はてなキーワード: ファンタジーとは
まとめエントリを作ってみました。
あわせてお読みいただければ幸いです。
まあ、どのくらいの数のアニオタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らないアニメの世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」
ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、アニメのことを紹介するために
見せるべき10本を選んでみたいのだけれど。
(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女にアニメを布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴う3クール、4クールのアニメは避けたい。
あと、いくらアニメ的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
映画好きが『カリガリ博士』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
アニメ知識はいわゆる「テレビまんが」的なものを除けば、ジブリ劇場用アニメ程度は見ている
サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「エヴァ以前」を濃縮しきっていて、「エヴァ以後」を決定づけたという点では
外せないんだよなあ。長さも2クールだし。
ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
この情報過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に
伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうなアニメ(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「アニオタとしてはこの二つは“映画”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種のSFアニメオタが持ってる宇宙への憧憬と、JAXA監修のオタ的な考証へのこだわりを
彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも谷口悟朗な
「童貞的なださカッコよさ」を体現するハチマキ
の二人をはじめとして、オタ好きのするキャラを世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「ルパンIII世だよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜の作品がその後続いていないこと、これがアメリカでは大人気になったこと、
アメリカなら実写テレビドラマになって、それが日本に輸入されてもおかしくはなさそうなのに、
日本国内でこういうのがつくられないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱりアニメは子供のためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「あらしのよるに」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかける原の思いが好きだから。
断腸の思いで削りに削ってそれでも2時間20分、っていう尺が、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、
その「捨てる」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。
クゥの長さを俺自身は冗長とは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、一方でこれが
宮崎や富野だったらきっちり1時間40分にしてしまうだろうとも思う。
なのに、各所に頭下げて迷惑かけて2時間20分を作ってしまう、というあたり、どうしても
「自分の物語を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえ原がそういうキャラでなかったとしても、
親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今の若年層でコナン見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
ナウシカよりも前の段階で、宮崎の哲学とかアニメ技法とかはこの作品で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの作品がテレビアニメでこの時代にかかっていたんだよ、というのは、
別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなくアニメ好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆるジブリ劇場用アニメでしか宮崎を知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
押井の「目」あるいは「絵づくり」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「終わらない学校祭を毎日生きる」的な感覚がオタには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそアニメ版『らき☆すた』最終話はビューティフルドリーマー以外ではあり得なかったとも思う。
「祝祭化した日常を生きる」というオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」の
源はビューティフルドリーマーにあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、
単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういうジュベナイル小説風味の恋愛をこういうかたちでアニメ化して、それが非オタに受け入れられるか
気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9本まではあっさり決まったんだけど10本目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にハルヒを選んだ。
エヴァから始まってハルヒで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、YouTube以降のアニメ時代の先駆けと
なった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10本目はこんなのどうよ、というのがあったら
教えてください。
「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
追記
私だったらタイトル選んで紹介されるより、一緒にツタヤ行って「どのへんいけそう?」とか聞いて自分で選ばせてほしいな。
何選んでもバカにしないで、内容解説してくれたら彼を尊敬する
最終的に狙うのは、まさにその状態ですね。
このセレクションのキモって、「エヴァンゲリオン」のところで書いているように、あくまで
「オタクが非オタのためにどこまでオタ臭を出さずにアニメを説明できるか」
『脱オタクファッションガイド』と方向性は真逆だけど、狙っていることは同じ。
それができそうなのが私の場合この10本ということであって、シチュエーションとしては彼女の方が
「ちょっとアニメのことが聞きたいんだけど、何を見たらいい」と聞いてきた場合を想定しています。
そこをディープさを感じさせずに見せられなかったら、なんのためのオタクだよと。
『千年女優』は頻繁な場面転換が人を選びそうなので、それよりは正統的なカット割りのゴッドファーザーズを。
女性原作者のファンタジーアニメはいいと思うんですね。守り人は最終候補に残しましたし、『彩雲国物語』も
チャングムとの比較という点で、長くなければぜひ入れてみたかった。
(10本目から守り人を外したのは、07年テレビアニメで一番非オタにとっても見応えのあるものだと思うがゆえに、
逆にここに入れなくてもいいかなという理由で)
あえて『ハルヒ』以外は原作のないアニメを並べたんですけどね。
プラネテスも時かけも押井うる星も、オリジナルの範疇でしょう。
だからハルヒに乗り気じゃなかったのかな俺は。
連続ものについては、なにも短期集中でなくともいいと思う。
興味がなくなれば自然と見なくなるし、逆に興味が出れば自分からみたがるもんだろうし、
そこそこなら忘れないうちに続きをゆっくり見ればいいんだし。
後段については、それ故に「彼女の方から言い出した」という設定にしているというのもありますね。
彼女が積極的に興味のないものを、いかにオタ的暑苦しさ鬱陶しさを抜きにして、かつ
オタ世界の魅力をあっさりと受け入れてもらうか、そのセールストーク的コミュニケーション訓練が主眼ですから。
基本は「脱オタ」方向なんですよこれ。
これってまさにその確認をするための作業なんですよね。
もしそこで「差がない」と思いこんでしゃべったら、たぶん破局一直線だろうし。
むしろ、差があることを認めてこそ、オタと非オタが相互に肯定しあってうまくやっていけるんじゃないかと
そういう期待はあるんですけどね。脱オタとは、オタをやめることではないと思ってます。
そいつは素敵すぎるぜベイベ。その狂気に触れ共感しつつ、あくまで正気を保ちたいぜ。
そんなパーフェクトジオングみたいな珍妙な生き物居るわけ無いでしょ?
10本程度では酒に慣れる程度で酒の味が分かるようになるかというとどうか?
普通に好奇心が強いだけなんだけどな。そして染まりはしないが理解しようという気はあると。それだけの話だよ。
それに、誰も10本で酒の味をわからせようなんて言ってはいない。だから「軽く紹介」なんだし、きっかけ、入口。
『美味しんぼ』で偏食を直したカツ丼みたいなもん。あるいは今の漫画なら『神の雫』。
基本目が細くて等身が細めのアニメが中心だな。
まあ、萌えに踏み込む必要はないしね。後半はそれこそ「おめでとう」だよな。
お勧めされると逆に引く
いや、レコメンドでは全然ないのだけれど。
「オタが考える非オタのためのアニメ十選」っていう企画じゃない。
……なんでハルヒ?
カリオストロの城くらいで。
つーかムリにアニメなぞ媒介にせんでもええやん。
だからハルヒじゃない10本目、いいものあったら教えてくださいと書いたわけで。
カリ城はどうしても「ルパン」という枠があるので、先入観のないものを。
別にアニメでなくとも、漫画でもなんでもいいと思います。今回はたまたまアニメだと。
…(^ω^;) ((((((^ω^)
そう言いたくなる気分はわかる。けど、ここで目指しているのはそこからの脱却。
可能か不可能かはこの際おく。できると思ってるから書いた。
b:id:fuldagap 愚の骨頂
オタ世界的読解を捨てるわけじゃない。けれどそれは俺個人のもので、彼女にそれを知ってもらったり
まして共有してもらう必要もないだろ。
けれど、彼女がそういう俺の存在を許容してくれるなら、彼女に理解できる範囲で、俺という人間を
彼女がオタじゃあ意味がない、けれどせっかく自分と違うものの見方をしてるのに見守ってくれてるだけじゃ勿体ない。
彼女の感性を汲み取り、俺のコミュニケーション能力を向上させたい。
それくらいの貪欲さは持っていたいものだなと思ってる。
結果として彼女によって俺のコミュニケーション能力が引き上げられたらいいな、という期待を
もつくらいには貪欲でありたいなと思っている。
(tekitousphere - wideangle Weblog 2008-07-23「コミュニケーションの目的は……!」ということ。
での御指摘を受けて、改めました)
むしろそういうほうがアリかも。ありがとうございます。
あと、http://anond.hatelabo.jp/20080723070944にお返事を書きました。
http://twitter.com/wideangle/statuses/865446462
うへー……。
http://twitter.com/wideangle/statuses/865447639
結局「俺の」「能力」なのか。
お気持ちはよくわかります。私の書き方が悪かったですね。
そこで期待しているのは所詮は反射的効果に過ぎません。
そこに期待してもいいだろう、程度のもので、それを得ようという強固な目的意識まではない。
そこであえて「これってSF読みが女の子に贈ってしまう地雷なんだよね」と前置きして贈るってのは
どういうもんなんだろうなと。
そこでそういう風俗を面白がることのできる人もいるだろうけど、それがどういう面白がり方かと
考えてみると、あんまりいい結果になりませんよね。
全部好きな作品からのチョイスですよー。
「勉強のため」だったら『天使のたまご』が確実に入るし、そんなリストはそもそも表に出せるものじゃないです。
種明かし……だよね?天然で書かれたものならあまりにも狂気。ネタ文なら種明かしなしの方が完成度高い。
この場合、どちらともとれるような書き方がいいのかなと思いまして。
そりゃそうです。だから「俺の10本」でしかあり得ないし、「他人の10本」が知りたいです。
そして、女の子が主人公のアニメで女の子が感情移入できるものって、かえって少ないような気がしています。
そこの議論こそ、大切ですよね。
全くです。返す言葉もありません。
だから、見せることなく脳内に入れたまま墓場まで持っていくアニメのリストに結果としてなってしまってもいいんです。
順番に意味はないって書いたじゃん/あんなもん「話せばわかる」なんて思ってるやつの方が希少でしょ。
あれこそ正に「見て感じてしゃべる」ためのアニメだし。だからここに入ってるんだし、話せそうもないなら打ち切ればいいだけ/
ポニョを見てきた。最終上映だったのですいていた。
昼間は混んでて暑くてかなわんし、自分の判断は正しかった。
個人的には必見の映画だと思う。まだ少し興奮しているので、少しレビューを書いてみる(ほとんどネタバレなし)
たまに出てくる異常で非凡なイマジネーションとしか言えない絵(シーン)は、絵コンテが浮かんでくる様だ。
誰もが気づくであろうことを(主人公の男の子を含む)皆が気づかなかったりすることに対して微妙に感じる
違和感と設定の説明不足さ加減が、(見ている最中には理不尽性を受け入れてしまう様な)夢を見ている
ときの焦燥感を思い出させる。
あと、主人公の男の子なんかの子供的動きのリアリティの宮崎節は安心感がある。昔っからの手法というか、
昔も今も子供の動きは変わっていないのだろう多分、みたいな。ポニョのかわいらしさとユーモア性も十分以上。
ただ、ちと鼻についたのは、主人公一家が互いの名前を呼び捨てにする「サヨク的先進性」的なオシャレ性と
洋式食事のオシャレ性がどこまで通じているのかという点(今だとかえってダサイのでは?)。老人的
欲望/願望が込められている部分については確かに宮崎駿も老いたものなあと思う。
にしても、宮崎駿のパワーとイマジネーションは凄い(とても老人に思えない)。異様としか言いようがない。
説得力のあるファンタジーを超えようとする意識、というより、リアリティとファンタジーがごっちゃになっていて、
人間が作り出すものの限界を超えようとする意識というか、恐るべし宮崎駿というか。はっきり言って、
分析しながら見てると、ものすごく疲れる。なかなか構造が理解できないから。展開の早さも異常だし。
ただ、何も考えないで見ても割合「つるん」と清涼感を感じながら受け入れられると思う。
(客席には異様な体験をした空気が流れていたが)
個人的には、千と千尋やハウルはそれほど好きになれなかった。ストーリーの方程式を無視した理不尽性が
失敗作としか考えられなかったし、エナジーの切れた黒沢映画の様に構想力の退行化をアドリブでごまかして
いる感じがしたから。でも、今作は作家性とパワーと(例えば、年を取ると宗教に頼りだす様な)老人的妄想力
の固まりで、アドリブ感と疾走感と予定調和的なものを願う願望力を十分に味わえた。
とベタ褒めしてみたが、人によっては違う様に感じるかも知れない。長文スマソ。
http://anond.hatelabo.jp/20080714060957
男子を女子に置き換えて考えて見れば、露出が多くてムラムラするのも着替えや裸を見たがるのも容易に想像はつく。でも、
これだけがひっかかる。陰毛を毟り合う遊びが流行っていたなんて話は自分の体験としても人づてでも聞いたことがない。
それともあれか?腐女子ってのは男が陰毛を毟り合う様子を想像して興奮できるのか?どんなファンタジーな思考回路だよ。
というわけでこれを女に置き換えて考えてみる。
他には誰もいない部室にいる二人の少女。二人は同じ部に所属する先輩と後輩である。以下、年長者は姉、年少者は妹と呼ぶ。
「ねぇ」
「なんです、お姉さま?」
「私、あなたの陰毛が欲しいのだけれど」
「えっ」
「いいでしょう?一本だけ。いつも手元に置いておきたいのよ」
「お姉さまがどうしてもっていうのなら・・・でも、やっぱり」
「恥ずかしい?」
「だって」
「すぐに済ませてしまうから、ねっ?スカートを上げて頂戴」
有無を言わさぬ姉の気迫に、妹は自分で自分のスカートをたくし上げる格好に
姉、しゃがんでスカートの下を覗き込む
「かわいい下着ね」
「見てないで早くしてください!」
「怒らないでよ、褒めているのに」
「う、うれしくなんかありませんっ」
妹、顔を赤らめる
「しょうがないわねぇ」
姉が下着に指を滑り込ませると、妹は痛みを想像して目をつむる
「や、優しくしてくださいね」
「わかっているわよ」
「っ!」
姉、立ち上がると人差し指に絡みついた黒い毛を愛おしそうにほどく
「い、痛くしないっていったじゃないですかー」
「ごめんなさいね、でも爪を立てて抜いたらせっかくの毛が痛んでしまうでしょう?」
姉、白いシルクのハンカチを取り出して痛みで涙が出た妹の目元をぬぐう
「ありがとう、大切にするわ」
姉、そういうと毟った陰毛を広げたハンカチに乗せ、たたんで制服のポケットにしまう
「あの、一つお願いしてもいいですか?」
「なにかしら」
「私にも・・・お姉さまの毛・・・欲しいです・・・」
窓から差し込む夕日だけが二人を見ている
・・・ファーストガンダムの小説版でもセイラさんの陰毛がどうとか言ってたし、陰毛って案外ありかもしれませんね!
オチはない。
あなたに漠然とした質問をひとつします。
深く考えずにとりあえず答えてみてください。
「答えはどこにあると思いますか?」
本当に漠然とした質問で戸惑ってしまったかもしれません。
でも、答えてください。
反射的に出てきた言葉でいいので何か答えてください。
何となく決まり文句で出てきた言葉でいいので答えてください。
答えましたか?
これは自分探し病にかかっているかどうかをチェックするテストです。
「自分の中にある」と答えたあなた!自分探し病にかかっています。
このテストは、速水健朗「自分探しが止まらない」を読んで、私が勝手に考えたものです。かなり精度の高いチェッカーだと自負しています。実際の自分探し病患者である自分自身の病理をよくよく観察して考案しました。
「自分探しが止まらない」を読んで、自分自身が自分探し病にかかっていることを認めざるを得なかったのです。不本意ながら。
でも、病を自覚できたおかげで、最近悩んでいたことがすっきりしました。
娘の教育にあたっての妻との衝突の悩みです。
「これだけは誰にも負けないという何かを、何でもいいから持つべし!」というのが、娘の教育にあたっての私の方針でした。決して突飛な考え方ではないと思います。
しかし、これを聞くと妻はため息をつきます。そして言うのです。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」
たしかに妻は、勉強や運動で飛び抜けた成績をあげたこともなく、これといった得意分野もありません。何かの趣味に熱中することもありません。
では、どうして妻は、私にとってかけがえのない存在なのでしょうか。
そして、娘の教育方針はどうしたらいいのでしょうか。
現在の子育て世代は、深刻な自分探し病世代でもあるように思います。自分探し病でわが子まで不幸にしないために、私の考えをまとめてみました。
「自分探しが止まらない」では、我々の世代はみんな、自分探しを社会から強制され続けてきた世代であることを、様々な事例から明らかにしていきます。
我々の世代というのは、「あいのり」世代として区切ることができます。青春時代に放送されていた恋愛バラエティー番組が「あいのり」であるという世代です。比較して語られるのが「ねるとん」世代。
私は「あいのり」世代です。そして、「あいのり」の本質は恋愛バラエティーではなく自分探しバラエティーであると、「自分探しが止まらない」は分析しています。
私は「あいのり」という番組が大嫌いですが、好むと好まざるとにかかわらず、時代の空気というものは誰もが影響を受けてしまうものです。そして、テレビ番組は時代の空気を映す鏡です。極論すると、我々の世代の全員が自分探し病の患者か予備軍なのです。
「ねるとん」のキーワードは「三高」、「あいのり」のキーワードは「本当の私」、ここに世代間の意識の違いがくっきりと現れます。
「高身長・高学歴・高収入」と恋愛成立の条件を「相手」に求める「ねるとん」に対して、「あいのり」は「本当の私を分かってくれる人」といった具合に、一見すると相手に求める条件のようでいて、じつは「自分」の内面的なことがすべてであるという違いです。
私たち「あいのり」世代は、徹底した自己分析によって自分の適性にぴったりの職業を見つけて、その職業に就くことによって初めて幸せな社会人になれると刷り込まれ続けてきました。
というか、刷り込まれてきたという自覚もありません。仕事=自己実現であり、答えは自分の中にあるのであり、就職活動=本当の自分探しであるという考え方に疑問すらわかない状態です。
自分探し病が重症になると、恋愛についても同じ考え方をしてしまうわけです。恋愛=本当の自分探しであり、やっぱり答えは自分の中にあると考えるのです。
常に本当の自分とやらを見つめ続け、
「よくよく考えてみたら、私にはこんな一面があると気づいたの。だからあなたとはお別れね。あなたが悪いんじゃないの、あなたを選んだ私は、まだ本当の私じゃなかっただけなの。」となるわけです。
問題をややこしくしているのが、この考え方が「あいのり」世代特有の奇妙なものであることを自覚するチャンスが無いということです。「自己分析」という自分探し病キーワードを「あいのり」世代が口にしても、スルーされてしまうという罠があるのです。
罠のポイントは、「あいのり」世代の奇妙な考え方にお説教のひとつくらいしてもよさそうな50代から60代あたりの世代こそが、私たちに「個性重視」教育を施した当事者であるということです。
その世代の人たちは、ある種のファンタジーというか、ものの考え方の振れ幅の片方として教えていたつもりで、まさかそこまで本気で私たち世代が信じ込んでくれているとは思ってもいないのです。
(没個性・画一教育へのアンチテーゼという意味での)「個性重視教育」
をやっていたつもりが、いつの間にか括弧書きの部分が取れて、
「個性重視教育」
になってしまったのです。
ファンタジーが現実になってしまったわけです。バリバリの没個性・画一教育を受けて育ってきた世代には、どうにも実感の湧かない現実でしょう。自分たちが目標に掲げて実現した世界なのに。
だから、「自己分析」というキーワードを「あいのり」世代が口にしたところで、そこに信仰にも似た過剰なまでの熱量が含まれているとは思ってもみません。文字通りの意味で受け止めて、微妙にずれた言葉のキャッチボールが成立してしまうのです。ある程度の「自己分析」が就職活動に必要なことは間違いないのですから。
相当に丁寧な言葉のキャッチボールをしないと、この微妙な、だけどとても大きなずれに気付くことは出来ません。
このような「自分探し」をめぐる世代間の認識のずれは、自分探し病についての建設的な議論を台無しにしてしまいます。
50代から60代あたりの世代は、まだマシです。我々「あいのり」世代が抱えている「自分探し」観を懇切ていねいに説明すれば、
「へぇ?、そんな風に考えていたんだね。思っても見なかったよ。」と素直に受け止めてくれる人も少なくありません。
問題は「ねるとん」世代です。「ねるとん」世代は、「自分探し」がブームになった世代なので、「自分探し」について自分たちの世代もよく知っているつもりです。「深夜特急」が青春時代に刊行され、そのマネをして旅に出たという友達がまわりにたくさんいた世代です。
だから、自分探しについて自分なりの考え方を既に持っています。そして、それを語り尽くしたら、議論をおしまいにしてしまうのです。
「自分探し?そんなものは俺が若い頃にもあったし、俺もかぶれた時期があった。あんなものは一種の通過儀礼で、いつまでも自分を探しているやつは甘えているだけなんだよ。」みたいな感じです。
たしかに「ねるとん」世代が青春を謳歌していた頃に「自分探し」はブームになり、「ねるとん」世代も多くの人が自分探し病にかかりました。
しかし、まさに「ブーム」でした。
「ねるとん」世代の多くは「ブーム」として自分探し病にかかり、「ブーム」だからこそ、しばらくすると熱は冷めていったのです。
自分探し病がそのまま重症化してしまった人も、もちろんいました。オウム真理教に入信してしまった人などです。ただし、それは特別な存在でした。
しかし、我々「あいのり」世代は、自分探しこそが幸せへのパスポートであると社会全体が大合唱している中で青春時代を過ごしてきました。今の大学生にいたっては、物心ついてからずっとです。
自分探し病の病原菌に、いつか治すべき流行病として感染したのが「ねるとん」世代。素晴らしいワクチンであると学校で接種されて感染したのが「あいのり」世代なのです。自分探し病にかかるということの意味合いが全く違ってくるのは当然でしょう。
そのあたりの認識のずれに気付かないまま自分探しを論じているブログがたくさんありました。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51003082.html
Baldanders.info
「『自分探しが止まらない』を眺める」
http://www.baldanders.info/spiegel/log2/000376.shtml
どれも、我々「あいのり」世代の自分探し観と微妙にずれた、彼らの世代の自分探し観を前提として持論を展開し、議論を切り上げてしまっているように思えます。
自分の病理として捉えつつも、このように冷静に分析できたのは、私が自分探し病にかかりつつも、それほどこじらせないで済んでいたからです。
妻のおかげです。
私と妻、それぞれがまったく違う生き方をしてきたのが功を奏しました。
私は圧倒的な優等生としてずっと生きてきました。常に学級委員を務めていて、勉強も出来ました。しかも、好奇心旺盛で何にでも興味を持ち、個性的と賞賛される発想を、ずば抜けた行動力と調整力によって実現してしまう伝説級の優等生でした。運動神経は全くありませんでしたが、スポーツから逃げるのがしゃくで、中高と運動部に所属して、それなりにこなしていました。
あくまで事実を書いただけですw
より適切に表現するならば次のような感じでしょうか。
キモオタなんだけど、やたらと行動力があって、運動以外のスペックが全般的に高くて、何より精神的なダメージへの耐性がむやみに高いせいで、周囲の微妙な空気も含めて力技で引っ張り回して、何だかんだで思い通りにしてしまう人間でした。
要するに、「あいのり」世代が受けてきた「個性重視教育」に、これ以上ないくらいに適応した人間だったのです。学校が楽しくて仕方ありませんでした。
就職するときには、超氷河期の中でしたが、おもしろそうだと思った仕事にすんなりと就くことが出来ました。今も仕事が楽しくて仕方ありません。
一方、妻は、勉強も運動も人並みで、特に何かに熱中することもなく、至って普通に生きてきました。学生時代に何かを成し遂げた思い出も無いそうです。
なんとなくいくつかの会社を受けて、内定をくれた会社に就職し、しばらく働いてから寿退社。今は専業主婦です。
要するに、「個性重視教育」に背中を向け続けてきた人間なのです。学校では先生のお説教が憂鬱で仕方なかったとのこと。
相変わらず我が道をばく進する大学生だった私が、ひょんなことから出会った専門学校生の妻に交際を申し込んだ理由は、そんな妻の普通すぎる価値観が逆に新鮮だったからでした。
まぁ、正直なところ妻の美しさが最大の理由でしたが、新鮮な価値観に魅力を感じたのも嘘ではありません。妻としても、私のキモオタぶりも含めて、すべてが新鮮だったからOKしたそうです。
実際に交際を深めていく中で、かけ離れた価値観をぶつけ合うことが、やはりとても生産的なすばらしい行為であることを知りました。というか、妻がここまで徹底抗戦してくるとは思っていませんでした。
私が積み重ねてきた経歴や、獲得したたくさんの語彙や、膨大な知識に、まったく臆することなく、というか意味を見出さず、ひたすら一つのことを問いただし続けるのです。
「あなたは私を幸せに出来るの?」
そのあまりにシンプルな問いと向き合ったおかげで、私の自分探し病は悪化しないですんだのかもしれません。
「あなたは私を幸せに出来るの?」
「俺には輝かしい学歴があるからね。」
「いや、これが結構残念なことになっちゃう人も多くてね。
だけど、俺は違うよ。就きたい職業のイメージもしっかりしているし、そこに向けた努力もきちんとしているし。」
「仕事はおもしろそうだし、お給料は人並みにもらえるらしいし、安定している業界だし、忙しい職場だけどそれなりに家庭生活とのバランスもとれるっぽいから、大丈夫だと思うよ。」
「本当に?」
「たぶん…。」
「私を幸せに出来るの?」
「いや、そう言われると…。これから社会がどんな風に変わるか分からないし、仕事が自分にとって本当におもしろいかは入社してみないと分からないし、それなりに出世するつもりでいるけど、学歴とか関係ない職場だし…。言われてみると…。」
真剣に具体的に考えて、私は愕然としてしまいました。
私にあるのは可能性だけで、何一つ確実なものは無いのです。
輝かしい学歴も、個性的な発想力も、築き上げた人脈も、彼女に幸せを約束するための十分条件にはならないのです。いや、必要条件ですらないのです。
三段跳びに例えると、助走で最高に気持ちよく走ってきて、スピードものってタイミングもばっちりだけど、ホップ・ステップ・ジャンプでうまく跳べるかなんて、踏み切ってみないと分かりはしないってことに、初めて気付いたのでした。
走ることと跳ぶことって全く別のことですもんね。うまく助走出来た方が、うまく跳べる可能性が高くなるというだけです。うまく助走できていたのに、うまく跳べないことなんてざらにあります。一方で、助走ではいまいちスピードがのらなかったのに、うまく跳べてしまう人も少なくありません。
更に言えば、ホップ・ステップまではうまく跳べたのに最後のジャンプで大失敗なんて、歴史の教科書ではむしろ多数派です。
そんな問答を彼女としながらも、私はとりあえず就職活動を進めていて、希望通りの業界で内定をもらいました。
しかし、内定を手に大学4年生となった私に、トラブルが発生したのです。勉学以外の活動が面白すぎて夢中になっているうちに、最後の一年でとるべき単位が大変なことになっていたのです。時間割のすべてのコマをパズルのように埋めて、すべての授業で単位を獲得できれば卒業できるという状況でした。
跳ぶことの怖さに気付いてしまった私にとって、そんな状況は、跳ぶのを止めて、とりあえず助走を続けるのにぴったりの理由に思えました。
その年度の卒業は諦めて、もう一度就職活動を仕切り直そうと思ったのです。自分探しを延長するのにぴったりの大義名分だと思ったのです。
三段跳びの踏み切り板が近づいてくると、もう少し走れば、もっといい感じのスピードとタイミングになるかもしれないと思えてきたりもするのです。
内定した会社より、重役面接で落とされた別の会社の方がやっぱり自分にあっている気がしてきてみたりするのです。
そんなことを彼女にほのめかしてみたところ、一喝されました。
「何が何でも卒業して就職した方がいいと思う。最初から留年するつもりなんだったら、別れる。
だって、就職留年して別の会社に内定したところで、幸せを約束できるわけじゃないのは一緒でしょ。試験勉強応援するからさ。」
彼女がそういうんだったら仕方ないというか、そうした方がいいことは薄々気付いていて背中を押してもらったというか、私は卒業に向けて全力投球することになったのでした。
そして、私は無事に大学を卒業して就職し、今に至るというわけです。彼女、つまり妻が一喝してくれて本当に良かったです。
助走って楽しいんですよね。でも、助走はしょせん助走なんです。助走としての個性重視教育にしろ詰め込み教育にしろ、過剰に最適化された私は、走ることがあまりにも心地よかったこともあって、跳ぶことをついつい先延ばしにしてしまうところだったのでした。
たしかに、踏み切り位置がきっちり決まり過ぎていた頃は、それゆえの悲劇もあったのかもしれません。
足のタイミングが踏み切り位置にたまたま合わなくて失敗したとか、もう少し長めに助走していたらスピードがぐっと上がっていたはずだったとかです。
だから最近は、そのあたりの悲劇を無くすために、踏み切り位置をきっちり決めないでOKとする風潮になってきました。
でも、何だかんだ言って、結局は跳ばなきゃ話にならないのです。
「もっと真面目に助走しろ!」と怒られ続けてきた妻にしてみると、それほど意味がないように思える助走なんかさっさと切り上げて、早々に跳んだ方がいいに決まっているのでした。
ということで、妻に一喝されたおかげで、私は自分探し病をこじらせないで済んだのでした。
でも、いまいち問題の本質を理解しないままでいて、危うく娘まで自分探し病的な考え方に押し込めてしまいそうになっていたところを、再び妻に一喝されたというわけです。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」
「誰にも負けない何か」というのは、私がずっとすがりついてきたキーワードでした。
閉塞感が漂う時代は、多くの人が確実そうなものにすがろうとします。医学部が人気になったり、公務員試験の競争率が高くなったり、金相場が上がったりします。
でも、私たちの世代は、「すがれそうな確実なもの」という幻想をことごとくぶち壊された世代でした。
私たちが大学受験をした当時は、医者余りで食いっぱぐれる医者も出てくるなんて言われていました。
学歴は、無くて困ることはあるけど、あったところで何かを保証されるわけで無いことを、みんな知っていました。
大規模リストラのニュースが毎日のように流れ、終身雇用の原則は、音を立てて崩れ落ちていきました。
そもそも、大企業自体があっさり潰れる実例をたっぷりと見せつけられました。
かといって官僚も、天下りありきの賃金構造でモチベーションが維持されていて、そんないびつな構造を維持できるはずがないと、みんな薄々気付いていました。
そんな状況と、骨の髄まで染み込んだ個性重視教育から導き出されたのが、「誰にも負けない何か」という考え方なのです。
確実なものなんて望めない世の中だけど、それでも望もうとするのならば、努力によって磨き上げられた圧倒的な才能くらいでないとすがりつくことは出来ないという悲壮な認識です。
でもね、そんなものに手が届くはずがないのです。認めたくないですけど。
だから、妻の反撃は私を追い詰めていきます。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!あなたにはあるの?」
「Aの分野における、Bという条件での、Cなら誰にも負けない自信がある!」
「随分限定するのね…。そこに需要があるの?」
「ある!…はず。」
「食べていけるの?」
「…いけると思う。」
「子どもの学費もあるんだよ。」
「いける…ん…じゃないかな…」
「厳しいんじゃない?」
「まあ…ちょっと…覚悟は…しておいて…」
それなりにスペックが高いと自負している私は、努力さえすれば「誰にも負けない何か」が手に入ると思っていました。でも、ちょっとやそっとでは「誰にも負けない何か」なんて到達できるはずがありません。
そこで、私はニッチ路線をひた走る戦略へと方針転換したのでした。数は少ないけど熱烈に支持してくれそうな見込み客がいて、市場としてこれから成立しそうな分野に、今から開拓者として乗り込んでおこうというわけです。この方針転換自体は間違っていないと思っていますが、もはや「すがりつける確実なもの」というレベルの話でないことを、認めざるを得ません。
というか、「一生安泰」のためには、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」必要があります。一発屋が、むしろ不幸へとつながりやすいことをみんな知っています。かといって、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」という生き方は、もはや普通の人生以上の修羅の道です。
要するに、「誰にも負けない何か」なんて見果てぬ夢であって、それを目指すことは悪くないけれども、それを必ずつかめるはず、それをつかんで初めて幸せになれるなんて考えるのは大間違いだということです。
でも、なにか確かなものが欲しい!
そこで頭に浮かんだのが、「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻が、私にとってかけがえのない存在であるということでした。
私にとって妻がかけがえのない存在である理由を考えてみました。
私は常に暴走モードに入っています。ふと思いついた楽しそうなことに向かって、闘牛のようにとりあえず一直線に向かっていきます。
そんな私の背中にまたがった妻は、時々私の耳たぶを引っ掴んで大声で叫ぶのです。
「あんたバカぁ!?そっちに行ったら危ないでしょ!ちゃんと前見て走りなさいよ!」
妻を背中に乗せていなかったら、私は壁に激突しまくって瀕死の重傷を負っていたことでしょう。
一方で、私の背中に乗っていなかったら、自力で前に進むのが苦手な妻は、その場に座り込んでため息ばかりついていたことでしょう。
今となっては、これ以外考えられない組み合わせです。
「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻ですが、私を操縦することにかけてだけは、誰にも負けないわけです。
一方で、こんなきっついツンデレ妻を背中に乗せていられるのは私くらいだという、妙な自信もありますw
もちろん、最初からこの組み合わせがうまく機能していたわけではありません。長いつきあいの中で、お互いに激しくぶつかり合って、お互いに譲り合ったりしていく中で、何とか作り上げたギリギリのバランスです。
自分らしさの大切な要素だと思っていたものを、それぞれが泣く泣く諦めたりして今があるのです。そして、これからもぶつかり合いは続きます。
そうなんです。ぶつかり合いは続くんです。あらゆる状況は常に変化していくわけで、最高の関係を築き上げたつもりの私たちの間で、微調整どころではないぶつかり合いが、これからも発生し続けることは間違いないのです。
結局は、個人と個人とが直接ぶつかり合って作り上げた関係性の中にしか、確かなものなんて無いというのが私の結論です。そして、それは常に揺らぎ続けるものであって、確かなものにし続けるために不断の努力が欠かせないものなのです。
不断の努力無しには崩壊してしまうものが「確かなもの」であるかは微妙なところですが、わが家では、その程度の「確かなもの」で十分とし、それ以上のゆるぎない何かを求めるとろくな事にならない気がします。
私たちが探し求めている「自分」というのは、結局のところ「存在意義のある自分」なんですよね。
そして、それは「自分の適性を最大に生かして仕事をすること」とか、「誰にも負けない何かを身につけること」とか、「自分のすべてをありのままに受けて入れてくれる恋人と出会うこと」とかではなくて、「大切にしようと決めた人と、お互いがお互いにとって大切であり続けるためにもがき続けること」でしか手に入らないものなのです。
かといって、「キミとボクの関係が世界のすべて」だなんて、そこに過大な意味を見出そうとすると、また妙なことになってしまいます。
そうではありません。あくまで、世界のすみっこで生きている個人同士が、その存在の小ささを受け入れた上で、お互いの存在価値を認め合って、それに見合った努力をし続けるということなのです。
「答え(=「存在意義のある自分」)は、どこにあると思いますか?」
という質問に改めて答えるならば、「大切な人と自分との間」にあるといったところでしょうか。
後編へのリンクを忘れていました。
初増田なもので、すみません。
わが子を自分探し病から守る 後編
快楽の追求に対してもっと真摯で貪欲であるべきなのに
なんというか、射精行為が最初からある程度の快楽と結びついてる男性ならではの考え方だなと思う。
女性にとってのセックスって別に最初から快楽と結びついてるとは限らないし。
どちらかというと破爪のあたりとか痛みを我慢するとこから始まるわけだし。
セックスとは気持ちよいものだとか気持ちよくなければならないものだなんていう認識が乏しくて、男との関係を保つために必要なものとして割り切ってる女性からしてみれば、更なる快楽を追求するためにリソースを割こうという気にはなれないわけですよ。相手が協力的かどうかもわかんないし。風俗とオナニーの喩えで上がってたのと逆だけど、コストかけてフルコース食べなくても、腹が満たせればそれでいいという考え方もある。
一方的なセックスをする男とはすぐに別れてドンドン新しい男を捜せばいいのに。
私は、(別に相手が一方的なセックスをするからという理由で別れたわけじゃないけど)一方的なセックスをする男たち9人と付き合って10人目の彼氏が初めてそうじゃない彼氏で「双方で協力してセックスの快楽を追求する」というのがどういう状態かようやく理解したけど、普通はたかだかセックスの相性が合わないぐらいでそんなにとっかえひっかえって訳にはいかないと思う。もともとセックスに期待してなくて「こんなもの」程度にしか思ってないならなおさら。
そして日本の女性はセックスの快楽に対する期待値は文化的にかなり低いんじゃないかな。アダルトビデオでも洋モノはレイプもの規制があって男女合意の元という設定がほとんどで、女性が積極的で底抜けに楽しそうだけど、和モノは女性が一方的に強いられて苦しそうな顔をするものが多いって話を聞いたことがある。そういうのに慣れてる日本の男性は、洋モノでは抜けない、みたいな話。(今の彼氏は逆に女性も積極的に楽しんでる洋モノ系のようなのじゃないと抜けないって言ってる)
アダルトビデオで使われてる技巧って実際にやられたら痛くてやってられない男性に見せるためのファンタジー的な要素多いし。社会的にそういう刷り込みもあるような気がするんだよね。だから「当たり」の男性に出会う率も低いし、女性側が男性側を開発するにしてもモデルが少なすぎてそういう発想に行き当たることが少ないんじゃないかと。
啓蒙するなら女から対象にするんじゃなくて、セックスに対してある程度のコストを割くことについて寛容な男をまず対象として啓蒙して欲しいな。多分そうじゃないと世界を変えるのは難しい。
これでも人並みにAVとか見てて、なんとかこなすだけの知識はあると思ってたんだけどさ
AVなんて参考にしちゃだめです。あれは見せるための演技です。ファンタジーです。
まずね、何から始めればいいのか分からない。そしてどれだけ続ければいいのか分からない。
そんなものみんなわかりません。演技されたらもっとわかりません。目の前にいるんだし、本人にどうしてほしいか聞けばいいと思うよ。
濡れなきゃ入らないんで、とりあえず濡れるまでがひとつの目安だけど、人によってはそう簡単に濡れない人もいるから、そういう時はローションとか唾液とか使え。
角度は相手の腰の下に枕とかクッションはさむなり、がんばって調整するしかない。
あ、あとコンドームの付け方もわからんかった。
コンドームはちゃんと説明書が入っています。暇なときにでも一回読んでおきましょう。間違った使い方すると破れたりします。二枚重ねとか。
あとわかってても裏表はよく間違えそうになるので、よく確認。さきっちょつけてから、あ、逆だったって裏返すとか、もうそれ外側に付いちゃってますから駄目。
もう、遠くへ行きたい遠くへ行きたい消えてしまいたい死にたい、とかそういうことをずっと考えていたのだが(精神科にはきちんと通っている)
ロイス・マクマスタ・ビジョルドとマーティン・スコットを読んだら少しましになった。
現実逃避というのは、否定的に語られることも多いが、確かに精神に必要な作用なのだ。
そして、SFやファンタジーというのは、人の頭の中身を遠くへ連れて行くのに大変適していることよなあと改めて実感した。
いいよね、SF。ほんといい。仕方なく読むファッション誌とかと違って、自分の周囲の空気まで変えちゃうものな。
24にもなって読む本がSFとファンタジーと自然科学の入り口本(眼の起源とかみたいなやつ)ばっかりな自分にちょっとどうよとか思うけれど、それでもやっぱりセンスオブワンダーのことを一番愛してる。
誰かセンスオブワンダーが感じられる本を教えて下さい。読むから。いっぱい読むから。
あああああ、逃げてるなー。
なんか色々同情するな。
SFにハマった季節が来たときはそんな空想本ばっかり読んでいないで現実の本を読めと怒られた。
文学は空想だろw
増田の言う通りだよ。文学は空想だ。だからSFも当然文学だ。別に、たとえば”SF界の抒情詩人”ブラッドベリや、”哲学者”フィリップ・K・ディックだけが文学だと言うんじゃなくて、ハインラインだってアシモフだってJPホーガンだって、あるいはオレが中学時代少しエロい興味で読みふけってたバロウズだって(笑)文学だ。ちなみにオレも小学校のときは推理小説が好きだったし、純文学的なものは高校に入るまでほとんど読んだことが無かったな。高校時代には教師のすすめるままに読み狂った。まあ半分も分からなかったが。
…まあ、気の毒に思うのでもう少しサービスする。
今でも人を疑うのは好きではないが、そんなものは実戦経験で嫌でも身につく
「簡単に信用しない」といったのは「批判的(critial)にとらえて理解する」ということだ。「信用しない(distrust)」だけなら子供でもできるだろ。
「歴史」を学ぶことに文学を学ぶことと同じような効果がありうることは理解するが、それは歴史学本来の目的とは違って、単に歴史を「文学を読むように」読んだ結果ではないのか? また、部活動のような合目的的なある程度等質な人間集団で、真に「異質な他者・異文化との出会い」や「自分を遥かに超える思想体系との出会い」が得られるかどうかは難しいな。音楽系の部活動でなら、たとえば過去の偉大な音楽との出会いなどでいくらかそれに近い体験は可能かもしれないが、誰もが使っている「ことば」を媒介にすれば全体に対して正課の授業時間内でそれができるわけだろう。部活(のそういう効果)に意味があるのなら、より低コストにかつ誰にでも体験可能な形で、国語の授業時間内でそれを行うことにはもっと大きな意義があるんじゃないのか。
それに人を楽しませる文章は文学なのか?
時代小説、ラノベ、歴史書、SF、ファンタジー、推理小説は好きだが文学
少なくとも純文学とは言わないだろう
「純」文学というのは、文学の中のものすごく狭い(それも日本限定の特殊な)ジャンルに過ぎないので、その変な教師に教え込まれた変な定義は正直忘れた方がいい。実は、増田の受けた教育の中でもっとも有害なのがその頑なな思いこみだと思う。俗に、教え込まれた「内容」よりも自然と学び取る「根本姿勢」こそ教育の本質的な価値だというが、増田の場合、まさにその「根本姿勢」の部分でバッチリその変な教師の影響を受けている(だから気の毒に感じるのだが)。
再度言うが、上で書いたとおりSFは当然文学だしラノベだって文学に決まってる(疑うなら、どこの大学の文学部文学科の適当な研究室に電話して、気の済むまで聞いてみても良い、以下の内容も含めて)。大体「純文学」などというジャンル分け自体が、過去の歴史上のある特殊な「考え方」に過ぎないというのが、現在の一般の評価。純文学新人賞という主旨のはずの芥川賞にしてからが、最近は(大衆文学新人賞という主旨の)直木賞と見分けがつかん、というより正直受賞作は逆じゃねえのか、と言われるようになって久しい今日この頃。だから、生徒に「純文学こそ文学!」とかそういう価値観を押しつけてブンガクばかり論じたがる古い文学青年崩れの困った教師に教わった不幸には同情するが、とりあえずそれは忘れて、現代の「文学」観に目を向けるべき。たとえば、今や現代思想をまともに語れないようでは高等学校現代文教師というのはやってられないのだぜ。
その証拠に、昨今の大学入試の「現代文」というのがどういうものを取り扱っているか。小説(それも純文)なんてほとんど出ない。出るのは大抵現代思想関係で、ざっとキーワードを例示してみると「記号・身体・空間・言語論・メディアと情報・文化論・芸術論・経済・教育・日本論・近代主義・心理学・倫理学・宗教・歴史学・国民国家・テロ・文明の衝突・ポスコロ」……etcだ。大抵の国語教科書は、これらのテーマに可能な限り触れるようにしてるし、これ以外のマイナーなテーマ(たとえば少数民族問題・沖縄・差別・風景論・都市論・スポーツ・時間論・労働・高齢化社会…etc)を取り扱ってそれをウリにしようとしてる(さらに言えば、気の利いた会社なら、中学校の教科書から生徒が自然とこれらのテーマに触れるように仕組んでいたりする)。教師はそれを意識して、生徒の理解力と相談しつつ、何をどのくらいどういうシステムで学ばせるか考えてる。このへん詳しく知りたければ「教養としての大学受験国語」(石原千秋)でも読んでくれ。さらに、小説の読解についても、「この小説のテーマはなんでしょう?」なんて寝言を言って漫然と黒板の前でむにゃむにゃと自説を垂れ流してるようでは商売あがったりで、一行一言に込められた含蓄をあの手この手でどのくらい掘り起こせるか、読む作業の中にセンスオブワンダーを感じさせることができるか、たとえばわずか一つの比喩にどのくらいの意味と力が籠もっているかを解き明かせるか……それだけの文学理論の裏付けと力量が必要になる。これ全部「高校国語(現代文)」の仕事なのだな。
それに、「学校国語」で扱える領域なんて、実際に大人が出会う「国語や文学」の領域全体の広さに比べれば、庭の池みたいなもんだ。雑誌の編集後記だってエロ小説だって新聞記事だって漫画だって、「ことば」の介在するコミュニケーションの領域は全てが「文学」フィールドだ。その意味での「文学」教育というのは、メディアリテラシーの教育であり、社会学であり哲学教育であり、知的好奇心の喚起であり、ひいては大学以降のあらゆる高等教育の基礎を為す重要な資質(少なくとも読み書きという点だけを取っても)の育成なわけで、これから「知の大海」に漕ぎ出す生徒にとって国語が必修科目であるのは当然すぎるほど当然なことなのだ。
まあそんなわけで、困った「国語教師」との出会いには重々同情するが、「国語」という教科の意義を疑うなら、これらが全部無意味だということを示してくれるか、あるいはそれを全て外の教科で代替する(たとえば論理的思考力の育成なら英語科の授業内で全て行う、とか、ギリシャ哲学に始まり構造主義と記号論に至るまで全て倫理で教えるとか、メディアリテラシーは情報で、日本文化論は日本史の教師が、芸術論は芸術の教師が教える、とかしてくれると、かなり楽だが、多分嫌がられるだろう。なぜなら、これらを教えるための大前提としてあらためて『膨大な本を読まなくてはならない』から。だから結局、これらは国語の教師がやれということになってるのではないかと推測する。そんなわけでこれらの提案は余り現実的ではない。やれやれ。)現実的な対案を示して頂く必要があろうと思う。
どうだろう。増田の言ってるような狭い意味での「ブンガク」授業に価値がないということを否定しているのではない。むしろそこに関しては積極的に同意だ。こちらが言ってるのは、あくまで「国語」というのがもっと広い領域を扱っているということ、だからこそ「国語」を否定するのは間違いで、実際にそれは必要とされているのだ、ということなんだよ。
なんかトラバがずいぶん
その教師というか
小中高と出会う歴代国語教師はそんな感じ
小学校時代はつらかった
ほとんど全科目、その文学脳に教わることになるから
SFにハマった季節が来たときは
そんな空想本ばっかり読んでいないで現実の本を読めと怒られた。
文学は空想だろw
面白い本が他にもたくさんあると知ったのは少しあとの話。
ちょっともったいなかったなあ。
自分の場合は面白いと思う本は読み続けたので害はないと言えば無いのだが
未だに文学の良さは理解できない
こんな科目要らないだろ
想像だが、中学まではそんなに国語の成績も悪くはなかったんじゃないか?
「人の言うことを簡単に信用するな、欺されんな。」
「他人が何言ってるか分かるようになれ。言葉の裏に何があるか考えろ。」
「でもって、自分が何を言ったか、も、気付けるようになれ。」
「それが出来て始めて、お前は隣にいる『他人』と握手ができるんだぜ。」
一貫して国語の成績は悪かったよ
今でも人を疑うのは好きではないが、そんなものは実戦経験で嫌でも身につく
と言うかその「高校国語」とやらははむしろ歴史や部活の役割であって
自分から他人を楽しませることが出来るかどうかと言われたらそれなりに自信はあるし
それに人を楽しませる文章は文学なのか?
時代小説、ラノベ、歴史書、SF、ファンタジー、推理小説は好きだが文学
少なくとも純文学とは言わないだろう
あんたが「クズ」と切って捨てた作家が、本当の所どんな人生を送ってどういう考えの果てにその作品を書いたか考えたことはあるか?
考えたことあるが、アキバ加藤より遠いところに存在して、優先順位も低い
そもそも表現された文章を面白いとは思えないので作者にまで興味が持てない
国語教師もそうだったが文学好きには小説と現実の区別がついていないと思う
だから、空想のロマンスを実現しようとするから不倫したり、生徒に手を出したりするんだよ
で、うまくいかなくてひねた性格になって
算数が生徒より出来ないからって生徒に八つ当たりするなよ
不倫を弁護するつもりはさらさらねーが「頭の足りない不倫儲氏ね」じゃなくて人間がどうしてそういう馬鹿なことをしてしまうかに興味は?
不倫に至る理由に関しては興味はあるが
それを見苦しく正当化しようとするのは見てらんない
なぜみんな「新本格魔法少女りすか」すすめないの?
あれが維新作品の中では一番爽快で鬱でファンタジーなのに。
宮部みゆきがありましたね!そういえば。とりあえず「我らが隣人の犯罪」かな。オチもあるし。わりと明るいし……http://anond.hatelabo.jp/20080609120128でもおすすめ頂いたし。発掘してこなければ。
(http://anond.hatelabo.jp/20080609101614)
加納朋子が気に入ったみたいなので北村薫もぴったりですね。うっかり忘れていました。ありがとうございます。
(http://anond.hatelabo.jp/20080609120128)
米澤穂信……は私があまり好きではないので持ってないのですよね……「犬はどこだ」はあるんですが、あれは長編ですしね……
http://anond.hatelabo.jp/20080609103052
一番大切な条件を忘れていました……"カタカナ名前は無理。海外翻訳&カタカナ名前はもっと無理"なのです……
http://anond.hatelabo.jp/20080609154208
反応を色々とありがとうございました。
坂木司とかの創元推理系と、古典ミステリで短いものから貸していこうかなーと思案しております(まあぱっとは思いつかないわけですが)。あとファンタジーとSFをこっそり紛れ込ませて慣れてもらおう、とか。梶尾真治あたりで攻めてみるか……
やっぱり薦めた本を読んでくれて、「面白かった!次貸して!」って言ってもらえるのは本当に嬉しいことですね。
最近友人が「読書を始める!」と言い出したので、嬉々として本を貸している。ちなみに彼女の希望は、「文庫で/設定が難しくない/SFとかファンタジーじゃない/短い長編か/短編集/文章が読み易くて/ハッピーエンド」である。なかなか難しい。短編集か短い長編のあたりが特に。
一応一冊目は伊坂幸太郎の「死神の精度」を貸してみた。次は瀬尾まいこの「優しい音楽」と「幸福な食卓」。その次は古処誠二の「UNKNOWN」。この辺りで、「オチがある話が好きなのかもしれない」と言い出したので、加納朋子のアリスシリーズ/乙一/若竹七海の連作短編もの/倉知淳の猫丸先輩シリーズ、と貸してみた。
実はこの後が思いついてなかったりする。恩田陸の「光の帝国」「ネバーランド」「木曜組曲」あたりかなぁ。森岡浩之の「夢の樹が接げたなら」とか読んで欲しいんだけどSFだから無理だろうなあ(ハッピーエンドとも言い難いし)。
彼女は全然小説を読まない人だったので、私が貸している本の種類が偏っていることを知らないと思う。普通、江国香織とか唯川恵とか吉本ばななを薦めるのかもしれない。でも私は彼女に最終的に「銀河英雄伝説」を読ませることを企んでいたりする。このことをちらりと母に言ったらば、アルスラーンから攻めたらよいのではないか、という助言を受けてしまった。ファンタジーじゃないから、といってアルスラーンを読ませるのと、SFじゃないから、といって銀河英雄伝説を読ませるのはどっちがひどいだろう?
というか、そもそも長さ的にNGだし、オチ好きってところがミステリ向きっぽいから銀英もアルスラーンも違うな、と思う次第。「ハサミ男」とか島田荘司とかか。西澤保彦は「開いたとき黒すぎて嫌だ」と拒否を食らったしな……
次は何がいいだろう?こうやって貸す本を考えるのはなかなかわくわくして楽しいことだと再確認している。
女オタク(not腐女子)はキャピキャピしないし群れないし、ストイックで職人肌(交流よりも作品作りに情熱を傾ける)で地味そうな感じの人ばかりだからでは…。
つまりは「ひたすら目立たない」。
「ホモっ気も売れ線狙いも無い完全オリジナルファンタジー漫画をコツコツ描いてる」あたりに属する私が周りのサークルスペースにいる人たちを思い出してみて導き出してみた共通点だけど。
ほぼ全てじゃねーか…
一般人がげんしけんとか読んで「そうか、ホモが嫌いな女子なんていないのか(笑)どんだけー」とか思ってるならそりゃまぁ仕方ないけど
何が一番凹むかって同じオタクであるはずの男オタクからの偏見が相当数あるって事だよ。
特にオタク(サブカル)評論家とかいう肩書の著名な人からのそれが一番堪える。
少なくとも私の周りは「こみっくパーティー」みたいな環境でさ。
旬のジャンルのパロディでいかにして笑いを取るかみたいな事考えながら同人誌描いてる子とか
ホモっ気も売れ線狙いも無い完全オリジナルファンタジー漫画をコツコツ描いてる子とか色々いる訳で
腐女子は女オタクの中で実際5人に1人位だったよ。五分の一だよ。
そりゃ潜在的に嫌いではなかったとしても、ステレオタイプな腐女子の出る漫画みたくあんなに露骨に出さないよ。
中にはBL大嫌いって子もいて、男同士でなくてもカップリングという概念自体受け付けないって子もいるよ。
割合で言えば圧倒的に非腐女子の女オタクの方が多いはずなのに、どうしてガチな腐女子マスターみたいな女オタクしか世間には認識されてないのさ!
と愚痴ってみたかった。
ナムコのゲームのほとんどが同じ世界観を共有してるって事はアイマスから入った人にはあまり知られてないみたいです
UGSF世界観とか、ナムコ共通世界観とか言われてるコレですが、おおざっぱに言うと
【1】いくつかの惑星をまたいでいる(エースコンバットと鉄拳、アイマス等の地球は別の星。バテンカイトスのようなファンタジーRPGもほとんどが別の星だが、それぞれの惑星が魔法等で繋がる事もある)
【2】「地球」では我々の地球と似た文化、歴史を持ってはいるものの細部が違う。宮沢賢治が存在していて、オモチャ屋ではGBAも売っているなど、現実と同じ物が出回っている
【3】「地球」の法律は我々の地球の法律とはかなり違っており、低年齢でも能力さえあれば様々な職種で活躍できる。最低年齢はおそらくトビ・タイヨウ。ホリ・ススムの弟で10歳前後でありながらヘリコプターでドリラーを国内外の現場へ輸送している
【4】宇宙人がいる。そして、宇宙人の一部が地底人として地球の地下で国を建設している。地底は地上に対して何度か迷惑をかけてきたが和解。友好の印として地下500メートルに地底型テーマパーク、ドリルランドが建設されている。
【5】ロボット工学と宇宙開発が非常に進んでいる。ナムコのゲームセンターで目にするクレーンゲームのロボットや昔のナムコのロボット受付嬢などがAIを搭載されて人間の役に立っていたり、UGSFという宇宙軍の隊員に地球人が選ばれていたりする。我々の地球より文明が進んでいるのは宇宙からの技術提供があったからと推測されている。
【6】ナムコのゲームが世界的に大人気である。・・・なんか悲しい設定だけど。
ソウルキャリバーが鉄拳のかなり前の時代って事だから魔法も存在するだろうし、二足歩行のモンスターや獣なども一般的に認知されてたりして、おおらかな世界だなぁと
で、流石にアイマスは関係ないんじゃないの?って思う人もいるだろうけど、ゆきぽがホリ・ススム君のファンらしいし、各種イベントから宇宙開発と科学技術が発達してる事はうかがえるんで、同じ世界観で間違いないでしょ
で、ここで考えたいのがエースコンバットの機体にアイマス機体がある事。アイマスの子達の歌やライブ映像が宇宙的にヒットするってのは容易に考えられるけれど、UGSFがエースコンバットの星とコンタクトを取るのは箱○版のずっと未来の事。
単なるファンサービスじゃないとして、エースコンバットの戦闘機は現実に比べてやたらと性能が良かったり無茶な弾薬搭載数があると言われている事に注目してみましょう。つまり、あれらの戦闘機は宇宙の技術を流用した戦闘機ではないか?という事です。惑星外から商品が入ってくるなら地球のアイドルのグッズも輸出されるだろうて。他にはゼビ系の発掘兵器が元になってるとかそんな妄想もあったりして、ナムコゲーは楽しいなぁと
まぁ、ACにアイマス機体があるのは完全にファンサービスなんだろうけど
アイドルマスターのライブ会場に地底人やカンガルー、熊にロボットに三島平八なんかがいると思うとちょっと楽しく思えてきませんか?ってところでシメ
それは女に対するファンタジーだよ。
女だって「気持ち良かったー」ですっきり別れられるよ。
男だって捨てられて傷ついて涙流しながら唇噛み締めて別れなきゃいけない人もいるよ。
きはらおとせではない。このはらなりせと読む。彼女はボーイズラブ作家である。男同士の恋愛を主軸にした物語を精力的に書いている。
いや、ここで引く前にちょっと聞いてほしい。まずボーイズラブの現状を知ってもらいたい。
諸兄がボーイズラブに抱くイメージはどんなものだろうか。例えば王子様、例えば美少年、例えば美形青年実業家。そんな見目麗しい男たちがキャッキャウフフと乳繰り合っているというイメージだろうか。それはあながち間違いではない。確かにそういった作品群が大半を占めるからだ。ただし、それだけかというと答えは否だ。
ボーイズラブの懐は思ったよりも深い。時代物あり、ファンタジーあり、サスペンスあり、不細工あり、さえない親父あり、バツイチもありだ。人気作家に限られるが、男同士であれば何を書いてもいい土壌がある。木原音瀬は間違いなくその「何を書いてもいい」という特権を与えられた作家だ。
彼女の作風をひとことで言うと「痛い」。キャッキャウフフなどは微塵もしていない。人は愚かで、人を愛することによってさらにここまで愚かになるのかという現実を、圧倒的筆力でこれでもかこれでもかと叩きつけて来る。痴漢冤罪で収監された男、HIV感染者の男、死体を隠した男、女装が趣味の男、肥満体型の男…彼らが紡ぎ出す恋情そして執着は、私たちの心に深く楔を打ち込む。ここまで高品質の愛憎小説を、彼女のような頻度で上梓している作家は一般誌でもそうはいないだろう。
木原音瀬の人気は、まず、彼女の本を出すためだけのレーベルがあることで証明されている。彼女の小説と、そのコミカライズ作品のみ掲載されたムックも現在4号まで出ている。例えは難しいが、乙一・西尾維新クラスだと思ってくれていい。毎月80冊前後出ているボーイズラブ小説界において、間違いなくトップクラスの人気を誇っている。
ただしその人気が、彼女の実力に相応しいものかというと、そうでもない気がしている。評価が高すぎるのではない、低すぎるのだ。ボーイズラブ界は良くも悪くも読者が熱心で財布の紐がゆるい。需要と供給が小さな輪の中で完結してしまっている。いくらボーイズラブ読者が多くなったとはいえ、分母となる絶対数が足りないのだ。これでは高評価にも上限がある。
もちろん私は彼女に、一般向け作品を書けと言いたいわけではない。今のままの作風でなんら不足はない。考えてみれば、日本の文壇で同性愛表現が完全にタブーだったことなど、一度もないのだ。ニアボーイズラブ作品に至ってはそこらじゅうに転がっている。問題なのは、ボーイズラブ読者以外の人々に彼女が知られていないこと。店頭でもまず足を運ばない書棚に並べられていることなのだ。
まずは彼女を知って欲しい。店頭が恥ずかしければAmazonでも7&Yでもいい。何ならBOOK OFFでもいい(後で新刊を購入するのなら)。よしながふみを、オノ・ナツメや佐原ミズを見出した人々に、いま少しの歩み寄りを願うのは贅沢なことだろうか。木原音瀬のような類まれな才能と作家性を併せ持った作家を、私たちは天井のある籠の中で飼い殺している。そのことに対して罪悪感を持つ程に、私は彼女の作品を愛している。どこに出しても恥ずかしい木原音瀬信者なのだ。
横だけど、
苦学生、言われる言われるw
私の周りではかなり一般的だったかなぁ。地方小部落の出で四人兄弟の長男。父は会社員、母は専業主婦。そりゃ、奨学金とか当たり前だろって話なんだけど。あまりにも当たり前で、確かに説明しないかもしれない。彼女には言ってるけども、本当にたまたま話す機会があっただけで、機会がなければわざわざ言うことでもないかなー、という認識だった。一連の発言を見て、「あー、けっこう感覚違うんだな」と再認識。
大学行ってれば借金がある。親だって教育ローンとか借りてくれているわけだし、妹の進学にも支援するのは当たり前じゃないかなーって漠然と思ってた。私があまり自分でお金を使わない人だからかもしれない。別に給与が多いわけではないけど、もっと欲しいというような渇望はないし。所謂オタク趣味ではあるけど、コレクターでもコミュニティに属するわけでもないから、コンテンツの消費速度に合わせて購入していれば月2,3万のお小遣いで充足する。物欲はあるけど、たいてい突発的で、すぐ忘れる。
付き合っている彼女が妙に裕福だからかもしれない。妙にプレゼントとかおごってくれたりするから、何かお返しをしよう、と言ったら、彼女にしてくれてるお返しだからお返しのお返しは違法、なぜならお返しのお返しを許容するとお返しのお返しのお返しが発生して無限ループになってしまうからと却下されてしまった。私はもう、食事の回数で貸し借りを考えちゃう(w)金銭感覚だから、ちょっと落ち着かない。でも、これでお金がかかる彼女とかなら、また話は違ったりするのかもしれない、と思う。
苦学生。みんな、二宮金次郎みたいなイメージなんだよね。実態はカロリー消費を抑えて青空文庫を読んだり図書館で借りてきた哲学書を焼酎飲みながら眺めたりファミコンでひたすらPC原人プレイしたりする。まあ、それは別の話。
そういえば、ちょっと興味があって調べてみた。2006年の大学進学率は約5割くらいなんだよね。そのうち奨学金の利用者は学部4割、院6割らしい。(http://www.jili.or.jp/lifeplan/event_type/lifeevent/education/9.html) 同じ統計で次のページに月平均10万の仕送り、とか書かれているけど、そのあたりはあまり気にしないことにして。
つまり、そこらへんに歩いている普通の大学生の半分は利用しているんだよね。進学するのに予備校とか塾とか私立の進学校に行くことが現実的に必要そうな都市部(都市部の公立学校で進学校はあまり多くないと聞いてます。これはあまり根拠が薄いけど)は相対的に裕福な家庭が多いだろうから、そりゃあ利用者は少ないだろうし、同様の理由で難関私立にも多いかもしれない。でも、旧帝大レベルなら、全国から普通の進学校のトップ連中が集まったりするし、そういうところはあんまり頭の出来不出来と収入が相関しない(ある程度はする)から、半数はわからないけれども、一定割合は確実にいる。まあ、統計的に。
たとえば、親戚や従兄弟で東大・京大に入ってる子らはたいてい家業が農家で、もちろん学校以外にはお金をかけず奨学金を受けて入ってるから、少なくともそれはファンタジーじゃあないんだよね。ある程度のレアなケースではあるけれど。田舎では遊ぶ場所がないから勉強が結局一番エキサイティングなんだ、と言っていた従兄弟もいたけど、それはそれで面白い視点。なぜ東大・京大くらいしか例がないかといえば、田舎の人間が知っている大学はそのくらいしかないからでw 学費が安い = 国立、ってわりと安易な目標設定だったりするんだけどね。
でもまー、わりと普通のことなんだから、ことさらに「すごーい、頑張ってたんだね!」と驚かれるのもなんだか落ち着かないのです。だからといって「お前らが裕福な親持ってるだけなんじゃー!」って熱く語ってもそれはそれでしょうがない。そういった「全国的な普通さの視点」って報道になかなか乗らないからなぁ。そのあたり、普通の感覚ってもっと共有していくべきじゃなかろーかと思うそんな昼休みの増田でした。
http://anond.hatelabo.jp/20080426054913
新卒の営業研修で飛び込みセールスをしてるときに、同期のxxx君(結構イケメン)がどこかのオクサンに引っ張り込まれて・・・とか
元カノ(ヒトヅマ)のお友達(これもヒトヅマ)が、宅配便の人といつの間にか不倫が始まりそれがばれて・・・なんて話はぼくの身の回りでも結構あるけど。
全く「見知らぬ相手を」「ほいほいと」ってのはさすがにないような気がするが、似たようなケースはそんなに稀ではないよ。
元増田の意識の中では「そんなのありえんw」「それなんてエロゲ?」って認識なんだろうけど、世の中にはあなたの想像よりもっとエロい人たちがたくさんいる・・・ってことを言いたかった。
見知らぬ相手をほいほいと家に上げてセックスの相手をしてくれる女がその辺にいるはずだというセックスファンタジーを実際に信じてる男性ってどのくらいいるんだろうってことが知りたい。
普通の人は明確に区別できるものにもかかわらず(*1)ファンタジーの一部と現実の一部を混同してしまうのが妄想であって、明確に区別できているものならば、ファンタジーは妄想ではなく空想。
妄想自体はほとんどの人が持っているもので、うち一部の人は本当に信じてるものなのかー。
保身のための言い訳に過ぎないと思ってた。
そういう都合のいい性的なファンタジーは男性ほぼ全員にあるということなら、男性がそういう性犯罪者に対して感じる感想は「発想自体は理解できるけど、そんな都合のいいこと、現実であると思うなよ」というものなんだろうね。
多分大多数の女性からみれば、そういう発想自体が理解できないことだから、そこで温度差がでてきてるってことはあるんだろうな。
痴漢した人に対して男性が「触りたい気持ちは分かるけど」てコメントする時、女性から見たらそれは完全に合意なく触ろうと考えてるということを示すので「この人も無理強いしたいという願望があるのか!」と思っちゃうけど、当の男性の方は、「触っても怒られない場合があるかもと思ったんだろうけど」と考えてるって感じかな。