくて、SIdeMをすごく好きな人に見てもらうのであれば、もっと工夫のしようはあったと思うし、
逆にSideMをあまり知らない人に見てもらうにしても、最悪の前半36分はない方がマシでした。
何を伝えたいのかわからなかった。
もちろん7年もの歴史を持つ積み重ねの化身であるモバを舞台でやれとは言いませんが、
アイドルとしての魅力を伝えたいのであれば変ないざこざは描かないでよかったし、駄菓子屋でスタンドを出す必要もないと思う。
本人の葛藤を描きたいなら翼のようにもっと桜庭のバックボーンに注目してもよかった。
あと輝が怖かった。
私はSideMが好きですが、仮にSideMを布教するとしたら、これをSideM知らない友達に勧めるかというとNOです。
普通にサイスタのメインストーリー読んだほうがマシなので。(サイスタのメインストーリーが良いかどうかは別としてマシではある)
あとアニメ。私の担当はアニメにアイドルとして出ていないモブ扱いですが、それでもこの舞台よりは見やすいと思います。
後半の満足感、ユニットを越えたアピールチャンスとかを見る限りは、舞台である必要もあるような気はしています。
なにせ現状SideMのゲーム以外の展開が声優のライブで、声優のライブでは声優が来ないとアイドルそのものの出演もできないという都合があります。
私は「声優や俳優がみたい」のではなく「担当アイドルが見たい」のでこのように一応公式としてアイドルがゲーム以外の部分で描かれるのには好意的に見ています。
今回担当は出演しませんでしたが、担当が出たら見たいか?と聞かれたら見たいです。
なにせアニメにも出ていないので、なんでもいいから公式からお出しいただく担当はなんでも見たいという気持ちもあります。
もう少しどうにかできたであろう部分も多いので、それはアンケートで送ろうかなって感じです。
サイステ舞台化に望むこと
・担当にも出てもらいたい
2.5舞台について:3回位見たことあります。面白かった舞台はBDも1本持ってます。
「全員がトップアイドルという新たな夢に向かって走り出そうとしている!」
そうだっけ?
社長「ジャパンアイドルフェスティバルのために315プロダクションの最初の曲をつくった!君たちで協力して曲を完成させてほしい!」
輝「これめっちゃいい曲じゃん~!」
四季「これなら俺たち315プロが最高だってことアピールできそうっすねー」
どの曲?
翼と桜庭の見た目いい感じ
誰?って思ったら旬だった
「へぁ うぉれだよ 結構いい曲だなーって思ってだけ うぉれならもう少しダンスミュージックを意識するかな」
秀滑舌どうなってん
「へぁ?うぉれ?通りすがりのただの天才。それ以上でもそれ以下でもないよぅお」
喋り方の癖がすごい
待ってなんかすごい場面転換した
3:55~4:05の場面転換なに?
秀「へぁ?うぉれ?通りすがりのただの天才。それ以上でもそれ以下でもないよぅお」
山村「すごい子がいるものですねぇ ああ名前きいてない~!しまった~!」
四季「あー!それ天峰秀じゃないっすかね~!」
ここの流れなに?
夏来ウィッグの色暗い
旬誰?
旬声が似てないのは仕方ないけどもっと喋り方寄せられなかった?
ドラスタでてきた
すごい早口
全体的にセリフが早いのと間がないのでより似てない印象になってそう
秀ウィッグの色が水色で似てない
百々人と眉見出てきた
百々人似てる
眉見顔いい
いいか
トロフィーと生きる資格のシーンそんなハイペースでやっていいの?
この舞台、全部セリフで説明するわりにサイスタのメインストーリー読んでないとわからない作りになってる……!
時系列どうなってんだよこのシーン
祖母のために?
夏来かわいい
旬誰?
翼かわいい
翼かわいい
あ、今自己紹介?
冒頭14分いらなくない?
ライブはじまった!
いや歌わんのかい
歌え
「デビューしたばっかりなのにこんなに人がきてくれるなんて~」
アローBの話
夏来この早口でもこの喋り方なのいいですね
ライブきた!
いや歌わんのかい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
「ぴぃちゃんこれあーげる」
百々人かわいい
客席じゃなくてすごい上の方にコマを渡してくるのでぴぃちゃんが巨人みたいになってる。
こういうのは客席で良くないか。
「好きなこと…」で旬見る夏来かわいい
すごい早口
「ったく、みんな俺のこと好きすぎでショォ」
秀の喋り方
ねっちょりしてる
透明のスクリーンが降りてきて役者の動きと連動してCGが動いてる
プロジェクションマッピングですかね
百々人のやつかわいい
は?
眉見が人からドラゴンに進化する?CGあるけどCGがショボすぎる
ここいる?
やらない方がいい演出ってあるんだ
眉見の滑舌がやばい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
喋れないなら無理して敬語使うな眉見
サイスタメインストーリーの駄菓子屋PRの良い所ってアイドルっていうハイカラな存在と若者が古い遊びに慣れ親しんだりする部分なのにアイドルたち全員が「初仕事」という点でしか評価してないのきっっっっつ
プロデューサーいらなくない?
客席に向かって「プロデューサー、新しい仕事って…?」っていくらでもできるだろ
アイドルたちもアイドル同士や山村と会話して話を進めていくのでプロデューサーの存在
無
つかれたので休憩
別にアンチではないしアーカイブを買って見ている時点である程度期待はしていたのですが、
メインストーリーをなぞったままなのもそうですが舞台である必要性は…?と思ってます
ジョン・スミスだっけ?と話しして緊張した~!っていうくだりを全部セリフで言ってるけど
早口でみんな話すせいでまったく緊張してないように見える
ハイジョが夕方5人で集まってるシーンのライトが真っ青なのはなぜ?
ハイジョにとってイメージカラーは赤だし夕焼けもかなり重要なモチーフだと思うんですけど、車や信号機の環境音だけで帰り道を表現している意味がわからない…。
5人でがんばるぞー!ってしてるのにライトが真っ青でまっっっったくなにを表現したいのかわからない…。
旬と夏来のシーン
いい
ライト真っ青だけど
曲も聞いたことなさそう
「アローBのライブをみて隼人の話をきいてアイドルってものが少しわかってきた気がする」
「ジュン…」
旬なれてきた
でもなんか旬ずっとおちょぼぐちで喋ってて面白い
「ジュン…」
やっと新しいストーリーきた!
前半36分15分くらいにできただろ
あ今もギ
あ今もギないの!?
※あ今もギとは翼の「あ、今のもしかしてギャグですか?」のこと。輝が滑ってもオチに使える
翼に弱い桜庭いい
ニコってした
これ絶対はじめてこの舞台みたSideM知らない人もう寝てるだろ
眉見の滑舌にも慣れてきた
Performanceが上手に言えない眉見かわいそう
歌わないんかい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
何?
眉見無理して喋るな
夏来かわいい
眉見無理するな
眉見に長文セリフ与えたの誰だ?許せん
また早口になってきた
百々人と春名のシーンいい
こういうのでいいんだよ
こういうのが見たかったんです
ここまでくるのに46分かかりました
私はSideM知ってるからいいんだけど、こういう風に他のメンバーの名前を出すシーンで当たり前のように
「旬に本当に大丈夫かって心配されてたのが懐かしいな~」ってするんだったら多少演技がかってもいいから
「旬に『テストの点数が危うい四季くんと卒業がかかってる春名さんたった二人で大丈夫ですか?』って心配されたな~」
みたいに旬のモノマネするとかないんか?
私が舞台でSideM初めて触れる人間なら名前出されても全然わかんないと思います。
ト書きみたいなセリフを延々と読むからなおさら舞台と演技の必要のなさを感じる。
す…って入ってくる翼かわいい
属性別ににっこり
眉見無理するな
プロだと思うんですけどこの滑舌でこの方は今までどうやって演技してきたんですか?
喋らない役か?
動きが特徴的なアイドルだからかもだけど、四季や全体的にクラファとかのポーズがよく立ち絵再現しているの嬉しい
首痛いポーズする百々人
輝怖い
60:00~
もうプロデューサーは山村の見ている幻覚なんじゃないかってレベルでアイドル同士でしか物語が進まない
輝と桜庭が喧嘩するときに二回とも見てただけのプロデューサーはなんなんだ
アイドル達が落ち込んでるときに支えられないこのプロデューサーはもうだめだ
オリジナルシナリオだけど早口が少し落ち着いたのもあっていい感じ
前半36分15分いる?
「宿題はおわったんですか?」
なんか笑い声聞こえるとおもったらここアドリブシーンなんですね
あと夏来が旬を撫でるところもニコってした
クラファのターン
ここもすごい見やすかった
前半36分15分いる?
眉見ら行が苦手なんだな
ドラスタのターン
輝「体調は大丈夫か?キツい言い方して悪かったな。ああでも言わないと休まなかっただろ」
輝「なんでも話し合って解決していこうぜ」
輝「大人の俺たちがこんなんだと若い奴らが不安になるだろうし、プロデューサーも心配するだろうしな」
翼かわいい
プロデューサーのこと話すときにみんな空を見上げるの、プロデューサー多分死んでる
山村顔怖い
「新曲を作る」
プロデューサーが考えろや
プロデューサーやっぱ死んだ?
「組み合わせはくじ引きで決める想定だ」
は?
何がや
急に踊るよ
ここ歌つけてほしい
完全にプロデューサー死んで山村にしか見えてない上位存在になってるのが面白い
休憩
はじめてプロデューサーがちゃんとアイドルと会話できてる感じする
プロデューサー生きてたんだ…
多分これ、泣けるシーンなんですが、カメラワークのショボさと変なガビガビの加工とループしてる安っぽい変な歓声のSEのせいでバラエティ番組の再現映像みたいだ…
ライブパートだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
きのせいだった百々人のほうがうまかった
でもパキッとしたキメをするのが眉見っぽくていいなと思います
ホームビデオのシーン、アイドル衣装に着替えるために必要な時間だったんだな
翼かわいい
ドラスタって原色きつい色のイメージだったからスモークのせいもあると思うけど色がちょうどいい
ミュージカルっぽい歌いい
翼かわいい
曲いい!
こういう曲ほしい
演出家と脚本家の人たちこのライブパートつくってストーリー書く前に力尽きたんかもな
すごいいい
ストーリー上でハイジョがずっとクラファすごいすごいって褒める役にさせられてたけど私はハイジョのライブパートのほうがいいなとおもいました
やっぱ全員揃うといいな
あ~~~!!!!!ユニット名がはいってるオリジナルソング!!!!!!!!!!!!!
ドラスタだけだった
メガネーズ嬉しい 薫が楽しそうで…オデは…
18歳組!
幼なじみ!
共通項があったり仲良くなれそうなコンビができてるのが普通に嬉しいですね
こういうのだよ……
みなさんがこういうのをするまでに1時間30分かかりました
ドアラだ!
前半36分15分いる?
ドアラ、普通にアイドルの格好をした男達がこういうふうに踊るのMステ亡き今見れるものではないので満足のカロリー高い
まあ既存曲歌ってほしくないって人もいるだろうけど
そういう人は3800円払っても舞台見ないだろ
眉見足なが
終わった
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桜庭一樹さんの「少女を埋める」を今頃読み終えて、いろいろ心を揺さぶられる思いがして、この作者の著作を初めて読んだので、どんな人なんだろうとネット検索をしていて、鴻巣友季子さんの評をめぐって議論が発生していたことを知り、ここにたどり着きました。
お二人の「論争」(?)、ざっとたどってみました。一応決着見たようですが……モヤモヤが残りました。
このモヤモヤ感についてこの場を借りてちょっと書いてみますね。
あなたも指摘されているとおり、桜庭さんは、「テキストにそう書かれていたかのようにあらすじ説明として断言して書いた」ということを強く主張されていますね。
でも、そもそもこの言い方が間違いだと思うのです。
鴻巣評の問題のくだりは、「テキストにそう書かれていたかのよう」に「断言」しているかと言うと、そうは断言できないかな、と。
だって鴻巣評のうち、「テキストにそう書かれていた」部分は「 」で括られていて、問題の部分は括られていませんからね。
そもそも評者の解釈だと読めなくもない。もちろん桜庭さんが言い、あなたが代弁するように、客観的にこんなお話だ言っているようにも取れる。
これは絶対どっちかだとは言えない書き方ではないでしょうか。
だとすると、桜庭さんの「テキストにそう書かれていたかのようにあらすじ説明として断言して書いた」という、この言い方が悪手だったかなーと思うんですよね。
鴻巣さんは、この主張にうまく乗っかって、「あらすじとは解釈だ」みたいな誰にも否定できない話に持っていった、
桜庭さんにとっては、持っていかれちゃった、ということになったかと。
それを踏まえてこの二人のやりとりを見ると、「論争」の決着点としては、鴻巣さんが大人の対応をしたってところに収まっちゃいましたね。
二人して朝日をちょっと悪者にして、桜庭さんも手打ちにしたのかな?と。
鴻巣さんは、桜庭さんが本当に言いたいことは何か、わかっていたと思うんですよね。
わかっていて、そこには対応しなかった。
むしろ相手の言い分の、言わば言葉尻をとらえて反応してみせた。だから「大人の」対応です。
そう、「不誠実な」対応でした。
なぜなら、そもそもあの作品をあの評文のなかにああいう形ではめ込むことが、あの作品にとって圧倒的に不当だからでしょう。
あの作品はあんなものではない力を持っているのに、弱々介護の話ってことにしちゃった、ご自分の読みの甘さ、いや読みじゃないかなー、表現力の至らなさかな?
鴻巣さんは、自覚していたと思います(だって鴻巣さんですよ)。
鴻巣さんは、あの作品を読んで、深く心を動かされた、でもそれを直ちにはうまく言語化できない……でもすごいことはわかる。
評言のなかの「不思議な」という言い方にもそれが感じられます。「不思議」を言葉にするのが評者の役割なのにね。
で、心のどこかに引っかかってて、弱々介護の話を書いているときに、「そうだそうだ」って桜庭作品を取り上げちゃったんじゃないかなー。
「みんなー、頼む、百回読んで」ってことを時評全部使って素直に書けば良かったんですけど、締め切り迫って言葉にできなかったのかな。
どこを切り取ろうと、とにかく取り上げて世に知らしめるだけでも、この作品の助けになる、助けてあげる、応援してあげる、みたいな驕りもチラチラ透けて見えます。
この作品にいち早く注目した私、読み巧者よねーみたいなのもあるかも。
(いや、鴻巣さんぜんぜん嫌いじゃないんですよ、私は)。
私は、あの桜庭さんの抗議は要するに、「そんなふうに読み取らないで!ぜんぜん違う!」ってことだと思うんです。
問題の本質は解釈のなかみなんでしょ。桜庭さんご自身も、ツイッターで、そういう怒りを垣間見せていますよね。
「わたしの懸念は、私小説として発表されたこの作品の評で、……」
でもこの作品は私小説としては発表されていないんですよね(鴻巣さんは「自伝的随想のような」って勝手なこと書いてますけど)。
『文学界』の当該号のどの頁にも「私小説」って書いてないもんね。
で、まあ、百歩譲って「私小説」だとしたらどうだと言うんでしょう?
西村賢太さんがどこかで、私小説だからって、書いてあることが全部事実だと思う読者はバカ、って言ってた。
でも、あんなふうに、とてもナイーブな書き方をしてしまう桜庭さんの思いもジンジンと伝わるんです。
何かこう、わが身の血と肉を自分で食って吐き出すような、そういう格闘の末の作品なんだろうなー、
そういう格闘を、あんなふうに一つの作品に言葉で築き上げるってすごいなー、
それを「私小説」って言ってるんですよね、きっと。
そしてその格闘の焦点である母親との闘争/和解(?)のギリギリの物語の、
その当の母親についてあんな切り取られ方をしちゃうとなー、そりゃ怒るよなー、って思う。
でも、怒りの焦点は、自分の母親が虐待人間って大マスコミで公言されたことじゃないよね
(私小説と自任して書いているなら、こういう反応に対する覚悟は少なくともできていないとね)。
なにその読み方、バッカじゃないの? ぜんぜん違うし、って、桜庭さんはそれだけ言えば良かったのでは?
『文學界』2021年9月号に掲載された桜庭一樹「少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞の文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。
この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章を投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者の見解が掲載された。
この記事では総括として、両者の見解を検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭と鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリーの仕様でURLの掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。
両者の主張は、以下のように整理できるだろう。
桜庭:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。
鴻巣:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。
桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈の自由〟を奪」うことを挙げている。
一方で鴻巣は自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説の可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。
では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである。
鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品の創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である。文学の解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分が想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないのである。解釈は批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである。
鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解の文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣は見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。
繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ。私小説もフィクションだからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣が誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。
繰り返しになりますが、
「作品からの読み、想像であり、実際のテキストには書かれていないストーリーを、主観的な読みではなく実際にそう書かれていたように紹介する」
のは一線を超えていると思ったのです。
作者だからではなく、他の方の本でも同じように疑問を持ったと思います。
(この部分です) pic.twitter.com/vFmVBO6fhC— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
いえ、また繰り返しになりますが、どう評しても自由とは言っておらず、
「読まれ方は自由だが、実際の描写にはないストーリーを、読み、想像で考えたとき、それを主観的な解釈として書くのはよいが、実際にそう書かれていたように客観的事実として書くのは一線を超えている」
と考えています。(続)— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。
この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授の日比嘉高(モデル小説研究のフロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在の人物をモデルに』と事実に立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実の事実」の問題を切り分けている。
この記事でご紹介いただいたのですが、わたしの原稿に〝介護中の虐/待〟は書かれておらず、またそのような事実もありません。わたしの書き方がわかりづらかったのかもしれず、その場合は申しわけありません。影響の大きな媒体であり、とても心配です。否定させてください。https://t.co/HdC6Cb8g7b— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 24, 2021
(強調は引用者)また今回は「自伝的随想」としてご紹介くださったこともあり、登場人物を離れ、実在の家族に言われなき誤解が降りかかることを危惧したため、わたしはこのように必死になって訂正をお願いすることになりました。それは確かに、評者の方には関わりのない事情ではありますが…(続) pic.twitter.com/8rixc3Ot4c— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
桜庭の実存にとって「現実の事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭はあくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである。飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家の動機ではなく、作家の根拠にフォーカスするべきである。この記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。
とはいえ、桜庭の見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。
今回の一件に際して、文芸時評の不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭もツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣も見解において「批評」という言葉を用いている。
だが、文芸時評は批評でしかないのだろうか? 文芸時評は英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル的特性があるのではないか?
文芸時評が新聞という巨大メディアに掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭は見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり、文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。
文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭は新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷の鳥取で一人暮らす実在の老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実の現象のレベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか?
以上の論点を踏まえて、時評担当者の見解を検討することもできるだろう。
桜庭の見解は冒頭、「私の自伝的な小説『少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身や夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家の藤田直哉が端的に指摘しているのでツイートを引用しよう。
「夫婦が深く愛し合っていたかどうか」を確定する根拠は、虐/待があったかどうかを確定する根拠と同じぐらい、作品のテクストにはないのではないかな。母親がそう言っている、語り手がそう推測したようだ、というところまでは書いてあるが、しかしそれが「作中の事実」かどうかはサスペンドじゃないかな— 藤田直哉@新刊『シン・エヴァンゲリオン論』河出新書 (@naoya_fujita) September 7, 2021
つまり、あらすじに書いてよいのは、「作中の事実」であるべきではないか? 今回であれば、あくまで一人の人物の視点に立って、「私の自伝的な小説『少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか。言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列がテクストに書いてあるとはいえ作中人物の「主観的解釈」なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか。
あるいは、そもそも「事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分は幸せだと信じ込みながらオンラインサロンの主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せな生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せは事実ではなく評価だからだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか?
最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。
記事の著者です。
一つ目については、そもそも私は「現実での被害を想定して」一連の記事を書いていないので、読解できなくて当然です。桜庭自身が「実在の人物への加害」と「評に文芸として瑕疵がある」=「あらすじに読みを断定で書いたこと」の問題は別だと言っている(https://twitter.com/sakurabakazuki/status/1430846588268670976?s=20)ので、オミットしました。「何が問題なんだ?」と問われたので、現実的な問題にも言及したまでです。「全く次元の違う話」なので「二つの水準で」と書いています。正確に読み解いてもらえて安心しました。ただ、私が両者を区別できていないと主張しているかのように読める文章なので困りますね。
「小説と現実を混同するバカな読者」という点についてですが、「自伝的随想のような(……)中編」にそういうシーンがあるという紹介を受けて、桜庭の人生史にそういうことがあったのかもしれない、と考える読者をバカと呼ぶのは難しいと思います。この小説を読んで「母は」「弱弱介護の密室で」「夫を虐/待」したと読むよりよっぽど合理的な読みだと思います。
また、乱暴な言い方をすれば、「間違いなく現実でこういうことが起きたんだ!」と考えてしまうバカな読者がいたとして、その混同の責任は読者にあると仮定しても、バカも読みうる全国紙の時評欄に「非合理的な読み」を「あらすじとして断定で書いた」批評家には、そのバカの混同によって生じうる現実的な被害について責任があると考えます。
二つ目については、最初の記事で「②解釈が「混同」されたあらすじは悪いのか」として項目を立て「その問題性を示」したつもりなので、「示せていない」と読むのは非合理的です。あるいは論証できていないという意味でしたら、私の文章にどのような論理的瑕疵があるか、具体的に引用などをして教えてください。
「どんな場合も問題がある」と論じたつもりはありませんが、「鴻巣の主張を成立させる上で問題が生じる」ことは示せたと思っています(それで十分なので)。
ちょうどいいのでまとめます。
①読みが合理的でない
②作品に描写されていない、(その合理的でない)読みによって構成した出来事をあらすじとして断定で書いた
まず②にフォーカスして一つ目の記事を書いたのは、桜庭が「誤読か否か」を(①を)別の水準にあるとして、そちらについての判断を避けたからです。②の点だけでも鴻巣友季子の行為は正当でないことを最初の記事「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」で示しました。その後、二本目の記事「続・鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」の「論点整理・集約版」でも別の形で示しました。
一つ目の記事に「誤読か否か」を問題視するコメントが多くあり、また、鴻巣友季子は②を正当化するにあたって「読みが合理的である」ことを必要条件としているので、①についても二つ目の記事で「鴻巣解釈の検討」と項目を設けて示しました。その後、三本目の記事「補・鴻巣友季子の時評は何が問題なのか:フェアな考察」でも示しました。
「続・鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」(https://anond.hatelabo.jp/20210829124450)の「鴻巣解釈の検討」の項だが、Twitterで鴻巣自身から、その読み筋についてのツイートは削除したので言及するのはアンフェアだと指摘されたため、これによらない形で検討する。
なお、その後鴻巣は私のアカウントをブロックするアンフェアな挙動に出た。「そういうツイートをしていた」ことは紛れもない事実なので、記事の当該箇所を修正するような対応は取らない。
さて、参照できるのはEvernoteくらいなので、解釈に相当する部分を引用しよう。
ここで、帰省して初めて、母と二人で話した。
父が体調を崩してからの二十年、幸せだった、と母は噛みしめるようにしみじみと言った。(わたしは-筆者註)驚いて声を飲みこんだ。
母本人の意識や記憶と、傍から見た"現実"に齟齬があるのだなと思いました。
じつは、父が体調を崩してから(も)「不仲なころ」はあったということだろうと。
その後に、主人公の母が父を「いじめ」ていたことを父の亡骸に詫びる場面があります。
いよいよ蓋を閉めるというときになって、母がお棺に顔を寄せ、「お父さん、いっぱい虐めたね。ずいぶんお父さんを虐めたね。ごめんなさい、ごめんなさいね……」と涙声で語りかけ始めた。「お父さん、ほんとにほんとにごめんなさい……」と繰り返す声を、ぼんやり寄りのポーカーフェイスで黙って聞いていた。p43
このいじめが二十年間の看護・介護中に起きたとは特に書かれていませんが、いつ起きたことなのかの明示もありません。
父が病気になる前にも、看護・介護中にもあったのだろう、そういう物語として、わたしは読みました。ここが、作者の意図と違うと指摘されているところです。
(鴻巣友季子、「8月の朝日新聞文芸時評について。」https://t.co/x7kg81XQPc?amp=1 強調は原文ママ)
①「記憶の中の母は、わたしから見ると、家庭という密室で怒りの発作を抱えており、嵐になるたび、父はこらえていた。/不仲だったころもあったよね、と遠慮がちに聞くと、母は「覚えてない」と心から驚いたように見えた」。〈わたし〉がここで思い浮かべている「記憶の中の母」が介護中であるか否かという問題。
②単純に母が「覚えてない」と言ったことを理由に、記憶全般があやふやになっていると判断し、「母本人の意識や記憶と、傍から見た"現実"に齟齬がある」と解釈してよいか、また「じつは、父が体調を崩してから(も)「不仲なころ」はあったということだろう」と解釈してよいかという問題。
①については「鴻巣解釈の検討」の項目で、鴻巣Evernoteが無視している「それから、/「もしかしたら、病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってたんじゃない? この二十年は病気という敵と一緒に戦っていて、関係が変わったとか」/と言ってみると、母ははっと息を呑み、「そう、その通りだ」と大きくうなずいた。」の記述から否定した。また、ここは母との会話であるから、母も「病気になる前」と「この二十年」は別だと、つまり「不仲だったころ」は「病気になる前」であるという〈わたし〉の前提を共有していると取らなければ非合理的である。無論、実は会話が噛み合っていないのだと読んでもよいが、その読みがテクストを豊かなものにするかよく考えた方がよい。
②についても、母は「母ははっと息を呑み、「そう、その通りだ」と大きくうなずいた」ので、記憶が全く失われてしまっているとは考えにくい。言われれば思い出すのだ。また、「母本人の意識や記憶と、傍から見た"現実"に齟齬がある」と仮定する(鴻巣は「思いました」としか書いておらず、そう判断する合理性を説明していない)のであれば、父の棺の蓋を閉める際の「お父さん、いっぱい虐めたね。ずいぶんお父さんを虐めたね。ごめんなさい、ごめんなさいね……」が介護中を/も指しているとすることは非合理的である。この仮定は、「夫を虐めた記憶」を含め、母のすべての記憶がそもそも偽りかもしれないという、読みの未決定状態をもたらすからである。この仮定のもとでは、「弱弱介護の密室で」「虐/待した」を事実であると確定することは、〈母〉も含めた作中人物の誰にも、テクストを読む誰にもできない。よって、介護中の虐/待を作中世界で起きた出来事として捉えることは、合理性を欠く、評者の「主観的」な決定行為にすぎない。
鴻巣の読みがいかに非合理的であるかをここまで確認した。私は「非合理的である」ことを示したまでで、「不可能である」とは言っていない。また、「非合理的な読み」は「解釈」と呼ぶに値しないと考える。
なぜ鴻巣の読みが合理的でないと示さねばならなかったかといえば、それが鴻巣の主張が成り立つための必要条件であることを、鴻巣自身が認めているからである。
もちろん、今回の小説で「じつは父は生きていた」などの読解を書評で行うのはおかしいと思います。「合理的な解釈であれば自由ではないか」という意味です、念のため(桜庭さんは当然おわかりと思うので、桜庭さん宛てではなく、これを読む方々に宛てています)。— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 27, 2021
鴻巣友季子の読みは合理的ではないと私は考える。桜庭の代弁ではない。私個人の考えである。だが、私の考えは合理的であると考える。
よって鴻巣に自身の読みが合理的であるということを説明してから議論するよう提言したところ、このやりとりを最後に鴻巣にブロックされた。
先程のリプライと重複しますが、フェアであることに拘るのであれば、まずご自身の読みの合理性を説明するべきではないでしょうか。桜庭さんは「覚えてない」「覚えてたのか」の呼応を論拠にご自身の解釈の合理性を説明しているのですから。— 祝辞 (@yugatoh) August 30, 2021
すでにこの件には応答しました。失礼します。— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 30, 2021
鴻巣と桜庭の議論はリアルタイムで、公開で、Twitterで行われており、何が自分の主張を正当化するかについてもツイートで宣言している。この「応答」はTwitter上で行われているはずだが、私には確認することができない……わけがないんだから、ブロックなんてしない方が得だと思うんですけどね。
私は、「介護中の虐/待を作中世界で起きた出来事として捉える」「評者の「主観的」な決定行為」は自由であると認める。
しかし、それを個人の読みとしてではなく、作品の要約(としてどう見ても読める箇所)に断定で書くという行為は別の問題である。
記事の著者です。ごめんなさい、理解力がないのかもしれませんが、あなたの反論にすべて反論できてしまった気がします。
・まず「「作中に描写がないこと」を「作品に書いてあるかのように読める断定で書いた」」と言うが、鴻巣は「描写がある」と読んだのだから平行線で終わり。
→では、自分の主張を補強するためのツイートで「ICUにいる描写がある」という前提を設けた鴻巣が、「「Aは死んだ」という明示的な記述」に言及する合理的な理由を教えてください。この「明示的な記述がない」が「描写がない」を意味しないことを説得的に論じてください。「描写」と「記述」に差があるのだ、と言いたいのかもしれませんが、そこに差を設けるのであれば鴻巣の主張が成立するように注意してください。なお、この鴻巣の例で「「死んだ」と理解する」のは合理的だと思いますが、この例と「少女を埋める」の例を一緒にはできないと思います。
・鴻巣は「合理的」な読みの話をしているが、この記事の筆者は「客観性」と言い換えている。
→「描写の有無についての客観性」と「読みの合理性」は別の問題です。さもなくば「「Aは死んだ」という明示的な記述はなくても、「死んだ」と理解する合理的な理由があります」という表現は成立しません(読点の前が描写の話、読点後が読みの話)。また、言うまでもありませんが、描写についての「主観/客観」の語彙は当事者二人が用いているものを借用しており、元記事でも補論でも、引用部分を除く私の本文は読みについて「客観」という言葉を使っていません。
・誰かの「あらすじ」を先に読み当該小説を読むとして、読者はそのとおりに読んでもいいし読まなくてもいい。実際に小説を読んで鴻巣の「あらすじ」は「おかしい」「頓珍漢」と「わかる」人もいれば、鴻巣の「あらすじ」のとおりだと読む人もいる。どちらもあり得るのだから、「「読み」が閉ざされたことを意味」しない。
→私は「鴻巣の「あらすじ」のとおりだと読む」一人ひとりの経験的読者について、「「読み」が閉ざされた」と述べています。抽象的な読者群としてはおっしゃる通り「どちらもあり得るのだから、「「読み」が閉ざされたことを意味」し」ません。「どちらもあり得る」読者を排除して、桜庭解釈に「思い至りもしない」経験的読者に限定していることを明示的に記述するべきでしたね。反省しました。なお、全面的に閉ざされたとは言いません。鴻巣解釈が先行したことによって、桜庭解釈というひとつの解釈の可能性がある読者にとって「閉ざされた」という意味です。
・ある合理的な読みが誰にとっても一つ
→と、私が書いたかのように言われているんでしょうか? 明示的な記述がない部分を埋めるにあたって、合理的な解釈が複数あるのであれば、そのすべてが認められます。それがエーコの言う意味での「テクスト解釈の可能性」の「無限」さであり、また、空白を埋めるのは読者の「主観」でも経験的作者の意図でもなく「テクストの意図」に沿ってです。ただ鴻巣解釈、というか鴻巣の読みが合理的ではないだけ(「曲解」)で、桜庭とは別の合理的な解釈があるかもしれないし、それに思い至った人が桜庭解釈の視点を同時に持つことも可能なはずです。
・他の読み方(たとえば鴻巣のような読み方をした人も一定数いる)が合理的ではないということにはならない。
→「一定数いる」ことが「合理的」であることの条件、あるいは合理的であることの証明であると言いたいのでしょうか。私はその前提に乗りません。そのために「鴻巣解釈の検討」の項目を設けたわけです。また、非合理的な読みを複数の経験的読者がすることも当然あります。鴻巣の読解が合理的ではない(「曲解」)とするのは、鴻巣が削除したツイートの文言を借りれば、「どう見ても」テクストの意図にそぐわないからです。
・それが、開かれた「読み」
→ここは反論ではなく主張のようですが触れておきます。経験的にどう読むかという広い意味では、確かに、非合理的なものも含め、どんな「読み」をする自由もあります。ただしこの自由は自明(他人の思考=「主観」は制御できない)なので、せっかく「開かれた「読み」」というかっこいい言葉を使うなら、範囲を絞った方が有意義そうです。この意見に納得いただけたら、補論の最後に引用したウンベルト・エーコの諸著作をお読みになることをお勧めします。「結局多数派か少数派か(一人か)の主観ということになる」とおっしゃいますが、主観を排除できるように、「テクスト論」をはじめとした理論というものがあるのではないでしょうか。そうした解釈の方法を(体系的かどうかはともかく)学び、身につけた、かつ解釈をしっかり書くことのできる者が書評家や批評家を務めているのだと、私は考えたいです。
・「作中に描写がないこと」を「作品に書いてあるかのように読める断定で書いた」
・「描写がある」「明示的な記述はなく」という仮定は客観性を持たねばならない
・「直接描写されていないこと」は、主観ではなく客観としなければならない
・桜庭の言う「直接描写されていないこと」を「なに」という言葉に置き換え、「あるひとりの読者=作者の主観だ」としている
まず「「作中に描写がないこと」を「作品に書いてあるかのように読める断定で書いた」」と言うが、鴻巣は「描写がある」と読んだのだから平行線で終わり。
鴻巣は「合理的」な読みの話をしているが、この記事の筆者は「客観性」と言い換えている。客観的な読みとは、多数派が、合理性をもって読み、到達するような読みではあるが、合理的=客観的ではない。どのような「直接描写されていないこと」があるかないか、多くの人が「ない」と言えばそれは客観的な読みだろうが、だからといってただ一人が固有の合理性で小説を読み解くこともありえ、ある合理的な読みが誰にとっても一つ(閉ざされた「読み」)だとは言えない。多くの人が小説「少女を埋める」に「虐待」の描写がないと読む(この記事の筆者もそう読む)からといって、それは結局「主観」の集まりであり、他の読み方(たとえば鴻巣のような読み方をした人も一定数いる)が合理的ではないということにはならない。
もちろ特定の読み方い対して、それは合理的ではない「曲解」だと主張することは可能で、文学研究や批評においても後の研究・批評が先の研究・批評を否定することはある。それが「鴻巣解釈の検討」で行われていることだが、誰もがこの記事の筆者のように読むわけではなく、結局多数派か少数派か(一人か)の主観ということになる。それが、開かれた「読み」。
・あらすじに書かれた鴻巣の解釈だけを前提とし、桜庭の提示した(あるいは以下で私が説得的に示す「真っ当な」)解釈に思い至りもしない、という可能性はある
誰かの「あらすじ」を先に読み当該小説を読むとして、読者はそのとおりに読んでもいいし読まなくてもいい。実際に小説を読んで鴻巣の「あらすじ」は「おかしい」「頓珍漢」と「わかる」人もいれば、鴻巣の「あらすじ」のとおりだと読む人もいる。どちらもあり得るのだから、「「読み」が閉ざされたことを意味」しない。
「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」(https://anond.hatelabo.jp/20210826203711)の著者です。
非本質的な、《誤読か否か》を議論するコメントが依然として多いので、記事を改めて補論を書きます(文中敬称略)。
元の記事では鴻巣の意見から矛盾を示すために使ったまでで、「解釈」という言葉を本文で一切用いずとも問題を整理できるし、他にも鴻巣の矛盾を指摘できるのでそうします。
「作中に描写がないこと」を「作品に書いてあるかのように読める断定で書いた」こと
である。
そしてこの点について鴻巣はスルー、もしくは無理筋の意見を出しているのみである。
①27日13時39分
いえ、また繰り返しになりますが、どう評しても自由とは言っておらず、
「読まれ方は自由だが、実際の描写にはないストーリーを、読み、想像で考えたとき、それを主観的な解釈として書くのはよいが、実際にそう書かれていたように客観的事実として書くのは一線を超えている」
と考えています。(続)— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
②27日16時43分
繰り返しになりますが、そういった解釈の豊かさ、多様性が大切である一方、今回の
「直接描写されていないことがあたかも書かれているように掲載されてしまった」
は異なる問題だと思います。
ここは、どうも平行線で、同じやり取りをずっと繰り返しているので、そろそろやめたほうがよいかなと。— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
桜庭自身は鴻巣との対話をやめたが、外野はこの点について把握しておくべきであろう。
Aさんが重病にかかり、病院のICUにいる描写がある。
場面が転換して、葬儀のシーンになり、棺が運ばれていく。
Aさんの友人が泣いている。
「Aは死んだ」という明示的な記述はなくても、「死んだ」と理解する合理的な理由があります。
あらすじとして「Aは亡くなり……」と書くのはNGでしょうか?— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 27, 2021
このツイートが議論として成立するためには、「描写がある」「明示的な記述はなく」という仮定は客観性を持たねばならない。「主張が正しいか」という検討以前の条件である。
よって鴻巣は、桜庭が言う「直接描写されていないこと」は、主観ではなく客観としなければならない。
④27日11時6分
なにが作中に有り、なにが無いか、その判断もまた作者桜庭さんの主観にすぎない、ということはお分かりいただけないでしょうか。つまり、あるひとりの読者=作者の主観だということです。「読解の自由」はお認めになると。それは作中になにが書かれているかを決める自由でもあるのではないでしょうか。— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 27, 2021
お分かりいただけただろうか?
鴻巣は桜庭の言う「直接描写されていないこと」を「なに」という言葉に置き換え、「あるひとりの読者=作者の主観だ」としている。この矛盾について解決しない限り、鴻巣の意見は無理筋であり、鴻巣は桜庭と議論する土俵にも立てない。
なお、鴻巣は主張が成立しないのだから、厳密には「平行線」ですらないだろう。
テクストに「ない」ことを「ある」かのように書いた(ことが検証できる)あらすじなどという珍妙なものを読む機会がないので、そのようなあらすじを目にしたのちにいざ対象のテクストを読み始めた者がどう反応するのか、筆者には確たることは言えないが、あらすじに書かれた鴻巣の解釈だけを前提とし、桜庭の提示した(あるいは以下で私が説得的に示す「真っ当な」)解釈に思い至りもしない、という可能性はあるだろうと考える。
それは「読み」が閉ざされたことを意味する。なお、「どこかでおかしいとわかるはずなのでそうはならない」と言うのであれば鴻巣の書いたあらすじが頓珍漢だと認めることになる。
また、鴻巣はEvernoteでは「作品紹介のあらすじと解釈を分離するのはむずかしいことです」と述べていたが、「むずかしいこと」ではなく「不可能な」ことにすり替わってしまった。
たいへん明快なご解説を拝読しました。今回、作者は「あらすじと解釈の分離」という一点に要請を収斂されました。仰る通りそれ自体は不可能なのですが、「読む」という行為この根本的なことが、意外にも一般に理解されにくいようなのです。— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 27, 2021
こうしたすり替えをわざとやっているのであれば大した度胸だと感心する。同時に、不誠実な書き手だと評価する。
ついでなので、鴻巣の読解が「曲解」であることも示します。(「誤読」とは言いません。桜庭が使わないので。)
不仲だったころもあったよね、と遠慮がちに聞くと、母は「覚えてない」と心から驚いたように見えた。離婚の話が出たことなど具体例を挙げてみるが、「そうだったっけ?」と不審げになる。それから急に目を光らせ、「人の記憶って、その人によって違うね?」と言った。
瞬間、母とわたしが同じ過去の〝ある時〟……七年前に最後に会った時のことを思いだしているとわかったが、いま対立するのは不毛だと、「ふーん……?」と目をそらした。
それから、
「もしかしたら、病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってたんじゃない? この二十年は病気という敵と一緒に戦っていて、関係が変わったとか」
と言ってみると、母ははっと息を呑み、「そう、その通りだ」と大きくうなずいた。
(桜庭一樹「少女を埋める」https://note.com/sakuraba_kazuki/n/ne3b7aa29cd58)
「不仲だったころ」は「病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってた」を指すのではなく、介護していた「この二十年」を指すというのが鴻巣の読解です。
この読解を支持できる方は根拠をつけて教えてください。「病気になる前」であるという解釈をあえて却下する理由込みで。
なお、この点についてのツイートを鴻巣はなぜか削除していますが、ツイートはこちら(https://twitter.com/maffumi/status/1431506303784943616?s=20)へのリプライの形でした。(スクリーンショットを見たければTwitterに上げても「私は」構いません。)
さて、(桜庭も言及している)「母は「覚えてない」と心から驚いたように見えた」に呼応する、
いよいよ蓋を閉めるというときになって、母がお棺に顔を寄せ、「お父さん、いっぱい虐めたね。ずいぶんお父さんを虐めたね。ごめんなさい、ごめんなさいね……」と涙声で語りかけ始めた。「お父さん、ほんとにほんとにごめんなさい……」と繰り返す声を、ぼんやり寄りのポーカーフェイスで黙って聞いていた。
内心、(覚えてたのか……)と思った。
(Ibid.)
の「内心、(覚えてたのか……)と思った」も、「不仲だったころもあったよね、と遠慮がちに聞」いたのも、「もしかしたら、病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってたんじゃない?」と言ったのも、すべて〈わたし〉なので、「不仲だったころ」をいつとするかによって、母が「お父さんを虐めた」のがいつだったと〈わたし〉が考えているかも決まる(と考えるのが普通だと思いますがどうですか?)。
当然のことですが念のため言っておけば、実際にいつ「虐めた」かは、作中世界では〈母〉のみが把握し、〈母〉の心中に作品の視点は入り込めない。よって問題となるのは〈わたし〉がどう考えているかを、〈わたし〉視点の文章で解釈することです。
私は「不仲だったころ」を「病気になる前」としか解釈できません。よって「虐めた」のも「病気になる前」としか解釈できません。
困りました。私の読解力がないんでしょうか。解釈の自由を標榜する皆様、お知恵をお貸しください。
「テクスト解釈の可能性は無限である」と言っても、それは「解釈の対象、つまりは焦点を当てるべきもの(事実やテクスト)が存在しない」ということにはなりません。「テクスト解釈の可能性は無限である」と言っても、それは「どのような解釈の試みもうまくいく」ということではないのです。
(ウンベルト・エーコ『ウンベルト・エーコの小説講座:若き作家の告白』、和田忠彦、小久保真理江訳、筑摩書房、2017年、48頁)
・小説を「未読」の人間に小説の「読み」などなく、閉じるも開くもない。
・桜庭が「誤読」の訂正を「お願い」するのは理解するが、「私小説だから」は関係がない。私小説だろうがそうではない小説だろうがフィクションであり、モデルとなった人物に危害が加わるなどの問題は桜庭が責任を負うべき問題で、鴻巣にその責任を負わせてはならないし、まして小説の内容しか「報道」されていないのだから、「報道被害」などもない。
・「作品に書いてあること」は印刷されたものだけであり、引用以外はすべて解釈。それが理解できようができまいが、あらゆるものを読む権利がある。
で?って感じ。
・作品を未読の、鴻巣評が「誤読だ」と言われていることを知らない(「うちの地元の高齢者」のような)朝日新聞読者にとって「読み」が閉ざされうることには変わりない。私小説である都合上、鴻巣の「読み」を人々が真に受けると本人および周囲へのダメージが大きいため、桜庭は「必死になって訂正をお願い」している。一方で「読み方の可能性を新たに開く可能性もある」のは当然の話で、それを指摘したところで上記の問題が相殺されるわけではない。
・「これは解釈である」とわかる様式や内容でもって「解釈が断定的に書かれる」ことはそりゃあるでしょう。例えば「これはケアをめぐる物語だ」とか。ふつう作品自体にそのままズバリ書いてあるわけないんだから。あるいは序文とかではっきり書いてあるなら、書いてあるのだと示した方が評者にとって得。「作品に書いてあること」についてなのか「著者の解釈」なのか、区別できるように書かれていれば断定で問題ないけど、今回はそうじゃないから大変ですねって話。事前情報なしに当該箇所を読んで「おお、ここは作品に書いてあることではなく、鴻巣の解釈が断定で書かれておるなあ」と確信できるとしたら超人でしょう。超能力者しか「文芸批評や研究」を読んではならないのか。
朝日新聞で翻訳家・鴻巣友季子氏が連載する文芸時評に、取り上げられた小説の作者である桜庭一樹氏が抗議の声をあげた(以下敬称略)。
争点となっているのは、「弱弱介護の密室で」母は「夫を虐/待した」という記述である。これが、(テクストに書かれた/現実に起きた)事実であるかのように断定口調で書かれていることに、桜庭は懸念を示す。
抗議を受けて、鴻巣は時評について補足するEvernoteを公開した。
8月の朝日新聞文芸時評についてです。https://t.co/xI1mbbGQr4— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 25, 2021
その後、Twitterで両者はやりとりし、当該の記述が解釈であればそれは批評として受け入れられること、解釈が読者に開かれているという点については意見の一致を見たが、桜庭はなおも以下のように批判する。
鴻巣友季子さんからご意見の表明がありました。わたしは、これは無理のある詭弁だと考えます。自分の解釈とはっきり書かれていることを混同したまま、まとめてしまっています。不誠実かつ未熟な評だと思います。https://t.co/rVv04gScKn pic.twitter.com/VUbZNXnd1j— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 25, 2021
すなわち問題は、
①「作品紹介のあらすじと解釈を分離する」ことはどれほど「むずかしい」(鴻巣Evernote)のか
また、
の二点である。
以下、この二点を検討するが、最初にこの件に関する筆者の個人的な感想を示しておけば、今まで自らの未熟さを自覚せずに仕事を続けてきた鴻巣の不幸と、巻き込まれた桜庭に同情する。
また、鴻巣の解釈がどれだけ妥当であるかについては議論しない。
あらすじを書こうとしていたのだが意図せず解釈が混入してしまった、という事態は、なるほど確かにありそうである。
要約に際して、物語内の複数の出来事や行為を紹介する必要が生じる。そこで出来事Aと行為Bを結びつける際に、「主人公はAによる寂しさからBに及んだ」などと(うっかり)書く。
ここで、対象のテクストに主人公の寂しい感情について明確な記述がない場合、これはあらすじと解釈が分離できなかった例だと言える(本当は憤りからかもしれない)。
小説に明記されていないからといって「Aが起こった。主人公はBした」とだけ書くのは文章としてあまりに不自然なので、それを補おうとして解釈が入ってしまうというのは大いにありうるだろう。こうした場合、分離は「むずかしい」。
またこのとき読者は、「寂しさ」が対象のテクストに書かれているのか、評者の解釈なのか判別できない。
一方、解釈によって生み出された記述であるということを評者が自覚している場合に、「これは解釈だ」と読めるように書くことは容易である。
「〜〜であろう」「〜〜と思われる」「〜〜のではないか」「〜〜が見て取れる」「〜〜のようだ」「〜〜からか」など、日本語には断定を避ける言葉遣いが様々あり、あるいはストレートに「〜〜と評者は読んだ」などと書くことができる。
最後の例は稚拙に映るかもしれないが、プロの書評家の文章にも頻出する(具体例は省く)。
さて、鴻巣は当該の書評文について、「そういう物語として、わたしは読みました。ここが、作者の意図と違うと指摘されているところです」と明記している(鴻巣Evernote、強調原文)。
自らの解釈だと自覚しているである。(ところで、「作者の意図」という言葉を桜庭は使っていない。)
そのためこれは「詭弁」であり、断定的な言葉は避けられたはずだ、と桜庭は指摘している、のだろう。
意図せぬ解釈の混入はありうるとはいえ、解釈の産物であると自覚した文章について、「作品紹介のあらすじと解釈を分離する」ことはさほどむずかしくないと思われる。
それが「むずかしいこと」だと感じるのであれば、それは単に書く力に乏しい(「未熟」)からである。
では、解釈があらすじに混入した場合、何か不都合が生じるのであろうか。特に不都合がないのであれば勝手にやればよいだろう。
あらすじに解釈が入っていると何が困るか。
当事者である桜庭は、「わたしの懸念は、私小説として発表されたこの作品の評で、ある人物が「病人を介護し虐/待した」と書かれたことにあります。そうも解釈できる、ではなく、あたかもテキストにそう書かれていたかのようにです」とツイートしている(https://twitter.com/sakurabakazuki/status/1430736782979596290?s=20)。
ここでは、「作品が私小説であること」が重大なファクターであるかのように受け取ることも可能であろう。前掲ツイートの「またそのような事実もありません」という記述からも、現実にそのようなことがあったか否かが問題とされているようにも読みうる。
もちろん、私小説に固有の問題は別個に検討すべきものであろうが、本稿では、作品が私小説であるか否かによらず、鴻巣の弁明が妥当性を欠くものであることを示したい。
(追記:実際桜庭個人の懸念としては現実としての事実にあるのかもしれないが、続くツイートにある「問題としているのは「評者が読み解いた解釈を、テキストにそう書かれていたかのようにあらすじ説明として断言して書いた」こと」をここではこの問題の本質として考える。その意味で、「わたしは一つの「小説」として読んでいますので、作者のご家族に関する「事実」については切り離して考えさせてください」[鴻巣Evernote]という鴻巣の主張に乗る)
解釈である部分についてあらすじとして断定的な書き方をすれば、それは小説の「読み」を閉ざしうるからである。
前節で扱った例で言えば、「寂しさから」とあらすじにあれば、それは対象のテクストに寂しさが理由である旨が書かれていると読者は「読んで」当然である。この時、「憤りから」であるという「読み」の可能性は閉ざされる。
すなわち、解釈は解釈であると自覚した上で断定的な言葉を選択した鴻巣の行いは、小説は多様な「読み」にひらかれているという鴻巣の信念と矛盾しているのである。
「小説は多様な「読み」にひらかれている」べきであると(は明確に書いていないので本当は思っていないかもしれないが)思うのなら、「むずかしいことですが、作品紹介のあらすじと解釈を分離する努力をするべきでした」と続くはずなのだ。
鴻巣にとって「作品紹介のあらすじと解釈を分離するのはむずかしいこと」かもしれないが、それを果たせないことにより、作品の「読み」は閉ざされる。
評者自身の読みの自由を主張し、それを反映させる(無能力により反映してしまう)ことにより、他者の読みの自由を奪うことは、単純に暴力である。「書き」に注意すれば避けられたはずの、いわば過失致傷である。
それは評する作品を損傷し、また、時評の読者(の能力)をも傷つけうるだろう。
書くこと/書く者は、読むこと/読む者に対してこうした暴力を為しうる。
「自分が文章をどう読むか」ではなく「自分の文章を読んだ者がどう思うか」まで思いを至らせることができて初めて、自らの読みを主張する正当性が備わるのではないだろうか。