「コミットメント」を含む日記 RSS

はてなキーワード: コミットメントとは

2010-02-17

リフレ村の司祭様かく戦えり

せっかく2時間もかけて前のエントリーを書いたのに、丸一日経っても誰も読んでくれないよ…と涙に暮れていたのですが、なんとお褒めの言葉付きで長文のリプライが!「もうこれは2chに自作自演宣伝書き込みをするしかない」、と悲壮な決意を固めかけていたのですが、ああ、神様、どうやら私は人の道を踏み外さずにすみそうです。

馬鹿なことを書くのはこれくらいにして本題に入りましょう。

http://anond.hatelabo.jp/20100217164344

「中銀が高めのレートでインフレターゲットを実行する」能力も意志もないのです。処方箋はあるのに肝心の中銀がそれを採用しようという意思がないのです。

こんな中銀ですから、平時においてインフレ率を高めに誘導しておく必要が、すなわち名目金利引き下げの余地を残しておく必要があるのです。

名目金利引き下げの余地を残しておいて流動性の罠に陥らないようにしておかないといけないのです。

まず、ブランチャード(フランス語読みではブランシャール)らがここで書いた文章の表題をもう一度確認してみましょう。”What we thought we knew”とあります。直訳すれば「我々が理解していると考えていたこと」でしょうか。

ここで過去形になっていることは非常に大きな意味を持ちます。これは「今はもうそうは考えていない」ことを意味しているからです。日本語的な発想では「過去にそう考えていたとして、今どう考えているかは分からないのでは?」と思いがちですが、今も引き続きそう考えているなら英語では現在完了形を使わなければなりません。

英語はこの辺りの時制のコントロールに対して非常に厳密です。ですから、1970年のJohn Smithの論文がこう主張している、という表現をするときには、J. Smith (1970) arguesと書くのが普通です。論文自体が書かれたのは40年前ですが、Smithの主張が今も有効であるならば、現在形になるのです。逆に Smith (1970) arguedと書いた場合、この著者はSmithの意見を既に時代遅れなものと見なしていることになります。

つまり、私の翻訳した部分はブランチャード自身が「既に時代遅れである」と判断したことについて書いてあるのです。翻訳では若干時制が不明確になってしまっていますが、『中央銀行が将来の高い名目マネーサプライ成長率とひいては将来の高いインフレーションコミット訳注約束)できるなら、中銀は期待インフレ率の上昇によって将来の予想実質金利を低下させ、それによって現在の景気を刺激することが出来る』という下りは、原文では

The formal argument was that, to the extent that central banks could commit to higher nominal money growth and thus higher inflation in the future, they could increase future inflation expectations and thus decrease future anticipated real rates and stimulate activity today.

となっています。過去形に注目してください。ブランチャードはこの議論を最早信じてはいないことがここからも分かります。過去形解釈について納得がいかない方はマークピーターセンの「日本人英語」辺りを読んでみると良いでしょう。

つまり、ブランチャードが批判的に取り上げているのは、「処方箋があるにもかかわらずそれを採用しようとしない中銀の存在」ではありません。処方箋に問題があるにもかかわらず、それを中銀の意思と能力の問題に矮小化してしまった経済学者の態度こそが批判されているのです。だからこそ、前回翻訳した最後の部分で『公平を期しておくと、Fed日本経験を無視したわけではなく、2000年の初めにデフレリスクを憂慮した論文を発表している』と添え書きされているわけです。経済学者にも良心的な態度を取った人がいたことは、公平のために言及しておく、と。もしも「リフレ処方箋」にコミットする能力と意思を中銀が欠いていることをブランチャードらが問題視しているなら、to be fairなどと書くはずもないことは文脈から明らかでしょう。

ですから、

将来のマネーサプライ増と将来のインフレとにコミットする能力も意思も欠いた中銀だからこそ、4%のインフレ率が必要となるのです。

将来のマネーサプライ増と将来のインフレとにコミットする能力も意思も欠いた中銀だからこそ、流動性の罠など恐るるに足るのです。

流動性の罠に陥らないようにするために、4%(具体的な数値は検討の余地があるでしょう)のインフレ目標が必要になるのです。

この解釈ブランチャードらの論文から引き出すことは出来ないと思います。この論文で議論されているのは徹頭徹尾経済学の問題であって、「能力と意思を欠いた」中央銀行に対して批判的な表現は、(上でも書いたとおり)少なくとも私の読んだ限りでは全く見当たりませんでした。中央銀行能力も意思もないから、それを前提に現実的な経済理論を再構築しよう、とも書いていません。今まで半ば普遍的に信じられていた、「2%前後で安定したインフレ率が望ましい」という経済学者コンセンサスそれ自体に疑義を唱えているのです。

加えて、中銀が無能ないしは怠惰であるという理由以外で能力/意思を欠いているのであれば、それは中銀の問題(だけ)ではなく処方箋の側に(も)問題があると考えるのはごく普通の理解であろうと思います。例えば、中銀にそもそもコミットメント能力が備わっていないならば、それを前提とした処方箋は無効であることは当然ですよね。

「いかにして流動性の罠に陥らないようにすればよいのか」を問題にしているブランチャードが、「いかにして流動性の罠から抜け出せばいいのか」という問題への処方箋であるリフレ政策を支持するはずも否定するはずもないのです。

前回翻訳した部分をもう一度参照してください。なぜブランチャードらは2%のインフレ率を望ましくないと判断したのでしょうか。ブランチャードらは過去にも「2%のインフレでは低すぎる、利下げ余地が小さすぎる」という懸念があったことを紹介しています。そして、その懸念は「ゼロ金利になっても、中銀が将来のインフレコミットすれば大丈夫だ。」という、Eggertsson and Woodford (2003)らの議論によって葬り去られました。そして、日本金融政策の失敗を受けても、一度葬り去られた懸念が見直されることはありませんでした。

そして、世界中ゼロ金利の罠にハマった後、ブランチャードらはようやく「2%のインフレでは低すぎる、利下げ余地が小さすぎる」という懸念を復活させます。それは、「いやいや利下げ余地が小さくても問題ない、打つ手は他にある」、というリフレ派の議論がもはや有効とは言えないと考えられたからこそなのです。繰り返し書きますが、「流動性の罠から抜け出す簡単な方法は存在しない」からこそ、利下げ余地が論点として再浮上し、高いインフレに伴う経済への負担を覚悟してでも流動性の罠に陥らないようにしようという結論に至る、という論理構成なのです。この論文はかなり読みやすい英語で書かれていますので、暇があれば通読なさると良いでしょう。

また、以上の説明から、最終段落で言及されている「ブランチャードらは流動性の罠から脱出するためのリフレ政策を支持していると読めないこともない」点は、誤読であると申し上げるより他ないことはご理解頂けるのではないかと思います。この辺りも、原文に当たられた方が文章の雰囲気と構成("stood more uneasily in the way"や"to be fair"など)をよりはっきりと掴めるでしょうから、原文を当たられることを繰り返しお勧めします。

最後に、ブランチャードが書いた部分を、少し分かり易く脚色してみます。

とあるところにあるリフレ村で司祭様が村人に説教をしています。

司祭 「全能なる我らが神はこの村の人々を温かく見守ってくださっておる。なんの心配もいらないよ、君たちは選ばれた民なのだから。100年前の大飢饉大恐慌)では人々は神への祈りを捧げなかった。だから多くの民が死に絶えたのだ。だが今は違う。私が正しい神への祈り方を教え授けている。神は我らの祈りを請け給うたのだ。」

 「司祭様。それでは何故私の父は病に苦しんでいるのでしょうか。既に10年以上、病床を離れることが出来ません。」

司祭 「…それは、あなたの父親の信心が足りないからだ。神を理解する能力に欠けるからだ。彼が心から神を信じているならば、彼の病が長引くことなどあり得なかった。家に帰って彼に伝えなさい。悔い改めよ、と。さすれば彼はたちどころに快復するであろう。」

これは新興宗教の必勝パターンでありまして、この父親が毎日祈りを捧げても(量的緩和)、喜捨の額を増やしても(国債買いオペ増額)、病から快復しないならば「信心が足りない!まだ不十分だ!」と言い続ければよいのです。楽な商売でございます。

ただし、この戦法は多くの村人が病にかかってしまうと通用しなくなります。挙句の果てに村の外からは賢者様がやってきて、「いや、そのお祈りじゃ患者は救えないでしょ。治療法は確立されてないし、一度病気なっちゃうと後が大変だから、とりあえず患者が増えないように予防策を考えようか」とおっしゃっておられます。

さぁ司祭様の立場は一気に悪くなってまいりました。石もて追われる5秒前!しかしこのまま大人しく村を去る司祭様ではありません。一発逆転の隠し玉は当然用意してあるはず。疫病快癒の大祈祷でもって見事リフレの神のご威光を天下に知らしめ、村人達笑顔を取り戻して下さるに違いありません。

というわけで、外野増田矢野先生(及びリフレ村の司祭様方)の逆転の一撃を心よりお待ちしております。

2010-02-16

ブランチャードはリフレを支持していない件について

リフレ村の方では「ブランチャードがインフレ率を4%前後に誘導することに言及した」ことで色々と盛り上がっているようでありますな。

http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20100214#p2

要するに、マクロ経済学大御所ブランチャードが「今まではインフレ率は2%前後に誘導するのが望ましいとされていたが、2%程度だとゼロ金利に陥りやすいので、もう少し高めの4%前後インフレ率を誘導した方がいいのかもしれない」という論文を発表したと。で、日頃から高めのインフレターゲットによる景気回復を主張なさっている皆様が盛り上がったという構図のようであります。

で、それに対して(直接言及があったわけではないものの)、我らが池田先生が果敢に反論。

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51377205.html

あちこちで話題になっているIMF論文をざっと読んでみた。日経の記事には「平時から4%など高めの物価上昇率を容認し金利水準も引き上げることで、金融危機のような経済ショック時の利下げの余地を広げることが望ましい」と書いてあるが、この記者は明らかに原論文を読んでいない(か英語が読めない)。論文にはこう書いてある:

Should policymakers therefore aim for a higher target inflation rate in normal times, in order to increase the room for monetary policy to react to such shocks? To be concrete, are the net costs of inflation much higher at, say, 4 percent than at 2 percent, the current target range?

[...]

Perhaps more important is the risk that higher inflation rates may induce changes in the structure of the economy (such as the widespread use of wage indexation) that magnify inflation shocks and reduce the effectiveness of policy action.But the question remains whether these costs are outweighed by the potential benefits in terms of avoiding the zero interest rate bound.

と書いており、むしろ高いインフレ目標には否定的だ。


うわぁ。読めてない。全然読めてないよ池田先生。ここでブランチャードが書いているのは、

ということであって、「高いインフレ目標には否定的」なんてこの段落から読み取れるわけがありません。これでは突っ込まれてもしょうがない。池田先生にはエントリーをアップする前に深呼吸を3回することをお勧めしたいと思います。


さて、一方でリフレ村で給食当番をなさっているらしい矢野先生は、高らかに以下のエントリーをアップされました。

http://d.hatena.ne.jp/koiti_yano/20100215/p1

主要国のインフレ目標「平時から4%に」 IMF提言

(以下略)

「まあ、当然の話だよね」とリフレ派なら誰もが思う訳ですが、(以下略)

リフレ政策論争を巡って、誰が正しくて誰が間違っていたのか?」が明らかになる日が近づいていると思います。


…いや、先生ブランチャードの論文リフレを全然サポートしてません。ちょっと考えれば分かる話です。なぜブランチャードは2%ではなく4%のインフレを検討課題としてあげているのでしょうか?ご自身も翻訳されているとおり、「ゼロ金利制約(それ以上利下げできない状態)にハマるリスク回避するため」です。リフレ派の人たちが主張するとおり、「ゼロ金利制約に陥っても、中銀が高めのレートでインフレターゲットを実行すればデフレから脱却できる!」のであれば、なにも4%のインフレを許容してまでゼロ金利回避する必要などありません。処方箋はあるのですから、それを粛々と実行して安定成長へと復帰すればよろしい。

ブランチャードらがここまで繰り返しゼロ金利制約の問題を強調するのは、その処方箋が当てにならないと判断したからです。この点を明確にするために、以下でブランチャード論文の一節を翻訳します。この論文

  1. What we thought we knew (以前はコンセンサスとして認められていたが、今回の危機で否定されたか、疑問符が付いたアイデアを列挙している)
  2. What we have learned from the crisis (文字通り、今回の危機の教訓)
  3. Implications for the design of policy (今後の経済政策へのインプリケーション)

という3部構成になっており、問題の4%インフレは第3部の一項目です。以下で翻訳するのは第1部のB節、つまり「今や否定されつつある過去コンセンサス」について語った一節です。

http://www.imf.org/external/pubs/ft/spn/2010/spn1003.pdf

B. Low Inflation

インフレーションはただ安定しているだけでなく、非常に低く抑えられているべきだ(多くの中央銀行は2%前後ターゲットに選んでいる)」という広いコンセンサス(increasing consensus)があった。これはインフレによって流動性の罠へ陥ってしまうのではないかという議論へと繋がった。低い平均インフレは低い平均名目金利を招き、そして名目金利ゼロ以下には下げられないので、低インフレの下では不景気の際に利下げ(金融緩和)の余地が小さいと言うことになる。しかしながら、この低インフレ危険性は低いと見なされた。なぜなら、中央銀行が将来の高い名目マネーサプライ成長率とひいては将来の高いインフレーションコミット訳注約束)できるなら、中銀は期待インフレ率の上昇によって将来の予想実質金利を低下させ、それによって現在の景気を刺激することが出来るからだ脚注)。そして、それほど景気へのショックが大きくない世界では、2%のインフレがあればゼロ金利制約を回避するのには十分だと思われたのである。こうして、議論の焦点は、コミットメント重要性と中央銀行インフレ期待への影響力へと絞られたのである。

大恐慌時に発生した流動性の罠、それに伴うひどいデフレと低い名目金利は、もはや歴史上の出来事であると認識され、そのような政策の失敗は今や回避可能であると考えられた。1990年代日本経験、すなわちデフレゼロ金利および長く続く不景気は、この認識の前に不愉快に立ちふさがる問題だった。しかし、これは日銀が将来のマネーサプライ増と将来のインフレとにコミットする能力ないしは意思に欠けるからであると片付けられてしまった(公平を期しておくと、Fed日本経験を無視したわけではなく、2000年の初めにデフレリスクを憂慮した論文を発表している)。

脚注ではEggertsson and Woodford (2003)が参照されている)

ブランチャードらがなぜゼロ金利流動性の罠)に陥るリスクを重視するのか、このB節から明らかであると言えると思います。 特に太字で強調した部分を参照してください。どこかで見たことがある主張ではありませんか。少し分かり易く言い換えれば、リフレ政策が役に立ちそうにないから、「低インフレによって流動性の罠へ陥ってしまうのではないか」という懸念が復活しており、だからこそリフレ政策が必要になるような状況に陥らないように政策を運営すべきだと彼らは主張しているのです。4%のインフレ率というのはそのための政策案です(ただし、ブランチャードらもイマイチ自信がないのか、6つ挙げられた政策オプションのうち、この4%インフレの案だけは表題にクエスションマークが付いています)。

紅茶を片手に「まぁ、当然の話だよね」などと余裕をかましている場合ではありません。さぁ、今こそ高らかに「リフレ政策があれば流動性の罠など恐るるに足らない、だから4%のインフレ率なんか必要ない!」と宣言を!

外野増田池田先生矢野先生の熱い戦いを心から応援しております。

2009-12-13

日本人海兵隊尊敬していない

ことを嘆かわしいと思っている少数派の意見

普天間のことは書かない。どれほど日米同盟を痛めつけてくれたか、書き始めたら平常心を失いそうだ。ここ20年くらいの歩みがご破算にされ、時計の針が戻されてしまった。

普天間の海兵隊に出て行かせていいのか

米比両軍、毎年恒例の軍事演習を実施 - フィリピン

 問題は乱暴者、狼藉者の如くに言われ、とっとと出て行けと言われる普天間の海兵隊マリーン)である。あれは邪魔者なのか。

 居なくていいのか。少し減るのはやむを得ないのだとしても、居てくれないと困る。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/2332

 もう1つの考え方は、彼らマリーンを日米をつなぐ血の紐帯とみることだ。若い米国人blood poolが沖縄にあり、日本の各所にある。これくらい、米国日本防衛に示した堅いコミットメントの証拠はない――沖縄マスコミも、少しはこういう観点からモノが見られないものかと思う。(同上)

海兵隊日本を守るために戦って血を流したのですか? 知りませんでした。詳細を教えて下さい。

 米国シーファー駐日大使は「日本マスコミ沖縄マリーンを『檻に入れておくべき野獣』みたいに扱う」ことに、「表立ってこそ言わないが、常々極めて不当だと思ってきた」と打ち明けたことがある。(同上)

扱いはともかく、日本人の多くが(暗黙のうちに)そう思っているのは事実でしょう。もちろんそれは海兵隊にとって失礼なことですから、この機会に日本国移転という解決策を考えてもいいのではないでしょうか。

http://anond.hatelabo.jp/20091113080916

いつまでもいつまでも負け犬ペニスを舐めつづけるのか? 」の関連記事

2009-11-27

ふたりぼっち(くらい)の宗教戦争

そんなことやこんなことで今話題のウィキペディア。投稿者が減るのはウィキペディアのためにもそんなに悪いことじゃないんじゃないか、とも思ったんだがどうやらそんなに減っているわけでもないのかな。投稿者の減少が何故いいことかっていうと、良くも悪くもノイズが減るんじゃないかと期待するからだ。内容の信頼性とか記事の質は相変わらずだろうけれど、同じ話題に関わる人間の数が減ればおかしな記事はおかしな記事なりに純度を上げて「おかしさ」のS/N比が上がるとすれば、それはいいことだと思うわけ。ザーザー言ってて何を言っているのかよく分からない放送よりはアホな芸人が喋りまくっている番組の方がまだマシなところがあるようにね。テレビを見たがる子供砂嵐を見せるか民放馬鹿騒ぎを見せるかというのは究極の選択っぽい気がするけど、幽霊の見えそうな砂嵐よりは民放を見せて「また馬鹿テレビを見てるのかい」って言った方がまともな子供に育ちそうなものだ。で、それは放送大学を見る幼児に向かって「難しい番組だねえ」と言っているのとあまり変わらない。どっちがいいかは最終的には価値観の問題かな。

だから「おかしさ」って書いたけど、何か特別な要素の純度が上がった状態とでも思ってほしい。で、たぶん、絶対的な投稿者数が減った後に相対的な比率で増えてくるのは、職業的な専門に対するストイックさとか、オタク的な過剰さとかを備えた「熱心な」人達だ。ハタから(つまり「世間樣」から見れば)見ると良くも悪くも常軌を逸して、つまりに真摯に追求している、あるいは配慮を欠いている、つまり常識を変革すべく頑張っている、そういう人達だ。まあ自分の学界の片隅に籍を置かせてもらってるけど、そういう人達のもつ情熱とか執拗さとか真剣さとかは、まさしく人生を賭けた壮絶なものだと感じる。

ちょっと話は逸れるけど、ウィキペディアはなぜ専門家に優しくないのか、という疑問を持っている人は結構いる。専門分野で執筆に参加したけれど、結局「専門家じゃない人たち」に気圧されて撤退してきた本当の専門家を、個人的にも何人か知っている。こうした不幸がどうして起こるかっていうと、おそらく上に書いたような「熱心な人達」と専門家が正面から鉢合わせしてしまった場合、専門家人達は「おっと、インターネットなんかでシロウト相手に喧嘩している場合じゃないや。今月中に論文仕上げないといけないしな」てな具合に本来の戦線に戻っちゃうからなんだな。研究者はそっちの方で人生を賭けているんだから当たり前のことだ。まあ仕方がないね。

で、宗教の話をしよう。結論からいうと、ウィキペディアにおける生命力という意味では宗教的な情熱を持って行動している人々も市井の「熱心な人達」と張り合ってるんじゃないかと思った、ってことだ。人には物事の「宗教性」に比較的敏感な人たちと、そうでもない人たちがいる。ご存知のようにな日本は圧倒的に「無宗教」な社会だけれども、注意深く暮していれば宗教的な空気というのは比較的よく遭遇するものになっているように思う。まあ創価学会とか明らかなものは置いておくとしても、クリスチャンの多い朝鮮半島からの留学生などが増えているといった事情もあるんじゃないかと思う。例えば東京都心カフェ小一時間耳をすませていると、その地元クリスチャンコミュニティが会合の場所にしていることが分かったりする。いきなり聖書を読み始めれば分かりやすいけど(そういうことも結構ある)、そうでなくともメンバーが出会ったときの挨拶言葉だとか、そのグループの顔付きだとかをしばらく見ていると「ああ、なるほど、そういうグループだったのか」って思うわけだ。これはたぶん信者さん自身がもつ「仲間意識」と同じようなものだろう。別に隠しているわけじゃないだろうけど、フリーメーソンの変な握手みたいな、ある種の言語化されない巧まざる符丁が作りあげられている。

それで、定期的にウィキペディアを眺めていると、上に書いたようなのと同じ体験をするんだ。つまり明らかに宗教的な関心で活動している投稿者というのを見付けることができる。僕の個人的な関心のせいもあるかも知れないけれど、クリスチャン、もっといえば福音派の方が以前から熱心な投稿を続けているのに気付くのはそう難しいことじゃない。だってほとんど毎日新しい記事を書いてるからね。その編集履歴を眺めていると、気がつくことは三つ。一つ目は、自分モチベーション、あるいはバックグラウンドを表明した上で編集活動を行っていること。二つ目は用語法に非常に敏感なこと。三つ目は(たぶん自覚しているはずだけど)自分の視点というものを相対化できている人もそうでない人も、よくも悪くも書きたいことしか書かないということ。二つ目と三つ目の点が悪しき融合を遂げてしまうと百科事典のはずなのに「キリスト教事典」みたいなちょっと文脈が他とズレた項目ができてしまう。内容的には正しいだろうから、まあ必ずしも悪いことではない。というか、文句をいう筋合いは全然ないからどうでもいいけど。

書いておきたいのは、そういった方々が福音派なのは偶然じゃないということ。福音派って何かしら、という人もいるかと思うが、ざっくり言えばプロテスタントの中で一番熱心に「聖書が絶対だわよ」って考えている人たちのことを日本語では福音派と呼んでるみたいだ。で、中学校くらいの知識を総動員して説明すると、プロテスタントってのはもともとのカトリックの人たちが「教会ってステキ。おフダをどんどん買えば天国に連れていってくれるんだから」とかちょっとアレな感じになっていると思って、「そんなアホな。聖書を読む方がよっぽど御利益があるに決まってる。金もかからんし」という感じで喧嘩別れした人たちの末裔のことだね。そんなわけだから貧しいながらもマジメにコツコツ働く人たちに圧倒的な人気を博したみたい。で、福音派ってのはその中でも「聖書が大事だね」っていうところで突っ走っている人のことだと思ってればいい。たぶん。「これ全部本当のことが書いてあるんだぜ」「だよね」「最後の審判くるよね」「ヤバいよね」「でも千年王国チョー楽しみ」みたいな。信じられないかも知れないけど、これ全部本当の話、ってやつ。念のため書いとくと福音派って中にも聖書の話と現実歴史の対応には諸説ある。というか複雑すぎよく分からん

福音派アメリカで多くて、ブッシュ共和党の支持母体になってることは有名だね。政治に熱心で極端になると共産主義悪魔の手先、イラク先制攻撃万歳、進化論教えるなら学校やめるし、中絶するなら病院焼いちゃうよ? (実際、焼いてるし、医者を殺してる)みたいな人が多いみたい。中絶反対、てのはカトリックの方が厳しいのかと思いきや、実は福音派の人たちもけっこう過激な人たちが多い。ヨーロッパの国がほとんど中絶を合法化しているのに比べて、アメリカで未だに喧喧諤諤の議論をしているのはそれが原因のひとつかな。福音派政治とか社会問題に積極的に関わりたがるのは全然不思議なことじゃない。つまり福音派であることと積極的なコミットメントには密接な関係がある。というのは、福音派の人たちは自分たちの考えを広めることをかなり大事に考えているからだ。つまり布教福音派だと伝道っていうのかな)がかなり大事。まあ宗教は何でもそうだけど福音派は特にそこが目立っていて、ちょっとゴリゴリした感じになっているんだね。みんな、生まれ変わって新しい自分ボーンアゲインしようぜ ! トゥギャザーだぜ ! みたいな。まあ、回心するのが大事だから回心させてあげよう、ていう感じかなのかな。とりあえず頑張れ、としか言えないけど、個人的には家を焼かれちゃたまらんし、できちゃったら産むしかない、ってのは穴があったら入れるしかない、てのと同じくらい野蛮だぜ、って思う。理性ってのは原理的に自然を抑圧するものなわけで。

最近アメリカ福音派政治的な人たち(キリスト教右派と呼んでる)は民主党オバマ政権取ったし、アフガンベトナムっぽくなりつつあるし、ゲイ結婚もちょこちょこ合法化されてるし、ちょっとヤバいんじゃない? とか考えてるみたいだけど、とりあえずどうでもいいや。うん。ウィキペディアの話だった。政治的・宗教荒し日本の数ケタ上の密度で起こっている英語版なんておぞましくて覗く気もしないけれど、書きたかったのは、日本語ウィキペディアでも熱心な福音派の人たちが(たぶん二人くらいで)頑張ってます、ってこと。ウィキペディア編集者の中で二人くらい、っていうのが意外と日本における福音派の「熱心な人」の比率としていい線をいってるのではないかと思ったが、調べてないので分からない。まあヘドが出るほど嫌いな人もいるだろうけど、オタクだと思えば貴重な存在かも知れない。で、オタク絶滅しないように、そういう彼ら(彼女ら)もきっとしぶとく生き残っていくだろうな、と思ったんだ。ある日突然「ウィキペディア悪魔の手先だから見ちゃダメ」ってことになるかも知れないけどね(英語圏には実際そういう趣旨でできた何とかペディアもあるし)。

http://anond.hatelabo.jp/20091127031601

周辺諸国を圧倒できる軍事力を純国産で賄うことは、

仮に可能だったとしても理想安全保障とは程遠い。

 

戦車がなかろうが戦闘機が旧式だろうが、外交運用次第でなんとでもなるが、

日米安保か日中貿易破綻したら国産兵器がどんだけあっても日本おしまいだ。

外交まで含めた総合的な安全保障と、長期的視野での軍事産業の維持を考えれば、

日本軍事産業政策で問題なのは、国産できない技術があることなんぞより、

他国の兵器開発計画にほとんどコミットメントしてないこと。

F-35とかどうして噛まなかったんだろう。

2009-10-22

コミットメントホールドアップねえ

出社が楽しい経済学」を視聴してふと考えたこと。

取引先の大口注文に応じるべく専用工場を建てるというコミットメントををしたら、それを盾に値下げのホールドアップをかけられたとする、その場合は工場を叩き売って取引を解消するという交渉を突きつける方法がある、なるほど。

親子関係で親にホールドアップをかけられたら…自殺を賭ける?で、スルーされたら本当に自殺する、と。いやなんか違うな…。

2009-10-18

もう自分がgiftedじゃないとか考えるのはやめよう

俺の才能は最高ではないが十分だ。

俺の能力を最大限発揮すれば意味のあるコミットメントをすることはできるはずだ。

その方法を考えることに時間を使うべきだ。

2009-07-09

http://anond.hatelabo.jp/20090708230612

ボランティアかどうかってのは自発的にやってるかどうかって点だけが問題で、

コミットメントの度合いは余暇に少しってのからそれこそ人生賭けたり命賭けたりする人まで色々だろ。

2009-06-13

二次元規制推進派の理屈

http://www.waseda-giari.jp/sysimg/imgs/20080125_report.pdf

24~27頁以降

アジアにおける子どもの権利の現状と課題人権ガバナンス模索

日本子供ポルノの現状と課題

早水 研(日本ユニセフ協会専務理事)

早水

皆さんこんばんは。ご紹介いただきました日本ユニセフ協会の早水でございます。今日は早稲

大学グローバル COEプログラムにですね、こういった形で「日本発の子どもポルノの現

状と課題」ということでプレゼンテーションさせていただく機会をいただきまして大変有難い

と思っています。と言いますのは、この問題は、国際的には大きな問題として注目されている

んですけれども、日本国内では子ども買春の問題は新聞テレビでしょっちゅう取り上げられ

ますけれども、ポルノの問題についてはまだまだ十分知られてないのではないかなと思いまし

て、今日こういう機会でみなさまにお話できること非常に有難く思っています。それではプレ

ゼンテーションさせていただきます

私共、日本ユニセフ協会とはですね、ユニセフ世界 191現場にあるわけですけれども。そ

れとは別にですね、先進 36 カ国に、今国内委員会という形で独立したそれぞれ NGO として活

動している組織があります。その役割はですね、皆様ご承知かと思いますけれども、ユニセフ

を支援するための募金活動、広報活動、それともう 1つ大きな柱が、こういった子どもの権利

を守るために必要なアドボカシー活動を行うというのがございます。日本ユニセフ協会は 1996

年、先程のお話しにもありましたけれども、スウェーデンストックホルムで行われました第

1 回「子ども商業性的搾取に反対する世界会議」以降ですね、この子ども商業性的

取、CSECと略称しますけれども、それに対する取り組みを中心に据えて、これまで取り組んで

きております。

日本発の子供ポルノということでございます。「子供ポルノ」という言葉を使わせて頂いて

いるのは、必ずしも「児童ポルノ」に限定したものではないという意味を含ませていただいて

いるからです。「児童ポルノ」というのは、法律の名称にもあります通り、実際の子どもを被

写体とする、被害者が実在するポルノのことでございます。「子供ポルノ」というのは、必ず

しも実在の子ども存在が必須の条件として考えるだけじゃなくて、いわゆる漫画コミック

の類、それからアニメーションそれから最近ではゲームソフト、こういったような形を使っ

てですね、実在しない子どもを描いたものが非常に多く出回っているということです。場合に

よっては、これが実在する子ども被写体としたポルノ以上に社会に悪い影響を及ぼしている

という事態がある。そして、日本世界に名だたる、冠たる、アニメの大変素晴らしい作品

世界に送り出している国であるにも関わらず、そういったような技術が悪用されて、こういっ

たものに使われているということについて非常に大きな危惧を抱いているということです。そ

ういったことから、私どもの取り組みに含めているという主旨で、この「子供ポルノ」という

言葉を使わせて頂きます。

子供ポルノ」は、実在の子ども対象になっている場合、製作現場でまさに虐待に遭っ

ているのです。そして、それがインターネット等を通じて消費される時、またそこで虐待が行

われている。そしてその後も、特にインターネット社会においてはですね、一度バーチャル

世界画像が出てしまいますと、ある意味永遠にそこに残るわけですね。そういった形で、

繰り返し、繰り返し虐待を受けると。もう既に自殺者が出るくらい、被害に遭った子どもがい

るわけでございます。

これまで私どもの取り組みを含めてですね、日本においては「児童ポルノ」にフォーカス

ますけれども、流れとしては、ここに書かれているような経緯の中で、除々にですけれども関

心を集めているということだと思います。最初のきっかけがスウェーデンストックホルム

行われました第 1回世界会議です。この中で日本はですね、世界最大の「児童ポルノ」の発信

国の 1つという非難を受けたわけでございます。それを受けてですね、先程もちょっと出まし

たけれども、フォローアップ会議というものを働きかけて、日本で何回か行われました。それ

には今日ご参加の横田先生にもお越しいただいたこともあります。勉強会とか、国会議員の方

超党派勉強会を開いて頂いたりということで、除々に立法への働きかけが強まってきたわ

けであります。そのおかげで 1999年に、「児童買春児童ポルノに関わる行為等の処罰及び児童

保護等に関する法律」という、いわゆる「児童買春児童ポルノ禁止法」というものが制定さ

れました。これは超党派国会議員による議員立法という形で作られたものでございます。と

ころがこれができた直後から、当時既にサイバーポルノが急激に大きな問題となったのです。

私どもも官民をあげてですね、最初の法律ができて以降、直後からサイバーポルノの問題への

取り組みを開始させていただいております。

そして、そういった世界的な動きの中で、2000年子ども買春子供ポルノ子供トラフ

ィッキングも入っておりますけれども、それに関する子どもの権利条約の選択議定書が採択さ

れています。日本は 2005 年に批准しています。これはですね、日本トラフィッキング関係

の法整備が不十分であったがために若干遅れましたけれども、2005年に批准を致しました。そ

ういった法律の整備ですとか取り組みが評価されてですね、スウェーデン政府から日本政府

要請を受けて第 2回の横浜会議主催するまでにその評価を高めたということでございます。

2004 年、1999 年に制定されました児童買春児童ポルノ等禁止法、この中で特に罪刑の強

それからサイバーポルノ関係についての規定の充実というようなことを含めて、改正が行わ

れました。具体的には特定少数に対する児童ポルノの提供ですとか、提供目的が明らかでなく

ても、いわゆる児童ポルノ製造すれば、それは処罰されますよと。それから電磁的記録いわ

ゆるコンピューター上の記録ですね。それを提供すること。それから提供目的で保管すること

を処罰するということで強化されています。児童ポルノの罰則については 3年 300万というも

のが、5年 500万という形で強化されています。

ただ、ここで不十分というのはですね、2 つ大きくありまして。1 つは単純所持。提供目的

ではない所持については何ら禁止規定がないということ。すなわち児童ポルノ製造した人か

らそれを買う、もしくはダウンロードするということ自体、児童ポルノ製造を助けるわけで

すけれども、買ったほうに対しては全く罰則がないということで、ある意味商業性的搾取

を促進するものについて片手落ちのような形に今なっているということ。

それからもう 1つが、先程皆さんに申し上げました、非常に大きな影響を及ぼしている漫画

ですとかコミックそれからゲームソフト等に関する規制は全くないという状況でございます。

ただ、児童買春児童ポルノ禁止法が施行されて以来、ここに挙げてあります通り、非常に多

くの事件が摘発されて、検挙され、そして裁判にかけられているということでございます。全

ての検挙件数で見ますと、2005 年に 2000 件を超えてからですね、2006 年に史上最高の 2229

件という検挙件数をカウントしております。被害の児童数というのは、子ども買春を含めます

けれども、2000人弱、1500人から 1700人というレベルで推移していると。これだけ警察は非

常に力を入れて摘発しているということです。これに占める児童ポルノ検挙件数はですね、

これご覧いただくとよく分かりますように、2005 年、2006 年、新しい法律の改正があってか

ら非常に大きく増えています。470 件、616 件という形で児童ポルノの摘発件数が増えていま

す。その中で特にインターネットを利用したものが 1番下の段にございますけれども、2006年

では 251件を占めるということでございます。

実は、この次のスライドはみなさまのお手元に配布されたものの中には入っておりません。

非公式に提供していただいたものですから、公表は勘弁してくれと言われておりますので、画

面だけご覧いただきたいと思います。先ほど申しましたように、警察検察含めまして非常に

児童ポルノの摘発に力を入れてくださっているのですが、結果的に判決がどうなっているかと

いうことまで中々フォローしづらいのですけれども。これご覧いただくと 1 番下の段が 2005

年の実績でございます。地方裁判所レベルでございますけれども。実は右側に執行猶予プラ

罰金刑のパーセントっていうのが書いてあります。97%が実刑を伴わない判決になっているん

ですね。無罪になるってことはあんまりないのです。ただ、判決で有罪と判決されても、執行

猶予もしくは罰金で終わってしまう。その日のうちに日常生活に復帰できるという扱いがほと

んどです。これでは社会に対して間違ったメッセージを送ることになりはしないかということ

が、私ども若干懸念しているところでございます。これは司法の問題でございますので、中々

私どもも働きかけるのが難しい世界でありますけれども、注意深くフォローすることによっ

て、こういった実態も分かってきましたので、これからさらにこういった方面まで働きかけを

強める必要があると思っております。

児童ポルノ」の氾濫というものはですね、単純に製造者がいて被害者がいるという単純な

構造では中々理解しづらいんですけれども。出会い系サイトを使って会ってみて、顔写真を撮

って、これをばら撒くぞと。ばら撒かれたくなかったら、自分携帯自分の裸の写真を撮っ

て送れと言われて、そうせざるを得ない。送ったら、またそれを公表されてしまったというよ

うな形で、特に子どもさんの場合、最初の入り口で無防備な形で第三者と会ってしまうことか

ら泥沼にはまってしまうというようなケースが多々発生しています。

それから最近では、ここでは触れられませんけれども、私ども街でみつけたものを警察に持

ち込んで調べてもらったことがありますけれども、「児童ポルノ」と書いてあるにも関わらず、

実際には、本当に私も見ました。気持ち悪くなったぐらいのポルノ DVDですけれども、実際に

はそこに写っているのはみんな 18、9歳以上の、子どもではない、大人だということが警察

調べでは明らかになったということでございました。その例をこれからちょっとご紹介しま

す。これらも差し障りがありますので配布資料には入れておりません。

これがですね、秋葉原大通りに面した、みなさんよくご存知の家電量販店が運営している

ソフトの売り場ですね。誰でも買える状態で置かれているものでございます。右下は 5歳と書

いてあります。それからその上にありますのは児童ポルノというものを標榜しておるわけです

ね。こうしたものが平日、白昼堂々と売られていて、かつ買えるということでございます。こ

こに出ている左上は各国の、国籍様々の女子がポーズをとっているというような DVDでござい

ます。こうしたものは、先程申し上げました通り、法律で摘発できるかと言われればできない

ようなのですけれども。ただ、社会への害悪、特に子どもへの今後の影響等考えますと、やは

りこういったものはぜひ何らかの形で排除していく必要があるかなという風に思っています。

次はアニメDVDですね。こちらのほうが、ある意味よりリアルなものも多くあります。表

現の自由といった観点からの反論の声もあろうかと思いますけれども、諸外国においてはです

ね、こういったものを持っていただけで、アメリカカナダのケースでは摘発されて、実際に

場合によっては 20 年の実刑判決とものも出ています。日本発のアニメもしくはコミックを持

っていたということで、一発有罪、実刑判決というのが実際に出ています。日本は全く野放し

で、そういったものが諸外国においても出回ってしまっているというのが現状でございます。

これは漫画でございますけれども、こちらは表通りから 1本入ったところにある、雑居ビル

の 2階まで上がっていかないと入れない本屋書店なんですけれども、それでもここにいらっ

しゃる方誰でも入れます。そういったところで売られています。

現状はこういうことなのですけれども、これからの取り組みとしてどういうことがあるかと

いうことです。児童買春児童ポルノ禁止法だけにとどまらず、各地で一定の努力がなされて

いることもみなさんご承知いただきたいと思います。1つは、2004年新聞販売員の女児の誘

殺人事件というのが起きた奈良県。こちらではですね、13歳未満の子どもに付きまとう行為

ですとか子どもポルノなどの所持ということも禁止する条例が制定されました。実際にこれを

適用されて摘発された、いわゆる単純所持というケースもございます。奈良県条例は、最初の

きっかけとなった子ども誘拐殺人事件の捜査プロセスで、加害者高校生の時に初めてロ

リコンのポルノアニメを見たと、それが忘れられないと供述したということもあってですね、

2005年7月には条例ができたということでございます。

茨城県警では、インターネット上の子どもポルノの販売サイトを自ら調べて、そこをクリッ

クしようとすると、ここにあるような警告文が出るというようなことをやっています。これは

お読みいただければ分かると思います。実際に削除はされていません。サイトそのものは。た

だ見に行くこと自体が犯罪を助長するのだとはっきりとうたって、利用しないようにと働きか

けています。これは極めて大事な取り組みだと私どもも評価しております。

それから、IT業界のほうで大きな取り組みがあります。去年の暮れから携帯電話フィルタ

リングサービスというものが、いわゆるデフォルトで設定されるということになりました。特

に、未成年の新規契約者に対してですけれども。これは先ほども申しました出会い系サイト

子どもアクセスというものを制約する、制限するというような意味で非常に重要ワンス

テップじゃないかと思います。

更に、民主党インターネット上の違法有害サイト削除プロバイダーなどに義務付ける

法案。プロバイダーの責任でそういったものは載せないようにすることを義務づけるというこ

とを検討していらっしゃるという風に報道されております。

そして、これからの取り組みでございますけれども、やはり法律の上で不足していると思わ

れる部分をはっきりと規制して頂く。すなわち単純所持の件。それから下の方に書いてありま

す、今の児童ポルノ定義ではなくて、もっと幅の広いアニメそれからコミックそういったも

のを含む子どもポルノ全体に網をかける必要があるということでございます。このあたりの表

現とかについては、まだ検討中でございます。昨日も、ここに何人か参加して頂いていますが、

関係の方々と一緒の勉強会をさせて頂いて、更に内容を詰めているところでございます。これ

は特にですね、先程申し上げましたアメリカカナダのケースがありますけれども、各国ほと

んど規制されているにも関わらす、日本だけが抜けているというようなことで、諸外国からも、

こういった方面について何とかならないのかということを言われているという分野でござい

ます。それから、先程申し上げました携帯電話フィルタリングだけでなくて、インターネッ

ト全般に関する業界をあげての取り組み、これをぜひ求めたいと思っています。

先程、甲斐田さんのほうからコードプロジェクトというお話がありました。これは旅行業界

で今、行われているものでございますけれども、私どもの方から日本旅行業界等に働きかけを

行っています。法律が整備されればそれだけでいいという訳ではなくて、官民をあげた取り組

みというものがこういった問題の解決には絶対に必要だということで、旅行業界自身が自分

子ども買春子どもポルノに反対しますという立場を鮮明に出していただくということで

す。実際に、みなさまルック JTBとかですね、JALパックのパンフレットございますけれども、

裏表紙に小さいですけれども、そういったメッセージが刷り込まれています。多分、全てのパ

ンフレットに刷り込まれています。これは、そういった態度をまず表明していただき、それか

ら内部的な取り組みを行い、且つそれを報告して頂くという、1 つの行動規範というセットで

お願いしているものでございます。日本日本発の旅行を扱う 90%が、それに賛同して頂いて

やっているということでございます。それと、最後が司法も含めてですね。こういった問題へ

の取り組みをもっと強化していただきたいというふうに考えています。

以上、早口で分かりづらかったかもしれませんけれども、日本発の子どもポルノの現状と課

題ということで報告させて頂きました。どうもご清聴ありがとうございました。

勝間

早水さん、ありがとうございました。最初にソマリーさんと甲斐田さんから子ども買春のこと

を中心にカンボジアの現状についてご報告いただいたのですが、早水さんのお話を伺ってです

ね、子ども買春の問題だけではなくて、子どもポルノという問題があると。また日本製造

地になっているという問題提起がございました。この性的搾取に関わるサービス性的搾取

関わるモノの問題なのですけれども、これらは両方お互いに関係しあっているというお話かと

思います。カンボジアの話から始まったのですけれども、実は私達の足許を見てみると、日本

の中にもずいぶんたくさんの問題があるということが教えていただけたかと思います。カンボ

ジアにおける人権意識とかですね、法の執行という話があったのですけれども、日本におい

てもまだまだ課題があるということかと思います。

それでは 3人目の報告者として外務省人権人道課長木村さんにですね「子ども商業的性

搾取に反対する世界会議横浜からブラジルへ」と題してお話いただきます日本政府

横浜会議に非常に強く取り組んで、次の開催国を探すところも一生懸命されたということ

で、非常に強いコミットメントを持って活動されておりますので、そのことを伺いたいと思い

ます。よろしくお願いします。

子供ポルノ」というのは、必ずしも実在の子ども存在が必須の条件として考えるだけじゃなくて、いわゆる漫画コミックの類、それからアニメーションそれから最近ではゲームソフト、こういったような形を使ってですね、実在しない子どもを描いたものが非常に多く出回っているということです。場合によっては、これが実在する子ども被写体としたポルノ以上に社会に悪い影響を及ぼしているという事態がある。そして、日本世界に名だたる、冠たる、アニメの大変素晴らしい作品世界に送り出している国であるにも関わらず、そういったような技術が悪用されて、こういったものに使われているということについて非常に大きな危惧を抱いているということです。

結局の所、この太字部分を何とかせにゃならんのだろう。

しかし、なまじアジア諸国のリアルな児童売春買春の実態を知っているが故に日本二次元媒体の流布と結びつけずにはいられないという状況なんだろうな。

2009-05-13

http://anond.hatelabo.jp/20090513212344

演奏して人気者になる」だけがコミットメントの方法じゃないんじゃないの?ってことだ。

その「好きな音楽」を演奏してかつそれに貢献する方法を考えることに頭を使うべきだとは思わないか?

http://anond.hatelabo.jp/20090513210644

そういうある意味での「消費活動」だけやってたい、っていうタイプにはどうにも同意できないわ。

俺、オタじゃないけど、オタがヌルオタに感じる憤りと同じじゃないかと思う。

やっぱ人は生まれてきたからにはコミットメントしないとダメだよ。これはもう信念だな。

http://anond.hatelabo.jp/20090513204558

そのくらいの覚悟が無いと間違いなく人並み以下の人生で終わるからな

(一応念のため言うけど、覚悟があれば人並み以上になれる、という意味ではない)

いや、趣味に重きを置くことを否定してるわけじゃないぞ。

ただ、その趣味で何かのコミットメントをすることを初めからあきらめてる姿勢が理解できんということだ。

そんなに大事な趣味なのに、なんでそんなかかわり方でいられるのかわからない。

2009-01-14

私はどうしても、海外で暮らしたいのだ。

祝日月曜日成人の日。知人Aと話していたのは、私が海外で暮らしたい理由について。

私は日本にもっとコミットしたいのだ、という説明に彼は理解できない表情を見せる。

たとえば、村上春樹は一度デタッチメントコミュニケーションのあり方とか、もっと物理的に日本からも)に凄くふれたからこそ、今コミットメントに戻ってきているのだと思う。それは、(世の中の)時節とか(人間の一生における)時期とか、色んな要因があるとは思うけれど、一度おもいっきデタッチメントに触れたからこそ、だと私は思う。その触れ幅があったからこそだと。

私は、もっと日本とか、もっと言えば近しい人々、あるいは家族、にコミットしていかなければいけないと思っている。私は日本が決して嫌いではないけれど、決して好きでもない(プラスマイナス0)。あるいは、家族とは無関係基調とした関係を築いている(マイナス)。もっと、コミットしなければと頭では考えているのだ。しかし、感覚は動かない。

海外で暮らしたい」というとある種の人々にはよく言われる、

日本のすべてを知っているの?日本にはいいところがたくさんあるのに、それを知らぬ間に海外?」

の発言に対する答えとしては、「いちど離れてみないとわからないことがある、私はもっと日本のよさを発掘したいし日本を、日本にいる人を、もっと言えば近しい人々を、家族を、好きになりたいのです、だから海外に行きたいのです」だ。

そう、離れて俯瞰してみないと、別のものと比較してみないと、わかりえないことはきっと多いと思うのだ。井の中の蛙日本のよさを語る人にはなりたくない。ただの勘違いでないといいきれるのか?俯瞰図を、比較結果を、知識として知りたいのではなくて、もっと感覚的な身体的な言語として会得したいのだ。

あけて火曜日今日。知人Bと飲みに行った。そこで、再び海外で暮らしたいのはなし。

上記の説明をすると、「ぬるいなー若いなー」というような、青臭い学生でも見るような目つき。

でも、こんな話をしていると、それは凄く納得できると同意を得る。

海外に身を投じること。それは、携帯もない、メールもない、ネットは限られた場所で限られた時間のみ、活字も限られていて、言語的な問題から道行くときのインプットも少ない。日本に暮らしているときとの圧倒的な情報インプット量の差。ようするに、やることのない、無、の状態が多くなるということだ。その状態にあえて身を置くことで、考えるようになる。孤独を感じ、つまらないなーと感じ、自分を深く掘り下げていく。日本にいたときの自分を取り巻く状況を、外側から見れるようになる。必然的にそうせざるを得なくなる。その状況にあえて追い込むことで(そのときはつらかったとしても)得るもの―経験として得るもの、その状況をどう自分は対処するのか、というその過程そのもの―に意味があるのではないかということ。どんどん深まっていき、最終的にはコミットなって必要なくて一人でいいジャンとなってしまうかもしれない、そういう考えの深化。私は、それを求めて旅行ではない、長期的な海外生活をしたいのだ。

コミットではなくなるかもしれない、孤独を求めている。

それも確かに、私の本心なのだ。しかし、求めているのは結果としての孤独ではなく、そこにいたる過程。

日本にいても、感度のいい人なら、実行力のあるひとなら、あるいは意志の強い人ならできるのかもしれない。けれど私は、あえて異なる環境自分のみを投じることで、変化を掴み取るというやり方をしてきたし、これからもそういう風に生きていくだろうと思っているし、生きていくという意思もある。

あえて、自分を異質な環境へ放り込むのだ、強制力を持って自分を変えるのだ。

そういう野蛮なやり方が、私にはあっているのだと思う。

だから、私は海外に行きたい、旅行ではなく暮らしたいと思うのだ。

異なる文化に身を投じ、異なる考え方を知りたいと思うのだ。

自分孤独であることを実感し、自分孤独をきちんと見つめたいのだ。

日本からの、近しい人からの、家族からの、あるいはデタッチメントになるのかもしれない。

けれどやはり、そこを経ないといけないと思うのだ。そこを経ないと変えられない自分の中の何かわだかまりがあるのだ。小さく硬い見えないけれど違和感のあるかたまり。

それを、気にしなくても済むほどの、あるいはつまはじきにできるほどの。圧倒的な経験(異質なものへの対峙)。

そこを経ることで、生きる事が楽になるような気がするのだ。

だから、私は海外で暮らしたい。

2009-01-12

創価学会の罰論はよくできている

創価学会をやめると「不幸になる」とか 「地獄に落ちる」とか、言われます。では、実際に何が起こったのか、書いてみます。ちなみに自分は、ばりばりに学会活動をして、担当部員さんを持っていた時期もありつつ、ある日学会をやめることにして、約3年経ったところ。

罰論がなぜ存在するのかというと、活動の指針となっている御書にそう書いてあるそうで、周りにその理由を深く考えている人はいませんでした。現在は、組織の都合上、脱会ストッパーという役割を果たしてしまっているかもしれませんが、言い出しっぺの人は、そういう深い理由も無く、これと決めて、一生懸命信じている人生の全ての真理から、外れるなんて外道だろ、当然。という意識でそういう言及をしただけです。

で、実際に生活の大きな部分を占めていた活動その他を、全てやめてみました。

何が起こったかというと。。

1,精神的に不安定になった

そこまでのめりこまずにやってたはずなんですが、刷り込みの効果って、意外なほどにすごかったです。唱題をあげないことで生命力が落ちるんじゃないかとか、今考えたら、何言ってるんだお前はという感じなのですが、当時はほんとに落ち着かなかった。頭で否定していても、あぁこれ罰論なんだ。みたいな。体の調子が悪くなったりとかする度にやっぱり活動したほうがいいのかなと、何度も頭をよぎりました。もう一つ、より不安定になる要素として、自分が必要とされ、人間関係の多くを依存していたコミュニティから去るということが、自分をより精神的に孤立させました。これもなかなかきつかった。。創価大学を出ていたこともあり、自分の身の周りにこの状態をきちんと相談できる人がいないことに、活動をやめてから気がつきました。このダブルパンチで、最初の半年はなかなか大変でした。

2,両親、兄弟と疎遠になった

自分は3世で、両親ともに学会員、地区よりもう少し広い単位の、圏の幹部をしていて、つまりかなり積極的な活動家です。姉と弟も、大学創価大学で、いわゆる一家和楽というやつでした。自分がやめると決めてから、実家で何度か言い合いになることがあったのですが、それからは余り連絡を取らなくなりました。取っても事あるごとに本部幹部会に出たかどうか確認されるので、少し疲れました。。兄弟も同様なので、普段は離れて暮らしているので、どうってことないんですが、家族とも相容れないものができてしまうというのは、最初は戸惑いました。

3,しつこく家庭訪問されるようになった

学会員でまともに活動しているのは、全体の3割程度ですが、7割の非活動家の中でも、たぶん有望視されて、しつこいくらいに毎週末、家庭訪問を受けました。本当に面倒。。仕事で疲れて眠っている土曜の午前中を狙って家に来るのはやめてほしい。今は適当にあしらえるようになりましたが、まだ不安定期だった頃は、いちいち精神的にかなり揺さぶられました。あの人たちはそういうのを狙っているのだろうか、とにかく悪びれる様子が一切無いので、少し常識に欠けています。昔は自分も訪問する側だったから、どんな心理だったかというのは、よく分かるんだけどさ、、朝に来たり、家の前で待ってたりするのは、やめてくれ。いい大人なんだから、ぷちストーカーだよ。

という感じで、学会で活動しているほど、また家庭環境や、属している人間関係依存が強いほど、揺り戻しの負荷が相当強くなるということが分かりました。今まで活動に積極的で、依存していた人がパタッとやめたときに潰れてしまったり、活動に戻るパターンは本当にあり得る話だと思う。とても孤独になるからね。

自分が、これに対して取った行動は、、

1,新しく、自分が必要とされていて、コミットメントできる場所をつくる

職場以外にも、自分の居場所、帰れるところ、仲間をつくった。小さなボランティア団体だが、目的に向かっていい雰囲気で活動できていて、人として魅力のある人が多い。専門にしている能力も活かせるので、必要としてもらえるし、居心地が相当良かった。

2,仕事に夢中になる

平日はとことん仕事にのめりこんだ。必要とされる成果は早出しして、チームに具体的に貢献できる余裕を多く持つようにすることで、職場人間関係がとても良くなった。

3,時間が解決する問題に固執しない

揺り戻しが強い時期は、1の団体にも仕事でも、成果が出しづらかった。ただそういう時期は、行動しないことが行動だと信じていた。要は開き直って、時間が経てばこの不安感は抜けるからということで、そういう状態のまま放っておいた。そして、実際に3年近く経ってみて、本当に抜けたので、特に悩まなくて良かったと思う。

3年経った今は、最初の頃の不安定さは無くなり(ほとんど活動してた時のことを思い出さなくなった)、職場も、プライベートでも、人間関係は良好。家族との仲も前よりは良くなって、程よい距離感という感じ。ここはもう少し努力が必要か。。

学会活動していた分の負担が取れたので、勉強や調査できる時間が増えて、仕事でも成果が出しやすくなったし、居心地の良い人たちと過ごせる時間が増えて、より満足のいく生活に近づけることができてきた感じ。なかなか大変だったけど、自分の場合はやめて良かったパターンのようです。

活動をやめた後に、これからどういう人生を選択して、どういう利益を得るために、何のリスクを取るのか、きちんと自力で考える力があれば(また考える余力が残っていれば)先ほどの苦しい状態は抜けられる。

苦しい状態から脱するまでの期間としては、約2年。これは積極的に活動をしていた期間と重なります。だからたぶん、5年やってた人は、普通に戻るのは5年近くかかるし、20年くらいやった人は、20年不安定になるくらいなら、学会の中で認められて頑張る、という選択をするのも、ありかもしれない。

2008-12-22

[][]信頼させる方法はあるか。

http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/4_0a85.html

クルーグマンが提案したのが、中央銀行が民間に「今は何も出来ないけど、放っといてもいつか景気が回復して金利ゼロで無くなる日が来る。だから、そのときに必要の無い利下げをやってインフレを起こすよ。」と約束すべきだ、というものだ。もしこの約束を民間が信じるなら、将来のインフレを予想した民間は期待インフレ率を引き上げる。そして、期待インフレ率の上昇は今の「実際の」インフレ率の上昇に繋がり、見事デフレから脱出できるはず、というわけだ。

約束するのは簡単でもそれを信じてもらうことは百倍難しい。

いざその「将来」が来たところで、日銀には積極的に約束を果たす動機は全く無い。むしろ、とりあえず今約束だけしておいて、民間が信じたところで(期待インフレ率上昇→デフレ脱出)約束を反故にするのが一番いいということになる。

そして、民間は当然のことながらこんな日銀約束を信じない。信じられない約束が期待インフレ率に影響を与えることも無い。結局、この日銀空手形は完全に不発に終わることになる。ちなみに、クルーグマン自身も当然そのことは認識しており、論文では民間が日銀を信じない可能性(=日銀コミットメントできない)についても何度か言及されている。ただ、筆者の知る限りこの部分の記述は都合よく、かつ丁重に無視されることが多かったように思うが。

「だったら日銀約束を守らざるを得ないような仕組みを作ればいいじゃん」と思った方もおられるだろう。

(中略)

誰でも約束を守りたくなるくらい罰則を厳しくすればいい、と思う人もいるかもしれない。まぁ、ターゲットを守れなければ打ち首、だったら皆必死で約束を守ろうとするだろう。ただし、処罰が厳しくなると今度は総裁を引き受ける人間がいなくなる。それなりに有能な人間を雇うことが出来、その人間約束を守らせることが出来るような絶妙な処罰メカニズム存在する可能性はかなり低い。だからこそ、インフレターゲットの処罰メカニズム大家であるカール・ウォルシュ(カリフォルニア教授)自身が、処罰メカニズムは”useful fiction”に過ぎないと書いているのだ。

一番現実味があるのが「日銀総裁インフレOKな人間にすげ替えてしまう」こと。例えば、今日銀は「日本インフレ率は1%が適正」と信じていたとする。彼らが「将来3%までインフレ率を高めます」と言ったところで、その約束には全く信頼性が無い。しかし、ここで「インフレ率は3%くらいが適正だ!」と信じる総裁が着任したら、日銀は放っておいても嬉々として3%のインフレ率を達成しようとするはずだ。これならば日銀約束は民間に受け入れられる。

この方法の問題は、候補者が信じる「適正インフレ率」は本人にしか分からないということ。福井総裁にしたって当初はこれほどのインフレ馬鹿だとは思われていなかったわけだし。

2008-12-10

ニコニコ動画プレミアム推進ユーザーアピールの疑問

ブクマリンクを貼るけど

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://njb.virtualave.net/web/nico/nico.htm

もしプレミアム会員の収入で自活できれば、ニコニコ動画はせこい商売をしなくてすむ。わずらわしい広告もなくなる。

スポンサー企業ではなくユーザー意見が反映されるようになる。文句を言うなら金を払おう。動画作者への還元も期待できる。

ユーザー提案のプロジェクト出資させることだってできるだろう。わずかな出資ですべてうまくいく。

ニコニコ動画の運営者がコミットメントしていないのに、なんでこんな変化を言えるのだろうか。

プレミアム会員の収入で自活できても、ニコニコ動画はせこい商売をするかもしれないし、広告だって、俺は営業黒字を増やすためには無くさないだろうと予測する。

運営者が約束していないことを勝手に期待してお金を募るなんて、俺は信用しない。

2008-11-19

[][]スティグリッツ  インフレターゲットは導入すべきでない

スティグリッツ教授経済教室』

インフレターゲットは導入すべきでない

多くの国の中央銀行が導入しているインフレターゲット日本も導入するべきだという声が一部にはある。

中央銀行制度は宗教のようなものだ。ほとんどの国の中央銀行が熱烈に報じているいくつかの信条があり、

彼らはそれを確信を持って唱え、その論理の進め方にはまるで判で押したような画一化が見られる。

しかもこれらの信条には往々にして、それを裏付ける科学的証拠がほとんどないのである。そのため、

彼らのご託宣はえてして間違っており、彼らの政策は予想された結果や望ましい結果をもたらさないことが多い。

一九八〇年代にミルトン・フリードマンの感化を受けて、世界中中央銀行マネタリズム、すなわち中央銀行のなすべきことは マネーサプライ(通貨供給量)をコントロールすることだけだ、という信条採用した。通貨供給量を厳しくコントロールすれば、低く安定したインフレ率に導くことができ、それによって安定した高成長を実現できる、という考えである。

改めて言うが、マネタリズムを裏づける理論存在せず、限られた実証分析結果があるだけだった。

実際、マネタリズムは機能しなかったし、いくつかの点では完全な失敗だった。今日では、

事実上すべての中央銀行がこの信条を捨て去っている。(この破棄された信条の名残りとして、

欧州中央銀行はいまだにマネーサプライを重視している。)


アメリカが、そして世界が、一九八〇年代に経験した経済的苦難の多くは、マネタリズムに対する

盲目的な信仰にその原因があった。中央銀行通貨供給量コントロールに関心を集中したことは

未曾有の高金利を招き、短期で借り入れて長期で貸し付けていた金融機関―――とりわけ

何百万人ものアメリカ人住宅ローンを提供していた貯蓄貸付組合(S&L)―――は、一夜にして

事実上破綻した。レーガン大統領規制緩和―――そのおかげでこれらの金融機関は高リスク

高リターンのローンに乗り出すことができた―――と、いくつかの会計上のトリックによって

崩壊は先送りされたが、それは必ず訪れる報いの日が来た時、納税者が負担するコスト

さらに大きくなるということだった。この救済事件のあと融資基準は当然引き締められたが、

今度はそれが、一九九一-九三年の景気後退の一因となった。

アメリカにはこの嵐を比較的楽に切り抜けるだけの資源があった。(もっとも一九八〇年代

初めの景気後退は、巨額の財政出動にもかかわらず大恐慌以来の厳しいものになったのではあるが。)

だが、マネタリズム発展途上国に及ぼした影響は悲惨だった。金利の上昇は、

ラテンアメリカ諸国が一九七〇年代の石油価格ショックを切り抜けるために借り入れていた債務が、

突如として背負いきれないほどの額に膨らんだということだった。ラテンアメリカ諸国は相次いで

デフォルト(債務不履行)を起こし、この地域は一〇年にわたる停滞―――いわゆる「失われた一〇年」―――に陥ったのである。

中央銀行はいつも単純なルールを求めており、今日の単純なルールは「インフレターゲット

(目標インフレ率)」である。目標インフレ率を設定して、インフレ率がその目標より低ければ金利を下げ、

高ければ金利を上げろ、というわけだ。インフレ率の変化を生んだショックが

どこから来たのかも、失業率や為替レートがどうなるかも気にする必要はない。その論旨はこうだ。

インフレ抑制に専念することが「信頼性」を生み、その信頼性こそが、経済がショックに対して

より効果的に反応することを可能にする。石油価格が上昇するときは、インフレ率は(一九七〇年代のようには)

上昇しない。中央銀行が素早く行動してそれを抑え込むことを

市場参加者が知っているからだ。インフレ率が将来上昇しないことがわかっているということは、

物価今日、安定を保つということだ。

世界の大部分でインフレ率がこれほど低く抑えられてきたことには、もちろん別の理由がある。

グローバリゼーション全般、そしてとりわけ中国である。海外からの低価格の財が

供給されることで、国内の物価抑制されてきたわけだ。貿易財は多くの非貿易材の優れた

代替財となる。グローバリゼーション製造業分野(および他の貿易財分野)の賃金に下降圧力をかけ、

それが経済全体の賃金に下降圧力をかけてきた。市場に十分な競争がある限り、これは

とりもなおさず物価はどの国でも安定を保つということだ。

インフレターゲット論は、少なくとも短期的にはマネタリズムより害の少ない宗教である。

それは一九八〇年代初めのアメリカの異常な高金利のような極端な振る舞いには、概して繋がらない。

しかし、長期的には、ヨーロッパが実証してきたように、景気の悪化を招くことがある。

レベル失業にもっと関心が払われていたら、ヨーロッパ金利はもっと低く

抑えられていたはずだ。

金利投資抑制してきただけでなく、為替レートの上昇ももたらし、

それがヨーロッパの景気を低迷させてきたのである。


日本の場合には、インフレターゲット論はデフレ対策として唱えられてきた。

デフレが問題なのは、一つには名目金利ゼロであっても(デフレ考慮すると)実質金利プラスになる

からだ。デフレが続く限り政府金利を低く抑え続けるとわかっていれば、市場参加者は、

長期実質金利がやがて低下することを確信して、消費や投資にもっとカネを使う気になるだろうと、

インフレターゲット論者は主張する。日本の場合のインフレターゲット論の問題点は、それが

短期的に間違った変数に着目することにあり、インフレターゲット政策への

コミットメントが信用できるものだとすれば、そのために金融当局は間違った戦略を長期にわたって

推進することになる。

金融政策は実質金利(インフレターゲット論者はこれに着目する)よりも、むしろ

信用のアベイラビリティ(可用性)を通じて景気に影響を及ぼすのである。金融当局が景気をどの程度刺激しているかは、今現在の実質金利(あるいは長期実質金利)よりも信用供給の拡大に注目

した方が正しく測定できる。金融当局が信用のアベイラビリティに影響を及ぼす方法は

いくつもあり、これらの方法が金融政策の中心に据えられるべきである。


さらに、金融当局が長期実質金利に影響を及ぼすことを望んだとしても、それを達成するには

インフレターゲットの導入よりも効果的な方法がある(インフレターゲットの効果は、

せいぜいよくて不確実といったところだ)。一例を挙げると、短期国債と長期国債の相対的な

供給量を変えることによって、これらの資産の相対的な価格に影響を及ぼし、それによって

長期実質金利に影響を及ぼすことができる。

2008-10-19

よくいるんだよ、こういう男。

http://anond.hatelabo.jp/20081018212017

この人、妻に対してそうだったように、しばらくしたら新しい恋人との間も冷めるだろうな。どちらが先に冷めるかわかんないけど。そしてまた、同じことを繰り返す。

だって、一生続く情熱なんてあるワケない。人は変わる。環境も変わる。しばらくすれば、お互いのバランスは必ず変わる。どこかで次の段階に移らなきゃ、長いこと関係を維持することはできない。

よくいるんだよ、子供生んだあとの妻に対して「どうもその気がおきない」っていう男。その、「気」という淡い心理の壁を乗り越える努力をしようとしない男。その結果としての自分の浮気を、渡辺淳一小説のような「恋愛至上主義」を盾に、正当化する男。

努力して、その壁さえ乗り越えれば、夫婦の間で別の絆ができるというのに。

子供を生んだあとの妻には、夫のように浮気する場も時間も与えられない。彼女にとって、夫以外の男でその満たされない性欲を処理することは、夫の浮気よりもはるかに難しい。彼女は24時間育児セックスレス結婚という牢獄に閉じ込められたまま、この先長い一生、このまんまになるのか・・・と真っ暗闇の中に放り出される。(たとえ浮気がバレなくても。)世の中的に、「男の性欲」が仕方ないものと見られる割に、「女の性欲」に対する理解はきわめて低いが、それがどんなに暗く醜いものか、考えてみてほしい。

妻のほうも、うじうじスネスネして「わかってほしい」とか思うだけじゃなく、「私にもセックスが必要だ」とはっきり言って、夫婦で話し合う勇気がいるだろうね。でなきゃ離婚して、努力のできる男とやり直したほうがいい。

一夫一婦の結婚制度がベストの解ではないかもしれないが、他の種々のやり方と比べてベターなんだよ。だから、やっぱりそれが主流なんだ。子供にとっても、お互いにとっても。結婚というコミットメントをお互いにしたんだから、約束を守るためにお互い努力しないといけないと思うよ。そのほうが、他のやり方よりベターなことが多いんだよ、いろんな意味で。

この増田氏が「修羅の道も芸のこやし」といった立場の人ならなんにも言わない。それでも、やはり私は増田氏の妻のほうに同情する。

2008-03-10

http://anond.hatelabo.jp/20080310055851

ばっか・・・!

そんなの増田に語らせちゃったらNDAなんのそのであんな会社やこんな会社の裏話たれながしちゃうんだぜ。

といいたいところだけど、回想もしたくないので、芋食ってぷー。

ひとついえることは、係争にまで発展する案件の原因はただひとつ!

コミットメントがなってねぇ!

コミットはどこでもいい。社長でも担当者でも現場でも。

きちんと話しを通せ。

何をつくるか伝えろ。

そこでコミットできなかったものは納期の関係で創り始めたりするな。

それだけだ。

大抵の炎上案件は、中途半端な理解度の糞相手担当コミット邪魔をする。

こちらの担当者が非力でコミットできないというのもあるが原因はそこじゃない。

そもそもごねるつもりしかない担当者仕事をしてうまくいくわけがない。

係争に発展までした案件に入るなら、まずまっさきに前任の相手の担当者の首をとばせ。

むしろ揉める前に飛ばせ。

説得してまわれ。

どこかにコミットしろ。

いいか、そこはデットロックされてるんだ!

いくらまっても上書きできないし削除もできない!

できないことはするな!

死にたくなければブロッキングモードのままオープンしようとするな。

最悪自分が討ち死にするときも相手担当者は道連れにしろ。

ここは通行止めだと後任に知らせろ。

担当の要求なんて定義するな。

現場の慣習なんて拾おうとするな。

まず言ってやれ

「これはあなたの仕事を楽にするためのシステムではありませんよ。」って。

「あなたの仕事は増えるかもしれませんよ。」って。

「あなたのいままでの立場を守るものでもありませんよ。」って。

だって大抵の要求は、

顧客サービス向上のため

経営がきちんと適切な判断をくだせるように導入するため

・営業や経理が一任勘定にしないため

そんなところだ。現場からしたら仕事は増える!

そこは諦めてもらえ!

いいか!死にたくなければ頭を低くしろ!

そのまま大将に突撃だ!

ザコにはかまうな!

なにをしたら金をもらうのかだけははっきりさせとけ!

へんな期待は抱かせるな。

とにかくコミットだけはしておけ。

スパゲティコードが係争に発展する?

ねぇよ、糞グラマーがつくったソースなんて作り直せ。

ちょっと時間はとられるかもしれないけど、たいしたことない。

もとから無かったとおもえば楽ちんだ。これ以上らくちんな火消しはない。

PMが糞で係争に発展する?

これはある。

くそつまらねぇ理由からやらなくてもいい仕様を盛り込んでそこに固執したりするからだ。

いいか、とにかくつまらないことに固執したりする自縛霊がいたら死人がでるまえに吹っ飛ばせ。

協力会社を怒鳴って他社のせいにしたりするやつはただの無能だ。

自分で管理するメンバーなんだから粛々と入れ替えろ。

こういうPMが1人で問題を大きくしだしたら、すべてがダメになるまえに引き摺り下ろせ。

みんな気が付いてる。発火寸前だ。

そんなのを吹っ飛ばすのは簡単だ。派遣でもできる。

僕しか居ないのに揉めてるんです!

しるか…、死なないうちになきいれとけ。

しくじったらゴメンナサイだ。忘れるな!

・・・これをやってくれるだけで俺や同胞達は死なずにすむ。

2007-11-08

ウォール伝「生成ユーモアの企て」 を 整形してみる。

ウォール伝「生成ユーモアの企て」http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20071108

2007-11-08 生成ユーモアの企て。CommentsAdd Starmimisemi2007-11-08

アルファブロガーアワードってのにノミネートされたらしいんだけど、最初、ブ
ログへの書き込み見たときにまたなんかの詐欺サイトかと思ったよ。前のmyspace
でのライブに出ませんか?と同じ類かと思ってたら、割とちゃんとしてたっつーか、
推薦してくれた人がいたみたいで、なんだか驚きっていうか、今日社会学のテス
トがあってって昨日も書いたけど、今書いてるのは午前なんだけど、一応、学校行
く前に教科書でも読んでおこうかとか思ったんだけど、ノミネートされてて驚きだ
ったからこの時点で思ったフレッシュなことをとりあえず書いておくね。

まず推薦した人のセンスというのは恐らくアングラ系に理解がある人なんだろうな
って思ったわけだけど、別に俺がアングラぶっているわけではなく、基本的に色々
カイテルとそれがアングラ志向みたいになっちゃうんだよね。ようはメインストリ
ームじゃないことっつーかストリームすらないようなことばっか書いてるんで逸脱
していくっていう、まぁその結果がアングラっていうカッコつきのワードで表され
るわけだけど、何を書きたかったのかすでに忘れたよ。

あ、そうそう。推薦者に「推薦していただいてありがとうございました」なんてメ
ールなり書き込みをするのは白々しいので、やりたくないんだよね。前のはてなス
ターと一緒で、もう心が張り裂けそうなぐらい感謝しているんだが、あんま直接本
人に言いたくないっていう。ってことで推薦してくれた人がこれまだ懲りずに見て
たら、耳蝉はこのことだけでまた明日から頑張って算数とかをやる気力が湧いたっ
て思っててください。

人との係わり合いっつーか特にネットでの係わり合いは極力避けているのにも関わ
らず、知らない人がこういうことをしてくれると嬉しいんだよねぇー。すげー自分
勝手。ところであとこの期待ね。おーなんか凄いことになってるじゃん!とかさ、
あ、その前に、「ニューヨークコミュニティーカレッジに通う著者」って言葉さ、
いやー文字ってのは凄いよね。こうやって文字で現れると実態と乖離したイメージ
というのが文字から生まれてくるというか、読み手に連想させるんだよね。なにや
ら凄い感じじゃん。

まぁコミカレ自体は凄くないけど、ニューヨークってワードがコミュニティカレッ
ジの質を高めてるっていうか、オクラホマコミュニティーカレッジだとあんまス
テータス高い感じしないけど、ニューヨークってのがね、コミカレの響きを高めて
るっていうか、まぁそういうのがあるわけだけど、実際は「モトニートかそれ以下
みたいな引き篭もり生活をしていた著者が、死か無理な渡米かの二択を自分の中で
勝手に迫られて渡米というか亡命を決意しつつ、なんだかんだでニューヨークのコ
ミュニティカレッジに通いながら、特殊学級の算数のクラスと読み書きのクラスを
受けている生活の中で綴るポスニートダイアリー」みたいなね。

ただ脳を掃除するっていう表現はさすがだなって思った。ちゃんと読んではるなっ
て。前にも書いたけど精液が溜まりすぎると玉が膿んだような感じになるから一刻
も早く抜きたくなるじゃん?それと一緒で脳が膿むんだよね。色々溜め込みすぎる
と。だから吐き出さなきゃいけない。音もそうなんだけどね。

あ、んでね、いつも書くようだけど、留学生っつってもピンきりで、今なんて恐ら
く昔みたいな、50年代とか60年代とかに留学してたようなエリート中のエリートな
んてのは本当に少ないと思うわけねっつーか昔はそういうエリートしか留学できな
かったわけだけどっつーのも奨学金とかね、そういうことで。

ただ今ってのは割とカジュアルに誰でも留学できるんで留学自体がたいしたことじ
ゃ無くなっているわけ。ただ留学とか「ニューヨーク」みたいなカッコつきのワー
ドに象徴されるようなイメージだけが先行しているものってのはね、そういった昔
から継承されてきたステレオタイプの賜物なわけですよ。留学=賢いとかエリート
とか金持ちみたいな。ただ今なんて違法でバイトしつつ英語学校に通っている日本
人なんて少なくないし、VISAがキレても惰性で違法バイト続けてはや10年みたいな
人もいるわけ。

ようはね、クローズアップ現代だかで見たんだけど、就職氷河期世代ってのがよう
は年齢差別とかさ、日本って雇用っつーか社会が最悪だからっつーかまぁいいや、
仕事が無くてさ、んで中国行って電話オペレーターとかやってる人とかいるらし
いけどさ、時給が日本円で300円だったかな。ただまぁ中国語をマスターするっての
とキャリアアップってのもあって日本無駄バイトしてるよりマシってことで行
ってる人も多いんだろうけど、こういうの見るともうすでに日本先進国だなんて
いう幻想はもうなくなったなっていうのを実感するよね。

それこそ本国仕事が無いとか未来が無いんで海外に出て条件が悪くてもまだマシ
ってことで仕事をしている発展途上国から来た労働者とかとあんま変わらないわけ。
こういう人達って。俺も同じだからね。元々日本というか日本社会が大嫌いで亡命
したという理由が一番だけど、でもまず俺みたいなもんに仕事があるわけないから
さ、だったら同じ苦労でもこっちで苦労したほうがマシだってことなわけで、状況
的には独裁政権の国から自由を求めて逃れてきた移民なんかと本質的には変わらな
いわけですよ。

まぁ俺の場合、親のサポートがあるからこういったシリアス移民たちと俺を一緒
にするのは失礼なんだけどね。そういう意味だとあれなのよ、ニートが上京して専
門学校通うみたいなのをニューヨークでやってるってだけ。俺の場合。だから全然
たいしたこと無い。エリートでもなんでもないし、こっちの大学なんて高校レベル英語が出来れば誰でも入れるんだから。卒業するのは大変だけどね。ってことで
留学=なんか凄そうっていうイメージはなくしたほうがいいよ。

こういうイメージが流布してるから短期留学でもなんか得られるんじゃないかとか
いって来る人が多いけど、何にもならないよ。基本的に留学の先にあるのは似たよ
うな資本主義社会で、言語英語ってだけです。そこでまぁ行動的な人は何かを
得るかもしれないけど、それはあくまで主体あってのもので、主体性が無くて、た
だなんとなく留学っつーと凄そうだからっつって留学しても何にもならないわけ。

こうやって勝手留学に対して変な幻想を抱いちゃうってのは、留学を売り物にし
ている代行業者とかによるイメージ捏造もあると思うんだけど、やっぱなんつー
かそれ以前にジェネラルに留学っていうこと自体に個々が勝手幻想抱いてる気が
するのよね。ただ実際はね、来てみて、それがニューヨークであろうがロスであろ
うがイメージと全然違ってたっつって心身がダメになって帰るって人も多いらしい
し、何も見つけられないまま英語学校にずーっといるって人も多いし、ようはね、
状況自体が何かを与えてくれるなんてことはどこの世界にも存在しないってことな
わけよ。

主体性のないやつが違う環境に行けば環境によって様々なことが変わっていくとか
ね、そんなことは起こりえないわけよ。あくまでそれは主体性があった上での前に
書いたようなソーシャルインターアクションによってパーソナリティが変わってい
ったり認識が変わっていったりするわけで、そこに何らかの働きかけが無いとまず
無理なわけ。勘違いしてる人達ってのは行けばそういった経験が得られるんだって
凄まじくパッシブなままなんだよね。そんなんじゃ無理。

だから中身が何も無いまま自分探しっつって世界放浪してもダメなんですよ。自
分が無いと何も得られない。ようはその環境から感化されるような感覚とか思考と
かっていう人間の意志が無いとダメなわけで、ようは日本で拾った石をエジプトと
かアメリカとかイギリスに送ったところで、石自体に何も変化がないのと同じなわ
け。

この石状態ってのがスッカラカンな石人間留学先で起こるわけ。ただこれは師匠
2っぽい言い方すると自明の理なわけよ。まぁ留学に限らずだけどね。もっと狭い
話でもいいや。どっかのサークルに参加するとかコミュニティに行くとかさ、それ
で変わるかもしれないっつっても、主体性が無きゃそれは、その辺で拾った石をな
んかのサークルに置くだけで、石自体に何の変化も起こらないでしょ。逆に人間っ
てのは変な期待するから、そこでイメージと違ったとか、なんか予想してたのと違
うとかって思うわけだけど、そりゃてめーが石だからなんだよってことに気がつか
ないとダメよね。逆を言えば意志さえあれば環境なんて二次的なものなわけ。

だから前に書いたことでちょっと思うことがあったんだけど、俺ってどうやら人里
はなれた山というのに桃源郷的な幻想を抱いてるんだなっていう風に思ったわけ。
こんなくだらないゲームはやめて、とっとと隠遁生活を送りたいって書いたけど、
隠遁生活なんて別に山に行かなくても送れるんじゃないかと思ったのね。

ようは心の中に桃源郷的なイメージを持っていれば、自分の部屋が桃源郷になりう
るでしょ。別にそれは瞑想しているときでもいいんだけど、頭の中にそういったイ
メージがあれば、実質、環境がどうであれ隠者的な生活は送れるんじゃないかと思
ったのね。まぁ環境も大事だよ。ナチ政権下で心に桃源郷を持ってようがそりゃキ
ツイよ。

まぁなんつーかそこそこの環境なら別に心の持ちようっつーか、ようはその個人の
世界観によって自分の世界なんていくらでも変わるじゃんって思ったわけで、んだ
から別に山に住まなくても、山にいるようなイメージを心に持っていれば、それは
山に住んでいるのと同等じゃないかってことなわけね。ようはそこで人生なんても
のにはもう達観して挑むしかなくて、心に桃源郷を描くことに人生を費やせば、色
々と克服できることって結構多いと思うのね。

それはくだらない人間関係についてかもしれないし、煩悩かもしれないし、精神病
かもしれないし、不安かもしれないし・・・。結局こういったことを解決するのっ
て内面的な力しかありえないわけだよね。薬とか環境の変化でどうにかなるもんじ
ゃない。何しろ人間ってのはもう文明社会に生きているわけだから、社会からは逃
げられないでしょ。桃源郷社会存在しないなら、自分の心に作っちゃえばいい
だけの話だよね。

まとめると、ようはこれってのは青い鳥と同じなわけで、幸福なんてのは外的なも
のの中には存在しないわけで、そういったものを無理やり作っちゃうのが幻想なわ
けだけど、青い鳥の「本当の幸せというのは鳥かごにあった」っていうのに準える
と、本当の幸福ってのは心にありってことなわけで、まぁ基本的には師匠1の教え
に行き着くわけですな。心っつーと深そうだけど、ようは気の持ちようだよ。認識
ね。基本的には。あーダメだ。話が逸れた!もうあと1時間ぐらいしか無いから教
科書読むわ。

いつもこんな感じね。寸前というよりかは寸前の寸前ぐらいにならないと動き出さ
ないのね。俺。あ、そうそう。パリ症候群とかさ、あと日本馬鹿芸能人がハリ
ウッドデビューとかアメリカで活躍するみたいなことに幻想を抱いているのも、今、
書いたことの良い例ね。良いっつーか悪いっつーか。事実とは関係ない幻想という
ものに振り回されるほど不幸なことはないから、とっととそんな幻想捨てちゃった
ほうがよっぽど幸せになります。

ところでアルファブロガーって影響力のあるブログの書き手のことを指すらしいけ
ど、なんか今回俺のブログノミネートされたやつは2004年から開催されてるやつ
らしいんだけど笑っちゃったのが、Wikiで見てみたら「日本ではFPN(フューチャ
ープランニングネットワーク)というサイトが「アルファブロガーを探せ」という
企画主催しており、ここで選出されたブロガーを指すことが多い一方で、この企
画自体の知名度の低さの問題が指摘されている。また評価の正当性、選考の手法な
どにも疑問が投げかけられることもある。さらに、このサイトが選出したブログに
は社会問題となりうる虚偽に満ちたブログも含まれている。」だってさ。

かなり批判的。逆にちょーメジャーしょこたんブログみたいなのがノミネートさ
れるようなコンテストだったら俺のブログなんてノミネートされないだろうからね。
「虚偽に満ちたブログ」ってまさしくウォール伝も含まれるな。基本的にこういう
のを一般向けに開催していたら、まず個性的なのはノミネートされなくて、ようは
アカデミー賞みたいなそれこそ虚偽に満ちたアワードになるわけだけど、逆に俺み
たいなちょー逸脱したブログみたいなのがちゃんとノミネートされるなんて、なか
なかいいんじゃない?幅が広くて。ネクロマンティックとスパイダーマンが同時に
出展されるような映画祭って素敵じゃん?無いけど。

ようはたぶんこれってアルスエレクトロニカみたいな感じなんだろうね。えー?
Cosmosが受賞したのぉー??っつって国際的にアワードの価値が疑われるっていう、
ウォール伝はそんなCosmos的な存在かもしれないけど、逆を言えばCosmosみたい
なのが賞を取るアワードってのもアリなんじゃない?とは思うけどね。

あとラッセーラのソヴァージュもなんか受賞したんだよね。えらいアワードだよな。
それこそ評価の正当性やら選考の手法に疑問が投げかけられるわけでしょ。アルス
エレクトロニカ。世間の評価ってこんなもんだもんね。しょこたんブログと並んで
ノミネートされてたら、「他のノミネートブログが凄いね!」っつってなんつーか
比較で凄いっていうアホな評価になるわけだけど、他がさっぱり有名じゃないわけ
の分からないブログとかばっかだったら「たいしたことねーアワードだ」ってこと
になるわけ。大半の人はこんな感じ。

内容も見ないでこういった表面的なところで評価するわけね。映画アワードとか
もそうでしょ。ちょー有名監督ノミネートされてたりしたら、その比較として凄
いみたいなさ、まぁ大日本人みたいなもんか。正式に出展されたわけじゃなくて、
オルタネイティブ部門みたいなので、ようはネクロマンティックみたいなのでも個
性があるっつって選考されるような枠に選ばれただけなのに「カンヌ」って名前だ
けで人々が勘違いするわけ。

で、誰もディティール見ないんで勘違いしたまま、みんな「カンヌ正式出展作品」
だと思い込んだりしてるわけ。アホだなぁーって思うね。マジで。まぁーでもあれ
かねーやっぱ客観的に見てもCosmosみたいなのが賞を取るアワードって何?って思
っちゃうのは分かるけどねぇー。スーパーデラックスってさ、俺がまぐれでアート
リンゼイライブの時にDJした思い出の場所なんだけど、あんときのDJはヒドかっ
たな。

選曲はいいんだけどミックスがヒドかった。イカに現場慣れしてないかっつーね。
あと10分ぐらいある曲かけちゃったもんだから、勝手に客が飽きてるって思い込ん
で、いきなり別の曲かぶせてミックスしたりとか、ようは精神病的強迫観念すらも
ミックスに影響してたりしたんだけど、まぁーでも楽しかったなぁー。

なんつーか「選曲良いですね」って言ってくれたお客さんが何人かいてさ、人との
係わり合いも悪くないなぁーっつかさ、あの時の経験がある一つの決定的な認識を
与えてくれたんだよね。

ようは独りよがりでやってるようなオナニー音楽をやっているのなら評価なんて
求めないっていう、ようは人に「良い」って言われたいっつーか人と何かをシェア
できるようなものを作りたいんだったら、俺は音楽を作るなんて諦めるべきだって
思ったわけね。だから俺は前者を選んでいるわけだけどっつーか選んでるっつーか
前者しか選択肢が無かったんだけどね。人と何かをシェアできるような音楽なんて
俺には作れるわけがないから。

そんな意味でもウォール伝は明らかに前者的な態度でやってるんで、そもそもアワ
ード的な概念と繋がりがあるわけないんだよね。やってるっていうよりかは勝手に
出力したものをネットに乗っけてるだけだからね。やってるって概念すらない。た
だ今回やっぱ嬉しかったのは、こんなブログでも推薦してくれる人がいたっていう
ことと、何よりこんなブログエントリー主催側が許してるってことだよね。

まぁ逆を言えばこんなブログエントリーを許してるから社会的な認知が得られな
いのかもしれないけど、まぁそんなもんクソ食らえでいいと思うけどね。まぁただ
他のエントリーは大半がまともな人が書いてるちゃんとしたブログばっかりだった
んで、まぁ俺のブログはネクロマンティック的な役割を果たせれば十分なんじゃな
いかと。

「幅の広いアワードですわね」っていう。でもあれだね、過去にはきっこさんとか
選ばれていたらしいけど、他のも色々見てみてもなんつーか社会的に見れば「反道
徳的」なものも含まれるわけで、ようはエントリーの傾向が左翼じみているとかさ、
そんな批判も聞こえてきそうだけどいいんじゃないかと。

当たり障りの無いメジャーブログ選出したところで面白くもなんともないからね。
まぁこのアワードを擁護するわけじゃないけど、ブログって極めて個人的な考えと
か経験を出力できる凄まじくインディビジュアル媒体なわけじゃない?これは逆
にメディアじゃありえないことなわけだ。

そういった媒体キャラクターを利用してアメリカなんかではブログソーシャル
クリティーク的なことをしていたりっていう、ようは社会へのコミットメントとい
うか人への影響力があるようなブログもあるわけじゃん?それがまぁアルファブロ
ガーの書くブログということなんだろうけど、日本ってこういうの少ないと思うん
だよね。俺がアルファブロガーだとはとても思えないけど、ただなんつーかせっか
くネットっていうセンサーシップのない媒体があるわけだからさ、もっと個々が色
々なことガンガン書いていくべきだよね。

色々な意見があっていいわけだけど、そこで議論が生まれればもうそれだけで価値
があると思うんだよね。とりあえず色々なことをネットを使って語りつくすってい
うね、そういうことが出来るわけだから、個々がどんなトピックでもいいからガン
ガンやっていくべきだよね。それこそメディアじゃ放送できないようなこともブロ
グならいくらでも書けるわけだからさ、ガンガン書いていかないと。

それこそWilliam F. OgburnのCulture lagじゃないけど、日本ってテクノロジーの発
達が凄まじい割に、ノンマテリアルカルチャーの部分がテクノロジー進歩につい
ていってない感じがするんだよね。

ようは人間側とか社会システム側がテクノロジーを活かしきれてないっていうか、
テクノロジーありきの社会構造みたいなのを提唱できてないっつーか、本当はテク
ノロジーの進歩なんて社会自体を変えてしまうような可能性があるわけだけど、イ
マイチ日本ってのはこういうところに鈍感なような気がするね。

そういう意味だとアメリカは割とこういうところにケイパブルなのかもしれないね。
だからさっき書いたようなアルファブロガーみたいな存在が出てきたりyoutubeだとか
googleだとか、それこそ社会的に影響があるようなものがガンガン出てくるし、ユ
ーザーも使い方に多様性があるんだよね。でも日本って使い方に多様性が無いんだ
よね。ホント、個人的な欲求を満たす目的だけに使われている気がする。

具体的な例が無くてアレだけど、言ってること分かるでしょ?やっぱいつまで経っ
てもアメリカの後追いじゃダメなんだから、やっぱ民度上げていかないとダメだと
思うわけね。まぁ一概には言えないけど、経済とか文化とか教育レベルではアメ
リカとの大差はそこまで極端じゃないんだから、国民のあり方によっては、それこ
そアメリカから独立できるわけよ。でも独立しないのってさ、まぁ色々と政治的な
こととか経済的なこととかがあるにしても、やっぱ民度が低いんじゃダメだよね。

少なくとも俺がアメリカに来てこっちはレベルが高いって思うこと自体がアウトで
しょ。それってアメリカレベルが格別高いわけじゃなくて、日本レベルが低い
ってことなんだからさ、そりゃマズイよね。あーまた話が拡散バズーカーしてきた。

あ、んでね、今はもう夜なんだけどっつーか今日社会学先生がなぜか来なくて、
みんな帰っちゃったのね。っつーかこっちでは15分経ってもプロフェッサーが来な
い場合は授業は無しってことらしいんだけどっつーか

まぁそんなのが一般的なのかどうかは分からないけどさ、ただなんつーか生徒が独
自に当日の出席票を作って後日先生に渡すとかさ、なんつーか15分経ったからもう
次行こうってああいうクイックなディシジョンメイキングはさすがだなって思った
ね。日本だったら生徒がざわざわしててみんな座ってるだけだろうなって思ったも
ん。こういう差を見るとアメリカ凄いなって思うのと同時に日本レベル低いなって
思っちゃうわけだけどっつーかまぁ安易な一般化はできないけどさ、これってもう
モノの考え方の差なのかなって気もするけどね。

日本は周りの様子を見て慎重で、アメリカではとっとと独自に決断して次行っちゃ
うっていう。周りの様子を見て慎重でっつーとポジティブだけど、まぁ頭使わない
ってことでしょ。周りに流されてばっかっていう。普段から思考力が鍛えられて無
いからすげー流動的なの。すべての行動が。これって個々がどうのってより、もう
社会の特徴っつーかさ、社会によって個々の人格とか考え方とか習慣ってのがカス
タマイズされるから、そういったアホアホな行動パターンってのが社会によって作
られている部分もあると思うんだよね。

それは言語と一緒でアホアホなパターンが身につきやすい日本社会に生まれた人で
も、アメリカとか他の国で育てばその国らしい人間に育つっていう、ようは日本人の
DNAとか性格がどうのって話じゃなくて、社会の話なんだよね。ってことでこの話
題の流れから行くとやっぱ話が教育になるわけだけど、まぁそれは前に散々書いた
からいいや。

っつーかオナニーしたいんだよね。帰ってきてからメシ作ってさ、で、アルファブ
ロガーにメールしてこれ書いて今に至るわけだけど、オナニーが無いわけよ。外に
出ると色々なインフォメーションが頭に刷り込まれるからズリネタも増えるでしょ。
俺の眼鏡ってそういう意味だと妄人メガネなわけだけど、妄人と違って俺は自分自
身で妄想ネタを色々と収集してこれるから便利だよね。

あ、そうそう。今後はあれなのかな、書くたびにケツに「クリックお願いします」
みたいな、よくブログにあるさ、ブログランキングとかの投票のあれあるじゃん?
あれのテンプレートみたいなのをペーストするべきなのかな?まぁ一ヶ月ぐらいだ
しいいかな。俺的には読んでいる人に投票を求めるなんて反革命的だなーって思う
んだけど、やらないってのもアレだから、とりあえず投票ページのURLだけ書いて
おくね。

https://www.sixapart.jp/inquiry/alphablogger/alpha_vote.html

あと選挙期間内は政治家みたいに一時的な注目を集めるためにセンセーショナルな
ことを毎日書き連ねていくべきなのかな?で、ベストなんたらに選ばれたあかつき
にはとっておきの音源をアップしちゃいますよみたいな、特典つけるとかね。ファ
ンキーキンキーアップするとか。

まぁいいや。このことは忘れよう。無駄に期待するとダメだったときに残念だし最
終試験まであと二ヶ月切ったしブログどころじゃないんだよね。過剰にブログに注
意をフォーカスするのも嫌だし、そういったことをすると俺の中の革命度が下がっ
ていきそうだからやめたほうがいいよね。ってことで今までどおり時間があるとき
に更新していきますので投票ヨロシク。っていう落ちはどう?って感じで落ちを書
いたりさ、投票ヨロシク(結局、頼むんかーい!)とか一人ノリ突っ込みするとか
ってよく文章であるけど、最近アメリカでも一人ノリツッコミ存在することに
お笑い普遍的な価値を見出しましたね。

生成文法ならぬ生成ユーモアみたいなのが人間にはあるのかもしれないね。ユーモ
アといえば今日学校の手前ぐらいでマサさんの波が来たんで、テスト今日じゃ
なくて良かったかも。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20071108

2007-05-19

最低投票率かぁ

http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000417.htmlおおやにき

つまり私は、棄権も白票も同じくnon commitment (関与なし)であり、その意味するところは双方に0.5票ずつ加算するのと同じだと、こう理解している。non commitmentに独特の意味を認めないこのような視点からは、たとえば朝日前掲社説に以下のように言われても……


仮に投票率が4割にとどまった場合には、最低投票率の定めがなければ、有権者のわずか2割の賛成で憲法改正が承認されることになる。それで国民が承認したとは、とうてい言えまい。

なんで? と真顔で聞き返すしかなくなる。投票しなかった6割は半分支持・半分不支持と計算されるので賛否双方に3割ずつ加算されることになり、すると2割+αが積極的な賛成票を投じているのであれば合計して賛成者は5割+αになるではないかと、そう思うわけだ。積極的な意思表示をしなかったことは、賛否に中立としか捉えようがないではないかと。

へんな論法。真顔で聞き返すということは上記のロジックは自明であろうという前提が垣間見られる、が。。。

「non commitmentに独特の意味を認めないこのような視点」を自明のものとしてとらえていいのであれば、わざわざ視点を提示することもなかろう。

私の感覚では「投票しなかった6割は半分支持・半分不支持と計算される」という、国民審査類似のなロジックほうが不自然に感じる。

ことに憲法有権者コミットメントが正統性を担保する非常に重要ファクターであるのだから、朝日新聞の主張のほうがわかりやすい。真顔で聞き返すほどのへんな主張とは思えない。

2007-02-21

自称「疑似科学ハンター」に告ぐ

私の書いた風刺枝葉末節に見当違いなツッコミを入れて、「疑似科学ハンター」と悦に入っている人がいる。

こんな輩には別に何の興味もないが、前回の記事が「ネタ逃げ」だと思われている節もないではないので、敢えて補足しておく。「傲慢だ」という見当違いな非難を受けたくないし、無内容な長文を書きたくもなかったので、本当は気が進まないのだが。

まず、私のIQが152だと書いたこと、実はこれは完全な嘘というわけでもない。ネット上のIQテストで152という数値を出したことはある。もちろん、ネット上のIQテストの信頼性が高いなどと思っているわけではない。だが、130とか140あたりが上限になっているテストでは必ず上限に達していた。それともう一つ、平均的な人が知的障害者差別する発言を見聞きすると、「お前らの頭の中身も五十歩百歩だろうが」というのが実感で、正直内心片腹痛いのは事実である。以前、障害者介護ボランティアをしていたことがあるが、軽度の知的障害者と「健常者」の違いはほとんど認識できなかった。紙一重の差で社会に受容されているかいないかというだけの差にしか思えない。あるいは、例えば「ニート」の名の下に社会から爪弾きされている者の中には、知的障害者か否かの境界的な位置にいる者もいるのかもしれない。

もちろん、こうした見解をひとたび口に出せば暴言としか受け止められない。だから本当は書きたくなかった。しかしながら、「障害者とは相容れない、隔離せよ」といった類の暴論が一定の支持を集めてしまう現状に対しては、「天に唾でしかないこんな暴論を支持する者は、自分自身が『頭の不自由な人』だ」ということを喝破することも必要であった。だが、そういったことを直接的に書けば「煽り乙ww」、前もって断り書きをした上で丁寧に書けば「どこを縦に(ry」と言われるだけだ。所詮、「平均的な人」は「わかりやすい話」でなければ理解できないのだ。そこで苦肉の策として、わざと人目を引くような形で、一人称体の風刺小話を書いてみただけのことだ。要するに形式はネタでも意図は真面目だったわけだ。そもそも風刺とはそういうものだ。IQという数値だって本当は出したくなかったのだが、十分賢い人を連れてこれば「健常者」も障害者同然という状況をわかって頂くには、何らかのわかりやすい基準がなければならなかったのだ。だから、多少の暴論を承知でIQを持ち出したまでだ。「健常者」が「障害者」を暴論で切り捨てていることを告発するのが目的なのだから、レトリックとして敢えて暴論を用いたのは事実である。

ただし、それにもかかわらず、

彼のIQに対する主張は100%トンデモ疑似科学。また、はてぶコメントに「認知心理学では正しい」と書かれているが、そんなコミットメント(原文のママ。「コンセンサス」の誤りか?)は認知心理学会(原文のママ。正しくは「学界」か)には存在しない*1のであしからず

このようなことを言われるのは心外であるし、正しくすらないと反駁せざるを得ない。

第一に、「知的障害者」がIQを基準に決定されていること、そしてIQを生活年齢と知能年齢の比のパーセント表示で決定する方式があることは事実である。Wikipediaの「知能指数」の記述のうち、「算出法」「障害者認定」の両箇所を見ればよい。その程度は調べてから書いている。見損なわないでいただきたい。「100%トンデモ」と侮辱的な言葉をぶつけられたが、撤回していただきたいものである。

第二に、

大人同士ならば、例えばIQが110ある人間は100の人間の1割増の「知能」を持っていることになる。

「知能が2倍」ということには自明な定義があるわけではないのだ。だとすれば、知能年齢が2倍であることをもって「知能が2倍」と呼ぶことにして、なんの問題があるか。

と書いたことを「俺様定義」と批判を受けた件。これについては理解できなくもない。しかし、私はこの定義はそれなりに妥当性のあるものだと考えるし、頭ごなしに「俺様定義」と批判されることには異を唱えたい。私の生活実感からすると、未成年者同士での知能の比は年齢の比と近似的に(「近似的」である。くれぐれも「0歳児はどうした」などと下らぬことを言わぬように)一致するように思える。たとえば、18歳のときに12歳の少年と話をする感覚は、12歳のときに8歳の子供と話をする感覚とほぼ同様だった。もちろんこれは主観に過ぎず、検証もできないしできるものだとも思わない。厳密さに欠けるのは当然だ。しかし、そもそも私は学問的に厳密な話をしようとしていたのではなく、感覚的な話をしようとしていたのだ。そのことは文体からでも明らかであろう。「知能」「知能が2倍」という言葉カギカッコを付けていたことからせめてそのあたりを感じ取って欲しかったのだが、というと望みすぎであろうか。

だいたい以上のごとしである。もはやこれ以上私は下らぬ文章を書きたくないので、これ以降、自称「疑似科学ハンター」の下らない功名心に付き合わされることのないよう望むものである。

蛇足

厳密に書く意図がもとよりないことが文中に明示されているような文章に対して

ま、拙い接続詞の使い方や、こういう詭弁を見れば、まともな論述、論理の訓練を受けてないことは明らかで、騙される事もないと思いますが一応言っとかないとね。これで大学生だったらマジどうしよう。

だとか優越感を露わにしておられるが、私は旧帝大院卒なのだが?

これに対して「学力崩壊」だと嘆くか「ハッタリ」だと憤るか、それとも逆に尻尾を巻いて逃げ出すかはあなたの判断にお任せすることとする。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん