はてなキーワード: パールハーバーとは
職場の新人同僚に、韓国人がいる。新人と言っても40前で、私よりはひとまわり弱、年上だ。
先日別の同僚のアメリカ人を含めて3人で、日韓中+北朝鮮の関係性と歴史について話していたときのこと。
私は、「日本には韓国人が意外とたくさん住んでるよ、既に日本国籍を取得した元韓国人も含めて」と言った。
そしたらその韓国人同僚が、「日本の天皇も先祖は韓国人だと(天皇本人が)言ってるしね」と言った。
直後に彼は「これは事実だよ」と加えた。
私は衝撃を受けた。
それが事実かどうなのかは、私は知らない。でもそうゆう話があるということを知ってはいる。
デマだと思ってる人もたくさんいるだろうし、そもそもそんな噂知らない人だってたくさんいるだろう。
それを「事実だよ」という強調とともにアメリカ人の前でさらっと言い放った彼の言動に驚いた。
これを聞いた目の前の日本人がどう思うか、彼には考えが及ばないのか?
日本と韓国は、歴史を共有している、近くて似た国だからこそ、その関係には一筋縄では行かない難しさがある思っている。
私にはかつて韓国人の上司がいた。非常に賢くて、優しく、今でも尊敬できる人だ。
それから学生時代の研究室には韓国人留学生がいた。良い友達だった。
今の職場の別の部署にも韓国人がいる。皆とても謙虚で親切だ。面白い奴もいる。
私は、彼らが日本のことを悪く言ったり、日本人が気を悪くするようなことを言ったりするのを聞いたことは一度も無い。
同様に、日本人の友達が韓国の悪口を言っているのを聞いたことも無い。
寧ろ韓国人アイドルにはまって韓国まで一人コンサートに出掛けた強者の友人がいるくらいだ。
そうゆう境遇だったもので、この新人同僚韓国人の言動に驚いたのだ。
そう言えば、北朝鮮がミサイルを発射したと報道された頃、韓国を心配して「どうなの?」と聞いた。
彼は「いつものことだから気にしてないよ。それより日本の原発による放射能汚染を(韓国では)皆心配している」と。
また別の日、アメリカ人同僚の「日本語と韓国語、勉強するならどっちの方が難しいと思う?」という質問に対して、
「韓国語は非常に複雑で難しい言語だと思うよ。日本語の方がはるかに簡単だよ。」と言っていた。
最初は私が考え過ぎなのかと思っていたが、彼の様々な発言に私はいつもしっくり来なくて、
結局彼はあまり日本が好きではないのだろうと推測するに至った。
彼と出会ったことで、韓国人の「韓国>日本!」という観念を初めて目の当たりにした。
今私にとって問題なのは、彼とうまくやっていくにはどうしたらいいのか、ということだ。
というかそもそも「これを言ったら相手は気分を害するかも」という配慮に欠けることが問題なのだが。
(ついでに彼は、中国にとっては北朝鮮はお互いベストフレンドだと言った。
これを隣の部署の中国人が聞いてたらどう思うのだろう、と内心そわそわした。)
前述の通り私の周りには尊敬すべき韓国人もたくさんいるので韓国人そのものに失望することは無いが、
彼のような韓国人が他にもいることはおそらく間違いない訳で、少し怖くなった。
天皇が韓国人、そんなこと、信じる分には構わないが、それを日本人に言ったところでどうなる?
言ったところでどうなる?で思い出したついでに、もう一つ書きたいことがある。
数年前(十数年前?)のそれで、存命のエノラゲイ元パイロットにインタビューするというドキュメンタリーをやっていた。
もう大往生寸前かという老いた元パイロットに日本人リポーター(被爆二世だかの人だった気がする)が聞く。
「原爆を投下したことに、罪を感じないか?被爆者に、謝罪をしたいとは思わないのか?」
その当時、元パイロットはきっとお国のために使命を全うしたのであろう。…神風特攻隊のように。
私は原爆の苦しみを知らない。
軽はずみなことや誤解を招くようなことは書きたくないし、元パイロットを擁護するつもりなんて全くない。
しかし彼が謝罪をしたら、被爆者(かそのリポーター)は楽になるのか?報われるのか?(注:反語ではなく、問いである)
小学生のとき、社会の授業で「戦争(や原爆)の痛みを忘れてはならない」と習った気がする。
それは、加害国(原爆に関してはアメリカ)に対して「私たちは被害者だから!」ということを忘れさせないためではなく、
我々日本人が他の国に対して同じようなことをしないために、
他の国がまた別の国に対して似たような過ちを繰り返さないために、「痛みを忘れてはならない」のではないだろうか。
別の部署にいるアメリカ人に、「日本人には優しくしなきゃダメだ!」と冗談まじりに言ったことがある。
アメリカ人の彼は「なに!?お前らパールハーバーを忘れたか!!」と言って来たので、
「なんだと、ならヒロシマ・ナガサキはどうだ!」と言ってやった。
二人して、あほらし、と笑い合った。
戦争や植民地支配、虐殺、慰安婦問題は、その後も賠償問題という形でいつまでもたっても過去が過去にならないのが現実だ。
(賠償に限らず、原爆だって被爆三世という言葉があるぐらいだ)
けれどもアメリカ人と日本人が、不謹慎かもしれないが、シュールなジョークで笑い合ったのは事実である。
日本と韓国、日本と中国も、いつかそんな間柄になれたらいいのにと、心から思う。
一例
http://d.hatena.ne.jp/karaimonokirai/20100225/1267111952
客観的に見て、筆者に「あらかじめ偏見や悪意があったわけではない」とは思う。だが、筆者はこれらの光景を「自分の目で見て、素直に判断して、とある一国の文化(あるいは「国民性」とか言い換えても可)が『嫌いになった』」と発言している。
あるいは、多くの人が「何が問題なの?これはこれで正当じゃん」と思うかもしれない。だが、そう言う人は、たとえば捕鯨問題についてどのような感想を持つのだろうか?
たとえばとあるアメリカ人が、自分の「印象」に基づいてこんな記事を書いたとする。
自分は日本は好きでも嫌いでも無いし、別に環境保護について強い関心があるわけでもない。だが日本を旅行中、食堂などで捕鯨問題を取り上げたニュースがあると、それを見る人は大抵「シーシェパードは頭がおかしい」とか「所詮金のために環境保護を利用しているだけだ」とかいったコメントばかり言い、「鯨を殺すのはおかしい」という意見については自分の経験した範囲では一度も耳にしなかったことに驚いた。街中でも鯨肉など提供しているところは見ないしほとんどの人は日常的に鯨を食べないのに、鯨を殺すことに対してどうしてこれほど寛容なのか。残念ながら、自分は日本人というのは非常に残酷な民族なのだという感慨をもって日本を後にすることになった。
これは公正(fair)な議論だろうか。
私は、残念ながらこれは差別だと思う。彼は、鯨を「食物」と見ない文化から訪れており、かつまた自分たちの文化が過去にどれほど鯨を殺したかも知らない。彼の問題点は、物事に対する歴史的視点や、自分の背負う文化に対する批判的観点というものが欠如していて、自分の「素朴な感想で世界を見ることに全く無批判」である点だ。
「彼」は一応架空の存在である(よかった)。しかし、彼が今後日本に関する問題について、常にこの「見方」を「事実」として自分の判断根拠に採用することはほぼ疑いない(残念なことに)。彼は、パールハーバーも、太平洋戦争時のアメリカにおける日系人差別も収容所のことも、あるいは貿易摩擦から生まれたジャパンバッシングも知らないかもしれない。だが、何も教えなくても彼は、とある民族をひとくくりにして、unfairな意見に基づいた判断を下すようになった。これは立派に「偏見」であり「差別」ではないか。差別や偏見は、このように日々誕生するのであって、過去の差別について「教えなければ消える」というものではない。
捕鯨に関してだけではなく、とあるものごとについて、それをめぐる政治的状況、文化的文脈(コンテクスト)といったもの、状況性や歴史性や文化性を全く無視して(更に言えば自分自身の背負っている状況性や歴史性や文化性について全く批判的でなく)発言するとき、常にこのような危険は発生する。「率直で素直な感想」と称されるものは、非常に危険なのだ。
「自分がそう思ったことは事実であり何がわるいのか」といったヒラキナオリ、つまり「率直で素直な感想」と本人が認識しているだけに、こういった感想に基づく「意見」が修正されることは少ない。実際、「率直な感想は絶対であり、それを修正することなど出来ない」と多くの人は思っている。だがそれは大きな間違いだ。歴史性や文化的コンテクストを学ぶことで、ものの見え方や風景など簡単に一変するからだ。ある人の背景(たとえば「強がりをせざるを得ない状況や過去」)を知ることで、「ツン」な行動が可愛く(「デレ」に)見えてくる、という現象はとみに知られているが、それも同じである。「学習」は「印象」を大きく変化させる。
そもそも我々は、様々な状況性や文化を背負うからこそ、物事を認識できるのであって、「率直で素直な感想」といったものなど、本当は存在しない。どんなに直感的感情的判断であっても、何かを判断するとき私たちは必ず何らかの「知識」を土台にして判断している。学ばなければ、私たちはほとんど何も感じず、表明することもない。生まれたばかりの赤ん坊は、自分を取り上げる産科医や両親の「美醜」を「判断」したりはしない(子どもがそういうことで悩むのは、おおむね思春期の頃である)。
我々は、互いに離れた土地に住み、そして相手のことをよく知らない。知らないことは恐れを生み、行き違いや偏見を生む。そして差別が始まる。かつては川一つ、山一つ隔てるだけでも、そうであった(「○○村の奴らとはクチをきいちゃなんねえ」的な)。教えるから差別が持続するのではない、教えないから差別は発生するのである。ただし、それは「かつてはこんな差別がありました。差別はいけませんね。以上」といったことを教えるということではない。
従って、たとえば人権について学ぶプログラムは、以下のように進められなくてはならない。
低学年……「作法」として、「陰口を言わない」で「みんな仲良くする」ことを学ぶ
中学年……「作法」として、「素直で柔軟な発想を大切にする」「賞める」ことを学ぶ
高学年……「作法」として、「文化を大切にすること」「おせっかいと勇気は違うこと」を学ぶ
中学校 ……「知識」として、「色々な価値観、文化が存在すること」を学ぶ。
現状、人権教育にこういう見通しがないことはとても残念である。小学生に(イイトコだけ見せるような)異文化体験を推進したりしている人は、将来その子が「欺された!小学校の教師なんて嘘つきだった!」という感想をもつ可能性について全く想像していないのだろうか。私は、上のような準備が子どもにできないうちから安易に異文化体験を進めることは、百害あって一利無しだと考えている。
最初の文章の筆者に対して、どのようなメッセージがあるわけではないが、もし可能ならば、今回の件を踏まえた上で、単純に隣国を「嫌う」のではなく、「なぜ『今の日本』に住む私は、『今の韓国』の文化にこのような感想を抱くのか?」ということについて、調べたり考えたりしてくれるといいな、とは思う。これを読んだ後、たとえば図書館で戦前の日本の大衆雑誌とか読んでみるだけでも、私が言わんとすることは理解して貰えるだろう。
写真って、瞬間を写し出すにも関わらず時間を記録するんだよね。
言い換えるなら、点を照射して線を保存するような感じ。
時間を閉じ込める技術が生み出されてから、今日までに様々な記録が保存され続けてきた。
広島の原爆や、パールハーバーでの攻撃、ベルリンの壁が崩壊して、月には人が降り立った。
どの場面も、瞬間を記録しているのにそこに時間が封刻されている。だから、カメラって不思議だなって思う。
ここから話がちょっと飛躍する。
もし写真というものが刹那を被写体に時流を刻むものだとするならば、それはありとあらゆる写真にも応用されるわけで、
例えば家族写真、例えば修学旅行での集合写真に写ってしまうと、そこに私がいる(いた)ことが記録されてしまうわけなんだよね。
なんなんだろうな、それがちょっと嫌なのだ。
前々から写真やビデオに写るのは嫌いだったけれど、形あるものとして残りたくないのかもしれないなあって思ったりする。
気味が悪いような気がするんだ。
どうして人はカメラを向けるんだろう。どうして人は映像に残そうとするんだろう。
その人がいたこと、その出来事が在ったことは、己の記憶の中に仕舞っておくだけで十分じゃないのかな。
残すということと、存在を照明すること。
所詮は私こそが認識世界の中心なのに、他者に存在をアピールしてどうするんだろう。
私は誰かの記憶には残りたいけれど、だからと言って記録にはなりたくない。
ここまで書いたけれど、もしかしたら、記憶に残りたいからこそ記録を残すのかもしれないなあって思い至った次第。
終了。
今しがたGと闘ってきた。
やつは俺の敵ではなかった。
この家が建ってから20年来、Gと我が家との戦争は終結を見る。
そして今この疑問に終止符が打たれる。
”Gはどこから出現し、そしてどこへ消えていくのか”
この哲学的な問に遂に決着が着いた。
リフォームをしていていろいろ物を片付けてみた。
なんやらいらんものいるものたくさんでてきた。
亡くなった祖父母の使用していたものはこれでほとんど整理されただろう。
例えば、台所を片付けていたら、そば包丁がでてきた。
祖母はうどんが打てることを誇りにしていた。
嫁入りでこの地域に来た時、ご近所に打ち方を教えていたそうだ。
もう祖母は語りはしないが、この包丁は祖母の話の揺るがない物証になった。
もう使わないので捨ててしまうが、デジカメの写真に収めておいた。
いろいろでてくるものである。
本題にもどると、自分は昔から疑問に思っていたことがある。
Gはどこから出現し、そしてどこへ消えていくのか。
物心ついてからの深遠なる問であった。
まるでパールハーバーを思わせる予告なしのその奇襲。
長年苦しめられてきた我が家ではあるが、今日、終止符が打たれた。
それは”換気口”である。
我が家の治安維持局危険生物対策部G殲滅課(私はここの課長をしている)では
長年Gの行動についての統計資料を作成していた。
それによればGは出現のほとんどは台所からであった。
資料の隅にこのようなメモ書きがされていた。
この意味深なメモは長年殲滅課の中で語り継がれたテーマであった。
が、課のだれもが整合的な答えを用意することはできなかったのである。
しかし、ここにきてその答えが見つかった。
冷蔵庫を動かしてみると比較的低い位置に換気口がついていたのだ。
おそらく、排熱処理のためであろう。
なるほど、ここはまさしくGの上陸作戦の要であったに違いない。
Gはここを拠点として我が家台所を制圧していたのだ。
敵ながら天晴れである。
発見から3時間後、その排気口にはガムテープで執拗に封がなされた。
これは我が家の勝利宣言であり、終戦勧告である。
20年に及ぶ熾烈なそして両陣営に被害の大きい戦争であった。
女なんてみんなマンコカパックだぜ!!!!!(パールハーバー級の暴言