親の年収は知らない。基本的には母子家庭で、父親が何回か変わった。
殴る蹴るはもちろんのこと、関節技を極められたり、食事も与えられず、家から追い出され公園などで寝ることもよくあった。冬はコインランドリーが温かいということを知った。
似たような境遇だった兄は絵に描いたようなグレっぷりでしょっちゅう警察のお世話になっていた。
私は生来のコミュ障と本好きが幸いし、悪い友達とつるむようなことはなく、家を出されたときは、本屋で立ち読みしていた。
小説はあまり読まず、リチャード・ドーキンスとかホーキング博士とかの科学読み物をよく読んだ。宇宙と素粒子と化学式と哲学が好きだった。
中学生のときに父親だった男は例にもれず殴る男だったが、教育には意味を見出していたようで私は塾に行くことを許された。この点だけは感謝している。人生は運だ。
塾の先生の勧めで地域のトップ公立を希望した。学校での素行しか見ていない担任は絶対無理だと言ったが、楽勝で受かった。
高校は楽しかった。高校入学時の父親とはすぐ別れていて、母親は高校生になった私に腕力で敵わなかった。
進路を考える時期が来た。進学校なので普通は大学進学なのだが、私には全くビジョンが見えなかった。塾や予備校には当然通っていなかったし、相談できる大人はいなかった。親はもちろんのこと、学校の先生というのも信用できないものだと刷り込まれていた。今思うともう少し学校の先生に頼るべきだった。高校の先生は良い人たちだった。
奨学金も良くわからなかった。悪名高い奨学金ではあるが、少なくとも借りれば大学へ行っている間はなんとかなる。しかし、それを借りるというところにたどり着くまでにも大人の力は必要だった。奨学金の申込みはスルーされた。存在する、ということすら意識できていなかったように思う。
私はギリギリまで遊びながら受験料等を稼ぐためバイトをしつつ、なるべく勉強しないで行ける大学を調べ、早稲田の文学部を受けた。現代文は学年トップで小論文にも自信があった。とりあえず英語と古典を少し勉強したら受かった。よくわからないまま入学金ローンを借りて入学金を支払った。母はブラックだったので保証人は兄になってもらった。兄はやんちゃだけど良い人だ。
大学に入って私は、実家から通えて一番給料の良いバイトを情報誌で探した。塾講師だった。サークルとかそういうものは考えられなかった。大学へは片道で2時間かかるし、金もない。周りとも話は合わなかった。バイトに間に合わなくなるから、遅い時間の講義は行かず、他の講義も休みがちになった。
夏は可能な限り夏期講習のコマを入れてもらい、ほとんど塾に入り浸っていた。30万を超える夏期講習の給料を後期の学費として振り込んだ後、大学に行くモチベーションが完全になくなり、行かなくなった。
次の学費は払えず、除籍となった。
その後はブラック企業に就職したり色々あったが、まあ楽しくやっている。普通の人なら同じ境遇でももっと上手く立ち回れたのかもしれない。ちなみに後に自分が発達障害だということが判明した。無理ゲーであった。しかしこれ知り合いが見たら100%身バレするやつだな。まあいいや。
これでも底辺と言うにはおこがましい。私は少なくとも学力があり、一時期だが教育に金をかけてもらう幸運にも恵まれた。それでも無理だった。
恵まれている人の何が恵まれているって、情報だ。金だけじゃない。情報が全然違う。金の使い方、稼ぎ方。教育がどのように必要か、あるいは必要でないか。公的サービスの力。金を稼いでも節税しなければ税金で持っていかれること。その他あらゆること。
この世で生きていくための全てを、手探りでやらなきゃいけない。知り方さえも、知らない。そういう人たちがいる。馬鹿にしないでくれよ。スタートラインも、走るコースも違うのに。
あのときの自分に、教えてやりたいことがたくさんある。虐待されたら逃げられる場所がある。真面目に学校に行けば無利子で借りられる奨学金もある。何を学びたいのか考えて大学に行きなさい。