はてなキーワード: レファレンスとは
>取っておくべきと考える人達は、自分たちで買って保存するしかないだろう。
実際、現実的に考えると、ここが結論かなと思う。
情報をどれだけ抱え込めるかって処は、図書館の存在意義の一つだから
多分電子化できるものなら、がっつり電子化したいだろうさ、雑誌なんかは特にな。
図書は多分しばらく無理。活版印刷並みの革命起きてても、それを拒む層がいる。
>ところで「運営費が出ない」と言いながら「希少本を売らない」のは何で? 売れば利益が出る本もあるんだろ?
これ、いろいろ事情がな……。あるんだ。
恥かしながら、うろ覚えを箇条書きするので、
図書館学や法律に精通している方に突っ込んでいただけると有難い。
ILL(文献取り寄せサービス)の手数料とかは、儲けとはちょっと違う。
このあたりは、調べたいとか言ってレファレンスカウンターに行くといい。
海外の事例は他の増田に任せる。延滞料金の取り扱いはちょっと知りたいところ。
・そもそも、資料の転売ってありなのか?
個人としてはあり。元記事の処理がされてれば、盗難本とは思われない。
amazonで図書館の廃棄本(ペーパーバックとか)が出てたらとりあえず買う。
ブッカーで保護されてて、丈夫で汚れにくく使い勝手がいいんだよな。
組織としては難しい。グレーゾーンだが、グレーだからこそ「無い」という結論を
出す館は多いんじゃないかな。
資料は、税金ないしは学費などで賄われているケースが大半だ。
そもそも、自分の所属する機関の「財産」として計上されている資料の扱いは難しい。
「廃棄処分」するならともかく、「転売」となると、相当面倒な手続きを経るだろう。
千冊処分するために、千冊それぞれ個別に起案を出さんといけないとか、ありえて嫌だ。
新刊の整理なんぞする暇はなくなるから、新しい本も雑誌もしばらく諦めてくれ。
なんて事は本末転倒なわけで。
だから「財産」扱いしない費目で買う雑誌や新聞の廃棄は、楽っちゃ楽だ。
いざって時に「ここからここまで捨てるけど誰か要る?」と聞きやすい。
で、「別にいいや」→「じゃ、チリ紙交換に出しますわ」ってなる。
個人的には、シュレッダーにかけるなら電子化しようぜ!って思うんだけど
著作権者さん達がな。
追記。
図書館間で、「廃棄するけど誰かいる?」という寄贈のしあいっこがある。
MLだったり色々なんだけど、古くて入手できないような資料を分け合える機会がそれなりにある。
一般論として、われわれ「図書館員(読書オタク)」はかなり穏やかな性質の人間が多い。物事を1人で徹底的に考えるのが好きで、他人と激しく意見を対立させることは滅多にない。だが、うまく挑発され、一旦議論のスイッチが入ってしまうと、もう止められない!思いつく限りの言い分をとことん、最低2冊のレファレンスブックスを参照してから言い尽くすまで、話すことをやめようとはしないのだ。
では、図書館員連中(の一部)を正しく挑発するには、どんなことを言えばいいのだろうか? よくぞ聞いてくれた! その台詞を10個紹介しよう。
第10位:「本物の図書館員なら、絶対にGoogleは使わない」
第8位: 「QアンドAサイトは、現実世界で人付き合いができない人間がやるものだ」
第6位: 「娘が『プリキュア』の漫画を読めるように『利用者カード』を作ったよ。あれって、それ以外にいい使い途があるのかい?」
第5位: 「『インパクトファクター』に『H-index』に『EigenFactor』?どれだって同じだろう?」
第4位: 「最初の『日本図書館協会政策文書』三部作の一番いいところは『読書案内』だね」「図問研が先に貸出しを重視したんだよね!」
第3位: 「有山崧? うーん、前川恒雄の方が好きだな」
第2位: 「(図書館職員養成所以降のOB・OGの作家名)は三文文士だ!」
第1位: 「貸与権がそんなに悪いことだとは思わないよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20081101232814
どれだけ厳しい批判が寄せられているだろうかと恐る恐るみてみたら、好意的な反響が多く、胸をなでおろしています。
増田に書く理由としては、ひとつめ、専門外のことに長く関わるつもりがないこと、ふたつめ、連休の出先で手元に一冊の参考書籍もなく、HDDとネット上のソースだけを参考に書いたエントリなど、歴史を専攻したものとして、しかも専門外のものとして、とても胸を張って提示できるものではないこと、みっつめ、それゆえ、ホームに書いたら全て書き換えるほどの修正をせずにはいられないだろうが、その気力も時間もないこと、よっつめ、しかし、あれを「論文」とすることには憤りを覚えたので、せめて学問を知る人にはトンデモはトンデモであると伝えてみたかったこと、いつつめ、増田であれば上記の点をそれほど気にやまずに済むこと、このくらいでしょうか。したがって、私のエントリはいわゆる「ちらしのうら」です(文献表記がみにくいのもわざとです。すみません)。私はさくっと書き逃げする卑怯者です。内容がいかがわしいのも推敲が甘いのも全て私の責任です。でも、もろもろの言い訳によって逃げられるものではないですよね。ああ。
さて、前回のエントリでは、後半にさしかかったときにから睡魔に襲われ、最後は「藁人形叩き」ばかりになってしまいました。ようやく投稿できたと思ったら、字数超過で記事を分割せねばならず、つづきでは田母神氏の論文タイトルを間違えてしまいました。謹んで失礼をお詫びします。いろいろとミスがあろうと手をいれるつもりはなかったのですが、批判する論文タイトルの間違いはいくらなんでもひどいので、訂正します(ついでに「シンガポール華僑粛清事件裁判記録」後編のミスも直します)。これも後出しですが、原文が縦書きの漢数字は、横書きなので適宜英数字にしています。
では、気をとりなおして「藁人形叩き」ばかりをしていたところに補足してみたいと思います。最後に与太話の蛇足ですが雑感を述べてしめます。
しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
(前回と同じく、はてな記法による引用の出所は、田母神俊雄「日本は侵略国家であったのか」2008年http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf)
第2次世界大戦開戦の時点であっても、カナダ、オーストラリア、南アフリカなどが自治領化・独立した例がありますね。フィリピンでも独立を前提とした自治領政府が成立していましたね。
また、どちらかといえば植民地統治体制の比較の話ですが、自治・独立とまではいかないまでも、現地の住民を支配機構に採用していく次のような例もありました。
「1920年代より英国はビルマに赴任するICS〔引用者注:インド高等文官の略称〕に英国人のみならずビルマ人も採用すべく方針を変え、その結果1939年末の段階で、ビルマにおける全高等文官のうちビルマ人は32.8%を占めるに至った」(根本敬「英領期のビルマ人高等文官(ICS/BSC)とタキン党」『東南アジア史学会会報』63、1995年、17ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0004924657)
それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。
1940年代において、宗主国が疲弊し、植民地の独立運動が高揚したのは確かなことでしょう。ただし、歴史学の領分は、「もしも」を考えるというより、その過程をつまびらかにして、それぞれの要因や重要性を検討することにあります。
まず、開戦の詔書には「東亜ノ安定」「世界ノ平和」「万邦共栄」「東亜安定」「東亜永遠ノ平和ヲ確立」という表現はありますが、肝心の戦争目的を述べている部分は、あくまで「今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切の障礙ヲ砕碎スルノ外ナキナリ」(「御署名原本・昭和十六年・詔書一二月八日・米国及英国ニ対スル宣戦ノ件」1941年12月8日、アジア歴史資料センターレファレンスコードA03022539800。引用部分の漢字は適宜新字体を用いました。センターホームページの検索バーに左記のレファレンスコードを打ち込めば該当資料のページへ飛べますhttp://www.jacar.go.jp/)ということであり、「アジア諸民族の解放」、「植民地の解放」、や「独立」といった文言は一切ないことを指摘しておきます。文面上はまさに自存自衛の戦いをうたっており、解放の約束は明文上ではなされていません(ちなみに、みればわかりますが「八紘一宇」もないです)。では、実際、アジア諸国にどう接し、現地住民はどう対応したのか、前回は文献名をあげただけのものから少し引用しておきます。
「ビルマは1943年8月1日主権を有する独立国家となったが,真の独立を求めるビルマ人にとってそれは,’’偽の独立’’,’’メッキの独立’’にすぎなかった。ビルマ人は,独立が’’空虚’’であることを知っていた。この当時の日本人に対するビルマ人の態度は,「愛していなくても我慢して接吻する」ようなものであった」(大野徹「ビルマ国軍史(その2)」『東南アジア研究』8(3)、1970、360ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/55632/1/KJ00000134014.pdf原文の注の番号は引用者が削除しました。以下の引用文でも同じ)。
「日本の『朝日新聞』は、この作戦について、「皇軍航空部隊の空襲は一見、印度民衆の苦難を一層増大せしめるかに見えるが、爆弾の雨の中に、皇軍の印度独立運動に対する無限の慈愛と支援が含蓄されている」と書いていた。まことに「含蓄」の深い論評だったと言うべきであろう」(中里成章「日本軍の南方作戦とインド」『東洋文化研究所紀要(東京大学)』151、2007年、190ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/5716/1/ioc151004.pdf)。
「本稿では不十分ながら、日本の大東亜共栄圏=アジア主義のプロパガンダが、そして、その大枠の中で動いたチャンドラ・ボース等の活動が、インド社会との接点を持てずに、空回りしていたことを明らかにしえたのではないかと思う」(前掲中里論文、195ページ。ボースたちについては、197ページの注6、200ページの注22、202ページの注26、208ページの注80も参照)。
インドネシア、フィリピン、ベトナムの抗日闘争について、詳しくは論文本文を読んでいただきたいのですが、結論としては、
「要するに、東南アジア諸国の反植民地・民族独立運動は、太平洋戦争と日本の侵略によって生じた情勢やその他条件を、主体的、積極的に活用して日本に対応し、戦前に比して飛躍的な成長を遂げた。そして、このことは、戦後における東南アジア諸国の民族独立運動の高揚や民族独立の達成の決定的要因となった。この意味において、太平洋戦争と日本の侵略は、東南アジア諸国の民族独立運動史における一大転換点であったということができよう」(谷川榮彦「太平洋戦争と東南アジア民族独立運動」『法政研究(九州大学)』53(3)、1987年、395ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008279870原文にあった傍点は除いた)。
以上でつっこみの補足は終わりです。現下の情勢については特に言及しません。
さて、今回のエントリ執筆の目的としては、可能な限り速やかに「論文」が論文になっていないことを示すことでした。大事なのは「内容」とおっしゃるのは結構ですが、学問的に批判可能な形式(もちろん既存の研究にとらわれない革新的な独自形式でも、読者に史料を提示できればかまいません)をとらないものは、「無敵な人」の独自な「歴史観」の告白にすぎないでしょう。それに価値を認めるのは個人の自由ですが、学問や教育の場に持ちこむのはお門違いです。そのような姿勢では、いつまでたっても歴史学における扱いはトンデモのままですよ。もちろん、大学や研究所にいる専門家でなければ歴史の話をしてはいけないということではないです。「昭和史論争」を引き起こしたのは歴史研究者ではありませんでした。しかし、自己の見解を教科書にのるような通説となさりたいのであれば、専門家と同じ舞台に立ち、その批判に応答しなければならないでしょう。「つくる会」はその舞台に立つ気はないと宣言した結果どうなっているでしょうか。今なら学術雑誌に投稿しなくても、インターネット上でいくらでも長文の論文を発表できますよね。
一般に、歴史研究者は、四年生大学で専門的なトレーニングを受け、さらに修士課程二年間、博士課程三年間以上を費やして史料を読み込み論文を紡ぎだしています。それでも、個々の論文の結論で言えることはささやかなことです。また、研究会・学会・書評などの形でお互いに切磋琢磨しています。それぞれが広範な史料に目を通しているからこそ、個々の研究がその時代の歴史像のどこに位置づけられ、どの部分がその時代の特徴をよくとらえられているかを議論できるのです。自分の個別研究が歴史研究の大きな流れのどこに位置づけられるのかをとらえるため、歴史を学ぶ標準的な手順としては、まずは先達がエッセンスを詰め込んだ教科書、概説書を読み、そこから主要な研究文献やレビュー論文、目録等を漁って研究史をたどり、そこで用いられている史料を読み、先人の研究の妥当性を検討したり自己の問題関心を追求していくのです。木簡のように新しい史料が見つかったり、機密文書が公開されたりして史料が増えれば、それがどのように従来の見解に修正を迫り、新たな知見を付け加えるのか議論します。そのような積み重ねのなか、通史は更新され、教科書の記述も変わっていきますが、このことをもって歴史は定まりないものだから最新の研究成果も独自研究も変わりないということは的外れでしょう。それはかえって科学としての歴史学が機能している証拠にほかなりません。
さて、歴史学者全体がイデオロギー的に偏向している、現行の教科書は自虐史観・マルクス主義史観に基づいているという「つくる会」の主張もありますね(それでいて『国民の歴史』のように、専門家の研究から剽窃したりするの会員もいるのは厚顔無恥ですね。参照、尾藤正英『日本文化の歴史』岩波新書、2000年、あとがき)しかし、戦後長く標準的な高校教科書として採用されてきた山川出版社の『詳説世界史』の執筆者には林健太郎(故人への敬称は略します)が含まれていました。日本史にしても伊藤隆氏が編者であった『近代II』を含む、『日本歴史大系』山川出版社、1984-90年、が、受験前に初めて読む通史だった私などには、学会の主流がマルクス主義史観など妄言にしか聞こえません。岩波だから駄目などという意見も見ることがありますが、最新の『岩波講座世界歴史』岩波書店、1997-2000年、では、古代・中世・近世・近代という時代区分はもはや採用されていません。そもそも研究の場では、評価は自分の目で確かめてから下すもので、事前に確定できるものではないのです。
「いずれも〔引用者注:本文でふれられている臼井勝美氏、酒井哲哉氏の研究のこと〕,侵略の時間的連続性〔引用者注:満洲事変から日中戦争へ〕を,陸軍の遠心性,すなわち現地機関の好戦性や暴走に帰さない画期的な研究であった」(加藤陽子「書評 安井三吉著『柳条湖事件から盧溝橋事件へ―1930年華北をめぐる日中の対抗―』」『アジア経済』45(9)、2004年、67ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/7473/1/kato45_09.pdf)。
「日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する」なんて本質論は、学界ではなされていませんよ。人事面でも、システム設計・運用面でも、上部の問題は大きかったですよね。私みたいなものにも自衛隊に信頼できる友人はいますので、余計に上が軍の失敗を反省するそぶりもみせないのは問題と感じるわけです。
最後に、余計なお節介でしょうが、歴史学入門、史学史についていくつか参考文献をあげておきます。ご興味のある向きは手にとられてみてはいかがでしょうか。
小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年。(CiNiiの定額許諾を契約している大学関係者は、下敷きとなった論文をDLできるかもしれません。私は今DLできる状況にないので保障はしません)
小田中直樹「言語論的転回と歴史学」『史学雑誌』109(9)、2000年。
http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0002622266
歴史科学協議会編『卒業論文を書く―テーマ設定と史料の扱い方』山川出版社、1997年。
今まで述べてきたような研究の積み重ねに対し、自説の根拠もまともに示さずに自分の意見を広めたいと主張する行為がどういうものか、一度お考えになっていただけたら幸いです。
また見苦しい長文になってしまいました。最後まで読んでくださった方に感謝します。
(追記)さすがに人名の誤記は看過できないのでミスを修正しました。
(再追記)引用文の出典が抜けていたのも直しました。すみません。
(再々追記)直ちに答えられるトラバをいただいたので応答します。ホロコーストの研究の進展について次の文献を参照してください。
芝健介「ホロコーストとニュルンベルク裁判」『史論(東京女子大学)』55、2002年。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008575897
http://anond.hatelabo.jp/20080104140956
取り巻く利害関係や状況がそうさせてしまうだろう
それを取り締まろうともしなかったことが、複数の高級軍人の残した資料から明らかなんだけど。
「そうなってしまう」のだとしても。それを取り締まらなくてよいという話にはならない。
現代において間違った写真が掲示されることはあるが、そもそも「証拠写真」なんてものはない。
つまり、写真があるから虐殺があったということを言う人間は、研究者では日中ともいない。
そもそも、問題の指摘が日本側から発生していること。
間違ってはいないが、それは日本側が「大虐殺なんてなかった」って言い出したからだぜ。
戦後の流れとして敗戦国側からの反論を殆どしてこなかったこと。
反論もなにも、なかったなんてことを言い出す浮かれ馬鹿が出てこなければ、中国もことさら言い立てなかったよ。
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あれは反日を名目にしてるただの吹き上がり。
当然虐殺などなかったかのように大勝利と報道しましたがなにか?
組織的にコストをかけて行う規模でしょう。命令書や通達、実行決定までの議論や反論者の意見など、そういう証拠が残っていないのだから、「差分はなかったのだろう」と思うよ。それをもみ消そうとするほうが「ボロ」がでるんじゃない?
命令書や通達、実行決定までの議論なんかあるわけないでしょ。中国人を南京から駆除するのが作戦目的じゃないんだから。
単に皆がそういう空気を読んで空気に従って行動したわけで。赤信号みんなで渡れば怖くないって話。
反論者の意見は残ってるよ。軍中央が、あんまり軍紀の弛緩がひどいんで、たいがいにしろと中国に要望を送っている。
「就中、軍紀、風紀に於て忌々しき事態の発生近時漸く繁を見、之を信ぜららんと欲するも尚疑わざるべからざるものあり。
惟ふに、ー人の失態も全隊の真価を左右し、一隊の過誤も遂に全軍の聖業を傷つくるに至らん。
(中略)
然れ共、実際の不利不便愈々大なるに従て、益々以て之が克服の努力を望まざるを得ず。或は沍寒に苦しみ、或は櫛風沐雨の天苦を嘗めて日夜健闘しある外征将士の心労を深く偲びつつも、断じて事変の完美なる成果を期せんが為、茲に改めて軍紀風紀の振作に関して、切に要望す。
本職の真意を諒せよ。
中支那方面軍司令官宛」